弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2018年11月17日

出島遊女と阿蘭陀通詞

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉城出版

江戸時代は厳しい鎖国がとられていたというのが定説でしたが、最近では、案外、日本は世界の情報をさまざまなルートで入手していたとされています(と思います)。
その窓口のひとつが、長崎は出島にあったオランダ商館です。そこに出入りするのは通詞(通訳です)と商売人(商工業者)だけでなく、一群の遊女たちがいました。
オランダ商館にいる異人たちは、その大半が10代か20代の青年たちでしたから、日本人女性との交流も盛んであり、実は商館内に遊女たちが寝泊りしていたようです。
日本最古の仏和辞書も、このオランダ語通詞たちが、オランダ語によるフランス語の辞書を翻訳してつくられたものでした。これは最近のNHKラジオ講座で得た知識です。長崎の歴史・文化博物館に原物が展開されているそうです。ぜひ見てみたいです。
この本によると、オランダ商館の人々が日本語を習得することは禁じられていたとのこと。キリスト教の布教を恐れたことと、密貿易を未然に防止する必要からのようです。ですから日本人通詞たちが活躍するわけです。ところが、出島での宴会風景を描いた絵(有名な川原慶賀の、写真のように精密な再現図)によると、そこに遊女が存在するのですが、必ずしも通詞がそばにいるわけではありません。要するに、出島に出入りする遊女たちは、どうやらオランダ語を聞いて話せていたらしいのです。
そして、遊女たちがオランダ人に宛てた手紙がオランダのハーグにある国立文書館に100通もあることが判明したのです。江戸時代の女性の手紙ですから、私にはほとんど読めませんが、それでも、いわゆるカナクギ流の文字ではなく、流れるような草書体の立派な筆づかいです。
著者は、オランダ語通詞たちが、ルビのようにオランダ語を手紙に書き添えているのに助けられて、その100通あまりの遊女の手紙を解読したのです。本当に学者って、すごいですね。盛大なる拍手を贈ります。意外な事実を知りました。オランダ人とのハーフの子どもたちもそれなりに生まれたことでしょうね。最近よんだ本(泡坂妻夫『夜光亭の一夜』)に、そのような生まれの遊女が登場します。
(2018年4月刊。3600円+税)

2018年11月 7日

刀の明治維新


(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版  吉川弘文館

刀というと武士の特権として、武士だけが腰に差していたというイメージがあります。
しかし、江戸時代は、百姓も町人も刀を腰に差していたのです。ええっ、そんなバカな・・・。
でも、旅する男たちを描いた絵には、たしかに腰に刀を差しています。百姓も町人も、旅には脇差という短い刀を帯びた。なあんだ、百姓・町人が差していたのは短い刀(脇差)だけだったんじゃないか・・・。そう思うのは早トチリなんです。
たとえば、伊勢神宮への参拝を案内する御師(おんし)は、身分は百姓なのに、腰には大小の二本の刀を差していた。また、旅籠(はたご)を営む百姓が腰に大小二本の刀をさしている絵もあります。
刀を差している(帯刀)者が武士とは限らないのです。江戸時代には、「帯刀」した姿で歩く、武士以外の人間がかなり存在していたのでした。
当時の絵が紹介されていますから、これは疑うわけにはいきません。
江戸時代、刀と脇差の組み合わせを「大小」と呼び、この二本を腰に帯びることを「帯刀」と呼んだ。そして、この「帯刀」の歴史は、実は、それほど古くなかった。それは、戦国時代の末期以降の風俗であった。
中世の合戦は、馬に乗り、弓矢を主体としていた。太刀と腰刀を2本セットとみて特別視し、それを武士の代名詞とする文化は、中世には存在しなかった。
刀と脇差を一緒の帯に差し込む風俗は、戦国時代に、雑兵や下級の武士たちから発生したものと考えられる。
江戸幕府は、刀を差すことはもちろん、刀剣の所持も禁じず、刀・脇差の没収もしなかった。江戸という都市部において、刀は、武士と町人とを外見で決めて区別するための身分標識ともなっていた。
江戸時代の後期になると、幕府は長脇差をよばれるものだけは、強い態度で禁止した。
百姓・町人は、脇差を帯びていた。当初は常に差していたが、やがて吉凶と旅行などの際に限るようになった。したがって、江戸時代の民衆が「丸腰」だったというのは、近現代につくられた「まったくの虚像」である。
神職は帯刀していた。江戸時代は神事の際は帯刀することになっていた。
19世紀になると、御用町人への帯刀許可の増加によって、大小を帯びた町人が、再び江戸を闊歩(かっぽ)する状況が生じた。
刀と武士、そして町人と百姓との関わりが深く分析されています。大変楽しく読み通しました。知らないことって、本当に多いですよね。
(2018年8月刊。1800円+税)

2018年8月24日

百姓たちの戦争


(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

著者は島原・天草の乱を、いわゆる百姓一揆ではなく、「合戦」、つまり戦争とみています。百姓一揆なら領主側に要求をつきつけ、その実現を目ざそうとするわけですが、島原・天草の乱では、そのような要求実現行動はみられず、幕藩軍との合戦をくり返し、城を占領して、最終的には島原城に立て籠った2万7千の一揆勢は全員が命を失った。
軍事的な訓練などほとんど出来ていない百姓主体の一揆勢が、「侍の真似できない」気力で武士たちに向かっていった戦いを、現地では「合戦」と呼んだ。この「合戦」は4ヶ月に及んだわけであるので、まさしく戦争と呼ぶにふさわしい。
一揆の直前、島原藩松倉家そして唐津藩天草領の寺沢家で、それぞれ御家騒動が起り、家臣が集団で退去し、牢人となる事件が発生している。そして、それぞれ逃走したのは「若衆」たちであり、この牢人たちが一揆の中枢部に入ったことは間違いない。
一揆の首謀者は、意識して10代の少年たちを集めていた。
彼らは、信仰復活工作の象徴をつくり出すこと、信仰を復活、公然化させ、信者たちを統合し、象徴となる「天子」、「天帝」としての「四郎殿」(天草四郎)をつくり出すことを狙った。「若衆」たちは、「四郎殿」に仕えて、その分身として活動するために、松倉家・寺沢家から集団で逃走したとみられる。
一揆勢は、占領した城を死守することを通じて、「デイウス(神)への奉公」を尽くし、「神の御加護」、具体的には「神の国」による救援を信じた。
島原一揆勢が「本陣」と定めた原城は石垣、堀、虎口など、城の要害機能は基本的に残っていた。そして、原城の所在する有馬村には、島原藩の注文で「千挺」もの鉄砲をつくった「鉄砲屋」大膳がいた。口之津にあった武器庫の鉄砲・弾薬類も、この「鉄砲屋」が製作し、調達していたとみられる。
一揆勢が戦略上もっとも重視し、懸念していたのが「玉薬」の数量である。一揆蜂起の時点では、まとまった玉薬を管理下に置ける見通しがあったからこそ、一揆は武力の発動・戦争への飛躍することになった。
原城に立て籠った一揆勢は2万7千人ほど。
原城のなかは、村ごとに集まり、村社会の地域連合体だった。また、軍事組織として確立された。軍奉行という一揆指導部が存在した。
そして、天草四郎は「天守」に籠って、一揆勢の前に姿を現すことはなかった。
原城の一揆勢の軍事力の柱は鉄砲であり、1000挺ほど所持していたとみられる。その泣きどころは、火薬の乏しさにあった。一揆勢は幕藩軍の総攻撃の直前の2月21日夜の夜襲で「鉄砲の薬箱2荷」を奪ったが、それが、すべてであった。そのほか一揆勢の主力武器は石だった。ちなみに宮本武蔵も、石による負傷を受けた。
原城戦争の実態を詳しく知ることのできる本です。原城跡には2回行きましたが、感慨ひとしおでした。
(2017年11月刊。1900円+税)

2018年7月13日

原城の戦争と松平信綱

(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

これは面白い。ワクワクしながら読みすすめました。わずか150頁もない本なのですが、じっくり精読したため、私としては珍しく半日もかかって読了しました。
表紙の絵は島原の乱に出動した秋月藩の活躍ぶりを描いた屏風の一部です。わざわざ秋月にまでいって現物を見る価値のある屏風絵です。島原の乱の100年後に描かれたものではありますが、悲惨な原城の戦場が実にリアルに再現されていて、資料的価値は高いとされています。
この本の何が面白いかというと、島原の乱で抜け駆けした佐賀・鍋島藩主が将軍家光から特別表彰までもらったのに、一転して幕府の法廷で、被告席に立たされ、よくて国替え、あるいは藩としての存続すらあやぶまれる事態になったのです。将軍家光は熊本の加藤家の取りつぶしを断行した実績がありました。なぜ、そんなことになったのか・・・。
ここで、42歳の松平信綱が登場します。「知恵伊豆(ちえいず)」とまで言われるようになったのは、まさしく、この島原の乱の陣頭指揮と、その後の軍法裁判で将軍家光を巻き込んだからなのです。
それにしても、将軍家光が臣下(老中です)の邸宅に出かけ、信綱と夜を徹して語り明かし、朝帰りしたということまで記録がのこっているのですね。これって、毎日の新聞に首相動静が記事になっているのと同じです。
何を一晩、家光と信綱の二人は語りあったのか・・・。島原の乱の抜け駆けを軍法裁判にかけると同時に、先代からの老中たちをいかに辞めさせるのか、語りあっていたようです。
つまり、親子といえども、将軍が代替わりすると、親の将軍の取り巻きの老中たちは、新しく将軍になった子ども将軍にとっては、まさしくうっとうしい存在であって、それに替えて幼いころから周囲にいた気心の知れた者たちを老中にして、名実ともに実権を握りたいというわけです。
ところで、家光はこのころうつ症状にあったとのことです。そんなことは初耳でした。
原城に籠った一揆勢は、板倉重昌は総攻撃を強行して失敗し、取り残されたところを一揆勢に殺されてしまったのでした。そこで、今度は負けられないとして信綱は総攻撃の日を設定し、抜け駆けは許さない、抜け駆けしたら軍法裁判にかけると明言していたのでした。ところが、ここで幕府に恩を売ろうと考えた鍋島藩勢は前日に戦を仕掛けたのです。鍋島勢が抜け駆けしたのは総攻撃予定の前日でした。その状況を見て、慌てて他の軍勢も出撃し、幸運にも天草四郎を見つけ出し、首をはねたというわけです。
では、何が問題なのか・・・。決められた出撃予定を日になっていないのに、鍋島勢は二の丸を攻めはじめたのでした。では、なぜ、いったん家光が特別に鍋島軍勢を賞賛したのか。それには筆頭老中の土井利勝がからんでいます。土井利勝は鍋島藩主とは深い関係にあり、加増まで画策していました。
でも、戦場では臨機応変に機を見て予定を変更して突入すべきときがある。理屈ばかり言うな・・・。そんな声も出たようです。たとえば、有名な大久保彦左衛門も、その一員でした。なるほど、戦場では予期せぬことも起きるでしょう。でも家光の威光をバックとした信綱は、ひるまずに先輩老中の抵抗をはねのけ、軍法裁判の開催にこぎつけました。結局、家光将軍の下した裁判の結論は予想以上に軽かった。
前将軍・秀忠時代の重臣(土井利勝ら3人の老中)は、新将軍・家光の時代が動いていくときに邪魔になるということです。幕府の上層部における権力抗争、将軍を巻き込んだ派閥抗争の様子が活写され、果たしてこの軍法裁判はどうなるのか、頁を繰るのももどかしいほどでした。将軍って、必ずしも独裁者ではなかったのですね。この事件のあと、いよいよ老中たちによる集団指導体制が固まっていったようです。
江戸時代初期の幕府の内情を知ることができました。ご一読をおすすめします。
(2017年11月刊。1500円+税)

2018年7月 2日

潜伏キリシタン村落の事件簿

(霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  清文堂

まったくのオドロキです。福岡の筑後平野に今村天主堂があり、最近も『守教』(帚木蓬生)という小説になりました。大刀洗町の今村地区は江戸時代を通じて、ずっと切支丹として村ごと維持してきたのでした。
同じことが天草でも起きていたのです。しかも、その信者の規模は少なくとも5千人だったのです。幕府への公式報告書には6千人とされていました。そして、なんと、一人も刑死者を出していないというのです。信じられません。
島原の一揆のあとでも天草に、それだけのキリスト教信者がいることを知って、幕府当局は事なかれの穏便な処理方針をとったのです。なぜか・・・。
私も天草には行ったことがあります。エイのヒレ(エイガンチョと呼びます)を食べた覚えがあります。そして、今ではイルカ・ウオッチングで有名ですし、恐竜の化石が出たところでもあります。ですから、また機会をつくって天草に行ってみたいと考えています。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、19世紀にさしかかるころです。肥後国天草郡の最大の島、下島西海岸の村々で5千人をこえる潜伏キリシタンの存在が明るみに出た。いま、天草氏にある大江天主堂の近くの天草ロザリオ館には、数多くのキリシタン遺物が展示されている。それは天草の村人たちが「隠れ部屋」をつくって、キリシタン信仰を守り続けてきた、何よりの証拠である。
最後のバテレン(宣教師)、斎藤パウロが寛永10年(1633年)に天草の上島の上津浦で捕まった。
なぜ、天草にキリシタン信仰が根づいていたのか。それは、貧困と貧富の格差がひどかったからだ・・・。
天草の人口増加はすさまじい。万治2年(1959年)に1万6千人だったのに、寛政6年(1799年)に11万2千人、文化14年(1817年)には13万2千人となった。
全国的にみると、江戸後期の人口は微増でしかなかったのに、天草の人口増加は驚異的である。これもカトリックの影響でしょうか・・・。
潜伏キリシタンは、仏教を信仰する「正路の者」と日常生活をともにし、仏教関係の行事をこなしつつ、その裏でキリシタンだけの信仰生活を送っていた。
潜伏キリシタンは、7日間を区切りに生活し、7日目を「ドメンゴ」(ドミンゴ、日曜日)と呼んで、仕事を休み、神に祈りをささげた。
天草を統治する島原藩の基本方針は、「5千余」の潜伏キリシタンを処罰せず、もとの状態、仏教信仰の「正路」の状態に戻すというもの。そのため、性急な取り調べをせず、余裕をもって、柔軟に対処していくことにした。
なぜ、そうしたか・・・。急に村民を吟味(ぎんみ)すると、徒党、逃散などの騒動が起きたり、村つぶれになったりするので、気長に取り扱えという。要するに、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」と同じで、百姓を確保しておきたかったのでしょう。
幕府も潜伏キリシタンの処遇には困った。結局、5千人もの潜伏キリシタン5千人全員が、その罪を問われることはなかった。それどころか、対処にあたった関係者は幕府から褒賞(ほうしょう)された。時代は変わった・・・。
5千人とも6千人ともいう天草の潜伏キリシタン(実は、もっといたようです)は、藩当局から黙認されていたというわけです。そのおかげで、このような文献を読むことができました。
(2017年11月刊。1800円+税)

2018年6月12日

潜伏キリシタンは何を信じていたのか


(霧山昴)
著者 宮崎 賢太郎 、 出版  角川書店

筑後平野の真只中に潜伏キリシタンがいて、明治になって名乗り出て、今では今村地区に壮大なカトリック教会堂がそびえ立っています。踏み絵だとか五人組という厳しい試練をくぐり抜けて江戸時代も信仰を捨てず、現代に続いているのです。信じられない奇跡です。帚木蓬生の『守教』は、今村地区の潜伏キリシタンの存在(存続)をテーマにしています。
この本は同じように江戸時代を生きのびた長崎県の潜伏キリシタンを分析しています。長崎県の生月(イキツキ)島などでは、今もカクレキリシタンのまま信仰を続けている人たちがいます。しかし、それも次第に減っています。
カクレキリシタンが350年以上の時を隔てて今日まで続いてきたのも、日本仏教とまったく同じ受容と土着の原理にしたがって、日本の諸宗教の中に溶け込んでいったからだ。キリシタンを隠れ蓑として、仏教というスタイルを用い、先祖に対する篤い信仰を守り通してきたのだ。カクレキリシタンはオラショの言葉の意味を理解して唱えていたのではなく、ありがたい呪文として唱えていた。
当時の人々がキリシタンに改宗したのは、それまで日本人がおすがりしてきた諸々の神仏の上に、さらに効き目のある、何でも願いごとをかなえてくれそうな南蛮渡りの「力あるキリシタンの神」を、ひとつ付け加えたに過ぎなかった。つまり、従来の神仏信仰の上に、さらにキリシタンという信仰要素をひとつ付け加えたに過ぎなかった。
 領主たちはポルトガル船から期待される収益のために、領民を強制的にキリスト教に改宗させた。
キリシタン思想をある程度まで、理解できた日本人は、京阪地方を中心とした一部の知識人層のみだった。そして、キリシタン弾圧が始まると、まず多くの武士層や知識人層が放棄した。
長崎県下のカクレキリシタンは、昭和60年代初めに400~500軒、1500~2000人ほどだった。現在では、激減して120軒(厳密には80軒)ほどでしかない。
カクレキリシタンにとって、仏教や神道は、キリシタンであることを隠すためのカモフラージュではなく、この三つの要素が完全に一つとなり、三位一体のような形をとって、これまで続いてきた。カクレキリシタンの信仰対象は先祖が命かけて今日まで伝えてきたもの。大切なのは、それが何かではなく、誰が大切なものとして伝えてきたか、ということ。カクレキリシタンは、ごく当たり前の仏教徒として、また神道の氏子として、その努めを果たしてきた。
17世紀はじめの日本にキリスト教信徒が45万人ほど、人口の3%ほどいた。現在、日本のキリスト教カトリック信徒は44万人ほど。まったく同じだけど、人口比率では0.34%でしかない。プロテスタント(合計57万人)を含めても0.81%でしかない。
キリスト教系の大学はたくさんあるのに、日本人のキリスト教信者が一向に増えないのはなぜなのか・・・・。
宗教とは何か、など、いろいろ考えさせられる本でした。
(2018年2月刊。1700円+税)

2018年3月24日

東大教授の「忠臣蔵」講義

(霧山昴)
著者  山本 博文 、 出版  角川新書

 私が生まれたのは「師走半ばの14日」です。つまり、赤穂浪士の討入りの日です。とはいっても、今のカレンダーでいえば2月になるのでしょうか・・・。
 大石内蔵助は、本当に敵をあざむくために京都の祇園で遊蕩したのか・・・。どうやら史実ではないようです。
驚くべきことに、藩の財政の一部を活動資金として、いつ、その収支明細がきちんと記帳されていたのです。さすがは日本人です。こまかい計算が好きな人は昔も今も多いのですね。
 吉良家は高家(こうけ)ですが、この「高」というのは足利高氏(たかうじ)の「高」なのですね。つまり室町将軍の血筋を引く家ということ。知りませんでした。
浅野が吉良に切りかかったとき声をかけたのは、それが武士の作法だから。そうしないと卑怯な行動になってしまう。
吉良は逃げただけで、刀に手をかけなかった。もし刀に手をかけていたら両成敗になって吉良も切腹するはめになっていた。
吉良が諸大名から贈り物を受けるのは、当時の慣行からすると、悪いことではなかった。江戸時代の慣行として、人にものを教わったときに、それ相応のお礼をするのは当然のことで、賄賂(ワイロ)ではなかった。
吉良が老中の面前で浅野の面子(メンツ)をつぶしたのは問題があった。当時の武士は、人前で悪口を言われて黙っていたら「臆病」とされ、切腹するか出奔するしか道はなかった。
実際に討入りしたのは47人だったが、盟約に加わった同志は100人ほどいた。それがいろんな事情で減っていき、ついに半分以下になった。
内蔵助は祇園や伏見に踊りを見に行っているが、息子の主税と一緒。なので、遊郭で遊んではいないのではないか。しかし、内蔵助は京都には可留(かる)という妾がいて、子どももいた(幼くして死亡)。
討ち入りの前になると内蔵助の軍資金が尽きかけていた。それで、もう延期はできなくなっていた。
浪士たちは、全員、自分たちは死ぬものだと考えていた。討ち入りが成功しても、幕府の厳しい処分が予想された。再就職のためなんて、とんでもない誤り。死ぬと分かっている討ち入りに進んで加わった。
江戸時代の武士の社会では「武士道」という道徳がなにより優先された。今日の道徳とは、まったく違うもの。
吉良邸にも100人ほどの家来がいた。しかし、非番の家臣たちは長屋にいて、浪士たちが出口を固め、長屋に閉じ込めてしまった。それで浪士たちと戦った者は40人もいなかった。
浪士たちは「火事だ」と叫んでいるが、こんなだまし討ちも、手段を選ばないのが当たり前なので、非難されることではない。
吉良家側で戦った武士のうち16人が討ち死にし、21人が負傷(重症は4人)。このほか12人が逃げ出した。討ち入りは1時間ほどしかかかっていない。
さすがによく調べてあると感嘆しながら一気に読みあげました。
(2017年12月刊。880円+税)

2018年3月17日

写真で読む三くだり半

写真で読む三くだり半
(霧山昴)
著者  高木 侃 、 出版  日本経済評論社

 江戸時代、夫は自分勝手な理由で妻と離婚して家から追い出すことが出来た。これがかつての確立した通説でした。しかし、今は著者の長年の研究成果によって、これは間違いだとされています。この点は今では高校の教科書にも反映されています。
 江戸時代の女性の地位は、これまで考えられていたほど低いものではなかった。「三下り半」(みくだりはん)は、妻にとっての再婚許可状だった。
「三くだり半」が夫の妻権離婚を示すものというのは、まったくの誤解なのです。むしろ、江戸時代の日本女性は亭主を尻に敷いていたことは、当時の世相をあからさまに明らかにした『世事見聞録』によっても明らかです。
また、明治になってからも、女性は自由に離婚・再婚を繰り返していました。これは、戦前の熊本県で民俗調査をしたアメリカ人学者夫妻が実証しています(『須恵村の女たち』)。
離縁状(離婚のときの「三下り半」)が3行半になっているのは、中国の離縁状の模倣であるというのが著者の見解です。
「勝手につき」とあるのは、妻に責任がないこと、妻の無責性を表明しているだけのこと。妻に落ち度があったとしても、それを言わずに自ら(夫)が悪い、責任があると表明した。これによって、男性は男子の面目を施した。つまり、夫権優位の名目(タテマエ)を保ったのである。
妻から離婚を請求したときは、妻のほうが趣意金(慰謝料)を支払う必要がある。なお、妻の残余の財産は返還された。
朱肉は当時、ほとんど使われていなかった。堺と江戸・京都に朱座が設置され、朱と朱墨を独占的に販売している権利を幕府から認められていた。
妻が前夫から離縁状をもらわず再婚したら刑罰が科せられた。離縁状なく再婚した妻は、髪を剃り親元に帰された。また、夫のほうも離縁状を前妻に渡さずに後妻を迎えると、「所払」(ところばらい)の刑罰が科せられた。
著者の収集した離縁状が100枚もの写真つきで紹介され、詳しい解説があります。ひょっとして江戸時代は今よりも自由に離婚していたのでは・・・。そう今の私は考えています。少なくとも誤解しないようにしたいものです。
(2017年10月刊。3200円+税)

2018年2月 4日

守教(下)

(霧山昴)
著者  帚木 蓮生 、 出版  新潮社

 話は、いよいよ佳境に入ります。
 広大な筑後平野のなかの一つの村でしかない今村に江戸時代を通じてカクレキリシタンが一村丸ごと残ることができた不思議が解明されていきます。
 信者を率いるリーダーが自己犠牲となり、信者たちは殉教しないで信じる道を行くことにし、村の寺院も藩当局も表向きの棄教を真に受けたふりをしていく・・・。なぜなら、彼ら村民は、いかにも真面目な農民であるため、彼らを根絶やししてしまえば領内統治の基礎がなくなってしまうからです。
 しかし、それにしても棄教を迫る残虐さは目を覆いたくなります。そのため、いかにも強い信念をもつ外国人神父ですら、例外的に棄教する人が何人か出てしまったのでした。その点、殉教を避けた今村の村民たちは賢明だったということになります。
 有馬豊氏公が願っているのは、城下の繁栄と百姓の保護。城は二の次。町人百姓の繁昌こそが城。領内から百姓が逐電すれば、家臣をふくめて領民すべてがくたびれてしまう。要するに、百姓に逃げられては、公儀は立ちゆかない。真面目に田畑の仕事に精を出し、物成(ものなり)をきちんと納める百姓は宝物なので、本当は信仰を捨てていないと思われても、お上は黙認していた。そして、村のほうでも異教徒は誰ひとり村内に入れないようにした。これで信仰が保たれた。
 今村では、男女とも20歳になると嫁婿選びが始まる。もちろん相手はイエズス教の信徒でなければならない。しかも、同じ血族で四親等以内の同族同士の結婚は禁止。そこで他村に残っている信徒から嫁を迎えたり、婿入りするほうが好まれた。そして、庄屋が、イエズス教の信徒の心得を言い聞かせる。
今村のカクレキリシタンの存続を小説化したものとして、記録されるべき本だと私は思いました。
(2017年9月刊。1600円+税)

2018年1月20日

守教(上)

(霧山昴)
著者  帚木蓬生 、 出版  新潮社

この本のオビには、「戦国期から開国まで。無視されてきたキリシタン通史」と書かれています。まだ上巻を読んだだけですから、本当は下巻まで通読したあとに言ったほうがいいと思いますが、筑後平野のド真ん中に隠れキリシタンの集落があったことを私が知ったのは古いことではありません。今から10年ほど前のことです。
2年ほど前、今村天主堂を見学してきました。壮厳としか言いようのない見事な天主堂が見渡す限りの平野にそびえ建っているのは何とも不思議なことだとしか言いようがありません。厳しかったはずのキリシタン禁圧を江戸時代を通じて一村丸ごとはねのけてきたというのですから、信じられません。
離れ小島なんかではありません。どこまでも田圃が続く筑後平野のなかで、ある村落だけがまとまって隠れキリシタンとして親子何代にもわたって続いてきたというのです。今でも今村天主堂の周辺はキリスト教信者が圧倒的に多いとのこと。驚くばかりです。
なぜ、そんなことが可能だったのか・・・。いろんな説があるようですが。私は、藩当局も結局のところ見て見ぬ振りをしていたのではないかという説に賛同します。要するに表向きは仏教徒だということになっていて、真面目に農業を営み、藩政に反抗するわけでもないので、万一、摘発して根絶やししてしまったら、あとの補充が大変だし、藩の失政として江戸幕府より厳しく責任追及されるのを避けたかった・・・。私は、このように考えます。
この本は、戦国時代、カトリックの神父たちが次々に布教目的で来日して、苦労しながら信者を増やしていく努力の過程を丁寧に再現しています。信者を増やすには、領主を信者にするのが早道です。でも、領主も従来の仏教寺院とのつながりがありますし、容易なことでは獲得できません。
上巻では大友宗麟(そうりん)をめぐる状況に重きを置いて話が展開していきます。キリシタン禁圧が始まり、どんどん厳しさを増していきます。信者たち、神父たちの運命やいかに・・・。下巻を早く読むことにしましょう。
(2017年9月刊。1600円+税)

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