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カテゴリー: 憲法リレーエッセイ

憲法リレーエッセイ 「憲法違反の安保法の市民集会及びパレード」のご報告

カテゴリー:憲法リレーエッセイ

会員 永松 裕幹(63期)

平成28年6月11日午後2時、中央市民センターに於いて「憲法違反の安保法の廃止を求める市民集会及びパレード」(主催:当会、共催:日弁連、九弁連)が開催されましたので、ご報告させていただきます。

本市民集会及びパレードは、当会が5月25日の定期総会で「憲法違反の安保法制の廃止ならびに運用停止を求める決議」を決議し、日弁連が5月27日の定期総会で「安保法制に反対し、立憲主義・民主主義を回復するための宣言」を決議したことに続き、本年度の人権擁護大会のプレシンポジウムとして行われました。

まず、原田直子会長から開会のご挨拶があり、安保法の廃止を求める当会の取り組み等についてご紹介いただきました。

そして、西南学院大学法学部国際関係法学科(政治学)の田村元彦准教授を講師にお迎えし、「安保法制でどうなるの?私たちの社会」とのご講演をしていただきました。

田村先生のご講演は、福岡・九州における多くの市民運動に携わってこられたご経験に基づいたお話を中心に、法学・政治学の観点から安保法制や現在の日本の政治の問題点を多岐にわたって鋭く指摘されるもので、大変興味深い内容でした。

ご講演では、2002年の「福岡市愛国心通知表問題」(福岡市立小学校の内69校が、「愛国心」を3段階評価する通知表を採用したことに対する抗議運動)について、詳しくお話がありました。そして、そのご経験や人間関係が、その後の様々な運動や、安保法制に反対する福岡の学生団体「FYM」(Fukuoka Youth Movement。中心メンバーには田村先生のゼミの学生がいて、学者や当会会員及び報道記者等多くの方々と関わりを有している)等の活動へ繋がったとのことでした。

また、田村先生は、権力を持っている側は、一枚岩で着々と布石を打ってくるのに対し、「弱者は分断され、孤立した戦いを強いられる」ことを強く指摘されました。そのうえで、現代の日本の社会は、国際的には開けて豊かである一方で、国内的には抑圧的な監視社会になってきており、若い世代の未来が奪われているのではないかとの強い危機感を表明され、これに対抗するために社会的弱者同士の繋がりや運動の継続性が重要である旨述べられました。会場に集まった多くの会員や市民の皆さんも、このことに共感されている様子でした。

ご講演の後は、九州大学大学院で政治学を学ばれている小幡あゆみさんと当会の原田美紀会員が登壇され、田村先生とのパネルディスカッションをしていただきました。

まず、小幡さんから、ご自身をはじめ学生の皆さんがどのような問題意識から安保法制反対の運動を展開していったのかということ等をお話しいただきました。

その後、原田会員にまとめていただいた会場からの質問事項について、田村先生と小幡さんにお答えいただきました。市民が声を上げる方法にはどのようなものがあるのかという質問に対して、田村先生が「メディアの良い記事や番組は、直接褒めて欲しい。現場の記者は、読者・視聴者から送られてくる手紙やメールに励まされている。」と答えられたことが、特に印象に残りました。

最後に、井下顕副会長より閉会のご挨拶をいただき、市民集会は、盛会の内に終了しました。

その後、30度近い暑さにもかかわらず、多くの会員・市民が参加して、中央市民センターから北天神まで1時間弱にわたってパレードを行い、沿道を行く人々に対し、安保法制の違憲性をアピールしました。

弁護士会による憲法違反の安保法の廃止を求める運動に、一会員として、今後も関わっていかなければならないという思いを強くした一日となりました。

憲法リレーエッセイ ひまわり一座の憲法劇

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会員 牟田 功一(67期)

1 はじめに

今年も、憲法記念日を前にした5月1日、中央市民センター大ホールにおいて、ひまわり一座による憲法劇「時をつくる人々」の公演が行われましたのでご報告させていただきます。

2 憲法講演

まず、憲法劇を開演する前に、井下顕先生に憲法の意義を踏まえ、安保関連法が可決されるに至った経緯、安保関連法が制定されたことで懸念される事態等を解説いただき、安保関連法が立憲主義、恒久平和主義に反すると考えられることについてご講演いただきました。井下先生が講演されている間、私は憲法劇の出番を待ち舞台裏で待機していました。私自身、初めての演劇ということもあって極度の緊張状態にありましたが、井下先生が訴えられた、「立憲主義とは、『法律及び政治は憲法に反してはならない』という要請(消極的側面)のみならず、憲法の存立危機が生じた場合には『憲法に基づく政治をする』という積極的な側面(積極的立憲主義)を持って」いるという言葉がとても印象的でした。あわせて、「積極的立憲主義を実現するには政治に無関心にならず選挙に行くこと」の大切さが訴えられました。

劇中では、政治に無関心な大学生がある特殊な世界に巻き込まれ、その世界で種々の理不尽な出来事を目の当たりにし、最後には、自ら率先して選挙に行こうとする姿勢が描き出され、井下先生のご講演と憲法劇が一体となって「積極的立憲主義」「選挙」の重要さを訴えることができたのではないかと思っております。

3 憲法劇公演

今年は、政治に無関心な大学生が未来にタイムスリップする場面から始まりました。タイムスリップした未来では、テロの脅威のもと、国家が国家緊急事態を宣言し、権限が集中した国家が徹底した情報統制、公安警察の権限強化を政令に基づいて行う事態が生じていました。その渦中に巻き込まれた大学生が、基本的人権が無いに等しい社会の様々な事象を目の当たりにし、そのような理不尽な社会を作り出さないため、若い世代が選挙に無関心になってはいけないという決意が萌芽するという内容の演劇でした。劇中では、ジョン・レノンが発表した「(All we are saying is) give peace a chance」を歌い、また、最後には9条の歌を来場者と一緒に歌いました。会場は平和を望む劇団員及び来場者の歌声で熱気に包まれ、その熱を冷ますことなく、劇団員と来場者はそのまま一体となり天神の警固公園までパレードを行いました。

4 さいごに

劇中には、「俺たちが政治に無関心でも、政治の方は俺たちに無関心じゃない。」「私たちに訪れる時は、私たちが考えて、私たちの責任でつくるの。」という台詞がありました。この台詞は、井下先生が訴えられた積極的立憲主義を考える重要な視点だと思います。憲法を勉強したことのない人にとって、憲法論は抽象的であり、なかなか関心が持てないのではないかと思われますが、憲法劇は憲法の存在意義を市民の方々に分かりやすく伝えることを目的としています。

ひまわり一座は、弁護士や市民の方が、経験・未経験を問わず一緒になって自作の憲法劇を作る劇団です。演劇に興味のある方々は是非ご参加下さい。

憲法リレーエッセイ 本当に必要なものは戦争法ではなく平和規範である

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会員 梶原 恒夫(41期)

2015年9月19日、安倍政権が、多くの国民が強い反対の意思を表明している中、安全保障関連法案を採決した。

法案の1つは、平和安全法制整備法(我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律)であり、これは、自衛隊法(1954年)、PKO法(国際平和協力法1992年)、周辺事態法(1997年)、有事法制(武力攻撃事態対処法・個別法2003年・2004年)、国家安全保障会議設置法(2013年)など10本の軍事関連法制度を一括して「改正」する内容であった。もう1つは、国際平和支援法であり、こちらは新法であった。これらの法案内容は、多岐に亘っており、しかも各条文がもたらす重大な影響を考えると、国会審議及び国内における議論の期間は、余りにも短すぎた。

これまでの「専守防衛」から積極的な「海外派兵」あるいは「集団的自衛権行使」へと大きく方向転換する実定法の成立により、為政者が「合法的」に戦争を遂行することができる法体制が整備された。戦争遂行を可能とする法的な体制の整備という事態が私たちにもたらす影響は、計り知れないほど大きい。

憲法前文は、国民の反戦の意思を踏みにじって政府が戦争に踏み出してきたというのがこれまでの歴史の事実であることを踏まえ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、と述べている。しかるに、法案の成立は、政府の行為による戦争の惨禍が再び起こる危険性をもたらした。すこぶる危険である。

本来、安全保障の基本は、「攻められない」ようにするために、その条件をいかにして作り上げるかにある。武装した国家によって「安全」を守ってもらうのか。それとも、市民が国境を越えて、連帯によってお互いの安全を守っていくのか。日本国憲法前文は、「平和を愛する諸国民(peoples)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と述べている。抑止力に対する更なる抑止力により軍拡競争が進み、不信と憎悪の上にできた勝利の秩序は次の戦争を生む。すべての問題解決を軍事的手段に一面化させることは極めて危険だ。

戦後日本は、紛争の武力による解決は行わないという体制を9条の下でとり続けてきた。国境紛争を武力で解決したこともない。戦後一度たりとも戦争をしていない日本に対する国際的な信用は極めて高い。そのような日本が、平和に基づく行動規範を国際的に提起すれば、多くの国々、とりわけアジア諸国やEU諸国は必ず支持するだろう。平和規範に基づく国際外交を展開して平和を構築していくことは、きわめて現実的な途である。武力紛争の発生の前には、必ず抜き差しならない国家間の利害対立が生じる。その対立が生じた時点で、平和規範に基づいて解消し、武力紛争を未然に防ぐという方途は、現実的であり賢慮に満ちた方策である。

3月19日に福岡県弁護士会が開催した「憲法違反の安保法制の廃止を求める市民集会」で講演された元政府高官である柳澤協二氏も、21世紀のリアルは、戦争のコストが利益を上回ること、高度に発達した情報技術を使えば誤算と恐怖による戦争を防げることであり、どう戦争を防ぐかを考えることが政治の責任であると述べられた。また、強い政府か賢い政府か、最後は国民の選択だという趣旨のことを述べられた。リアルな発言だと感じた。

日本国憲法の絶対的平和主義は、極めて現実的な思想だと思う。他方、武力による平和構築は、多くの人々の悲惨な死しかもたらさないのが現実だ。普遍的に妥当する世界平和の理念に向かって、現実的に一歩一歩、接近すること、そのように長期的・漸進的・総合的戦略としての高次の現実主義に立つのが日本国憲法の立場だと私は理解する。そして、わたしたちは、今こそこのような現実主義に立つべきではないかと思う。

憲法リレーエッセイ アメリカとメキシコの国境で考えたこと

カテゴリー:憲法リレーエッセイ

会員 池上 遊(63期)

1 はじめに

2月8日から約3週間、アメリカ国務省の招待で「インターナショナル・ビジター・リーダーシップ・プログラム(IVLP)」の一環として、難民を含む移民に対する支援の現状を視察してきました(「Supporting Immigrant Communities」)。プログラムの概要や私がなぜこのプログラムに参加することになったか、あるいは、私が体験してきたことについては、別の機会にぜひ会員の皆さまにもお話しさせていただきたいと思っています。

ただ、今回は、憲法リレーエッセイということで、これに関連して、アメリカとメキシコの国境を見に行ったときのことを簡単にご報告します。

2 メキシコとの「国境」

視察で最後に訪れたのが、サンディエゴ(カリフォルニア州)というメキシコ国境に近い都市でした。テーマに関連するため国境まで行くことになったのですが、島国日本に住む私にとって地図上で国境を見ることはあっても実在するものとして見たことはなく、まさに初体験でした。

たどり着いた「国境」は高く、長大な鉄製のフェンスでした。私が撮ってきた写真でもお分かりいただけるかもしれませんが、高さ約10メートルのフェンスが延々と続いていて、西端は海の中に入っていました。

フェンスの向こうはメンテナンスなどのために確保されているエリアで、その向こうにもう一つフェンスが建っています。手前のフェンス入り口のそばにいた国境警備隊の方が親切にも中に入れてくれ、もう一つのフェンスを見ました。こちらは、鋼鉄製の金網になっていて、編み目は僕の指でも小指の先が通るかというような小さな編み目でした。

その向こうがメキシコ(ティフアナという町)です。

私たちを案内してくれたのは、「Border Angels」という国境沿いで移民のための支援などをしている団体でボランティアとして活動するダーモット司教(Dermot Rodgers)でした。彼らが関わっているものとして、不幸にもアメリカとメキシコとで引き離されてしまった子どもとその他の家族とが、週末に数分だけ国境の扉を開けて触れ合うことができるというイベントのことを教えてもらいました(英語ですが、このイベントについて紹介している報道を発見しましたので、短縮URLでご紹介しておきます。http://urx.mobi/sEff)。

アメリカ側の一帯は公園になっていますが(Border Field State Park)、一種の緩衝地帯とされているようです。公園を作ったのはニクソン大統領夫人、パット・ニクソンだそうです。その頃は鉄のロープ程度しかなく、その「国境」を超えてメキシコの人とパット氏が握手している写真も見ました。

3 「国境」を見て

実際に国境を見てとても空々しく感じました。海に目をやると、国境警備隊をからかうようにメキシコ側から海上を水上バイクで入ってくる若者がいました。国境そのものは私が目にした以上に長大で、数千㎞に達するのだそうです。私が視察に行った頃はアメリカ大統領予備選が始まったばかりで、国境をもっと高くすべきだという候補者(トランプ氏)の発言も聞くことができました。これほど巨大なものを一体どれだけ管理できるのかと思います。

人の移動の自由は、わが国憲法では居住・移転の自由として保障されており、経済的自由の一つに数えられてきました。ただ、芦部憲法によれば、身体の拘束を解く意義を持っているので、自由権の基礎とも言うべき人身の自由とも密接に関連し、また、広く知的な接触の機会を得るためにもこの自由が不可欠であるところから、この自由は精神的自由の要素を併せ持っているとされています。

経済政策によって人の移動の自由が制限されてしまうことには、「国境」の管理の無意味さからしても、人の移動の自由の価値の点からも疑問を感じます。わが国は、労働力人口の減少から移民へ門戸を開放しようとしていますが、既に、アジア各国が同様の方向に舵を切っている中で、その門戸の向こうに移民の長蛇の列があるという目論見は誤っているのではないかと思います。

人の移動を制限することにどれほどの意味があるのか、人が移動することによって得られる極めて大きな財産を犠牲にしているのではないか、そんなことを考えさせられました。

憲法リレーエッセイ 流されてしまいそうな不安

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会 員 永 尾 廣 久(26期)

憲法が現実にあわないとき・・・

ときの政府がこんな提案をしました。

「女性の賃金は現実には男性の7割でしかない。そして、多くの日本人はそれで良しとしている。ところが、憲法では男女平等を定めている。現実が憲法に合っていない。憲法にしたがった法律の運用がなされていないというのは立憲主義に反している。だから、男女は平等だけど、賃金に関してだけは女性は男性の7割であってよいと憲法に明記して、憲法に違反しない運用にしよう」

ええっ、とんでもない。女性が怒るのは当然ですし、男性だって反対します。だって、悪い方に引き下げられたら何のための憲法でしょうか。

ところが、いま、安倍首相はこれと同じ論法で憲法を改正する必要があると国会で答弁しています。

「憲法学者の7割が自衛隊の存在自体に違憲の恐れがあると判断している。このような意見の疑いが持たれるような状況はなくすべきだ。憲法にしたがって政治をするのが立憲主義であり、現状は立憲主義に反しているから、憲法9条を改正する必要がある」

憲法を古臭いだとか、空想で現実にあわないものと決めつけ、現実にあわせて憲法改正してしまったら日本の目指すべき目標がなくなってしまいます。

立憲主義とは、単に憲法の文言にしたがって運用されているかどうかという形式の問題ではありません。権力者の勝手を許さず、国民の権利や自由を確保しようというものです。この点、明治憲法をつくるときの伊藤博文の言葉を思い出すべきです。

「そもそも憲法を創設する精神は、第一に君権を制限し、第二に臣民の権利を保護するにある」

国会での首相答弁での立憲主義の間違った説明がそのままニュースとして流れていき、国民が立憲主義って、そんなものなのか、だったら憲法は改正する必要があるんだなと誤解してしまうのを私は恐れています。

社会科の教科書

18歳選挙権がついに実現しました。新しく有権者になった18歳、19歳には全員こぞって投票所に足を運んでほしいものです。でも、学校で選挙権行使の大切さが十分に教えられていないので、投票率が低いのではないかと心配です。

先日の新聞に、戦後まもないころの社会科の教科書が民主主義について説明していることをふまえて、次のように書かれていました。

「民主主義を単なる政治のやり方だと思うのはまちがいだ。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。民主主義を単なる制度やルールの類と思い込み、選挙したり、国会で決めているだけでは民主主義ではない。個人が主体的に学び、考え、実践的に行動しない限り、民主主義は姿すらあらわさない。

多数決というものは、最後の決定は多数の意見に従うという民主主義の規律ではある。しかし、その使い方によっては、多数党の横暴という弊を招くうえ、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある」

この記事を読んで私がすぐに思い出したのは、ナチス・ドイツです。ヒトラーは、クーデターによって政権を奪取して独裁者になったのではありません。そして、首相になってからも、なにかというとすぐに国民投票にかけて圧倒的な信任・賛成を得ていました。そして、その「多数の横暴」によって侵略戦争を始め、ユダヤ人などを大量虐殺し、第二次世界大戦をひき起こしたのです。

先ほどの教科書には、「日本人のあいだには、封建時代から、政治は自分たちの仕事ではないという考えがいまだに残っている」と書かれているそうです。

戦後70年たった今、日本人の投票率がどんどん下がっています。6割から5割、ひどいときには4割、いや3割と低迷しています。誰かがやってくれるだろう、声の大きい人の言うとおりに任せておけばなんとかなるだろう、まさか悪いことはしないだろう、そんな甘えが日本中にはびこっている気がしてなりません。戦前の日本は、そうやって「戦争の惨禍」を招いてしまったのでした。

ペリリュー島、そしてフィリピン訪問

日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である天皇夫妻がペリリュー島そしてフィリピンを訪問したことは、80歳を超えた高齢であることも考え、その行動には驚嘆するばかりです。国政に関する権能を有しないという制約のもとで、「政府の行為によって戦争の惨禍」を再び起こしてはいけないことを私たち日本人に思い起こさせてくれました。フィリピンで大戦中に50万人の日本人が亡くなり、フィリピン人は100万人以上が死傷したなんて、いったいどれだけの日本人が知っていたでしょうか・・・。

昨年9月までは、日本の安全を守るためには安保法制法の成立を急がなくてはいけないと言って多くの反対を押し切って、十分な審議もせずに強引に法を成立させましたが、今では法にもとづく運用は7月の参議院選挙後に先送りするといいます。野党からの臨時国会の開催要求を無視したのは憲法53条を無視したものでした。今なお、国会で安保法制法について政府が十分に説明を尽くしたとは思えません。

マスコミは、前例が1回あるからという政権の弁明を容認して、批判しませんでした。そして、今や、経済関連のニュースばかりです。

自衛隊はすでにアフリカに「基地」をかまえて常駐しています。その自衛隊が武器をもって「駆けつけ警護」と称して戦闘行為をしたり、また他国の軍隊の「後方支援」中に戦闘行為に巻き込まれてしまう危険が現実化しようとしています。戦後はじめて、日本の青年が戦場で殺し、また殺されそうなのです。

災害救助で大活躍して国民の期待が高まっている自衛隊が、まったく別の顔で外国に登場しようとしています。これまでと同じ憲法のもとで、そんなことが可能だなんて、とても信じられません。

いったい、日本はどうなってしまうのだろうか、こんなことでいいのだろうか、そんな不安に駆られてしまうのは、私だけではないと思うのですが・・・。

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