弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

東南アジア

2010年11月30日

バンコク燃ゆ

 著者 柴田 直治、 めこん 出版 
 
 タックシンと「タイ式」民主主義というサブタイトルがついています。著者は朝日新聞社の前アジア総局長で、タイにも駐在していました。私もタイのバンコクには一度だけ行ったことがあります。微笑みの国、仏教徒の多い寛容な国というイメージをもっていましたが、実はなかなか政争の激しい国なんですね・・・・。
 バンコクには3万2000人の日本人が住んでいる。これは外国の首都の中では一番である。タイに進出している日系企業は7000社。小中学生2500人の通う日本人学校は世界最大級の規模だ。タイを訪れる日本人旅行者は毎年120万人ほど。私の依頼者の一人が長期出張で今バンコクにいて、裁判手続を目下のところ見合わせています。先日、インターネット電話で話しましたが、声は鮮明ですし、料金もかからないというので驚きます。
 タックシンは、タイの憲政史上、最強の政治家であり、歴代宰相のなかできわめて特異な存在である。タックシンは1949年生まれですので、私と同じ団塊世代。
タックシンは警察士官学校に進んで、キャリア警察官になった。そして、警察官のかたわらケータイ電話を扱う企業を起こして成功し、警察を退職。途上国では給料が安いから公務員の副業はあたりまえのこと。
 タックシンが本気で貧富の格差是正を考えていたとは思われない。持てる層から税を取るということはしなかった。タックシン自身が「持て」側の代表だったから。貧困層や農村部への施策は、より少ないコストでより多くの票を集める手段と考えていたのではないか。タックシンは、直接的な収賄をする必要がないほど金を持っていた。そして、タックシンの経済政策の相当部分が自分自身の利益に直結していた。
 都市中間層や教育のある人々のなかにタックシンを生理的に嫌う雰囲気がある。それは、敵とみると逃げ道を残さずに痛めつける攻撃性、資金の豊かさや権力の強大さを隠そうともしない傲慢さがタックシンにはある。都市中間層からすれば、タックシン政権の貧困削減策は、単に人気とりのばらまき政策であり、都市部のインフラ整備などに回すべき政府資金=自分たちの納めた税金が浪費されているという認識である。逆に、貧困層や地方の農民にとっては、タックシン政権は初めて彼らに目を向けてくれ面倒をみてくれた政府だった。
 タックシンは軍事費を削り、将軍クラスが握る闇の利権にも手をつけた。それで、軍の中に大きな不満を生んだ。クーデターの大きな要因は、「軍の都合」である。クーデターの後、軍事費は2倍以上となった。膨張した予算をもとに、将軍たちは兵器リストをつくってショッピングに励んだ。タイの軍は、戦闘集団というより、官僚組織や利益擁護集団の色彩が強い。
 日本政府はタックシンには冷たく、クーデターを起こした軍には温かった。これも、いつものように日本は利権を優先させるわけなのですね。タイの表玄関のスワンナプーム国際空港の総工費1550億バーツのうち730億バーツを円借款でまかなった。日本の援助としても最大規模。ターミナルビルも、日本企業中心の共同体が受注した。
 タイのメディアは裏を取って確認する習慣がない。うへーっ、これって怖いですよね。日本のマスコミがそんなにすぐれているとは思えませんが、少なくとも裏を取ろうとはしていますよね・・・・。
 タックシン政権は、いろいろのグループから構成された。そのなかの有力な集団の一つは、1970年代に学生運動に没頭した活動家たちだった。だから、反対派は、その点をっとらえて、「反主制」というレッテルを貼りたがる。
 タイ騒動の内情をつぶさに知ることの出来る本でした。
 
(2010年9月刊。2500円+税)

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2010年11月 8日

秘境に学ぶ幸せのかたち

 著者 田淵 俊彦、 講談社 出版 
 
 テレビ東京の「世界秘境全集」ディレクターによる秘境体験記です。テレビ東京は開局45周年記念番組として「封印された三蔵法師の謎」を放映しましたが、その番組制作にも著者は関わっています。
すごい人です。初めて秘境を訪れたとき、著者は26歳でした。それから20年間、世界各地の秘境をめぐったのです。なんと79ヶ国ですよ。すご過ぎますよね・・・・。
 南米のアマゾン。ジャングルの民は、食べるだけ作るから保有はしない。その日に、食べる量のマンジョーカだけを畑から抜いて、ファリーニャを作る。ため置きをするという発想は彼らにはない。
 ワニは尻尾(しっぽ)の部分を食べる。分厚いウロコの下から現れたのは、雪のように真っ白な肉である。他の部位は骨と筋だけで、とても食べられたものではない。肉をざっくりと塊に切り分け、塩と黒ゴショー、酢そして最後にパプリカという唐辛子で味付けをする。それから、高温の油で一気に揚げる。鶏肉に似た弾力があって美味しい。アマゾンの貴重な贈り物である。
むひょう、ワニって、本当に美味しいのでしょうか・・・・。信じられません。
秘境の人々は、食に対する知識が驚くほど豊富である。森にいる動物や植物の生態をすべて知り尽くしている。
 チチカカ湖周辺の人々は、ツンタを土につけて食べる。ツンタとは、チチカカ湖の水にジャガイモを1ヶ月間つけて発酵させたもの。水で煮込んで戻したツンタを土につけて食べる。といっても、どの土でも食べられるというものではない。いやあ、そうでしょうよ。土を食べるなんて、ぞっとしますね。美味しいものとは、とても思えません・・・・。
 カナダのイヌイットはアザラシ狩りに関して、いろいろの決まりがある。子どもとメスは狙わない。一発で仕留めなければならない。仕留めたばかりのアザラシの口には、末期の水を注いでやる。すぐに解体してやらなければならない。これらは自分たちの命を支えてくれる動物を敬う気持ちからなる。
 アザラシの解体を始めると、初めに肝臓を取り出して食べる。生の肝臓には、ビタミンが豊富に含まれている。野菜の不足する北極圏では、ビタミン欠乏症になりやすいから、それを防ぐためだ。むかし、本多勝一の本に同じような描写がありましたね。
 中国の雲南省の山深い村には、背負い婚が残っている。略奪婚、そこから発展した背負い婚。男女が出会う機会の少ない場所ならではの結婚のかたちである。略奪婚は、式をあげる費用がないほど貧しい地域で多く行われていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
 ブータンで修行中の少年僧は裸に毛布一枚だけをまとって眠る。どんなに寒い日であっても、袈裟を着たまま眠るのは許されない。これも修行なのである。うへーっ、ぞっとしてきます。私は寒さに弱いので、これではたまりません。
 チベットには鳥葬がある。死んだ者の家族は、死体から手足を切り離し、服を裂いて内臓を取り出し、頭蓋骨を砕く。これは、鳥が食べやすいようにということだけではない。鳥が空に舞い上がるのと同時に、死んだものの魂も天に昇ることのできるようにとの願いが込められている。外国人には見せられない儀式だが、子どもは必ず現場に立ち会わせる。人間は死と無縁では生きられない。死はいつやってくるか分からないが、やってくるのは確かだ。だから、死を恐れるべきではない。このような死に関する太古からの教えを子孫に伝授するのだ。うーん、なりほど、でも、そう言ってもですね・・・・。その情景を想像して、またそれを思い出して、夜、眠れなくなりました。といっても、実は、すぐに深い眠りに入ったのですが・・・・。
 すごい本です。秘境に生きる人々から私たち日本人はたくさん学ぶところがあると思いました。そうはいうものの、私は、こんな体験記を読むだけで十分です。とても自分自身が秘境に出かけるなんていう勇気はありません。ワニに食べられたくもありませんし・・・・。

(2010年8月刊。1700円+税)
 庭の一角にシュウメイギク(秋明菊)のクリーム色と言うよりほとんど純白の花が咲き誇っています。その隣には鹿の子斑のホトトギスの花がひっそりと咲いています。不如帰の花が咲くと秋の深まりを感じます。急に寒くなりました。この冬は寒気が例年より強くなるそうです。お互い、風邪などひかないようにしましょう。

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2010年7月 4日

パプアニューギニア

 著者 田中 辰夫 、 花伝社 出版 
 
  パプアニューギニアって、どこにあるのか知らん・・・・、と思っていると、あのラバウルが含まれているのでした。いまテレビで放映中の、「ゲゲゲ」の水木さんのいた島です。また、山本五十六元帥が、アメリカ軍に暗号を解読されて所在がつかまれ、撃墜されたところでもあります。
 そのパプアニューギニアが、戦後の日本とは平和的な結びつきを強めていることを、この本を読んで初めて知りました。パプアニューギニアを知る入門編にあたる本です。
 パプアニューギニアには、700以上の多言語と、それにもとづく民多族集団が存在する。自然環境や生活様式における地域的多様性は著しい。
 首都はポートモレスビーは人口25万人。面積でいうと大阪市に等しい。しかし、人口は10分の1でしかない。
 パプアニューギニアの都市は犯罪が多く、治安が悪い。人々が町を自由に歩けるのは日中だけ。夜になると、歩行者はまったくなく、ゴーストタウン化する。
 パプアニューギニアでは米が生産されている。日本の農業技術が生かされている。また、良質のコーヒーも生産している。ユーカリを植林し、成長した木材を日本に輸入している。ユーカリは、植えたあと1年で千メートルも伸びる。
そして、LNG。パプアニューギニアの山地に年間660万トンの液化天然ガス(LNG)がとれる。その半分の330万トンを日本へ輸出される計画がすすんでいる。
一度は行ってみたい、自然豊かな南の島です。でも、治安の悪さが気にはなりますね・・・・。 
(2010年3月刊。1500円+税)
 沖縄の普天間基地の移転先と目されていたグアム島のなかにも、基地受け入れについては賛否両論あるようですね。
 そして、目理化軍のなかにも海兵隊と陸海軍との内部抗争があるという記事も読みました
 いずれにせよ、平和な沖縄にいつまでも沖縄軍の基地があっていいものでしょうか。これって、選挙の重大争点のはずなんですよね……。日本人って、忘れるのが早すぎませんか?

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2010年4月 2日

タイ 中進国の模索

著者 末廣 昭 、 出版 岩波新書

 タイには一度だけ行ったことがあります。かつて一度も他国の植民地になったことのない安定した王国です。僧侶の多い、微笑みの農業国という印象も受けます。ところが、バンコクに行ってみると、すごい渋滞の国です。
 高層ビルが立ち並んでいて、高架鉄道が走っています。治安は良いので、私も一人で高架鉄道に乗って、シルクの店に出かけたのでした。
 ところがタイは、農業国ではなく、工業国である。輸出額のトップはコメではなく、コンピューター部品なのである。大学生は一握りのエリートではなく、在籍者は180万人にのぼる。増加するストレスに直面して、微笑みを失った国になっている。
 1973年に軍事政権が倒れてから2008年末までの35年間に、クーデターが4回、憲法制定が6回、総選挙は14回、政権交代は27回も経験している。首相の平均在任期間は1年半という短さである。 タイは決して政治的に落ち着いた国ではない。黄色シャツは反タクシン勢力、赤色シャツは親タクシン勢力である。この対立を民主主義を推進する勢力と阻害する勢力の対立、王制を守るグループとないがしろにするグループの対立、都市の中間層と農村の貧困層の対立というとうに、国を二分するグループ間の衝立という構図に読みかえるのは適切でない。国民の大多数は黄色にも赤色にも、そのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている。
 タクシン元首相は1949年生まれですから、私と同じ団塊世代ということになります。警察中佐でしたが、コンピューターのレンタル事業に乗り出し、またたくまにタイ最大の通信財閥に発展させた。1998年、51歳の若さで首相に就任し、2006年9月のクーデターまで5年8ヶ月、政権を維持した。
タクシン首相による「国の改造」は国王と王室の威信と権威を傷つけ、国軍の人事や国防予算といった軍の聖域を土足で踏み荒らし、官僚を政策決定機構から排除していった。当然、そこに反発と不満を引き起こした。
 タイという国を多角的に分析していて大変分かりやすく読みすすめることができました。
        (2009年8月刊。780円+税)

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2009年11月25日

キャパになれなかったカメラマン(上)

著者 平敷 安常、 出版 講談社

 ベトナム戦争が激しくたたかれていたころ、アメリカ軍と一緒に戦場カメラマンとして駆け回っていた人の体験記です。よくぞ死ななかったものだと思いました。戦場では常に死と隣り合わせだったのですね。そして、その戦争の不条理さが戦場の硝煙ととともにひしひしと伝わってきます。
 いま考えて、ベトナムの地へアメリカ軍が出かけて行って、「ベトコン」と戦い、5万人以上ものアメリカの青年が戦死したことにどんな意味があったというのでしょうか。亡くなられたベトナム人民とアメリカの青年にはまことに申し訳ありませんが、まことに壮大なゼロとしか言いようがありません。すべてはアメリカの支配層の間違った判断によるものだと私は確信しています。
 真面目に間違うと恐ろしい結果をもたらすという典型が、このアメリカによるベトナム侵略戦争だったと思います。いままた、同じ間違いをアメリカは、イラクそしてアフガニスタンで起こしています。アメリカが最終的に勝利するはずがありません。イラクだって、アメリカ兵が撤退したところにやっと平和が訪れているというではありませんか。
 ジャングルの中の行進のとき。小休止したときに、塩の粒を2つ、口に含んで水と一緒に飲む。これは、熱さにやられたり日射病にかかりそうになったときに飲むと効果がある。米粒の2倍くらいの大きさの塩の粒が、50個ほど詰まった小瓶が売られている。
 熱いベトナムでは水を飲み出したらきりがない。少々の水では喉の渇きは止まらないので、なるべく飲まないようにした。水より熱いお茶のほうが、喉の渇きに良い。
 前線で兵士にものをねだるのはタブーで、絶対にしてはいけないことの一つ。食べ物や水、煙草もねだってはいけない。ただし、煙草はくれたらもらって一緒に吸ってもいいらしい。そして、ジャングルの戦場に出かけるとき、食料持参を忘れて、丸1日半、水だけで頑張った。こんなに酷く腹を空かせた経験はなかった。兵士たちが食事をする光景を見なくて済むように、目を閉じて居眠りするふりをしていた。しかし、実に難しかった。そんなとき、黒人兵士が缶詰を一缶、分けてくれた。そこで、記者と2人で一缶にみたない中身を分けて食べた。
 飢餓状態にある著者たちに十分な量ではなかった。しかし、不思議なことに、あれほど強烈に襲っていた飢餓感が消えていた。前夜からこの日昼まで続いた、狂おしいまでの食べ物への欲望がどこかへ消えてしまった。この経験のあとは、何を食べても文句は言わなくなった。
 1968年当時、ベトナムには50万人ものアメリカ兵がいて、多いときには週に500人も戦死していた。うへーっ、ウソでしょ、と言いたくなる数字です。
 この本に登場してくるジャーナリストの多くが「戦死」しています。戦場でたたかう兵士を密着取材するのです。その数字が写真で紹介されていますが、大きなテレビカメラをかかえて現場で取材している様子は、こりゃあ大変だと思わせます。改めて、ベトナム戦争の実相を知り、その意味のなさに怒りすら感じてしまいました。多くのベトナムの人々、そしてアメリカの青年が無残に殺されてしまいました。人命をあまりにも粗末にした戦争でした。

 松山に行ってきました。坊ちゃんとマドンナの町ですが、今やすっかり『坂の上の雲』の街になってしまいました。ただ、市長さんの挨拶のなかではNHKテレビがこの11月末から3年間にわたって放映されるけど、それが決まる前、10年前から市として取り組んできたとのことです。
 松山城に登ってみました。先日は和歌山城によりましたが、同じ平山城です。松山常の天守閣から見た松山市街のほうが和歌山市がいより大きい気がしたのは気のせいでしょうか。
 弁護士業務改革シンポに、一度もエスケープすることなく朝から晩までずっと参加していました。珍しいことですが、それにはわけがあります。私の事務所も法人化して支店展開しようとしているからです。「共同事務所経営のノウハウを探る」というテーマでは聞き逃すわけにはいきません。共同の目標になるものを書面にしておく必要があるなど、いろいろ本当に勉強になりました。
 他の分科会の報告を聞くと、日本の判例は0.32%しか公開されていないとのこと。外国では100%公開なのに対して、あまりに立ち遅れており、これでは憲法に定めた「裁判の公開」が鳴くとの指摘があって、なるほどと思いました。すべての判決が公開されると、裁判官の評価もさらに具体的に議論できることでしょう。直ちに改められるべきものです。
 
(2009年6月刊。2400円+税)

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2009年6月 2日

ホーチミン・ルート従軍記

著者 レ・カオ・ダイ、 出版 岩波書店

 ある医師のベトナム戦争(1965~1973)というサブタイトルがついています。私が高校生、大学生そして司法修習生であったころ、あの過酷なベトナム戦争に従軍医としてジャングルのなかで戦った体験記です。先に紹介した「トゥーイの日記」(経済界)は若くして戦死してしまった女医の従軍日記でしたが、著者は幸いにもベトナム戦争を生き延びました。
 400頁近い大作ですが、東京そして秋田へ向かう飛行機のなかで、私は一心不乱に読みふけり、いつのまにか目的地に着いていたのでした。
 本書の全体を知るために、オビの解説をまずは紹介します。
 ハノイ第103病院に医師として勤務していた著者は、1965年、南の最前線であるラオス・ベトナム・カンボジア国境にまたがる中部高原戦線に特別の病院を建設する任務を命じられた。翌1966年、ホーチミン・ルートを行軍し、広大なジャングルに潜む野戦病院で医療行動を始めた。そこには、食糧・物資の欠乏、膨大な病死者そして戦死者、敵の猛襲のなかで、頻繁な病院の移転。これまで知られてこなかったホーチミン・ルートにおけるベトナム戦争の真実、ベトナム解放を戦った側の苦難の日々を卓越した観察力で描いた驚異のドキュメント。いやあ、本当に苦難、苦悩の日々です。たまりません。
 兵士が誇らしげに「インドシナを貫く戦略道路」と呼ぶホーチミン・ルートは1000キロメートルをこえる道路網からなる。ベトナム・ラオス・カンボジア国境にまたがるチュオンソン山脈の森林を縫う。1959年5月に貫通した。自動車道路があり、徒歩ルートが数キロメートル離れて並行して走っている。中継所キャンプの間隔は、徒歩で8、9時間だったが、その後5,6時間に短縮された。兵士は、自分の食べるお米を7日から12日分も携帯する。荷物を軽くしたいが、食べるものがなくなったときのことが心配だ。腹いっぱい食べたければ、重い米袋を担ぐしかない。そして、追わねばならない米があるのは幸せなのだった。
ジャングルのなかには毒キノコがあり、空腹のあまりに食べて喚き狂いながら森の中へ走り入る兵士がいた。
 ホーチミン・ルートの山と谷は、有毒な化学剤で裸になったものが多い。見事な緑の葉が数日のうちに褐色になって落ちる。
 徒歩旅行は、通常4、5日続け、その後一日休息する。休息日は水浴と洗濯だ。そのときの楽しみは将棋とラジオだ。ラジオは親友のようなもので、戦場で置き去りにすることはできない。早朝から寝るまで、誰もがラジオを終日聴く。どんな番組でも、選り好みはしない。
 ジャングルにはダニがいる。ダニを引き抜かず、尻を火に近づけると、ダニが熱さのために這い出て来る。それをつかむ。皮膚を焼かずにダニを焼くのがコツだ。
 森で道に迷うのは、初めて中部高原に足を踏み入れた者にとって恐怖の的だ。
 ジャングルが空襲されたとき、倒れていると、黒い大蛇が一匹、太さは腿ほど、竹のように長い奴が、頬をするすると這って森の中へ逃げて行った。
 ジャングルでは食料が乏しい。一か月以上も肉を食べていない。猿(テナガザル)や象を仕留めて食べる。環境保護を尊重するより、野生動物は貴重な栄養源だった。ニワトリを飼っているが、森一帯に響く雄鶏の鳴き声は、敵の注意を引くので、注意を要する。
 病院の設営にあたっては、居住部の部屋は少なくとも30メートルの間隔をとる。そして、一軒の丸太小屋に人々は6人をこえない。各科主任は別々の小屋に住む。一発の爆弾で、指導部全員を失わないための配慮だ。病院は患者で満員で、常時600人から800人いて、毎日増える。そして、マラリアで毎日4.5人ずつ死んでいく。
 食料を入れた倉庫は、20日行程も離れている。指揮官は、階級に応じてミルクと砂糖を配給された。歩兵大隊長あるいはそれ以上の中級将校はミルク2缶と砂糖0.5キログラム。中隊長以下の下級将校はミルク1缶と砂糖300グラム。普通兵士はミルクや砂糖がなく、他の品も配給が少ない。
 直面する最大の難問は、爆弾や銃弾による負傷ではなく、病気だ。中部高原はマラリアの風土で加えて食糧不足、引き続く重労働、それにアメリカ軍による有毒枯葉剤撒布の影響もあって、健康を損ねる。著者自身、マラリアにかかって震えながら外科手術を執刀した。戦場で死はたやすく忍び込む。中部高原での死因には32種類あった。多いのは、病気、爆弾、銃弾、倒木、溺死、毒蛇、毒キノコ、象、味方同士の誤射だった。爆弾、銃弾による負傷兵は、病院の患者の10%にすぎない。食糧不足とマラリアのはびこる環境による病気が多い。
 ハノイから送った1028個の梱包のうち、前線で受け取ったのは、わずか100個ほどにすぎなかった。しかも、なんと小説とか子供服といった不要不急の物が多くあった。
 森の中の少数民族は、「刀手二つの距離だ」と言う。これは、一方の手で刀を持っている間が距離を測る単位だということ。つまり、刀を一方の手で長くもっていて疲れると、一方の手に変える。これが距離の一単位となる。うへーっ、な、なんという距離の測り方でしょうか……。
 ジャングルの中でも、恋は芽生える。しかし、恋愛も結婚も、出産も、みんな延期すべし。これが政策だ。妊娠したら中絶するしかない。それでも、認められて結婚式をあげるカップルもいた……。
 「さらし者の子牛たち」。南の戦場へ行く途中で脱走し、後方へ戻される途中の若者たちを指す言葉。生涯を戦争に捧げる者がいる一方、嘘をついて逃げ、病気を過度に重くいう者がいた。うひゃあ、私なんか、この「さらし者の子牛」になった組ではないかと恐れます。
 カルテの紙がなければ、缶詰のラベルをはがして使う。竹の薄皮もつかえる。部品を集めてX線装置を組み立てる。自転車を看護師の女性がこいで、その灯で手術をする。発電機を動かすガソリンがないから、水力発電所をつくる。注射器やアンプルが欠乏したので、ガラス工場をつくる。敵の武装ヘリコプターをライフルで撃ち落とす。負傷兵に医師が自分の血を輸血する。
 すさまじいジャングルのなかの戦いが生々しく描かれています。ホーチミン・ルートの実情が、先の『トゥイーの日記』とあわせて、よくよく理解できました。よくも、こんな過酷な戦場から生還できたものです。ベトナム戦争に関心のある方に一読をおすすめします。
(2009年4月刊。2800円+税)

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2009年3月 5日

ヴェトナム新時代

著者 坪井 善明、 出版 岩波新書

 私と同じ年に生まれた著者は、1968年秋にベ平連のデモに参加したとのことです。私もベ平連のデモに参加したことこそありませんが、ベトナム戦争反対を叫んで集会に参加し、デモ行進に加わったことは、数え切れないほどです。ちなみに、ベ平連とは、「ベトナムに平和を!市民連合」の略で、先ごろ亡くなられた小田実氏などが提唱して活発に活動していた市民運動団体のことです。
 ベトナム戦争が終結したのは、私が弁護士になった翌年のことでした。メーデー会場で、そのニュースを参加者みんなで喜んだものです。アメリカがベトナムに50万人もの兵隊を送るなんて、考えられませんよね。ところが、イラクと違って、アメリカは短期間でベトナムを征服し、支配するどころか、ジャングルでの戦いで消耗させられ、5万人以上の戦死者を出し、結局、みじめに敗退していったのでした。アメリカ大使館らしき建物からヘリコプターに必死につかまって逃げていくアメリカ兵たちの映像が強烈な印象として残っています。そして、アメリカを追い出したベトナムがどうなったのか、が問題です。私も、ベトナムには最近一度だけ行ったことがありますので、この本を大変興味深く読みました。
 2007年にベトナムを訪問した外国人のうち、アメリカ人が一番多かった。その中には、ボートピープルとしてアメリカに政治亡命した旧「南」政府関係者の子弟で、アメリカ国籍をとり、ビジネスで活躍している多くの「ベトナム人」が含まれている。いわゆる越僑(えっきょう)である。彼らは武器を持ったアメリカ軍兵士としてではなく、インテルやマイクロソフトなどのIT産業や銀行、投資会社のようなビジネスマンとして大挙してやってきたのだ。
 ベトナム政府としても全世界の越僑管理システムを作り上げたことによる。ベトナム戦争終了後、32年たって初めて、越僑が正式に帰国して定住することが認められた。
 越僑は、2006年には実質100億ドルにおよぶお金を祖国ベトナムへと送っている。
 ベトナムの国際的なイメージを改善するのに役立った2つの大きな政策があった。一つは、1988年1月に施行された外国投資法。外国法人の投資を奨励するための法律。もう一つはカンボジア和平の実現である。
ドイモイ政策が軌道に乗るまでは、赤ちゃんの栄養状態が悪く、小さく、やせ、あまり笑顔を見せず、泣き声にも元気がなかった。ミルクが足りなかった。ところが、ドイモイが軌道に乗ると、ミルクが市場にあふれるようになり、赤ちゃんが元気な笑顔を見せるようになった。今では肥満児問題がベトナムでも目立つようになった。ベトナムに行くと、活気にあふれていて、若者の国のように思えます。。
 2005年8月から、ベトナムの二人っ子政策は廃止され、法律上は子どもは何人でも持てるようになった。
 1990年ころから、アメリカの退役軍人会の一部に、北ベトナム兵士に対する評価が、イデオロギー色の強い、打倒すべき共産主義者だという従来の見方から、同じ戦場で闘った人間同士という具合に微妙に変化した。
 戦場で死んだベトナム兵の日記や手紙がアメリカで翻訳され、それがアメリカで読まれ、戦場では敵味方に分かれて闘った相手だが、兵士としての心情は共通であることがアメリカ人にも理解できたのだ。これが、アメリカとベトナムの国交正常化反対運動を抑制する要因の一つになった。
 ベトナム共産党は、非常に実用的(プラグマティック)な態度をとる政党である。小国であるがゆえに、国際社会の力学に弱く、自国に有利になると判断できる強い国に付いて安全を図るという態度が徹底している。経済発展、つまり豊かになることが権力維持のためにも絶対視されて、理念や理想は省みられなくなり、ひたすら経済発展つまり権力維持という目標を追う集団になっている。理念の欠落という致命的な知的弱さがある。
 共産党指導部の構成は、軍と公安が強い勢力を持っている。公安相は序列2位にあり、160人の中央委員のうち、軍人が18人(11%)、公安が7人(4%)を占めている。
 ベトナムの国会議員には、専従議員と非専従議員の2つあり、圧倒的多数は非専従議員である。専従議員でも、月給3万円ほどでしかない。
裁判官の身分保障は十分ではない。裁判官の人事権は司法省が握っているため、政府や党の気に入らない判決を書いた裁判官は、その後、不利な扱いを受ける危険がある。
 南北の「しこり」は今も解消されていない。「北」の勝者、「南」の敗者という政治的な関係が厳然として存在する。ところが、南部は北部よりますます豊かになり、その格差は4倍から6倍に広がっている。これが「南」の人々の復讐心を満足させ、「北」の嫉妬や対立感情を刺激している。
 若い世代の中で、党員を志願する人は極端に少なくなっている。現在、共産党員は
350万人いて、これは人口8500万人の4%を占める。「南」では党員になることを、一種の裏切りと考える風潮が根強く残っている。「北」は、「南」を占領した敵だと考えている人にとって、共産党員になることは、敵陣営に移ることと見えるのだ。
 いま、ベトナムでは、日本の存在感は薄く、韓国の進出が目立っている。テレビでは韓流ドラマが大流行している。韓国人がホーチミン市に3万人、ハノイに2万人いる。これに対して日本人は2500人ずつほど。また、ベトナム観光に出かける日本人は年間41万8000人(2007年)。ところが、日本語を勉強しているベトナム人は3万人を超える。ちなみに、日本にいるベトナム人留学生は2500人ほど。
 ベトナムは通用している紙幣をオーストラリアに委託して印刷してもらっている。鉄も、ほとんど生産していないし、石油精製プラントもない。
 ベトナムの表と裏をのぞいた気分になりました。まだまだ大きな難問をいくつもかかえているようです。それにしても、私が行ったときのベトナムの活気溢れる町の様子には圧倒されました。目の離せない国です。

(2008年8月刊。780円+税)

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2008年11月19日

トゥイーの日記

著者:ダン・トゥイー・チャム、 発行:経済界
 私は始めから終わりまで涙なくして読み続けることができませんでした。だって、あのベトナム戦争を戦っていた英雄的なベトナム青年による命がけの日記なのですよ。心が震えるほどの感動を久しぶりに味わいました。
 私の大学生のころ、「ベトナム侵略戦争、反対!」という叫びを何度あげたか、数え切れません。いくつもの大小さまざまの集会に参加し、デモ行進をしました。夜の銀座通りいっぱいに広がったフランスデモをしたときは感動に胸が震えました。アメリカ帝国のベトナム侵略戦争に反対しようという呼びかけは私の心を奮い立たせるものでした。
 ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年か、その翌年4月のことでした。メーデーの会場で先輩弁護士たちと喜んだことを思い出します。
 この本は、北ベトナムに生まれ育った若い女性が、医師として南ベトナムへ志願して出かけ、ついにアメリカ軍に殺されてしまうのですが、その若き女医さんが毎日書いていた日記を、敵のアメリカ兵がこっそりアメリカに持ち帰って大切に保存していて、35年後にベトナムの親へ送ったことから、ついに活字になったという経緯で作られたものです。
若き女医さんは、森の中の診療所がアメリカ軍に発見されようとしたとき、1人で120人のアメリカ兵を相手にして戦い、額に銃撃されて死んでしまいました。でも、そのおかげで診療所の人々は助かったのでした。そんな勇ましい女医さんが、実はこまやかな感情とともに生活していたことが本当によく分かります。
 日記は、1968年4月に始まります。私が東京で大学2年生になった時期です。トゥイーは、このとき25歳ですから、私より6歳うえになります。トゥイーは、2年前の1966年12月にハノイを出発し、ホーチミンルートと呼ばれていた山道を3か月のあいだ歩き続けて、南のクァンガイに着きました。
 生きていくうえで、謙虚な気持ちは大切だけれど、自信や自主性も備えていなければ。正しいことをしているのなら、自分自身に誇りを持つこと。
戦争は依然として続いている。毎日、毎時、毎分、手のひらを返すように、いとも簡単に人が死んでゆく。誰かに愛されて生きてきた大切な命がいとも簡単に失われていく。
 みんな、今のこの光景を思い出してほしい。この解放事業のために血を流し、犠牲になった人たちのことを記憶にとどめてほしい。私たちの国土に悪魔が住み続ける以上……。
 そしてトゥイーは、アメリカ軍と戦う味方の陣営にもさまざまの弱点があることも書いています。解放後のベトナムで幹部の汚職が絶えないようですが、それは壮烈な解放闘争の中でも同じようなことは起きていたというわけです。
 人の心臓は赤い血ばかりではなく、半分はどす黒い血で満たされているらしい。だから、人の頭の中も、快活で聡明な面と暗く卑怯な面があるのだろう。
 何より悲しいのは、こんなひどい日常の中で、公平な行為がなされないこと。党員の名誉を汚し、診療所のみんなの意欲を損なわせる卑劣な行いがあるのに、誰も対抗できないでいる。
 トゥイーは、戦場で長年の恋人と別れてしまいます。しかし、心の中ではずっと割り切れない思いを引きずるのです。日記にそのことが何度となく書かれます。それがまたトゥイーの人柄に親しみを感じさせます。
 「さよなら。いつかキミはキミにふさわしい恋人が現れるだろう。でも、これだけは言える。この世でボクほどキミを愛した人はいない、と」
 おそらく、この言葉は本当だろう。でも、私は後悔していない。だって、あなたを愛していないのに、あなたの高尚な愛を受け入れることなんてできないから。でも、今では私はあなたを大切に思っている。あなたと、もう一度やり直したい。
 ここには、トゥイーの揺れ動く心が如実に表れています。
 戦争は、あまりにも残酷だ。今朝、リン爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。患者の身体はまだくすぶって、煙がたちのぼっている。20歳の少年だ。かつての愛らしい少年の面影は残っておらず、いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、ただの小さな二つの穴にすぎない。その姿は、まるで、オーブンから出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようであった。
 この3ヶ月で診療所はアメリカ軍から4回の襲撃を受けた。
 大雨の中、壕にもぐって1時間あまりたった。雨水がだんだん増えて、水面は胸元に届くまでになった。寒さに震え、ついに耐えきれなくなって外に出た。
 このとき、トゥイーは、これは、まるでパリの下水溝の中を進んでいるマリウス(『レ・ミゼラブル』)のような気になった、と書いています。
 私の青春は、戦火の中で過ぎた。戦争は、若さと愛でいっぱいだったはずの私の幸福を奪っていった。20代なら誰だって青春を謳歌したい、輝いた瞳とつややかな唇でありたいと思う。しかし、今の20代は、幸せになりたいという当たり前の願いさえ捨て去らなければいけないのだ。
 私の青春は、大勢の人たちの血と汗と涙がしみている。
 私の青春は、厳しい試練の中で鋼のように鍛えられている。
 私の青春は、日ごとにつのる怨恨の炎の中で熱く激しく燃えている。
 私の青春は、それでも私の青春は、私を見ていてくれる誰かがいれば、夢と愛の色に染め上げられる。
 トゥイーがこのような壮絶な心の叫びを日記に書き付けたとき、私は20歳になっていました。申し訳ないことに、平和のうちに夢と愛の色に染め上げられていました。
 トゥイーがアメリカ軍に殺されたのは、日記の最終日(1970年6月20日)の2日後のことでした。母と妹が、額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡を確認しています。
 そして、この日記は、アメリカ軍の情報部に届けられ、点検された結果、軍事的価値はない不用品として危うくドラム缶に投げ込まれようとしたのです。そのとき、ベトナム人通訳がそれを止めました。「それは焼くな。それ自体が炎を出している」と言って……。
 アメリカに持ち帰ったホワイトハースはFBIで働くようになり、FBIを内部告発して退職しました。そして、ベトナム女性と結婚した弟に日記を渡して、この日記の価値を理解したのです。35年ぶりにはるか南の地で戦死したわが娘の日記に対面した母親の驚き、悲しみ、また喜びはどれほどのものだったでしょうか。
 ベトナムで本になって出版されると、43万部を売り上げる大ヒットになりました。ベトナム戦争の真実を、ベトナムの若者が知ることができたのです。
 日本語に翻訳し、出版してくれたことに心から感謝します。かつてベトナム戦争に反対した多くの日本人に読まれることを願います。
 私は、布団の中に入ってからも、この本を思い出して涙が止まりませんでした。2年分の日記を読んで、すっかりトゥイーに感情移入していたからです。アメリカ軍に殺されてしまった夢多き若き女医さんの悔しさが、自分のものであるかのような思いに駆られたのです。
(2008年8月刊。1524円+税)

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2008年6月 5日

ポル・ポト

著者:フィリップ・ショート、出版社:白水社
 不気味な響きのする人名です。あの忌まわしいカンボジア大虐殺を起こした張本人です。
 ポル・ポトは、いろんな名前を持っていました。サロト・サルは本名です。「サルの有名な微笑み」という言葉があります。この本の表紙にもなっていますが、会った人を自然に信用させるにこやかな笑顔です。これで多くの人が結果的に騙されたわけです。
 フランスから戻ってきたサロト・サルは私立学校(高校なのか大学なのか分かりません)で歴史とフランス文学を教えていました。生徒たちは親しみやすい、この教師(サロト・サル)のとりこになったというのです。
 人口700万人のうち150万人がサロト・サルの発想を実現しようとして犠牲になった。処刑されたのはごく少数で、大半は病死、過労死または餓死だった。自国民のこれほどの割合を、自らの指導者による単一の政治的理由による虐殺で失った国は他にない。お金、法廷、新聞、郵便、外国との通信、そして都市という概念さえ、あっさり廃止されてしまった。個人の人権は、集団のために制限されるどころか、全廃されてしまった。個人の創造性、発意、オリジナリティは、それ自体が糾弾された。個人意識は系統的に破壊された。
 サロト・サルは、フランスにいて、最後までフランス語を完全には身につけられなかった。サロト・サルがパリに到着した1949年10月1日は、毛沢東が北京の天安門に立ち、中華人民共和国の設立を宣言した日でもあった。
 サロト・サルは、フランス共産党に加入した。そこでは、元大工見習いで、学歴の低いことが、むしろ評価の対象となった。
 1953年1月に、サロト・サルは帰国した。サロト・サルたちは、みな共産党員のつもりだったが、どの共産党かは分からなかった。インドシナ共産党はベトナム人が支配していた。クメール人民革命党にかわるカンボジア共産党の再結成をめざした。そこで、自称として党ではなく革命組織(アンカ・パデット)と叫んだり、ただアンカ(オンカーとも訳されます)と叫んだりしていた。
 クメール語で「統治」とは、「王国を食いつぶす」という訳になる。シアヌークは、大臣、役人、廷臣、昔なじみ、彼らの汚職をやめさせることも、まして解雇することもできなかった。
 マルクス主義の書物をクメール語に翻訳するという真剣な取り組みがなかったのも、クメール文化が口承に重きを置いていたため。
 シアヌークが失脚してからの2年間、地方におけるクメール・ルージュの政策が人目をひいたのは、主として、その穏健さのため。
 革命への反対は死を意味していた。革命に反対を示した人は、地域の司令部に召喚されたきり、帰ってこないことがほとんどだった。
 革命からそれた人間は、みな害虫だから、それにふさわしい扱いをすれば足りる。これは中世キリスト教の教義に通じるものがあった。
 カンボジア人は、もともと極端なことに魅力を感じる。フランス革命を途中でやめるべきではなかったというクロポトキンの言葉は、パリで学生生活を送っていたポル・ポトに強い影響を与えた。毛沢東さえもクメール・ルージュの水準にまでは至らず、賃金と知識と家庭生活の必要性を認めていた。カンボジアの共産主義者たちは、だれも到達したことのない領域へ進もうとしていた。
 あの人もゼロ、あなたもゼロ。それが共産主義だ。キュー・サムファンは述べていた。財産が有害であるという思想は仏教の天地創造神話に由来している。
 うひゃあ、そんなー・・・。これって、人間の幸福って何かということをまったく考えていない思想ですよね。信じられません。
 1975年の時点で、カンプチア共産党の存在はまだ秘密にされていた。謎に包まれた「アンカ」が、実は共産主義組織かもしれないと公式に匂わされるまでには、さらに1年を要した。国内の党員数は1万人以下だった。
 生かしておいても利益にならない。殺したところで損にならない。
 むひょう、こんな言葉がポル・ポト時代のカンボジアで通用していたのですか・・・。
 人は耕した土の面積で、その価値が測られた。人々は見習うべき雄牛と同じく、エサと水を与えられ、飼われて働かされる消耗品だった。
 人々は、「わたし」ではなく、「わたしたち」と言わなくてはならなかった。子どもは親をおじとおばと呼び、それ以外の大人を父か母と呼んだ。すべての人間関係が集団化された。個体を区別する言葉は抑圧の対象となった。
 1976年以降、ポル・ポト1人が決断を下していた。集団指導体制ではなかった。ポル・ポトは一挙両得をねらっていた。疑いのある分子をすべて抹消した。不純物のない純粋で完璧な党を手に入れると同時に、来るべきベトナムとの闘いに備えて全人口を団結させたいと考えていた。
 1979年1月に民主カンプチアを崩壊させたのはポル・ポトが秘密主義にこだわったから。どうしてもカンボジア国民に事態を告げることができなかった。
 ポル・ポトは、9月からベトナムの侵攻が時間の問題だと知っていた。しかし、非常事態計画を策定しなかった。不信が慣行となったポル・ポト政権が人民を、軍隊でさえ、信用することはありえなかった。ポル・ポトの中枢以外は、誰も十分な情報を与えられなかった。
 日曜の朝までにポル・ポトら民主カンプチアの統治者たちはひそかに首都プノンペンを去り、放棄した。4万人の労働者と兵士たち、そして周辺に駐留していた軍の部隊は指導者もなしに取り残され見捨てられた。メンバーを失っても、指導部を維持すれば、引き続き勝利をおさめることができる。一般人は使い捨てにできるという定理はクメール・ルージュの慣行だった。
 1979年1月の時点では、圧倒的多数のカンボジア人にとって、ベトナム人は救済者に見えた。代々の敵であろうとなかろうと、クメール・ルージュの支配があまりにもひどかったために、それ以外なら何でもましだった。しかし、人々の感謝は長続きしないものだった。数ヶ月のうちに、ベトナム人は感謝されない存在になってしまった。
 ポル・ポトが死んだのは1998年。心不全のために就寝中に死んだ。現在のカンボジア政府の最高権力者のフン・センとチェア・シムは、いずれも元クメール・ルージュだ。
 まったく無慈悲で冷酷で人間的な感情をもちあわせていないと評される人物である。
 ポル・ポトはカンボジアの招いた究極の設計者だ。しかし、単独行動したわけではない。カンボジアの最高にしてもっとも聡明な知的エリートの多くが、ポル・ポトの示した抗争を受け入れたのだ。
 読んでいるうちに大変気分が重たくなる本です。700頁もの大部な厚さがあります。
(2008年1月刊。6800円+税)

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2008年4月11日

ビルマとミャンマーのあいだ

著者:瀬川正仁、出版社:凱風社
 正直言って、この本を読む前には、ちっとも期待していませんでした。また、どうせ観光案内に毛のはえた程度のおじさんの探訪体験記くらいになめてかかっていたのです。ところが、どうして、どうして、ふむふむ、なるほどなるほど、そうだったのか、とうなずきながら興味深く一気に読みすすめてしまいました。
 ビルマには2つの顔がある。一つは、人々をトリコ(虜)にする微笑(ほほえみ)の国・ビルマ、底知れぬ優しさにあふれた顔。もう一つは、軍隊や秘密警察が生活の隅々まで目を光らせている軍事独裁国家・ミャンマーという顔だ。
 ただし、ツァー旅行に参加して、お寺めぐりと川下りだけを楽しんでいるだけでは、この現実は体感できないだろう。この本を読むと、そのことが実感として伝わってきます。
 バーマもミャンマーも、もともとは同じ意味の言葉だ。バーマは口語的で、ミャンマーは文語的だというだけのこと。
 首都だったラングーン(ヤンゴン)は、人口600万人。2006年、突然、首都はネピドーに移された。ヤンゴンは、ビルマ語で戦争の終わりを意味する。1757年、長年の宿敵モン族に打ち勝ってビルマを統一したアラニパヤ王によって名づけられた。
 ラングーン市の中心部に高さ98メートルの黄金の仏塔シュエダゴン・パゴタがある。仏塔の全面に張りめぐらせてある金箔の総量は10トン以上。これは、イギリス統治時代の大英帝国が保有する金の総量を上回っていた。仏塔の上部に埋め込まれているダイヤは2000カラットをこえる。ルビーやサファイヤなどもあり、お金に換算したら、ビルマの全国民を30年間養えるほどの額になる。
 ビルマでは、その昔、1週間を8日ごとに区切る8曜日となっていた。今は、もちろん7曜日。だから、水曜日を午前と午後とで分けている。
 ビルマ人は、とても読書好きだ。慢性の電力不足のため、テレビはあまり普及していないし、政府系のテレビ局しかないからだ。
 ビルマ政府は外国人を絶対に立ち入らせないブラック・エリアのほか、許可をもらって初めて行けるブラウン・エリア、誰でも自由に行けるホワイト・エリアの3つに分けている。
 ビルマでは、輪廻転生(りんねてんしょう)を信じている人が多い。教養ある女性が次のように言った。あの人たち(政府高官)は、前世で立派な行いをしていたのでしょう。だから、現世では、いい暮らしができるのよ。でも、来世はないわね。地獄におちるか、虫けらに生まれるわ。
 かつて覇権を争ったビルマ民族は今3000万人。モン民族はわずかに100万人(ただし、モン民族によると400万人)。
 しかし、ビルマ民族にとって、モン民族は煙たい存在だ。タトン王宮、シュエダゴン・パゴタなど、有名な遺跡は、ほとんどモン民族の文化遺産なのである。
 行ってみたいような、行くのが怖いようなビルマ・ミャンマーです。
(2007年10月刊。2000円+税)

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