福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

アジア(フィリピン)

2007年12月07日

聞き書きフィリピン占領

著者:上田敏明、出版社:勁草書房
 11月にフィリピンに行きましたので、17年前に初めてフィリピンに行ったときに読もうと思って読んでいなかった本を引っぱり出して読みました。
 この本は、今から20年も前にルソン島で日本軍が何をしたのか、聞き出した内容をまとめたものです。
 今回、私たちがフィリピンに行ったとき、マニラでバタンガス出身の人に会い、日本軍の蛮行を糾弾されるのではないかとヒヤヒヤしたと語ったガイド氏がいました。この本を読むと、バタンガスに限らず、日本軍がフィリピンの至るところでひどいことをしたことがよく分かります。いえ、ひどいことをしたという表現は上品すぎます。フィリピンの人々に対して残虐このうえない、強姦や大虐殺をしたという事実があるのです。私たちは、同じ日本人として、その事実に目をそむけるわけにはいきません。それは自虐史観というものではありません。事実は事実として受けとめるしかないのです。
 バタンガスでの日本軍による大虐殺は日本の敗戦間近の1945年2月のことです。ところが、日本軍が、フィリピンの占領を始める1941年12月からフィリピン人の虐殺をはじめていたのです。
 日本軍は支配してすぐに「軍律に関する件」を布告した。これは、要するに、日本軍への反抗を少しでもしたら処刑か重罪に処せられるというもの。それを企図しただけでも処罰されるというわけなので、あってないような要件でした。
 マニラに今も残るサンチャゴ要塞を私たちも見学しましたが、ここは日本軍の恐怖政治を象徴する場所でした。憲兵隊の本部が置かれ、スペイン時代につくられた水牢が囚人を溺死させるものとして活用されていました。
 日本軍による戦争犯罪のフィリピン人被害者は、東京裁判のとき9万人をこえるとされた。戦後、フィリピンが抗日戦の損害賠償を求めた文書には人員損害として111万人とされている。
 フィリピンにスペインがもたらしたのは宗教(キリスト教)、アメリカ人は聖書をもたらした(スペイン人はスペイン語をフィリピン人には教えなかった。フィリピン人は英語によって聖書が読めるようになった)、日本人は鞭打ち(残虐行為)。このように言われるのは悲しいことです。
 二度目のフィリピン訪問でした。有名だったスモーキーマウンテンというゴミの山に住む人々はいなくなりましたが、川の上にバラックで住む人々、線路脇のバラックに住む人々、まさしくスラム街以下の人々の存在をマニラ首都圏のあちこちに見かけました。市内の至るところに大きく近代的なショッピングモールがあって、そこも人々であふれているのですが、スラム街に住む人々もきわめて多く、フィリピンの社会構造が安定しているとは、とても思えませんでした。
(1990年3月刊。2200円+税)

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2008年04月04日

日本軍はフィリピンで何をしたか

著者:戦争犠牲者を心に刻む会、出版社:東方出版
 昨年11月にフィリピンに行ったので、読んだ本です。
 アジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻むという課題で開かれた集会(1989年8月)の記録集でもあります。
 戦前にフィリピンで流通していたペソは3億。ところが、日本軍が占領してからは、軍票が大量に発行されたため、65億から110億にも達した。20倍だ。日本軍は物の裏づけのないおもちゃ(ミッキーマウスと呼ばれた)として軍票を発行し、多くのフィリピン人を苦しめた。
 1945年1月31日にアメリカ軍はバタンガス州の海岸に上陸し、翌日には空挺部隊がタガイタイに降下した。
 先日のフィリピン旅行では、このタール湖畔のタガイタイに行きました。高原の高級避暑地だという前宣伝でしたが、まったくそのとおりでした。
 日本軍は敗退するなかで、フィリピン人の大量虐殺を行っていきました。
 「おい田辺、思い切ってやってみせろ。責任はこの藤重がもつ。後世の人間が、世界戦史をひもといたとき、誰しもが肌に泡立つ思いがするような虐殺をやってみせろ」
 口を閉じた藤重兵団長は、田辺大隊長に視線を当てたまま薄く笑った。
 彼らは、戦火のもとで死に、罪を一身に負い、刑場の露と消えた。
 うむむ、ぞくぞくする会話です。肌が粟立ちます。
 フィリピンのレイテ島のパサールに銅製錬所がある。1983年、マルコス大統領の時代、妻イメルダの生まれ故郷に移転して操業を開始した。このパサールには、リン酸アルミナなどの化学コンビナートがあり、その3分の1が日本の勝者による共同出資となっている。そこに、ODAの一貫として地熱発電所がある。この電力は、パサールのコンビナート、日本の技術と出資によるコンビナートのために使われている。日本のODAで建てた発電所を日本の企業のためにつかっている。そして、レイテ島には公害(汚染)を残す。
 実は、私は、その現地に日弁連の視察団長として出かけました。1989年8月のことです。今から20年近く前のことになります。そのレイテ島は今どうなっているのでしょうか。泊まっていたタクロバンは、台風被害にあったりして、大変だったようですが・・・。現地ではカトリックの神父さんに案内してもらいました。お元気でしょうか。
(1990年5月刊。1300円)

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