福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2011年11月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆「湯上り談義」

憲法リレーエッセイ

会 員 中 野 林 豊 治(13期)

時は1945年秋ぐらいの頃、台湾台北市に居た、小学校6年生の私が体験した珍しい経験について話します。
日本のポツダム宣言受諾による敗戦で、台湾は、当時の蒋介石政権下の中華民国へ返還されることになり、その先遣隊として陳将軍指揮の中国国民軍が進駐してきました。
その頃から、台北市街には、以前には多く見かけていた日本国の憲兵や日本の警察官の姿は、ぱったりと消失したかのように見かけなくなりました。日本の台湾軍の兵たちは兵営内にこもりっ切り、街で見かける日本兵は、丸腰の疲れ切った姿で、話によると兵営を離脱した脱走兵らしいということで、たまに一人、二人見かける程度でした。
しばらくして、中華民国の黄土色の制服を着た警察官が、派出所に駐在するようになりましたが、その直前までの台北市街の生活風景にのぞき見た、日本人、台湾人、中国人を混じえた台北市民社会の「秩序」のことが本題です。
憲法を土台としたあらゆる法現象の中核をなす、「社会秩序」は、「国による統治、権力支配による秩序の維持が欠ければ、当然のことながら、崩壊し乱れることとなる」。これが私の法律を学び始めてからの大前提らしき考えでした。「統治なければ秩序なし」「権力なければ治安なし」の原理ともいえましょう。ところが、私が目にした台北市街の情景は、この大前提原理に反する事態でした。
もちろん日本語は、特別な台湾の人たち専用の例えば、龍山寺市場などを除いて、通用していました。通貨は、台湾銀行(日本側の)発行の銀行券が未だ通用していましたし、商品は、統制経済が打ち切られたこともあって、豊富で価額もはなはだしいインフレではなかったかと記憶しています。
私は、母の番犬のように買物のお伴をさせられていましたが、龍山寺市場をはじめとして、どこへ行っても日本人だからと言って差別されることもなく、自由に買物ができました。むしろ敗戦前よりは、品物も豊富で自由な暮らしができていた様に想います。
もちろん、日本人は職を打ち切られ、次々と引揚げていく順番待ちの様な生活で、経済的にも将来が不安に包まれていたと推測します。
港では、街頭トバクの掛け金を、ピストルをつきつけた元日本兵が奪って逃走した話や、戦時中に、苛酷な取調べをした元日本警察官が、台湾の人たちから吊るし上げを喰って制裁を受けていた話を、伝え聞いたことはありました。それでも、ほとんどの台北市民(日本人、台湾の人々、中国人、若干の韓国義勇軍の人たち、すべて台北の市街で生活を営んでいた人々)は、相変わらず普段どおり市場を介して、生活を営んでいました。
ふしぎに思えて仕方がありません。しかし、一定の文明段階に達した人たちでつくる社会は、一定段階の国家権力が無くても、分業にもとづき、市場を介して商品売買を循環させながら、共同生活を続けていく基礎的な関係にもとづく、経済秩序に支えられた生活秩序を保持することができる現実を目の当たりにしたのです。それが人間の歴史の実態なのかもしれません。私たちの考えや理論には、国家権力による護持があってこそ社会秩序は成り立つといった神話的感覚がこびりついているのかもしれません。ニンゲンとその営む社会、すなおに生きていく仕組みさえ生み出せば、捨てたものではないのかもしれません。きっとそうなのです。もっとニンゲンの築いて来た文明に自信をもってよいのではないでしょうか。
なお、とうとつながら、希望をひとつ。かつて福岡県弁護士会をあげて、未曾有の取組み(会員請求署名を集めて、開催された総会とそこでの決議の歴史過程)を、宮本康昭裁判官再任拒否事件と弁護士、法学者らの取組んだ姿として、どの機会かに、収録しておかないと、関係した方たちが、亡くなっていくとともに風化し兼ねないので、よろしく御配慮いただきたいと念じます。
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