福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2018年1月 1日

憲法リレーエッセイ 天皇の基本的人権

憲法リレーエッセイ

会員 前田 豊(28期)

1 10年前出た本に、「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか」(大月書店・2006年)という本があります。明仁さんと美智子さんとは天皇陛下と皇后陛下です(以下、敬称を略します。)。

著者は元宮内庁記者(共同通信)のイタさんこと板垣恭介氏。友人からの「そんなモノを書くと殺されるぞ」との忠告をものともせず、今の非人間的な皇室制度は本当に必要なのか、いまこそ国民的な論議を、と問題を投げかけたのが、「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか」という本でした。

2 天皇・皇后を「さん」呼ばわりとはケシカランという方もあるでしょう。でも、京都では昔から天皇を陛下と呼ばず「天皇さん」と呼んでいたと、高坂正尭氏(元京大教授)が書いていました。いまでも、天皇が京都に行くと、「天皇さん、おかえりなさい。」という声が沿道からかかるそうです。「天皇さん」には京都の人の親しみを、また、「明仁さん」には身近に見てきたイタさんの親しみを感じます。

イタさんは、天皇と皇后の人間性に敬愛をこめ、象徴をやめて、ふつうの人間になりませんかという意味で、「皇族やめませんか」というのです。

3 2005年(平成17年)、小泉首相のとき、皇室典範に関する有識者会議は、女性天皇・女系天皇を認める報告書を出しました。

しかし、イタさんは、一人の女性に苦労を負わせて天皇制を存続させるのには反対といいます。

なぜなら、天皇には基本的人権がない。参政権がない。養子が認められていない。戸籍がないから母子手帳もない。皇室会議の議決がなければ婚姻もできない。公務を拒否することもできない。そもそも定年すなわち「生前退位の自由」がない。いま考えなければならないのは、このような人権を認められない制度がこれからも必要なのか、日本人にとっての「天皇」「皇室」とは何かを根源的に問い直すことだというのです。

4 憲法の教科書によれば、選挙権、被選挙権、婚姻の自由、財産権、言論の自由などに対する一定の制約も、天皇の地位の世襲制と職務の特殊性からして合理的とされています(芦辺信喜「憲法第三版」86頁)。

また、皇位継承資格からの女性の排除や皇族身分の性差別的な取扱いが憲法第14条に違反しないかどうか。一般にそもそも憲法が平等原則の例外として世襲を認めている以上違憲とはいえないとして、憲法第14条、24条に違反しないといわれます。

しかし、女性差別撤廃条約第2条をめぐって、女性学の立場から憲法学への批判が提起され、憲法学説でもしだいに女性排除の違憲論が説かれるようになったとされます(辻村みよ子「憲法第二版」207頁)。世襲制を憲法上の例外と解しつつ、世襲制に合理的に伴う差別以外の差別は認められるべきではないとする学説もあります(横田耕一「皇室典範をめぐる諸問題」48巻4号43頁)。

辻村みよ子氏は、世襲原則は当然に性差別を内包するものでない以上、女性排除は、合理的理由のない差別的取扱いであり、女性差別撤廃条約第2条に明白に抵触するとしています(前出・辻村みよ子207頁)。

5 私は、10年前にイタさんの「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか」を読み、おおいに共感しながらも、「なるわけないよなぁ」と思って本棚にしまっておいたのでした。

ところが、明仁天皇が、2016年(平成28年)8月、退位をにじませるビデオレターを公表すると、国民の大多数が賛同し、有識者会議が生前退位妥当の報告を出し、2017年(平成29年)6月9日国会で「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、天皇の意図のとおりに生前退位することになりました。

そして、同年12月1日の皇室会議で、2019年(平成31年)4月30日に退位、同年5月1日に新天皇の即位となることが決定しました。

変われば変わるものです。なるわけないよなぁと思ったことに反して、殺されるぞと忠告されたイタさんの提言がそのとおりになって実現したわけです。

6 振り返ると、1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御し、新天皇が即位しましたが、そのときの雰囲気は異様で、古い時代に戻ったような感じがしました。連日、天皇の下血が何ccあったという報道が続き、重苦しい自粛ムードが広がりました。

崩御の翌日、1月8日には、福岡県弁護士会でも、会館に半旗をあげるかどうかの議論が起きました。しかし、結局、国旗国家法が成立する前であったため半旗はあげませんでした。

7 宮内庁は否定しますが、天皇代替わりの即位式後の大嘗祭では、神が天皇の身に乗り移る秘儀が行われるとされます(折口信夫等)。

すなわち、江上波夫氏によれば、御殿の床に八重畳を敷き、「神」を衾(ふすま。掛け布団のようなもの)でおおって臥せさせ、「天皇」も衾をかぶって臥せ、1時間ほど絶対安静の「物忌み」(汚れを避けること)をする。それで神霊が天皇の身に入り、天皇は霊威あるものとして復活する。地上の人間が神霊を招き、霊的な君主としての資質を身につけて「人間として現れている神」となるというのです(江上波夫「騎馬民族国家」(中公新書231頁))。

これには尾ひれがつき、そのとき、新天皇が前天皇の遺骸と同衾するとの説、新天皇と巫女が同衾するとの説など、種々の説があるとされますが、真実は闇の中で分からないとしかいいようがありません。

明仁天皇の即位式の後の大嘗祭でも、その儀式が行われたと思われますが、実際は不明です。テレビ報道では秘儀を示唆していました。

しかし、国民の総意に基づく象徴天皇制は、このような「人間として現れている神」を観念することとは無縁なはずです。明仁天皇の即位のときは、衆議院の小森龍邦議員が、宮内庁に対して、そのような秘儀を行うのは問題であると質問する主意書を提出しています。

これに対し、生前退位だと、天皇は死亡していないのですから、前の天皇から新天皇に神が乗り移るということは観念しにくくなります。明仁天皇は、生前退位をすることによって、身をもって示そうとしたようにも思えます。2019年の代替わりのときにはどのような儀式が行われるのか、注目したいと思います。

8 それにしても、私たちは、天皇や日本の歴史を知っているようでいて、案外、正当に認識していないのではないかと思います。

とりわけ、魏志倭人伝が伝える卑弥呼や邪馬台国連合の事実(西暦240年前後)、古事記と日本書紀が記述する神話や大和政権の関係、3世紀から6世紀ころにかけて何があったのかということについては、私たちの理解は一貫性を欠き、一元的な理解を困難にしていると言わざるをえません。その原因の一つは、万世一系の天皇制の歴史、日本人と朝鮮半島との関係について、正面から向き合う機会が少ないからではないかと思うことがあります。

この点、韓国の韓流ドラマは、はるかに自由で刺激的です。例えば、新羅の女王を描いた「善徳女王」もそうです。

「善徳女王」の時代は西暦600年から647年ころ、白村江の戦いの前です。朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が覇権を争い、中国では隋が国内を統一し、唐が隋にとって代わり、日本(倭)では推古天皇や聖徳太子が百済と交流し、中国に遣隋使を派遣するころの物語です。

新羅の善徳女王の幼少時代の名前は金徳曼(キム・トンマン)。トンマンは、王に男子がなく双子の女子として生まれたので不吉の前兆として国外追放され、男装しながら朝鮮半島から中国長安を経てタクラマカン砂漠まで逃亡し、ローマまで行けばよかったのに新羅に戻って人心を掌握し、父王の跡を継いで新羅の女王となり、百済と戦うというストーリーです。ユーラシア大陸の東から西へ、西域との交流や遠くヨーロッパのローマまで視野に入れて希有壮大であり、わくわくしながらドラマに引き込まれます。脚色はあるにしても、基本は史実に基づいていると思われます。

隋の使者が新羅に暦を持ってくること、水時計を作って時間を知ることなど、天智天皇が時間を権力の源としたことと共通であり、女帝が登場した点も類似します。新羅は善徳女王と姉の真徳女王、日本は推古天皇、皇極天皇(斉明天皇)、持統天皇が女帝として統治しています。韓流ドラマから日本の同時代が透けて見えます。

日本では、歴史ものといえば多く鎌倉時代、戦国時代、江戸時代に限られ、このような時代設定のドラマには滅多にお目にかからないのが残念です。

9 その白村江の戦い(西暦663年)のころのことです。

私は、高校時代、蘇我蝦夷(そがのえみし)という人の名前がおかしいと思いました。蘇我蝦夷は推古天皇や聖徳太子の時代の豪族で権力者であり、娘を天皇に嫁がせるなど天皇との関係も深い人です。

しかし、蝦夷という名前は東北、北海道の当時の辺境の地域や人を指すはずなので、権力者にふさわしい名前ではないと思ったのです。

最近、蘇我一族は朝鮮半島からの渡来人であるという有力説があることを知りました(水谷千秋「謎の豪族蘇我氏」文春文庫)。満智という人が百済から来て、子孫が韓子、稲目、高麗、馬子、蝦夷、入鹿と続いたというのです。そういえば蝦夷に限らず、韓子、高麗などは渡来人風の名前です。馬子、稲目、入鹿は動植物の名前をつけることで渡来人に限りませんが、これだけ続くと、やっぱり変です。私は、変わった名前は渡来人のせいかと思って疑問が解消したと思いました。しかし、それなら、推古天皇や聖徳太子など天皇の血統にも母方を通して渡来人の血が色濃く入っていることになります。

学説には、満智が朝鮮半島から渡ってきたという記録がないとして、蘇我氏の渡来人説に異を唱える説もあるようです。

10 5~7世紀の日本には、朝鮮半島からの渡来人が続々と渡ってきて、大和朝廷国家に帰化し、色々な技能や知識をもって、古代日本の経済的・文化的発展に非常に貢献したといわれます。集団移民で、同族の長を頭にいただき、東漢(ヤマトノアヤ)氏や秦(ハタ)氏はその代表格で、一説によると、平安時代の文献では、帰化人系統の氏は支配層の3割を占めたといわれています(前出・江上波夫「騎馬民族国家」212頁)。

ちなみに、弥生土器から須恵器に変わるのもそのころで、野焼きでわらの上に土や灰を覆って焼く弥生土器に比べ、新羅、百済からの渡来人が焼成技術を伝え、ロクロを使い、半地下式窖窯(あながま)で1200度以上の高温で焼くようになり、灰青色の固い須恵器の陶器を作ることができるようになりました。

11 西暦645年、蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿は、宮中で、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足に暗殺され、蘇我蝦夷は自害して蘇我一族は滅亡します。かわって、中大兄皇子による大化の改新という名の天皇中心の政治改革が進められます。

西暦660年、朝鮮半島で百済が新羅と唐の連合軍に破れます。

百済は、残党勢力で百済・唐に対抗するとともに、日本へ援軍要請と、百済復興のため、日本に住んでいる百済王子の余豊璋(よ・ほうしょう)を王にするから百済に返してくれと要請します。余豊璋は、百済での政争に敗れ国外追放された後、日本へやってきた王族の一人です。日本にとって、この百済の救援に応じるか否かは国の存続に関わる重大な決断でした。

斉明天皇と中大兄皇子は、余豊璋に兵5000人をつけて百済に送り、阿倍比羅夫等を指揮官とする2万7000人の兵を派遣しますが、西暦663年、白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に破れます。天智天皇となった中大兄皇子は報復を恐れ、北部九州に東国から防人を配置し、百済亡命人を使って対馬に金田城、壱岐に烽火台、太宰府に大野城と水城、基山に基肄城を築き、瀬戸内海に山城を築き、都を難波から近江に移します。対馬、壱岐から「のろし」をあげて敵侵攻を伝え、水城、大野城、基肄城で太宰府を守る作戦だったのでしょう。

それにしても、3万人以上を派遣したのは、百済と日本(倭)との間に単なる同盟軍以上の深い関係があったと考えるべきでしょう。

私は、2000年、対馬弁護士センター勤務のとき、対馬の金田城に行ったことがあります。海から上がってくる低い山の山城で、敵の大軍が押し寄せたらひとたまりもありません。守備を命じられた防人は、死ぬしかないと思われました。ただ、死ぬ前にのろしをあげ、太宰府に敵来襲を知らせ、近江の京に知らせることが使命と知りました。

そう考えると、万葉集の防人の歌には、深い哀しみを感じます。

天智天皇の死後、弟の天武天皇は、大化の改新に沿って天皇制国家を進め、日本の正史を作ることを発起し、死後に「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)が作られます。このとき、神武天皇から持統天皇まで「万世一系の天皇神話」が完成するのです。

12 明仁天皇は、1990年(平成2年)11月の即位式で、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し・・・」と述べられました。明仁天皇にとっては、平和憲法、基本的人権、民主主義と象徴天皇制の憲法を順守することは天皇の使命と思っておられたと思います。

明仁天皇は、2001年(平成3年)12月、68才の誕生日の前日、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本記に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」と述べられました。桓武天皇(794年平安遷都)の母・高野新笠(たかののにいがさ)は百済の渡来人の子孫で、桓武天皇を初め万世一系の天皇は渡来人の血をひいていることになります。

明仁天皇は、2004年(平成6年)10月、秋の園遊会で、都教育委員の米長邦雄氏(将棋元名人)が「日本中の学校で国旗を掲げ国歌を斉唱させることが私の仕事でございます。」と述べたのに対し、すかさず「やはり、強制になるということではないことが望ましい。」と答えられました。憲法遵守の気持ちの表れと思います。

13 天皇制は、国民の問題であり、憲法の問題です。天皇を元首に祭り上げるのは方向が真逆です。人間として解放する方向に議論が向くべきではないかと思います。

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