福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史(江戸)

2007年12月21日

アイヌの歴史

著者:瀬川拓郎、出版社:講談社選書メチエ
 アイヌと言えば、すぐに思い出すのが『コタンの口笛』です。どんな話だったか、すっかり忘れてしまいましたが、子ども(小学生)のころ、ラジオから主題歌とともに流れてくる話にじっと耳を澄ましていたことを思い出します。
 その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されて、のんびり楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白いカモメの歌を友に、木の葉のような小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥とともに歌い暮らして、蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とるかかりも消え、谷間に友呼び鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。ああ、なんという楽しい生活でしょう。
 これは、『アイヌ神謡集』の序文です。アイヌにこのような楽園が実在していたのではなく、あるべき理想形のものとしてうたわれていた。著者は、このように断じています。なるほど、そうなんでしょうね・・・。
 アイヌとは、アイヌ語で神に対する人間を意味する。アイヌ人口は、1804年に2万人ちょっと、2006年でも同じく2万人ちょっといる。アイヌ語と日本語は語順が同じなど、似かよったところもあるが、言語学では同系関係は認められていない。
 アイヌは、日本列島に住んでいた縄文人の子孫。つまり、東南アジアや東アジアから日本列島にやってきた後期更新世人類の子孫。ということは、日本人とは先祖を同じくしているということでしょうか。
 江戸時代(1669年)に、シャクシャインの戦いと呼ばれる、アイヌ対和人(日本人)の戦争が勃発した。当時の松前藩の和人人口は1万5000人、アイヌは2万人。やがて、和睦に応じた首長シャクシャインは和人に謀殺されてしまった。
 この戦いの発端は、サケの漁業権をめぐる争いだった。
 アイヌで首長は、富をもつ者(ニシパ)であり、ウタレという従者・下僕・奴隷と訳される男女をかかえていた。首長は世襲だが、相続した者が適格でないと判断されたときには、長老会議で首長の血統のなかから代わりの者が選ばれた。
 サケはアイヌの保存食であり、交易品でもあった。そのサケは沿岸や河口付近でとれるものではない。それは、脂肪分が多くて酸化しやすいので、長期保存が難しかった。産卵場まで遡上し、脂肪分のすっかり抜けたサケを天日に干して乾燥させて保存食にしていた。
 アイヌはオオワシの尾羽を尊重した。オオワシの尾羽を「命と等しき財」と認識し、最上の「宝」物とアイヌは扱っていた。
 アイヌの由来と歴史、そして現状について知ることができました。
(2007年11月刊。1600円+税)

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2008年04月11日

旗本夫人が見た江戸のたそがれ

著者:深沢秋男、出版社:文春新書
 江戸時代を生きた女性が、いかにたくましかったかをよく知ることのできる本です。日本女性は古来、男から虐げられてきたという説が誤っていることを、この本も実証しています。弱い女性はたしかにいましたが、それは同時に同じように弱い男性もいたということです。むしろ、日本女性の特徴は、昔から男なんて気にせず、のびのびと生活していた人がとても多いということです。この本の主人公である井関隆子もその一人でした。日本の女は昔からすごかったのです。ただし、この本のタイトルは感心しませんね。なんだか本の内容とイメージがちがいます。
 井関隆子日記12冊は、隆子の56歳から60歳までの日記。天保11年から14年というと、ちょうど天保の改革(老中水野忠邦による)が始まり、失敗したころのことです。
 井関家は年収3千万円程度はありましたし、大奥づとめでしたので、大奥からの下され物も多くて、家計と生活を助け、潤していました。隆子は江戸城のすぐ近く、清水御門と田安御門の近くに350坪の屋敷に住んでいました。
 井関家は、四季折々の花を眺めたり、また月を眺めたりしながら、よく酒盛りをした。隆子自身もお酒が大好きだった。
 江戸時代のお見合いは、お互いに芝居などの席で、それとなく相手を見て、お互いによければ話をすすめるということも多い。ええっ、そうなんですか。現代日本にもありそうなスタイルです。
 主席老中・水野忠邦は、11代将軍家斉の死を機に、天保の改革に着手した。家斉は 50年ものあいだ将軍の座にあった。
 上知令(あげちれい)は、天保の改革の末期に幕府が発令した、江戸と大坂近郊の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にしようとする、一連の命令である。しかし、これは実行されることなく撤回された。そして、水野忠邦は罷免された。ここにも幕府の実行力の衰退をみることができる。
 水野忠邦が罷免されたとき、世間は歓呼の声を上げた。
 このまま政権の座にあるなら、さらに世の乱れを招きかねないと、嘆かない人はいなかった。このたびの処置に天下の人々は万歳を唱えて喜んでいる。
 数知れぬ人々が水野家の屋敷を取り囲み、大きな石を雨あられのように投げつけて、つらい目にあった恨みをいいつのるのが、まるでトキの声をあげるように響いた。この騒ぎを見物しようと集まった群衆の数もものすごかった。
 すごくリアルに水野忠邦の屋敷を人々が攻めている情景が描かれています。
 隆子の日記によると、将軍家斉の死は、本当は1月7日だったという。公式発表の1月29日ではなかった。そこには、水野忠邦と家斉側近とのあいだの権力抗争が隠されていた。なーるほど、ですね。
 それにしても、再婚して後妻に入った家で、夫の死後も、隆子は女主人としてのびのびと過ごしていたようです。血のつながらない息子たちも、隆子を母親としてうやまったのでした。今度は、「井関隆子日記」そのものを読んでみようと思います。
 私にとって列車の中は貴重な読書タイムです。ひととき没頭して本の世界(いわばアナザーワールド)に浸っていたいのです。ところが、それがときどき邪魔されてしまいます。車中検札です。無用に声かけられないように、前のテーブルに見えやすいように切符をおきます。それでもわざわざ声をかけてくる車掌さんがいるのです。先日などは、切符を手にとっているのに、なお「お客さん、いいでしょうか?」と何回もしつこく声をかけてきました。かなり偏屈なところのある私は、つい「うるさいですよ」と言ってしまいました。本当は、「その切符に何か問題もあるのですか?」と聞き返せば良かったと後で思ったことでした。検札するなとは言わないのです。検札の目的は切符を正しく買って乗っているかどうかを確認することだと思います。なにも、わざわざ車中で一人静かに読書している人に声かけて邪魔してほしくないのですが・・・。
 いま咲いているチューリップは360本ほどです。雨が多いので、真っ先に咲いていた花はもう散りはじめました。先日、山で出会った面白い形をした花を図鑑で調べたらツクシマムシグサでした。ちょっと怖い名前がついていて、びっくりしました。
(2007年11月刊。730円+税)
 

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2008年05月02日

江戸のなりたち

著者:追川吉生、出版社:新泉社
 都心の再開発をきっかけとして、江戸考古学がスタートした。はじめは大名屋敷の調査・研究が中心的なテーマだったが、そのうちに直参旗本の武家屋敷や墓地、上・下水道など、多様な遺跡が発掘されていった。
 JR御茶ノ水駅の南側一帯、神田駿河台は、日比谷入江に埋め立てるために切り崩された神田山のなごり。家康が死んだあと、江戸に戻った駿河衆(駿府城に付きしたがっていた旗本)が暮らしたことから、駿河台と呼ばれた。旗本の多く住む武家地だった。
 旗本は、もともと戦(いくさ)に際して、主君の旗を守る武士団のこと。御目見以下の御家人とは区別される。目安としては、200俵から1万石程をもらう。その旗本屋敷から、内職として和傘づくりをしていた証拠が出てきた。
 そして、泥面子(どろめんこ)という土製の玩具が8000点も出土した。
 土蔵とともに、地下室もつくられていたことが発掘によって証明されています。江戸の火災の多さからのことです。
 江戸時代は肉食しなかったと思われていますが、獣骨が山のように出てきて、そのイメージをくつがえしました。想像以上に江戸時代の人々は肉食していたのです。
 お墓も発掘しています。3歳で死んだ子どものカメ棺には、副葬品が34点も納められていました。たとえば、羽子板が8枚も入っていました。そのほかには、鶏や猿の人形や、三味線でした。
 桜のソメイヨシノで有名な染井には、地下室がありました。江戸時代の末期に、イギリス人のフォーチュンが、ここを訪れています。フォーチュンは、世界中のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがないと報告しています。その染井の植木屋が地下室もろとも発掘されているのです。
 写真と図版によって、江戸時代が現代の私たちの目前に、まざまざとよみがえらせてくれる貴重な本です。
(2007年11月刊。1800円+税)

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2008年09月23日

江戸の武家名鑑

著者:藤實 久美子、 発行:吉川弘文館

 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのか、何に関心を持っていたのか、また、人々が裁判好きだったことがよく分かる本でした。実は、著者には失礼ながら、期待もせずに読んでいたのです。ところが、意外や意外、面白くて興味深くて、ついつい頁をどんどんめくっていたのでした。
 武鑑(ぶかん)はプロ野球選手名鑑のようなものだそうです。といっても、プロ野球にまったく関心のない私には、プロ野球名鑑といわれてもピンときませんし、手に取ったことも(手に取るつもりも)ありません。
 この武鑑は、江戸時代に生きていた大名家や旗本家の当主・その家族(隠居した父親・妻・嫡子)、その家臣、幕府の役人をほぼ一覧できる。しかも、文字ばかりではなく、陣幕や着物や駕籠(かご)などに付けられていた紋所や、江戸市中を行きかうときの行列道具などが分かりやすく絵入りで描かれている。
武鑑は、眺めていて楽しい。江戸の雰囲気、香りがする。
 武鑑は17世紀中ごろに出版されはじめ、大政奉還(1867年)まで200年以上出版され続けた。武鑑は実用書であり、ロングセラーブックであった。武鑑は社会の需要にこたえて、年を追うごとに厚くなり、その改訂の頻度は年に数回から月に数回にまで増えた。
 武鑑は、19世紀には総丁数は500丁、600丁となり、厚さも10センチを超えた。だから、簡略化した略武鑑も出版された。こちらは懐や袂に入れて携行できるような1.5センチ以下の厚さだった。
 武鑑出版の老舗は須原屋(すはらや)茂兵衛と出雲寺(いずもでら)万次郎だった。いずれも民間の本屋が情報を収集して編集し、武鑑を出版した。須原屋と出雲寺は、武鑑の出版をめぐって、100年以上の攻防戦を展開した。
 江戸時代に本を出版するには、仲間株のみでは不十分で、さらに板株(はんかぶ)を取得する必要があった。板株とは、書籍を出版する権利のこと。単独で所有する丸株と、数人でもちあう相合株とがあり、いずれも板木を所有することを基本条件とした。
 須原屋と出雲寺のあいだの民事裁判(出版差止を求める訴え)は、何回となくたたかわされた。
 江戸時代の人々が文章をよく書き、裁判も辞さず、うえからの押し付け和解を拒むこともあったこと、裁判は証拠(書証)のない方が不利になったことなども分かります。
 日本人は昔から裁判が嫌いだった、というのは、まったく根拠のない嘘なのです。
 私も一度は武鑑の現物を手にとって見てみたいと思います。といっても、崩し字や草書体では、さっぱり意味が分かりません。ここが素人のつらいところです。 
(2008年6月刊。1700円+税)

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2009年01月03日

絵が語る知らなかった江戸のくらし

著者:本田 豊、 発行:遊子館

 前に「庶民の巻」というのがあるそうで、この本は「武士の巻」です。豊富な絵によって、ビジュアルなものになっていますので、活字で想像していたものとの異同を味わうことができます。
 隠れキリシタンは全国各地にいた。そして、「踏み絵」は全国どこででも行われていたのではない。実際には、キリスト教徒の多かった九州の天草や、その周辺に限られていた。ええーっ、本当でしょうか?
 隠れキリシタンの多くは非人に紛れ込んだ。鎌倉・由比ヶ浜の長吏頭(ちょうりがしら)のように江戸時代を通して隠れキリシタンだった者もいる。甲州(山梨県)をはじめ、各地の銅や銀山の鉱山労働者の中には、かなりたくさんの隠れキリシタンがいた。うへーっ、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。
 江戸時代の武家屋敷は、大から小まで、表札は掲げていいなかった。武士は常在戦場を建前としていたからだ。これは前にも聞いたことがあります。時代劇で表札が出ているシーンを見た覚えがありますが、間違いなんですね。
 江戸をはじめ、城下町には必ず武士専門の口入屋(くちいれや)があり、かなり繁盛していた。口入屋には、武士専門の業者と商工業者向けの派遣業者の2種類があった。田舎から出てきた単身赴任の武士は浅黄裏(あさぎうら)と呼ばれて、からかわれた。着物の裏におもに浅黄木綿をつかっていたから。実用的で丈夫ではあったが、野暮天だった。
 この本は、「武士や名主・庄屋といった人たちの間では、離婚はありえなかった」としていますが、これは間違いだと思います。江戸時代の離婚は、上は大名・旗本から、下は町人・庶民にいたるまで、ありふれたことでした。日本は昔から離婚王国の国だったのです。それほど日本の女性の力は偉大でした。この点は、戦国時代の宣教師ルイス・フロイスの観察記にもありますので、間違いないところだと思います。
 江戸時代の出版物には、かなりの影響力があった。たとえ300部しか出版されなかったとしても、繰り返し読まれ、総計では何万人もの人たちがよんでくれる。したがって、出版物に対する幕府による統制は、厳しいものがあった。
 江戸時代の日本人も、けっこう伸び伸びと趣味を楽しんでいたりしていたようです。今の日本と共通するところが多いのは、やはり400年くらいで人間が変わるわけはないということなのでしょうね。
(2008年10月刊。1400円+税)

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2009年01月30日

江戸子ども百景

著者:小林 忠・中城 正堯、 発行:河出書房新社

 いやあ、実にカワユーイ。江戸時代に子どもを描いた浮世絵があったなんて、ちっとも知りませんでした。それがまた実に愛らしいのです。江戸時代の子どもたちが実に伸びのびと生きていたことを実感させてくれる絵のオンパレードです。そしてまた、子どもたちの遊びが少なくとも私たちの子どものころとあまり変わらないのにも驚きです。どうなんでしょうか、今の子どもたちも、こんな遊びをしているのでしょうか。少子化、ケータイ、ネットの時代には、もうなくなった遊びも多いのではないかと、ちょっぴり心配もしました。
幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人は一様に、日本は「子どもたちの楽園」のようだと賛嘆を惜しまなかった。モース(日本考古学の父)は、「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、目を細めた。
 グリフィス(化学の教師として福井や東京で教えた)は、「日本ほど、子どもの喜ぶ物を売るオモチャ屋や縁日の多い国はない」と、驚きを隠さなかった。
親は、西洋の親のように体罰を加えてまでしつけを強制することはなかったが、それでいて子どもたちは、みな聞き分けが良く、利発で、礼儀正しかった。
 浮世絵の一ジャンルである「子ども絵」は、江戸の社会にあっては、かなり需要の高い商品であった。
 江戸の子どもたちの遊びは、第一に季節感に富んでいた。正月は追い羽根、2月は凧あげ、3月はおままごと。4月は花見や金魚遊び・・・。第二に、子どもの遊びとオモチャの種類の豊富さに驚かされる。第三に、大人たちの周囲でのイタズラだったり、大人たちの姿の巧みな真似であったりした。
 江戸時代は、子どもをかけがえのない後継者として大切に育てようとする社会であり、子どもは「子宝」とされた。
銀も 黄金も花も なにせんに まされる宝 子にしかめやも(万葉集。山上憶良)
 浮世絵に描かれている子どもたちって、どれもこれも丸々と太って、いかにも大切に育てられているという、幸せ一杯の笑顔を見せています。
カラー図版がたくさんありますので、本当に実感できます。「子をとろ子とろ」「芋虫ころころ」「鬼ごっこ」「めんない千鳥」などのゲーム的な遊技は、仲間との競争や助け合いなど、仲間遊びであった。
 「子をとろ子とろ」は、子をとる鬼から親が子を守る遊びとされるが、本来は、地蔵菩薩が子を守る姿で、地蔵信仰に由来する。私も幼いころ、「こーとろ、こーとろ」というかけ声で遊んだような気がします。
 輪回しという絵が描かれていますが、私も、自転車のタイヤを外した輪に棒をあて立てて転がす遊びをしていた覚えがあります。江戸時代の子どもたちは竹製の輪をどうやってまわしていたのでしょうか・・・。
 江戸時代には職人がつくるおもちゃが豊富で、子どもにとって歴史はじまって以来の「玩具天国」となった。黒田日出男は「子どものおもちゃや遊びどうぐをつくる職人の登場は近世社会の文化現象」とみなしている。
 わずか90項ほどの大判の浮世絵による子どもの百景なのですが、眺めているうちに何やら童心に返って、ほんわか心があったまりました。

(2008年5月刊。2800円+税)

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2009年03月22日

秋月記

著者 葉室 麟、 出版 角川書店

 うむむ、これは面白い。よく出来ている時代小説です。思わず、ぐいぐいと話にひきこまれてしまいました。このような傑作に出会うと、周囲の騒音が全部シャットアウトされ、作中の人物になりきり、雰囲気に浸り切ることができます。まさに至福のひとときです。
 ときは江戸時代も終わりころ(1845年)、ところは筑前秋月藩です。秋月藩は、福岡藩の支藩でありながら、幕府から朱印状を交付された独立の藩でもあった。秋月藩の藩主黒田長元(ながもと)のとき、御用人、郡(こおり)奉行、町奉行などを務めた間(はざま)余楽斎が失脚し、島流しの刑にあった。この本は、その余楽斎がまだ吉田小四郎という子ども時代のころから始まります。
 小四郎たちは、秋月藩家老の宮崎織部が諸悪の根源であるとして一味徒党を組んで追い落としにかかります。秋月藩は大坂商人から5千貫にも及ぶ借銀をかかえているのに、家老の織部たちは芸者をあげて遊興にふけっている。許せない、というわけです。秋月藩で新しく石橋をつくるのにも、洪水対策でもあるのに、藩財政窮乏の折から無用だという声もあるなかで、強行されるのでした。
 小四郎たちは、家老織部の非を本藩である福岡藩に訴え出て、ついに家老織部は失脚し、島流しになるのです。そして、秋月藩の要職を小四郎たちが占めていくわけですが、そう簡単に藩財政が好転するはずもなく、また、不幸なことに自然災害にも見舞われます。
 やがて、小四郎たちは、家老織部が実は福岡藩の陰謀の犠牲になったのではないか、自分たちも手のひらの上で踊らされているだけではないのか、と思うようになりました。
 手に汗にぎる剣劇もあり、ドンデン返しの政争ありで、登場人物たちの悩みも実によく描けているため一気に読みすすめました。
 ちなみに秋月藩の生んだ葛湯は、私が今も大変愛用しているもので、全国にいる友人に贈答品として送ると大変喜ばれています。それはともかくとして一読をおすすめします。
(2009年1月刊。1700円+税)

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2009年05月02日

幕末史

著者 半藤 一利、 出版 新潮社
 まるで漫談を聴いているような面白さです。博識の著者が、市民向け講座で12回に渡ってしゃべったものが文章となっていますので、とても語り口は平易ですし、エピソードが豊富に語られていて、ついつい身を乗り出して聞きほれてしまいます。なるほど、なるほど、そうだったのか、ちっとも知らなかった。何度も膝を叩きながら、うなずかされたことでした。
 たとえば、幕末の志士たちが「皇国」という言葉を使ったとき、そこには現代日本の私たちが常識的に考えるような、天皇というものを意識したものではなく、単に、徳川幕府ではなく朝廷が支配する日本、というくらいの意味でしかなかった。
 幕末の日本人が天皇中心の皇国日本という考え方で国づくりを始めたとか、その先頭に立った明治天皇は偉大なる天皇であり、明治維新は天皇の尊い意志を推戴(すいたい)して成し遂げた大事業であるという意識は、当時、まったくなかった。
 坂本龍馬を暗殺したのは、見廻組の人間だったが、その黒幕は薩摩藩だったという見解が語られています。このとき、薩摩藩は武力によって権力を得ようとしていたので、武力討幕に反対していた龍馬が邪魔になっていた。それで、暗殺の当日に京都入りした大久保利通が、龍馬の居所を教えたというのです。本当でしょうか……。
 ペリーが浦賀にきたころ、日本人はオランダの通報によってアメリカが江戸を目ざしてやってくることは知っていた。そして、そのころ、中国がアヘン戦争で大敗して香港などをイギリスから取られていたことを知っていた。そうなんです。日本人は、決して、鎖国していたので世界の動静はまったく知らない、なんていうのではなかったのです。
 そして、ペリーのほうも日本についての本をよく読んで、研究してやってきていました。居丈高に出て日本人の鼻をへし折ってやればいいと考えて、そのとおり実行して成果を上げることができたのでした。
 文久2年(1862年)、島津久光は薩摩藩士1000人の軍勢とともに大砲を引っ張りながら勅使護衛の名目で江戸に入った。このとき、朝廷側の要求を結局、全部、幕府にのませて帰る途上で、有名な生麦事件が起きたのです。イギリスは英貨10万ポンドの賠償金を要求しました。
 これに対して老中格の小笠原長行(ながみち)が無断で、その10万ポンドをイギリスに支払った。今なら160億円にのぼる巨額の賠償金である。うひゃあ、す、すごーい。
 賠償金といえば、長州が四国連合艦隊と戦って負けたときの賠償金は300万ドルだった。50万ドルを6回に分けて払うことになり、徳川幕府が潰れたあと、明治政府が明治7年までかけて残り半分の150万ドルを支払った。そ、そうなんですか。屈辱的な賠償額ですよね。
 徳川幕府最後の将軍だった慶喜は32歳だった。朝令暮改、腰の定まらないことおびただしい人物だった。勝海舟は西郷隆盛との江戸城明け渡しの交渉がうまくいかなかったときには、慶喜をイギリスの舟に乗せて亡命させることを考えていた。
 知れば知るほど面白いのが日本史です。
 
(2009年3月刊。1800円+税)

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2009年05月05日

白雲の彼方へ

著者 山上 藤吾、 出版 光文社
 幕末の掛川城(今の静岡県)における尊王派と攘夷派との抗争を背景とした時代小説です。アメリカのペリーが来て、ロシアのプチャーチンがやって来たころ、1854年(嘉永7年)のことです。
 ロシアの地に渡った日本人、橘耕斎は、和露辞書を発刊した(1857年、安政4年)。ロシアに着く前から、伊豆の戸田でロシア語を自由に話していたようです。大したものです。
 耕斎は、明治7年(1874年)に日本に帰国し、明治18年(1885年)に亡くなりました。
 私は、今から40年も前の大学1年生のとき、伊豆の戸田(とだ、ではなく、へだ、と呼びます)に行きました。なぜか、大学の寮がそこにあったのです。海岸に無数の夜光虫がいました。夜、海岸を裸足で歩くと、足跡が青白く光るのです。不気味というより、幻想的な光景でした。
 その戸田で、難破したロシアの水兵たちが本国へ帰るため足止めをくい、日本の船大工が見よう見まねで外国船をつくりあげていったのです。橘耕斎は、そこに派遣されて、ロシア語を習得しました。
 読み物に仕立て上げた著者の筆力に感心・感嘆しました。これが新人の作品とは恐れ入りました、という作家の評が載っていますが、私もまったく同感です。まさに、後世、恐るべしです。こんな本に出会うと、小説を読む楽しみがあります。でも、私は、こんな本を書きたいのです。読む人の魂を揺さぶってやまないような本をぜひ書いてみたいと思っています。
 
(2009年2月刊。1500円+税)

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2009年05月23日

日本の城郭

著者 西野 博道、 出版 柏書房

 著者自身が日本全国を駆け巡って、有名な城の写真を撮ってまわったというのですから、すごいものです。写真を見てるだけでも楽しいのですが、もちろん、それぞれの城について詳しい解説が付いていますので、言うことはありません。これで2400円とは安いものです。私もこの本に登場してくる城のいくつかは実地に見ていますが、まだまだ見るべき城は尽きないことがよく分かります。
 紹介された45の城のうち、私の行ったことのある城を並べてみます。
 関東より北は、残念ながら一つもありません。浜松城、金沢城、名古屋城、岐阜城には行きました。岐阜城は急峻な山にそびえる山城です。ここに斎藤道三がいて、竹中半兵衛が城を占領したとか、木下藤吉郎(秀吉)そして織田信長が占領したのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ下に、長良川が流れていますが、斎藤道三は息子の軍勢と戦って戦死したのでした。
 彦根城にも行きました。姫路城はもちろん行っています。さすがに白鷺城といわれるだけのことはある優美な城です。岡山城は平地の城です。関が原合戦で西軍を裏切った小早川秀秋が城主となった城です。寝返り者という世間の非難を浴びて家中は乱れ、重臣は離反し、岡山城に入って2年後に21歳の若さで病気で亡くなり、小早川家は断絶したとのこと。哀れです。
 広島城・鳥取城と続きます。鳥取城は下から眺めただけですが、秀吉が完全に包囲して用意周到な兵糧攻めをしたことで有名です。戦国の闘いも知恵比べだったのですね。
 松江城、松山城、高知城はよく保存(再現)されています。高知城の下に広がる日曜市で、ふらりと入った店のカツオのタタキ定食の美味しさは今でも忘れられません。また行きたいところです。
 小倉城にも佐賀城にも、もちろん行きました。佐賀城の大広間は一見の価値があります。そして、熊本城です。再現された大広間を見ましたが、思わず息をのむほどの壮麗さです。島原城・鹿児島城にも行ってきました。武家屋敷がそのまま残っていたりすると、昔の風情が感じられ、江戸時代を背景とする藤沢周平などの小説がとても身近に感じられます。
 
(2009年2月刊。2400円+税)

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2009年06月04日

島津久光・幕末政治の焦点

著者 町田 明広、 出版 講談社選書メチエ

 島津久光こそ、幕末の中央政局に絶大な影響をあたえ、回天の梃子を演じていた。
 この本は、このスタンスで島津久光にスポットライトを与え、その実像を浮き彫りにしています。
 江戸幕府創世記を除き、三代将軍家光以降の将軍家は、御台所を基本的には皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの入輿は2例しかなく、そのどちらも外様大名である薩摩藩・島津家からである。この事実は、薩摩藩の勢威・家格を著しく高めた。島津斉彬の権勢の源泉は、将軍家との縁威にあった。
 文久期以降、薩摩藩が幕府以上に調停工作を得意としていたのは、近衛家との濃密な関係を前提として、絶対的な利益代表を有していたからである。
 島津久光は、藩主の座に就いたことはなく、藩主茂久の実父でしかなかった。つまり、久光の政治的基盤は、実は非常に脆弱だった。当時の薩摩藩は、島津家一門が家老職を頂点とする要路を占めており、必ずしも宗家の意向通りに反省は動いていなかった。斉彬といえども、彼らの意向を完全に無視して藩政をすすめることはできなかった。
久光は国父となって人事権を掌握すると、藩内基盤強化に向けて島津豊後派、日置派要路の更迭を繰り返した。その一方、久光四天王を登用し、側近体制の確立につとめた。なかでも、小松帯刀(たてわき)は驚異的な出世を続け、家老となり、御側詰となって、薩摩藩の軍事・外交・財政・産業・教育等の指揮命令権が小松に集中した。
小松28歳、青年宰相が誕生した。小松は幕末期、大久保・西郷以上の存在であり、両雄は小松の指揮下にあった。中央政局においては久光の名代として活躍した。
 文久2年(1862年)、久光は1000人の兵、野戦砲4門、小銃100挺とともに京都に上った。無位無官で、藩主でもなく、対外的には無名に近い久光自身の権威発揚の意図もあった。藩主の参勤交代並みの威儀を正して、しかも江戸ではなく京都を目指したことに特異さがあった。
 久光の京都滞在を許すにあたって、朝廷は浪士鎮撫を条件とした。寺田屋事件(1862年4月23日)は、久光を擁して統幕挙兵を西国志士らと画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫使が寺田屋において鎮圧した事件であり、これによって朝廷における久光の声望は大いに高まった。
 寺田屋事件は、単なる薩摩藩内の抗争事件でも、久光による示威行動でもない、非常に重要な要素をさまざまに含んだ幕末政治史そのものである。
 西郷隆盛は、久光が上京する直前に久光に会っている。復職が認められたうえでのことではあるが、このとき久光に対して、「地五郎」(田舎者)であると言い放った。殿様育ちの久光が、この無礼で歯に衣着せぬ西郷の言動に堪えたのは、西郷の誠忠組における声望の高さ、誠忠組のリーダーでもある側近・大久保の推薦を無視することは、誠忠組の勢威を利用しようとする久光にとって得策ではないこと、それ以上に率兵上京そのものに悪影響を与えかねないとの判断によろう。
 長州藩にとっては、この寺田屋事件こそが藩是を破約攘夷に転換し、中央政局進出への発火点となったし、薩長両藩が反目する直接的起因ともなった。
 寺田屋事件を契機に、天皇の絶大な久光への信頼が確立し、中央政局におけるその存在感は一躍すべての勢力から無視できないレベルに達した。これ以降、久光の意向や動向を気にしなくては、どの勢力も政治的には身動きが取れなくなった。久光時代の到来である。
 しかしながら、久光は京都に長く滞在することはできず、江戸に行った。そして、同年8月、生麦事件が発生した。江戸から京都へ戻ろうとした久光一行の行列に対して、リチャードソンら英国人4人が、非礼であることを承知のうえ、乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことに起因する。当然のことながら、主君を守ろうとして、久光の家臣たちが英国人を斬りつけた。久光が命じるまでもなかった。しかし、このことによって、意に反して久光は攘夷の権化のように世間から祭り上げられることになった。
 そして、イギリス軍が薩摩を攻撃するとの情報を得て、久光は江戸にも京都にもおれず、薩摩に戻らざるをえなかった。文久3年(1863年)7月に、薩英戦争が勃発した。
 以下、省略しますが、久光に焦点をあてた幕末史として、目新しい視点があり、大変興味深く最後まで読みとおしました。

(2009年1月刊。1600円+税)

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2009年06月21日

ひょうたん

著者 宇江佐 真理、 出版 光文社時代小説文庫

 うまいですね。この人の本って、いつ読んでも感心させられます。しっとりした江戸の人情話に、敵味方で争うなかでガチガチになった身と心が、知らず識らずのうちに溶け出していく思いです。そして、下町で夕食を準備する匂いが漂ってきます。
 いえ、本当に、書き出しから店の前に七厘(しちりん)を出して大根を煮る風景が登場してくるのです。米の研ぎ汁で下茹でした大根を、昆布だしでさらに煮る。箸を刺して煮崩れるほど柔らかくなったら、さっと醤油と味醂で味をととのえる。それを昨夜からつくっておいた柚子味噌につけて食べる。うむむ、美味しそうですね。思わず舌舐めずりしてしまいます。
 五間掘沿いの道を行く人々も、いい匂いを漂わせている鍋に恨めしそうな視線を投げて通り過ぎて行く。うまそうな匂いには勝てませんからね……。
 主人公は、しがない古道具屋を営む夫婦。この夫婦をめぐる市井の人々の愛憎つながる話題が転々と展開していくのです。そこには切ったはったの血なまぐさい話はありません。今の日本でもありそうな、身につまされる人情話が繰り返し登場してきて、物語にひきずりこまれてしまうのです。
 そして、その気分に浸ると、それがまた浮世風呂にでもつかったようないい按配なのです。そうやって江戸情緒をしっかり味わっているうちに、やっぱり、いい本に出会えるって仕合せだなと思ってくるわけです。
 あとがきの解説に、次のような文章があります。
 けちな道具屋をしていても、心は錦だ。こんな江戸っ子の矜持(きょうじ)と心意気が表れている。
 そうなんです。気風のよさも感じられますので、読後感はあくまで高山の稜線にある草原を吹き渡る涼風のような爽やかさです。
 
(2009年3月刊。552円+税)

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2009年09月14日

赤穂浪士の実像

著者 谷口 眞子、 出版 吉川弘文館

 師走半ばの14日。これは私の誕生日です。そうなんです。赤穂浪士の討ち入りの日は私の生まれ月日と一致するのです。それだけで何となく親近感がわくのですから単純なものです。
 この本は浪士たちが書いた沢山の手紙を元に事実関係を丹念に追跡しています。よくぞ手紙が大量に残っていたものです。
 内匠頭が上野介に切りつけるとき「この間の遺恨覚えたるか」といったかどうか実ははっきりしていない。この2人の人間関係が前から良くなかったことは想像されるが、その原因ははっきりしていない。
 内匠頭について「昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せたまま」とし、家老(内蔵助)は「若年の主君が色に耽るのを諫めないような不忠の臣」と評価されている。その真偽は不明である。
 事件の後、赤穂藩の江戸上屋敷から家臣たちが退去すると、深夜に町人が4~50人が舟に乗って裏の水門から邸内に忍び込んで、奉公人たちの道具を持ち出していた。それを知って現場に急行した堀部安兵衛たちがその狼藉を叱責したところ、町人たちはたちまち姿を消した。
 江戸の町人たちが火事場泥棒を働いていたわけです。たくましいと言えばたくましい町人の姿です。
 赤穂浪士による吉良邸襲撃は、幕府のみならず世間の人々の耳目を驚かせた事件だった。浪士が切腹して12日目には早くも歌舞伎『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』が江戸の中村座で上演された。ただし、興行3日にして奉行所より公演中止命令が出された。
 討ち入りを当初から考えていたのは、浪士のうちの数人に過ぎなかった。討ち入りが決定したのは、内匠頭の切腹から1年4ヶ月たった元禄15年(1702年)7月28日、京都円山での会議だった。
 赤穂城の明け渡しの際には城付き武具のほかは売り払って良いとの許可が出たため、様々な武具、武器が売り払われた。その状況を岡山藩が派遣した忍びの者が書き付けたリストが残っている。
 内蔵助は古参の藩士として、浅野家に恩義があった。これに対して新参者の堀部安兵衛には「家」が代々仕えてきたという意味での恩義はなかった。
 赤穂浪士にとって転機は二つあった。
 第一は上野介の隠居と義周の家督相続、第二は浅野大学の広島藩差し置きである。これによって、内蔵助の御家再興論に同調していた者も、自分のとるべき道を真剣に考えなければならなくなった。
 円山会議の頃、討ち入りの行動を共にするという神文(しんもん)を提出していたのは120人ほどいた。126人から46人になる段階で比較的高禄の者が離脱していった。
 当初から多くの下級武士が行動を共にしなかったのは、武士をやめて町人になって生計を立てたり、他で奉公できる可能性があったから。
 江戸にいた元「家臣」の浪士の方が圧倒的に比率が高い。討ち入った浪士の半数、24人が刃傷事件のときに江戸にいた。討ち入りに参加した者のほとんどは、江戸で主君の刃傷・切腹から江戸藩邸の収公までを体験するか、内匠頭と空間的、精神的に近い関係を持っていたか、あるいは、参加者の中に親族がいるかどれかの要素を持っていた。
 浪士たちは、討ち入りを武士の名誉と信じていた。吉良邸に討ち入って、吉良家や上杉家の家臣と戦い、そこで討ち死にすると予想していた。そこで死地に赴く心境で遺言を残している。
 赤穂浪士の実像がよくよく分析されていると感心しながら読み進めました。

 関西国際空港(かんくう)から、パリのシャルル・ドゴール空港までは12時間。長いです。朝、かんくうを出発して、すぐに昼食をとり、やがて夕食をとり、ひと眠りして起きたころパリに着きます。パリには、時差の関係でその日の午後に到着します。ちょうどいい按配です!今回は、そのままスイスのチューリッヒへの飛行機へ乗り換えました。
 シャルル・ドゴール空港は、何しろ広かったです。かんくうも広かったですが、それより何倍も広い気がしました。ターミナルの2Gを探して、急ぎ足で歩きます。2Fは見つかりましたが、2Gは標識らしきものはあっても、なかなかたどりつけません。おかしい。どこにあるんだ。空港の係員に尋ねて、あっちだと指差す方向を目指しました。しかしそこにはありません。おかしい。あっ、これはバスに乗っていくところかな。バス乗り場の係員に訊くと、やっぱりそうでした。乗り換え時間は2時間近くあり、余裕たっぷりだったはずが、現実には広い空港内を歩き回っているうちに、なんと30分前になってしまいました。
 ターミナル2Gは、バスに乗って5分以上も離れた所にポツンとありました。やれやれ、チューリッヒ行きの飛行機に、これで乗れます。やっと安心しました。これに乗れなかったら、かんくうでチューリッヒまで送ったスーツと泣き分かれるところでした。
 教訓その1。シャルル・ドゴール空港は果てしなく広いと思うべし。教訓その2。ターミナルが建物内にあるとは限らない。シャトルバスで行くターミナルもある。ヨーロッパ内の国外へ乗り換えるときには要注意。教訓その3。旅では何事も初めてのことに出会うと心得ておくべし。
 いやあ、これでまた人生の勉強になりました。

   (2006年7月刊。1700円+税)

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2009年09月19日

江戸の病

著者 氏家 幹人、 出版 講談社選書メチエ

 新型インフルエンザの大流行が心配されています。明治23年に流行した日本初のインフルエンザを、当時の人は「お染(そめ)風(かぜ)」と呼んだ。浄瑠璃の主人公のお染と久松である。そして、東京ではインフルエンザつまりお染風にかからないように、家の軒に「久松留守」と書いた紙札を張り付けるのが流行った。「お染さん、お前さんが惚れた久松さんは、この家には居ないから、通り過ぎておくれ」というこころである。いやあ、現代の日本人も、血液型占いのように迷信深いですけど、同じなんですね。
 日本人は眼病大国。そして、梅毒が蔓延していた。杉田玄白の収入は年に250~643両もあった。曲亭馬琴は年収40両ほどだったから、けたはずれに大きい。これは、梅毒の蔓延によるもの。城崎(きのさき)温泉が繁盛したのは、梅毒に効果的という評価を得ていたから。江戸の成人の半分が梅毒に感染していた可能性がある。このころ、梅毒は、まだ感染症だということが十分に認識されていなかった。
 幕末の日本にいたオランダ人医師ポンペは、日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪い事とは思っていない。しかし、厳重な対策が必要だと強調していた。これも、現代日本と同じようなものですよね。
 吉原の花魁(おいらん)を見物に来たのは、男だけではなかった。女たちは、今日の女性アイドルやセレブに抱くような羨望と感嘆の情を抱いて見ていた。そのとき、憐れみとか蔑みより、まあキレイと率直に賞嘆していたのである。うむむ、そうだったのですか……。
 60歳以上で亡くなった人の平均死亡年齢は73歳。18世紀の江戸は、今日の日本人が想像するほど短命社会ではなかった。ただし、60歳になるまでに亡くなる人が想像以上に多かった。
 江戸で男女の別なく、若者の最大の敵は肺結核(労咳)だった。ただし、20代の女性についていうと、出産に伴う体調不良が原因で死亡したケースの方が多かった。
 江戸時代は、頼まれたらこちらの乳が不足しない限り、乳をやるのが常識だった。自分の子だって、いつ母乳が出なくなって空腹を訴えて泣き叫ばないとも限らないからだ。幕臣の間での乳の繋がり、乳縁は重要な役割を果たしていた事実がある。
 医者と坊主は、一人前の人間が就く職業ではない。これは、比里柴三郎が父親から言われた言葉(明治4年)だそうです。うむむ、信じられませんね。
 江戸時代、医者になるのは今日と比べものにならないほどやさしかった。
 江戸時代には、老若男女の別なく、お灸が日常的に行われていた。
 江戸時代の病気の状況と医療界の実相が紹介されていて、面白く読みました。医師って、ホントに大変な職業ですよね。毎日毎日、日常的に死と直面し、本人や家族と言葉を死を意識しつつ交わさなければならないのですから、いやはや大変なことです。
 
(2009年4月刊。1600円+税)

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2009年10月10日

楠の実が熟すまで

著者 諸田 玲子、 出版 角川書店

 うまいもんですね。女隠密の大活躍。手に汗握る場面の連続です。次々に周囲の人物が殺されていく中で、公家の乱脈財政を暴くため密命を受けて京に潜入し、なんと公家の奥方様としてお輿入れするのです。いやはや、よくぞこんな筋立てを考えついたものですね。その発想力は恐れ入ります。そして読ませます。
 禁裏(きんり)の台所を預かるのが口向役人(くちむけやくにん)である。
 武家伝奏(ぶけでんそう)とは、幕府と朝廷との間を取り持つ重い御役。
 口向は禁裏の賄(まかな)いをつとめる役人の総称である。御取次衆、御賄頭(おまかないがしら)、御勘使(おかんつかい)、御買物使、御膳番(ごぜんばん)、御賄方、御修理職(おすりしき)、吟味方、御板元方(おいたもとかた)、御鍵番(おかぎばん)と役職は多岐にわたる。御取次衆は、全体のまとめ役で、幕府から派遣された御付武家衆に帳簿を提出する役目である。江戸時代のさまざまな役目が紹介されています。
 女隠密の正体がいつばれるのか、ハラハラドキドキしながら読み進めていきました。そして、不正の対象である公家と情が通じ合うようになり、その子を本気で愛しく思うようになってしまうのです。でも、それでは隠密の使命は果たせません。この矛盾をどうするか…。悩ましい展開です。
 裁判所の行き帰り、そして法律相談の合間にカバンから本を取り出して、読みふけりました。私も、こんな人物描写にすぐれた小説を一度は書いてみたいと考えています。

(2009年7月刊。1600円+税)

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2009年11月14日

鶴屋南北の恋

著者 領家 高子、 出版 光文社

 江戸時代。文化文政期に、遅咲きながら長く大輪の花を咲かせ続けた鶴屋南北(つるやなんぼく)。当代随一の歌舞伎狂言の作り手である。南北が立作者になったのは50歳近い。『東海道四谷怪談』で当たりをとったときは、既に齢(よわい)七十一。次々と話題作を出してきた。
 すごいですね。同じく遅咲きだった松本清張のような作者なんですね。
 総作に没頭する狂気のような集中力。古き良き時代の香りを胸一杯に吸い込んだ者だけが持つ、晴朗な佇まい。長い雌伏時代に養われた胆力は並みではない。生来の悪気のなさと、醒めたものの見方を両立できるのは、世の中の酸いも甘いも知り尽くした年の功。しかも、歌舞伎作者なる「新しさ」の申し子として、結果を必ず出すためにとる方法の奇抜は、群を抜いている。舞台を愛する一心で生き残りをかけて劇界に踏みとどまり、備わった政治力。当代の千両役者たちの天才と傲岸と我がまま勝手を理解するのも、長老格のこの人をおいて、他にない。なーるほど、今も変わらないことでしょうね、これって……。
 歌舞伎舞台は、庶民のうっ屈を映す鏡だ。
 そんな南北が心魅かれた女性がいた。
 三味線弾きの辰巳芸者を、人目に触れぬ寮の離れに囲い、清元を弾かせて食事をする。やがて、年齢を超えて南北と鶴次(芸者)は男女の中になり、息子の十兵衛を交えた三角関係が生じ……。南北はそのなかで、たゆまぬ筆をすすめていった。
 しっとりした江戸情緒をたっぷり味あわせてくれる大人の恋の物語です。よく出来ています。その出来栄えの良さにほとほと感心しつつ、江戸の人情話を心底から楽しむことができました。

(2009年2月刊。1600円+税)

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2009年12月07日

百姓たちの江戸時代

著者 渡辺 尚志、 出版 ちくまプリマー新書

 江戸時代の人口は、17世紀に急増した。1600年に人口は1200万人から1500万人のあいだと推定される。それが18世紀はじめには3000万人を突破した。100年間で2倍に人口が急増した。その背景には、新田開発による耕地面積の急増と、農業生産力の増大があった。この本には書かれていませんが、戦争がなくなり、平和な時代となったことがその前提として大きかったのではないでしょうか。
 ところが、18世紀から19世紀にかけて、人口は停滞・安定してしまう。
 18世紀に人口増加がストップしたのは、少子化と晩婚化が進んだこと、耕地面積の増加が頭打ちになったこと、飢饉や疫病の影響もあった。
 江戸時代の後期、一家の子どもは2,3人程度だった。子だくさんではなく、人々は少なく生んで、手間ひまかけて子どもを育てるようになった。
 江戸時代の百姓は、一般に苗字をもっていた。百姓に苗字がなかったというのは誤解である。ただ、公的な場で名乗ることを許されていたのは、ごく一部の特権的な百姓に限られていた。
 江戸時代は、百姓が一般的に家を形成したという点で、日本史上画期的な時代なのである。それ以前には、家が成立していなかった。なーるほど、そうだったのですか……。
 江戸時代の庶民の衣料事情は、2回の大きな変化を見せる。1回目は、江戸時代前期に起きた木綿の普及。2回目は、19世紀に入って、庶民がファッションに敏感になり、10年周期で流行が変遷していったこと。
江戸時代の百姓は、米を食べていた。年間1石(150キロ)以上の米を食べていたと思われる。絶対量でみると、今日の日本人(60キロの米を食べる)を上回る米を食べていた。日常的には、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や、かゆ、雑炊を食べ、婚礼などの晴れの日には米だけの飯を食べた。
 江戸時代、介護は女性の役割という観念はなく、介護は家の責任で行うものとされていた。家長が家族の中心になって介護にあたるべきだと考えられていて、家長の統率のもと、家族が協力することが求められた。
 江戸時代の歌舞伎は、村人自身が演じたところに特徴があった。村人が自ら役者となり、歌舞伎を村の鎮守に奉納し、村全体でそれを楽しんだ。
 19世紀の村には、常に誰かしら寺子屋の師匠がいた。
 農家が米をつくるとき、早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を組み合わせ、収穫時期をずらし、風水害のリスクを回避し、多収穫をバランスよく実現しようとした。
 一家の財布を握り、一家を牛耳るのは、妻だ。妻は家庭内で尊重された地位を占めている。彼女の生活は上流階級の婦人より充実しており、幸せだ。なぜなら彼女らは、生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、その言い分は通るし、敬意も払われるからだ。夫婦のうちで、性格の強いものの方が性別とは関係なく家を支配する。
 江戸時代にも、たくましく生きる女性たちが確かに存在していた。
 江戸時代の村の生活の様子が、イメージをもって伝わってくる貴重な新書です。日本は古来、女性は強いのですよ。今の日本を見たら、よく分かることです。

 アメリカはアフガンに増派するということですが、失敗するに決まっていますよね。かつてのベトナム戦争、そしてソ連のアフガン敗退の二の舞を演じるだけでしょう。
 勝てる見込みがまったくないのに、それでもあえて増派するのは、タリバン政権の復活を恐れているからとのことです。アフガニスタンにタリバン政権ができたら、パキスタン政権も危うい。そして、そうなったら、核の管理が心配になり、核兵器をテロリスト集団が持つ心配がある。こんな心配をしないように、アメリカはともかくアフガニスタンに増派するようです。これは、渡辺治教授の話の要旨でした。
 
(2009年6月刊。760円+税)

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2009年12月11日

寂しい写楽

著者 宇江佐 真理、 出版 小学館

 東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
 老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
 また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
 東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
 9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
 滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
 斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
 乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
 江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
 
(2009年7月刊。1500円+税)

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2010年01月29日

関ヶ原前夜

著者 光成 準治、 出版 NHKブックス

 関ヶ原合戦については、二項対立的にとらえられてきた。たとえば、北政所派に対する淀殿派。また、武功派に対する吏僚派など。しかし、北政所と淀殿は実際には連携していた。さらに、武功派と吏僚派という単純な対立図式は成り立たない。
 実際には、これらの対立軸は複雑に絡み合い、また、血縁・姻戚関係や地理的要因にも左右され、諸大名は自らの進退を決した。うーん、たしかにそうなんだと思います。
 前田利家が死去した直後、石田三成は加藤清正や福島正則たち七将に襲われ、伏見にあった家康邸に逃げ込んだ、という見解は誤りであって、三成は伏見城内にあった自邸(曲輪)に入った。この点は、たしかに実証されています。
 毛利輝元は、西軍の総大将格に祭り上げられたが、積極的に戦闘には参加しなかったという通説見解にも疑問がある。むしろ輝元は、あらかじめ奉行衆や安国寺と決起のタイミングについて打合せ、諸準備を整えたうえで、上坂要請という大義名分を得て迅速に行動した。
 毛利軍は、最前線に兵力を投入することには消極的だが、それ以外の東軍参加大名の所領を侵食することには積極的だった。関ヶ原合戦のとき、輝元は、岐阜城の落城や伊勢や大津での苦戦、家康の西上に不安を感じていただろうが、他方、石田三成との絆も完全に崩壊はしていない。また、西軍の総大将格としての矜持も失っていない。そこで、吉川広家ルートによって万一、西軍が敗戦したときの自己保身を図る一方、南宮山の布陣は削がず、西軍有利と見れば下山して東軍を叩きつぶす。弱気と強気の交錯した感情のなかで、輝元は、どちらにも対応できる策をとったものと思われる。
 さまざまな思惑謀略の渦巻く中、関ヶ原は戦場と化していった。
 なーるほど、日和見というか、毛利輝元のずる賢さというか…ですね。
 毛利輝元は、大坂の陣に際し、表面的には家康に従い、豊臣秀頼攻撃軍に兵を送る一方で、毛利元就の曾孫にあたる内藤元盛を佐野道可と改名させたうえで、兵を与えて大坂城に送りこんだ。秀頼軍は秀頼の直臣ほかは、関ヶ原合戦後に浪人となった者で構成されており、佐野道可のように主君の密命を帯びて秀頼に加担した例は他にない。
 このように、毛利輝元の人物像は、非常に野心に満ちたものといえる。
 関ヶ原合戦で、仮に西軍が勝ったとしても、秀吉が健在だったころの豊臣家を唯一の武家頂点とする国家体制が復活したとは考えられない。西の毛利、北の上杉に加え、宇喜多や島津、佐竹などが地域国家として分立し、形式上の最高指導者である秀頼の下、石田三成ら豊臣奉行人と地域国家指導者との合議によって、日本全体の国家を運営していくという複合国家体制が成立していたであろう。
 なーるほど、そうなんでしょうね……。
 私は関ヶ原の古戦場跡には2回行ったことがあります。徳川家康は決して自信満々で関ヶ原決戦にのぞんだのではないことを知って、現場で感慨を深くしました。知れば知るほど歴史は面白くなります。
 
(2009年7月刊。1160円+税)

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2010年02月26日

江戸の本屋さん

著者 今田 洋三、 出版 平凡社ライブラリー

 江戸時代には、大量の本が出版されていて、本の買えない庶民には貸本屋があって、大繁盛していたのでした。
 そうなんです。日本人は、昔から本大好き人間が多かったのです。今の日本と同じです。
 江戸時代に出版業者は刊行物の目録を作るようになった。1670年の目録には3900点の書物が登録されており、1692年には7200点にも達している。元禄時代の日本に刊行されていた書物は、1万点にものぼる。流通していた冊数は1千万冊にも及ぶものとみられる。
 うへーっ、す、すごいですよね。私も読書家の一人ですが、蔵書は1万冊あるでしょうか。年間500冊以上の本を読み、購読して読んでいない人も相当ありますので……。
 江戸時代、書物の読者が増え、劇場の観客が激増したのは、都市の発達と関連していた。京都も大阪も30万都市であり、江戸には武士と町人あわせると100万人に達した。この時代に人口100万人を超える都市は、世界中探しても他に見つからない。
 文化・文政期は三都がかつてなく繁栄した。江戸では文化の享受層が、田沼時代の上層町人中心から、中下層の町人・職人層に拡大し、文化の大衆化が進行した。都市における読書人口は、かつてなく増大した。毎年40種近く発刊される合巻は、それぞれ5千部から8千部も売れた。近世前期に、上方中心であった出版界は、完全に江戸中心となった。
江戸時代には、どの地方にも貸本屋があった。大坂には300人の貸本屋がいて、江戸の貸本屋は800軒と言われていた。江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいた。こうなると、有料図書館とでもいうべき存在である。
 貸本屋は出版統制・言論統制のまことに厳しい江戸時代にあって、とくに政治批判や政治の実態を曝露する文献を、読者にひそかに貸し出す人々でもあった。
 江戸の講釈師・馬場文耕は、金森氏が藩政不行届のかどで改易されたのを講談にしたところ、浅草で獄門に処された(1758年)。
 日本人の読書好きには歴史があり、権力への反骨精神も太々としたものがあったことが、よくわかる面白い本です。
 
(2009年11月刊。1300円+税)

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