福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2014年3月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ じのーんちゅの憂鬱

憲法リレーエッセイ

会 員 天 久  泰(59期)

2014年2月1日に福岡市内で行われたある学習会で,「じのーんちゅの憂鬱」とのタイトルで講演をさせていただいた。講演の内容をダイジェストでご紹介し,エッセーに代えたい。

「じのーん」とは,沖縄の方言で「宜野湾」(ぎのわん)のことで,「ちゅ」は「人」。宜野湾は米軍普天間基地を抱える沖縄本島中部の市である。私の実家は普天間基地の滑走路から直線距離で数百メートル。弁護士になるまで宜野湾で育った私は,普天間基地をめぐって「じのーんちゅ」が抱く「憂鬱」は,概ね次のようなものと考える。

軍用機の騒音。墜落に対する恐怖感。米兵が起こす犯罪の理不尽さ。基地雇用や軍用地主という基地経済を巡る住民同士の意見対立。沖縄県外から(ときには県内でも),基地のそばで生活する苦しみや本当の望みを理解してもらえない。政治家は住民,県民のためを思ってくれているのか。何かにつけて問題がすりかえられてしまう。子,孫にこの状況を引き継がなければならないのか。戦争で苦しんだ祖父母,先祖に,きっと平和な島にすると誓ったはずなのに,変えられない無力感。いつになればこの憂鬱から逃れられるのか,という憂鬱感。

唐突だが,私は2004年に司法試験に合格した。その年の8月は,宜野湾市内にある沖縄国際大学の図書館で口述試験に向けて勉強を続けていた。8月13日の午後,大学に普天間基地所属のCH-53型輸送ヘリが墜落した。全長27m,重量10tの大型ヘリが。翌日イラクへ飛ぶ前の最終テスト飛行中の墜落。原因はピン1つの止め忘れという人為的ミス。担当整備士は,毎日17時間連続の勤務を強いられていた。事故時,私は散髪に行き図書館にいなかった。事故を知った私の妹は,私の携帯へ何度も電話をしていた。着信に気付いて大学へ向かうと,周辺道路は大渋滞となっていた。死者の出なかったことだけが救いといえる事故だった。

年間約3万回。普天間基地で軍用機が離着陸を行う回数である。2000年の日米合意では,「日本国内の米軍基地の安全基準と環境保護基準は,日本又はアメリカの国内基準のより厳しい方を適用する」とされた。その「厳しい方」の米国連邦航空法のクリアゾーン規制(滑走路の両端から900m以内には一切建物をあってはならない)に従えば,クリアゾーン内に小学校,児童センター,公民館,保育園,ガソリンスタンドのほか800戸の住宅がある普天間基地は,存在しえない飛行場となる。アメリカの基準ではヘリの旋回訓練は民間地上空では禁じられているが,普天間基地ではそれも守られていない。

宜野湾市の保管する宜野湾市史によれば,普天間基地のある場所は,戦前まで役所や畑がある土地であり,戦後,住民が土地を利用したくてもできなくなった。民間地の中に基地が一方的に居座っているのである。戦後,危険を承知で住民が基地に近づいていったなどという構図はない。

私の母の3人の姉は,沖縄戦の最中に栄養失調などで亡くなった。そのことを話題にすると,「いや,うちの身内にも特攻隊に行った人がいる。沖縄の人だけが被害を声高に叫ぶのはおかしい」と言われたこともある。私は被害自慢,不幸自慢がしたいのではなく,あの戦禍の直後,国民全体がハッと我に返り,心に深く刻んだものを思い出して欲しいと願うだけである。

在沖米軍普天間基地公式HPでは,普天間基地の任務は,「海兵隊総司令官からの指名によりその他の活動や部隊に施設を提供して地上軍支援の為に艦隊海兵部隊航空機運営の支援」を行うことと紹介されている。「海兵隊」とは,上陸作戦,即応展開などを担当する外征専門部隊であり,つまり海外へ行き,小規模紛争や人質奪還のため揚陸,急襲するいわば殴り込み部隊である。周辺国から見て,自国に揚陸,急襲される怖れは感じさせるだろうが,日本への攻撃を躊躇するという意味での抑止力たり得るのかと問いたい。

沖縄米兵少女暴行事(95年)を契機に,政府は最大7年内の普天間基地の全面返還を発表したが,その条件に代替施設としての滑走路を備えたヘリポートの建設を挙げ,97年には名護市辺野古沖が移設候補地とされた。97年には,名護市条例に基づく市民投票で基地建設に反対する票が半数を占めた。
2010年1月の名護市長選挙では辺野古基地建設反対派の稲嶺進氏が当選し,同年9月の名護市議会議員選挙でも反対派が多数になった。11月の沖縄県知事選挙では,再選された仲井真知事も普天間基地の県内移設反対を選挙公約にした。沖縄では,県知事・県議会・名護市長・名護市議会が一体となって,普天間基地の辺野古移設に反対する状況になった。2010年4月には9万人の県民が参加する「普天間飛行場の県内移設反対県民集会」,2012年9月にも10万人が参加する「オスプレイ配備に反対する県民大会」が開催された。
このような流れに逆らって,仲井間知事は2013年の暮れ,辺野古基地建設を容認した。私は,自分の口が開いたまま,このまま塞がらなくなるのではないかと思うほど呆れ,心配し,「憂鬱」の「憂鬱」たる所以を改めて思い知った。

沖縄の古い格言に,「ちゅんかい くるさってー にんだりーしが,ちゅんくるちぇー にんだらん」という言葉がある。直訳すると,「人に酷い目に合わされても眠れるが,人を酷い目に合わせたら眠れない」という意味である。自分の事以上に,人の事を思いやりなさいという教えである。宜野湾市民は,日本の国政,そして沖縄の県政における少数者である。名護市は人口,経済の面でより小規模であり,より少数者的な立場にある。普天間基地を名護に押しつければ,宜野湾市民は間違いなく眠れない。2014年1月19日の名護市長選で基地移設反対派の稲嶺市長が再選され,開いたままとなっていた私の口は少しだけ塞がった。

普天間基地の問題,ひいては基地の問題は,憲法問題,社会問題の縮図である。生命健康について幸福を追求する権利,平和的生存権,居住移転の自由,地方自治と公的交付金の関係性,地方と中央との差別,基地をめぐる利権と社会構造の是非,報道の社会的使命等々。原子力発電所誘致の問題と類似の構造も見える。

少数者の人権が保障されず,意見が最大限尊重されない社会に未来はないと思う。これからも「じのーんちゅ」として声をあげていきたい。

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