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サマーセミナー

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 8月27日、自由法曹団東京支部が「裁判員裁判、どう取り組む、どう闘う」というテーマでセミナーを開きました。そのときの助言者としての田岡直博弁護士の指摘(抜粋)を紹介します。(な)
 
 ○ 量刑傾向は不変
   「求刑を超える判決を受けた。これは公判期日に被告人が不合理な弁解を始めたために反省していないと判断されたから。被告人が不合理な弁解をしている事件は難しい。
   裁判員裁判になってからの量刑傾向はほとんど変動していない。基本的には求刑の7割から8割程度であり、当初予測されていたほどには重くなっていない。裁判所は、行為責任を原則として量刑の幅を設定し、その範囲内で特別予防的考慮を加味するという考え方をとっているので、量刑データベースが絶対的な影響を与えているのだろう。
   もっとも、性犯罪については、量刑傾向がやや重くなっている。姦淫未遂、わいせつ未遂の事案は、精神的被害を考慮して、重くなっている」
   「自白事件については、量刑データベースが利用されているため、検察官の求刑は低めに推移している。検察官は、論告でも被告人に有利な事情にかならず触れており、フェアの姿勢に徹している。そのため、求刑越えの判決は2件しかない。性犯罪は重罰化していると言われるが、極端に重罰化しているとは言えない。通り魔的な犯罪なども、重罰傾向にある。被害者参加の事件は、裁判員は『被害者なのだから、怒るのは当然』などと冷静に受けて止めており、重くなっていることはない」
   「量刑傾向は変化していないが、個々の量刑要素の評価はかなり多様化している。若年、反省、謝罪、示談、前科なしといった裁判官裁判であれば当然に刑を軽くする情状として考慮されていた量刑要素が、裁判員裁判では必ずしも考慮されていない。示談しているといっても、示談するのは当たり前やないか、示談しなかったら重くするのは分かるが、なぜ示談すると軽くなるのかとなってしまうことがある。したがって、なぜ軽くすべき事情なのかを丁寧に説明する必要がある」
 ○ 更生可能性に着目した判決
   「裁判員は、更生可能性に着目している。保護観察付き執行猶予の比率が飛躍的に増えている。反省して二度と犯罪を犯さない人については以前よりも軽くなっている。家庭内の殺人事件などで、同情できる事情があるときは、執行猶予判決も出ている。
   不合理な弁解をしているときは、重くなる。これまでに出された求刑超えの判決は、いずれも多数の同種前科があった事件である。
   裁判員は、法的な主張よりも、事実を重視している。殺意はないから傷害でもいいが、殺人未遂と同じくらいの刑にする、と考える」
   「無罪判決(一部無罪、認定落ちを含む)が少なくとも6件出ている」
 ○ 事件数は予測を下まわっている
   「事件数は、予測を下回っている。1年間の新受件数は、1898件で、予測件数2324件を下回っている。5年間で半減した。昨年、急に減少したのではなく、一貫して減少傾向にある。
    強盗致傷事件は1100件から500件に減っている。覚せい剤取締法違反はいったん減少したが、最近また増えており、以前と同程度になっている。その結果、千葉地裁だけが予測件数に届いており、それ以外の地裁は軒並み減っている。東京本庁は事件数が少ないので、4部減らして、21部から17部にするという。その分の人員は千葉へまわすことになる」
   「検察庁は事実認定が厳しい事件でも、起訴に踏み切る姿勢である」
 ○ 審理期間は4日以上が多い
   「実際には、3回以内で終結できる事件は多くない。もっとも多いのが4日間であり、10日を超えるものもある」
   「審理期間は、起訴から判決までの期間は6,7か月、否認事件は7,5か月であり、当初の予測より短くなっている」
 ○ 裁判員の選任
   「裁判員に選任されたいと言っている人は、法学部出身の人で法律論をふりかざすなど、あまり良くない人も多い。ところが、選任されたくない、不安であるという人は、慎重に判断をするから、評議でも良いことを言うということもある。なので、選任されることを希望していいないからと言って、不選任にする必要はない」
   

弁護士の体験記

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 裁判員裁判が始まって1年あまりがたちました。『自由と正義』の最新号(2010年10月号に弁護士の体験談が載っています。
 大変勉強になる内容ですので、私の目をひいたところをピックアップして紹介します(な)。
 まずは、壱岐にもいた浦﨑寛寿弁護士(千葉県)です。
 「弁護人としては、本件チョコレート缶の重さに関する争点を中心的争点と位置づけ、この争点で勝敗が決まるのだと裁判員に印象付けるよう、弁護側の立証活動の資源を集中投下させることとした」
 「冒頭陳述では、裁判官・裁判員に対し、本件チョコレート缶の重さの評価いかんがこの事案の重要な争点であるということと、重さは決して不自然ではないという弁護人の主張に興味を持ってもらう必要がある。
  一般的に、冒頭陳述では、弁護人のケース・セオリー(事件の説明)を物語として時系列で語ることが多い。実際、本件でも、AさんとD氏との関係から始まり、D氏からの依頼でマレーシアへ渡航して、本件チョコレート缶を受けとり、成田空港で発覚して逮捕されるところまでを、時系列で語った。
  しかしながら、本件のような間接事実型の事実認定が問題となっている事案では、単に弁護側のストーリーを時系列で語るだけでは、検察官が主張する間接事実に対する弁護人の主張に興味を持たせるという点では不十分であると考えた。間接事実は必ずしも時系列に対応したものではないし、また、事実からやや離れた一般論・経験則も含まれているので、弁護人が単純に時系列でストーリーを語るだけでは、(ストーリーの中に事実としては組み込まれていたとしても)どういう点に着目して審理に臨めばいいのか分かりづらい。
  私が見聞した限りでは、検察官は、覚せい剤密輸事件で故意が争われる事案では、必ず、冒頭陳述で間接事実を1つずつ指摘している。ならば、本件でも、検察官の主張する間接事実に対する弁護人の主張(反論)を冒頭陳述で明らかにする必要があると考えた」
 「検察官が主張する他の間接事実についても、同様に1つずつポイントを指摘して、審理で注目すべき点を説明した」
 「複数の間接事実の総合評価で勝負が決まるような事案では、時系列でストーリーを語る以外にも、検察官の主張する間接事実に対する反論のポイントを弁護人の冒頭陳述の中で触れることは必要ではないかと思う」
  弁護人の冒頭陳述の組み立てに工夫したところがとても参考になりました。
  「検察官は、冒頭陳述も論告も、A3用紙1枚程度のカラフルな図面(「1枚図面)を提出するのが一般的である。私が見聞した限りでは、検察側は、どんな事件でもおおむね似たような1枚図面を作成しており、内容も一見してわかりやすいものが多い。検察官ごとのばらつきもあまりなく、検察庁全体で1枚図面の作成ノウハウが共有されているようである。
  それに対して、弁護側は、どのようなビジュアルエイドを利用するかについて、(事案の個性もあるが)弁護人によって考え方も技術も能力も様々である。なかには、一見して検察官の1枚図面よりも見劣りするものもあると聞く。報道等で見聞する限りでは、検察官よりも弁護人の説明が分かりにくいという感想を述べる裁判員が相当数存在するようである。
  分かりやすい1枚図面を作成する技術という点では、組織をあげて取り組んでいる検察庁の方がずいぶん先を進んでいる印象を受ける。弁護人としては、虚心坦懐に検察庁の見習うべきところは見習って、技術を身につけるほかない」
  いま、検察官は当初のパワーポイント一本槍のプレゼンを見直しているそうです。
 次は、裁判官から弁護士になった安原浩弁護士(兵庫県)です。
 「裁判員選任手続きの理由なし不選任権を行使してみたが、そのようなことが良いのか、どの程度効果があるのかは結局わからずじまいであるから、この制度の運用はなかなか難しいと感じた。
  弁護側の冒頭陳述と弁論には、補助弁護士の作成したパワーポイントが大活躍した。陳述者の話の進行に合わせて要点をモニターに映すことは裁判員の理解を大いに助けたと思う。技術的に工夫すべきところは多いとは思うが、検察官の派手なパフォーマンスに見劣りしないようにするためにも、弁護側のビジュアルな弁論は不可欠と思った。
  ただ、冒頭陳述と弁論ともわかりやすい書面を作成することにも努力した」
  やはり、分かりやすい書面が大切なんですよね。
  「検察官側はできるだけA3一枚に要点をすべて書き込み、あとは口頭で説明する手法に徹していたが、その場ではわかりやすくとも、記憶に残りにくい、従って裁判員に考えてもらうには不十分ではないか、と感じた。
  被告人質問については、事件の性質からも、できるだけ被告人のこれまでの人生と被害者との長年の生活実態を詳細に語ってもらうことに努力した。2時間近くの弁護側の質問時間だったが、裁判員の熱心に聞く姿勢に感銘を受けた。
  プロの裁判官のみの裁判と異なり、一生に1度の経験だからと身を乗り出して聞いてもらえる感じがあり、長い質問時間にもかかわらず、法廷には心地よい緊張感が継続していた」
  裁判員の真面目な態度は頼もしい限りです。
 「論告の際に、検察官が強い殺意を主張するため、突然『逃げ回る被害者を追いかけて陶器製置物で殴打を続けた』とこれまでの主張にも証拠にもない事実を突然加えたのにはびっくりした。
  弁論は前日に完成していたが、急遽・口頭でその部分について反論し、翌日までに弁論要旨の修正をせざるを得なかった。
  公判中心主義の場合には、事前準備とともにこのような突発的事態に臨機応変に対応することも極めて重要であると痛感した。
  また、このような証拠にない事実を平然と主張することは、裁判員の強い反発を招くおそれがあり、弁護人側としても特に自戒すべきことと感じた」
  私が傍聴した事案でも、予期しないものが出てきて、臨機応変の対応が必要となりました。
 「求刑の半分を下回る判決結果に正直驚いた。それとともに、求刑には必ずしもとらわれない(もちろん重い方向にあらわれることもあるわけだが)裁判員裁判という制度、すなわち国民参加の裁判の正当性に裏付けられた強さを感じた。
  また、裁判長が、判決宣告にあたり、基本的姿勢について、検察官の論告が弁護人の弁論による批判に耐えうるかを中心に検討した、と発言されたのにも敬服した。
  ともすれば、真相発見のためと称して、検察官の主張を補うような不意打ち判断が少なくない、というこれまでの実態から脱却したいとの真摯な姿勢が感じられた」
 「若い頃に勉強した刑事訴訟における公判中心主義が復活しつつあるとの印象を受けたし、また弁護人が熱心に訴えることについてまじめに聞こうとする姿勢のある法廷の出現に新鮮な驚きを覚えた。
  裁判員裁判が供述調書に頼らない裁判を目指さざるを得ないとすれば、自白調書やわかりにくい鑑定書を盲信することに起因するこれまでのタイプの冤罪の発生の防止にもつながる可能性があると思う。
  裁判員裁判は生まれたばかりの制度であり、修正すべき点も多いとは思うが、これまでの供述調書に依存した刑事訴訟法の運用を現実的に改善できる大きな可能性を秘めていることに期待し、これからも積極的に関与していきたいと考えている」
  裁判員裁判には克服すべき問題点があっても、基本的に評価できる制度だと思える指摘であり、同感です。
  最後は森晋介弁護士(徳島)です。
  これを読んで、裁判員って、そして日本人って本当に真面目なんだなと改めて認識しましたし、裁判員裁判が、これまでの固くて冷たい法廷をすっかり変える力をもっていることを知り、うれしくもなりました。
 「判決言渡し後、被告人が退廷していく裁判官、裁判員に向かい『ありがとうございました』と言って深々と頭を下げるという印象的なシーンがあった。
  当日の記者会見では、判決言い渡し後の被告人の姿を見て、法廷から控室へ戻った裁判員全員が涙を流したというエピソードが紹介された。1日延期されたことで考える時間ができ、それにより一人ひとりが被害者の立場に立ったり、被告人の心情を考えたりしながら、ときに白熱した議論を交わしつつ、真剣に時間をかけて話し合うことができた、と全員が一致して述べていた。記者会見でも、多くの裁判員が涙ぐみ、声を詰まらせながら、『被告人の姿を見て涙が止まらなかった』『判断を下すのにすごく苦しかった』と胸中を語ったことが、大きく報じられた。裁判に血が通ったことを実感した瞬間であった」
 「従前、生い立ちから始まる犯行に至る経緯を詳しく主張、立証しても、一顧だにされず、『動機及び犯行に至る経緯は、短絡的かつ自己中心的で酌量の余地はない』と決まり文句で断罪されてきた経験が、本件の弁護方針に迷いを生じさせたこともあった。
  これまでに弁護人(自分)の主張が一蹴されてきた数多の事案と本件との間に質的な違いはないように思われ、おそらく裁判所の重視するところではないだろう、と悲観的に考えていた。
  結果的には、裁判所が被告人の思いをくみ取ってくれた点も多く、自分の見込み違いを反省する一方で、裁判員裁判の可能性を感じ素直にうれしかった」
  「判決から数日たった後、被告人と面会をした。法檀に深々と頭を下げ御礼を述べたときの心境を尋ねると、『裁判を通じ人の心に触れた気がし、自然と体が動いた。判決内容に感謝しています』と語ってくれた。後日送られてきた手紙にも、人の『温もり』を感じた、それに応えるためにも自分は変わらなければならない、一生懸命に刑期を務めたいとの決意が記されていた。
  被告人は、自らに懲役刑を言い渡した裁判で人の温もりにに触れることになったが、それは彼がこれまでの人生で感じたことがないか、あっても遠い昔過ぎてわすれてしまっているものであった。
  私自身も本件を通じ、裁判は人を変えることができる、ことを実感した。
  これも裁判員が真剣に考え、時間をかけて議論をし、その凝縮された思いが判決として被告人に届けられた結果であると思うと、十分な時間が確保された中で充実した評議が行われることの重要性を、改めて痛感した」
 ぜひ、『自由と正義』の原文にあたってみてください。

前最高裁長官の語る裁判員裁判の現状と課題

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前最高裁長官の語る裁判員裁判の現状と課題
本年(2010年)3月26日、最高裁長官だった島田仁郎氏が東大法曹会で「裁判員裁判にご理解とご協力を」と題して講話しています。裁判所内部の内幕話として興味深い内容ですので、その一部を紹介します。関心を持たれた方はぜひ全文をお読みください。会報10号に掲載されています。(な)
裁判所内は反対が強かった
 当時の裁判所部内では私を含めて多くの裁判官、とくに刑事部の裁判官は陪審制度の導入については反対していた。誤判防止のために陪審制度を導入すべきだという人も多く、これに対しては、これまで裁判の適正に努力を傾注してきた裁判官から感情的な反発もあったことも事実。しかし、冷静に考えてみても、陪審制度によって、果たして刑事裁判の内容がこれまで以上により適正なものになるかどうかは疑問であるというのが、当時の部内における大方の意見であった。
積極の方向に変わっていった
 その後、最高裁としては、欧米諸国に派遣して陪審や参審の研究をさせた者たちが続々帰ってきて報告する。そういう報告なども踏まえ、さらにいろいろと検討を進めた結果、結局、国民の司法参加自体にはメリットはあるし、時代の要請にもかなう。裁判官も一緒に裁判に臨む参審制度であれば、客観的な真実発見をあくまで求める我が国の国民性にも反しないし、参加する市民の負担の程度も陪審に比べれば比較的少ないということで、むしろ積極の方向で対応していくべきではないか、と変わってきた。
国民の司法参加の意義 
2つある。第1には、一般の国民が裁判官と一緒に裁判をすることで、裁判に国民の健全な社会常識が反映されること。第2には、国民が裁判のことをよく知るようになって、その結果、国民の裁判に対する信頼がより強固なものになるということ。これまで非常識といわれても仕方がない判決や言動が、まったく見られなかったわけではない。裁判官、とくに刑事裁判を長くやってきた者は、犯罪を憎み、世の治安を守るという気持ちにおいて、これは検察、警察とその気持ちを共にする。どうしても心情的には、検察や警察の正義を守り、世の治安を守ろうという心情に傾きがちである。
 したがって、嘘の自白を強要したり、鑑定資料について、いやしくもおかしな捜査をするなどということは、よもやないだろうと思いがちである。裁判員の場合には、被告人がうまく演技すれば、それに乗せられて間違った判断をしかねないという危険はある代わりに、被告人の真摯な主張を受け止める度量は広いといえるのではないか。私は、かねがね取り調べ状況の可視化を強く主張してきた。弁護士のみならず検察側のためにも、可視化はできる限り進めるべきだと思っている。
人を裁くことの精神的負担の重み
 制度に反対する方は、人を裁くという重い精神的な負担を市民に課すのはいかがなものか、と指摘する。しかし、犯罪はひとごとではなく、いつ自分が被害者になるか、あるいは加害者にもなりかねない。また、実は加害者でなく冤罪ではあっても、容疑者に仕立てられることもある。それなのに、一般市民はこれまで犯罪をあたかもまったくひとごととして、傍観者的な立場でしか見てこなかったきらいがある。
 人を裁くことの精神的な負担の重みは、まさにその通りであるが、それはプロの裁判官だからといって軽くなるわけではない。マンネリになって、その精神的な負担を軽く感じるようになるとしたら、それは裁かれる被告人に対して誠に申し訳ないわけで、みんなそうならないように、初心を忘れずに努めている。
 この世の中にどんなに残虐非道な犯罪があるのか、そして被害者や遺族の無念な気持ちを考えると死刑以外に考えられないような犯罪が実際に存在するということ、そういう事実と正面から、国民の一人一人に向き合っていただきたい。そのうえで死刑を廃止すべきかどうかを議論することが必要だと思う。
 死刑求刑事件に参加してみて、その犯罪と直接向き合って、それでもなお死刑にするのは酷であると思うなら、裁判員としてそういう意見を個々の裁判において十分に述べればいい。もし、そういう意見の方が多数で、それが反映されて、死刑判決がどんどん減っていくなら、それはそれでいい。それなら事実上の死刑廃止につながるということで、結構なことだと思う。重い方向になるにせよ、あるいは軽い方向に動くにせよ、量刑に一般市民の感覚が反映されることは、大いに歓迎すべきことだと思う。
9割の出頭率、参加してよかった
 出頭率は90%と、想像以上によかった。当初は1件について用心を取って100人も呼び出していたが、最近では50人で足りるということになってきた。参加した後には、非常にいい経験をした、または、いい経験をしたと回答した者が97%に上っている。
 裁判員になった人の96%が、精神的な負担の重みは実感しつつ、しかし、参加してよかった、という感想を述べている。これは陪審や参審をとっている欧米諸国のどこの国に比べても、勝るとも劣らない民度の高さを示している。
 参加してよかったと回答した者は96%、その理由として、自分たち市民の感覚が判決に十分反映されたと思う、と回答した者が92%あった。
 審理日数はほとんどが4日以内で終了し、5日以上はまだ8件。これは比較的簡単な事件がこれまで多かったからで、決して楽観できない。
 今後は複雑困難、公判準備に多大なエネルギーを要して、公判日数も10日はおろか、20日や30日もかかる事件も出てくることがある。そのような事件に参加した裁判員から、仮にも、負担のみ多くてつらかった、裁判で何をやっているか分からなかった、参加した意義が感じられなかった、という意見や感想が出てくるようでは、この制度が生き永らえることはとうていできない。
ちなみに、裁判員裁判が始まってから、裁判官はじめ職員全体の様子がかなり明るく活性化してきた。

アメリカの刑事弁護の実際

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 アメリカのロースクールで刑事訴訟法を教えていて、法廷弁護士としても活躍しているピーター・アーリンダー氏が日本の弁護士に対して、アメリカの陪審裁判との日本の裁判員裁判の異同について昨年9月と12月に語った記録(抄)を紹介します。(な)
 日弁連でトレーニングを担当しているアメリカの弁護士は、日本とアメリカの文化的基盤の違い、新しい制度の意味などをまったく理解していないのではないか。しかし、その理解なしにはトレーニングはできない。
 同じ言葉でも、日米ではまったく意味が違う。たとえば、「裁判」という言葉は「トライアル」と訳される。日本で「裁判」というと、何度か行われる審理の集合体だと考えられている。しかし、アメリカの理解は違う。アメリカでトライアルとは、プリトライアル、トライアル、トライアル後の手続、その総体をさす。
 日本では「陪審」とは市民が裁判官といっしょに司法に参加すること。アメリカにとっては、それは「陪審」という言葉とは理解しない。
 大事なことは、日本の新しい制度の合議体が、普通の市民と裁判官の混合体となっていること。
 アメリカの特徴は当事者主義であり、当事者主義の構造のなかで陪審制が導入されている。裁判官はレフェリーであって、陪審とは独立している。両チームがたたかっているときに、積極的な役割をはたすのではなく、両チームがルールどおりにやっているか否かを監視するのが役割。陪審制度では12人の人たちが判断するのであって、彼らが主役。裁判官はお互いのチームが反則をおかしているかどうかを判定する。陪審はゲームに参加するのではなく、サッカーボールがネットに入ったか否かを判断する。裁判が終われば別室で評議するが、評議は誰にも分からない。陪審の評議には誰も何も言えない。当事者主義の中で、陪審は裁判官、検察官、弁護人から独立して判定するところに真髄がある。
 裁判官はレフェリーの役割である。情報を開示しあうのは弁護側と検察側である。弁護側にどのような証人、どのような証拠がでるのかを知らせなければならない。それを聞いて、裁判官がどのくらいかかるのかを決めることになる。決めるのはあくまで検察官だ。検察側の開示、ディスカバリーを経ないまま行われるのであれば、信頼できる裁判ではない。
 陪審裁判は予測不可能であることが力になる、全関与者にとってそうであるからである。陪審裁判の予測不可能性が裁判官や検察官にとって圧力になる。アメリカでも陪審員の都合を尊重して期間を見積もることはある。しかし、全員が予測不可能であることを理解している。3日と思っていたのに7日かかることもある。一ヶ月で終わると思っていたところ、そうならないこともある。ここが日本の裁判員裁判と非常に違う制度である。
 罪状認否から審理開始までの期間は、短いとき(簡単な事件)は1ヶ月程度。しかし、複雑なケースのときには1年であり、だいたい6ヶ月ほどである。
 この手続全体のなかで、検察官側は弁護側に常に情報を与えなければならないが、弁護側から情報を与える義務はない。弁護側の力量によって有罪を認めるか無罪の主張にするかがきまってくる。つまり、理論としては、検察官が有罪無罪の立証するに必要な証拠・情報をすべてあたえ、そして弁護側が無罪を争えばいい。その結果が有罪を認める確率が87%という数字に反映されている。
 理論的には取調べの可視化の問題とおとり捜査の関連性はまったくない。おとり捜査は非常に多く行われている。とくに、テロリスト、薬物、ギャングの事件では多く行われている。盗聴は9.11事件後に多く行われている。それは犯罪捜査のためではなく、外国の諜報摘発の目的で行われることが多い。同房者のスパイは非常によくあることである。
 取調の可視化は連邦では認められておらず、州としては19州認められている。ミネソタでは可視化がなされているが、裁判官も検察官も良い方向で評価している。なぜなら、可視化を取り入れることにより、制度的に安定的になるし、判断も容易になるからである。
 アメリカの刑事司法のシステムだと、司法取引がなければ、このシステム自体が機能しない。なぜならば、70から80%の事件がギルティー・プリーという段階で終わってしまう。多くの弁護人がトライアル(審理)を望んだら、システム自体が崩壊してしまう。
 どんな法的な制度であっても、客観的な真実を発見するものではないということを知る必要がある。すべての法制度は過去の事実を扱うしかない。過去を完全に再構築することは不可能である。これはすべての法制度に埋め込まれたものであり、やむを得ない。どの程度の不正確の情報であれば、社会が受け入れられるのかということだと思う。アメリカでは多くの人は、真実の発見についてあきらめがある。真実の発見が正義なのか、それとも、あくまで正しい手続が行われたことが正義なのか。アメリカ人の多くは後者を取っている。

刑務所の処遇

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「季刊・救援情報」65号(5月10日)に27年間の刑務官の体験をもつ坂本敏夫氏のインタビューがのっています。刑務所の処遇を考えるうえで参考になりますので、その一部を紹介します。(な)
 重罰化、厳罰化の流れは深刻である。重罰化、厳罰化の流れのもとで、刑務所の収容率は増えている。平成19年末で、過剰収容となっている施設は全体の64%を占めている。とくに、無期懲役は、以前であれば20年もすれば仮釈放を許されていたが、今はほとんど仮釈放で出ていない。平成19年は一人もいなかった。最近では終身刑のような状況である。現在1600人の無期懲役囚がいる。
刑務作業の仕事がバブル崩壊の直後に比べても5分の1と少なくなっている。
 かつて作業収入は全国で200億円を超え、収容費を確保していたが、仕事の量が減り、質が落ち、金額がひどく減っている。平成8年で受刑者数4万人で125億円稼いでいた作業収入は、平成19年には受刑者数7万人で58億円と大幅に減っている。一方で、収容費は平成8年に283億円だったものが、収容者の増加もあって平成19年には532億円に跳ね上がっている。
 規律秩序が維持される集団管理の鉄則は、刑務所長の命令に問答無用で絶対服従させること。所長の命令は刑務官と受刑者の両方に及ぶ。刑務官を国家公務員法と各種内規(服務規程や懲戒規定など)で縛り、受刑者を刑事収容法令と受刑者生活心得などの規則で縛りつける。
 管理第一主義で規律秩序の維持が掲げられた刑務所には、本来の改善更生のための個別の教育が入り込む余地はない。
 集団処遇でも四苦八苦しているところに、個々の受刑者に焦点を当てた個別的矯正処遇に必要な時間と場所、そしてスタッフのどれもないというのが実態である。
 法律で義務づけられた矯正教育は、法務省の通達により、月に2回のみ行うという形式的なもの。刑務所長が平日を矯正教育の日と定め、免業(仕事は休み)として、居室にビデオまたは録音を流して視聴させ、課題を与え、レポートを書かせている。
 すべての受刑者に同じものを見せたり聞かせて、同じ課題を与え、改善更生の意欲を見る評価に利用している。受刑者たちは、制限の緩和と仮釈放のために、いやいやレポートを書かされている。
 これが新しく取り入れられた矯正処遇の実態。日々の処遇という点ではテレビカメラや各種の警備システムがなかった1970年代までの刑務所の方が教育的だった。
 過剰収容で、ただでさえ刑務官やスタッフの人手不足なので、なるべく件数を減らしたい。
 工場担当の刑務官は、30人から100人ぐらいの受刑者を一人で受け持つ。
 刑務官は、受刑者以上に規律に縛られていて、勤務中以外は受刑者と関われないという現実がある。

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