弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ドイツ

2017年8月17日

「フランクル『夜と霧』への旅」

(霧山昴)
著者 河原 理子 、 出版  朝日文庫

フランクルは1905年にオーストリアのウィーンで生まれたユダヤ人の精神科医で、強制収容所から解放されたときは40歳。そのとき、再会したい家族は、この世にいなかった。
フランクルは、1969年に初めて来日し、合計3回、日本に来た。
強制収容所のなかで、フランクルは、仲間に対して、生きる意味に目を向けるようにと、話しかけた。
人々は決して奪われないものがある。一つは、運命に対する態度を決める自由。もう一つは、過去からの光だ。
フランクルは、本を出版してから、五大陸のすべてに講演に招かれるようになり、いくつもの大学の名誉博士になった。ところが、故郷のウィーンでは、冷たい仕打ちを受けた。
フランクルがアウシュヴィッツ収容所にいたのは4日間だけ。37歳の秋から40歳の春までの2年7ヶ月間に、テレージェンシュタット、アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウ、ダッハウ強制収容の支所の二つにいた。
テレージェンシュタット収容所でフランクルは専門を生かして医師として働き、保健部門の一隊を率いて、収容された人々の自殺防止活動など、精神衛生の問題にとりくんだ。
この世界にあって、自分の人生には使命があるという意識ほど、外からの困難と内からの問題を克服する力を与えてくれるものはない。
輝ける日々。それが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう。これがフランクルのモットーだった。
最後の収容所の所長は、囚人を殴ることを禁止し、追加の衣服や食べ物を与え、自費で薬を買って与えた。
フランクルは、親ナチスだったのではない。集団に「悪魔」のラベルを貼ってみることを拒んだ。人間には、天使になる可能性もあれば、悪魔になる可能性もあって、同じ人のなかでも変わりうると考えた。
フランクルは、1997年にウィーンの病院で亡くなった。92歳だった。長生きしたのですね・・・。ダイアナ皇太子妃が事故で亡くなった直後のことでした。
フランクルの『夜と霧』は、希望の書。心にしみいる希望の書だ。
『夜と霧』には、二つの訳書があるそうです。新旧、二つとも読んでみたい(読み返してみたい)と思いました。
(2017年4月刊。800円+税)
お盆休みに天神の映画館でチェコ・英仏合作映画「ハイドリヒを撃て!」を観ました。
 ナチス・ドイツのナンバー3の高官であったハイドリヒの暗殺事件がテーマです。ユダヤ人絶滅政策を推進し、その残虐性から「金髪の野獣」と呼ばれていたラインハルト・ハイドリヒは、まだ38歳なのに、ナチス親衛隊大将でした。
 暗殺指令はチェコ亡命政府によるもの。しかし、暗殺に成功したときの報復の規模の大きさから現地レジスタンスには消極論が根強いのです。そして、暗殺チームには、暗殺成功したあとの計画が何もありません。要するに、亡命政府としては、このままチェコ国家が無視されないようにしたいというだけなのです。実際にも、暗殺成功はその成果をもたらしました。
 しかし、罪なき市民が5000人も殺害され、リディツェ村は村人とともに地上から消え去ってしまったのです。
 オサマ・ビン・ラディンをアメリカ軍特殊部隊が暗殺した状況を映画化した『ゼロ・ダーク・ワン』を観ましたが、たとえ暗殺に成功しても物事の大勢がそのことによって変わるということはほとんどありません。かねてよりアメリカは金正恩暗殺計画をもっているという噂があります。朝鮮半島で戦争勃発なんて恐ろしいことは、ぜひやめてほしいです。

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2017年7月12日

「ヒトラーの裁判官、フライスラー」

(霧山昴)
著者 ヘルムート・オルトナー 、 出版 白水社

第二次対戦下のドイツでヒトラーに反対して声をあげた「白バラ」グループに死刑を言い渡したナチスの裁判官として有名なフライスラーの人生をたどった本です。
「白バラ」グループとして捕まった学生たちは死刑判決を受けた、その日のうちにギロチンにかけられました。むごいものです。
フライスラーは51歳で敗色濃いベルリンで空襲にあって死亡しますが、その妻は裁判官の配偶者として戦後も長く年金を受給しました。つまり、フライスラーは死後も資格を剥奪されることなく「裁判官」だったわけです。同じように、ナチス時代の裁判官たちは、戦後の東西ドイツで司法界にとどまっていたのです。まあ、この点は、日本と共通していますね・・・。
ドイツ弁護士会は、ナチスが政権をとると、まもなく、「民族および帝国の健常化に貢献するために」全力を傾注することをナチス政府に確約した。
1933年10月初め、ライプツィヒで開催されたドイツ法曹大会には、全国から2万人以上の法律家が参集したが、次のようにナチスに誓った。「我々はドイツ民族の魂に誓わん。我々がドイツ法曹人として、我らが、総統閣下に付き従い、我々の日が尽き果てるまで、ともに歩み続けるであろうことを」
日本も、大日本弁護士報国会をつくって戦前の弁護士たちは戦争に協力していきました。
1933年に、ドイツの弁護士1万9500任のうち、4394人、22%がユダヤ系だった。大都市では、もっと比率が高かったし、弁護士会の役員にもユダヤ人弁護士が幹部を占めていた。ドイツにはたくさんの優秀なユダヤ人弁護士がいたのに、全員、資格が奪われてしまったのです。
大都市では裁判官の10%をユダヤ人が占めていた。
フライスラーにとって、政治犯は最悪の裏切り者であり、国家の敵であった。24時間以内に起訴がなされ、24時間以内に判決が下され、犯罪者は直ちに処罰されなければならない。情状酌量を認めた時代は、もう終わらせなくてはならない。
人民法廷は、第一審かつ最終審であり、判決についての法的救済手段は一切認められなかった。被告人には起訴状が渡されず、弁護人は裁判の直前に起訴の内容を知るだけで、あらかじめ準備することは出来なかった。審理が終わると、弁護人は、起訴状を返還しなければならなかった。
したがって、ナチスの権力者にとって、いかなる形であれ、反対者を徹底的に排除し、せん滅させる場として、人民法廷に全幅の信頼を置くことが出来た。
1943年1月から1944年1月まで、「防衛力破壊」を理由として124件の死刑が宣告され、即時執行された。
1943年2月のスターリングラードでの敗戦以降、たいて死刑が言い渡された。「公正な判決」など、論外だった。
フライスラーが単独で裁判長をつとめた1943年上半期、1730件の有罪判決が出され、そのうち804件で死刑判決、無罪判決はわずか95件のみ。
死刑があまりにも多すぎて、刑務所のなかには死刑が追いつかないほどだった。親族には決して通知されず、死刑囚の遺書は捨てられた。
人民法廷の長官として、フライスラーは、数千人も人々を死へ送り込んだ。まさしく法服をまとった殺人鬼だった。人民法廷が1942年に言い渡した1200件の死刑判決のうち、半分以上の650件がフライスラーの第一部が下したものだった。1943年の1662件の死刑判決のうち、約半数の779件がフライスラーの第一部によるもの。1944年の2100件の死刑宣告のうち第一部が下したのは866件だった。
では、何が死刑判決の根拠になったのか。本書にはその死刑判決の理由がいくつか紹介されています。気心の知れた仲間内でヒトラーに対して漠たる疑念を冗談めかして語っただけの人がいます。それが密告によって、人民法廷にひきずり出され、見せしめ的に「国家反逆罪」「防御力破壊罪」といったものものしい罪名のもとで死刑が言い渡されたのです。
つい先日、日本で成立してしまった共謀罪の恐ろしさを実感させられます。
ほかにも、他愛のないジョークでしかないもの、今からみたら的を射た洞察が、その正しさゆえに、国家の存続を脅かす危険思想の発露とみなされて、死刑を言い渡され、即日、ギロチンで処刑されていったのです。まさしく、嘘でしょ、こんな冗談で死刑になるなんて・・・、と叫びたくなります。密告者だって、まさか死刑にまでなるとは思っていなかったことでしょう...。
ナチス・ドイツの反省にアベ政権下の日本人として、大いに学ぶところがあるように思いました。日本の裁判官って本当に大丈夫なんでしょうか・・・。ゾクゾクしてきました。
(2017年4月刊。3400円+税)
 フランス語検定試験(一級)の結果通知が届きました。もちろん不合格なのですが、得点は64点で、自己採点を11点も上まわっていました。仏作文が少し評価されたのでしょう。150点満点ですから、4割をこえたところでした。合格点は87点ですから、やはり6割をとる必要があります。
 めげず、くじけず、引き続き毎日フランス語の書きとりを続けます。そして車中はフランス語の聴きとりです。

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2017年6月30日

ファニア、歌いなさい

(霧山昴)
著者 ファニア・フェヌロン 、 出版  文芸春秋

アウシュヴィッツにあった女性だけのオーケストラで奇跡的に生き残った女性音楽家の手記です。電車のなかで読むのに夢中になっていて、危く乗り過ごしてしまうところでした。
2年間の強制収容所生活で、歌手だった著者は、身長150センチ、体重はなんと28キロだった。それでも、1945年4月に解放されたとき、歌をうたうことが出来たのです。気力のおかげでした。
著者はユダヤ人の父とカトリック教徒の母のあいだに生まれ、22歳からモンマルトルのクラブでシャンソンを歌っていた。パリ音楽院のピアノ科を優等で卒業していて、歌だけでなくオーケストラ用の編曲ができた。
女性だけのオーケストラの平均年齢は20歳そこそこ。年ごろの娘たちが集まっていた。国籍も宗教も違っていた。ユダヤ人だけでなくポーランド人もいたり、共産主義者もいて、内部では反目、いさかいは絶えなかった。
オーケストラは、朝、労働行進曲を演奏しはじめる。勇ましく、明るく、まるで楽しい一日の始まりを告げるように。しかし、その音楽を聞きながら死んでいく人たちがいた。辛い労働に駆り立てられていった。
憎しみと侮辱のまなざしが刺すほど痛い。「裏切り者」、「売女」。そして、死の選別を終えてきたばかりのナチス親衛隊員を歌と音楽で慰める。
アウシェビッツ暮らしのなかのもっとも苦しい一瞬だった。ナチスに気に入られつづけるかどうか、それがオーケストラのメンバーが生存できるカギだった。
シューマンのトロイメライを聞いて収容所の所長は涙を流した。音楽を聞くことによって、選別の苦労を忘れようとしているのだ。
分割して統治することのうまいナチは、よくユダヤ人同士を反目させた。収容者代表、棟代表、労働班長、補助事務員、給食係などの特権的ポストは、ナチスから命令されたことを全力でやりぬくユダヤ人だけに与えられた。親衛隊員からみて熱意に欠けるものは、容赦なくポストを剥奪されるか、ガス室へ送られた。
強制収容所で出産した赤ん坊と母親が無事に生きのびたことも紹介されています。
『チェロを弾く少女アニタ』(原書房)にも、この本の著者ファニアが重要なメンバーとして紹介されています。
実は、この本の著者は『強制収容所のバイオリニスト』(新日本出版社)の著者と同じオーケストラにいました。後者はポーランド人女性で、ファニアがポーランド人を侮辱していると非難しています。民族と宗教の違いは当時も今も大変な反目を生んでいるようです。これが世界の現実なのですが、お互いにそれを乗りこえていく努力をするしかありませんよね。
「私が日本人であってよかった」という日本会議系のポスターが貼り出されて、ひんしゅくを買っていますが、実は、その「日本人」女性が、実は中国人だったとのこと。日本民族の「優秀性」を誇るのも、ほどほどにしたいものです。
それはともかく、この本は批判される弱点もあるとは思いますが、読みものとしては最近の本よりは断然迫力がありました。ネットで注文して読みました。
(1981年11月刊。1300円+税)

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2017年6月23日

灰緑色の戦史

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版  作品社

ドイツ国防軍の実体に迫った本です。ドイツ国防軍神話が見事なまでに覆されています。
そして、ロンメル将軍が等身大で描かれているところも、私にとっては新鮮な衝撃でした。
ドイツ国防軍の神話とは、ヒトラーの無知と無謀な戦争指導が、伝統あるドイツ国防軍参謀本部の優れた作戦を台無しにしてしまったのだというもの。それは、ヒトラーの妨害さえなければ、ドイツ国防軍は戦争に勝っていたというイメージを広めている。その神話をつくったのは、戦略をめぐってヒトラーと対立し、参謀総長の職を逐(お)われたフランツ・ハルダー上級大将たちのグループ。
冷戦に直面し、ドイツ軍が豊富に有していたソ連軍との戦闘体験を活用したいというアメリカ陸軍がハルダー将軍たちの研究報告書を普及した。ハルダー史観によって、神話が定着した。しかし、冷戦の終結によって、ソ連が押収していたドイツ軍の文書が明るみに出たことによって、このハルダー史観ドイツ国防軍神話は覆されていった。たとえば、ダンケルク撤退を止められなかったのはヒトラーにのみ責任があったのではない・・・。
イギリス上空の制空権をめぐる一連の空中戦(バトル・オブ・ブリテン)において、見かけほどには、ドイツ空軍は無敵の存在ではなかった。ドイツ空軍は陸軍への支援を第一目的としてつくられた戦術空軍だった。主力のメッサーシュミットは、航続距離が短く、イギリス本土空襲にあたっては南イングランドをカバーできるだけ。戦闘機の航続距離が足りないため、爆撃隊が単独で侵攻しなければならない。この裸の爆撃隊にレーダー管制を受けたイギリス戦闘機隊が襲いかかる。したがって、ドイツ空軍の損害は甚大だった。
そして、ヒトラーが爆撃目標を空軍基地から都市に変えたことによって、民間人の被害が増大して戦意が高揚し、イギリス空軍は一息ついて、戦闘機隊を再編することができた。その結果、ますますドイツ空軍にとっての脅威が増大した。
ロンメル将軍は、貴族ではない、プロイセンのユンカー出身でもない。軍人の家庭に生まれておらず、幼年学校を出ていない。
ドイツ将校団では貴族が圧倒的に有利だった。貴族、それもユンカー、軍人の家柄で、幼年学校を出ていることが出世の条件だった。ロンメルは、この4つのどれも満たしていない。ロンメルが昇進するには、実戦で手腕を見せるしかなかった。
ヒトラーは、ロンメルを総統護衛部隊の長に任命した。しかし、ロンメルには、戦略的な能力がなかった。戦術的に有利な情勢だけに気をとられ、それが戦略的にどのような影響を支えるかを配慮できない人物だった。
ロンメル将軍の長所とされているものの多くは、下級司令官の美徳である。前線を恐れない、陣頭に立つ・・・。しかし、軍司令官が前線視察に出かけて行方不明になってしまったら、軍はどうするのか・・・。
陸上自衛隊幹部学校で講師をつとめているだけあって、大変専門的で詳しく、並みの軍事史にはない深さに感銘を受けました。
(2017年5月刊。2800円+税)

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2017年5月25日

いのちの証言

(霧山昴)
著者 六草 いちか 、 出版  晶文社

ナチスの時代をドイツ国内で生きのびたユダヤ人、それを支えた日本人がいた、この二つをドイツに住む日本人女性が実例をあげて紹介した本です。
ベルリンには、かつて16万人以上のユダヤ人が暮らしていた。たとえば電話帳にユダヤ人特有の名前であるコーン姓の人は、1925年版では5頁、1300世帯がのっていた。ところが、1943年版には、わずか28世帯でしかなかった。
終戦まで生き残ったユダヤ人は、わずか6千人だった。そのうち2千人は、ドイツ人の妻や夫や親をもっていた人たち。ゲッペルスのユダヤ人一掃作戦に抗議したドイツ人女性たちによって救われた。残る4千人は、市民が個人的に隠し通した人たちだった。
そして、実は、ベルリンにあった在独日本大使館にもユダヤ人女性がいて、大使館が守っていたというのです。
ドイツ人の女性タイピスト2人は実はユダヤ人だ。あえて日本大使館は、彼女らを雇用していた。ドイツ人が日本大使館に雇われていたら安全だと承知して頼み込んできた。そういうドイツ人は、反ナチ、反ヒトラーの感情をもっていた。
近衛文麿の弟である近衛秀麿は、オーケストラの指揮者としてドイツでも活躍していた。その近藤秀麿は、ユダヤ人家族の少なくとも10家族の国外脱出を助けた。優秀、有能な人を輩出したユダヤ人をヒトラー・ドイツは抹殺しようとしていたわけですが、日本が何人も身を挺してその救出にあたっていたことを知ると、身体が震えるほど、うれしくなります。
ところが、最近、日本のなかで「日本人で良かった」とかいう変なポスターを貼り出す日本人がいるというので、呆れて反吐が出そうです。中国人や韓国人を見下して、日本民族は優秀だ。なんて、まるで馬鹿げた考えです。その心の狭さには開いた口がふさがりません。
弱者いじめをする人は、幼いころから親と周囲から大切に育てられてこなかった、愛情たっぷりのふりかけごはんを食べられなかった気の毒な人たちだという分析がありますが、私もそうだと思います。でも、気の毒な人たちだと哀れんでいるだけではすみません。彼らが害毒をたれ流すのは止める必要があります。
「みんな違ってみんないい」(金子みすず)
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)
日本国憲法って、ホント、格調高いですよね。それに比べて、自民党の改憲草案は信じがたいほど下劣です。
(2017年1月刊。1900円+税)

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2017年3月18日

史上最高に面白いファウスト

(霧山昴)
著者 中野 和朗 、 出版  文芸春秋

ゲーテの「ファウスト」は古典的名作だというので、私も一度だけ読んでみましたが、あまり面白いとは感じられませんでした。
この本は、83歳になるドイツ文学者が「ファウスト」の面白さをたっぷり解説してくれています。なるほど、そういうことだったのか、それなら、もう一度よんで、面白さをしっかり認識させてもらおうと思ったことでした。
「ファウスト」の面白さを知るためには、ゲーテその人をよく知る必要があるようです。
ゲーテは22歳で弁護士を開業しました。しかし、実際には、弁護士業に身を入れることなく、小説を書いていました。
ゲーテの父親は法学博士でしたが、教育熱心で、ゲーテに家庭教師をつけ、勉強だけでなく、美術、音楽、ダンス、乗馬までデーテはこなすようになりました。英語、フランス語、イタリア語を習得し、詩作をする少年として知られました。
ところが、長じてからは父親の期待を裏切り、法律の勉強を嫌って、芸術や美術に関心を寄せるようになり、成績も素行も悪い学生になりました。
ゲーテは父親からライプツィヒ大学の法学部へ入学させられますが、自堕落で不健康な生活のあげく、健康を害しました。
ゲーテが弁護士になってから書いた小説は「若きウェルテルの悩み」でした。大変な反響を呼んでいます。その後、ワイマル公国の宰相として、活躍するようになりました。他方、ゲーテは、「ドイツの光源氏」と言えるほど、生涯に多くの女性を愛しています。
ゲーテがワイマル公国の宰相だったころ、フランス革命が起こり、その後、ナポレオン軍に攻め込まれています。
ラストシーンをふくむ「ファウスト」第二部は、ゲーテの遺言によって死後まで発表されなかった。なぜか・・・。
伝説のファウストは、最期は必ず地獄に堕ちることになっていた。ところが、ゲーテのファウストは我欲に固執し、いくつもの罪を犯し、悪魔の手におちた罪人であるにもかかわらず、天国へ救済される。これは当時の社会常識を大逆転する結末だ。
「ファウスト」の重要な主題のひとつは「自由」。人間をしばっている、あらゆる桎梏からの解放を希求する魂が、ゲーテに「ファウスト」を書かせた。
ゲーテは、自分自身も罪深い、出来そこないの男の一人であることを、自虐をこめて痛烈に批判し、かつて傷つけた女性たちに対し、許しと救いを求めた。この意味で「ファウスト」はゲーテの「人生の清算書」だと言うことができる。
ゲーテは、詩人、作家、哲学者、政治家、弁護士、自然科学者など多くの顔をもった、正真正銘の天才マルチ人間だった。
1832年にゲーテは82歳で亡くなったが、当時としてはずいぶん長生きした。
伝説上の人物と考えられていたファウスト博士には、実在のモデルがいる。ゲーテよりも300年前に生きていた。実在のファウストは、魔術師、降霊術師、占星術師、錬金術師であり、医師だった。近代自然科学の黎明期に生きた、科学者のパイオニアだった。そして、この科学に関心をもったファウストが、身のほど知らずにも人智をこえた力を手に入れようと悪魔と結ぶ、神の罰を受けるのだ。
このような解説とともに、この演劇台本を読むと、その奥深さを垣間見ることができて面白く感じられるのです。
それにしても、ゲーテって、たくさんの女性にもてもてだったようで、うらやましい限りです。
(2016年10刊。1300円+税)

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2017年3月 8日

罪と罰の彼岸

(霧山昴)
著者 ジャン・アメリー 、 出版  みすず書房

1933年3月21日。ポツダムの日に、直前の選挙結果をかなぐり捨てて、ナチスに全権をゆずり渡したとき、ドイツ国民は喝采した。
ナチズムという妖怪は、未開の後進国で徘徊したわけではない。
言葉が肉体をとり、いかにひとり歩きして、やがてはどのような死体の山を築いたか。その一部始終をみてきたのだから・・・。人間焼却炉からの煙があれほど多くの墓を空に描いたというのに、またしても火遊びがはじまりかけている。私は火災警報を出そう。
著者はユダヤ人であり、ベルギーにおけるレジスタンス運動の一員として、ブーヘンヴァルト、ベルゲン、ベルゼン、そして、アウシュヴィッツで過ごした。
アウシュヴィッツ、モノヴィッツでは、手に職をもった者はそれまでの職業に応じて配属が決められた。ところが、知的な職業の者には事情がまったく別だった。ここでは、一介の肉体労働者にすぎず、労働条件においてきわめて不利だった。大学教授たちは、小声で教師と答えた。大学教授と答えて怒りを買いたくなかったから。弁護士は、しがない簿記係に変身した。
ジャーナリストは作家と言った。大学教授や弁護士たちは、鉄管や木材を背中で運んだが、いたって不器用だったし、体力がなかったから、やがて焼却施設へ送られていった。
強制収容所では、身体の敏捷さ、野蛮さと紙一重の関係の頑丈さがものをいった。
ともに、精神生活を何よりの糧としてきた人が、あまりそなえていない特性である。
そして、知識人の多くは、友人を見つけることができなかった。収容所スラング(方言)を口にしようとすると、全身が抵抗して、口が利けなくなるのだった。
アウシュヴィッツでは知識人は孤立していた。
これに対して、ダッハウでは、政治犯が収容者の多数を占めていたし、管理が政治犯にかなりの程度までまかされていた。ダッハウには図書室すらあった。
精神の社会的機能あるいは無能さという点で、ドイツで教養をうけたユダヤ知識人にとって、事態はさらに深刻だった。自分がよって立とうとする当の基準が、ことごとく敵のものだったからである。
ある男は職業を問われ、愚かにも馬鹿正直に「ドイツ文学者」と答えたばかりにSSの猛烈な怒りを買い、半殺しに殴られた。
ドイツ系ユダヤ人はドイツ文化を自分のものと主張できない。その主張を認めてくれる社会性を欠いていたからである。
戦場での兵士の死は名誉の戦死、収容所での死は家畜の死だった。収容所では死が義務づけられた。兵士にとって死は外から運命としてやってきた。収容所では、死は、前もって数学的に定められた解決策だった。
収容所のなかの人々は、死の不安をもっていなかった。ガス室送りの選別が予期された当日にも、人々はそれをさっぱり意に介さなかった。むしろ、その日のスープの濃度について、一喜一憂しながら語りあった。このように、やすやすと収容所の現実が死を打ち負かしていた。収容所では、死が恐怖の境界をこえていた。
強制収容所においては、精神はさっぱり役立たなかった。ただし、精神は、自己放棄のためには役立った。
ゲシュタポと強制収容所のなかでの2年あまりの生活において、サディストには一人も出くわさなかった。
拷問された者は、二度と再び、この世にはなじめない。屈辱の消えることはない。最初の一撃で既に傷つき、拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取戻せない。
ドイツ人の多くは、ユダヤ人をめぐって起きていることを正確に知っていた。臭いをかいでいたのだから。
つい昨日、ユダヤ人の選別場で手に入れたばかりの衣服を着ていた。労働者も小市民も学者もヒトラーに票を投じた。
ユダヤ人であることは、初めから執行猶予中の死者だった。殺される人間であって、偶然しかるべき執行を受けていないだけ。さまざまな猶予の形があり、程度の違いがあるにすぎなかった。
ユダヤ人に対する侮辱の過程は、ニュルンベルク法の公布とともに始まり、当然の結果として強制収容所へと導いた。
1984年に刊行された本の新版です。ドイツ映画(2014年)『顔のないヒトラーたち』は、強制収容所にいたナチスの高官たちが戦後、何くわぬ顔で社会的地位について平然と働いていたことを暴き出す内容でした。
今の日本だって、黙っていたらアベ政治が危険な方向に流れていく気がしてなりません。
すごく読みすすめるのに骨の折れる重たい本でしたが、なんとか読み終えました。
多くの人に一読をおすすめします。
(2016年10月刊。3700円+税)

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2016年12月12日

テレジン収容所の小さな画家・詩人たち

(霧山昴)
著者 野村 路子 、 出版  ルック

アウシュヴィッツに消えた1万5000人の小さな生命(いのち)というサブタイトルのついた絵本です。
アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所で殺された子どもは1万5000人どころか、150万人といわれている。そんな子どもたちの怒り、悲しみ、夢、祈り、そして、生きたいという叫び・・・。生命のメッセージが伝わってくる。
ユダヤ人の子どもたちは、学校へ行くことを禁じられ、遊園地やプールからも締め出された。もちろん、これはヒトラーが叫び、権力を握って推進した政策ですが、それを支援したドイツ人大衆がいたわけです。いまの日本で、ヘイトスピーチをし、それに沈黙して、実は手を貸しているという人たちが少なくないことを考えると、おかしいことを権力者がしていると思ったら、すぐに抗議の声を上げないと大変なことになるということです。
いまの日本のアベ首相の手口はあまりにも恐ろしいと私は思うのですが、不思議なことに、年金を切り下げられている年寄りに支持する人がいて、非正規でしか働けず、明日への希望を失っている人が解雇の自由を促進しているアベ政権を支持しています。まさしく矛盾です。
収容所の食事。朝はコーヒーと呼ばれる茶色い水が1杯だけ。昼はピンポン球くらいの大きさの小麦粉の団子の入った、うすい塩味のスープ。夜は、同じスープと小さな腐りかけのジャガイモが一つか、かたいパンが1かけ。それが子どもたちの食事だった。
テレジン収容所の「子どもの家」にいた10歳から15歳までの子どもたち1万5000人のうち、戦後まで生き残っていたのは、わずか100人だけだった。
12歳の男の子の描いた絵があります。首を吊られた男性が描かれています。その男性の胸にはユダヤ人の印であるダビデの星が色濃く描かれています。
どうしてなのか、幼い彼にはその理由は理解できなかった。でも、胸にこの黄色い星のマークをつけさせられた日から、辛いこと、悲しいことが多くなったことだけは分かっていた。
この絵は、少年の大好きな父親が処刑される場面だったのかもしれない・・・。
テレジン収容所が1945年5月8日に解放されたとき、ドイツ軍が自分たちの蛮行を証明する書類を焼却していった焼け残りの書類の下に、子どもたちの絵があった。それを見つけた人が、トランク2つに詰めてプラハへ持ち帰った。子どもたちの絵が4000枚、詩が数十編・・・。それは、子どもたちがこの世に生きていた証だ。
今も、プラハの博物館に残されているそうです。ぜひ、現物をじっくり見てみたいと思いました。年齢(とし)とって涙もろくなった私は、涙なしには絵を見ることも、詩を読むことも出来ませんでした。私たちみんな、この事実を忘れてはいけないと何度も思ったのです。ヘイトスピーチなんて、許せません。
(1997年6月刊。2200円+税)
 土曜日は午前中のフランス語教室を終えて、午後から天神の映画館でフランス映画『アルジェの戦い』をみました。「アタンシオン、アタンシオン」(注意して下さい、注意)という有名なフランス語のセリフが流れてきます。アルジェリアが戦後、フランスから独立するまでにおきたテロや暴動、そしてフランス軍による拷問、弾圧を生々しく再現した映画です。
 実は、私は1967年(昭和42年)4月、渋谷の大きな映画館でこの映画をみたのです。大学に入ってすぐのことです。それまで九州の片田舎に住んでいて大東京に出て、何もかも目新しい生活を始めたとき、世界ではこんなことが起きているのかと、目を大きく見開かされました。
 この映画は前年(1966年)にベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したのですが、「反仏映画」だという批判も受けました。フランス軍による活動家への拷問シーンはたしかに凄惨です。
 そして、昨年のパリ同時多発テロを思い出させる映画でもあります。相次ぐ爆弾テロ、車から連射して路上の罪なき市民を倒していくシーンなど、50年前の出来事が今よみがえってきます。
 暴力に暴力で対処してはダメなんだと独立運動の指導者の一人が語ります。革命を始めるより、続けることが難しいし、成功したあとが、さらに難しいともいます。アルジェリアは独立後、実際にそのような経過をたどります。 
 一見に値する貴重な映画です。ぜひ、時間の都合がつけば、ご覧ください。

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2016年12月 7日

ブラックアース(下)

(霧山昴)
著者 ティモシー・スナイダー 、 出版  慶應義塾大学出版会

 ユダヤ人へのホロコーストの実情が刻明に掘り起こされています。
 ユダヤ人の大量殺戮は、何万ものドイツ軍が3年にわたって何百という死の穴のうえで何百万というユダヤ人を射殺していた東方では、ほとんどの者は何が起きているのかを知っていた。何十万ものドイツ人が殺戮を実際に目のあたりにしたし、東部戦線の何百万ものドイツ人将兵は、それを知っていた。
 戦時中、妻や子どもたちまでが殺戮現場を訪れていたし、兵士や警察官はもとより、ドイツはときに写真付きで家族に詳細を書いた手紙を送った。
 ドイツの家庭は、殺害されたユダヤ人からの略奪品で豊かになった。それは何百万というケースではなかった。略奪品は郵便で送られたり、休暇で帰省する兵士や警察官によって持ち帰られた。
 1940年6月にソ連に占領されたエストニアでは、1941年7月にドイツ軍がやってきたときに居住していたユダヤ人の実に99%が殺害された。これに対してデンマークでは、市民権をもつユダヤ人の99%が生きのびた。エストニアでは国家が破壊されたが、デンマーク国家は一度も破壊されなかった。ドイツの占領は、明らかにデンマークの主権をもとにして進められていた。デンマーク当局は、ユダヤ人市民をドイツに引き渡すのは、デンマークの主権を損なうことになると理解していた。
デンマーク人は、自国のユダヤ人をドイツではなく、スウェーデンに送り届けるために小型船隊を組んだ。ドイツ警察は、この企てを知ったが、留はしなかったし、ドイツ海軍も、眺めるだけだった。デンマーク市民は、同胞の市民を自分たちの国で救うのは犯罪ではないので、ほとんど身に危険を感じず、やってのけた。ドイツ警察が10月2日に急襲したときにも、デンマーク市民権をもった5000人のユダヤ人のうち481人だけしか捕まらなかった。
ドイツ当局は、収容所におけるユダヤ人の外見上は良好な状態を見せるプロパガンダ映画を製作するのに、デンマークからのユダヤ人を利用した。
なるほど、国家体制が残るっていうのは、こんな効果もあるのですね・・・。
国家が破壊された場所では、誰も市民ではなかったし、予想できるいかなる形の国家の保護も享受していなかった。ドイツの官僚制度はドイツのユダヤ人を殺害することはできなかった。ドイツのユダヤ人は、戦前からのドイツの地においては、ごくごく少数の例外を除いては、殺害されることはなかった。
 市民権、官僚制度、外交政策が、ヨーロッパのユダヤ人全員を殺害せよというナチスの衝動を妨げた。
伝統的にルーマニアは、フランスの従属国であり、ルーマニアのエリート層はフランス文化に自己を重ねあわせていたし、フランス語が広く話されていた。
ヒトラーは、ルーマニア陸軍を重要視していた。ポーランドの崩壊後、赤軍に対抗するのに使える東ヨーロッパにおける唯一のまとまった数の軍隊だった。
 ルーマニアは、1944年、ドイツに抗しながら終戦を迎えた。ルーマニアのユダヤ人の3分の2が生きのびていた。
 ハンガリーでは、1944年になっても、80万人がハンガリー領内で生きのびていた。ブルガリアの支配の及んだ地域に住んでいたユダヤ人の4分の3が生きのびた。
 イタリアは、反ユダヤなどの人種立法を通過させたが、ムッソリーニは、イタリアのユダヤ人を死の施設に移送することに何の関心も示さなかった。イタリアにいたユダヤ人の5分の4は生きのびた。
これに対して、領有者がかわった地域のユダヤ人は、たいてい殺されてしまった。
 フランスのユダヤ人は4分の3が生き残り、オランダとギリシャのユダヤ人は4分の3が殺害された。オランダは、国家のない状態に近かった。国の元首はいなくなったし、政府は亡命してしまった。
生きのびたユダヤ人は、ほぼ全員が非ユダヤ人から、何らかの援助を受けていた。ドイツ人は、ある状況では救助者となり、別の状況では殺人者となった。
 ホロコーストの実際が、とても詳細に分析されていて、大変勉強になりました。
 この本を読みながら、つくづく歴史を学ぶ意義は大きいと痛感しました。
 
(2016年7月刊。3000円+税)

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2016年10月28日

パナマ文書

(霧山昴)
著者 バスティアン・オーバーマイヤー 、 出版  KADOKAWA

パナマ文書は、世界のスーパーリッチたちが税金のがれためのインチキをしていることを暴露したものです。パナマの法律事務所の極秘文書が外部へ漏出したのです。
この本を読んで大変もどかしかったのは、日本人のスーパーリッチもいるはずなのに、本文では全然ふれてなく、解説にもありません。ぜひ日本人の関わりを明らかにしてほしいです。
国際金融の世界はオフシェア業界のおかげで潤っている。
世界中が一致団結してタックスヘイブンに向かって攻撃を仕掛けたら、さすがのオフシェア業界も存続の危機になるだろう。
銀行口座の情報が世界中で自動的にやりとり出来るようにすれば、オフシェア対策に有効だ。EUだけでも、毎年1兆ユーロが脱税と節税のために失われている。
スーパーリッチとは、自由に使える資産が50万ドル以上もっている人。ウルトラ富裕層というのは、少なくとも3000万ドル以上をすぐに投資に回せる人のこと。
たとえば、スペインで家を買うと、10%の不動産取得税がかかる。だけど、家ではなく、その家を所有する会社の株を買ったら、その税金はかからない。
富豪やスーパーリッチが暮らすもう一つの世界では、いくつもの大陸や国をさまたいで口座や株、家屋敷、プレジャーボート、その他の資産の一部をオフショアの仕組みを使って保有するのが当たり前になっている。ペーパーカンパニーを所有すること自体は、まったく合法だ。
世界中で社会が二つの階級に分かれている。ひとつは普通に税金を支払う階級で、もうひとつは、いつ、どのように税金を払うかを、あるいは払うか払わないかさえも自分で決め、そうするための手段も持っている階級だ。
このパナマの法律事務所は世界中のいかがわしい人物、といっても、その国の大統領や首相だったりするのですが、その裏金を預かる仕事をしていたようです。そのデータが、内部告発で外部へ流出したというわけです。CIA文書を流したスノーデン氏のような勇気ある人がいたのです。
おかしな世の中です。本当は拝金主義のくせに外部に向かっては愛国心を語るなんて許せませんよね。腹の立つばかりの本ではありました。決して、世の中、お金がすべてではない。みんなで叫んで、行動に移したいものです。
(2016年8月刊。1800円+税)

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