弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年5月 3日

黒田官兵衛

日本史(戦国)


著者  諏訪 勝則 、 出版  中公新書

 滋賀県や岡山県にある黒田氏発祥の地といわれるところは、福岡黒田氏とは関係がないと見られる。
 官兵衛が人質になっていたとき、その子・松寿(長政)の殺害を命じたかどうかは不明である。竹中半兵衛を通じて、黒田家中はしっかり一つにまとまっていると信長に報告がなされ、これを聞いた信長は大いに喜んだと記されている。つまり、信長は黒田家中を信頼しており、松寿(長政)の殺害までは指示していないと推察される。
 秀吉の九州平定過程において、官兵衛は、二度の大きな失敗をしている。一度目は、島津氏を豊後から逃したこと、二度目は豊前国内で一揆を発生してしまったこと。それでも、秀吉から格別のとがめはなかった。
 官兵衛は、高山右辺や蒲生氏郷の勧めによりキリスト教に入信した。そして、領国のある播磨国でキリスト教を広め、秀吉の家臣たちに改宗を促した。官兵衛は、洗礼名をシメオンといった。官兵衛の息子・長政は17歳で洗礼を受け、ダミアンといった。長政の洗礼を官兵衛は大いに喜んだ。
長政は秀吉による禁教令が出てもキリスト教から離れることなく、自分の妻や重臣たちに教えを説き、自分はキリシタンであると公言していた。
 官兵衛は、宣教師にとって非常に力強い存在であり、官兵衛も彼らの要望に対応した。官兵衛は、多くの人々をキリスト教に入信させた。
 ところが、秀吉は官兵衛がキリシタンになったことについて、非常に憤りを感じていた。
 ルイス・フロイスの報告書(1592年10月1日付)によると、秀吉は官兵衛の話をさえぎって言った。
 「おまえは、性懲りもなく伴天連どものことを話すのか。おまえがキリシタンであり、伴天連らに愛情を抱いていたために、私はおまえに与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことが、まだわからないのか」
 官兵衛は、終生、キリシタンであり続けた。高山右辺はキリスト教から離れなかったために処罰された。官兵衛も棄教せず、九州遠征では二度も失敗したのに、秀吉から追求されることがなかった。そして、小田原合戦や朝鮮出兵などで重用された。
 官兵衛は、秀吉の意向にしたがって朝鮮に渡り、豊臣軍のいわば「軍事顧問」として活動した。
 交渉・調整にたけていた官兵衛が音をあげるほど、朝鮮出兵では指揮・統制が混乱していた。官兵衛は、この状態を憂え、秀吉に進言するために参上したが、門前払いにあった。
 しかし、それでも、官兵衛に対して秀吉は格別の処罰は下されなかった。それだけ、秀吉にとって官兵衛は必要不可欠な存在だったのだろう。
 黒田官兵衛が終生キリシタンだったことなど、意外な一面を知ることができました。
(2013年12月刊。780円+税)


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