弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ロシア

2011年8月18日

囁きと密告(上)

著者    オーランドー・ファイジズ  、 出版   白水社

 人間とは社会的存在であることがよくよく分かる大作でした。スターリン時代のソ連で人々がどのように生きていたのか、なぜスターリンの暗黒政治があれほどまで大々的に、かつスターリンが死ぬまで続いたのか、ようやく謎が解けた気がしました。
 一番の心の深手は「クラーク」(富農)の出身という烙印を押されたことだった。出身階級によってすべてが決まる社会だった。高等教育を受ける権利も、まともな仕事につく機会を認められない「階級の敵」の烙印がつきまとった。テロルの波はスターリン支配の全期間を通じて国中に吹き荒れたが、その波をかぶれば、「階級の敵」はいつでも逮捕され、処刑される危うい身分だった。自分が社会的に劣等な存在であるという意識は心を離れることがなく、その意識は一種の恐怖心となった。
 数百万人がテロルの犠牲となったが、犠牲者の家族も同じように被害者だった。
 この四半世紀の間に確立された独裁体制はスターリンの死後も簡単には終わらなかった。スターリン支配の四半世紀にソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々は控え目にみても2500万人を下らない。これは、当時のソ連の人口2億人の8分の1に相当する。
 スターリン支配が生み出し、現在まで残る影響の一つは、体制にひたすら順応する沈黙の大衆の存在である。多くの人々が過去を口にしない習慣を身につけた。
 1930年代、そして40年代には、日記を書くこと自体がきわめて危険な行為であり、危険を冒して私的な日記を書き残す人は、きわめて稀だった。
 1917年から55年の38年間に行われた政治犯の処刑の85%が1937年~38年の2年間に集中している。なぜか?
 もし、善良なスターリン主義者というものが存在しうるとしたら、シーモノフは間違いなくその一人だった。正直で誠実、礼儀正しく、上品で、思いやりにあふれ、魅力があり、人を喜ばせることが得意な人物だった。幼少期以来、ソヴィエト体制にどっぷりとはまり込んでいたシーモノフは、教育の結果としても、気質上の傾向からも、独裁体制の精神的な圧力と要求から自分を解放する手段を持たなかった。
 
 ソヴィエト・ロシアの国民生活は、ほぼ全面的に国家管理の下に組み込まれていたので、そのために必要な官僚機構は膨大な規模に膨れ上がった。1921年の官僚機構の規模は帝政時代の官僚組織の10倍以上となった。国家公務員の数は240万人に達したが、それは産業労働者の2倍以上だった。公務員こそがソヴィエト体制を支える主要な社会層だった。
 1920年代に盛んになった粛清システムの中で中心的な役割を果たしていたのが密告の奨励である。
 ボリシェビキによれば、子どもを社会的な存在として育てるための最大の障害物は、他でもない家族だった。
1920年代にはいると、多くの家庭で世代間の溝が深まるという現象が始まった。家庭の価値観と学校の方針との不一致は多くの家庭で摩擦を生んだ。家族から聞かされる話と学校で先生から教わることが矛盾するので、子どもたちは混乱した。
 ボリシェビキの上級幹部になればなるほど、賃金の高い有能な乳母を雇う傾向があった。そして、皮肉なことに、有能な乳母の多くは反動的な意見の持ち主だった。
 モスクワにいるユダヤ人は1914年に1万5000人で、1937年には25万人になった。これはロシア人に次いで2番目に多い人種集団であり、ユダヤ人はソ連邦の一大勢力だった。
 党を与えるプロレタリア階級の大半はレーニンの始めたネップに対する強硬な反対派だった。ネップが引き起こした物価上昇に耐えられなかったからである。だから、革命期と内戦記の階級闘争を再現しようとするスターリンの激しいレトリックは、党を支持するプロレタリアから幅広い支持を集めた。
 「クラーク」と呼ばれた農民の大半は、勤勉な篤農家であり、そのささやかな財産は家族全員の勤勉な労働の結果だった。「クラーク」が勤勉な篤農家であることは、農民の大半が認めていた。「クラーク」撲滅キャンペーンとは、「もっとも勤勉で、もっとも優秀な耕作者」をコルホーズから追放する運動に他ならなかった。「クラーク」の消滅はソ連邦の経済的破局を意味していた。それは、この国でもっとも勤勉な農民の労働倫理と農業技術を集団農場から奪い去り、最終的にはソヴィエト農業部門に末期的な衰退をもたらす結果となった。しかし、「クラーク」との戦争に踏み切ったスターリンには、経済問題への配慮はまったくなかった。少なくとも1000万人の「クラーク」が1929年から32年までの間に家を失い、故郷の村を追われた。そして、「クラーク」の子どもたちの多くが、成長後は熱烈なスターリン主義者となった。
 コルホーズに加入していた農民のうち、3人に1人が完全に農業を放棄し、その大半が工業地帯に逃げ込んで賃金労働者になった。1932年の前半には数百万人が国内を流浪していた。家族の崩壊が進み、農村部の若者たちは家を出て、都市を目ざした。
 スターリンが5ヶ年計画で結束した急激な成長率を確保するためには、強制労働が不可欠な要素だった。1920年代の労働収容所は基本的には刑務所であり、囚人たちが労働を強制されたのは、本来、囚人の食い扶持を囚人自身に稼がせるという趣旨からだった。
多くの家族が農業集団化と都市化という二重の圧力に屈服させられた。集団化こそ大変動の中で農民の生活にもっとも深い傷を残した。集団化は、ソヴィエト式の生活様式を受け入れるか否かをめぐって、父と子を争わせ、家族を分裂させたからである。
 「自己改造」は、ボリシェビキの間では、ごく普通の概念だった。旧世界から受け継いだプチブル根性や個人主義的な性癖を排除して自分を浄化し、より高度の人間、つまりソヴィエト人に成長するというボリシェビキの思想の中心的な位置を占めるのが他ならぬ「自己改造」だった。
不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが粛清を繰り返すという党風をつくり出すことになる。
 シーモノフは、自分の継父が逮捕されたとき、それは誤解によるものだと思った。それは、親族を逮捕された人々の大半が示す反応と同じだった。
党内には表立ってスターリン路線に反対する勢力は存在しなかった。しかし、膨大な人的被害をともなって強行された1928~32年の粛清に対しては、水面下で異議と不満が鬱積していた。
 1932年11月、スターリンの妻ナジェージタが自殺する。スターリンは妻に自殺されて狂乱状態となり、周囲の人間全員に対して一層深い不信感を抱くようになった。
 1930年代が進むにつれて、多数の古参党員が、粛清され、代わって新規党員が入党したために、党の性格自体が次第に変化を見せはじめる。古参ボリシェビキの影響力は弱まり、その代わりに一般党員の間から新しい党官僚グループが台頭してきた。この新・管理職層こそがスターリン体制を支える主要な柱となる。平均7年程度の教育しか受けていない新エリート層の大部分は自分の頭で政治的問題を考えるだけの能力を持たなかった。彼らは、新聞発表の党声明を自分の意見とし、宣伝スローガンと政治的な決まり文句をオウムのように繰り返すだけだった。
 1934年12月に、レニングラードの党書記長キーロフの暗殺事件が起きたが、その直後、スターリンは、旧貴族とブルジョアジーの大量逮捕と流刑を命じた。
 NKVDは1930年代の半ばまでに情報提供者を組織して、膨大な密告ネットワークの構築を完成させていた。すでに、あらゆる工場、事務所、学校などに密告者が配置されていた。元来、相互監視方式はロシア国家の根幹をなす制度だった。広大すぎて警察組織だけでは管理できないロシアという国家は、ギリシェビキ体制になっても、帝政時代と同様に、国民の相互監視という統治スタイルに大きく依存せざるを得なかった。
 人々にストレスをもたらした最大の原因はプライバシーの欠如だった。トイレと浴室は軋轢と不安の絶えざる発生源だった。
大多数の市民は、自分たちが生きている間に共産主義のユートピアが実現することを期待しつつ、賢明の努力を重ねていた。1930年代のソヴィエト体制を支えていたのは、人々のこの期待だった。何百万人もの人々が、毎日の苦しい生活は共産主義社会を建設するために必要な犠牲であると信じ込まされていた。今日の辛い労働は、明日には報われるだろう。明日は、ソヴィエトの「素晴らしい生活」を全員が享受することになるだろう、と。
 1930年代を振り返って、当時は目先の問題よりも未来を考えて生きるという生活感覚が一般的だったと回想する人が少なくない。この楽観的な雰囲気に押し流されて、ソヴィエトの知識人たちはスターリン体制が進歩の名の下で犯していた恐るべき犯罪の実態を見ようとはしなかった。
 1937~38年の大テロルは、当時の情勢認識に対応してスターリン自身が全体を綿密に計画立案し、指揮監督した大作戦だった。迫り来る戦争へのスターリンの恐怖心と国際包囲網の脅威に対するスターリンの恐怖心は、1936年11月にベルリンと東京が反コミンテルン防共協定を締結したことで、さらに増大した。
 1937年の時点で、ソ連邦はヨーロッパではファシスト諸国と戦争、アジアでは日本との戦争の瀬戸際まで追い込まれているとスターリンは確信していた。
 1936年にスペイン共和国政府が喫した軍事的敗北の原因は、共産主義者、トロツキスト、アナーキストなど、さまざまな左翼グループが分派行動に走り、内部抗争を繰り返したからだとスターリンは見てとっていた。したがって、ソ連邦では政治的抑圧が緊急に必要であるというのがスターリンの得た教訓だった。単に「第5列」「ファシストのスパイ」「敵性分子」などを粉砕するだけでなく、すべての潜在的反対派を対ファシスト戦争が勃発する前に殲滅しておく必要があるとスターリンは考えた。
 1937年6月のスターリンの発言によると、逮捕された人々の中に本物の敵が5%もふくまれていれば逮捕作戦は大成功と言うべきだとされた。すなわち、大テロルは迫り来る戦争に備えるための必要不可欠の準備作戦だった。
人々は逮捕される順番が来るのを待っていた。NKVDがドアをノックしたらすぐに対応できるように必要な品物をカバンに詰めてベッドの横において寝る人が少なくなかった。逮捕される側の人々が示したこのような受動的な態度は、大テロルの時代の人々のもっとも驚くべき特徴のひとつである。
 逮捕されるという運命に直面してとりわけ受動的だったのは、ボリシェビキの幹部たちだった。彼らは、あまりにも深く党のイデオロギーに浸りきっていたので、抵抗しようとする意思よりも党に対して自分の無実を証明したいという要求のほうがはるかに強かった。
 ずしりと重たく、画期的な分析にみちた大変な労作です。
(2011年5月刊。4600円+税)

2011年4月19日

暗殺国家ロシア

著者    福田 ますみ 、 出版   新潮社
 
 この本を読むと、アメリカと同じように、ロシアっていう国も人が簡単に殺されてしまう恐ろしい国だとつくづく思います。
 ロシアのテレビは報道統制がすすんで、犯罪を通してロシア社会の病巣を抉り出す報道は、今のテレビ界ではほとんど出来なくなっている。テレビで批判できない組織や人物のリストがどんどん増えていっている。
 ロシアでは、今、ジャーナリストたちが次々に襲われている。ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。プーチンが大統領に就任した2000年から2009年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げた。このうち70%、84人が殺害された。自分のジャーナリスト活動が原因で、殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人。この48人の殺害のほとんどは、嘱在殺人と思われるが、首謀者も実行犯も逮捕されたのはほとんどない。
 ソ連時代、いわゆる反体制派は厳しい弾圧に晒された。投獄され、精神病院に放り込まれ、国内流刑や国外追放された。とはいえ、スターリン独裁下は別として、その後、処刑された者はいない。ところが、現代の体制批判者は裁判によらず、白昼の街頭でいきなり射殺される。うひゃあ、こ、こわいですね。
 エリツィンを民主主義者だと信じたのは、どこのどいつだったのだと自己嫌悪に陥るというのか、現在のロシア人の大方の心理である。あの流血騒ぎは、単なる権力闘争でしかなかったことを疑う者もいない。
 地方のローカル紙や全国紙の地方支局のジャーナリストの方が、より危険だ。地方の権力者を批判すれば、狭い限られた地域の中で反響が大きいから、それだけダイレクトにリアクションが返ってくる。ロシアでは、地方の権力者のなかには、自身がマフィアの親玉だったり、そうでなくとも犯罪者集団と密接につながりを持つ人物がうようよいる。彼らは法に訴えるなどという、まどろっこしいことはしない。殺し屋を雇い、記事を書いたジャーナリストの殺害を企てる。
ロシアでは、有力者は政権内部や治安機関に大きなコネクションを持ち、莫大な賄賂を払っているため、めったなことでは逮捕されない。これは公然の秘密だ。
 また、有力なギャング団も、治安機関や有力者と内通していることが多く、組織を一網打尽にするのは至難の業だ。
 ロシアでは、白昼、首都のど真ん中で政治家や実業家などが、車に仕掛けられた爆弾で爆殺されたり、銃弾で体を蜂の巣のように射抜かれて殺されるなどの凄惨な事件が四六時中起きている。莫大な身代金を要求する誘拐団も暗躍しており、不可解な失踪を遂げる者も珍しくない。
そして、社会を覆う、無差別テロに対する恐怖がある。地下鉄を利用するとき、プラスチック爆弾を身につけた自爆テロ犯が一緒に乗り込んでこないかと、常に怯えるような社会において、チェチェン人が一人ぐらい行方不明になったところで、「それがどうした?」という反応しか呼び起こさない。
 ロシアの新聞「ノーバヤガゼータ」は1993年の創刊以来、17年間に2人の記者が殺害され、記者1人が不審死を遂げ、契約記者2人そして顧問弁護士まで殺されている。歴史の浅く、小規模なメディアで起きた、これだけの犠牲は世界的にみても例がない。
 ソ連が崩壊して3年たった1994年のロシアの日刊新聞は17種、3930万部に減った。人口千人あたり267部、4人に1人が購読していた。2004年の日刊新聞は250種、1328万部とさらに大幅にダウンした。人口千人あたり551部、2人に1人は購読している。
 現在のロシアのあまたあるメディアの中で、政権による報道規制がもっとも進んでいるのはテレビである。
 警察官をふくめたロシアの公務員の汚職・贈収賄は今に始まったことではない。プーチン時代に入ると、汚職はもちろんとして、ギャング団顔負けの悪質な犯罪が警察官のあいだに蔓延した。
 ロシアのインターネットは、政権による厳しい報道統制を免れている、ほとんど唯一のメディアである。
 現在のロシアにおいて、リベラル派は圧倒的に少数である。それは、エリツィン時代にリベラル派を自称した政治家たちに国民が煮え湯を飲まされたからだ。自由で平等な社会の実現を約束した彼らが国民にもたらしたものは、混乱と無秩序、そして貧困だった。
 プーチンはこうしたエリツィン流自由主義に懲りた国民の心理を巧みにつかんで国内を引き締め、資源価格の高騰を追い風に経済を立て直し、強いロシアを取り戻した。いま、プーチン・メドべージェフ政権の支持率は70%を下まわらない。
 ロシアの怖い、恐ろしい実情を読んでいて嫌になるほど暴露した本です。私にはアメリカは、同じことをもっとスマートにやっているだけとしか思えません。どうでしょうか・・・。アメリカによるイラク、アフガニスタン侵攻、そしてアメリカ国内の貧困・死亡率の高さは問題ですよね。
(2010年2月刊。1600円+税)

2011年2月23日

現代ロシアの深層

著者: 小田 健、  出版: 日本経済新聞出版社
 
 ロシアが今どうなっているのかを知りたくて読みました。560頁もある、大部で、ずっしり重量感のある本です。ロシアの男性の多くが60歳までに亡くなって年金をもらえないという現実を知りました。そうなんです、ウォッカの飲み過ぎです。エリツィン元大統領も明らかにアル中でしたよね。ロシアの男性には、それだけ社会的ストレスがひどいようです。それでも、ソ連時代には戻りたくないのです。そして、一時はアメリカと資本主義(自由主義)に急接近していましたが、今ではロシア独自の道を自信もって歩いているようです。そして、この本を読んでロシアの軍隊は張り子の虎のような気がしました。初年兵のいじめが横行し、武器は老朽化しているようです。もっとも、今の日本では「ロシアの脅威」なるものは、右翼すらあまり言いたてなくなりましたね。
 プーチン大統領は、憲法の規定どおり2期8年で退任した。健康で支持率の高い最高指導者が憲法を守って任期をまっとうしたのは、ロシア史1000年のなかで初めてのこと。プーチン大統領の最後の記者会見(2008年2月)には内外の記者1364人が出席し、
4時間40分にわたって100問以上の質問にこたえた。うひゃあ、これはすごいですね。アメリカの大統領でも、これほど長くて大衆的なの記者会見はしていないんじゃないでしょうか。
 エリツィン大統領は、地方分権化に配慮して連邦の維持を図った。しかし、地方が連邦を軽視し、勝手気ままに統治したというのが実態だった。地方の首長がときに犯罪組織とつながって、文字どおりボス化し、封建君主のように振るまった。連邦法と地方の法律が相互に矛盾し、法体系が崩れた。
 オリガルヒとは、1992年以来のロシア資本守護の混乱の中で、法の未整備を巧みに利用して巨額の蓄財に成功し、エリツィン政権に癒着して、政治にも口をはさんだ一握りの成り上がりの事業家。オリガルヒが最高に力を持っていたのは、1995年から1998年にかけてのこと。プーチン大統領は、オリガルヒを弾圧し、政治への介入を封じた。次にプーチン大統領はエリツィン前大統領の「家族」の影響力を抑えた。プーチン大統領は、オリガルヒのあからさまな政治介入に歯止めをかけたが、オリガルヒを全滅させるようなことはしなかった。そこで、オリガルヒは富を増やし続けた。ロシアには1998年に10億ドル以上の資産家が4人しかいなかったが、2008年には110人にまで増えた。
今度は、シロビキがプーチン大統領の下で台頭した。シロビキとは、ソ連時代のKGBや今のFSBなどの特殊情報機関、内務省などの法執行機関、そして軍でキャリアを積んだ人たちを指す。なかでも特殊情報機関出身者の存在感が大きい。ロシアの支配層を調査すると、経歴にKGBあるいはFSBにいたことを明記していた人間が26%もいた。メドベージェフ大統領のもとでもシロビキが影響力のある地位に配置されていることに大きな変わりはない。
ロシアのマスコミは、たとえば1996年の大統領選挙で再選を目指すエリツィン大統領の支持率が3から4%と極端に低く、ジュガノフ共産党首に大きく水をあけられていたとき、エリツィン政権と一体となって傘下の報道機関を総動員してエリツィン大統領を盛り立て、逆にジュガノフ党首へのネガティブ・キャンペーンを展開した。このようにロシアの報道機関は報道の一線をこえて選挙運動に直接関与した。しかも、その裏には、ビジネス上の自己の利益を確保しようという意図があった。
2002年夏までに政府が主要な全国でテレビ網を手中に収め、オリガルヒによるテレビ支配は終わった。政府は、世論形成に大きな影響力をもつ全国テレビ放送局を事実上独占し、政府に都合のよい報道を垂れ流している。ええーっ、でも、これって日本でもあまり変わらないんじゃないでしょうか。それもきっと月1億円を自由勝手に使っていいという、例の内閣官房機密費の「有効な」使われ方の「成果」なんでしょうね。
ロシアでは、1992年から2009年4月までに50人もの記者が報道の仕事が理由で亡くなっている。うむむ、これはひどい、すごい現実ですよ。
 ロシアの軍隊では、毎年、暴行によって数十人が死亡し、数千人が肉体的・心理的な後遺症を負い、数百人が自殺を試み、数千人が脱走している。さらに、将校の関与する汚職事件が増えていて、5人以上が懲役刑の判決を受けた。
1990年代には、軍でも給与の未払い、遅配が起きた。軍人世帯の34%が最低生活保障水準を下回っていた。たとえば空軍では、新型機を1990年から一機も調達できていない、海軍の艦船の半分以上が要修理の状態にある。2004年に、バルト海におけるロシア軍の能力は、スウェーデンやフィンランドの2分の1ほどでしかない。ロシア軍は必要兵器の
15%しか保有しておらず、ロシア軍は紙の上だけで仕事をしている。これは、ロシア軍の参謀総長が2009年6月に演説した内容である。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・・。
 ゴルバチョフ時代に原油価格が高ければ、ソ連は崩壊しなかったかもしれないし、エリツィン時代に原油高があれば、あの経済混乱はなかったかもしれない。プーチン大統領は幸運だった。原油高が強いプーチン大統領をつくった。
ロシアは世界的にみてきわめて汚職度が高い。ロシア経済の弱点のひとつは、インフラが脆弱なこと。
ロシアの平均的男性は、60歳という年金支給開始年齢まで生きられない。女性のほうは73歳ほど。ロシアの男たちが飲むのは、社会的ストレス、貧困、不安感などの要因が考えられる。しかも、ロシアでは麻薬常習者が急増し、300万人から400万人に達している。そして、その結果、エイズ患者も急増している。
 ロシア社会の大変深刻な状況がよく伝わってくる本でした。
(2010年4月刊。6000円+税)

 自宅に戻ると大型の茶封筒が届いていました。
 あっ、合格したんだ。そう直感しました。不合格のときはハガキで通知されます。封を開けると、真っ先に合格証書が目につきました。フランス語検定(準1級)の合格をフランス語と日本語で証明したものです。合格基準点22点のところ、34点を得点していました。やれやれです。年に2回のフランス語検定試験を受け始めて10数年になります。たどたどしくではありますが、フランス人と臆することなく話せるようにはなりました。引き続き勉強するつもりです。今年もフランスへ旅行したいと思っています。

2011年2月12日

モスクワ防衛戦

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 ナチス・ドイツ軍がスターリンを不意打ちにして電撃的に侵攻して、モスクワまであと一歩のところまで迫りました。このモスクワ防衛戦はロシア大祖国戦争のなかで格別の位置を占めています。
 1941年9月30日から翌1942年4月20日までの6ヶ月以上にわたって展開したモスクワをめぐる戦争である。そこに投入された独ソ両軍兵力は、将兵300万人、大砲と迫撃砲2万2000門、戦車3000両、航密機2000機。戦線は1000キロメートルをこえて広がった。この本は、1941年までの初期の戦闘状況のなかで戦車戦に焦点をあて、写真とともに紹介しています。
 赤軍の戦車部隊がモスクワ防衛戦で演じた役割はきわめて大きい。ドイツ軍攻撃部隊に相当の損害を与えた。しかし、ソ連軍の戦車部隊の活動には多くの否定的な側面もあった。戦車部隊の司令官は配下部隊を指揮する経験が浅く、熟練した人材が不足していた。そのため、戦車は練度の低い戦車兵が操作・操縦し、戦車の回収と修理部隊の作業も十分に効率的とは言えなかった。
 また、上級司令部が偵察も砲兵や歩兵の支援もなしに戦車を戦闘に投入することも少なくなかった。これは人員の兵器の損害をいたずらに増やすことにつながった。
 ドイツ軍の司令部の報告書にも同旨の指摘がなされている。
「戦車搭乗員は、士気のたかい選抜された者からなっている。だが、このところ良く教育された、戦車を熟知している人材が不足しているようである。戦車自体は優秀である。装甲もドイツ製のものを上回っていて、良質な近代兵器と特徴づけられる。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分効果的ではない。
 兵器・装備が優秀で、数量も優勢であるにもかかわらず、ロシア人はそれを有効に活用できていない。部隊指揮の訓練を受けた士官の不足に起因するようである」
 指揮官の不足はスターリンによる軍の粛清の影響が大きかったのでした。まったくスターリンは罪つくりな人間です。
 赤軍のT-34戦車、そして戦車兵の顔がよく分かる写真に見とれてしまいました。
 先に紹介しました『モスクワ攻防戦』(作品社)が全体状況は詳しいのですが、視覚的にも捉えたいと思ってこの本を読んでみました。
(2004年4月刊。2000円+税)

2011年1月30日

大祖国戦争のソ連戦車

著者 古是 三春 、   カマド 出版 
 
 1941年、ナチス・ドイツ軍がソ連に電撃的に侵攻していったとき、モスクワ攻防戦で大活躍したソ連赤軍のT-34戦車というのはどんなものなのか前から関心がありました。この本は、このT-34戦車の生いたちと活躍の状況を紹介しています。
 スターリンの重大な誤りによって大損害を蒙っていたソ連ですが、T―34戦車の必死の大増産によってなんとか挽回することが出来たのでした。
 ドイツ軍のグデーリアン将軍はT-34戦車の威力に脅威を感じたといいます。
ソ連は、ドイツ軍の侵攻を受けて、レニングラードやハリコフなどの西欧地区の工業都市にあった軍需企業をウラル山脈以東へ疎開させた。1500以上の工場を解体して東部へ移動させたが、その規模は鉄道貨車に換算して150万輌にもなる。T-34戦車の大増産が始まり、1942年には1万2千両を戦場へ送り出した。
 T-34戦車の製造工場では、全設備の70%が流れ作業方式でつくられた。スターリングラードも後に1942年9月には戦場になったが、同年8月まではT-34戦車の生産を続けていた。しかし、1943年7月のクルスク大戦車戦では、T-34戦車を主力とするソ連軍はドイツ軍のティーガー重戦車などの前に大損害を蒙ってしまった。このとき、T-34戦車の8割以上が喪われてしまった。
 それでも、T-34戦車はドイツ側からすると、「洪水のようにあふれる戦車の波」がソ連側の戦場に出現したわけです。
T-34戦車の優れた点は、量産を考えて信頼性を重視し、極力単純に設計されていること。ロシアのぬかるみの大地や豪雪地帯でも行動できた。ディーゼルエンジンは燃費に優れ、耐久性に富む。最大速度は時速51.5キロ。ドイツ軍の対戦車砲もはね返す車体となっていた。
ソ連の大祖国戦争の実際を知るうえでは、前に紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)をぜひ読んでみてくださいね。
(2010年2月刊。1600円+税)

2010年10月13日

カチンの森

著者:ヴィクトル・ザスラフスキー、出版社:みすず書房

 スターリンって、本当にひどい男ですね。許せません。こんな独裁者を許した国民はどういうことなんだろうと思いますが、そうはいってもヒトラーに追従したドイツ国民、そして、我が日本では天皇制と軍部が日本国民を戦争へ駆り立てていったのですから、狂気というのは、どこの国でも起きてしまうものかな・・・、と悲観してしまいそうです。
 でもでも、それにしても事実を直視することがまず第一ですよね。この本には、カチンの森で虐殺され、埋められたポーランドの将兵の遺体発掘現場の写真が冒頭のグラビアにあります。目をそむけたるなる写真ばかりです。
 1940年4月と5月、ポーランドの市民、将兵2万5000人以上がソ連の秘密警察(NKVD)によって銃殺され、埋められた。
 ソ連がナチス・ドイツと相互不可侵条約を結び、東部ポーランドをソ連が占領したときに捕われていた人々である。
 スターリンは、カチン虐殺事件をもみ消し、ドイツ国防軍の責任になすりつけようとして、史上空前の偽造・隠蔽・抹消の大宣伝工作を展開した。
 ポーランド分割によって、ソ連は領土の52%、国民の3分の1を獲得した。そのなかには25万人の将兵が捕虜となった。
 ポーランド捕虜の扱いについて、NKVDは、ソ連強制収容所の数百万人の囚人を管理して得た豊富な経験を最大限に活用した。自国民のために強制収容所を組織してきたソヴィエト国家の弾圧機関が20年にわたって蓄積した経験のすべてが簡潔に凝縮された指令を発した。
 1940年3月には、ポーランド将校を処刑する決定が下されていた。ソ連の政治局は、ベリヤとウクライナ共産党第一書記のフルショフが共同で提案したものを承認した。
 彼らは、全員ソヴィエト制度を憎むソ連の不倶戴天の敵なのである。
 1940年3月5日、ソ連共産党政治局の7人の局員、スターリン、モロトフ、ベリヤ、カガノーヴィッチ、ヴォロシーロフ、カリーニン、ミコヤンはNKVD機関に対し、2万5700人のポーランド戦争捕虜を特別手続き、つまり裁判手続きなしに処理(銃殺)するよう命じた。
 つまり、ソ連の指導者は、ポーランド独立のための戦いでポーランド人を指導できる者は、誰彼とわず抹殺する決意だった。
 ソ連は、ポーランド将校たちを脅迫・強 ・約束で再教育し、ソ連に協力させようと努力したが、わずか24人を除いて、他はみな将来ソ連軍と戦う危険があると判断した。
 ポーランドの「地域活動家」は、追放の過程で、追放された者の財産を着服することが認められることを期待して、大いに張り切ってソ連に協力した。
 いやあ、どこの国にも、こういう人は少なからずいるのですよね・・・。
 ポーランド共産党の指導者は全員、民族主義ないし国際共産主義運動への裏切り者とされて銃殺された。
 ですから、イデオロギーの問題というより、ソ連のスターリンなどの一部の支配者の保身のためだったのではないでしょうか・・・。
 1943年4月、ナチス・ドイツはカチンの森のポーランド将兵の虐殺遺体を発見して、ソ連の仕業だと宣伝を始めた。この1943年春には、戦局がドイツ軍に不利になっていたので、絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。
 ソ連は1941年夏に虐殺があったと発表した。しかし、現場を観た特派員たちは、遺体が冬服を着ているのに気がついていた。
 西側政府(イギリスやアメリカ)の積極的な助けがなかったら、ソ連は半世紀ものあいだカチン虐殺が自らのものであることを隠し通せなかっただろう。西側政府は、入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力を尽くした。アメリカ政府は1950年代はじめまで、イギリス政府はソ連政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。
 チャーチルは、「この問題には取り組まない方がよいと決定し、カチンの犯罪は突っこんで調査されることは決してなかった」と回想録に書いた。
 フルシチョフは、スターリン時代の犯罪に自分が結びつかないよう全力を尽くした。しかし、カチン事件でのフルシチョフの個人的責任は明白である。
 処刑は、NKVDの銃殺執行隊によってなされた。ほとんどの犠牲者は、後頭部の正確な個所を狙って、一発の弾丸で殺されている。拳銃と十段はドイツ製のものがつかわれていた。
 殺された捕虜たちは、静かに死地に向かった。死は予想外のことだった。
 該当者が呼び出されると、隊伍を組んで収容所を出て鉄道駅に向かった。その多くは釈放されるとの期待から嬉々としていた。
 しかし、この撤収が処刑を意味していたのは、捕虜を除いて、収容所の職員はみな知っていた「秘密」だった。
 カチン虐殺にかかわったソ連側の加害者は4桁にのぼる相当の人数になると思われるのに、目撃証言は出ていない。沈黙の掟が支配している。
 処刑人たちは、銃殺が終わると、食堂車で大宴会だった・・・。
 NKVDのブローヒンは1926年にスターリンの目にとまり、少将にまで昇進した。26年間のうちに数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
 カチン虐殺を実行したNKVD処刑人たちは、勲章をもらい、加俸された。
 ソ連が崩壊して20年たっても、だれ一人として罪を問われていない。
 1943年3月、ドイツ軍がカチンの森でポーランド将校の遺体を発掘しなかったら、完全犯罪のままになっていた可能性もある。
 カチン事件を闇に葬り去るわけにはいかないと思わせる、貴重な労作でした。ポーランドの自主独立の回復を願いながら無念の思いで倒れた人々をしのび、襟を正しながら読み通しました。
(2010年7月刊、2800円+税)
 
 遠野に行ってきました。昔話で有名な、あの遠野です。実は10年ほど前に、花巻から電車に乗って行きかけたことがありました。遠くて時間がかかるのが分かって、途中で引き返したのです。今回は親しい弁護士たちとのバス旅行でした。遠野は小さな町ですが、何箇所かある見るところは結構離れていて、全部を歩いて見て回るのは大変です。1泊はしてゆっくり見て回るだけの価値はあるところです。
 まずは遠野の昔話を聞きました。100人ほども入りそうな小さなホールで、幸い一番前のかぶりつき席に座ってじっくり語り部の話を聞くことができました。語り部は老婆と言ったら失礼にあたる中高年のおばちゃんです。小さな舞台に一人番台に腰掛け、少し早口の遠野弁で語ります。私は半分ほどしか聞き取れませんでした。座敷わらし、雪女、とうふとコンニャクの話です。あとで遠野物語の本を読んだのですが、やっぱり半分しか分かりませんでした。語り部によると、修学旅行で来た生徒たちはさっぱり分からなかったという感想が出ることも多いそうです。無理もありません。
 昼食は、遠野地方の野趣あふれたお膳でした。サンマと牛肉の組み合わせにミソをつけ、ほおの葉でつつんだものが出ました。デザートに山ブドウとアケビが出てきました。どちらも少し酸っぱく、自然そのものの味がして、子どものころを思い出させます。アケビの皮に詰め物をした料理が、前日の夕食に出ました。アケビの皮は食べられないとおもっていたところ、京都の川中夫人が店の人に尋ね、アケビの皮まで食べられるということを教えてもらいました。なんでも訊いてみるものですね。
 遠野ではお祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、お祭りがあっていました。広場で子どもたちの可愛い踊りを見たあと、博物館へまわりました。水木しげるの妖怪マンガもあります。愛らしい河童が登場するのです。かやぶき屋根の曲り屋を伝承園で見たあと、歩いてカッパ淵に回りました。お寺の裏に流れる川は、いかにもカッパが出てきそうな雰囲気です。清流にキュウリをつけた釣り竿が仕掛けてあります。カッパをこれで釣ろうというのです。
 遠野は昔話が現代に生きている町です。

2010年10月11日

卵をめぐる祖父の戦争

 著者 デイヴィッド・ペニオフ、 早川書房 出版 
 
 ナチス・ドイツに包囲され、飢餓にあえぐレニングラード。その戦いの規模は『攻防900日-包囲されたレニングラード』(早川書房)で詳細に紹介されています。この本は、そのレニングラード防衛戦の実情を、ソ連軍からの「脱走兵」とされてしまった二人の若者の奇妙な戦争を通して浮きぼりにします。なるほど、小説って、こうやって悲惨な戦争の実態を読み物にしてしまうのですね・・・・。
 飢えに苦しむレニングラード市民、地雷犬の無残な死など、戦争の悲惨さがリアルに描かれている。ソ連政府の発表でも、100万人もの市民が生命を落としたレニングラード攻防戦。それでも、ナチス・ドイツに征服されることなく、守り抜いた。その陰には、多大の犠牲があった。しかし、レニングラードを防衛する軍の上層部には、娘の結婚式のためにケーキが必要だ、そのために卵を1ダース調達してこいと命令するくらいの余裕はあった。卵1ダースを調達するために、二人の若者が戦場へ生命かけて探しまわる。そんなお話です。なんともまあ、悲惨な状況での、おとぼけた話の展開ではあります。
 戦場の奇妙な現実を、それなりに反映しているのだろうなと思いながら、ついつい引きずりこまれて読了しました。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

2010年5月27日

スターリン(下)

著者:サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、出版社:白水社

 赤い皇帝とは、よくも名づけたものです。ここに登場してくる人物は、社会主義とか共産主義とか、そんな思想とは無縁の皇帝と、仁義なき暗闘とくり広げる側近たちの醜い権謀術数の行方でしかありません。ソ連では社会主義の端緒もなかったのではないでしょうか。
 そして、軍事指導の天才と持ち上げられたスターリンが、実は、軍事に関してまったく無能であり、部下の有能な将軍たちに嫉妬し、次々に失脚させて銃殺していったという事実は恐ろしいばかりです。
 ロシア(当時はソ連)の善良な人々が独ソ戦争で大量に殺害された責任はスターリンその人にあるということです。
 今のロシアにはスターリン再評価の動きがあるそうです。それは理解できます。だって、何でもアメリカ並に自由化してしまったら、年金生活者をはじめとする弱い人々は生活が成り立ちません。福祉・教育を昔のように充実してほしいというロシアの人々の願いは当然のことです。でも、だからといって、スターリンの圧政が良かったなどと本気で思う人は、ごくごくわずかでしかないと思います。そんな、ごく少数の人は、スターリンの圧政下で甘い汁を吸っていた特権階級の生き残りでしょう。
 独ソ戦争が始まったとき、スターリンはヒトラーを信頼しきっていたので、しばし茫然自失の状態だった。
 ソ連を救ったのは、極東軍である。日本にいたスパイのゾルゲから、日本が当面、ソ連を攻める意思がないという情報を得ていたので、極東軍を独ソ戦にまわすことにした。 40万人の兵員、1000両の戦車、1000機の飛行機がノンストップ列車で西へ緊急移送された。戦争全体を通じてもっとも決定的な意味をもつ兵站作戦が奇跡的に成功した。
 スターリンの間違いの本質は、その途方のない自信過剰にあった。十分な戦力を確保する前に大規模な反撃作戦に出るという性急な戦術は、モスクワ防衛戦の勝利を生かすどころか、逆にドイツ軍側に一連の戦術的勝利を献上し、最終的にはスターリングラードの危機を抱く結果となった。スターリンが側近の軍事的アマチュアに大きな権限を与えたことは事態の改善に少しも役に立たなかった。
 スターリンは、無能で腐敗した酔っ払いの司令官に代えて、腐敗こそしていないが同じく無能で偏執狂の司令官を送り込んだ。
 スターリンは、報告の嘘を見抜くことにかけては天才的だった。自分の任務の状況を完全に把握しないでスターリンの前に出る者には禍が降りかかった。
 スターリンは軍事的天才ではなく、将軍レベルでさえもなかった。しかし、卓越した組織能力があった。スターリンの強みは、生まれつきの知性、専門家としての本能、そして驚異的な記憶力だった。
 スターリンの重臣たちは、権力と補給物資を求めて、互いに激しく争い、また、将軍たちとも争っていた。恐怖と競争の世界で暮らしていた重臣たちは、常に相互に嫉妬心を抱いていた。
 ベリヤは、強制収容所の囚人170万人を奴隷労働に駆り出し、スターリンのための兵器生産と鉄道建設に動員した。ソヴィエト製飛行機は劣悪な性能によって、戦争で失われた8万300機のうち半分近くが墜落していた。
 モロトフの妻もスターリンによって監獄に入れられたが、助かったあと、娘にこう語った。監獄暮らしに必要なものは三つ。身体を清潔に保つための石鹸。お腹を満たすためのパン。元気を保つための玉ネギ。
 朝鮮戦争のとき、スターリンは、毛沢東をアメリカとの戦争に追いこんだが、ソ連空軍による支援の約束は、ついに与えなかった。38度線で戦争が膠着したとき、スターリンは和平の合意を認めなかった。消耗戦こそ、スターリンの望むところだった。スターリンは、こう言った。
 「北朝鮮は永久に戦い続ければいい。なぜなら、兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何もないからだ」
 いやはや、スターリンにとって人命の軽さなんて、どうでもいいことの典型なんですね。恐ろしい人間です。
 ソ連の強制収容所に入れられた囚人は、1950年に最大の260万人に達していた。それでも殺されなかっただけよかったということなのでしょうか・・・。
 なんとまあ、とんだ赤い皇帝です。ソ連の崩壊は必然でした。
(2010年2月刊。4600円+税)

2010年4月28日

スターリン、赤い皇帝と廷臣たち(上)

著者:サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、出版社:白水社

 スターリン。バラとミモザを何よりも愛したこの男は、同時に、人間のあらゆる問題を解決する唯一の手段は死であると信じる人物であり、憑かれたように次から次へと人々を処刑した独裁者だった。
 息子たちにかけるスターリンの期待は大きかった。自分自身の流星のような出世を基準にしていたとすれば、それは過剰な期待だった。しかし、娘に対しては甘い父親だった。
 妻ナージャは、深刻な精神的疾患にかかっていた。娘は、母について統合失調症だったと述べている。妻ナージャは、年中、スターリンをガミガミ叱りつけ、恥をかかせていた。
 スターリンは、生まれつき、左足の2番目と3番目の指が癒着していた。天然痘にかかったため、顔はあばたで、左腕も馬車事故による障害があった。
 スターリンを帝政ロシア(ツァーリ)の秘密警察「オフラーナ」のスパイだったという人がいる。たしかにオフラーナのスパイが革命運動に無数に入りこんでいたが、その多くは、二重スパイどころか三重スパイだった。スターリン(当時はコバ)も同志の中に敵対派を喜んで警察に売り渡したのかもしれない。しかし、スターリンは一貫して狂信的なマルクス主義者だった。
 スターリンは、レーニンの隠れ蓑だった。レーニンはスターリンを窓口にして外部と接触していた。1918年、ソヴィエト政権は存続の危機に瀕し、ボリシェヴィキは悪戦苦闘していた。この事態を救ったのは、赤軍を創設し、装甲列車に乗って指揮をとった軍事人民委員のトロツキーとスターリンの2人だった。この2人だけが事前の許可なしにレーニンの執務室に入ることができた。
 トロツキーの尊大な態度は、実直な地方出身者である「地下活動あがりの党員」たちの反感を抱いていた。彼らは、むしろスターリンの泥臭い現実主義に共感していた。
 スターリンは無慈悲であり、情け容赦なく圧力をかけた。それこそレーニンの望んだことのすべてだった。
 1924年当時、衆目の見るところ、レーニンの後継者はトロツキーだった。しかし、スターリンは、書記局長の絶大な権限を利用して、盟友のモロトフ、ヴォロシーロフ、セルゴ、オルジョニキゼを昇進させることに既に成功していた。
 ジノヴィエフとカーメネフは、トロツキーからその権力基盤である軍事人民委員の地位を奪い、その追放に成功したあと、今や2人と並んで三巨頭の一人となったスターリンこそが真の脅威であったことに気づくが、すでに手遅れだった。スターリンは、1926年までに、この2人をまとめて打倒してしまう。
 ブハーリンは、「スターリン革命」に抵抗したが、面倒見のよさと人間的魅力の点では、ブハーリンやルイコフは、とうていスターリンにかなわなかった。
 スターリンは、腹心たちの暮らし向きにも、みずから気を配った。
 重臣たちは、しばしばお金に困った。幹部の給料が、「党内最高賃金制度」によって頭打ちとなっていたからだ。この制限は1934年にスターリンによって撤廃された。もっとも、そこには抜け道があった。
 共産党は、自分の力でのし上がった人々の集団というだけでなく、党はほとんど同族企業と言ってもよい存在だった。
 スターリンの起床は遅かった。11時ころ起きて朝食をとり、日中は書類の山に埋もって仕事をこなした。書類は、いつも新聞紙にくるんで包んで持ち歩いた。ブリーフケースは嫌いだった。正餐の昼食は午後3時から4時ころ、豪華な「ブランチ」として用意された。昼食には家族全員が勢ぞろいし、いうまでもなく政治局員の半分近くと、その妻たちも同席した。
 スターリンの休暇のときの専用列車はOGPUによって慎重に準備されたが、食糧難の時期には、食料を満載した別編成の特別列車が随行した。
 幹部たちは、先を争ってスターリンと一緒に休暇を過ごそうとした。それはそうですよね。スターリンの一言で、自分と家族の生死がかかっているのですから・・・。
 スターリンは別荘の庭に大いに関心を持ち、レモンの木の枝を這わせたり、オレンジの木立ちをつくったりした。草むしりも自慢だった。
 庭いじりは私も大好きなのです。でも、庭いじりしたり花を愛でる人に悪人はいないと信じていましたが、スターリンが庭いじりを好んでいたことを知り、私の確信は大いに揺らいでしまいました。
 神学校にいた1890年代以来、貪欲な読書家だったスターリンは1日の読書量が500頁に及ぶことを自慢していた。流刑中は、仲間の囚人が死ぬと、その蔵書を盗んで独り占めし、同志たちがいくら憤慨しても決して貸さなかった。文学への渇望は、マルクス主義への信仰と誇大妄想的な権力願望と並んで、スターリンを突き動かした原動力のひとつだった。この三つの情勢がスターリンの人生を支配している。
 うへーっ、こ、これは困りました。スターリンが、私と同じで貪欲な読書家だったとは・・・。庭づくりといい、この本好きといい、私とこんなに共通点があるなんて・・・。まいりました。
 スターリンは、ヒトラーが1933年6月30日に党内の反対派を一挙に大量殺戮したことを知って、これを快挙とみなして賞賛した。
 「あのヒトラーという男は、たいしたものだ。実に鮮やかな手口だ」
 キーロフ暗殺については、スターリンが共犯者だったという気配は今も消えていない。
 キーロフを殺害したにせよ、しなかったにせよ、スターリンが敵だけでなく味方のなかの優柔不断な一派を粉砕するために、キーロフ暗殺事件を利用したことは間違いない。
 スターリンは、常にロシア人は皇帝を崇拝する国民だと信じており、ことあるたびにピョートル大帝、アレクサンドル一世、ニコライ一世などに自分をなぞらえてきた。
 スターリンが、自分をその真の分身とみなしていた師はイワン雷帝であった。
 スターリンが拷問や処刑の現場に立ち会ったことは一度もない。しかし、スターリンは囚人たちが最後の瞬間にどう振る舞うかに多大の関心を抱いていた。敵が集められ、破壊される様子を聞くのが楽しみだったのである。
 スターリンは、赤軍の忠誠心を疑っていた。参謀総長トハチェフスキーは、1920年来の仇敵だった。だから、有能な将軍たちを根こそぎ虐殺してしまったのですね。
 スターリンによる赤軍粛清は、5人の元帥のうち3人、16人の司令官のうち15人、67人の軍団長のうち60人、17人の軍コミッサールは全員が銃殺刑となった。
 大虐殺が始まると、スターリンは公開の場に姿を見せなくなった。エジョフの仕業をスターリンは知らないのだという噂が広まった。たしかに首謀者はスターリンだった。しかし、スターリンは決して単独犯ではなかった。
 スターリンの本性は当初から明白だった。スターリン自身も数千人単位で旧知の人々を殺害していた。殺人を命令し、実行した数十万人の党員には重大な責任があった。スターリンと重臣たちは、見境のない殺人ゲームに熱狂し、ほとんど殺人を楽しんでいた。しかも、命令された人数を超過して命令以上に多数の人間を殺すのが当たり前になっていた。そして、この犯罪で裁かれた人は皆無だった。
 スターリンは、戦争では、ためらうよりも、無実の人間の首をひとつ失う方がマシだと考えていた。この巨大な殺人システムを動かすエンジンは、スターリンその人だった。スターリンは、狙いをつけた犠牲者をいったん安心させたうえで逮捕するというやり方を得意としていた。
 重臣たちは、さらに多数の敵を粛清するように絶えずスターリンをけしかけていた。とはいえ、自分の知り合いから犠牲者が出るとなると、重臣たちは犯罪の証拠の提示を要求した。スターリンが犠牲者の書面による自白と署名を重視した理由は、そこにあった。
 いやはや、とんだ赤い皇帝です。こんな狂気を繰り返してはいけません。そして、これは社会主義とか共産主義の思想によるものではなく、権力者が歯止めなく肥大したことによる弊害だと思いますが、いかがでしょうか。やはり、何らかのチェック・アンド・バランスがシステムとして確立していないと人間は悪に入ってしまうことを意味しているように私は考えました。
(2010年2月刊。4200円+税)

2009年4月 9日

ロシアのマスメディアと権力

著者 飯島 一孝、 出版 東洋書店

 わずか64頁のうすっぺらなブックレットですが、ロシアにおけるマスメディアの置かれている状況が実に簡潔にまとめられていて、よく分かります。ソ連時代より統制は緩和されたのでしょうが、それにしても権力によるマスメディアの統制はかなりのものです。でも、よくよく考えてみれば、日本だって似たようなものでしょう。五十歩百歩という気がします。
 今のプーチン首相は、1999年12月31日、エリツィン大統領の突然の辞任表明を受け、大統領代行に任命された。そして、2000年3月の大統領選で当選し、第二代ロシア大統領に就任した。このとき、マスメディアが大々的に動いて逆転勝利した裏話も紹介されています。要するに、今の日本と同じで、お金の力にものを言わせて票をもぎとったのです。
 プーチンが最初に手掛けた仕事は二大メディア財閥の強制排除で、自らの出身母体である旧KGBの元同僚などをつかって、メディア財閥大物二人の国外追放に成功した。
 プーチン政権が誕生したころ、強大な力をもつ新興財閥がメディアを利用してプーチン政権の政策を妨害するのは必至の情勢だった。そこで、新興財閥からメディアを切り離し、プーチン政権がメディアをコントロールする必要があった。
 新興財閥のなかでもグシンスキー氏とベレゾフスキー氏がもっとも強力だった。2人ともユダヤ系で、それぞれ総帥をつとめるグループは、メディアだけでなく、経済界全体をリードしていた。プーチンがメディア財閥排除を決意するに至ったのは、エリツィン時代末期の激しい政権争いを目の当たりにしたことによる。
 グシンスキー氏は逮捕されたあと、スペインへ出国、亡命した。
 グシンスキー氏は、検察庁に出頭を命じられて拒否し、イギリスに出国、亡命した。
こうやってロシアのテレビは反国ネット3局とも政府系になった。しかし、プーチン政権による強権的なテレビ支配に対して、世論の大きな反対は起きなかった。政府や経営陣の説明をそのまま受け止める人が多く、「言論の自由の問題」と深刻に考えているロシア国民は少なかった。しょせん、新興財閥とメディアの争い、とクールに眺めていた。な、なーるほど、ですね。日本の国民も、実際、あまり表現の自由に関心を示していませんよね。
 プーチン政権がマスメディアを支配できた背景には、「シロビキ」と呼ばれる旧KGBなどの治安・情報機関出身者が、政権の主流派を占めていたこともあげられる。プーチンが彼らを積極的に登用したため、政府機関の幹部の8割を占めるに至ったとも指摘されている。彼らは捜査機関や実力部隊にさまざまなネットワークをもっていて、監視もしやすいことから、メディア支配の実効はよかった。
 ソ連が崩壊した1992年から2008年までにロシアのジャーナリスト49人が殺害された。この死者の数は、イラクの135人、アルジェリアの60人に続いて3番目に多い。ロシアの犠牲者は、プーチン政権在任中の8年間だけで17人にのぼる。
 世界の報道の自由ランキングでは、ロシアは173ヶ国のうち141番目である。ちなみに、日本は29位、アメリカは36位。中国は167位、北朝鮮は172位だ。
 ロシアの世論調査によると、マスメディアに対する信頼度は、ロシア大統領、宗教団体、ロシア軍に続いて4番目と、意外なほど低い。
 マスメディアがロシア国民からあまり信用されていない理由は、民主主義が導入されると政治がよくなり、生活も豊かになるという神話が崩れ、それにともなって民主主義の旗手とされるマスメディアへの幻想も薄れたことによる。そして、メディアの大半が新興財閥や国営企業の参加に入り、国民のための報道というより、財閥や企業優位の報道というイメージが強くなったことにもとづく。
 検閲がなくなり、共産党による統制がなくなった反面、経営重視で売れる商品づくりに熱中したため、記事の質が低下した。新聞もテレビも商業主義に走り、その結果、ロシア国民の信頼を失った。
 ロシアでは、テレビの信頼度が他のメディアに比べて大きい。その信頼度で見ると、テレビが49%、新聞が21%という調査データもある。
 新聞は、人口1000人あたり91.8部で、10人に1人しか購読していない。ちなみに、日本では2人に1人。百万部以上も発行している日刊紙は、大衆紙1紙しかない。高級紙では、「コムソモリスカヤ・プラウダ」22万5000部の一紙しかない。つまり、ロシアを代表するといえる高級紙はなく、政府に影響力のある有力紙もないのである。それだけに、ロシアではテレビの影響力はますます大きくなっている。
 ロシアの政治には、もともと強権的な体質があり、国民の中にも、強い指導者を求める雰囲気が大勢を占めている。
 いやはや、ロシアに本当の民主化が定着するまでは、まだ相当の苦難が続きそうです。
(2009年2月刊。600円+税)

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