弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ロシア

2014年11月 8日

クルクス対戦車戦


著者  山崎 雅弘 、 出版  光人社NF文庫

 ナチス・ドイツとソ連が太平洋が激突したことで、有名なクルクス対戦車戦を再評価した本です。
 本のオビを紹介します。
 「ドイツ軍2800輌、68万5000人。ソ連軍3000輌、125万8000人。空前絶後の兵力の相まみえた大会戦の全貌をソ連崩壊後に明らかになった史料をもとに描く決定版。独ソ最大の地上戦」
 1943年7月のクルクスの戦いは、史上最大の戦車戦と称される。
 1943年2月、スターリングラードの戦いが終わり、ドイツ軍が降伏した。スターリングラードでの大敗北のあと、ヒトラーは資源の確保、そしてイタリアやルーマニア・ハンガリーなどの同盟国をいかにしてつなぎとめるかという政治問題に心を奪われていた。スターリングラードの勝利のあと、西方への攻勢を強めようとしたソ連に対して、ナチス・ドイツのマンシュタインの大反撃が功を奏した。ソ連軍は、補給体制を整備しないままに攻勢を継続していた弱点をつかれてしまった。
ドイツ軍のもつティーガー戦車は1942年秋から生産開始となった頑強な重戦車である。旋回砲塔に搭載する8.8センチ砲と分厚い装甲は、ソ連軍のT34戦車や対戦車砲では太刀打ちできなかった。ソ連側の強味は、敵(ドイツ側)の攻勢計画に関する詳細な情報と、それにもとづく兵力の集中だった。そして、別働隊のパルチザンが活躍した。
 ソ連空軍機は、ドイツ側のレーダー装置によって探知され、その多くが撃墜された。その結果、ドイツ空軍が制空権を握り、多くのソ連軍T34戦車が空からの攻撃によって撃破されてしまった。
 1943年5月から8月にかけてのクルクス決戦において、敵に先手をとらせたりソ連側が戦略的に勝利した。しかし、ソ連側は途方もない損害を蒙った。戦死者が7万人、負傷者が11万人の18万人。これはドイツ軍の3倍。投入兵力の14%に及ぶ。
 ソ連軍がクルクス会戦で喪失した戦車は1614輌。それでも、ソ連軍の軍事組織としての土台は揺らぐことなく、すぐに体勢を立て直して新たな攻勢に取りかかった。
一般に、ドイツ軍はクルクス会戦で回復不能なほどの大損害を蒙り、それが第二次世界大戦におけるドイツの敗北を決定づける要因になったとされている。しかし、それは正しくない。クルクス会戦におけるドイツ軍の戦死者は1万人(投入兵力の2%)、負傷者は5万人(同7%)。損害合計は6万人ほど。ドイツ軍は、「戦略的大戦を喫した」というほどのことではない。ドイツ軍の戦争遂行能力を根底から揺るがすほどの決定的なダメージをドイツ軍の組織にもたらしたわけではなかった。
 東部戦線のドイツ軍装甲部隊は、クルクス会戦によって部分的に「非稼働状態」にはなったが、「全損」させられたわけではない。ドイツ軍の戦車は、ソ連軍の砲弾よりも、むしろ連日にわたる苛酷な対戦車戦闘の繰り返しで消耗し、戦闘力を減衰させられた。
 戦略的情勢がドイツ軍の退潮へと転じるなかでも、ドイツ軍装甲部隊は、攻撃的な「電撃戦」に代わる「機動防御」を展開し、ベルリン陥落までの2年間にわたって、ソ連軍に多大の出血を強いることができた。
そうだったんですね・・・。クルクス会戦でナチス・ドイツ軍は再起不能の状態に陥ったのかと思っていました。
 この本を読むと、ソ連軍が大変な人的・物的損害を蒙りながらも、必死に歯をくいしばって耐えてドイツ軍に頑強に抵抗していた状況がよく分かります。
 ここでは、他の場面で頻出するスターリンの戦略指導の誤りはなかったようです。本当でしょうか・・・。クルクス会戦、戦車戦に関心をもつ人には必読だと思いました。
(2014年8月刊。900円+税)

2014年10月10日

スターリン


著者  横手 慎二 、 出版  中公新書

 ヒトラーと並ぶ昭和時代の怪物であるスターリンを見事に的確にとらえていると思いました。
 現在のロシアでは、スターリンの人格や役割についての評価が真っ二つに分かれており、ロシア史におけるスターリンの役割について、肯定的に評価する声と、否定的に評価する声が拮抗している。
 ええっ、信じられません。スターリンを肯定的に評価する人が半分ほどもいるなんて・・・。
 スターリンは、母親のおかげで、稼ぎの悪い呑んだくれの靴職人の子どもにしては、不釣りあいな教育を受けた。スターリンは、教会学校を成績優等で卒業した。
 スターリンは、その前は「コーバ」を通称とした。コーバとは、グルシア人の義賊の名前。帝国の支配に粘り強く抵抗する山岳民のため、身の危険もかえりみずに奔走するグルジア版ロビン・フッドである。幼いスターリンは、コーバに夢中になった。
 スターリンは、人並みほどの母親思いの人間だった。
 スターリンは、一度目はグルジア人の娘と結婚し、2度目は、アゼルバイジャン(バクー)に生まれたロシア人の娘と結婚した。
 スターリンは、詩を書いていた。だから、これまで想像されてきた以上に、豊かで多面的な才能を有していた。
 スターリンは、15歳になるまで、革命活動には、まったく関与していなかった。スターリンが聖職者になるために入学した神学校は、反抗心旺盛な若者を輩出する教育機関になっていた。この神学校で、スターリンは、何度も懲戒された。そして、結局、退職処分を受けた。
 20世紀の初め、スターリンは民衆が心の底から支配層を憎み、体制の打倒を願っているので、誰かが率先して挑戦すれば、社会の遅れた臆病部分がこれに続くと考えていた。情勢認識が甘かった。
 銀行強盗事件については、レーニンが具体的に指示していたとも言われている。
スターリンの文体は非常にシンプルである。また、小さな疑問と結論を繰り返す論証スタイルは、この神学校で身につけたのだろう。
 レーニンとスターリンは、少数民族の取り扱いでは、かなり機会主義的に対応した。スターリンは、レーニンとともに少数民族の権利を尊重する側に位置していた。
 スターリンは、少数民族に心情的に味方したのではなく、政治的現実として少数民族を味方にすることの意味をよく理解していた。
 レーニンは、1923年に政治的活動が出来なくなり、1924年1月に死去した。
 スターリンは、1922年4月、レーニンの同意の下に共産党中央委員会書記長に就任した。書記長とは、当初は、純粋に技術的性格の職務でしかなかった。
 共産党が権力を掌握したあと、党員数は1919年3月の31万人から1921年3月の73万人に急増した。政治局、組織局、書記局が設置された。スターリンは、この三つに席を占めた。
 国家機関が変質し、共産党の組織に依存する形で再編された。ソヴィエトは、県レベルから全国レベルへと、上層に行けば行くほど共産党一党に支配され、自立した国家機関としての意味を失った。国家機関の自立性を奪ったのは、共産党による人事権の掌握である。
 スターリンは、高等教育を受けていないが、独学で、役立つと思われる知識を貪欲に吸収していた。つまり、高度な書物を読むだけの知的能力を発揮していた。ただし、抽象的な論理に終結する理論的訓練は受けていなかった。
 1932年から翌年にかけて、党内にはスターリン離れの働きが起こっていた。この時期に党から除名されたものは40万人にのぼった。
スターリンとは何者か、なぜ独裁者になったのか、独裁者として何をして、どうやって生きのびたのかについて、簡潔にまとめた画期的な本だと思います。いま、別に600頁もの大作を読んでいます。ヒトラーと同じく、スターリンも、私にとって目が離せない人物です。
(2014年8月刊。900円+税)

2014年5月30日

ジューコフ


著者  ジェフリー・ロバーツ 、 出版  白水社

 ノモンハンの戦いでソ連軍の指導者として登場したジューコフ将軍の一生を明らかにした本です。日本の関東軍がみじめに敗退していったノモンハンの戦いで、ジューコフは情け容赦ない戦争指導者としてムチをふるったと思っていましたが、それなりの戦争理論家であったようです。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンの戦いに勝利した後、対ナチス・ドイツ戦でスターリンに抜擢されて活躍し、ついにベルリン攻略戦の勝利者たる栄誉を勝ちとったのです。
 ところが、そのあまりの勝利のため、スターリンが疎ましく思って失脚させられてしまいます。
 そして、スターリンの死後に復活し、フルシチョフの失脚によって、再び脚光を浴びるのでした。いずれにしても、スターリン時代に生きのびた将軍として、ジューコフは有名です。
 スターリンが嫌ったのは、ジューコフの自立心と、信念を率直に語るところだった。この資質が戦争中にはスターリンを大いに救った。しかし、戦争が終わり、スターリンが助言を必要としなくなると、目障りな存在となった。ジューコフもスターリンも虚栄心が強かった。スターリンは、自分の副官が人気を集めるのがねたましかった。
 1953年3月にスターリンが死んだとき、独裁者の国葬でジューコフは、葬儀委員の筆頭格として遺体を付き添った。フルシチョフは、ジューコフを国防相に任命した。
 そしてフルシチョフは、自分を脅かす政治家として認識し、国防相から解任した。フルシチョフの失脚(1964年10月)のあと、ジューコフは再び脚光を浴びるようになった。
 ジューコフには規律ただしい学習の習慣があった。家にいるときのジューコフは、本の虫だった。死んだとき、別荘には2万冊の蔵書があった。ジェーコフの家庭生活の中心は読書だった。
 ジューコフは、1920年5月、晴れて共産党員になった。ジューコフは、忠実な共産主義者として、熱狂的とはいえないまでもスターリン個人を崇拝していた。ジューコフは26歳にして連隊長となり、西側の軍隊では中佐に相当地する地位についた。
 ジューコフは、自分にも部下にも厳しかった。それは、功名心につかれた男の生きざまでもあった。
 スターリンによる赤軍粛清の嵐が吹き荒れた1937年から38年にかけては、ジューコフも不安にさいなまれ、いつも逮捕にそなえてカバンを用意していた。
 1935年5月、ジューコフはモンゴルに派遣された。ノモンハン事件の渦中に、ソ連赤軍の戦闘態勢の調査だった。そして、ついには指揮をまかされた。
 ジューコフは、ソ連軍の総攻撃を準備しつつ、それを欺瞞し、隠蔽する工作に成功した。ノモンハンの戦いで勝利したジューコフはスターリンに呼び戻され、対ナチス・ドイツ戦に従事した。
 1940年1月、スターリンは、ジューコフを参謀総長に指名した。
 1941年夏のソ連赤軍は大敗北を重ね、スターリンは、ジューコフを参謀総長から解任した。
 1942年8月、スターリングラードの戦いで、ジューコフは最高総司令官代理に就任した。
 スターリンは、断固かつ非情で不動の信念をもつ男を求めていた。ジューコフは、スターリングラードを救う切り札だった。
 ジューコフの名誉を不朽としたのは、1945年4月のベルリン攻略戦だった。ベルリン攻略戦で、ソ連赤軍は30万人の人的損失を出した。うち死者は8万人にのぼる。
 1944年12月、ヒトラーのナチス・ドイツ軍はバルジの戦いに成功した。ドイツの敗北が目に見えていたのに、ドイツ軍が戦い続けたのは、ソ連軍の報復が怖かったからだ。戦い続けて時間をかせげば、ソ連赤軍より先に西側の連合国軍がベルリンに到達するのではないかと期待していた。
 戦争を通じてドイツ軍は600万人のソ連兵を捕虜にした。その半数は飢えや病気、虐待のために死んだ。報復するなとソ連兵に言うほうが無理だった。しかし、ドイツ女性のレイプに限って言えば、タガの外れた暴虐は報復の範囲をこえていた。ソ連兵にレイプされたドイツ女性は数万人から数百万人と推定されている。その中間くらいだろう。
このとき、ジューコフは、「人殺しの故郷に苦しみを与えよ。目の前のすべてに容赦のない報復をするのだ」と指示した。
 ジューコフ将軍とソ連赤軍について、実際を知ることができました。
(2013年12月刊。3600円+税)

2014年5月14日

戦火のシンフォニー


著者  ひの まどか 、 出版  新潮社

 ナチス・ドイツによってソ連の主要都市であるレニングラードは陥落寸前までいきましたが、なんとかもちこたえたものの、900日間も封鎖されてしまったのでした。食糧が尽きてしまい、何十万人もの市民が餓死しました。ところが、なんと、その最中にオーケストラを復活させ、演奏していたというのです。しかも、ショスタコヴィッチの交響曲第7番を「初演」したのでした。
 ええーっ、という、信じられない実話を関係者に丹念に取材して再現した本です。
 大阪の尊敬する大先輩である石川元也弁護士のすすめで本を読みました。石川先生、ありがとうございました。引き続きご活躍ください。
 ソ連では、スターリンの圧制下で理不尽な粛清の嵐が吹き荒れた。ショコスタコヴィッチも、若手作曲家の頂点に輝く星だったのが、その作品がスターリンの不興を買い、一転して奈落の底に突き落とされた。そのとき、救いの手を差しのべてくれたのが、トハチェフスキー元師だった。ところが、その元師が、なんとスターリンによって銃殺されてしまったのです。再びショスタコヴィッチは危機に陥ります。ところが、やがて交響曲第5番が成功して、辛じて名誉を回復しました。
 レニングラードの最高指導者はジダーノフ(当時45歳)。ジダーノフは、スターリンの最側近の3人のうちの1人。残る二人、(マレンコフとベリカ)から、絶えず足を引っぱられていた。
 ナチス・ドイツによってレニングラードは直接の攻撃にさらされるようになった。ところが、ドイツ軍による大空襲があっても、ミュージカル・コメディ劇場は公演を続け、観客で満員だった。これって、信じられませんよね・・・。
 レニングラードでは、ナチス・ドイツ軍の包囲下にあっても、普通の生活を続けていたし、それを外の世界に伝達しようとした。
 ヒトラーは、一気にレニングラードを陥落させるつもりだった。ところが、包囲が長引くなかで気が変わり、モスクワ攻防戦へ戦力を引き抜いていった。これによって、レニングラードは陥落するのを免れた。
 ミュージカル・コメディ劇場は連日公演を開くだけでなく、日曜日には2回公演さえ行った。
 音楽家たちも食糧不足のため、腹が減って、力が入らなかった。それでも、楽器をもったら、力が戻ってきた。音楽は、最高の食糧だ。
 栄養失調は怖いが、それ以上に怖いのは精神失調だ。
芸術家はパンだけでなく精神力で支えられている。精神力が弱ると意気も落ちて、死んでしまう。
 コンサートはイギリス向けだけではなく、レニングラードを包囲する塹壕に潜っているドイツ軍にも開かせた。
 1942年3月、ジェダーノフは自ら電話をかけて「何か音楽をやらんか!」と指示した。
 そこで、音楽家が呼び集められ、一定の食事が与えられた。死の寸前にあった音楽家たちが再びよみがえった。このとき、オーケストラの団員50人のうち、ほぼ半数がまだ生きのびていた。特別食堂では、朝10時と昼2時に「強化食」が出た。ふだんなら、口に入らないものが提供された。
 今一番大切なことは、飢えのことを忘れる。夢中で働くこと。精神力と信念が今こそ必要である。芸術家を動かすのは精神力。食事をして体力をつけ、精神力を高めることが何より大切。
 観客となった市民は、少なくとも舞台を見ているあいだだけは飢えのことを忘れられている。劇場に行くのは、飢饉と死んだ人のことを考えないため。
コンサートの指揮者は、糊のきいた真っ白なシャツに燕尾服を着て登場した。その姿に、観客は、どよめいた。
 「こんなとき、どうやって、あの服を用意できたの!」
 「万事、順調ってわけ?」
 1942年8月9日、レニングラードでショコスタコヴィッチの交響曲第7番が初演された。
 レニングラードは、依然としてナチス・ドイツ軍に包囲され、危機的状況のさなかにあった。
 ソ連赤軍の捕虜となったドイツ兵は異口同音に語った。
 「我々は、塹壕のなかで、いつもレニングラードの放送を聞いていたが、いちばん驚き、戸惑ったのは、このとてつもない状況のなかで、クラシック音楽のコンサートがやられているということ。いったい、ロシア人はどれだけ強いのか、そんな敵をやっつけることなんて、とうてい出来ない。恐ろしかった」
 そうですよね、よく分かる気がします。
 この本の最後に交響曲7番を演奏した音楽家の顔写真が紹介されています。男性が大半ですが、女性も何人かいます。みなさん、餓死寸前までいきながら、なんとか演奏を成功させた人々です。
 とても感動的な、心温まる本でした。石川先生ご夫妻、ご紹介ありがとうございました。
(2014年3月刊。1800円+税)

2013年12月30日

ガガーリン

著者  ジェイミー・ドーラン、ピアーズ・ビゾニー 、 出版  河出書房新社

1961年3月12日、ソ連の宇宙飛行士ガガーリン少佐は初めて地球の大気圏を離れ、無事に地球に帰還しました。
 私は小学生だったでしょうか・・・。ともかく、ガガーリン少佐の名前は、はっきり記憶しています。なにしろ、アメリカより早かったのです。ケネディ大統領はソ連に先をこされた悔しさで、この日は眠れなかったとのことです。
この本は、ガガーリンの生い立ち、そして宇宙飛行に成功し、その後、34歳の若さで飛行機事故で亡くなるまでを明らかにしています。とても読みごたえのある本でした。
 ガガーリンは、戦前の1934年3月生まれ。ドイツ軍のバルバロッサ作戦でソ連が攻めこまれたとき、ガガーリンの住む村もドイツ軍に占領されたのでした。スターリンの致命的な誤りによる悲劇です。
 農民の子、ガガーリンは、戦争が終わったあと、技術学校に入り、飛行訓練学校に入った。そして、秘密のうちに面接試験を受け、1960年1月に設立された宇宙飛行士訓練センターに入ったのです。
 大変な試練のときでした。たとえば、隔離部屋に入れられて監視者のほか会話ができず、本も雑誌もない生活を過ごすのです。目的を告げられずに、そんな生活を10日もしたら、頭が変になってしまうでしょう。
 この実験(テスト)の目的は、宇宙船での退屈で寂しい生活にどれだけ耐えられるかというのを見るものでした。ええーっ・・・、ひどい実験(テスト)ですね。
 宇宙船は、常に地球上空の同じ場所を飛ぶわけではない。だから、地球に帰還したとき、カプセルが船に落ちたり、外国領内に落下する恐れが十分にある。
このころの宇宙飛行士は、脱出シートのサイズの都合上、身長の低いほうが有利だった。
 宇宙服を明るい色にしたのは、雪原に降りたったときにも、見つけられやすいようにしたため。
ケネディ大統領は、ソ連が宇宙飛行士を打ち上げるのを知らないふりをしていたが、実はよく知っていた。しかし、宇宙への打ち上げが成功したあとのアメリカ政府スポークスマンは、次のように叫んだ。
 「いま、みんな寝てるんだよ。まったく、いったいなんだ!」
 ケネディ大統領は、宇宙分野を重視していなかったが、世界の反応をみて、考え直した。
 この3日後、ケネディは、キューバのピッグス湾への侵攻作戦の失敗も聞かされた。
 ソ連の宇宙ロケットの誕生いきさつとガガーリン少佐の個人的体験記の双方がミックスされて、大変読みやすくなっていると思いました。
(2013年7月刊。2400円+税)

2013年7月23日

レニングラード封鎮

著者   マイケル・ジョーンズ 、 出版   白水社

思わず涙が出てくる、つらい話が続く本です。スターリンの非道さにも怒りが湧きあがってきます。
 3年ものあいだ(900日間)、ナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラード攻防戦の顛末が語られています。なにしろ市民の犠牲者100万人のうち餓死者が80万人というのです。半端な数字ではありません。これはヒトラーが力攻めをあきらめたこと、スターリンの作戦指導が間違っていたことによります。
 人口250万人のレニングラードを包囲したナチス・ドイツ軍は意図的に市民を餓死に追い込んだ。1941年冬までにレニングラード市民のパン配給量は1日125グラムでしかなかった。略奪と人肉食(カニバリズム)が蔓延した。封鎮中に、少なくとも300人がカニバリズムのかどで処刑され、1400人以上がこの罪名で投獄された。しかし、レニングラードは、驚くべきことに崩壊はしなかった。
 恐怖のただなかで、他人を助けることが生き残る鍵となった。人々は親戚や友人達と一緒に住み、互いに助けあった。もっとも絶望的な状況のなかで、士気とやる気がとても重要だった。市民たちの挑戦の最大のシンボルが驚くべきオーケストラ演奏会だった。このコンサートの象徴的な意義は絶大だった。ショスタコーヴィチの交響曲第7番が演奏された。ホールは、いつも満員だった。この演奏を包囲していたナチス・ドイツ軍の将兵も聞いていた。この音楽を聞いて、彼らはレニングラードを決して落とせないだろうという実感を抱いた。
レニングラードは、ヒトラーにとって主要な目標だった。
レニングラードの陥落は、ソビエト国家から、その革命のシンボルを奪うことになる。
 ヒトラーはこのように語った。実は、ドイツ軍兵士がレニングラードを占領したときには、疫病の深刻な危険があると、ヒトラーは警告されていた。
 ソ連軍の総司令官ヴォロシーロフは無能だった。61歳という老齢の元帥は、赤軍随一の脳なしと後年にフルシチョフが評した。それでもスターリンは、ヴォロシーロフを、その地位に留めおいたのは、信頼できる男だったからである。ここにレニングラード市民にとっての悲劇が始まるのです・・・・。
 トハチェフスキー将軍は、ヴォロシーロフを軽蔑していたが、その政治的陰険さを見くびっていた。スターリンは、トハチェフスキーなど、有能な元帥を次々に銃殺していった。
 1937年から、1938年にかけて、3万人をこすレニングラード市民が逮捕され、処刑あるいはシベリアの強制収容所へ送られた。これがナチス・ドイツ軍によるレニングラード包囲戦を戦うのに困難をもたらした。
 レニングラードの司令官としてジューコフが派遣されてきた。このジューコフは、人命損失をまったく気にかけることがなかった。人命の犠牲を度外視して、敵のドイツ軍への攻撃を次々に命令し続けた。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンで日本軍(関東軍)とたたかいますが、このときも同じ人命軽視の戦術を強行したようです。
レニングラード図書館はずっと開館していた。
 新任の司令官はドイツ軍前線にむけてスピーカーで、オーケストラの演奏するショスタコーヴィチの交響曲第7番が容易に聴けるように手配した。演奏会の前には、ドイツ軍砲台に向けて集中砲火を浴びせて沈黙を強いていた。
 飢餓のなかでも、人間は気高く生きることができるのですね・・・・。
 もっと知られていい歴史だと思いました。しっかり読みごたえのある本です。

(2013年2月刊。3800円+税)

2013年5月31日

トロツキー(下)

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社

レーニンは、死ぬ前に「スターリンはあまりに粗暴である」という遺言を書いて、書記局から排除することを提言した。レーニンは、自分が死んだあとは、集団指導体制をとることを願った。スターリンは、レーニンの遺言を無視し、公開しなかった。
 トロツキーは、スターリンをあまりに軽視しすぎていたようです。
スターリンは、トロツキーからみて、常に政治的に凡庸で、知的にはとるに足らない人物だった。
 ところが、レーニンの死後に開かれた1924年5月の党大会のときは、トロツキーは分派主義に走っていて、スターリンは現状の指導部のためにしっかり忠実に働いていて文句のつけようがなかった。この党大会で、トロツキーは、投票権すらなかった。
 スターリンとブハーリンはトロツキーを追い落とすべく密接に協力していた。
 1926年10月、トロツキーは政治局を解任された。ジノヴィエノは前に解任されていた。
 トロツキーは、個人としての他人を思いやる気持ちが基本的に欠けていた。トロツキーには人間性がない。トロツキーをよく知る人は、このように言っていた。
 これではトロツキストが盛況になるはずはありませんよね。
 トロツキーは、公的にも私的にも、頭の悪い人物には冷たいどころか、一切容赦がなかった。
1927年から28年の冬、ソ連は政治的に緊急事態にあって、経済が崩壊しつつあった。都市の倉庫の小麦・ライ麦の備蓄は危険なまでに少なくなっていた。
1928年1月、トロツキーはカザフスタン(アルマ・アタ)へ送られた。
 1929年1月、トロツキーを国外へ追放することが決定された。トルコ当局は、トロツキーの亡命を認めるにあたって、ソ連に極秘の条件を課した。それは、トルコでトロツキーを暗殺しないということだった。そして、トルコは、トロツキー本人にも、トルコの地元政治に干渉しないこと、トルコ国内で出版しないことを求めた。
 この本を読んでいると、トロツキーは、自己の安全について、あまりに楽観視していたようです。これも過剰な自己過信のあられなのでしょうか・・・。
 トロツキーによると、各国の共産党の指導部は絶望的だった。トロツキーはドイツのエルンスト・テールマンとフランスのモーリス・トレーズは愚の化身としていた。
 1937年からトロツキーはメキシコに居住した。メキシコ警察はトロツキーに24時間体制で警護をつけ、その動向を定期的に政府に報告した。アメリカも同じように情報を収集していた。メキシコ共産党はトロツキーを監視し、モスクワに情報を提供していた。
 1936年当時、世界のトロツキズムは、ソ連のスターリンが想像していたよりも、はるかに規模は小さかった。トロツキストは、構成員の統計の公開を嫌った。オランダ2500人、アメリカ1000人、ドイツは150人。ヒトラーが政権を握る前には750人。フランスは分裂を重ねて不明。イギリスも3つの小集団に分かれていた。
トロツキーは他人の気持ちに配慮する性質ではなかったが、妻に対しては例外で、夕食の席で妻の望みや要求にいつもこたえた。
 スターリンによる1936~38年のモスクワ裁判は、茶番だったが、トロツキーには試練となった。被告人は拷問を受けていた。スターリンにあくまで抵抗した人は証言台に姿をあらわすことなく処刑されていた。
 1940年8月、暗殺犯によってトロツキーの生命は奪われました。トロツキーは、いつものとおり、あきれるほどめでたく、何の疑念も抱かなかったというのです。暗殺犯はトロツキーの臨時秘書の恋人でした。トロツキーの頭にレインコートに隠しもっていたピッケルを手早く打ち込んだのです。そして、この暗殺犯は1960年に20年の懲役刑を終えて、モスクワに英雄として迎えられ、ついにはキューバに渡って、1978年に死亡したとのことです。
 対立の絶えないトロツキストたちは、モスクワの指導部に従った共産党と戦うより、仲間内で議論するほうが多かった。モスクワにおけるトロツキーの立場を回復したのは、第四インターナショナルではなく、ゴルバチョフだった。
トロツキーは、スターリンとの政治闘争で究極の犠牲をはらったが、その前にトロツキー自身も高い地位について血なまぐさい弾圧をしている。肉親のほとんどはトロツキーのせいで死に追いやられた。娘のニーナは結核で亡くなり、ジーナは自殺した。息子のリョーヴァは医療ミスで死んだ可能性がある。
等身大のトロツキーを知ることのできる本でした。それにしても、今でも、昔ながらの過激派はいるようです。驚きます。でも、もう誰もトロツキストとは呼ばないのでしょうね・・・。
(2013年4月刊。4000円+税)

2013年5月10日

トロツキー(上)

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社

大学生時代、私にとってトロツキストというのは暴力学生であり、権力と通じて街頭で派手に暴れまわり、心ある人々を困らせる存在というイメージでした。この本は、トロツキーの素顔に迫っています。大変興味深く読みました。ただし、上巻だけで400頁もの大作です。
 トロツキーは、政治の空を駆け抜けるまばゆい彗星のようだった。誰が見ても、トロツキーはロシア革命でもっとも弁舌の立つ人物だった。トロツキーは10月に臨時政府を打倒した軍事革命委員会を率いた。赤軍の創設に誰よりも貢献した。トロツキーは、レーニンとお互いに反目もした。
 トロツキーは1929年にソ連を追放され、ソビエト国家のどこがおかしくなったのか、というトロツキーの分析は外国では影響力を持ち続けた。トロツキストは、政治状況が許せば、どこでも登場した。
 スターリンは、トロツキーを十月革命の敵として描き、1936~38年の見世物裁判で有罪宣告をし、ソビエト諜報機関に暗殺を命じた。そして1940年、暗殺に成功した。
存命中のトロツキスト集団は政治的にはごくわずかな影響力しか及ばさなかった。そして、トロツキーの死後、運動はジリ貧となった。
1968年にヨーロッパとアメリカの学生運動が起きて、一瞬だけトロツキーは復権したが、年末には沈静化した。これが私の大学生のころのことです。一瞬だけ、だったんですね・・・。
ソ連では嫌悪され続けたが、1988年にゴルバジョフがトロツキーの政治的な名誉を回復した。西側のトロツキストは、相変わらず従党を組んで遁走に明け暮れ、しばしばトロツキーなら飛びあがったはずの思想を喧伝した。トロツキーは、暗殺されたことによって政治的な殉教者となり、おかげで通常なら疑問を抱いたはずの著述家も好意的に解釈してくれた。
 スターリン、トロツキー、レーニンは、反目する部分より、共通する部分のほうが多かった。スターリンではなく、トロツキーがソビエトの至高の指導者になっていたとしたら、ヨーロッパにおける大流血のリスクは大幅に高まっただろう。
トロツキーの傑出した能力には疑問の余地はない。見事な演出家で、オルグ家としても指導者としてもすばらしかった。だがトロツキーだって聖人君子などではない。独裁権力と恐怖政治への指向は、内戦時代には露骨なほどだった。
 トロツキーは、23歳までレイバ・ブロンシュテインだった。自分がユダヤ人の出身なのを否定はしなかった。両親は、その地方で有数の農民だった。
 ブロンシュテイン家は、近所でもっとも豊かなユダヤ人だった。父親は、あまり熱心なユダヤ教徒ではなかったので、子どもをキリスト教の学校に平気で通わせた。
 レイバは、いったん教わったことは、ほとんど忘れなかった。
 トロツキーは、1902年、パリに到着した。そこでトロツキーは演説し、華々しい大成功をおさめた。聴衆を魅了する才能を示した。そして、人もうらやむ速筆ぶりだった。
 どこへ行っても、トロツキーは大成功をおさめた。
 プレハーノフは、心底からトロツキーを嫌った。老いたプリマドンナは頭角をあらわし始めた新しいプリマドンナを嫌うものだ。
 1904年に日露戦争が始まると、トロツキーは、日本との戦争は国益全般に被害を与えたと主張した。トロツキーは、日露戦争は革命の見通しを高めたと判断した。トロツキーはレーニンに刃向かい、そのことによってボリシェヴィキの敵対者たちからの評価を高めた。
 1908年、ロンドンにいたトロツキーは、どの派閥にも属さないと宣言し、メンシェヴィキとボリシェヴィキの双方の戦略を糾弾した。だから、トロツキーは、党中央委員に選出されなかったが、それも当然だった。それでもトロツキーは、党内に居場所を失ってはいなかった。相変わらず、党全体の融和を主張していた。だが、党内の多くの人にとって、トロツキーは、日和見主義に見えた。どちら側の意見もオープンに聞くトロツキーは、多くの敵をつくり、信用できない人物とされた。
 1917年、トロツキーは、ニューヨークに着いた。演壇に上ると、そこにいるのが天才弁士だと言うことは誰の目にも明らかだった。
 1917年、ロシアにトロツキーは戻った。トロツキーの話し方は、文法どおりだった。その流暢さは非凡だった。冷笑的で、説得力があり、情熱的だった。もじゃもじゃの赤褐色の髪が風にそよぐ。スリーピースのスーツを着て、いつもこざっぱりとしていた。聴衆のほとんどよりも背が高く、聴衆を揺り動かすための言葉やテーマを選び出しつつ、しなやかに動いた。トロツキーは身振りを多用した。そして、論点を強調したいときは、右腕を前にはねあげて、人差し指で聴衆を指さした。トロツキーは、ロシアの新しい「政治」を明らかに楽しんでいた。
 「レーニンはどんなに賢くても、トロツキーの天才と並ぶと、かすんで見える」
 これは当時の評である。しかし、レーニンのほうは急進左派に自分のライバルがいるなどと心配はしていなかった。
 1915年5月。トロツキーは、デマゴギー的な戦術をためらったことはなかった。
 9月。主要なボリシェヴィキが党代表として登場するとき、みんなが見聞したいのは、トロツキーだった。ボリシェヴィキのなかで、カーメネフも、大衆的な人気の点では、トロツキーの足元にも及ばなかった。このころレーニンはヘルシンキに隠れており、新聞論説でしか影響力を行使できなかったが、ほとんどの人は新聞など読まない。
 トロツキーは執筆し、演説し、議論した。組織をまとめた。革命ロシアで最高の万能活動家だった。レーニンとトロツキーはロシアの政治における不可分の存在となった。一心同体で、敵に対しては国家テロルを含む容赦ない手段を使う決意だった。
 トロツキーは、レーニンとのパートナーシップを楽しんでいたため、党の指導部内でどれほどの恨みを買っているか、気がついていなかった。
 今や、レーニンが統治問題のあらゆる重要な点の相談相手はトロツキーだった。
 世間的な名声でトロツキーはいい気になってしまった。トロツキーは、もともと組織への忠誠などで動く人間ではなかった。
 1918年2月、トロツキーは、自分の信念のために戦い、そして闘争に負けた。トロツキーは、ロシアがもはやまともな軍隊を持っていないと知っていたくせに、みんなに「革命戦争」が可能だと思わせようとした。
 1918年8月、トロツキーは、いやいや戦っていたのではない。人道的な面などまったく考慮せず、政治革命を暴力的手段で嬉々として深めていった。
 1918年12月、赤軍が総崩れとなった。白衛軍がロシア中心を目ざした。モスクワへの進路を防衛する軍をまとめられるのはトロツキーしかいなかった。スターリンですら、これは否定しようがなかった。
十月革命と内戦で世間の賞賛を集めつつ、トロツキーは党内で、かなりの嫉妬と疑惑を引き起こしていた。そしてトロツキー本人は、これにほとんど気をつかわなかった。
 ありとあらゆる問題について、正しいのは自分だと思っていたトロツキーは、党を自分の見方に無理矢理従わせるのが義務だと考えていた。トロツキーは自分の地位を当然のものと思っていた。
 トロツキーがレーニンと反目しあっていたこと、そしてレーニンと一緒に内戦を乗り切ったこと、スターリンがそれを若々しく思っていたことなどが上巻で紹介されています。下巻が楽しみです。
(2012年4月刊。4000円+税)

2013年4月25日

アフガン侵攻 1979-89

著者  ロドリク・ブレースウェート 、 出版  白水社

ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
 アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
 アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
 1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
 狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
 1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
 1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
 ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
 タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
 ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
 軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
 アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
 ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
 ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
 1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
 ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
 カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
 このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
 ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
 だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
 ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
 ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
 ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
 ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)

2013年4月18日

メドベージェフvsプーチン

著者  木村 汎 、 出版  藤原書店

現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
 プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
 ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
 メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
 プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
 メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
 プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
 メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
 ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
 ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
 プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
 現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
 プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
 大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)

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