弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(江戸)

2018年2月 4日

守教(下)

(霧山昴)
著者  帚木 蓮生 、 出版  新潮社

 話は、いよいよ佳境に入ります。
 広大な筑後平野のなかの一つの村でしかない今村に江戸時代を通じてカクレキリシタンが一村丸ごと残ることができた不思議が解明されていきます。
 信者を率いるリーダーが自己犠牲となり、信者たちは殉教しないで信じる道を行くことにし、村の寺院も藩当局も表向きの棄教を真に受けたふりをしていく・・・。なぜなら、彼ら村民は、いかにも真面目な農民であるため、彼らを根絶やししてしまえば領内統治の基礎がなくなってしまうからです。
 しかし、それにしても棄教を迫る残虐さは目を覆いたくなります。そのため、いかにも強い信念をもつ外国人神父ですら、例外的に棄教する人が何人か出てしまったのでした。その点、殉教を避けた今村の村民たちは賢明だったということになります。
 有馬豊氏公が願っているのは、城下の繁栄と百姓の保護。城は二の次。町人百姓の繁昌こそが城。領内から百姓が逐電すれば、家臣をふくめて領民すべてがくたびれてしまう。要するに、百姓に逃げられては、公儀は立ちゆかない。真面目に田畑の仕事に精を出し、物成(ものなり)をきちんと納める百姓は宝物なので、本当は信仰を捨てていないと思われても、お上は黙認していた。そして、村のほうでも異教徒は誰ひとり村内に入れないようにした。これで信仰が保たれた。
 今村では、男女とも20歳になると嫁婿選びが始まる。もちろん相手はイエズス教の信徒でなければならない。しかも、同じ血族で四親等以内の同族同士の結婚は禁止。そこで他村に残っている信徒から嫁を迎えたり、婿入りするほうが好まれた。そして、庄屋が、イエズス教の信徒の心得を言い聞かせる。
今村のカクレキリシタンの存続を小説化したものとして、記録されるべき本だと私は思いました。
(2017年9月刊。1600円+税)

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2018年1月20日

守教(上)

(霧山昴)
著者  帚木蓬生 、 出版  新潮社

この本のオビには、「戦国期から開国まで。無視されてきたキリシタン通史」と書かれています。まだ上巻を読んだだけですから、本当は下巻まで通読したあとに言ったほうがいいと思いますが、筑後平野のド真ん中に隠れキリシタンの集落があったことを私が知ったのは古いことではありません。今から10年ほど前のことです。
2年ほど前、今村天主堂を見学してきました。壮厳としか言いようのない見事な天主堂が見渡す限りの平野にそびえ建っているのは何とも不思議なことだとしか言いようがありません。厳しかったはずのキリシタン禁圧を江戸時代を通じて一村丸ごとはねのけてきたというのですから、信じられません。
離れ小島なんかではありません。どこまでも田圃が続く筑後平野のなかで、ある村落だけがまとまって隠れキリシタンとして親子何代にもわたって続いてきたというのです。今でも今村天主堂の周辺はキリスト教信者が圧倒的に多いとのこと。驚くばかりです。
なぜ、そんなことが可能だったのか・・・。いろんな説があるようですが。私は、藩当局も結局のところ見て見ぬ振りをしていたのではないかという説に賛同します。要するに表向きは仏教徒だということになっていて、真面目に農業を営み、藩政に反抗するわけでもないので、万一、摘発して根絶やししてしまったら、あとの補充が大変だし、藩の失政として江戸幕府より厳しく責任追及されるのを避けたかった・・・。私は、このように考えます。
この本は、戦国時代、カトリックの神父たちが次々に布教目的で来日して、苦労しながら信者を増やしていく努力の過程を丁寧に再現しています。信者を増やすには、領主を信者にするのが早道です。でも、領主も従来の仏教寺院とのつながりがありますし、容易なことでは獲得できません。
上巻では大友宗麟(そうりん)をめぐる状況に重きを置いて話が展開していきます。キリシタン禁圧が始まり、どんどん厳しさを増していきます。信者たち、神父たちの運命やいかに・・・。下巻を早く読むことにしましょう。
(2017年9月刊。1600円+税)

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2018年1月10日

貧困と自己責任の近世日本史

(霧山昴)
著者  木下 光生 、 出版  人文書院

 飽食とも言われる現代日本でも餓死が現に発生しています。それも路上のホームレスではなく、自宅(アパート)での餓死です。これに対して、自己責任だとして冷たく切り捨てようとする風潮があります。年末に日比谷公園で貧困救済で「年越し派遣村」が生まれて全国的にも大きく注目されましたが、あっという間にその熱は冷めてしまいました。
貧困の公的救済に対して異様に冷たく、貧困をもたらす原因として極度に自己責任を重視するというのが社会全体の姿勢になっている。
 日本では他者に対する信頼度(社会的信頼度)が先進諸国のなかで最低になっている。日本社会は、貧困の公的救済に対して世界的にみて突出した冷たさを示している。なぜなのか・・・。
本書は、文化5年(1808年)の江戸時代の奈良県(大和国吉野郡)田原村の全世帯41件についての1年間の収支報告書をこまかく分析した結果にもとづいています。それによると、村人の生活が年々貧しく(厳しく)なっていったこと、それは藩による年貢率の引き上げによるものだという通説は誤っているというのです。
 この本は、「持高」つまりどれだけの石高(お米の生産量)によっては貧富かどうかは一概には決められないこと、税負担率は、世帯間で相当な落差があって、それだけでは決められないし、むしろ一般には実質税率は軽減されていたこと、村人の家計を苦しめていたのは、年貢や借金よりも、主食費や個人支出といった、自らの消費欲に左右される消費支出部分であったこと、などを明らかにしています。
 年貢率は、長期的な上昇傾向をもつ村はほとんどなく、むしろ一定率で固定あるいは下降傾向にあった。平均税率は20%以下の15%未満ということもあった。こまごまとした現金収入の存在が案外、生活者にとっては大きかった。
 江戸時代、苦しい生活実態にある住民の根本的な救済責任は村にあって、藩当局(ましてや江戸幕府)ではない。ということは藩による恒常的な救済活動は望むべくもない。藩による御救(おすくい)は、継続的・恒常的になされるものではないこと、このことが繰り返し明言された。
 江戸時代、つまり近世日本社会における生活保障は、基本的に民間まかせであり、領主によるお救いは、はなから期待されていない。どれほど生活が困窮していたとしても、他人の施しにあずかるようなマネだけはしたくない。こんな強迫感を人々はもっていた。村人から助けてもらうと、まことに厳しい社会的制裁を受けることになった。日笠をさすな、雪踏(せった)を履くな、絹織物を着るな、などなど。
 江戸時代の村社会の現実を当時の村落の住民の収支表をもとに論述されています。貴重な労作だと思いました。
(2017年10月刊。3800円+税)

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2018年1月 2日

兵農分離はあったのか


(霧山昴)
著者 平井 上総 、 出版  平凡社

戦国時代、そして江戸時代、兵農分離した軍隊は、本当に強かったのか・・・。
江戸時代、儒学者の熊沢蕃山(ばんざん)は、兵農分離が兵の弱体化を招いたと考えていた。
武家奉公人の上層部分は、戦場での働きを期待される戦闘要員だった。この武家奉公人とは、武士に仕える従者であるが、二種類あって、長年主人に仕える譜代(ふだい)奉公人と、一年任期の年季(ねんき)奉公人がいた。
武田勝頼は、武田家の行く末を決める重要な戦争だからこそ、百姓を動員すると言った。これを逆に言えば、百姓の動員は恒常的にできていたのではなく、大名家の一大事に限っていたことを意味する。
戦国大名は、もともと百姓を戦闘員と見なしてはいなかった。武士と奉公人は給地をもらい、軍役を賦課されて戦闘員として働き、百姓は年貢を納めて非戦闘として陣夫役をつとめるという身分別の役割分担があった。
私はこの本を読むまで、士農工商というのは日本の江戸時代で身分の上下関係をあらわすコトバだと思っていました。ところが、実は、この士農工商というコトバは、紀元前の中国で人々のつく職業の総称として使われていて、身分の序列を表したものではなかった。うひゃあー・・・ちっとも知りませんでしたよ。
現在の日本史の教科書(山川出版社の『詳読日本史B』)でも、士農工商を江戸幕府がつくったコトバとは紹介していない。そして、江戸時代では、農工商は序列化されていなかった。
豊臣秀吉は身分法令を発したが、これは朝鮮半島へ侵略するにあたって武家奉公人の逃亡という現実的課題を早急に解決しなければならないと考えたからのこと。同じく、朝鮮への侵略のとき、加藤清正は、戦争のために奉公人を多く集めようとする一方で、逃亡や質の低下に悩まされていた。
中世後期の村では、外敵と戦うために百姓が武装することは普通だった。
江戸時代の村には、武士のもつ鉄砲より村にある鉄砲のほうが多かった。たとえば、信濃国上田藩では、村の鉄砲327挺に対して城付鉄砲は100挺だった。刀狩り政策によって民衆が武器を根こそぎ奪われたというのは間違いである。刀狩りは、すべての武器を根こそぎ奪うものではなく、戦闘できる身分としての武士・奉公人とそれ以外を区別する、帯刀権の設定をもたらす身分政策だった。
結論として、兵農分離状態の実現を目指した政策はほとんどなかったと言える。結果的には、兵農分離という状態は、近世のかなりの地域で生じたものではあったが・・・。
士農工商の実際、そして兵農分離の現実を深く掘り下げている本です。大変勉強になりました。
(2017年9月刊。1700円+税)

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2017年12月15日

闘いを記憶する百姓たち


(霧山昴)
著者 八鍬 友広、 出版 吉川弘文館

百姓一揆の訴状が読み書き教材として広く普及していたというのです。驚きです。
どこかで一揆が起きて支配層への異議申立として訴状を書いた。すると、やがて我が村でも起ち上がらなければいけなくなるかもしれないので、訴状の書き方を勉強しておこうと村の主立(おもだ)ち衆が考えていたようです。
この前提として、日本の農村の多くの人が読み書きは出来るということが不可欠です。
江戸時代には読み書き計算などのような基礎的な能力が社会の中に一定の密度で分布していた。このような力量を身につけた民衆は、もはや「もの言わぬ民」などではなく、武士に対してさえ強情に「もの言う」百姓たちだった。時代劇で描かれる「悲惨な民」とは異なり、近世の百姓は、自らの利益のために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張する存在だった。
江戸時代は、「訴訟知」を身につけた民衆が頻繁に訴訟を起こす「健訴社会」だった。
17世紀前半に起きた百姓一揆や地域間紛争のなかで作成された訴状が読み書きのための教科書になっていた。
これを目安往来物(めやすおうらいもの)という。「目安」とは、箇条書きされた訴状のこと。「往来物」とは、読み書き学習用のテキストブックのこと。「往来物」の最盛期は、じつは明治初期だった。学校制度が始まったけれど、まだ新しい教科書はなかったからだ。
寛永白岩一揆で作成された訴状を白岩目安といった。寛永10年(1633年)、出羽国村山郡白岩郷(山形県西村山郡西川町から寒河江市にかけて・・・)の百姓たちが領主の悲法を幕府へ訴えた。直訴である。租税の負担増、年貢率の上昇に不満をもった百姓たちは、保科家に騙され、36名ものリーダーが磔刑(たっけい)に処された。ただし、領主であった酒井長門守忠重も白岩郷から排除されている。
この寛永・白岩一揆は違法性が強いものであったはずなのに、その訴状は広く東北一円に流布している。
境界争論に関する目安も往来物にふくまれている。白峯(しらぶつ)鉱山目安として伝わり、広まった。
対立する村人は実力行使で争ったが、それでケリがつかなかったので、ついに幕府に訴状を提出した。
このように、文書作成上の知識は、村役人クラスの人々にとって常に必須のものだった。聖徳太子以来、日本人は裁判を好まなかったという俗説はまったくの間違いだと私は確信しています。聖徳太子は裁判が多すぎるからほどほどにしろ、仲良くしなさいと人々をさとしたのです。また、裁判官が賄賂を当然のようにもらっている風潮に対しても警告を発していました。  
この本を読むと、江戸時代の人々が裁判に命をかけていたことが良く分かります。日本人は条件さえととのえば、裁判を辞さないという国民性をもっています。今のLAC利用の急増をみても、ますます確信します。
(2017年10月刊。1700円+税)

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2017年9月26日

武士道の精神史

(霧山昴)
著者 笠谷 和比古 、 出版  ちくま新書

頭がクラクラッとするほど面白い本です。ええっ、そうだったの・・・、と何回も心の中で叫んでしまいました。
武士道って、簡単に死ねばいいっていうものじゃないんです。必要なら主君にタテつかなければいけないし、みんなで主君を座敷牢に閉じ込めないといけないのです。その仕返しを恐れて何もしないというのは許されないのが武士道。
庶民にまで武士道は広まり、仇討ちが広まったのは江戸中期以降で、庶民までも実践していたというのです。
さらに、鹿児島での幕末の薩英戦争はイギリス艦隊の大勝利とばかり思っていましたが、違うというのです。鹿児島市街はなるほど焼け野原になったけれど、その前にイギリス艦隊は旗艦の艦長が薩軍の新式大砲の砲撃で戦死させられ、慌てて鹿児島湾から逃げ出したというのです。それは、フランス製のペキサンス砲のこと。着弾したら炸裂する強力な大砲を薩摩藩は備えていました。
230頁あまりの新書ですが、私にとっては驚きの連続というほかない内容でした。
一生懸命は、本当は一所懸命。一つの所のために命を懸けてがんばるという意味。一つの所とは「所領」のこと。父祖が命を懸けて獲得してきた所領は、命を懸けても守り抜くという意味。
『甲陽軍艦』の武士道は、戦場における勇猛果敢な振る舞い、槍働きの巧妙、卑怯未練なことなく出処進退を見事に貫くこと。そして、君主に対する忠誠。
『可笑記』では、命を惜しまないことばかりが有能な侍ではないと明言している。むしろ、人間としての「徳義」こそが重要であり、それを磨き、極着することが武士の心得だ。
『葉隠』には、ただ黙って主君に従うことが忠義ではないとしている。むしろ、即座に諫言を呈する気概と能力のある者こそが真の侍なのだ。つまり、主君に対する忠義にもグレードがある。初級とは別に高いレベルでの忠義というものがある。
『葉隠』の武士道は死ぬことが目的でもないし、死が武士の究極のありようでもない。いかにすれば、武士として理想的な「生」が得られるかが追究されている。
『葉隠』のもう一つ重要なテーマが「自由」ということ。「死の武士道」どころか、「自由の武士道」なのである。
次は米沢藩の藩主だった上杉鷹山の言葉です。
「国家人民の為に立たる君にして、君のために立たる人民には無之(これなく)候(そうろう)」
これって、まるでアメリカの人権宣言みたいですよね、たしかに・・・。
最後に、徳川時代の日本人の体格が紹介されています。徳川時代の成人男性の平均身長は150センチほど。いまの小学5年生の平均身長と同じくらい。武士はやせて貧相な人ばかりで、栄養のいい商人のほうは顔も体もふっくらしていた。
徳川綱吉は身長120センチほどで、強い劣等感が専制政治に走ったとみられている。
八代将軍の吉宗は身長180センチ。母が百姓の娘だったからではないか、というのです。いやはや、本当に世の中は知らないことだらけですね・・・。
この本を読むと、それを実感して、胸がワクワクしてきます。あなたも、どうぞご一読ください。
(2017年5月刊。800円+税)

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2017年9月17日

大坂商人旅日記、薩陽紀行

(霧山昴)
著者 高木 善助(東條 広光) 、 出版  鹿児島学術文化出版

江戸時代も末の文政・天保のころ、大阪と鹿児島を10年間のうちに6回も往復した大坂商人がいました。片道20日ほどもかけています。あちこち寄り道して、それを画張にスケッチして残したのです。
ときの薩摩藩主は島津重豪、そして調所広郷が財政改革にとりくんでいた当時です。従来の銀主(大名貸しの商人)たちに見放された薩摩藩は新しい銀主を求めて、著者たちを重用することにしたのでした。
大坂の豪商・平野屋五兵衛の分家筋にあたる著者は、そんなわけで薩摩の現地まで出かけたのでした。当時の大名貸しの平均的な利息は年利9.6%(月利0.8%)だったのに対して、年利2.4%におさえたというのです。
それでも、新しい銀主には、俸禄や資金運用でのメリットがあったのでしょう。
薩摩藩は、紙の原料である楮(こうぞ)の皮を年貢の一つとして領民に納めさせ、地域の紙漉(かみすき)職人に下げ渡して、紙を漉かせて、お金を払って藩に納めさせていた。
この紙をなるべく高く、大坂で売りさばいて収入を得ようというのです。
この著者の旅日記には、当然のことながら、その経済的な仕組みは書かれていません。
著者の描いた絵は島の目で見たような風景画です。よほどの観察眼がなければ描けません。ただ、残念なことに人物はほとんど描かれていません。
したがって、当時の人々の生活を知ることは難しいのですが、江戸時代の風景画としては、感度(構図も写真も)は良好です。
(2016年10月刊。1482円+税)

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2017年8月31日

百姓たちの山争い裁判

(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版  草思社

日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんていう俗説はまったく事実に反しています。弁護士生活43年になる私の実感です。
聖徳太子の「和をもって貴しとせよ」というのは、当時、あまりの裁判の多さに呆れて、おまえたち、いい加減にせよと嘆いて言ったというものです(聖徳太子はいなかったという説も有力ですが・・・)。
この本は、江戸時代に日本全国で起きていた山をめぐる裁判のてん末を明らかにしています。なかには、なんと300年続いていた裁判もあるというのですから、驚きです。
江戸時代の裁判は、今と違って手数料(貼用印紙)ゼロです。ただし、交通費や宿泊費は自己負担でしたから、それがバカになりませんでした。そして一審制で、上訴(控訴・上告)はありません。ところが、越訴(おっそ)という非常手段はありました。それをしたからといって、すぐに死罪になるというものでもありませんでした。
林野の多くは、共有地だった。一つの村だけの入会を村中入会(むらじゅういりあい)、複数の村々による入会を村々入会(むらむらいりあい)と呼ぶ。
入会地は村の共有地だったから、村人たちがそこを利用するときは、村で定めた利用規則に従う必要があった。自分勝手な利用は出来なかった。入会山で盗伐した者は、耳をそいで村を追放するとか、米五斗の過料と定められていた。
領主を異にする村同士の争いは、村(百姓)と藩(武士)がペアを組んでたたかうタッグマッチの様相を呈していた。
山争いの功労者は神として祀(まつ)られた。領主が訴訟を受理するのは、領主の義務ではなく、お慈悲だった。ところが、実際には、百姓は武士が辟易(へきえき)するほど頻繁に訴訟を起こした。百姓は、「お上(かみ)の手を煩(わずらわ)すことを恐れはばかってはいなかった。
裁判が始まって、訴えたほうの訴状と、訴えられたほうの返答書は、子どもたちの学習教材として村々に流布していた。
江戸時代の裁判は、純粋に法にのっとって理非を明らかにするというものではなかった。藩の統治の正しさを確認するという政治的意図が明らかに認められた。
村の代表者は、入牢するくらいではへこたれなかった。
百姓のたくましさがここにも見てとれると思いました。面白い本です。日本人は本当に昔から裁判が好きなのです。
(2017年6月刊。1800円+税)

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2017年5月30日

忍者の末裔

(霧山昴)
著者 高尾 善希 、 出版  角川書店

「江戸城に勤めた伊賀者たち」というサブタイトルがついた本です。甲賀・伊賀というと、忍者集団が活躍したと連想しますが、平和な江戸時代には、あまり忍者が活躍できたとも思えません。
この本によると、本能寺の変のあと徳川家康が伊賀忍者の助けを借りてなんとか山越して江戸に帰りついたというのは、必ずしも史実ではないということです。もし、そうだったとしたら、もう少し重用されていただろうというのです。なるほど、と思いました。
この本は、伊賀忍者の子孫を名乗る人の家にあった古文書を解読した結果をもとにしていますので、まさしく新発見史料によって江戸時代の下級武士の生活が判明し、紹介されています。
伊賀者の家禄は高30俵二人扶持が多かった。これは、現代の年収でみると100万円から200万円までとなる。これでは、生活は成り立たない。松下家は、さらに少なく、家禄はわずか高20俵2斗6升2合勺、二人半扶持でしかなかった。
徳川時代の泰平の世においては、伊賀者は忍者としての特殊な役割はあまり要求されていなかった。
徳川幕府の「伊賀者」は単に職名にすぎないので、伊賀国出身の家系をもたないものも伊賀者に属することがあった。「紀州系伊賀者」は、やがて分派した御庭番となり、幕府の諜報活動に従事するようになった。
吉宗将軍は、全国の薬草の採集のため「伊賀者」をつかって全国をまわらせていた。
旗本と御家人とでは、家格が大きく異なっていた。御目見以上の旗本であれば殿様そして奥様と呼ばれたのに対して、御家人は、どんなに裕福であっても、殿様とも奥様とも呼ばれず、旦那様、御新造様と呼んだ。
古文書に書かれている文字は、「御家流」のくずし字であることがほとんど。私も、このくずし字を読めたらどんなにかいいことかと思いますが、語学はフランス語だけで手一杯なので、古文のくずし字にまでは残念ながら手がまわりません。
江戸時代の下級武士の生活が、戦災にあわず残っていた家伝の古文書にもとづいて明らかになったというのです。すばらしいことです。しかも、最近の発掘調査で、胞衣皿が見つかったといいます。恐るべき偶然です。
(2017年1月刊。1700円+税)
日曜日の午後、ジャガイモを掘りあげました。地上部分の茎が茶色になって枯れはじめていました。あれっ、どうしたんだろう。6月になったら掘りあげようと思っているのに、今年は失敗してしまったのかな・・・。心配して、そっと一本の茎を引っぱってみました。すると、いい形をしたジャガイモが姿をあらわしたのです。そこで、スコップをもって、掘り下げてみました。すると、次々に見事なジャガイモたちが出てくるわ、出てくるわ・・・。メイクイーンと男爵とキタアカリの3種類です。3列を1列ずつ植込んでいましたが、その全部から収穫できました。早速、夕食のとき、ゆでてバターをつけていただきました。とても味が良く、大満足でした。
ジャガイモを全部掘りあげたあとは、大きめの穴を掘って、コンポストに入れておいた枯れ枝などを投げ込み、生ゴミも投下しました。この作業の途中、小ヘビの死骸を見つけてしまいました。ハエがたかっていたのです。どうして死んだのか不思議です。長さは15センチほど、黒と白のだんだら縞がありました。まさかマムシじゃないでしょうね。アオダイショウではないでしょう。我が家の庭には昔からヘビが棲みついているのです。小ヘビの死骸も生ごみと一緒に埋めてやりました。
初夏の到来を告げる黄色いカンナの花が咲いているのに気がつきました。
夕食後、うす暗くなってホタルを見に出かけました。我が家から歩いて5分のところに「ホタルの里」があります。そこにたどり着く前から小川の周囲にホタルが明滅しています。道端を飛ぶホタルを両手で包み込みんでみました。重さは感じません。ふっと息を吹きかけると、慌てて飛んでいきます。たくさんのホタルの飛びかう様子は、毎年見ていますが、いつもたちまち童心に戻ります。幽玄境に遊ぶ境地です。といっても、実は道の舗装部分の段差につまづいて、危く小川に飛び込んでしまうところでした。おたがい暗い夜道と甘い言葉には気をつけましょうね。たちまち現実に引き戻されてしまいました。

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2017年5月 1日

ヤマンタカ、大菩薩峠血風録


(霧山昴)
著者 夢枕 獏 、 出版  角川書店

大菩薩峠というと、赤軍派が軍事演習していて大量検挙されたことをすぐ思い出します。その内幕が小説化されたのが警察官三代の生きざまをたどった警察小説(『警官の血』)です。
この本は、舞台は幕末。机竜之助が登場します。つまり、中里介山(かいざん)の『大菩薩峠』を底本とする全く新しい小説なのです。
『大菩薩峠』は大長編小説です。私は、その長さに恐れをなして、初めから挑戦しようとしたこともありません。著者は3回も挑戦したそうです。だけど、全20巻のうち、2巻目の途中で、いつも挫折したとのこと。やはり文庫本で20冊は長いです。長すぎます。ところが、この本の「あとがき」によると、それでも著者本人が新聞連載のものを3割もカットしているとのこと。すごいですね・・・。
大菩薩峠って、いったいどこにあるのでしょうか・・・。
タイトルの「ヤマンタカ」とは、正しくはヤマーンタカ。頭部が水牛で、身体は人間。仏教の尊神で、日本では大威徳明王。水牛に乗っている明王でもある。
ヤマーンタカのヤマは、夜摩天、つまり地獄の閻魔(えんま)大王のこと。ンタカはアーンタカで、殺す者。したがって、地獄の閻魔を殺す者になる。このヤマーンタカの本地は、文殊(もんじゅ)菩薩という。地獄の閻魔を殺すほどの力をもった尊神の実体が菩薩。最凶にして菩薩。これが机竜之助。剣豪小説です。
大菩薩峠は江戸を西にさる30里、甲州裏街道が甲斐団東山梨郡萩原村に入って、その最も高く、最も険しきところ、上下八里にまたがる難所。青梅から16里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠。
近藤勇、土方歳三、沖田総司も登場してきます。
歳三がねらうのは、相手の頭ではない。腕でもなく、胴でもなく、脚である。
斬るときに相手が踏み出してきた脚を真横から上下に両断する。いや、何も足を両断せずともよい。
ふくらはぎまで斬らず、脛の骨を、その太さの半分も斬り割ればよいのだ。
飼われて訓練された技(わざ)ではない。野良犬の技だ。それで勝負は決することになる。
しかし、こちらから呼吸を計って前に出る技ではない。あくまでも相手が攻撃して踏み込んでくるのを待つ技だ。そのため、頭部を、無防備に相手にさらしているのである。
すさまじいまでの精神力が必要な技だ。相手の動きを瞬時に察して動かなければ、自分が斬られてしまうことになる。
息づまる斬り合いが見事に描かれ、思わず息をのみながら頁をくっていくことになります。その筆力にただただ圧倒されてしまいます。それにしても机竜之助とは不気味な存在です。
(2016年12月刊。1800円+税)

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