弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2017年3月24日

いのちの終着駅、三菱勝田・大谷坑

(霧山昴)
著者 岩佐 英樹 、 出版  宮木印刷

著者は高校で社会科の教師をしていました。宇美商業高校には社研部があり、その顧問をしていたのです。
社研部に属する高校生たちが、宇美町にあった三菱勝田大谷坑における中国人強制連行、強制労働の実情を掘り起こして研究発表したのでした。
中国人労工352人のうち、87人が死亡した。1年3ヶ月で25%もの死者を出すというのは驚異的な死亡率である。30代で3割、40代で6割、50代では10割、全員が死亡した。労工の平均死亡年齢は、なんと32歳。
ところが雇用主であった三菱鉱業の報告書では、次のように記述されていた。
「会社は戦時中の物資不足時にもかかわらず、食糧、衣服、住居、医療、労働条件、賃金や手当などにおいて可能な限り優遇した。
それは、社内の日本人や朝鮮人から不満が出るほどだった。しかし、中国人労工は、まったく労働意欲のない連中だった。おかげで会社は大変な迷惑を蒙った。多くの死亡者が出たのは、彼らの虚弱病弱な体質に原因があった」
上海で「労工募集」の張り紙が貼りだされたが、それによると、支度金として900円を出発前と到着後に2回支給する。そして、日給は54円から72円。当時、日本の役場の初任給は月に70~80円だったから、破格の好条件である。
仕事がなくて困っている中国人をだまし、近寄ってきたところを拉致して日本へ連行するという「労工狩り」がすすめられた。
この本を読んで驚くのは、中国人労工を働かせて、多くの人を死に追い込んでいる日本企業が戦後になって莫大な補助金を国からもらっているということです。
中国人を強制労働させたために会社は赤字になったので、その赤字を補填してもらいたいといって、35社に600億円(1946年当時のお金で5672万円)が支払われたというのです。信じられません。しかも、この35社は、黒字を出していたのに、赤字だと偽って国から補助金をもらったというのですから、まさしく開いた口がふさがりません。まさしく詐欺です。森友事件よりひどいです。
高校生たちが中国の遺族へ手紙を出したところ、一通だけ届いたとのこと。中国人労工の遺族から返信があったのです。
そして、大谷坑の購買店で働いていた若い日本人女性と親しくなった中国人が戦後、中国へ帰国し、今ではシンガポールで元気に生活している本人から突然、その女性にエアメールが届き、再会したのでした。
歴史を掘り起こすことは大切なことだと実感させられる本でもありました。
(2017年2月刊。1000円+税)

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2017年1月12日

虎徹幻想

(霧山昴)
著者 下里正樹・宮原一雄 、 出版  新日本出版社

 戦前、特高警察のやったことを元特高課長夫妻に取材した結果をレポートした本です。
 取材に応じたのは、元警視庁特別高等警察課長・纐纈弥三(こうけつやぞう)です。
 纐纈は一高から京都帝大法学部に進み、内務省に入った。特高課長を経て、大分県知事などを歴任した。戦後は公職追放となったが、戦犯解除後には自民党の衆議院議員を4期つとめた。3.15と4.16という共産党弾圧の功績に対して、双光旭日勲章が授与されている。 
戦前の特高係員は、刑事訴訟手続きをまったく超越して仕事をしていた。
3.15弾圧のとき、特高課が把握していた共産党員は70人。ところが、1600人も検挙した。その九割までが検挙する必要もない人々だった。
 女性革命家は、性格が強すぎて困った。男とちがって、女性の政治犯はしぶとい。あのしぶとさは閉口させられた。女性はいったん「こうだ」と思い込んだらテコでも動かない。絶対しゃべらないんだ。なだめても、すかしても、脅かしてもダメ・・・。男のほうは比較的簡単だった。ちょっと迫れば、べらべらじゃべるものもいた。なかには、特高にしゃべらなくてもいいことまで、すすんで話すようなサービスのいい男性党員もいた。鍋山貞親もその一人。
 初代の特高部長に纐纈は当然に自分がなるものと考えていたところ、安倍源基が二階級特進して、特高部長となった。この人事は、纐纈にとって、よほど腹にすえかねるものだった。
纐纈は、客のもってきたものは、まず妻君に毒味させ、客が食べたあと、自分が食べるというように用心を重ねていた。妻君は、特高のやったことがひどかったから、恨みを受けて、いつかは夫は誘拐され、仕返しされると恐れていた。
 スパイは、「組織に知られないように頼みます」とか「殺獄しないでほしい」となんども懇願しながら、夫に秘密を守ってくれるように念押しをしていた。
 纐纈は特高課長としての機密費をもっているから、党内情報と引き替えに、お金をスパイに与えていた。纐纈は特高課長をやったことを誇りに思っているけれど、妻の私は、とてもそういう気分にはなれない。特高の家族もまた被害者だということを知ってほしい。
 特高課長の妻であっても、内心では特高のやっていることは、感心できることではないと思っていた。 
特高課長の妻だった女性の告白は、なるほどと思いました。
機密費は、課長分だけで月5百円あった。月給は月百数十円だった。
 スパイの要請なくして共産党対策はない。スパイをつくるためには、党員個人の持つ弱点を徹敵的に研究する。そして狙いをつけた者にじわじわと接近する。ときに、本人の弱点が党の機関に知られておらず、知られるとこっぴどい処分を受けるような弱点にかぎる。
 公安係の子どもとして育った人の話をきいたことがありますが、家庭内がなんとなく暗い雰囲気だったとのこと。子どもに話せないような仕事をしているのですから、それも当然でしょうね。スパイを養成し、スパイを操って党内情報を探るのを一生の仕事にしている人の人生って、どれだけの価値があるのでしょうか・・・。お天道様の下を堂々とあるけるほうが、よほどいいですよね。
 生前の特高警察の実態を暴いた貴重な本です。


(1991年1月刊。1800円+税)

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2016年12月29日

炭坑美人

(霧山昴)
著者 田嶋 雅己 、 出版  築地書館

 1987年から1991年にかけて、筑豊中を著者が駆けめぐって、元女坑夫だった150人ものお婆ちゃんたちを取材した本です。そのほとんどが顔写真を撮らせてくれたので、坑夫生活の様子が顔写真とともに紹介されています。炭坑美人と銘うった本になっている所以です。
 筑豊に炭坑が栄えるようになったのは、明治20年代から30年代にかけてのこと。もちろん戦後まで続いた。この100年間に掘り出された石炭は8億7000万ドルに達する。
赤い煙突目あてにゆけば、米のまんまがあばれ食い
当時の採炭はツルハシを使って石炭を掘る、男の「先ヤマ」と、その「先ヤマ」によって掘り出された石炭をスラと呼ばれるソリ状の箱やテボ・セナといった、竹でできた籠を使って運びだす「後ろ向き(あとむき)」を、もっとも小さな単位として成り立っていた。
闇夜よりもまだ暗い、真っ暗闇に下がった女坑夫の多くは、この「後向き」と呼ばれる労働に従事した。
女坑夫たちは、早ければ9歳から、15歳になれば公然と坑内に下がって働いていた。
 戦争が終わって、アメリカの時代になって女ごは坑内に下がることがでけんごとなった。ワシは喜んだばい。もう、これで明日から坑内に下がらんでいいと思うてね。そいき、日本は戦争に負けて本当に良かった。女ごは坑内なん下がっちゃあならん。
私も一度だけ、たった一度だけですが、炭坑の坑内に下がったことがあります。海底深くの切羽(きりは)までたどり着くのに1時間以上もかかりました。坑内電車に乗り、マンベルト(ベルトコンベアーに人間が座れるようになっています)に乗って、徒歩で真っ暗闇のなかを歩いていくのです。漆黒の闇です。もちろん、頭上にはキャップランプがついているので、行く先だけはなんとか見えるのですが、深い闇の中に入っていくのは本当に怖いものです。一度で私はこりごりしました。
 それでも、坑内は夏は涼しいし、冬は温(ぬく)い。慣れてしまえば、坑内ほど、いやすいところはないとたい。三日間、坑内にずっといたこともある。
一度は天井がバレて、2日ぐらい閉じ込められたこともあった。坑内では函がどまぐれてペチャンコになって死んだ人もおりなすった。そんなのは、よう見るくさ。恐ろしかったら坑内には下がられん。人が死んだ現場の横で明けの朝には炭を掘らんとやからね。
 ボロクソに怒られながら、地の底で虫ゲラのごとく働いていて、本当に情けない。坑内は暗い。いくら泣いても涙も分からない。涙と汗と炭塵で体中が真っ暗になる。上半身は裸なので、もうとても女の姿なんかじゃない。
 朝鮮人は何の訓練もなしに働かされていた。入坑するのも風呂に入るにも見張りがついていた。耐えかねて逃げ出しても、たいていは捕まる。すると、全員が見ている前で、ビシビシ叩いて水をザブザブかける。見せしめにするため。
 坑内では、男はもうヘコも何もせん。みんなフリ出しばい。娘たちはズロースだけは履いちょったばってん、オバサンたちなん、なんもはいちょらん。下から見れば、まるっきり見えるとやき。そげなふうで、昔は、みーんな裸。スッポンポン。そいで、シモの話ばっかりしよるきなぁ。坑内下がっとるときは面白かったよ。笑うげなことばっかしたい。
生理のときも休まず働いていた。
戦前の筑豊の炭鉱の驚くほど生々しい実態がよくぞ紹介されている、貴重な聴き取り集です。


(2000年10月刊。2500円+税)

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2016年12月25日

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち

(霧山昴)
著者 小野賢二・藤原彰・本多勝一 、 出版  大月書店

 1937年(昭和12年)12月、日本軍は激しい南京攻略戦のあと、投降してきた中国軍兵1万5000人を捕虜として国際法に定められた処遇をすることなく、揚子江岸で12月16、17の二日間で殺害した。それは、2ヶ所で3分割して行われたとみられる。
 抵抗できない捕虜集団を機関銃で一斉掃射を操り返して皆ごろしにしたあと、遺体を石油をかけて焼却し、揚子江に流した。
このとき関わった日本軍の将兵の陣中日記が掘り起こされ、活字になったのが本書です。いかにもむごい内容が、小さな手帳などに刻明に、また淡々と書き込まれています。
 この日誌をつけていたのは、南京占領直後に捕虜の大量殺害を行った第十三師団の山田支隊に属していた下級将校と兵士たち。第十三師団は日中全面戦争に拡大した1937年9月に動員が下冷され、新しく編成された特設師団。
特設師団とは、平時から常備兵力として設置されている常設師団にたいするもの。
山田支隊は、歩兵第百三旅団長・山田少将の率いる歩兵三大隊、山砲兵一大隊を基幹とする部隊。歩兵は、会津若松で編成された歩兵六十五連隊、山砲兵は越後高田で編成された山砲兵第十九連隊の三大隊だった。兵士の大部分は現役満期後5年から15年も過ぎた30代の後備兵が主体だった。
特設師団が中国へ動員されたのは、上海戦における中国軍の抵抗が激しく、日本軍が思いもかけない苦戦を強いられたから。上海付近の中国軍は、堅固な陣地に拠り、抗戦の意識に燃えて果敢に戦った。
 たしか、このとき、中国軍はドイツ軍の兵器を供給され、ドイツの軍事顧問国による指導を受けていたと思います。
そのため、日本軍には死傷者が続出し、砲弾まで不足してしまった。そこで、日本軍は急遽、兵力増派に踏み切った。
後備兵が30代ということは、すでに結婚して3人とか4人の子どもがいて、一家の中心となっている人たちだった。師団の将校も幹部候補生出身の予備将校であった。
 上海戦での日本軍の損害は甚大であったから、各部隊とも多数の補充を必要とした。このため、次々に補充兵が各部隊ごとに送られていった。
江南の広い地域に、部隊を追いかける補充兵の集団がなだれのように進んでいった。寄せ集めの補充兵たちを先任の引率者が引き連れていく。さらに、南京への進撃が急なため、後方補給の準備はほとんどなく、兵站(へいたん)線がきちんと確保されてはいなかった。そのため、補充兵の集団は、それぞれ食料の現地微発をくり返しながら進んでいった。これも、掠奪、暴行、強姦などの蛮行を起こしやすい原因となった。
家族を愛し平凡な日常生活を送っていた農民や市民が侵略戦争の最前線に立たされ、微発と捕虜殺害を繰り返していく中で、いつのまにか残虐行為に手を下すことに何のためらいも感じなくなっていた。
 下級将校や兵士の日記のほうが高級指揮官や参謀の日誌よりも、よほど信用できる。というのは、高級指揮官や参謀の書いたものには自己顕示欲にあふれているものが多い。それに対して、他人の目を気にせずに書かれた将兵の日誌の方が、よほど信用できる。
 日本人は、昔から活字が大好きで(文盲は、戦前もごくわずか)、日記をつけるのも大好きです。私も、小学4年生のころの絵日記帳を今も「宝」のように大事にして残しています。
 「12月16日、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
 12月17日、2万以上のこととて、ついに大失態にあい、友軍にも多数死傷者を出してしまった」
 「12月17日、夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。
 一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」
 「12月18日、 昨夜までに殺した捕虜は約2万。揚子江岸に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。
 12月19日、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼い たため、悪臭はなはだし」
 「12月16日、捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し射殺する」
 「12月16日 捕虜、三大隊で三千名を揚子江岸にて銃殺する」
 捕虜となった中国軍の代表から、書面が届けられたこと、それを転記した少将がいました。投降軍の臨時代表は、4日以上も我々はひもじいい思いをしている。故郷に返してほしいと願っています。
日本軍は、捕虜に与える食糧を持っていませんでした。この日記を読めば、南京大虐殺が幻とか嘘だったなど、絶対に言えません。
 日本軍の将兵は日本に帰ってきたとき、自分の書いた日記もちゃんと持ち帰っていたのですね。大変貴重な記録集です。
私たち現代の日本人も、自分がやったことではないとウソぶいて戦前(戦中)の日本軍のした蛮行から目をそらすわけにはいきません、負の遺産もきちんと受け継ぐことが、明日の平和を確保することにつながるのです。
 
(1996年3月刊。582円+税)

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2016年12月 2日

元老

(霧山昴)
著者 伊藤 之雄 、 出版  中公新書

元老というコトバは、現代日本では死後同然ですが、なんとなく意味するものが今の私たちにも想像できます。
元老とは、紀元前9世紀から前7世紀の中国の古典にみられる年齢・名望・官位の高い長老といった一般的用語が、近代に入って特別な制度をあらわすのに使われるようになったコトバ。その由来や制度形成の過程は曖昧である。
桂太郎を元老とするのは誤りである。元老は元勲とは異なる。
1989年(明治31年)の1年間で、元老は名実ともに確立し、一般にも認識されるようになった。
明治天皇は、21歳になった1874年でも、表の政治に影響力を及ぼすことはできなかった。明治天皇は30歳代前半になっても表の政治に影響力を振るうことを許されなかった。
西南戦争は、大久保体制の下で戦われた。その大久保は、1878年(明治11年)5月14日、47歳で暗殺されてしまった。そのあとを継いだのが伊藤博文で、36歳だった。
伊藤博文は、人に好かれる気さくで飾らない人柄だった。藩閥にこだわらず、長期的なヴィジョンをもって日本の立憲国家の形成を目指して、現実的に問題を処理する能力があると他のリーダーたちに認められた。
伊藤は足軽出身だったが右大臣になった。破格の待遇だった。藩閥中枢8人のなかで、伊藤が飛び抜けて地位が高く、山県、黒田と続き、かなり離れて井上、そして松方という序列だった。これは、明治天皇がこの5人の屋敷に行奉した順番や時期から分かる。
1887年(明治20年)に、伊藤に対する批判が強まっても、天皇は信頼する伊藤の辞任を許さなかった。天皇と皇后は、新しくできる憲法のなかでの自分の役割を理解し、かつ伊藤への揺るぎない信頼をもつようになった。憲法のなかでの自分の役割を確信した明治天皇は、大久保利通のあとを継いで伊藤が国政の根幹をつくり、さらに帝国主義や皇室典範を制定したことを高く評価した。そこで、臣下に与える勲章そして、それまでの旭日大綬章という勲章を制定して伊藤のみに与えた。
伊藤のバランスのとれた知識と判断力を信頼し、明治天皇は日清戦争の終了までの間、文官の伊藤に対し、非軍事・軍事にかかわらず、重要問題の下問をしばしば行った。
大津事件が起きたとき、大国ロシアと戦争になるのではないかという恐怖が日本国中に走った。この大津事件に際して、明治天皇への助言者としての主導権は、松方首相以下の閣僚にはなく、断然、伊藤にあった。
初期の議会において、政党にどのように対応するかをめぐり、藩閥内が大きく亀裂したため、元老が形成された。
1903年(明治36年)ころまでには、元老は、後継首相の推薦に関わる慣例的なポストという意味と、特定の分野の最高権力者・実力者の意味で使われるようになった。
日清戦争後、伊藤が政党に接近するのに反発した藩閥官僚たちは、反政党の姿勢を明確にし、陸軍への影響力を保持していた山県に接近していき、山県が台頭していった。
伊藤が政友会を創設したことは、山県らには許しがたいことだった。
元老の一人である西郷従道は、度胸があって決断力のある人柄で、海外体験と外国語能力に裏打ちされた幅広い視野をもった人物である。ところが、兄隆盛と対決して死なせてしまったことを負い目とし、海相以上の晴れがましい地位には、決して就こうとしなかった。
日露戦争後に元老は権力を衰退させていったが、伊藤はそのなかで明治天皇の信任を背景として、もっとも高い地位にあり続けた。天皇は、伊藤を山県より上であると公然と位置づけた。天皇は、伊藤が韓国統監を引退した日に勅語を与え、10万円(今の14億円)を下賜した。伊藤が暗殺されたときの国葬も天皇の意思で決められた。
桂太郎は、元老たちから元老として扱われず、まもなく政治的に失脚して死去した。桂は元老になることができなかった。
大正天皇の時代、山県ら元老たちの行動に公共性がなく、権力の正当性がないと国民がみるようになったことで、元老の高齢化に伴い、政治的実力は低下し、政党が台頭するなかで、法的根拠のない元老の正当性が問われるようになった。
日本の元老制度の実態がよく分かる本です。
(2016年6月刊。880円+税)

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2016年11月29日

戦場の天使

(霧山昴)
著者 浜畑 賢吉 、 出版  角川春樹事務所

戦争中、動物園にいた動物たちの多くが殺されてしまいました。毒入りのエサを警戒して食べない動物は餓死させられたそうです。人間だってろくに食べられない状況では、飼っている動物にやるエサがない。空襲にあってオリが壊されて猛獣が市街地に出ていったら大変。そんな人間の身勝手が罪のない動物たちを次々に殺していったのです。
この本は、上野動物園に飼われていたヒョウが高知市にある科学図書館におさめられたヒョウのはく製になった由来を紹介しています。このヒョモもまた、戦争の犠牲者なのです。
「戦場の天使」とはヒョウのこと。なんでヒョウが「天使」なのか・・・。
高知県出身者から成る日本軍の部隊が、中国の揚上江中流域にある湖北省陽新県に派遣され、駐屯していた。
ある日、「敵兵見ゆ」の情報で山中に出動すると、「敵兵」の正体は、なんとヒョウ。
ヒョウは、人間の赤ん坊を襲っていた。そこで、ヒョウ退治に出かけた日本軍の兵士が、なんとヒョウの赤ちゃんを2頭も救出してしまった。さあ、大変。ヒョウの赤ちゃんを助けるのか、助かるのか・・・。
生肉を与えると、ヒョウの赤ちゃんは元気を取り戻して生きのびた。
部隊では愛犬ならぬ愛ヒョウとして、兵士みんなに可愛がられる人気者となった。
ヒョウは「ハチ」と名づけられ、愛情一杯で育てられて大きくなった。決して人間は襲わない。しかし、ヒョウの本能を失ったわけでもない。部隊の斤候の役割も果たした。
ヒョウも兵隊も楽しい時期は過ぎていき、部隊は転進することになった。
人間に飼われていたヒョウは、自分のことを人間と思っているので、自然の中へは返せない。かといって、見知らぬ人間社会に野放しするわけにはいかない。そこで考えついたのが、日本の動物園へ送って預けること。
そうやって、中国のヒョウが東京は上野動物園におさまったのです。
そして、東京が空襲にあうようになり、ついに毒殺されてしまったのでした。
人間だって、次々に殺されていったのが当時の世の中です。ヒョウが毒殺されたのはやむをえなかったでしょう。やっぱり戦争が良くなかったんだ。そう思いました。
この本は小学高学年から中学生に向けていますので、漢字にはすべてルビが振ってあります。そんなルビが気にならないほど、思わず惹きこまれました。大人が読んでも考えさせられる本になっています。
(2003年8月刊。1300円+税)

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2016年11月10日

「南京事件」を調査せよ

(霧山昴)
著者 清水 潔、 出版  文芸春秋

「南京事件」について、今も「幻」だったとか、「日本軍が虐殺なんてするはずがない」として否定する人がいますが、信じられません。最近亡くなった三笠宮は、日本軍が南京で大虐殺したことを再三にわたって明らかにしています。
この本は、最近、日本テレビがNNNドキュメントとして放映したテレビ番組の苦労話をまとめたものです。マスメディアがこうやって勇気をもって真実を掘り起こしたことを私は高く評価したいと思います。NHKにも、ぜひ別な角度から迫った番組をつくってほしいものです。
問題は被害者の人数が20万人か30万人かではありません。南京事件は一日だけの戦闘行為ではないのです。
その現場は南京錠内や中心部だけではない。南京周辺の広範囲の地域で起きている。時期も6週間から数ヶ月という期間だ。
「当時20万人しかいなかった南京市街」などという限定はまったく意味がない。日本軍は、長崎から飛行機20機を飛ばして、連日、爆弾を投下していた。そのとき「邦人保護」という説明は無理。
この番組(本)では、南京での虐殺現場にいた福島出身の上等兵の日記を紹介しています。そして、その日記を他の兵士の日記などで裏付けているのです。
これを読んで「大虐殺が幻だった」などという人は、ただ真実をみたくないというだけです。
(1937年)12月16日 2、3日前に捕虜にした支那兵の一部5000名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺する。そのあと、銃剣にて思う存分に突刺す。自分も、このときとばかり憎き支那兵を30人も突刺したことであろう。
次は、別の少尉の陣中日記。
12月16日。捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
さらに、別の少尉の陣中日記。
12月16日。捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し、射殺する。
別の伍長の出征日誌。
12月16日。2万の捕虜のうち3分の1、7千人を今日、揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する。
別の二等兵の戦闘日誌。
12月16日。捕虜三大隊で3千名、揚子江岸にて銃殺する。
別の伍長の陣中日記。
12月16日、捕いたる敵兵約7千人を銃殺す。揚子江岸壁も、一時、死人の山となる。
そして、12月16日だけではなく、翌12月17日にも捕虜虐殺は続いている。
日本軍は中国軍を捕虜にしたものの、水も食料も与えることが出来ずに困った。日本軍自身が十分な食料を持っていなかったから、困ったのは当然だった。それで、捕虜を虐殺し、その死体は揚子江に流した。死体を埋めたわけではない。
南京城内の「安全区」の人口は十数万人だったかもしれないが、南京周辺は100万人ほどの人口となっていた。
この本を読むと、今の日本では歴史の真実を語ることに大変な難しさがあること、しかし、それを私たちは乗りこえなければいけないことを痛感します。その点、マスコミ人々は、とりわけNHKで働く人々は、もっと勇気をもって行動していただくよう期待します。
私は残念ながらテレビ番組自体は見ていません。そんな人には、とりわけ一読をおすすめします。
この番組にサンケイ新聞が「幻」の立場からケチをつけているとのこと。信じられません。真実から目をそらしたジャーナリズムって、いったい何なのでしょうか・・・。
(2016年9月刊。1500円+税)

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2016年11月 2日

大元師と皇族軍人

(霧山昴)
著者 小田部 雄次、 出版  吉川弘文館

昭和天皇は戦争遂行と密接に関わっていた。何も知らなかったとか軍部にだまされていたというのは事実に反する。昭和天皇は、当時もっとも多くの情報を得ていた。戦争の大きな流れも、現地の戦闘情況もおおむね報告されて知っていて、それらに指示も与えていた。
昭和天皇こそが戦争指導の指揮権を握っていたのであり、ときに軍部を叱責することがあった。とはいえ、昭和天皇は、はじめから計画的に世界征服を考える侵略主義者でもなかった。むしろ、英米と協調しながら軍縮や戦争放棄への道を目ざした時期もあった。
昭和天皇は、学習院初等学科5年生、11歳のときに陸海軍少尉となった。しかし、士官学校も海軍兵学校も経験しなかった裕仁(ひろひと)の軍事的技能は一般の職業軍人と比べて優秀であったとはいいがたい。
昭和天皇はヨーロッパに行ったとき、第一次世界大戦の激戦地の跡に立って自らの目で確かめた。まずは世界戦争の惨禍を心に焼き付けた。
 ヨーロッパ旅行から帰って以降、昭和天皇はベットにじゅうたん、イス式の生活で統一し、和服は一切着なかった。晩餐会では、軍服ではなく、モーニングか燕尾服にした。そして側室制度を廃した。子どもたちは、みな本当に皇后が産んだようです。
 昭和天皇は憲法順守と国際協調を重視し、軍の革新運動には好意的ではなかった。そのことが、かえって軍部や民間右翼に「君側(くんそく)の奸(かん)」論による側近攻撃を活性化させ、以後のテロ・クーデター事件を誘発したとも言える。
 昭和天皇の弟たちは、陸軍士官学校、海軍兵学校に入り、相応の勉学と訓練を重ねて、卒業後に少佐となり、さらに現場で勤務しながら順次、佐官、将官となっていった。
 1928年に起きた張作霖爆殺事件の処理をめぐって、昭和天皇の政治的・軍事的判断はしばしば軽視された。そのことから昭和天皇は軍部と政治への対応に苦慮した。
 また、1930年の軍縮条約のときに、軍部の艦隊派は31歳の昭和天皇を軽んじる動きをみせた。1931年の満州事変の勃発に際しても、昭和天皇の許可なく朝鮮軍が独断で出兵した。
 結局、昭和天皇は、最終的には、軍のつくった既成事実を追認してしまった。
軍は、自らの「野心」を遂げるため、昭和天皇の「寛容さ」にも利用していった。
皇族たちは参謀総長や軍令部長になり、「キングの側」に立って軍を抑えるというより、政治活性化した軍に利用されることで、それぞれ陸軍や海軍の意向を直接に天皇に上奏する立場となった。
皇族軍人たちは、政治的に台頭する軍部や右翼に担がれ、かつ皇族自身も自らの見解を政治や軍事に反映させようとするようになっていた。そのことが軍部や右翼の非合法活動をさらに増長させ、ついには二・二六事件を引き起こしたと言えなくもない。
 昭和天皇と、それを取り巻く皇族たちの動きが軍部との関係が深く分析されていて大変興味深い内容でした。
 天皇を表看板に出して、実は軍部が天皇を軽んじて独走していたこと、昭和天皇といえども、軍の暴走を止めることが出来なかった(まったく出来なかったわけではないのでしょうが・・・)ことがよく分かる本です。


(2016年7月刊。1900円+税)

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2016年10月10日

古文書の語る日本史(7)

(霧山昴)
著者  林 英夫 、 出版  筑摩書房

 江戸時代の文書がよく保存されていることに驚かされます。もちろん戦災にあって焼けたのもたくさんあるとは思いますが・・・。日本人が昔から書くことを大切にしてきたこと、識字率が高かったことを反映していると思います。
先日の映画『殿、利息でござる』は仙台藩のなかでの実話にもとづいていることを紹介しました。この本にも、似たような話が出ています。
尾張国でのこと。村内の有力者を語らって金銭を集め、貧民に支給するという「民恵銭(みんけいせん)」運動が実践された。言葉だけでなく、「恵(めぐみ)」(金銭)を支給して貧民を救済することが先決であることを村内の高持(たかもち)層に説き、毎月の集金積立をもって、天明元年(1781年)10月から80人の貧者に頭(かしら)百姓16人の出金と、67人の貸主の利子捨(すて)のもとに76両1分と890文の基金からスタートして、救い方を実践した。
 また、天明2年からは、木曽川の修築事業を「自普請」と称して村々の篤志家の協力を得て、いわば「民力」による改修事業をしている。それは窮民に職を与え、なんらかに日雇賃銭を得されるために、篤志家たちを集め、貧窮する農民たちに篤志者みずから賃銭を支給して人を集め、普請場に行って改修作業に参加することだった。普請場に2千余人の人々が集まり、にぎにぎしい「御冥加普請」がなされた。そこに藩主宗睦も鷹狩に託して工事現場にやってきて、床几に腰をおろし、責任者に酒をやった。
いやはや、まるで先の映画の世界です。すごいことをしていたのですね・・・。
 一揆のときにも「扱い人」と称する仲裁・調停人が仲介して紛争を収拾したという話も紹介されています。江戸時代というのは、まことに奥の深い社会だったようです。単に暗黒時代として忘れ去るべきではありません。本棚にあった古い本を読み返しました。
(1989年10月刊。3300円+税)

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2016年10月 5日

戦争まで

(霧山昴)
著者 加藤 陽子、 出版  朝日出版社

 30人ほどの中高年に向けて、大学教授が日本が対米戦争に踏み切るまでの経緯を問答形式をとり入れながら語っている面白い本です。心と頭の若くて柔らかい中高生時代をとっくに過ぎた私ですが、最後まで面白く読み通しました。
話を聴いていて、ときにある著者からの問いかけに対する中高生の答えの素晴らしさは声も出ませんでした。これって、ヤラセじゃないのと、つい頭の固いおじさんは疑いたくなるほど見事な回答なのです。
戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。
戦争は、相手国と自国とのあいだで、必ず不退転の決意で守らなければならないような原則をめぐって争われている。相手国の社会の基本を成り立たせてる基本的な秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ。
天皇は2015年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞において、戦後の日本の平和と繁栄を築いたものは、「平和の存続を切望する」国民意識と国民の努力によると語った。
この点、私もまったく同感です。安倍首相の言葉には、まったく欠落している視点です。
1931年9月の満州事変のあと、国際連盟は現地にリットン調査団を派遣した。そして、翌1932年10月にリットン報告を発表した。
日本側は、中国国内の国共対立、日本製品ボイコットの実情をリットン調査団に見せようとした。必ずしも日本の不利になるとは考えていなかった。
リットン報告書は、日本軍の軍事行為は自衛の措置とは認められない。満州国は日本のカイライ国家であり、現地の人々の支持を受けていない。日本製品ボイコットは国民党政府が組織したもの。この三つが持論だった。
リットン報告書は、十分過ぎるほど、日本側に配慮していた。そして、中国側はこの報告書に不満だった。つまり、リットン報告書は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざま工夫したものだった。
戦前の日本の外交・軍事の暗号がアメリカ軍にあって解読されていたことは、有名です。山本五十六元帥も、そのため撃墜されてしまいました。ところが、この本によると、日本側もアメリカの外交電報の9割は解読していたというのです。
アメリカほどではないにしても、かなり高い解読能力を有していた。これは、ちっとも知りませんでした。
戦争が、相手国の権力の正統性原理への攻撃であったとすれば、その攻撃の為に敗北し、憲法を書き換えられることとなった当事者である日本人として、戦争それ自体の全貌をちゃんと分かっていなければならない。しかし、沖縄を例外として、戦場が主として海外であったこと、戦争の最終盤があまりにも悲惨だったことで、日本人は戦争を正視するのが、なかなか難しかった。
飛耳長目の道。あたかも耳に翼が生え、遠くに飛んでいって聞いているように、自国にいながら他国のことを理解することであり、また、あたかも望遠鏡のように遠くを見通せる「長い目」で眺めるように、現在に生きながら昔のことを理解できること、という意味。つまり、自国にいながら他国にことを理解し、現在に生きながら昔のことを理解するのが学問であり、その極めつけが歴史なのだ。
中高生を目の前にして戦前の日本を振り返ると、話すほうにも得られるものが大きい。このように書かれています。なるほど、そのとおりだろうと、この本を読んで思いました。
巻末に参加した中高生全員の氏名が学校名とともに紹介されています。すごい子たちです。日本も、まだまだ見捨てたものではありません。
(2016年8月刊。1700円+税)

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