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カテゴリー: 憲法リレーエッセイ

憲法リレーエッセイ 第4回憲法24条・弁護士夫婦編

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会員 東 敬子(52期)

【おお、24条はすばらしい!!】

最近は、9条がらみの講演依頼が多いので、他の条文をしっかりと読む機会がないのですが、よくよくみていると、ぐっとくる条文がたくさある。その中でも、あらためて、いいなあ〜と思うのが24条。「婚姻は、両性の合意にのみ基ずいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」・・・当たり前のことだけど、実際はどう??

【24条の理想と現実】

我が家は、私と弁護士をしている夫(吉原洋)と3歳の長男、1歳の長女の4人家族。もちろん、男女平等の意識は徹底しているので、「妻はこうあるべき!」みたいな固定観念は一切ない。子どもに対しても「長男は跡取りだから」っていうような意識もさらさらない。

がしかし、実際の生活においては、母親である私の方には負担はかかる。子どもが二人になろうと、夫の仕事のペースは相変わらずだあるし、酔っぱらって、電車乗り過ごしor終電乗り遅れは日常茶飯事。土日も、どんどん仕事を入れて、休日は月1回(実際、夫は保育所に提出する勤務状況欄に月の勤務日数30日と書いていた。なんじゃこりゃ。)当初は、夫のお気楽ぶりに、猛然と抗議していた私だったが、うちの夫は「頼られないようにする」才能に非常に長けており「ごめんなさい。反省しています。善処します。」を繰り返しながら、今日まで来ている。当然のことながら、夫婦二人だけでは生活が回らないので、周囲の応援団の力を借りて、なんとか毎日を送っている。

【どこかで聞いたような・・・】

この理想と現実の乖離、どこかで聞いた議論だ。
そうそう、憲法9条の話。実際に自衛隊は軍隊みたいだし、海外にも行ってるし、もう現実に合わせて変えた方がスッキリする・・・なんて、とんでもないことを言ってる人がいる。でも、そんな中途半端な「スッキリ」感で9条変えられたら、大変だ。そもそも、憲法は理想なんだから、理想に向かってどうすべきかが大事であって、現実に合わせようんなんて発想は本身転倒。まあ、理想を変えようと思ってる人たちとは、これからも議論を尽くさないといけないのでしょうけれど。

【理想を求めて頑張る私】

私は9条の理想現実にむけて、時には日曜日にも憲法の講演に行く。そのとき夫は「9条は大事よね。がんばってね。」という。そう9条においては我が家は理想と現実が一致しているのだ。

私は、24条に関しても諦めたわけではない。我が家においても24条の趣旨を実現するべく、今回は月報を通じて、広く応援団を募ることにした。この原稿を読んだ会員の皆さんは、夫が遅くまで仕事をしていたり、飲んでいたりしたら、きっと注意してくれるはずである。「早く家に帰ったほうがいいですよ」と。宜しくお願いいたします。

憲法リレーエッセイ 第3回よい子の憲法

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堀 良一(33期)

ラバウルからの帰還兵だという伯父は、酒を飲むといつも戦争の話をした。そして、話の終わりに大きなため息をつき、目を細めながら、戦争はいかん、と言った。シベリアに抑留された父は、黙って頷いていた。

そんなとき、わたしは、背筋を伸ばし、しっかりと伯父や父の目を見て、はきはきした声で元気よく、はいっ、と答えることにしていたのだ。そうすると伯父は、うれしそうに、よい子だと言いながら、大きな手でわたしの頭をぐりぐりとなで、小遣いに10円をくれた。父もうれしそうだった。

当時、よい子の秘訣第1条は、元気のよいはきはきとした返事、であった。第2条は、背筋を伸ばす、第3条は、目を見て話す、である。よい子の秘訣3要件をみたすわたしの対応は、当然のように、いつも伯父を満足させた。

終戦からそう遠くない、わたしの人生の初期において、戦争は切っても切り離しがたくわたしの人生にまとわりついていた。何のことだかよくわからないけど、戦争に反対することは、すなわち、小遣いを確保することだったのだ。

その後も戦争は、子供時代を通じて、かなりわたしの身近にあった。

わたしの故郷は、温泉町の別府である。戦後、別府には駅の山手側のキャンプ・チッカマグアに進駐軍がいた。彼らはわたしが物心つく前に引き上げていったけど、そのときの米軍の忘れ形見が同級生や先輩にいて、施設から学校に通っていた。それに、別府は、その後も米軍の保養地になっていたらしく、別府湾には米軍の艦船が頻繁に寄港し、別府の街は、その都度、米兵であふれた。わたしは米兵をみるといつも手を振ってにこにこしていたので、彼らからガムやチョコレートをもらい、ずいぶんと写真を撮られた。だから、アメリカの元米兵の家庭の古いアルバムには、わたしの写真が少なからず残っているかもしれないのだ。見上げるように背の高い米兵は、わたしを空高く抱き上げたりしたので、わたしは遙か眼下の地上をみて恐怖におびえたりした。そして、ベトナム戦争に本格的にアメリカが介入することになったころ、大人から、あの人たちはベトナムに行って死ぬかもしれない、と聞かされた。

そんな子供時代を経て、戦争はいやだ、とはっきりと意識したのは大学に入り、大人の扉を開いてからだ。

ちょうど沖縄返還の時期で、沖縄戦の頃のことが、あれこれと目や耳に入る。しかも、ベトナム戦争がいよいよ泥沼に入り、わたしの友人がインドシナ問題研究会を立ち上げていたし、通称「インケン」というネーミングが気に入ったりしていたので、ベトナム戦争の悲惨な映像に触れることも多くなった。沖縄やベトナムでの戦争に触れるとき、いつも伯父や父の話が重なった。施設から通っていた同級生や先輩や、わたしにガムをくれた米兵たちの顔が心によぎった。子供から大人になって、ようやく、戦争の話をする伯父や父の心に直に触れた思いがしたのだ。米兵やインドシナの人々は、どんな気持ちで戦争をしているのだろうかと考えるようになった。自分の存在そのものが戦争と切り離せない施設の同級生や先輩を思った。

本格的に憲法に接したのは、そんな頃だ。

戦争の放棄。おおっ、それそれ、という、かなり高揚した気分であったのを思い出す。同時に、気に入ったのは、自由は戦って手に入れる、という憲法のスタンスである。当時、かたっぱしから読んだ戦争関係の本のなかに、ゲルニカの前に立つのがもっともふさわしい、などと評価されたスペイン人民戦線の女性闘士ドロレス・イバルリの「膝を屈して生き延びるよりも、立ち上がって死にましょう」という演説のフレーズを見つけたときは、思わずわたしも立ち上がって、拳を握りしめていた。

そして、初めて本格的に憲法に接したころの、若くて、センシティブで、息苦しいくらいに濃密だった数年から、長い長い年月が過ぎ去った。世間ではよい子がすっかり流行らなくなり、今では、要領やずるさで世の中にそれなりの場所を占めることに小賢しく反応したり、ますます「軽さ」に磨きがかかったりする自分がいる。だけど、その一方で、多少の気恥ずかしさをともないながらも、心の片隅のどこかには、反戦平和や、自由と正義のために戦うスタンスを確保して、少しばかりのファイティング・ポーズくらいはとり続けていたいと願う、もう一人の自分がいたりする。

すっかりおじさんになってしまったわたしに、そんなことをけっこうまじめに考えさせる憲法は、やっぱり、かなりいい。「ある意味すごい!」存在だと思うのだ。

憲法リレーエッセイ 第2回国民投票に行こう

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会員 八尋 八郎(32期)

【缶マイク】

 楽しい夕餉のひととき、上機嫌の私が「イラク戦争の現状」なんて話を始めると、空けたビールの缶を娘が差し出す。マイク代わりに使えって意味だ。その真意は「ウザい」ってことだと気づかずに、缶マイクを持った私がさらに声高に演説すると、娘達は小声で会話をはじめる。
それを無視して続けようものなら、一人ずつ部屋に戻り、誰も居なくなる。たとえ敬愛する父の話であっても「ウザい」って反応できる娘を、私はエライと思う。

【ひまわり一座】

 劇団ひまわり一座で19年連続で憲法ミュージカルをやった。来年で20年というわけだ。チケットは1,000円で、出演者が1枚ずつ売ることで講演は満席になる。
娘にウザがられて臆病になった私は、毎年買ってくれている常連サンにだけ売っていれば応分のノルマを果たしたことになると考えて、この頃、新規顧客を開拓するということが全くない。

若い出演者はちがう。チケット1枚のセールストークこそが憲法普及活動だとガンガン新規顧客を開拓していゆく。

ところが、ここ数年、セールストークがウザがられることが多くなったという。さっきまで歓談していたその場を、まるでカルト教団に入会勧誘しているかのような空気がサ〜っと覆い、相手はまるで踏み絵を求められたように困惑するというのである。

【棄権の呼びかけ?】

 なる程、だから護憲派は、最低投票率規定などを設けて棄権を呼びかけるという戦略なのかな(失敗したけど)、と笑ってみたが、棄権の呼びかけなんてやってりゃ必ず負けるぞ!オイなどと考えた。それよりか国会が発議した改憲案に対する賛否は問わない、とにかく投票に行ってくれと、選挙管理委員会の宣伝カーのエンドレステープと同じことを言うほうが勝機はある、というべきだろう。

【直接民主制】

 近頃の国会は、強行採決の連続でろくに審議もせずに重要法案が次々に成立している。ジャン・ジャック・ルソーは、「イギリスの人民は、自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無にかえしてしまう」といっている。元官僚と2世議員だらけ国会なんてこんなもんだ。この調子で行けば2010年の改憲案発議の確立はほとんど100%に近い。何をどんなに頑張ろうと国会には改憲発議を止める力はないという気がしている。そうであれば国会議員のポイントごとに負けイクサを取組むよりは、お好きなように改憲発議して頂いて、国民投票で否決するほうが合理的だ。

私は少年法と教育基本法の「改正」に少しかかわった。そして、国会では負けイクサとなった少年法と教育基本法の「改正」について、もし国民投票をやっておれば圧勝したという負け惜しみが強くある。国民には、元官僚や2世議員よりも子育てについて適切に判断する能力があるからだ。平和についても同じで、元官僚と2世議員の言うことは無理がある。国民は主権者なのだ。国民投票で道理をとうせばよいのだ。

【憲法普及活動】

護憲派は、国民投票に向けて何をやるのか。ルソーは「それが大切な教訓であればある程、教えてはならない。気付くまで待つことだ」なんてことを言っている。
相手は主権者国民なのだ。改憲案の是非を説くなどは出すぎたことだし、説教がましい知ったかぶりの押しつけはウザい。教えることは相手に対する侮辱となりうることを知るべきだろう。投票に行ってくれと言うだけでも主権者の投票意欲を挫くのに充分なウザさを備えている。主権者はナイーブなのだ。国民投票は権利だから、自由に放棄して咎められることはない。従って、主権者のナイーブをワガママだと認識は直ちに改めなければならない。正しいと信じてやることでも悪しき結果を招くとき(相手がウザイと感じる事は)過ちなのだ。

憲法派のテーマは憲法普及活動である。憲法が暮らしに生かされているとはいい難い現実がある。そんななかで、ひまわり一座の笑いと軽さは貴重である。チケット1枚売れない私だけど、あと3年は続けたい。

憲法リレーエッセイ 第1回遅メシの私

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会員 福留英資 (56期)

吾輩は遅メシである。どれくらい遅いかというと,修習中,よく,昼食を終えられた伊黒先生(指導担当)を待たせていたほどである。と言うだけでは分かりにくいかも知れない。

学部生・院生時代の6年半を過ごした学生寮の寮食堂では,メニューは皆同じなのだが,夕食時,私が食べ始めた後から食べ始めた寮生が先に食べ終わって出て行く,それでも私はまだ食べている。その後に食べ始めた寮生が出て行く。私が食べ終えるのはその後である,と言えば,分かり易いだろうか。

このころは,遅メシの効用を痛感していた。満腹感が得られ,栄養吸収度も高く,体に良い,というだけではない。多くの寮生とメシを食いながら話をするので,皆と仲良くなれる,ということが大きい。研究室に入り浸って実験に明け暮れる理科系院生も,メシだけは食べに帰ってくる。「あいつとは話したことがないな。」と皆に言われるほど存在確率の低い寮生とも,私はしばしばメシをともにしていた。(因みに,私の入寮1年目に限っては,私よりさらに遅メシの先輩がいた。彼は後に司法試験に合格した。その後を継いだ私も結局合格したから,遅メシは受験勉強にも良いに違いない。)

昨年亡くなった祖母には,子供のころ,「ヒデシちゃん,早よたもらんね!(かごんま語で「早く食べなさい!」)立派な兵隊さんになれないよ!」と叱咤されていた。根がひねくれ者の私は,子供心に,「兵隊さんにげな,絶対ならんけん,関係ないよ!」と強く反発したものである。平和主義者としての私の礎は,この時に築かれたのかも知れない。(祖母が平和主義者としての礎を築いてくれたことがきっかけとなり,私は昨年3月,祖母が父を生んだ上海の地を訪れる機会を得た。祖母が亡くなったのは,私の帰国2週間後のことであった。)

ともあれ,私の遅メシは今も変わらない。日によって例外はないでもないが,当たり前のように遅メシを貫いている。

このリレーエッセイを書くことになって初めて考えたことだが,遅メシであるにもかかわらず大手を振って暮らしていられるということも,実は,「個人の尊厳」なのかもしれない。大袈裟だろうか。いや,私を叱咤した祖母の言葉は,個性の多様さを認めない姿勢を基底として発せられている。集団内における同質性を構成員に強いる傾向の強い我が社会にあっては,「個人の尊厳」あってこその遅メシであろう。

というわけで,私自身が,食という生活の極めて基本的な部分で,憲法の恩恵を大いに被っていることに気付いた次第。憲法の保障する人権とは,存在することが当たり前だと思っているがためにその有り難みに気付きにくいが,実は必要不可欠なものなのだ。人権をバターに例えて,「食べ過ぎると人権メタボリックになる。」とのたもうた大臣がいるが,例えの誤りも甚だしい。人権とはバターでなく,空気の如くなくてはならないものなのだ。

しかし,そんな私も最近は,4歳の娘から,「パパ,まだ食べおうとー。おそーい!」と叱咤されるようになってしまった。この子は昨年5月以来,憲法9条の歌を歌うから,タチが悪い。これでは反発のしようがないではないか。・・・とも思われるが,「父上様にそんな生意気な口がきけるのも,憲法のおかげなんだぞ。家父長制の時代だったら,厳しい折檻が待っていたんだぞ。」と心密かに思うことがないでもない。私が家庭でいかに抑圧されようとも,家庭平和があるのは憲法のおかげである!・・・いや,親の威厳がないだけなのかも知れませんが・・・。

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