弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2017年6月22日

軍が警察に勝った日


(霧山昴)
著者 山田 邦紀 、 出版  現代書館

昭和8年、大阪でゴーストップ事件が起きました。ほんのささいな交通違反が、みるまに大事件になってしまったのです。そして、それは、日本を軍人(軍隊)がのさばる暗い世の中に変えるのを加速しました。オビのセリフを私なりに改変すると、次のようになります。
戦争は軍人の怒声ではなく、正論の沈黙で始まった。もの言わぬ多数の日本人は、戦争へひきずられていき、それを後悔する前に死んでいった。大阪の交差点での信号機無視をめぐる兵士と警官の口論は、日本を戦争に導いていくターニング・ポイントになった。
ことは昭和8年(1933年)6月17日(土)午前11時半ころ、大阪市内の「天六」(てんろく)交差点で起きた。1人の一等兵(22歳)が制服姿で赤信号を無視して市電の軌道を横断した。通行人が警察官に注意を促したので、巡査(27歳)がメガホンで注意した。しかし、一等兵が無視したので、巡査は一等兵の襟首をつかまえて近く(10メートルしか離れていない)の天六巡出所へ連行した。
やがて憲兵が出てきて、一等兵を連れて帰った。その間に、巡出所内で暴行があった、どちらが仕掛けたのか、一方は抵抗しなかったのか、いろいろ調べられた。
ところが、この件が警察対憲兵隊、そして大阪師団(第四師団)対大阪府庁(警察)の対立となり、ついには陸軍省対内務省のメンツをかけた争いにまで発展した。事件がこのように拡大した最大の要因は、軍(第四師団)が徹底的に横車を押したことにある。
最終的には天皇のツルの一声でようやく和解が成立した。その和解の内容は今なお公表されていない。しかし、結局のところ警察が軍に譲歩した。軍が力で警察をねじ伏せた。
軍が勝ったころから、もはや日本国内に軍の意向に逆らうものはいなくなってしまった。官僚もマスコミも軍の言いなり、軍に従う存在と化してしまった。それが戦争への道に直結した。
こうなると、いまのアベ政権のやっていることをますます軽視できなくなるわけです。言うべきときに反対の声をあげておかないと、あのとき反対しておけばよかったと悔やんでも遅いのです。
その意味で84年も前の日本で起きてきたことですが、十分に今日的意義のある本だと思いました。
なぜ、「ゴー・ストップ」というのか・・・。
まだ信号機が設置されてまもなかったのです。ですから、戦争のため中国などの外地(外国)へ遅られて日本に帰ってきた兵士たちは信号無視するのも当然でした。要するに、信号に従うとか、信号の色の意味するところを理解していなかったのです・・・。
そして、この巡査は、実は、ほんの少し前までは兵士で、しかも下士官(伍長)だったのでした。年齢(とし)下の一等兵が自分の注意をきかないのにカチンときたに違いありません。
警察の側で対応した粟屋(あわや)は、東京帝大法学部卒業のエリートコースに乗っていた人物(40歳)で、腹のすわった人物だった。のちに広島市長として原爆で亡くなった。だから、軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官だと言い放ったのです。この言葉によって、軍はますます態度を硬化させました。
それでも、昭和天皇が、あの件はどうなっているかと尋ねたことから和解へ進みます。そして、結局のところ、警察が軍部に屈服させられるのでした。
昭和8年というのは、もはや後戻りできなくなった年で、その分水嶺となったのがゴー・ストップ事件。軍部は、この事件で公務外の「統帥権」も確立し、暴走に拍車がかかった。
大阪の一軍人のささいな交通違反をきっかけに軍部全体が「赤信号」を無視し、やがて日中戦争から太平洋戦争になだれ込んでいく。
ファシズムは、ある日いきなり私たちを襲ってくるわけではない。何気ない日常生活のあちこちでポツリ・ポツリと芽吹き、放置しておくと、あっというまに手に負えなくなる。ばかばかしさの裏に制御機能が外れた軍部の不気味さ、危険性をはらんでいることを新聞はもっと早い段階で警告すべきだった。
首相の機関紙を自認するようになったヨミウリはともかくとして、NHKをふくめたマスコミにはもっと権力を監視する任務があることを自覚してほしいものです。タイムリーな本です。
(2017年5月刊。2200円+税)

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2017年6月13日

通州事件

(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版  星海社新書

通州事件が起きたのは、1937年7月29日。通州は北京市の東側にある。
通州に駐屯していた保安隊が反乱を起こし、日本軍通州守備隊の動きを封じたうえで、逃げまどう日本居留民を次々に捕まえて殺害した。通州事件で亡くなった日本居留民は日本人114人、朝鮮人111人のあわせて225人。
通州事件発生の一報はすぐに日本に伝わり、日中戦争の緒戦の勝利に熱狂していた日本国民に大きな衝撃を与えた。
この通州事件の起きる3週間前の1937年7月7日、北京市郊外の盧溝橋で日中両軍が軍事衝突を起こした。この戦いをきっかけとして、日本軍は本格的に中国侵略を開始し、1945年8月まで、8年に及ぶ泥沼の日中戦争に突入した。
通州は、日本のカイライ政権である冀東(冀東)防共自治政府が支配していた都市であり、その治安維持部隊である保安隊が日本軍に反乱して日本人居留民の多くを殺害したわけですので、ショックが多かったのは当然です。
では、なぜ保安隊は反乱を起こしたのか。そして、兵隊ではない日本人居留民を200人以上も殺害したのか・・・・。
この通州事件というのは、私はこの本を読むまで詳細を知りませんでしたが、漫画家の小林よしのりが1998年に『戦争論』で通州事件を描いたことから広く知られるようになったものです。
小林よしのりは、この事件によって、日本国内の中国に対する怒りの世論がまきおこり、戦争支持の国内世論を形成したと論じた。
通州は、今では北京市通州区となっていて、多くのマンションや商店の立ち並ぶベッドタウンである。北京市の中心から東へ20キロのところにある。
日本軍の通州守備隊に反旗を翻したのは、保守隊7000人だった。事件を起こしたのは保安隊であり、通州の中国人住民は日本居留民の殺害に加わってはいない。
通州事件は周到な準備のうえに実行された。その背景には、保安隊員がもともと抱いていた抗日意識、そして軍統や中国共産党による謀略工作が大きく影響したと考えられる。
通州事件のあと、日本軍に救出された居留民は、日本人73人、朝鮮人58人の、あわせて131人だった。つまり、通州にいた日本居留民の半数以上が通州事件によって亡くなった。これら日本居留民は、密輸品や麻薬などの禁制品を取り扱う者が少なくなかった。ヘロインを取り扱っていた日本居留民が通州には存在していた。
日本軍が中国でヘロインの密売買に手を出して、大もうけしていたことが今では判明しています。日中戦争は高級軍人たちの金もうけに利用されてもいたのです。となれば、ヘロインを取り扱う日本居留民とそれを公認している日本軍に対して怒りを燃やす中国人がいても不思議ではなくなります。
つまり、日本軍と日本人が事件のタネをまいていたことになるのではないでしょうか・・・。
(2016年12月刊。880円+税)

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2017年5月26日

東京を愛したスパイたち

(霧山昴)
著者 アレクサンドル・クラーノフ 、 出版  藤原書店

戦前・戦後の東京を舞台として暗躍していたスパイの足跡をたどった本です。
私の知らないスパイが何人も出てきますが、やはり、なんといってもリヒャルト・ゾルゲに注目せざるをえません。ソ連のスパイでありながら、在日ドイツ大使館の中枢に入りこんでいた有能な人物です。日本軍が北進する可能性があるのかは、独ソ戦の勝敗もかかった大問題でした。それをゾルゲは、尾崎秀実から日本軍の北進なしと情報を受けとって、ソ連へ打電したのです。
ところが、スターリンは、ゾルゲ情報をあまり重視していなかったようです。独裁者は何でも疑うのですね。そして間違うのです・・・。まあ、それでも日本軍の南侵説を信じて、極東にいたソ連軍を対ドイツ戦へ振り向け、ようやくソ連は窮地を脱することができました。
日本政府のトップシークレットを入手していたゾルゲは「酒と女」に入り浸っていたようです。それがスパイをカムフラージュする目くらまし戦法だったのか、スパイの重責のストレスからきていたのか、単なる好きな逸脱だったのか、いろいろ説があります。ともかく、ゾルゲがスパイとして超一流の腕前を発揮したこと自体は間違いありません。
著者は、ゾルゲが出入りしていたビアホール店にまで足を運んでいます。そこで、ゾルゲは石井花子という日本人女性と親しくなったのです。
ゾルゲは、1943年4月に裁判が始まり、1944年1月に上告が棄却されて死刑が確定した。そして、この年の11月7日に絞首刑に処せられた。
ゾルゲは3年間の獄中で100冊以上の本を読んだ。
石井花子がゾルゲの死刑を知ったのは、戦後のこと。1945年11月、石井花子は雑司ヶ谷墓地にあったゾルゲの遺体を発見した。
身元不明の死体が投げ込まれる穴の中に棺があった。青色のぼろぼろの小片がゾルゲの上着の残留物であることを花子は見抜いた。そして骨のサイズからして、外国人の体格だった。大きな頭骨、近の歯冠・・・。
石井花子は、のちに彼女を訪れたソ連のジャーナリストに向かってこう言った。
「私はあなたがおいでになるまで20年も待ち続けました。ゾルゲのことを語るために、です」
花子は、ゾルゲの遺体に残っていた金の歯冠で婚約指輪をつくり、生涯それを指から離さなかった。石井花子が亡くなったのは200年7月4日、89歳だった。
ゾルゲのグループで逮捕されたのは35人だった。尾崎秀実がゾルゲと同じ日にゾルゲに先立って処刑されている。
ソ連とロシアのスパイは、こうやって明らかにされていますが、アメリカのCIAなどのスパイ行為はまったく報道されませんよね。スノーデンの世界だとは思うのですが、日本が果たしてアメリカとの関係で独立国と言えるのか、私はかなり疑問を感じています。
(2017年1月刊。3600円+税)

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2017年5月23日

父母(ちちはは)の記

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  平凡社

1930年(昭和5年)生まれの著者が両親について語った本です。
著者の両親について紹介する前に、私の両親を先に紹介しておきます。私の父は明治42年に百姓(中農です)の長男として生まれましたが、百姓は腰が痛くなるから嫌だといって上京し、逓信省にアルバイトとして働きながら法政大学の夜間部に学びます。やがて昼間部の法学部に転入して司法試験を目ざしましたが、あえなく敗退します。父のとき、法政大学でも大学全体を揺るがすような学生の抗議運動が起きたようで、「法政大学百年史」に書いてあります。法政大学を優秀な成績で卒業した(ようです)ものの、「大学は出たけれど・・・」の時代で就職できませんでした。たとえば、天下の三井に入るにはたとえ法政大学を一番で卒業してもかなわなかったの(よう)です。それで父は、いったん筑豊の小学校で代用教員となり、やがて伝手をたどって三井の青年学校の教員となり、ようやく天下の三井に入ることが出来たのでした。
私の母は大正2年生まれ。久留米の高良内に生まれ育ちましたが、父は村長をつとめるほどの人望家でした。異母兄の夫に秋山好古の副官をしていたこともある中村次喜蔵という人がいます。第一次世界大戦中、ドイツ軍の青島要塞を攻略したときに華々しい戦華をあげて天皇の前で2回も講釈したといいます。
それぞれ、私が亡くなった両親から聞いたことを手がかりとして、図書館で調べたり、偕行社に問い合わせしたりしました。
このような作業を通じて、私にとって近代日本史はごくごく身近なものになりました。そして、亡母の異母姉の夫である中村次喜蔵の孫が、私と同じ学年に東大に入り、同じく司法試験に受かっていたなんて、つい先日知ったばかりですが、世の中は本当に狭いというか、巡り合わせは恐ろしいものだと思いました。いま彼は東京で弁護士ではなく、社長業をやっていますが、それを知らせたのも、実は、このコラムなのです。彼の友人が偶々ネットで検索したら、私のコラムにひっかかったというのです。すごいですね。インターネットの威力は・・・。
ようやく著者の両親の話に戻ります。父親は明治31年に熊本県菊池郡に生まれ、朝鮮で育った。日活専属の活動弁士として活動していた。当時は、無声映画ですから、弁士は、一種のスターだったのです。なかなかの美男子だったとのことです。
大正11年に父は美人の母と結婚した。ところが、母は手に負えない辛辣な頭の持ち主だった。
むかしの人は、今の人間よりよほど自己本位に、勝手気ままに生きていたのではないか・・・。著者の書いているのを全部そのまま信じると、40年も弁護士をしている私からしても、すごい型破りの夫婦だったように思います。なんか、みんな、いつのまにか大人しくなってしまったのでしょうね・・・。これも、例の「戦後の民主教育のせい」なのでしょうか。
著者は終戦時まで満州にいて、戦後、熊本に戻って五高に入り、共産党に入ります。共産党員としての活動やら、その後の活動の記録にも興味深いものがありますが、私にとっては、なんといっても戦前の日本と満州・大連での生活の詳細な描写に心が惹かれました。
それにしても記憶力がよいというか、よくぞここまで昔のことを再現できるものかと驚嘆してしまいます。やはり、自分という存在を知るためには、父と母のことを真正面から語らなくてはいけないのですよね。
(2016年8月刊。2200円+税)

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2017年4月11日

青春の柩

(霧山昴)
著者 岡村 治信 、 出版  光人社

 あまりにも過酷な戦争体験記です。よくぞ戦後まで生きのびたものだと驚嘆せざるをえません。戦後は裁判官として活躍しました。
 この本で印象に残った言葉をいくつか紹介します。まずは艦長の言葉です。
 「主計長(著者のことです)は司法官だそうだね。そして一人息子か。ご両親は、きみのことを本当に心配しているだろうね。戦争が終わったら、立派な仕事につけるのは、うらやましい。せいぜい命を大切にするんだね」
これが海軍の将校(川井大佐)の言葉なのです。いかにも命が粗末に扱われる戦場(海域)での言葉ですから、重味があります。
 次は著者の言葉です。
 「いのちの家である『木曽』(著者の乗っている巡洋艦)は、いったい、いつここを脱出できるだろうか。なるものなら、ぶじに故国の土を踏みたい。そして、もう二度と、こんなラバウルになど来るものか、という、いわば厭戦的な気持ちなのである。こういう気持ちは開戦いらい抱いたことはなかったのに、こんどの作戦中だけは終始、ぬぐうことができなかった。なぜであるか、自分でも分からない。おそらく、戦中2年に近い海上生活に疲れたのだろう。そんな弱いことでどうするのだと、心に苛責を感じながらも、やはり生きたいのであろう。結局は、捨てきれぬ小さな命にひきずられて思い迷う自分なのである。
 そうだ、この現実がある以上、私はなお生き続けなければならない。この抜きがたい刻印が胸の中にいっぱいに醗酵しながら、私に厳然と命令する、お前は生き続けなければならない。絶対に彼らの様に負傷したり、死んだりしてはならないと」
 著者は駆遂艦「追風」の庶務主任、巡洋艦「木曽」の主計長として、いくつもの海上作戦に参加しました。南洋のウェーク島占領作戦、ラバウル・ソロモン海戦、ガダルカナル救援作戦、そして北方のアッツ島攻略作戦、キスカ撤収作戦などです。まさに歴戦の海軍将校でした。生きのびたのは不思議、奇跡としか言いようがありません。
 もともと軍艦における死傷の様の残酷なことは、陸戦の場合とは比較にならない。艦上は四周みな鉄であって、一個の爆弾の破裂によって、そのことごとくが、同時に、残酷、凶悪の化身となって飛散する。その断片、鉄片がひとたび人体に振れれば、たちまち肉を裂き、骨を砕き、文字どおりの肝脳地にまみれしめねばやまない。
 海軍主計中佐だった著者は、戦後裁判官になり、東京高裁の判事をつとめました。前に紹介した原田國男元判事の著書(『裁判の非情と人情』)に紹介されていたので、ネットで注文して読んだ本です。その記憶力のすごさにも感嘆させられます。相当詳しい日記をつけていたのでしょうね。

(昭和54年12月刊。980円+税)
金・土・日と桜の花が満開でした。例年より一週間ほど遅れましたが、ちょうど入学式に間にあって喜んだ家族も多かったと思います。わが家の庭のチューリップもようやく全開となりました。朝、雨戸を開けるのが楽しみです。赤や黄そして白など、その華やかさは心を浮きたたせます。ハナズオウの小さな豆粒のような紫色の花も咲きました。アイリスの花が出番を待っているのに気がつきました。春、本番です。

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2017年3月31日

昭和天皇の戦争

(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版  岩波書店

昭和天皇の公式伝記である「昭和天皇実録」は全60巻といいますから、とんでもない超大作です。全19巻の本にもなっているようですが、それにしても長い。ちょっと手を出せるはずもありません。
しかし、学者はそれを読まないといけないのですね。そして、そこに何が書かれていないかを明らかにするのです。
「実録」においては、天皇の戦争・戦闘に関する積極的発言とみなされるものは、きわめて系統的に消去されている。
著者は昭和天皇の戦争指導の実際について何冊も本を書いていますので、その視点で「実録」を検証できるわけです。
「上奏」とは、天皇に決裁を求めるときの言葉であり、「奏上」は、天皇への報告を意味する言葉である。
「実録」では、天皇が一貫して平和愛好・戦争回避であったというストーリー性が強く出ていて、天皇の動揺や戦争論への傾斜については、ほとんど読みとることができない。
1943年5月31日の御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定された。このとき、現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアは、すべて大日本帝国の領土とし、重要資源の供給地とされている。つまり、日本の領土拡張(侵略戦争)が決められたのである。
昭和天皇は、国策決定のための御前会議では、若干の例外を除いて発言せず、大本営会議では活発に発言していた。国策決定のための御前会議では、政府側から発言しないよう要請され、天皇は、それに応じていた。
昭和天皇は、関東軍・朝鮮軍による満州事変には一定の疑念をもちながらも、満州の占領という軍事行動の「成功」は賞賛し、「満州国」の建国、日本政府(斉藤実内閣)による同国承認は明確に容認した。
昭和天皇の現状追認の姿勢は、状況をリードしてきた軍部、とりわけ関東軍の増長をまねき、1933年にいたって熱河侵攻という形で再び天皇を憂慮させることになる。
天皇は、熱河作戦に一定の歯止めをかけたかに見えたが、日本の進路にとって重大だったのは、斉藤実首相らが心配したとおり、この作戦が国際連盟における日本の立場を決定的に悪くし、結局のところ国際連盟からの脱退へとつながってしまったことである。
現状追認のあとにくるのは、結果優先の論理であった。
昭和天皇にとって、二・二六事件は、長くトラウマとしてのこったことが「実録」からも分かる。
山下奉文(ともゆき)と石原莞爾(かんじ)の人事について、天皇は強い不満を表明した。山下は皇道派として二・二六事件への関与が疑われていた。石原は、軍人でありながら勝手に任地を離れ帰国した。すなわち、この二人とも陸軍の統制を破壊する行動をとったことを昭和天皇は強く怒った。
領土拡張・勢力圏拡大という点を、天皇が否定することはなかった。これは君主としての重要な任務であると認識していた。
昭和天皇は、杜撰な計画や行動を非常に嫌い、つねに用意周到な計画、緻密な計算を要求した。それは結果的に、軍部の作戦計画の樹立を促進することがあった。
敗戦色が濃くなったとき、天皇は、統師部のいう「台湾決戦」に期待していた。沖縄戦は最後の頼みの綱だった。天皇が戦争終結に傾斜するのは、沖縄戦の戦況が挽回不可能であることがはっきりした時点である、そこでは、いよいよ天皇も覚悟せざるをえなかった。
天皇は、責任者の処罰と全面的武装解除に強く反対していた。
大変歯ごたえのある本です。この本が多くの人に読まれて共通の歴史認識を広めたいものだと思いました。
(2017年1月刊。

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2017年3月24日

いのちの終着駅、三菱勝田・大谷坑

(霧山昴)
著者 岩佐 英樹 、 出版  宮木印刷

著者は高校で社会科の教師をしていました。宇美商業高校には社研部があり、その顧問をしていたのです。
社研部に属する高校生たちが、宇美町にあった三菱勝田大谷坑における中国人強制連行、強制労働の実情を掘り起こして研究発表したのでした。
中国人労工352人のうち、87人が死亡した。1年3ヶ月で25%もの死者を出すというのは驚異的な死亡率である。30代で3割、40代で6割、50代では10割、全員が死亡した。労工の平均死亡年齢は、なんと32歳。
ところが雇用主であった三菱鉱業の報告書では、次のように記述されていた。
「会社は戦時中の物資不足時にもかかわらず、食糧、衣服、住居、医療、労働条件、賃金や手当などにおいて可能な限り優遇した。
それは、社内の日本人や朝鮮人から不満が出るほどだった。しかし、中国人労工は、まったく労働意欲のない連中だった。おかげで会社は大変な迷惑を蒙った。多くの死亡者が出たのは、彼らの虚弱病弱な体質に原因があった」
上海で「労工募集」の張り紙が貼りだされたが、それによると、支度金として900円を出発前と到着後に2回支給する。そして、日給は54円から72円。当時、日本の役場の初任給は月に70~80円だったから、破格の好条件である。
仕事がなくて困っている中国人をだまし、近寄ってきたところを拉致して日本へ連行するという「労工狩り」がすすめられた。
この本を読んで驚くのは、中国人労工を働かせて、多くの人を死に追い込んでいる日本企業が戦後になって莫大な補助金を国からもらっているということです。
中国人を強制労働させたために会社は赤字になったので、その赤字を補填してもらいたいといって、35社に600億円(1946年当時のお金で5672万円)が支払われたというのです。信じられません。しかも、この35社は、黒字を出していたのに、赤字だと偽って国から補助金をもらったというのですから、まさしく開いた口がふさがりません。まさしく詐欺です。森友事件よりひどいです。
高校生たちが中国の遺族へ手紙を出したところ、一通だけ届いたとのこと。中国人労工の遺族から返信があったのです。
そして、大谷坑の購買店で働いていた若い日本人女性と親しくなった中国人が戦後、中国へ帰国し、今ではシンガポールで元気に生活している本人から突然、その女性にエアメールが届き、再会したのでした。
歴史を掘り起こすことは大切なことだと実感させられる本でもありました。
(2017年2月刊。1000円+税)

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2017年1月12日

虎徹幻想

(霧山昴)
著者 下里正樹・宮原一雄 、 出版  新日本出版社

 戦前、特高警察のやったことを元特高課長夫妻に取材した結果をレポートした本です。
 取材に応じたのは、元警視庁特別高等警察課長・纐纈弥三(こうけつやぞう)です。
 纐纈は一高から京都帝大法学部に進み、内務省に入った。特高課長を経て、大分県知事などを歴任した。戦後は公職追放となったが、戦犯解除後には自民党の衆議院議員を4期つとめた。3.15と4.16という共産党弾圧の功績に対して、双光旭日勲章が授与されている。 
戦前の特高係員は、刑事訴訟手続きをまったく超越して仕事をしていた。
3.15弾圧のとき、特高課が把握していた共産党員は70人。ところが、1600人も検挙した。その九割までが検挙する必要もない人々だった。
 女性革命家は、性格が強すぎて困った。男とちがって、女性の政治犯はしぶとい。あのしぶとさは閉口させられた。女性はいったん「こうだ」と思い込んだらテコでも動かない。絶対しゃべらないんだ。なだめても、すかしても、脅かしてもダメ・・・。男のほうは比較的簡単だった。ちょっと迫れば、べらべらじゃべるものもいた。なかには、特高にしゃべらなくてもいいことまで、すすんで話すようなサービスのいい男性党員もいた。鍋山貞親もその一人。
 初代の特高部長に纐纈は当然に自分がなるものと考えていたところ、安倍源基が二階級特進して、特高部長となった。この人事は、纐纈にとって、よほど腹にすえかねるものだった。
纐纈は、客のもってきたものは、まず妻君に毒味させ、客が食べたあと、自分が食べるというように用心を重ねていた。妻君は、特高のやったことがひどかったから、恨みを受けて、いつかは夫は誘拐され、仕返しされると恐れていた。
 スパイは、「組織に知られないように頼みます」とか「殺獄しないでほしい」となんども懇願しながら、夫に秘密を守ってくれるように念押しをしていた。
 纐纈は特高課長としての機密費をもっているから、党内情報と引き替えに、お金をスパイに与えていた。纐纈は特高課長をやったことを誇りに思っているけれど、妻の私は、とてもそういう気分にはなれない。特高の家族もまた被害者だということを知ってほしい。
 特高課長の妻であっても、内心では特高のやっていることは、感心できることではないと思っていた。 
特高課長の妻だった女性の告白は、なるほどと思いました。
機密費は、課長分だけで月5百円あった。月給は月百数十円だった。
 スパイの要請なくして共産党対策はない。スパイをつくるためには、党員個人の持つ弱点を徹敵的に研究する。そして狙いをつけた者にじわじわと接近する。ときに、本人の弱点が党の機関に知られておらず、知られるとこっぴどい処分を受けるような弱点にかぎる。
 公安係の子どもとして育った人の話をきいたことがありますが、家庭内がなんとなく暗い雰囲気だったとのこと。子どもに話せないような仕事をしているのですから、それも当然でしょうね。スパイを養成し、スパイを操って党内情報を探るのを一生の仕事にしている人の人生って、どれだけの価値があるのでしょうか・・・。お天道様の下を堂々とあるけるほうが、よほどいいですよね。
 生前の特高警察の実態を暴いた貴重な本です。


(1991年1月刊。1800円+税)

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2016年12月29日

炭坑美人

(霧山昴)
著者 田嶋 雅己 、 出版  築地書館

 1987年から1991年にかけて、筑豊中を著者が駆けめぐって、元女坑夫だった150人ものお婆ちゃんたちを取材した本です。そのほとんどが顔写真を撮らせてくれたので、坑夫生活の様子が顔写真とともに紹介されています。炭坑美人と銘うった本になっている所以です。
 筑豊に炭坑が栄えるようになったのは、明治20年代から30年代にかけてのこと。もちろん戦後まで続いた。この100年間に掘り出された石炭は8億7000万ドルに達する。
赤い煙突目あてにゆけば、米のまんまがあばれ食い
当時の採炭はツルハシを使って石炭を掘る、男の「先ヤマ」と、その「先ヤマ」によって掘り出された石炭をスラと呼ばれるソリ状の箱やテボ・セナといった、竹でできた籠を使って運びだす「後ろ向き(あとむき)」を、もっとも小さな単位として成り立っていた。
闇夜よりもまだ暗い、真っ暗闇に下がった女坑夫の多くは、この「後向き」と呼ばれる労働に従事した。
女坑夫たちは、早ければ9歳から、15歳になれば公然と坑内に下がって働いていた。
 戦争が終わって、アメリカの時代になって女ごは坑内に下がることがでけんごとなった。ワシは喜んだばい。もう、これで明日から坑内に下がらんでいいと思うてね。そいき、日本は戦争に負けて本当に良かった。女ごは坑内なん下がっちゃあならん。
私も一度だけ、たった一度だけですが、炭坑の坑内に下がったことがあります。海底深くの切羽(きりは)までたどり着くのに1時間以上もかかりました。坑内電車に乗り、マンベルト(ベルトコンベアーに人間が座れるようになっています)に乗って、徒歩で真っ暗闇のなかを歩いていくのです。漆黒の闇です。もちろん、頭上にはキャップランプがついているので、行く先だけはなんとか見えるのですが、深い闇の中に入っていくのは本当に怖いものです。一度で私はこりごりしました。
 それでも、坑内は夏は涼しいし、冬は温(ぬく)い。慣れてしまえば、坑内ほど、いやすいところはないとたい。三日間、坑内にずっといたこともある。
一度は天井がバレて、2日ぐらい閉じ込められたこともあった。坑内では函がどまぐれてペチャンコになって死んだ人もおりなすった。そんなのは、よう見るくさ。恐ろしかったら坑内には下がられん。人が死んだ現場の横で明けの朝には炭を掘らんとやからね。
 ボロクソに怒られながら、地の底で虫ゲラのごとく働いていて、本当に情けない。坑内は暗い。いくら泣いても涙も分からない。涙と汗と炭塵で体中が真っ暗になる。上半身は裸なので、もうとても女の姿なんかじゃない。
 朝鮮人は何の訓練もなしに働かされていた。入坑するのも風呂に入るにも見張りがついていた。耐えかねて逃げ出しても、たいていは捕まる。すると、全員が見ている前で、ビシビシ叩いて水をザブザブかける。見せしめにするため。
 坑内では、男はもうヘコも何もせん。みんなフリ出しばい。娘たちはズロースだけは履いちょったばってん、オバサンたちなん、なんもはいちょらん。下から見れば、まるっきり見えるとやき。そげなふうで、昔は、みーんな裸。スッポンポン。そいで、シモの話ばっかりしよるきなぁ。坑内下がっとるときは面白かったよ。笑うげなことばっかしたい。
生理のときも休まず働いていた。
戦前の筑豊の炭鉱の驚くほど生々しい実態がよくぞ紹介されている、貴重な聴き取り集です。


(2000年10月刊。2500円+税)

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2016年12月25日

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち

(霧山昴)
著者 小野賢二・藤原彰・本多勝一 、 出版  大月書店

 1937年(昭和12年)12月、日本軍は激しい南京攻略戦のあと、投降してきた中国軍兵1万5000人を捕虜として国際法に定められた処遇をすることなく、揚子江岸で12月16、17の二日間で殺害した。それは、2ヶ所で3分割して行われたとみられる。
 抵抗できない捕虜集団を機関銃で一斉掃射を操り返して皆ごろしにしたあと、遺体を石油をかけて焼却し、揚子江に流した。
このとき関わった日本軍の将兵の陣中日記が掘り起こされ、活字になったのが本書です。いかにもむごい内容が、小さな手帳などに刻明に、また淡々と書き込まれています。
 この日誌をつけていたのは、南京占領直後に捕虜の大量殺害を行った第十三師団の山田支隊に属していた下級将校と兵士たち。第十三師団は日中全面戦争に拡大した1937年9月に動員が下冷され、新しく編成された特設師団。
特設師団とは、平時から常備兵力として設置されている常設師団にたいするもの。
山田支隊は、歩兵第百三旅団長・山田少将の率いる歩兵三大隊、山砲兵一大隊を基幹とする部隊。歩兵は、会津若松で編成された歩兵六十五連隊、山砲兵は越後高田で編成された山砲兵第十九連隊の三大隊だった。兵士の大部分は現役満期後5年から15年も過ぎた30代の後備兵が主体だった。
特設師団が中国へ動員されたのは、上海戦における中国軍の抵抗が激しく、日本軍が思いもかけない苦戦を強いられたから。上海付近の中国軍は、堅固な陣地に拠り、抗戦の意識に燃えて果敢に戦った。
 たしか、このとき、中国軍はドイツ軍の兵器を供給され、ドイツの軍事顧問国による指導を受けていたと思います。
そのため、日本軍には死傷者が続出し、砲弾まで不足してしまった。そこで、日本軍は急遽、兵力増派に踏み切った。
後備兵が30代ということは、すでに結婚して3人とか4人の子どもがいて、一家の中心となっている人たちだった。師団の将校も幹部候補生出身の予備将校であった。
 上海戦での日本軍の損害は甚大であったから、各部隊とも多数の補充を必要とした。このため、次々に補充兵が各部隊ごとに送られていった。
江南の広い地域に、部隊を追いかける補充兵の集団がなだれのように進んでいった。寄せ集めの補充兵たちを先任の引率者が引き連れていく。さらに、南京への進撃が急なため、後方補給の準備はほとんどなく、兵站(へいたん)線がきちんと確保されてはいなかった。そのため、補充兵の集団は、それぞれ食料の現地微発をくり返しながら進んでいった。これも、掠奪、暴行、強姦などの蛮行を起こしやすい原因となった。
家族を愛し平凡な日常生活を送っていた農民や市民が侵略戦争の最前線に立たされ、微発と捕虜殺害を繰り返していく中で、いつのまにか残虐行為に手を下すことに何のためらいも感じなくなっていた。
 下級将校や兵士の日記のほうが高級指揮官や参謀の日誌よりも、よほど信用できる。というのは、高級指揮官や参謀の書いたものには自己顕示欲にあふれているものが多い。それに対して、他人の目を気にせずに書かれた将兵の日誌の方が、よほど信用できる。
 日本人は、昔から活字が大好きで(文盲は、戦前もごくわずか)、日記をつけるのも大好きです。私も、小学4年生のころの絵日記帳を今も「宝」のように大事にして残しています。
 「12月16日、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺する。
 12月17日、2万以上のこととて、ついに大失態にあい、友軍にも多数死傷者を出してしまった」
 「12月17日、夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。
 一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」
 「12月18日、 昨夜までに殺した捕虜は約2万。揚子江岸に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。
 12月19日、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼い たため、悪臭はなはだし」
 「12月16日、捕虜総数1万7025名。夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し射殺する」
 「12月16日 捕虜、三大隊で三千名を揚子江岸にて銃殺する」
 捕虜となった中国軍の代表から、書面が届けられたこと、それを転記した少将がいました。投降軍の臨時代表は、4日以上も我々はひもじいい思いをしている。故郷に返してほしいと願っています。
日本軍は、捕虜に与える食糧を持っていませんでした。この日記を読めば、南京大虐殺が幻とか嘘だったなど、絶対に言えません。
 日本軍の将兵は日本に帰ってきたとき、自分の書いた日記もちゃんと持ち帰っていたのですね。大変貴重な記録集です。
私たち現代の日本人も、自分がやったことではないとウソぶいて戦前(戦中)の日本軍のした蛮行から目をそらすわけにはいきません、負の遺産もきちんと受け継ぐことが、明日の平和を確保することにつながるのです。
 
(1996年3月刊。582円+税)

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