弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2018年10月30日

戦地巡歴、わが祖父の声を聴く

(霧山昴)
著者 井上 佳子 、 出版  弦書房

熊本放送の記者をしている著者が、中国大陸で戦死した著者の祖父が遺した日記をたどり、ついに30分のテレビ番組にしたものを本にまとめたのです。
祖父は中国に出征して、わずか47日で戦死しています。第六師団歩兵13連隊です。
1937年7月に盧溝橋事件から日中戦争が始まると、第六師団は中国に渡り、上海の杭州湾から上陸し、12月の南京攻略戦に参戦し、翌1938年2月には徐州会戦、そして武漢作戦の前哨戦である漢口攻略を目ざした。
祖父の井上富廣は明治44年(1911年)生まれですので、明治42年生まれの私の亡父・茂より2歳も年下だったわけです。亡父・茂も会社員だったところを兵隊にとられ、陸軍二等兵として中国大陸に渡りましたが、幸か不幸か(幸に決まっています)病気にかかって台湾へ送還されて命拾いしました。
祖父・富廣は、1938年(昭和13年)6月に門司港を出港して中国は上海に上陸した。補充兵として第六師団を追って、南京、蕪湖、安慶、潜山、太湖と転戦していった。そして、中国に出征してわずか47日で戦死した。戦死する5日前まで日記を書いている。このほか、戦地から家族に書いて送った手紙も4通残っている。
「(昭和13年)6月26日。潜山発。四時半起床。要所を撃破せし戦跡には支那人死体横たわり、当当と進軍する愉快さ。・・・」
「2,3日前、20名ほどとらえてきて尋問したら、矢張り、支那軍から命令されているようです。全部、河原へ連れ出し銃殺しました。泣きながら殺してくれるなという顔を見れば、ちょっと気の毒な様でもあります。人間の死体や牛豚の残がいで、くさくて仕様ないです」
これは祖父富廣が日本にいる妻へあてた手紙です。敗残兵の20人を銃殺したことを、しごく当たり前のように、あっけらかんと書いている。
そのような兵士の心理について、次のように解説されています。
「戦場の兵士は、普通の精神状態ではない」
「死ぬか生きるか、殺すか殺されるかの極限状態なんです」
そして、著者は取材のため祖父・富廣の戦跡をたどりました。
中国大陸で日本軍が罪なき人々を殺し、女性を強姦し、物資を略奪していったことを、その体験者から聞き出していったのです。
まことに戦争とは、むごいものです。大勢の人々を殺し、また理不尽に殺されていきます。絶対にあってはならないのが戦争です。
日本のネトウヨなど一部の人々が反中国をあおりたてていますが、両国は経済的にも文化的にもしっかり結びついているのです。戦争なんて、とんでもありません。平和的に共存共栄するしかないのです。
この本は、その原点の大切さを考えさせてくれました。
(2018年8月刊。2200円+税)

2018年10月10日

戦慄の記録・インパール


(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版  岩波書店

インパール作戦に参加した日本軍将兵は9万人、その3分の1の3万人が亡くなりました。悪名高い、日本軍による無謀な戦役をNHKが特集したものが本になりました。
1944年3月に始まり、本格的な雨期の到来する前にインパールを攻略するとしていた。川幅600メートル、2000メートル級の山と深い谷の連なる密林地帯で、貧弱な道しかない。
悪路のため、武器・弾薬も背負って運ぶため、携行できる食糧は、わずか3週間分。
第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将は、少し前は「実行困難」として反対していたのに、いつのまにか積極策に転じていた。
東條英機首相は、ガダルカナルでの敗退をインド侵攻で逆転させようとしていた。
ビルマでのインパール作戦は、インド侵攻作戦の一環だった。
東條英機は、インドの独立運動家のチャンドラ・ボースを支援していた。
この作戦は補給等の点から無謀だと参謀の多くが反対したが、彼らはことごとく他へ転出させられていった。
インパール作戦が中止になったのは、発動から4ヶ月後のこと。そして、撤退中に多くの日本軍将兵が命を落とした。インパールに向けて進撃中に戦死した人よりも、撤退するさなかに亡くなった人のほうが多かった。NHK取材班は地図の上でそれを明らかにしています。戦没者名簿にのっている1万3千人余の死者のうち、6割の人々が作戦が中止された7月以降に亡くなっている。そのほとんどは「病死」だが、実は餓死が多数ふくまれている。
日本軍が攻略目標としていたインパールには、イギリス軍20万人が駐留していた。たっぷりの武器・弾薬が備蓄されていて、飛行機も戦車もあった。イギリス軍はビルマを日本から取り戻すつもりでのぞんでいた。にもかかわらず日本軍はイギリス軍を甘く見くびっていた。インパール作戦中止後の撤退中に、イギリス軍の飛行機から日本軍は散々な目にあった。
牟田口中将は早々にビルマから日本に舞い戻り、陸軍予科士官学校長に任命されている。日本軍の無責任体制も、ここまでするか・・・というほどのひどさです。ノモンハン事件でもそうでしたが、責任ある軍トップは誰も責任追及されず、かえって栄転・出世していくのです。こんな日本軍の実体を知ると、「昔は良かった」なんて言って欲しくないと、つくづく思います。
NHKも、いい番組をつくりますね。がんばってください。
(2018年9月刊。2000円+税)

2018年10月 4日

日本憲兵史

(霧山昴)
著者  荻野 富士夫 、 出版  日本経済評論社

 トッコーとケンペーが戦前の日本で支配階級の尖兵(せんぺい)でした。その憲兵が何をしたのか、詳細に暴いた大作です。本文370頁、6500円ですから容易には読めません。でも、全国の図書館に備え付けて多くの人にぜひ読んでもらいたい本です。歴史の事実を知るのは大切です。
憲兵に関する資料が乏しいのは、日本の敗戦と同時に憲兵自身によって徹底的に資料が焼却されてしまったからです。これは、特高警察についても同じことが言えます。それでも焼け残った資料が中国軍に押収されて残ったものがあります。著者はそんな資料まで丹念に拾い集めているのです。敬服します。
日本の憲兵は、海軍内ではほとんど活動していない。なぜ、何でしょうか...。
憲兵の重要な任務の一つに徴兵忌避の取締りがあった。1913年6月の大阪憲兵隊の報告文書には、兵庫県城山稲荷へ徴兵忌避の目的で祈祷を依頼した参詣者が970人もいた。
1915年の本に「憲兵は嫌兵か」という項目があった。そこには、今日の憲兵は帝国陸軍の憲兵というよりも、むしろ軍闘の爪牙(そうが)、懲罰の走狗(そうく)であると指摘されている。
憲兵隊は特高警察と絶えずはりあっていた。
1930年代に入って憲兵は政党政治のなかの「反軍的」言動を抑え込むことに成功した。その次のターゲットは、文化だった。たとえば、志賀直哉、そして菊池寛を狙った。さらにキリスト教も圧迫した。
日本国内にいる憲兵は、1920年代から30年代末まで1500人ほどの規模で推移していた。ところが1945年8月の敗戦時には、1万人をこえる憲兵がいた。東条英機首相を強力に支えたのが憲兵だった。東条は、憲兵の威力と情報を最大限に活用して反東条勢力を抑え込む「憲兵政治」を推し進めた。ただし、暗黒の憲兵政治は、東条政権の下のみであったというのではない。
一般兵士から憲兵は敬遠されていた。捕虜となったイギリス人兵士に対して、こう言った。「憲兵なんてケダモノです。我々みんなが憲兵みたいな人間だと思われてはたまりません」
関東憲兵隊の一員になるためには、難関の試験を突破する必要があった。1933年(昭和8年)の倍率は5倍強だった。憲兵なら最前線は出ないので、戦死の危険は小さい。そして高給取り。補助憲兵で50円に近く、正規の憲兵だったら120円。これは一般兵科の上等兵が10円だったのに比べて格段の違い。そのうえ、給料以外にもいろいろの実入りがあって、羽振りのいい暮らしができた。
ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり交換で戻ってきた将兵350人について、関東憲兵隊は、軍の特設軍法会議で将校30人に対して死刑判決を下して、直ちに処刑した。
欧米の将兵は、すすんで捕虜となり、また本国で元気に復帰するよう勧められていましたが、日本軍は捕虜となったら生きて帰ってきても銃殺されたのでした。これは、スターリンのソ連軍でも同じでした。
チチハル(満州)の憲兵隊は中国人の抵抗組織を摘発し、拷問に明け暮れた。そして、「特移扱」(とくいあつかい)とした中国人は七三一部隊に送られ、細菌兵器研究の実験材料にされたうえで全員が殺害された。「マルタ」と称され、3000人以上が殺されている。
また、憲兵隊は「軍慰安所」を直接管理していた。1940年6月末、南寧・鉄州方面に「軍慰安所」は43戸あり、「従業婦」は361人いた。
このように日本軍の最悪の部隊ともいうべき憲兵たちが、戦後再び公安調査庁に勤務するようになったという事実は驚きというより、呆れてしまいます。
日本憲兵の実体が詳細に掘り起こされている画期的な労作です。
(2018年3月刊。650円+税)

2018年9月23日

陸軍中野学校


(霧山昴)
著者 山本 武利 、 出版  筑摩選書

陸軍中野学校が発足したのは1940年。その前身は1938年に開校した防諜研究所であり、その後、後方勤務要員養成所と改称し、さらに陸軍中野学校となった。だから、1945年の終戦まで、わずか7年ないし5年という短命だった。
開所のときは19人しか入学しなかったが、最大7年間で2300人余の学生を世に送り出した。
独立勤務者としての秘密工作員、特務機関員そしてゲリラ工作員へと中野学校での教育内容は激変した。
終戦から29年もたってフィリピンのルパング島から帰還した小野田寛郎は、1944年春に静岡県二俣に設立された二俣分校の第1期生である。
小野田寛郎によれば、「どんな生き恥をさらしてもいいから、できる限り生きのびて、ゲリラ戦を続けろ。・・・・。捕虜になってもかまわないと教えられた」という。
中野学校は語学を重視した。英語250時間、ロシア語220時間、中国語190時間となっている。
授業を受けるとき、ノートをとるのは、いささか軽蔑されていた。話を聞く、質問をする。その一刻一刻が勝負なのだ。
一般人の取り調べには、常套手段として暴力・脅迫が横行していたが、中野学校では、その使用は仲間うちなので、ご法度(はっと)、禁止されていて、この規則はよく守られていた。
中野学校の卒業生はハルピンの情報部に多くつとめた。
中野学校の実体、とくにその教育システムについて、深く知ることができました。
(2017年11月刊。1700円+税)

2018年9月19日

玉砕の島・ペリリュー


(霧山昴)
著者 平塚 柾緒 、 出版  PHP

天皇夫妻が2015年のペリリュー島まで戦没者の慰霊のために出かけなければ、日本人のほとんどが、その存在すら知らなかったと思われるのが、このペリリュー島です。もちろん、私も聞いたことはありませんでした。
今では、ペリリュー島の戦闘を描いたマンガ本もあり、かなり想像することが出来ます。
著者はペリリュー島からの生還兵の取材を1970年(昭和45年)から始めていて、すでに8回、ペリリュー島にわたっています。
ペリリュー島にいた日本軍1万人のうち、部隊が全滅したあと2年半ものあいだ洞窟に潜んでゲリラ戦を続けていた34人の日本兵がいた。このほか生還できた日本軍将兵は302人のみ。
昭和19年、パラオ諸島には軍人以外の日本人が2万5千人、朝鮮人250人、現地住民も3万2千人が住んでいた。
ペリリュー島は、パラオ諸島の中心地コロール島から南に50キロの地点のある、リーフ(珊瑚礁)に囲まれた孤島。南北9キロ、東西3キロ。島には、昭和14年に完成した飛行場があり、1200メートルの滑走路が2本あって、東洋一の飛行場とも言われていた。
ペリリュー島の日本軍は、水際の防禦陣地と山岳部の自然壕を拡大した地下要塞を構築した。ただ、珊瑚礁とリン鉱石で固まった島の土壌は、鉄筋コンクリートよりも固く、シャベルやつるはしでは歯が立たない。1日にわずか20センチとか30センチを掘るのが、やっと。
日本軍守備隊は、アメリカ軍の砲爆撃がつづく日中は、堅固な陣地や珊瑚の洞窟陣地内にじっと身を潜め、砲爆撃の止む夜間に準備を続けた。日本軍守備隊の中心は、満州で徹底的に訓練された若い20代の現役兵で構成されていた。その頑強な抵抗ぶりは、アメリカ軍がそれまでに味わったことない粘り強さがあった。
アメリカ軍が行った艦砲射撃は、上陸開始前に3490トン、上陸後に3359トン、合計6849トンも打ち込んだ。そのうえでアメリカ軍は、上陸迂回作戦を実施した。そのおかげで本来もっとも死亡率の高くなるはずのアメリカ軍上陸地点の日本軍守備兵が生き残った。
昭和22年4月22日、最後の日本兵34人全員が投降した。27歳から32歳の若者たちだった。よくぞ34人もの日本兵集団が投降したものです。その過程自体もスリルに満ちていて、興味深いものがあります。
(2018年7月刊。1900円+税)

2018年9月16日

空気の検閲

(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版  光文社新書

現代日本では忖度(そんたく)があまりにも横行していて、マスコミの自粛がひどすぎます。もっと自由にのびのびとマスコミは嘘つきアベ首相を堂々と批判すべきです。少なくとも、批判的コメントなしで、首相や官房長官の開き直りの発言をタレ流してはいけません。
この本は、戦前の日本でやられていた検閲の実際を紹介しています。
本を発行するときには、発行日の3日前までに内務省に完成品2部を納めなければいけなかった。これに違反すると刑事責任を問われた。
当時の新聞記者は検閲に慣らされていた。世間が戦争を支持し、検閲官が言論規制を強化すると、新聞記者は、それに簡単に引きずられた。検閲官は100人をこえていた。
たとえば、1930年10月に台湾で霧社事件(現地の高山族が学校を襲撃して運動会に参加していた日本人134人を殺害)について、51件もの新聞記事が事前に抹消された。
石川達三が『中央公論』1938年3月号に南京戦直後の中国を訪問し、日本兵の婦女暴行、一般市民殺害のレポートを書いたところ、発禁処分とされた。そして、石川達三は、刑事裁判に付され、禁錮4ヶ月、執行猶予の有罪判決を受けた。新聞紙法違反だった。石川達三は、冒頭にわざわざ「自由な創作」、「仮想」と書いていたのに・・・。
言えるとき、言うべきときに、きちんとモノを言っておかないと、何も言えなくなるということを示した本だと思いました。
(2018年3月刊。880円+税)

2018年8月11日

海軍機関学校8人のパイロット

(霧山昴)
著者 碇 義明 、 出版  光人社

戦争の主役が軍艦から飛行機に移ってからは、航空部隊の中堅となる若手士官不足に悩んだ海軍は、エンジニアリング・オフィサーの中からもパイロットを採用することにした。機関学校50期を卒業した76人のなかから最初の8人が選ばれた。彼らは出撃したものの、わずか1ヶ月半のあいだに7人が相次いで戦死した。
そのうちの1人に杉野一郎がいる。大正8年9月に三池郡銀水村(現・大牟田市)で生まれ、昭和19年10月12日に鹿屋基地を発進して戦死した。25歳だった。中尉だったのが死後2階級特進して中佐となっている。
元市長の息子だった親友が一高、東大に進んだため、本人も一高進学を希望したものの、親がお金がないとして拒絶したため、海軍機関学校に進学した。
杉野一郎の写真も紹介されています。フィアンセがいたようで、並んでうつっています。「死と隣り合わせの搭乗員にとって、切ない逢瀬であった」というのがキャプションです。
杉野一郎は9人兄弟、農家の長男として生まれ、一高受験をあきらめて農作業のかたわら猛勉強にいどみ、海軍機関学校に進んだ。機関学校50期76人は昭和16年3月に卒業した。昭和13年4月に入学したときは80人だったのが、病気などで4人が減っていった。
この年(1941年)12月に日本はアメリカの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。杉野一郎は機関整備学生時代から、友人の妹の上津原ツヤ子という女性と交際し、結婚の約束まで交わしながら、ついに結ばれることはなかった。死ぬ確率の高い飛行将校としてためらいがあったのか、あるいは適当な時期を考えていたのか、いずれにしても結論を出す前に杉野は戦死してしまった。
杉野一郎中尉 ら165人の第39期飛行学生が第一線から離れていた昭和18年は4月18日の山本連合艦隊司令長官の戦死をはじめ、連合軍側の本格的な反攻によって、多数の航空機や艦艇が失われたことから、戦死者が激増した。
杉野は昭和19年6月末、内地に帰ったとき、親友にこう語った。「オレは、あと1ヶ月ぐらいで死ぬかもしれん。死ぬごたる・・・」一度、三池の家に帰ったが、そのとき、「明日、この上空を飛ぶから待っていてくれ」と言った。翌日、三機編隊の双発機が編隊から離れると、顔が見えるほどの低空に降り、旋回しながら翼を振った。それが家族への快別の挨拶だった。
「もう帰らんかも知れん、あとを頼む」と言った一郎の言葉を弟は忘れられない。
星をながめながら、後輩に杉野はこう言った。
「おまえなあ、馬鹿にならなければいかんよ。人間は馬鹿でなければ、本当の仕事はできんのだぞ」
この言葉は、杉野のやり切れない思いをぶつけたものとも受けとれる。
この杉野一郎は、私の事務所につとめる事務職員の祖母の兄にあたります。その縁から本書を読んで紹介させていただきました。
(1991年2月刊。2000円+税)

2018年7月25日

1937年の日本人

(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版  朝日新聞出版

15年戦争とも言われていますが、一般には、1937年7月7日に中国の北京郊外で起きた蘆溝橋事件をきっかけとして日本は日中戦争に突入していったのでした。
北支事変、のちの支那事変の始まりです。事変とは戦争のことなのですが、宣戦布告されていないので、事変とごまかしたのです。
それは、ある日、突然に「平和の時代」から「戦争の時代」に激変したというものではなかった。むしろ、ゆるやかなグラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていった。
この本は、少しずつ戦争への道に突きすすんでいった戦前の日本の状況を浮きぼりにしています。
2・26の起きた1936年は、国民が既成政党へ強い不信を抱き、また、軍部が政治的発言力を増大させていた。軍部は、軍事予算を拡張したいという思惑のもとで、「非常時」とか「準戦時」、「国難」というコトバで国民の危機感を煽るべく多用していた。
満州事変の1931年度の決算と、1937年度の予算を比較すると、予算総額は倍加し、陸海軍省費は3倍となった。
1937年5月、日本帝国政府としては支那に対し、侵略的な意図などないと発表した。そして、1940年に東京オリンピックの開催に向けて準備がすすんでいた。
北支事変において、紛争の原因は、あくまで中国側にあり、日本軍の対応は受け身であると日本側は発表した。
1937年の時点で、中国にいる日本人居留民は7万4千人。上海に2万6千人、青島の1万3千人。天津の1万1千人。北京は4千人でしかなかった。
中国の民衆からすると、日本軍はなにかと理由をつけては自国の領土に勝手に入りこんでくる外国軍だった。日本軍が「自衛」という名目で繰り返し行っている武力行使は、中国市民の目には「侵略」だった。
日本の財界人は、「北支事変」を、まさに天佑である」と信じ込んだ。
先の見通しが立たないまま拡大の一途をたどる日中戦争の長期化は、「挙国一致」という立派な大義名分の影で、じわじわと国民の生活を圧迫していった。
盧溝橋事件から、わずか3ヶ月で1万人ほどの日本軍が戦死した。おそるべき数字だ。中国側の死傷者数は42万人に達した。
1937年12月に検挙された人民戦線事件は、日本ですでに少数派になっていた政府批判者に決定的な打撃を与えた。戦争に反対したり、疑問を表明するものは、自動的に「国家への反逆者」とみなされ、社会的制裁の対象となった。
こうやって戦前の動きを振り返ってみると、まさしくアベ政権は日本の戦前の過ちを繰り返しつつあることがよく分かります。
(2018年4月刊。1800円+税)

2018年7月12日

沖縄からの本土爆撃

(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版  吉川 弘文館

アメリカ軍は日本に対して、都市も村も島も、無差別攻撃を繰り返しました。
そのあげくにヒロシマ・ナガサキへの原爆投下があります。都市への無差別爆撃を初めておこなったのは日本軍による南京爆撃です。これに対して、アメリカは戦犯調査の対象とはしませんでした。日本軍との戦争で無差別攻撃をアメリカ軍もしていたことが問題になるとまずいと判断したのです。
1945年6月の時点で、日本本土への侵攻作戦(コロネット)をはじめた。このコロネット作戦とあわせて、日本の突然の降伏に備えてのこと。ブラックリスト作戦と呼び、二つの作戦計画が同時並行ですすむことになった。
アメリカ軍の大佐は、次のように言った。
「日本の全住民は適切な軍事目標である。日本には民間人はいない。我々は戦争しており、アメリカ人の命を救い、永続的な平和をもたらすべき、そしてもたらすように追求している戦争の苦しみを短縮するような総力戦という方法でおこなっている。我々は、可能な限り短い時間で、男であろうと女であろうと最大限可能な人数の敵を殺し出し破壊するつもりである」
アメリカ軍が無差別爆撃したことについて、戦前の日本政府は国際法に違反すると、はっきり抗議した。これについて、アメリカ政府は、民間人を爆撃することを繰り返し非難してきたので、無差別爆撃を国際法違反ではないと主張したら、これまでの見解と矛盾することになる。また、国際法違反だと認めると、日本に捕まった航空機の搭乗員たちが戦争犯罪人として扱われる危険性もある。つまり、アメリカ政府は答えようがなくなって答弁しなかった、出来なかった。
沖縄に航空基地をつくって日本本土を無差別爆撃していたことをアメリカ側の資料も発掘して明らかにした貴重な労作でした。
(2018年6月刊。1800円+税)

2018年7月10日

96歳、元海軍兵の「遺言」


(霧山昴)
著者 瀧本 邦慶 、 出版  朝日新聞出版

他国から攻められたら、どうする。よく、そう聞かれる。そうならんように努力するのが政府やないか。それが政府の仕事やろと言いますねん。そのために、びっくりするような給料をもろとるんやろ。戦争さけるために大臣やっとんのやろ、攻められたらどうすると、のんきんなこと言うとる暇ないやろ。やることやれ。そんなに国を守りたいのなら、そんなに国がだいじなら、まずは、おまえが行け。そう言いますね。
戦争にならんためには、どうすればいいのか。とにかく大きな声をあげないけません。沈黙は国をほろぼします。
戦争に行って何度も死線をくぐり抜けた96歳の元海軍兵の心底からの叫びです。
著者が海軍に志願したのは、17歳のとき、1939年(昭和14年)だった。佐世保の海兵団に四等水兵として入団した。
海軍に入ったその日から、すべてが競争の日々。新兵の仕事は、なぐられること。面白半分に上官から殴られる。海軍では、下っ端の兵卒は人間ではなく、物。そこらへんの備品あつかい。死んでもいくらでも補充できる物。
著者は真珠湾攻撃にも参加しています。ただし、著者の乗った「飛龍」は真珠湾から300キロ以上も離れていて、攻撃の様子はまったく分からなかった。ペリリュー島に行き、ミッドウェー海戦にも参加します。このとき日本軍は大敗北したのに、大本営発表は勝ったかのような内容でした。命からから助かった著者たちは口封じのため南方戦線に追いやられるのです。
こうして下っぱの軍人をだましていたんやなと気づかされた。国民をだますにもほどがある。ときの政府、ときの軍隊は嘘をつくんだな、そう思った。
著者たちはトラック諸島に追いやられた。ここでは毎日のように死者が出た。ほとんどが栄養失調。多くの兵が餓死した。栄養失調がすすんで身体に浮腫(むくみ)が出た。
下っぱの兵士が木の葉っぱを食べているときに、士官は銀飯(お米)を食べていた。いざとなったら、国は兵士を見殺しにする。見殺しは朝飯前(あさめしまえ)。
ここで死ぬことが、なんで国のためか。こんな馬鹿な話があるか。こんな死にかたがあるか。なにが国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな、みんなが餓死するような死にかたに得心できるものか。敵とたたかって死ぬなら分かる。のたれ死にのどこが国のためか。
ここで考えが180度変わった。これは国にだまされたと気がついた。わたしが一番なさけないのは、だまされておったこと。いつまでもくやしいですやん。
日本軍に見捨てられて南方の孤島で餓死寸前までいたった著者は戦争はしてはいけない、国にだまされるなと叫んでいます。苛酷な戦場を体験したことにもとづく叫びですので、強い説得力があります。
(2018年12月刊。1400円+税)

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