弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2017年10月19日

「飽食した悪魔」の戦後


(霧山昴)
著者 加藤 哲郎 、 出版  花伝社

七三一部隊の中心部分は石井四郎をはじめとして終戦直前に満州から大量のデータと資材・金員とともに日本へ帰国し、部隊として存続していた。このことを初めて知りました。
そして末端の隊員には厳重な箝口令を敷いて軍人恩給も受けられないようにしながら、自分たちは大金をもとにのうのうと暮らし、多額の年金をもらっていたのです。そのうえ、アメリカ占領軍と裏取引して、人体実験のデータをアメリカに提供するかわりに戦犯として訴追されないという免責保証を得ていました。
こんな「悪」が栄えていいものでしょうか・・・。本当に疑問です。
1936年、軍令により関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立された。飛行場、神社、プールまである巨大な施設で、冷暖房完備の近代的施設をもち、監獄を付設して、少なくとも3000人を「実験」により殺した。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。
日本軍に抵抗したとして捕えた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などを人体実験のために収容し、囚人はマルタと呼んだ。憲兵・警察が容疑者を七三一部隊に移送してくるのを特移(特別移送扱い)と呼び、憲兵は特移を増やせば出世していった。その一人が伊東静子弁護士の父親で、44人を七三一部隊に特移扱いで送ったのです。
終戦時、残っていた400人の囚人を全員殺して遺体は燃やし、その灰は川に投げこんだ。
戦後、石井四郎は戦犯として追及されるのを恐れて、故郷の千葉では病死したとして偽の葬式までした。実際には、自宅をアメリカ兵相手の売春宿にして、ひっそり暮らしていたが1959年に67歳でガンによって死亡した。
七三一部隊が人体実験そして細菌戦を実際にやっていた事実が明るみに出ると、ジュネーブ議定書違反で問題となるだけでなく、七三一部隊を設立し動かしていた陸軍中央、それを承認していた昭和天皇の戦争責任問題にまで及ぶ危険があった。
七三一部隊について、関東軍参謀の担当は昭和天皇のいとこである竹田宮恒徳王であり、天皇の弟である秩父宮や三笠宮も視察に来ていた。昭和天皇は七三一部隊の存在を知り、中国での細菌戦を承認していたとみるのが自然である。
七三一部隊は終戦のころには、一方でペストノミを増産して最後の手段として「貧者の核兵器」を準備していたが、他方では敗戦時の証拠隠滅・部隊解体の準備もすすめていた。
七三一部隊の本部勤務員1300人の大部分は8月15日の前に満州から姿を消した。そして、日本本土で七三一部隊はよみがえることになった。七三一部隊の仮本部が置かれたのは金沢市の野間神社だった。
七三一部隊は満州から日本へ膨大な物資を運び込んだ。武器・弾薬や医薬品・実験機器・データ・研究書籍、そして現金・貴金属・証券類・・・。数千人分の寝具・夏冬衣料・携帯食料・工具・日用品もあった。
いったい、それらはどこへ行ったのでしょうか・・・。
七三一部隊は8月15日のあとに命からがら日本へ逃げ帰ってきたと考えていたのですが、まったく違いました。幹部連中は日本に戻ってからも引き続き給料までもらっていたとのこと、信じられません。
細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が8000枚も日本に持ち帰ってきていて、寺に隠したり、山中に埋められた。アメリカは、そのような貴重なデータを25万円(今日の2500万円相当)で買い取り、また、七三一部隊員の戦争責任を免除した。
石井四郎の隠匿資金は年間2000万円(現在の価値で20億円)とみられている。
七三一部隊の出身者たちが日本ブラッドバンクを設立し、のちにミドリ十字社となった。薬害エイズをひきおこした製薬会社である。
法曹界(とりわけ裁判所)で戦争責任が厳しく追及されているわけではありませんが、医学界ではもっと重大な戦争責任を問われるべき医師・医学者たちが出世していき、医師の世界に君臨していたようです。ひどいものです。
400頁もある貴重な大作です。戦前の日本人が中国大陸で実際に何をしたのか、忘れてよいはずがありません。これに「自虐史観」なんていう下劣なレッテルを貼るのはやめてください。
(2017年5月刊。3500円+税)

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2017年10月 6日

日中戦争全史(下)


(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研

1938年1月の大本営政府連絡会議において、陸軍の参謀本部は中国との長期泥沼戦に突入するのを阻止しようとした。なぜか・・・。
このころ日本陸軍は、3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死傷者4万人という大損害を蒙っていた。それ以上に戦病者も膨大だった。南京攻略戦に20万人の陸軍を投入し、「首都南京を占領すれば中国は屈服する」はずだったのに、失敗してしまった。ゴールの見えない長期戦・消耗戦に、陸軍はこれ以上の負担と犠牲を蒙るのを回避しようとしたのである。
これに対して海軍首脳は、日本という国の運命より、日中戦争に乗じて海軍臨時軍事費を存分につかって、仮想敵のアメリカ海軍・空軍に勝てる艦隊戦力と航空兵力をいかに構築するのかばかりが関心事だった。本当に無責任きわまりありません。海軍は平和派なんて、真っ赤なウソなのです。
1938年末、日本の動員兵力は陸軍で113万人、海軍で16万人、合計129万人。このうち中国に派遣されたのは関東軍をふくめて96万人に達していた。
1939年7月のノモンハン戦争において日本軍は圧倒的な近代兵器を大量に駆使するソ連赤軍に惨敗してしまった。戦死傷者は2万人近い。
敗戦の責任をとって関東軍のトップは更迭された。ところが強硬論によって関東軍を泥沼の苦戦に引きずり込んだ作戦参謀の服部卓四郎中佐や辻政信少佐は、やがて東京の参謀本部の作戦課長、作戦班長に就任し、アジア太平洋戦争開戦の推進者となった。
まことに無責任な軍幹部たちです。そして、服部卓四郎は戦後は戦史研究者として長生きしています。この服部史観は海軍を擁護する俗説を広めました。
1940年8月、八路軍が百団大戦を開始した。このころ、八路軍・新四軍は60万人、民兵は200万人。解放区の人口は4000万人に達していた。日本軍は八路軍の戦力を軽視し、分隊単位で高度分散配置していたので、八路軍は、道路・鉄道の各所を破壊して分断したうえで奇襲攻撃をかけた。
百団大戦は、日本軍(北支那方面軍)の八路軍に対する認識を一変させ、その作戦方針を転換させる契機となった。主敵が国民政府軍から共産党軍に移っただけでなく、軍隊を相手にすることから、抗日民衆を相手にする戦闘に変化していった。
百団大戦後、日本軍は「正面戦場(国民政府軍戦場)」と「後方戦場」(敵後戦場)(共産党軍戦場)という二つの戦場での戦闘を強いられるようになった。
1943年2月のガタルカナル作戦を立案した参謀本部の主役は田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長だった。
「海軍は陸軍にひきずられて太平洋戦争に突入した」という俗説があるが、真実は、その逆だ。海軍は日中戦争を利用して仮想敵である対米決戦に勝利するために軍備と戦力を強化し、南進政策に備えた。
日中戦争のおぞましい実態、軍部指導部の無責任さが如実に描写・分析されている労作です。広く読まれることを願います。
(2017年7月刊。)

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2017年10月 5日

父の遺言

(霧山昴)
著者 伊東 秀子 、 出版  花伝社

規律正しく、仁慈の心をもつ日本人が中国大陸で虐殺したなんて真っ赤な嘘、だと真顔で言い張る日本人がいます。そんな人と、それを聞いてそうかもしれないと思っている人にはぜひ読んでほしい本です。
日本内地では善良な夫であり、優しい父親だった日本人が中国大陸に渡ると、罪なき中国の人々を殺害し、女性を強姦しても何とも思わない「日本鬼子」に変貌してしまうのです。恐ろしいことです。戦争が人間を殺人鬼に変えてしまいます。そこには、殺さなければ、自分が殺されるという論理しかないのです。
著者は国会議員になったこともある北海道の女性弁護士です。私より先輩ですが、今も元気に現役弁護士として活動しています。その父親が憲兵隊に所属していて、かの悪名高い七三一細菌部隊へ44人もの中国人を送ったのでした。その全員が石井四郎中将の率いる七三一部隊で人体実験の材料とされ、なぶり殺されてしまいました。
「日本鬼子」の非道さには言葉も出ません。戦後、父親は中国軍に収容され裁判にかけられます。しかし、死刑にならず数年の刑務所生活を経て日本へ帰国してきます。そして、日本では、昔のように好々爺として孫たちと接するのです。同時に、罪の償いをしなければいけないと子どもたちに伝えたのです。
著者は、その父親の思いをしっかり受けとめて生きてきました。
著者の父親は、満州にあった憲兵隊司令部に勤務し、満州各地で憲兵隊長をつとめた。著者の母親は、満州での特権的な暮らしに否定的だった。「よその国を占領し、中国の人たちを『満人』と呼んで奴隷のようにこき使い、特権的な生活をするなど、日本のやっていることはどこかおかしいといつも思っていた」
父親は中国で禁錮12年の刑期を終えて、1956年に日本へ帰国した。56歳だった。
父親は著者に対して、中国で裁判を受けた45人は、みな死刑になって当然のような残虐非道な戦争を指揮した者ばかりだったのに、誰も死刑・無期刑を受けなかったと語った。
大和民族の優秀さを示すために、中国人はダメだ、朝鮮人は下等だと、いつも民族に序列をつけていた。
中国人の1人や2人を殺したって、どうってことはない。どうせチャンコロだ。そんな大それた考えをもっていた。
中国では、日本に帰って共産主義を広めろと言われたことはない。そうではなくて、日本に帰ったら、平和な家庭を営んでください、それだけだった。すごいですね。泣けてきますよね・・・。
「戦争は、あっという間に起こり、起こったら誰も止められない。それが戦争というものだ」
「どんな真面目な人間でも、戦地では平然と人を殺し、他人の物資を奪い、女を見れば強姦する」
「戦局が不利になると、指揮官も兵隊もますます狂っていく。強気一辺倒になる。いま思えば、自分もそうだった」
Jアラートが鳴り響くなかで、恐怖心があおられ、「無暴なことをする北朝鮮なんか、やっつけろ」の大合唱が起こりつつあります。まさしく権力者による戦争誘導が今の日本で起きて、進行中です。私たちはもっと冷静になって、足元を見つめ直すべきではないでしょうか。
この本は、そんなカッカしている頭を冷ます力をもっています。ぜひ、ご一読ください。
(2016年8月刊。1700円+税)

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2017年9月22日

日中戦争全史(上)


(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版  高文研

日本が戦前に中国大陸で何をしたのか、日本人は忘れてはならないことだと思います。
私の父も中国戦線にかり出され、病気のため内地送還になって終戦を迎えて私が生まれました。その父が中国大陸で何をしていたのか、改めて考えさせられました。
日中戦争は、徴兵制によって召集された日本の成年男子が中国戦場に駆り出され、中国の軍民を大量殺害した侵略戦争であった。日本国内では人に危害を与えたこともない善良な市民であった日本兵を中国戦場においては殺人者に仕立てる巧妙な日本軍隊の仕組みがあった。
いったい、どんな巧妙な仕掛けがあったというのでしょうか・・・。
戦争とは、国家あるいは民族の名において、敵とみなした相手国の兵士さらには民衆を殺害する、それも大規模、大量に殺害すること。ところが、日本人の多くには、戦争とは、人を殺すこと、それも大量殺人をする行為であるという認識や想像力が欠けている。そのため、膨大な日本軍が中国大陸において長期にわたって膨大な中国兵と民衆を殺害した戦争であったという本質を知らないでいる。
その根本的な理由は、日中戦争の戦場は、すべて中国であり、日本兵が中国兵や民衆を殺害する場面を目撃していないことによる。また、中国戦線から帰還した日本兵の多くが日本国内において中国大陸で自らのした殺害体験を語らなかったことによる。
それは、フランスやドイツのように国民が身近に殺し、殺される現場を目撃したのとは決定的に異なっています。
日本兵の新兵教育では、「刺突訓練」と呼ばれた、無抵抗な捕虜や民間人の両手をしばって杭にしばりつけ、それを三八式歩兵銃の銃剣で刺殺させた。この刺突を拒否した新兵はどうなるか。すさまじいリンチにあう。上官から、また新兵仲間からリンチの連続であった。ほぼ100%の兵士が目をつぶって最初の殺人を体験した。
私の父も病気になる前には前線で戦ったことがあり、「戦争ちゃ、えすかばい」と私に語ってくれました。「えすか」(怖い)というのは、自らも「刺突」したことも含んでいたんじゃないかと今になって私は思います。
朝鮮人を「鮮人」「チョン」と呼び、中国人を「シナ人」「チャン」などと蔑称して見下す差別・蔑視意識が日本の朝鮮植民地支配と、中国侵略戦争に加担していく日本人の国民意識を助長していた。
ひところ「バカチョン」カメラと言っていたことがありました。これも差別語を前提していたことを知ってから使われなくなりました。「ジャップ」と同じですよね。
映画「猿の惑星」の「猿」は日本人をイメージしているというのを聞いて、差別意識は諸国に普遍的に存在していることを知りました。それでもダメなものはダメなのです。
張作霖爆殺事件が起きたのは1928年(昭和3年)6月4日のこと。日本軍による謀略作戦であることは、当初から明らかだった。これを知った27歳の昭和天皇は怒って首相の田中義一に辞表を出せと迫った。そのショックから田中義一は辞職して2ヶ月後には狭心症で死んだ。
同じ1928年に治安維持法が強化され、日本は戦争「前史」から戦争「前夜」に転換した。捕虜の待遇に関するジュネーブ条約を日本は調印したものの、軍部の反対にあって批准しなかった。日本の軍部が反対したのは、日本軍兵士が捕虜は保護されることを知ったら、すすんで投降して捕虜になるのではないかと心配したからだった。
「捕虜をつくるな」という作戦方針は、日本兵の自決・玉砕となって捕虜となるなということの反面で、投降した中国人軍将兵を虐殺することになった。これこそ天皇の軍隊の一枚のコインの両面である。
南京戦に至る日本軍は補給を無視した強行軍を余儀なくされていた。
日本軍は現地調達主義をとった。その現実は、通過する地域の住民から食糧を奪って食べることであった。これは、戦時国際法に違反した略奪行為だった。
上巻だけで300頁あまりある大部な本ですが、日本人が、戦前、何をしていたのかを直視するための絶好のテキストだと思いました。
この本は、戦前の実際を知るうえで必須不可欠だと思います。とりわけ若い皆さんに一読を強く強くおすすめします。
(2017年7月刊。2300円+税)

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2017年8月25日

「天皇機関説」事件

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版  集英社新書

東京帝国大学で、長年にわたって憲法学を教えていた美濃部達吉をはじめとする当時の憲法学者が正統的な憲法学説として唱えていた天皇機関説とは、まず日本という国家を「法人」とみなし、天皇はその法人に属する「最高機関」に位置するという解釈だった。天皇のもつさまざまな権限(権力)は、個人としての天皇に属するものではなく、あくまで大日本帝国憲法という諸規則の範囲内で、天皇が「国の最高代表者」として行使するものだという考え方である。
天皇という絶対的な存在を、国の基盤である憲法と密接につなげておくことで、誰かが天皇の権威を勝手に悪用して、自分や自分の組織に都合のいい方向へと日本の政治を誘導するという事態が避けられると考えられていた。
天皇機関説事件のあと、昭和天皇が権力を握る「支配者」として暴走することはなかった。しかし、「軍部」が天皇の名において、あるいは天皇の名を借りて、事実上の「最高権力者の代行人」として、国の舵取りという「権力」を我が物顔でふりまわし始めたとき、もはやだれもそれを止めることはできなかった。
文部省が美濃部を公然と攻撃したとき、当時の学者の多くは沈黙し、また政府を追従するという態度をとった。
昭和天皇は果たして、どう考えていたのか・・・。実は、昭和天皇は、天皇機関説について、おおむね妥当な解釈であると認め、排撃する動きに不快感を抱いていた。
その政治目的のために、自分の存在をむやみに絶対化し、神格化するのはけしからんことだと考えていたのです。
昭和天皇は、自分と国の主権との関係について、日本だけでしか通用しないような「主観」の認識だけでなく、諸外国の目にどう映るかという「客観」の認識も有していた。
昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、こう言った。
「今日、美濃部ほどの人がいったい何人、日本におるか。ああいう学者を葬ることは、すこぶる惜しいもんだ」
天皇機関説の排撃により、日本における立憲主義は、実質的にその機能を停止し、歯止めを失った権力の暴走が日本を新たな戦争へと引きずりこんでいった。
今の日本でも、自衛隊の幹部連中が政治の表舞台に出てきて、のさばり始めたら、日本という国は破滅するしかないということですね。
福田元首相が、最近、官僚制度をダメにしたら、日本は先がないということを言ったようですが、まったくそのとおりだと私も思います。その点、前川文科省の前事務次官は偉いものです。集団的自衛権行使容認は憲法違反だと公言した最高裁の元長官に匹敵する功績があると思います。
(2017年5月刊。760円+税)

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2017年8月14日

宮沢賢治の真実

(霧山昴)
著者 今野 勉 、 出版  新潮社

宮沢賢治と妹トシについて、丹念に事実を発掘していて、その苦労の成果にしばし言葉が出ないほど圧倒されました。
賢治の妹、とし子は、小学生のときから学業成績が抜きんでていて、花巻高等女学校では、生徒総代として送辞、卒業生総代として答辞を読んだ。そして、日本女子大の家政学部では、最終学年では、病気のため3学期の授業をすべて欠席したが、卒業が認められた。艶(つや)めいた話もないまま病気のために24歳で亡くなった。私も、そう思っていたのですが、この本を読むと、それが、とんでもないのです。地元新聞に独身の音楽教師との仲を連載で書きたてられていたというんです。うひゃあ、本当なんですか・・・。
大正4年3月20日、岩手民報は、「音楽教師と二美人の初恋」と題する記事の連載を始めた。教師や女生徒は仮名だったが、H学校が花巻高等女学校を指しているのは明らかだった。卒業式前日までの3日間の記事は、とし子の心に致命傷を負わせた。このことを、賢治は、あとになって知るのでした。
そして、賢治自身は、同性の友人・保阪を「恋して」いたというのです。
この本は、賢治の本の一節、そして、詩を抜き書きして解説するだけでなく、その舞台となった現地に自ら行って、そこで考えていることに大きな特徴があります。
400頁にも及ぶ大著です。宮沢賢治をめぐる世界をさらに深く認識することが出来た気がします。著者は私より20年も年長です。読む前は、警察小説の著者かと錯覚していました。
宮沢賢治の深読み本の一つとして、賢治に関心ある人には一読を強くおすすめします。
(2017年6月刊。2000円+税)

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2017年7月21日

満蒙開拓団

(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版 岩波書店

「五族協和」、「王道楽土」、こんな美しい掛け声で、多くの貧しい日本人が夢をみて戦前の満州に渡り、悲運に泣いたのでした。もちろん、騙した政府当局者が悪いのですが、騙されたほうも、時勢に流されてしまった結果だった。やはり、みるべきことは見ておかないといけない、言うべきときには言わないと、もっと悪くなるということなのですよね。今のアベ政権のデタラメきわまりない政治のあり方を黙過していたら、戦前の悲劇を再びもっと大規模に繰り返すことになってしまいます。
長野県は満州へ送り出した開拓移民が4万人近くで、日本一多かった。二位の山形県は半分の1万7千人。そして、満州開拓政策に重要な役割を演じた人物も、なぜか長野県出身者が多い。
満州事変を起こした関東軍は、早くから日本人移民に積極的だった。それは、満州を日本の領土とするうえで、日本人があまりにも少ないという認識から。ところが、陸軍中央は消極的だった。あまりに露骨に日本領土化を進めることによる国際社会からの猛反発を買うのを恐れた。関東軍は、満州が独立国家という建前をとる以上、国家内での日本人の人口比率があまりにも低いのは問題だと考えた。
満州移民に対して、陸軍は一枚岩で積極的ではなかった。陸軍中央には懐疑的な人が少なくなかった。満州移民は、それぞれの個人や組織の政治的思惑が異なるなかで、関東軍と拓務省が連携し、それを陸軍中央が追認した。それを在郷軍人会が積極的に後押しして、軍事色の強い武装移民となった。
満州の土地所有制度は複雑で、権利関係が入り組んでいたから、日本による強引な土地買収は、現地を混乱させた。
開拓民は、月給100円という宣伝文句につられてやってきたのに、現実は、食費として1ヶ月5円しか支払われなかった。そこで、故郷から送金してもらっていた。召集を免れられるという風評を信じて開拓民に応募した人もいたが、現実には、あとで日本の敗色が濃いなかで兵士とされ、家族と引き離された。
満州に侵入してきたソ連軍は174万人(日本軍は60万人)、火砲・戦車・航空機の数量では25倍以上と、日本軍を圧倒した。
当時の国際的通年からすると、開拓団は軍事組織と見なされていた。ところが、当事者は、日本国内にいくつもある「村」としてしか認識しておらず、関東軍が守ってくれる以上、軍事攻撃にさらされるなどとは露ほども思っていなかった。
満州に渡った開拓団は928団、24万人。これに対して、戦後、無事に日本に帰国できたのは14万人でしかない。
満蒙開拓団の実際を冷静に、多面的かつ深く掘り下げた本でした。
(2017年3月刊。2200円+税)

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2017年6月22日

軍が警察に勝った日


(霧山昴)
著者 山田 邦紀 、 出版  現代書館

昭和8年、大阪でゴーストップ事件が起きました。ほんのささいな交通違反が、みるまに大事件になってしまったのです。そして、それは、日本を軍人(軍隊)がのさばる暗い世の中に変えるのを加速しました。オビのセリフを私なりに改変すると、次のようになります。
戦争は軍人の怒声ではなく、正論の沈黙で始まった。もの言わぬ多数の日本人は、戦争へひきずられていき、それを後悔する前に死んでいった。大阪の交差点での信号機無視をめぐる兵士と警官の口論は、日本を戦争に導いていくターニング・ポイントになった。
ことは昭和8年(1933年)6月17日(土)午前11時半ころ、大阪市内の「天六」(てんろく)交差点で起きた。1人の一等兵(22歳)が制服姿で赤信号を無視して市電の軌道を横断した。通行人が警察官に注意を促したので、巡査(27歳)がメガホンで注意した。しかし、一等兵が無視したので、巡査は一等兵の襟首をつかまえて近く(10メートルしか離れていない)の天六巡出所へ連行した。
やがて憲兵が出てきて、一等兵を連れて帰った。その間に、巡出所内で暴行があった、どちらが仕掛けたのか、一方は抵抗しなかったのか、いろいろ調べられた。
ところが、この件が警察対憲兵隊、そして大阪師団(第四師団)対大阪府庁(警察)の対立となり、ついには陸軍省対内務省のメンツをかけた争いにまで発展した。事件がこのように拡大した最大の要因は、軍(第四師団)が徹底的に横車を押したことにある。
最終的には天皇のツルの一声でようやく和解が成立した。その和解の内容は今なお公表されていない。しかし、結局のところ警察が軍に譲歩した。軍が力で警察をねじ伏せた。
軍が勝ったころから、もはや日本国内に軍の意向に逆らうものはいなくなってしまった。官僚もマスコミも軍の言いなり、軍に従う存在と化してしまった。それが戦争への道に直結した。
こうなると、いまのアベ政権のやっていることをますます軽視できなくなるわけです。言うべきときに反対の声をあげておかないと、あのとき反対しておけばよかったと悔やんでも遅いのです。
その意味で84年も前の日本で起きてきたことですが、十分に今日的意義のある本だと思いました。
なぜ、「ゴー・ストップ」というのか・・・。
まだ信号機が設置されてまもなかったのです。ですから、戦争のため中国などの外地(外国)へ遅られて日本に帰ってきた兵士たちは信号無視するのも当然でした。要するに、信号に従うとか、信号の色の意味するところを理解していなかったのです・・・。
そして、この巡査は、実は、ほんの少し前までは兵士で、しかも下士官(伍長)だったのでした。年齢(とし)下の一等兵が自分の注意をきかないのにカチンときたに違いありません。
警察の側で対応した粟屋(あわや)は、東京帝大法学部卒業のエリートコースに乗っていた人物(40歳)で、腹のすわった人物だった。のちに広島市長として原爆で亡くなった。だから、軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官だと言い放ったのです。この言葉によって、軍はますます態度を硬化させました。
それでも、昭和天皇が、あの件はどうなっているかと尋ねたことから和解へ進みます。そして、結局のところ、警察が軍部に屈服させられるのでした。
昭和8年というのは、もはや後戻りできなくなった年で、その分水嶺となったのがゴー・ストップ事件。軍部は、この事件で公務外の「統帥権」も確立し、暴走に拍車がかかった。
大阪の一軍人のささいな交通違反をきっかけに軍部全体が「赤信号」を無視し、やがて日中戦争から太平洋戦争になだれ込んでいく。
ファシズムは、ある日いきなり私たちを襲ってくるわけではない。何気ない日常生活のあちこちでポツリ・ポツリと芽吹き、放置しておくと、あっというまに手に負えなくなる。ばかばかしさの裏に制御機能が外れた軍部の不気味さ、危険性をはらんでいることを新聞はもっと早い段階で警告すべきだった。
首相の機関紙を自認するようになったヨミウリはともかくとして、NHKをふくめたマスコミにはもっと権力を監視する任務があることを自覚してほしいものです。タイムリーな本です。
(2017年5月刊。2200円+税)

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2017年6月13日

通州事件

(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版  星海社新書

通州事件が起きたのは、1937年7月29日。通州は北京市の東側にある。
通州に駐屯していた保安隊が反乱を起こし、日本軍通州守備隊の動きを封じたうえで、逃げまどう日本居留民を次々に捕まえて殺害した。通州事件で亡くなった日本居留民は日本人114人、朝鮮人111人のあわせて225人。
通州事件発生の一報はすぐに日本に伝わり、日中戦争の緒戦の勝利に熱狂していた日本国民に大きな衝撃を与えた。
この通州事件の起きる3週間前の1937年7月7日、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こした。この戦いをきっかけとして、日本軍は本格的に中国侵略を開始し、1945年8月まで、8年に及ぶ泥沼の日中戦争に突入した。
通州は、日本のカイライ政権である冀東(冀東)防共自治政府が支配していた都市であり、その治安維持部隊である保安隊が日本軍に反乱して日本人居留民の多くを殺害したわけですので、ショックが多かったのは当然です。
では、なぜ保安隊は反乱を起こしたのか。そして、兵隊ではない日本人居留民を200人以上も殺害したのか・・・・。
この通州事件というのは、私はこの本を読むまで詳細を知りませんでしたが、漫画家の小林よしのりが1998年に『戦争論』で通州事件を描いたことから広く知られるようになったものです。
小林よしのりは、この事件によって、日本国内の中国に対する怒りの世論がまきおこり、戦争支持の国内世論を形成したと論じた。
通州は、今では北京市通州区となっていて、多くのマンションや商店の立ち並ぶベッドタウンである。北京市の中心から東へ20キロのところにある。
日本軍の通州守備隊に反旗を翻したのは、保守隊7000人だった。事件を起こしたのは保安隊であり、通州の中国人住民は日本居留民の殺害に加わってはいない。
通州事件は周到な準備のうえに実行された。その背景には、保安隊員がもともと抱いていた抗日意識、そして軍統や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えられる。
通州事件のあと、日本軍に救出された居留民は、日本人73人、朝鮮人58人の、あわせて131人だった。つまり、通州にいた日本居留民の半数以上が通州事件によって亡くなった。これら日本居留民は、密輸品や麻薬などの禁制品を取り扱う者が少なくなかった。ヘロインを取り扱っていた日本居留民が通州には存在していた。
日本軍が中国でヘロインの密売買に手を出して、大もうけしていたことが今では判明しています。日中戦争は高級軍人たちの金もうけに利用されてもいたのです。となれば、ヘロインを取り扱う日本居留民とそれを公認している日本軍に対して怒りを燃やす中国人がいても不思議ではなくなります。
つまり、日本軍と日本人が事件のタネをまいていたことになるのではないでしょうか・・・。
(2016年12月刊。880円+税)

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2017年5月26日

東京を愛したスパイたち

(霧山昴)
著者 アレクサンドル・クラーノフ 、 出版  藤原書店

戦前・戦後の東京を舞台として暗躍していたスパイの足跡をたどった本です。
私の知らないスパイが何人も出てきますが、やはり、なんといってもリヒャルト・ゾルゲに注目せざるをえません。ソ連のスパイでありながら、在日ドイツ大使館の中枢に入りこんでいた有能な人物です。日本軍が北進する可能性があるのかは、独ソ戦の勝敗もかかった大問題でした。それをゾルゲは、尾崎秀実から日本軍の北進なしと情報を受けとって、ソ連へ打電したのです。
ところが、スターリンは、ゾルゲ情報をあまり重視していなかったようです。独裁者は何でも疑うのですね。そして間違うのです・・・。まあ、それでも日本軍の南侵説を信じて、極東にいたソ連軍を対ドイツ戦へ振り向け、ようやくソ連は窮地を脱することができました。
日本政府のトップシークレットを入手していたゾルゲは「酒と女」に入り浸っていたようです。それがスパイをカムフラージュする目くらまし戦法だったのか、スパイの重責のストレスからきていたのか、単なる好きな逸脱だったのか、いろいろ説があります。ともかく、ゾルゲがスパイとして超一流の腕前を発揮したこと自体は間違いありません。
著者は、ゾルゲが出入りしていたビアホール店にまで足を運んでいます。そこで、ゾルゲは石井花子という日本人女性と親しくなったのです。
ゾルゲは、1943年4月に裁判が始まり、1944年1月に上告が棄却されて死刑が確定した。そして、この年の11月7日に絞首刑に処せられた。
ゾルゲは3年間の獄中で100冊以上の本を読んだ。
石井花子がゾルゲの死刑を知ったのは、戦後のこと。1945年11月、石井花子は雑司ヶ谷墓地にあったゾルゲの遺体を発見した。
身元不明の死体が投げ込まれる穴の中に棺があった。青色のぼろぼろの小片がゾルゲの上着の残留物であることを花子は見抜いた。そして骨のサイズからして、外国人の体格だった。大きな頭骨、近の歯冠・・・。
石井花子は、のちに彼女を訪れたソ連のジャーナリストに向かってこう言った。
「私はあなたがおいでになるまで20年も待ち続けました。ゾルゲのことを語るために、です」
花子は、ゾルゲの遺体に残っていた金の歯冠で婚約指輪をつくり、生涯それを指から離さなかった。石井花子が亡くなったのは200年7月4日、89歳だった。
ゾルゲのグループで逮捕されたのは35人だった。尾崎秀実がゾルゲと同じ日にゾルゲに先立って処刑されている。
ソ連とロシアのスパイは、こうやって明らかにされていますが、アメリカのCIAなどのスパイ行為はまったく報道されませんよね。スノーデンの世界だとは思うのですが、日本が果たしてアメリカとの関係で独立国と言えるのか、私はかなり疑問を感じています。
(2017年1月刊。3600円+税)

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