弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(近代)

2010年8月28日

母(オモニ)

著者:姜 尚中、出版社:集英社

 戦後日本の実情が描かれています。著者は団塊世代の私より2つ年下ですので、そこで紹介されている在日朝鮮人の生活は私にとっても、身近な存在でした。
 舞台は熊本市内ですが、私も福岡県南部で生まれ育ったので、よく分かるのです。
 熊本と朝鮮人労務者との関係は、韓国併合よりも早い、1908年(明治41年)にまでさかのぼる。人吉─吉松間の鉄道ループ工事に数百人の朝鮮人労務者が使役された。三井系の三池炭鉱や阿蘇鉱山、三井三池染料、三菱熊本航空機製作所などで強制労働に従事していた。
 そして、朝鮮人の集落があり、そこではドブロクの密造もされていた。
 私の住む町にも、近くに朝鮮人の集落があり、豚が飼われ、ドブロクがつくられていました。たまに、警官隊が踏み込んで密造酒づくりを摘発したという話を、私も幼い子どものころに聞いていました。
 オモニは文字の読み書きが出来ない。ところが、不思議なことに、その口調にはナマリがなかった。朝鮮人を思わせるイントネーションはまったくなかった。
 総連と民団という言葉も、今となってはなつかしい言葉です。もちろん、今もこの二つの団体は存在しているのですが、30年前には、お互いに張り合っていました。どちらかというと、今と違って総連のほうが活動家に勢いがありました。同胞の面倒みの良さも上回っていたと思います。
 戦前の日本で憲兵となった著者の叔父は単身、韓国に帰った。そして、苦労して弁護士になり、大出世します。反発していた著者も韓国に渡って、祖国を見直すのでした。ただ、成功した叔父も、晩年は人に騙されて哀れだったとのことです。栄枯盛衰は世の常ですね。
 この本は母(オモニ)を主人公とした小説の体裁をとっていますから、すっと感情移入して読みすすめることができ、大変読みやすい本になっています。そのなかで在日朝鮮人の家族の歴史を理解できる本です。ますますのご活躍を祈念します。
 ちなみに、私も母の生きざまを描いてみました。やや中途半端で終わっていますので、この本のように、もう少し小説仕立てにしたほうが読みやすいのかなと思ったことでした。
 一読をおすすめします。
(2010年6月刊。1200円+税)

2010年8月19日

内奏

著者:後藤致人、出版社:中公新書

 上奏とは、大日本帝国憲法を最高法規とする明治憲法体制に位置づけられた奏のこと。大日本帝国憲法で上奏という用語は1ヶ所しか出てこない。
 「両議院は、各々、天皇に上奏することを得」(49条)
 上奏とは、首相・国務大臣・統帥部・枢密院・議会など国家諸機関による、法律・勅令など、天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続きであった。
 奏上は、天皇に申し上げる行為全般を指す。
 近代以降の上奏は、天皇大権と密接に関係している。
 輔弼(ほひつ)とは、憲法上、国務大臣が行う天皇の補佐を表す用語である。ほかに内大臣と宮内大臣に輔弼規定がある。それ以外の天皇補佐には、輔翼という用語を用いる。参謀総長・軍令部総長については輔弼とは言わず、輔翼と表現する。
 惟幄(いあく)上奏とは、統帥部が軍機・軍令について、直接、天皇に上奏すること。この惟幄上奏には、二つの問題があった。第一に、惟幄上奏が拡大解釈され、本来は統帥部だけであったものが、内閣の一員である軍の大臣が首相を超えて惟幄上奏した。第二に、統帥部と陸海軍省が対立したとき、惟幄上奏が軍内部の調整を経ずに行われ、政治問題化すること。
 陸軍統帥部は天皇からの御下問を極度に畏れていた。そこで御下問が、陸軍の暴走の歯止めとの一つとして作用していた。
 御前会議によって最高国策が最終決定されるのではなく、天皇の退出後、あらためて政府・統帥部が上奏手続きをして、天皇の裁可を得る必要があった。御前会議の法制上の位置づけは明確ではなかった。
 内奏とは、正式な上奏に先だち、内意をうかがうもの。そこで、これでよろしいとなると、その後、正式な上奏の形式に現れた「勅旨」になる。
 戦前そして戦中、帝国議会について、首相は天皇に内奏する習慣があった。
 天皇が発する言葉には、御下問(ごかもん)、御沙汰(ごさた)、御諚(ごじょう)、優諚(ゆうじょう)など、さまざまな表現がある。どう違うのでしょうか?
 優諚とは、天皇のめぐみ深い言葉のこと。
 昭和天皇は、上奏前の内奏段階では、かなり踏み込んだ御下問をする。しかし、上奏については、必ず裁可を与えている。
 天皇の御下問は、宮中の人間の助言を受けず、直接、内奏する統帥部の軍人に行われていた。昭和天皇は、統帥関係の御下問については、木戸幸一内大臣に相談せず、直接、統帥部に対してするのが普通だった。
 昭和天皇は、上奏については裁可すべきだと認識していたが、内奏段階では御下問を通じ、輔弼者らに意見を表明してもよいと考えていた。天皇は、参謀総長・軍令部総長の上奏・内奏に対しては、強い口調でその矛盾をつくことがあった。
 宮中側近の助言を受けずに発せられる天皇の御下問は率直であり、軍を悩ましていた。
 戦後、日本国憲法が施行されてから、内閣から天皇に法律の公布を求めるときの用語が、かつての上奏から、「奏上」「奏請」に変わった。
 日本国憲法の施行後、上奏は消滅した。しかし、内奏のほうは生き残った。
 昭和天皇は、人事への関心が深く、佐藤首相にしばしば意見を言った。
 1966年、認証式や叙勲などの天皇の国事行為の機会の前後に、佐藤首相は一般政務の内奏を行っていた。昭和天皇は、この内奏によって人事や政情について、より深く情報を得て、御下問していた。
 1969年1月の東大紛争の際の秩父宮ラグビー場での大衆団交についても、佐藤首相は天皇に内奏した。うひゃあ、これには驚きました。私は駒場に残って待機していたように思います。それにしても、こんなことまで首相は天皇と会話していたのですね。なんと言ったのか、知りたいところです。
 昭和天皇は、長く政権を担当して気心が知れる佐藤首相に対して、御下問を通じて率直に政治的な意見表明をすることに慣れていた。昭和天皇は、保革対立に揺れる保守政権を励まし、あえていうと保守政治の精神的な核のような存在であった。警察庁長官も、定期的に(年1回)天皇に報告している。そして、天皇への内奏、天皇による御下問の内容を外にもらさないことは、政府部内で暗黙の了解事項だった。
 この本を読むと、戦後日本においても天皇に対して政治情勢等について政府の説明が定期的になされ、そのことが政府の確信ともなっていたことを知ることができます。私たち一般国民にとって意外なほど、天皇の言葉は政府にとって重い意味をもつもののようです。
(2010年3月刊。760円+税)

 ディジョンからSNCF(フランス国鉄)に乗ってオータンを目ざしました。12世紀に建立されたサン・ラザール大聖堂のある大きな町です。ところが、日本で買って持っていったトマス・クックにある乗り継ぎ列車がありません。途中のエタンで立ち往生しました。駅前にタクシーが1台とまっているのを見つけて交渉し、なんとかオータンに辿りつくことができました。
 曇り空だったのが一時的に快晴になりましたので、絶好のシャッターチャンスとばかりに写真を撮りました。
 オータンにはローマ時代の劇場跡が残っていて、今も野外劇場として活用されています。背後に湖があり、階段式の観客席が大部分残っています。
 2万人収容というフランス最大の劇場跡ということでしたが、成るほど広大なものです。ローマ軍団の偉大さを偲びました。

2010年7月31日

たった独りの引き揚げ隊


著者:石村博子、出版社:角川書店

 ロシア人(コサック)の母と日本人の父のあいだに生れた10歳の少年が終戦(日本敗戦)後、満州(中国の東北部)をたった一人で1000キロも4ヶ月歩いて、ついに日本(柳川)へ帰国できたという体験の聞き語りの本です。その状況がよく描けていることにほとほと感心しつつ、車中で読みふけってしまいました。
 満州と言えば、私の叔父(父の弟)も、敗戦後、八路軍に徴募して技術者として何年も転々としました。そのことを叔父の書いた手記をもとに少し調べて小篇にまとめてみました(残念ながら、力不足で本にまでは出来ませんでした)。また、母の異母姉の夫(中村次喜蔵)が満州の日本軍の師団長として敗戦直後に自決していたことも少し調べて、母の伝記に取り入れてみました。このときは、東京の偕行社に依頼して調査に協力してもらいました。旧軍の将校クラブが生きていることに少しばかり驚いた覚えがあります。
 主人公のビクトルは1935年、満州国ハイラルで生まれた。父親は日本人の毛皮商人、母親は亡命コサックの娘。その父はロシア皇帝ニコライ2世の直属コサック近衛騎兵をつとめていた。
 父・古賀仁吉は、1910年に、柳川で生まれた。満州事変(1931年)ころに中国大陸へ渡り、会社を営んでいた。
 敗戦後、両親と生き別れ、日本への帰国団から、ロシア人の子どもとして2度も排斥されてしまった10歳のビクトル少年は、一人で歩きはじめ、日本への帰国を目ざすのです。その旅行の描写は、体験した者ならではの迫真力にみちみちています。すごいです。
 左に線路、上に太陽、前方に木。これだけあれば前に進める。雨にうたれると体力を急速に奪われるから、気をつけていた。
 野宿で重要なのは、眠っている間に身体の熱が奪われないようにすること。ねぐらを決める前にまず確認すべきなのは天候。夜中に雨が降りそうなら、身体全体がすっぽり隠れるくらいの場所があって、足元には水を吸収しやすい砂地っぽいところを探す。次に、風向き。それから、オオカミや野犬などが来ないところ。そして、土地の人にも見つかる恐れのないところ。
 だから、ねぐらにしたのは、窪みや岩陰など、身を隠せるところが多かった。そこなら、風が当たらないし、体の熱も逃げない。首には必ず毛布を巻いておく。
 夜は怖い。月や星がなければ、あたりは漆黒の闇。音も匂いも、昼間よりずっと鋭く伝わってくる。怖いけれど、バタバタするな、落ち着けって、自分で自分に言い聞かせる。暗いときには、身動きしてはいけない。じっとして、夜の音を用心深く聞きとらなければいけない。耳はすごく敏感になる。聴覚は良かったから、相当地小さな音も聞き分けることができた。風に鳴る木の葉の音、草の揺れる音、虫の声・・・。全部が生きている。すごいなと思いながら聴いていた。一番怖いのは息を殺して近づいてくる気配だ。
 食べ物探し。草も食べた。よく分からないものがあったときは、茎を折って、出てくる汁で見分けをつけた。みずみずしくて水分が豊かなら、食べても恐らく大丈夫。すぐにしおれるものは危ない。うへーっ、そ、そうなんですか・・・。知りませんでしたね。すごい野性児ですね・・・。
 『花はどこへ行った』というアメリカのフォークシンガーであるピート・シーガーが歌ったものの原詞がコサックの子守唄だったことを初めて知りました。
 少年ビクトルはロシア語を忘れないように歌ったのでした・・・。
 あしの葉は、どこへ行った?
 少女たちが刈り取った
 少女たちは、どこへ行った?
 少女たちは嫁いでいった
 どんな男に嫁いで行った?
 ドン川のコサックに
 そのコサックは、どこへ行った?
 戦争へ行った
 11歳になっていた少年ビクトルは日本人の引き揚げ隊を見て、こう思ったといいます。
 日本人って、とても弱い民族だ。打たれ弱い。自由に弱い。独りに弱い。誰かが助けてくれるのを待っていて、そのあげく気落ちして、パニックになる。
 巻末に主要参考文献のリストがのっています。かなり本を読んできたと自負する私ですが、こんなリストを見ると、まだまだだと思わざるをえません。
 とても面白い本でした。
(2002年3月刊。1600円+税)

 駅前で選挙運動をしていた人が、ポスターを近くに仮留めしていたところ警察に逮捕されるという事件が発生しました。なんと20日間も拘留され、家宅捜索までされたというのですが、不起訴で無事に決着しました。
 それにしても、こんな事件で20日間の拘留を認める裁判官というのは常識はずれではないでしょうか。もちろん、警察が一番ひどいのですが……。
 インターネットの自由な使用も認められない今の公職選挙法のなんでも禁止というのは、まさに時代錯誤の法律です。戸別訪問の解禁を含めて、一刻も早く選挙のときこそ国民が大いに政治をのびのび語りあえるように法改正してほしいものです。
 ちょこちゃん、いろいろ情報提供ありがとうございました。

2010年7月14日

吉原花魁日記

著者:森 光子、出版社:朝日文庫

 オビに欠かれている著者略歴を紹介します。
 1905年、群馬県高崎市に生まれる。貧しい家庭に育ち、1924年、19歳のとき、吉原の「長金花楼」に売られる。2年後、雑誌で知った柳原白蓮を頼りに妓楼から脱出。1926年、本書、1927年『春駒日記』を出版。その後、自由廃業し、結婚した。晩年の消息は不明。
 売春街、吉原で春をひさいでいた女性は自由恋愛を楽しんでいたのではないかという声が今も一部にありますが、決してそんなものではなかったことが、当事者の日記によって明らかにされています。
 19歳で吉原に売られてから、嘆きというより復讐のために日記を書きはじめたというのですから、まれにみる芯の強い女性だったのでしょうね。
 ちなみに、女優の森光子とはまったく無関係です。同姓同名の異人です。
 うしろの解説にはつぎのように書かれています。
 「怖いことなんか、ちっともありませんよ。お客は何人も相手にするけれど、騒いで酒のお酌でもしていれば、それでよいのだから・・・」
 そんな周旋屋の甘言を真に受けて、どんな仕事をさせられるかも知らぬまま、借金と引き換えに吉原に赴き、遊女の「春駒」となった光子。彼女の身分こそ、まさに公娼制度の中にある娼妓であった。
 周旋屋に欺されたことを知ったとき、彼女は、日記にこう書いています。
 自分の仕事をなしうるのは、自分を殺すところより生まれる。わたしは再生した。
 花魁(おいらん)春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。何年後において、春駒が、どんな形によって、それらの人に復讐を企てるか。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは、今の慰めの唯一であるとともに、また彼らへの復讐の宣言である。
 わたしの友の、師の、神の、日記よ、わたしは、あなたと清く高く生きよう。
 客よりの収入が10円あれば、7割5分が楼主の収入になり、2割5分が娼妓のものとなる。その2割5分のうち、1割5分が借金返済に充てられ、あとの1割が娼妓の日常の暮らし金になる。
 一晩で、客を10人とか12人も相手にする。
 客は8人。3円1人、2円2人、5円2人、6円1人、10円2人。
 客をとらないと罰金が取られる。花魁は、おばさん、下新(したしん)、書記などに借りて罰金を払う。指輪や着物を質に入れて払う花魁もいる。
 朝食は、朝、客を帰してから食べる。味噌汁に漬け物。昼食、午後4時に起きて食べる。おかずは、たいてい煮しめ。たまに煮魚とか海苔。夕食はないといってよいほど。夜11時ころ、おかずなしの飯、それも昼間の残りもの。蒸かしもしないで、出してある。味の悪いたくあんすらないときが多い。
 花魁なんて、出られないのは牢屋とちっとも変わりはない。鎖がついていないだけ。本も隠れて読む。親兄弟の命日でも休むことも出来ない。立派な着物を着たって、ちっともうれしくなんかない・・・。
 みな同じ人間に生まれながら、こんな生活を続けるよりは、死んだほうがどれくらい幸福だか。ほんとに世の中の敗残者。死ぬよりほかに道はないのか・・・。いったい私は、どうなっていくのか、どうすればよいのだ。
 花魁13人のうち、両親ある者4人、両親ない者7人、片親のみ2人。両親あっても、1人は大酒飲み、1人は盲目。
 原因は、家のため10人、男のため2人、前身は料理店奉公6人、女工3人、・・・。 吉原にいた女性の当事者の体験記が、こうやって活字になるというのも珍しいことだと思いました。貴重な本です。
(2010年3月刊。640円+税)

2010年6月22日

政党内閣の崩壊と満州事変

著者:小林道彦、出版社:ミネルヴァ書房

 戦前、軍部が一枚岩でないどころか、内部では熾烈な抗争が絶え間なかったこと、政党も軍部と結びついていたことなどを知りました。本格的な研究書ですから、理解できるところを拾い読みした感じですが、それでも得るところ大でした。
 これまで上原勇作派の実態は過大評価され、その反対に政党政治の発展に陸軍を適合させていこうとした桂太郎─田中義一─宇垣一成という軍政系軍人の系譜は過小評価されてきた。しかし、政党政治の全盛期には、陸軍すら、政党に順応しようとしていた。
 山県有朋の死後、陸軍では長州閥(田中義一)と上原派との対立が表面化した。
 上原は、陸軍きっての「進歩派」であり、自らもフランス語に堪能だった。つねに列強の近代軍に関する最新の軍事情報の収集に努めていた。上原こそ、陸軍の近代化の急先鋒だった。
 1920年代の日本陸軍では、軍政(陸軍省)優位の陸軍統治が実現しており、参謀本部は事実上、田中―宇垣のコントロール下に置かれていた。
 1921年10月、陸軍省で開かれた会議で議論されたのは、日本の兵器生産能力と戦時40個師団という兵力量とのギャップだった。参謀本部が作戦上の観点から40個師団にこだわっていたのに対して、陸軍省は武器弾薬の補給能力の観点から、それに待ったをかけた。陸軍省の指摘によれば、40個師団という大兵力に満足な武器弾薬を補給するのは、当時の日本の工業能力ではきわめて困難だった。
 これに対して、参謀本部が40個師団にこだわったのは、40個師団あれば、長江流域のある程度、つまり漢口・武昌付近まで手をのばせるからというものだった。
 参謀本部は軍隊の質的向上よりも戦時総兵力の多い方を望み、陸軍省は総兵力を多少削ってでもその質的向上を追及した。作戦計画の立案をつかさどる参謀本部は、運動戦・短期決戦志向が組織原理として刻印されている。政治や経済との接点に位置する陸軍省は、どうしても戦争の長期化を考慮せざるをえない。陸軍省は量より質の軍備整備に傾いていったのは、その組織原理によるものであった。
 陸軍がとくに強い関心を寄せていたのは鉄資源の確保であった。第一次大戦の大量弾薬消費・大量人員殺傷の現実は、田中義一をはじめとする陸軍指導部に衝撃を与えた。その結果、彼らは、揚子江中流域の大冶鉄山からの鉄の安定供給を重視するようになった。ところが、やがて、満州の鞍山が鉄資源供給先として脚光を浴びるようになった。
 1925年(大正14年)4月、田中義一が政友会の総裁に就任した。田中義一は在郷軍人会の創始者として、その300万人会員をあてにできた。また、政友会は、陸軍との間に強力なパイプを確保できる。田中にしてみれば、政党勢力と陸軍を一身でコントロールするという桂太郎はもとより山県有朋や伊藤博文すらも構築できなかった政治権力を自らの手に握ることを意味していた。
 山県は官僚制と陸軍をほぼ完璧に掌握していたが、自ら政党組織に乗り出そうとは思わなかった。伊藤は自ら創設した立憲政友会の運営に苦しみ、ほどなく枢密院に祭り上げられてしまった。また、憲法体制の修正による内閣権限の強化を目ざしたが、山県の反発によって失政に終わった。桂は、新政党を自ら組織して利益誘導型の政党政治を刷新し、山県と陸軍を押さえ込む新たな政治構造を創出しようとしたが、明治天皇の急逝と世論の無理解によって、失意のうちにこの世を去った。
 つまり、日本憲政史上、政党勢力と陸軍を同時に直接コントロールできた権力者は一人もいなかった。田中義一は、自らにならそれは出来るし、機もまた熟していると考えていた。政友会総裁に就任したときの田中義一は、自信と野望にみちあふれていた。
 ところが、田中の政治力は、陸軍方面では比較的に安定していたが、肝腎の政友会方面では、きわめて不安定だった。
 張作霖暗殺のとき、田中義一のやり方に不信感を抱いていた昭和天皇は、田中外交の協調的側面をまったく理解できなかった。天皇は、「支那赤化」の脅威を田中ほど深刻には考えていなかった。
 事件の調査結果について参内し上奏した田中義一は、昭和天皇から、前と内容が変わっていると厳しく叱責され、ついに内閣総辞職に追いこまれた。
 天皇側近は、事態が宮中と陸軍との正面衝突に発展することを危惧していた。
 多年、反政友会勢力の中心に位置していた犬養は、田中義一以上に党内権力基盤は薄弱だった。
 天皇は常日頃から、丹念に新聞を読んでいて、軍政改革問題にはとくに大きな関心を払っていた。
 天皇側近グループ、とりわけ牧野や鈴木、一木らに対する平沼系や皇道派の怒りは深く静かに進行していた。「君側の奸」から「玉」は奪還されねばならない。平沼らのイメージでは、天皇は牧野を中心とする側近グループと民政党によって籠絡されているのだった。
 関東軍は、鉄道沿線を離れては行動できない軍隊だった。後方補給部隊を完全に欠いていた。関東軍は、鉄道輸送に大きく依存した、野戦のできない野戦軍であった。鉄道戦争しかできなかった。
 武器・弾薬の補給も実は十分でなく、第二師団は、しばしば中国側の遺棄兵器を利用して作戦を継続せざるをえなかった。ところが、皮肉にも、その多くは、三八式歩兵銃などの日本製武器だった。
 北満の酷寒に日本馬は適応できず、多くの満州馬を現地調達して作戦をすすめた。
 満州国の成立は、本来、犬養の望むところではなかった。陸軍省では、永田鉄山軍事課長が中心となって、関東軍の独走を阻止しようとしていた。
 上海事変のとき、天皇は心労のあまり動揺はなはだしく、側近の目にも日々憔悴の色を濃くしていた。思いつめた天皇は御前会議を開いて時局を収拾しようと考えた。
 国務と統帥の分裂を眼前にして、肝腎の天皇が精神的に追い詰められてしまった。天皇は上海の戦争を心配するあまり、深夜に鈴木侍従長を宮中に呼び出したり、夜もおちおち眠れないような有様だった。
 戦前の日本の当局内部の実情の一断面が鮮やかに切り取られていて、深い感銘を覚えました。
(2010年2月刊。6500円+税)

2010年6月16日

在郷軍人会

著者:藤井忠俊、出版社:岩波書店

 戦前の日本の実情を深く知った気になりました。在郷軍人会というのも決して一枚岩ではなく、矛盾にみちみちた存在であったようです。
 1910年(明治43年)に発足した在郷軍人会は最盛時には300万人に及ぶ会員がいた。しかし、会員に軍服の着用をすすめても、軍服を着た会員はほとんどいなかった。軍服を着た市民があふれたのは戦後日本の平和な社会であった。個々の在郷軍人は軍服を着たがらなかったのである。ただし、米騒動で騒動の先頭に立った者が軍服姿となり、また、神戸の造船所での大ストライキのとき、労働者側の在郷軍人が軍服を着て市中をデモンストレーションして人々を驚かせた。デモクラシーの波が、この皮肉な反抗を演出した。
 日露戦争のとき、日露両軍が全兵力を投入した大会戦の戦い方を通して、将来の戦争と在郷軍人の関係に気づいた軍人の一人に田中義一がいる。
 その実戦の中で、常備師団に比べて後備師団は弱い。しかし、今後の戦争は在郷軍人が主体になる。なぜなら、来るべき戦争は総力戦であり、現役兵だけでは絶対に兵力が足りない。数倍の在郷軍人が召集されなければならない。それは補充のレベルではなく、従来の後備師団が逆に主体にならなければならないというものだ。そのためには訓練と戦意が大切であり、国民の支持が絶対要件である。田中義一は、在郷軍人会の組織と経営に熱意をもった。
 在郷軍人会は会費収入を期待できなかった。軍隊生活を除隊した経歴の在郷軍人には、心底から貧乏くじを引いた思いがある。表面上、いかに光栄ある国家の干城と言われても、入営中、出陣中の家計・生活上のマイナスはたしかなこと。したがって在郷軍人会が成立しても、事業にみあうような会費を出してまで会員になる在郷軍人は、まずいない。当初から、町村の有志の援助をあてにした集団だった。
 日露戦争後、帰郷した在郷軍人のモラルにはよい評価を与えられなかった。兵隊あがりという蔑称さえつけられた。そして、在郷軍人の半数以上が一種の詐欺的行為にあり、委任状を渡して年金を他人にとられていた。
 米騒動(1918年、大正7年夏)に参加した在郷軍人は多く、刑事処分を受けた人の
12.1%を占めた。このことに在郷軍人会は驚愕した。工場でのストライキ、そして農村で起こった小作争議でも指導層にも在郷軍人が多かったからだ。騒動や争議は社会不安につながったが、下層民の社会的力量を押し上げもした。在郷軍人は、広く考えると、この下層民の押し上げにも乗っていた。
 在郷軍人という基盤の上に立った在郷軍人会は、当時の組織された民衆としては最大のものであり、普通選挙が実施されたら最大の選挙民になる可能性があった。この大正デモクラシーに対しては、軍全体で、その風潮に対抗する措置がとられた。それほど大正デモクラシーは、在郷軍人にも大きな影響を及ぼした。在郷軍人会自体も民主化に対応しなければならなかった。
 在郷軍人会本部が大正末期につくった悪思想退治のレコードを紹介します。野口雨情の作詞、中山晋平の作曲です。
 狭い心で世の中渡りゃ、マルキシズムにだまされる。マルキシズムにだまされりゃ、可哀想だが心が腐る。
 なんと恐ろしい偏向した歌でしょう・・・。怖いですね。
 日中戦争の大動員が始まると、質的にも量的にも、国防婦人会の役割が急上昇した。出征兵士の見送り行事には決定的な役割を果たし、不可欠の要素となった。
 作戦本位の軍部も、国民の支持に頼らなければならなかった。国防婦人会の見せるパフォーマンスの威力は、日本全国をゆるがせた。これは軍部の予想しなかったことであり、慌てた。
 逆に、在郷軍人は、もはや銃後の構成員とは言えなくなった。大動員によって、在郷軍人会の社会的活動は大幅に後退せざるをえなくなった。
 1937年中に動員された兵士は93万人に達した。現役兵は33万6千人に対して、開戦後の召集兵は59万4千人。これらの召集兵は、充員召集であれ赤紙召集であれ、在郷軍人である。
 日中戦争では、たしかに在郷軍人の大量動員で数量的には在郷軍人が主体となった。しかし、出来上がった形に軍は動揺した。在郷軍人の質が問題だ。特設師団は戦闘主力として使えるのか。未入営補充兵をどのように訓練して戦闘にまにあわせるのか。当惑が渦巻いた。
 特設師団は編成・素質不良にて、訓練の時間なく、幹部の死傷者が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立たないと兵が従わないため。
 日中戦争途中の帰還兵を待っていたのは、きわめて冷たい出迎えだった。派手な出迎えはしない。歓迎会は禁止、楽隊は絶対禁止。軍紀を基準にした言動調査で、盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水をさすような実践談をされては困るのだった・・・。
 戦場の実態について、美談や大和魂でしか伝わっていない国民のなかに、戦場の実態が赤裸々に語られるマイナスが当局の心配事になった。戦場における兵たちの軍紀の乱れを国民に知られないようにする必要があった。
 1941年(昭和16年)の関特演(関東軍特殊演習)による秘密動員については、暗い秘密動員として記憶された。つまり、夜中に誰にも気づかれないように普段着を着て、召集場所に集まるようにとのことだった。この秘密大動員は、軍に士気の衰えを感じさせた。高揚するかと思われた国民の気持ちを萎えさせるように働いたのだった。
 在郷軍人会は、徴兵制を維持し、国民の支持を得るための最大の地域組織だった。
 十分に本書を理解できたという自信はありませんが、読んでいて、とても納得感のある本でした。
(2009年11月刊。2800円+税)

2010年6月 8日

トレイシー

著者:中田整一、出版社:講談社

 日本軍の将兵は捕虜になるな、死ねと教えられてきた。ところが、戦場では「不覚にも」捕虜になる事態が当然ありうる。捕虜になったときに、敵に対していかに対処すべきか教えられたことのなかった日本の将兵は実際にどう対処したのか・・・。本書は、その実情を明らかにしています。要するに、日本の将兵はアメリカ軍の尋問に心を開いて、軍事機密をすべて話していたのでした。
 もちろん、これにはアメリカ軍による盗聴を生かしながら尋問するなど、テクニックの巧妙さにもよります。しかし、それより、無謀な対米作戦の愚かさを自覚したことによる人間として当然の本能的な行動だったのではないかという気がしました。
 つまり、こんな愚かしい戦争は一刻も早く終わらせる必要がある。そのために役立ちたいという心理に元日本兵たちは駆られたのではないでしょうか。
 アメリカ軍は日本の将兵を捕虜にしたあと、カリフォルニア州内の秘密尋問所に閉じこめて、といっても虐待することなく、供述を得ていき、それを戦争と終戦処理に生かしたのでした。
 捕虜たちを一人ずつ直接尋問する。そのあと、他の捕虜たちと自由に交わることを許す部屋に移す。そこには隠しマイクを設置しておき、別室で会話を聴く。捕虜は初対面だと、尋問で経験したことをお互いに話し合い、情報を交換し、それについてコメントする。ただし、盗聴はジュネーブ条約違反なので、厳重に秘匿された。ちなみに、スガモ・プリズンでも、アメリカ軍は盗聴していたとのことです。
 アメリカ軍は日本語を習得する将兵を短期養成につとめた。ただし、海軍は日系アメリカ人を信用せず、白人のみだった。これに対して陸軍は、日系アメリカ人も活用し、終戦のころには、2000人にもなっていた。
 尋問では丁寧語は使わず、なるべく相手に威圧感を与える日本語を使った。勝者と敗者の立場を明確に認識させる必要があった。
 手だれの尋問官であればあるほど、乱暴な尋問は捕虜のプライドを傷つけ、口を閉ざし、かえってマイナスになることを十分に心得ていた。尋問では、侮辱や体罰や脅しはほとんどなされなかった。
 捕虜となった日本の将兵は、自分が捕虜になったことを故郷に通知されることを望まなかった。自らの意思で、祖国や家族との絆を断ち切った。
 トレイシーと名づけられた尋問所に2342人の日本人捕虜がいた。
 太平洋艦隊司令官ニミッツ大将が1943年12月27日にトレイシーを訪問した。その重要性を認識したあと、さらに強化された。
 1945年4月、新国民放送局として、日本へ向けてのラジオ番組が始まった。30分足らずの番組だったようです。こんなトーク番組があったというのは初耳でした。どれだけの日本人が聞いていたのでしょうか、知りたいものです。
 日本人の戦前の実情を知ることのできる、いい本でした。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

2010年4月21日

ノモンハン事件

著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書

 今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
 日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
 1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
 ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
 しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
 航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
 ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
 そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
 こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
 
(2009年8月刊。760円+税)

2010年4月 6日

阿片王

著者 佐野 眞一、 出版 新潮社

 満州そして中国で日本が何をしたのか。そこでうごめき甘い汁を吸っていた人間が戦後の日本で素知らぬ顔で政財界などでのさばっていた、なんていうことを知ると、背筋に虫酸が走ります。つくづく日本って嫌な国だなと思います。そんな史実には目をつぶったらいいんだよというのが、例の自虐史観です……。でも、そんなわけにはいきませんよね。
 生アヘンには、平均8~12%のモルヒネがふくまれ、これが人間の神経を麻痺させて、肉体的苦痛を鎮静させる。アヘン煙膏を吸引すると、モルヒネの麻薬作用で、あたかも桃源郷に遊んでいるかのような幻覚に襲われる。
 ペインは、無色の結晶状のモルヒネを加工し、純度を上げたもの。
 アヘン中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなる。
アヘンが厄介なのは、性欲という人間の本能と分ちがたく結びついていること。アヘン常用者の性交時間の調査によると、最高17時間も陶酔感にひたっていた。その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多かった。
 日本は幕末以来、アヘンを国家の厳重な管理下に置いた。日本がアヘンを禁制品としたのは、亡国に直結する隣の中国のアヘン禍に衝撃を受け、これを反面教師としたから。
 そして、それを承知の上で日本は、アヘンを中国に売り込んでいった。中国の奥地に日の丸の旗が翻っていたが、それはアヘンの商標だった。関東軍が中国の熱河に侵攻したのは、実はアヘン獲得作戦だった。
 日本軍は満州から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、これでペルシャ阿片を輸入した。
 ペルシャ産アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だった。上海には、常に阿片を必要とした人間が人口の3%、実数にして十万人いた。
 里見甫はアヘン取引で莫大な利益を上げ、軍の情報工作に欠くべからざるものとなった。アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、3分の1が南京政府の財務省に、3分の1がアヘン改善局に、残りの3分の1が安済善堂に分配された。
 アヘン王の里見がGHQから起訴されなかったのは、当時の国際状況の生み出したパワーポリティクス力学が複雑に絡んでいる。里見が極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で「戦勝国」中国の阿片との深いかかわりが必然的に明るみに出てくる。そうなると蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石の率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分がアヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。
 アヘン売買は割のいい商売だった。アヘン1両が内蒙古で20円、天津で40円、上海で80円、それがシンガポールでは160円に跳ね上がった。
 日本軍は南京攻略後、南京市財政の立て直しのためにアヘン売買を利用した。そのおかげで、たちまち南京市の財政は好転した。
 里見の前では、東条英機も岸信介も頭が上がらなかった。佐藤栄作も同じで、頭が上がらなかった。うひゃあ、恐ろしいことですね。戦時日本の首相を務めた兄弟が、中国で飽く逆の限りを尽くしたアヘンのおかげを蒙っていたとは……。アヘンは中国の人々をダメにしただけでなく、その経済もめちゃくちゃにしたのですから、責任は極めて重大です。こんな事実を覆い隠そうと言うのは、間違っています。やっぱり、悪いことはきちんと糺されなければいけません。青臭いと言われるかもしれませんが、私は本心からそう思います。皆さんは、どう思いますか?
 440頁もの労作なので、いくらか、冗長すぎる気はしました……。すみません。でも、労作です。

 
(2005年9月刊。1800円+税)

2010年3月24日

軍艦島(上)(下)

著者 韓 水山、 出版 作品社

 崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
 朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
 三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
 端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
 軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
 長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
 長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
 救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。

(2010年1月刊。(2400円+税)×2)

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー