弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(平安時代)

2015年11月23日

虫めづる姫君

(霧山昴)
著者  作者未詳(蜂飼耳・訳) 、 出版  光文社古典文庫

  「堤中納言物語」は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて書かれた短編物語集。作者も、編者も不明のまま。
  当時は、歌の贈答がとても重要だった。だから、歌の力を書いた物語は、大いに好まれた。なかでも、特筆すべきは、この本のタイトルになっている「虫めづる姫君」。「あたしは虫が好き」と現代文に訳されています。
  毛虫って、考え深そうな感じがして、いいよね。そういいながら、朝に晩に毛虫を手のひらに這わせる。毛虫たちをかわいがって、じいっと、ごらんになる。
「人間っていうものは、取りつくろうところがあるのは、よくないよ。自然のままなのが、いいんだよ」
  この姫君は、そういう考えの持ち主だ。
  世間では、眉毛を抜いてから、その上に眉墨で書くという化粧が一般的なのだけれど、そんなことはしない。歯を黒く染めるお歯黒も、おとなの女性ならする習慣なのに、めんどうだし、汚いと言って、つけようとしない。白い歯を見せて笑いながら、いつでも虫をかわいがっている。 
「世間で、どう言われようと、あたしは気にしない。すべての物事の本当の姿を深く追い求めてどうなるのか、どうなっているのか、しっかり見なくちゃ。それでこそ因果関係も分かるし、意義があるんだから。こんなこと、初歩的な理屈だよ。毛虫は蝶になるんだから。
とはいえ、この姫君は、御姫様としての作法をまったく守らないわけでもない。たとえば、両親と直接、顔をつきあわせて対話することは避ける。鬼と女は人前にでないほうがいいんだよ、と言って、自分なりの思慮を働かせている。
毛虫は脱皮して、羽化して、やがては蝶になる、物事が移り変わっていく過程そのものにこの姫君は関心を持っている。
  つまり、探究心をお持ちなのです。
  身近に雑用係として置く男の子たちの呼び名も、一般的なものではつまらないと考え、虫にちなんだ名をつける。けらず、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまびこ。姫君は、そんな名を男の子たちにつけて、召し使っている。
  すごい話ですよね。まるで現代の若い女性かのような行動と言葉です。古典といっても、ここまで来ると、まさしく現代に生きています。
(2015年9月刊。860円+税)

2015年10月12日

平泉

(霧山昴)
著者 斉藤 利男   出版 講談社書選書メチエ
 
中尊寺とは、清衡による奥六郡支配の最初に、奥州の中心に位置することを意識して創建された寺院だった。奥大道を通行する人々は、金色堂以下の壮麗な伽藍を間近に見る仕掛けだった。中尊寺は、すべての人々に開かれた「公の寺」だった。
奥州藤原氏は、「北奥政権」にとどまっていなかった。平泉開府の最大の意義は、衣川を越えて、「俘囚の地」奥六郡の南へ出たことにある。そして、清衡の目は、奥羽南部から関東・北陸、さらに首都京都を越えて、西国九州に達し、博多の宋人商人を介して、寧波(ニンポー)、中国大陸に及んでいた。
初代清衡は、大治3年(1128年)7月に73歳で病死した。
清衡の死は、わずか2週間後に京都の貴族に死んだことや年齢まで日記に書かせた。この日記が今も残っていることから、さらに多くのことが解明できたのでした。
平泉は、海のシルクロードの東の終点に位置する都市である。それは、院政期仏教美術の直輸入ともいえる中尊寺の仏像、仏具類、海外産の材料(夜光貝)象牙、紫檀材など。都の一流の匠・工人に依頼することなしでは、建立不可能だった中尊寺金色堂。
そして、ここには中国・海外産の経典・宝物などもある。
平泉・中尊寺は私も何回か行きました。その金色堂の見事さには、言葉が出ないほどの衝撃を受けたものです。
(2014年12月刊。1950円+税)

2015年8月21日

女たちの平安宮廷

(霧山昴)
著者  木村 朗子 、 出版  講談社選書メチエ

 「栄花物語」によむ権力と性、というのがサブタイトルについている本です。
 平安時代、女性は政治のうしろにいて、表舞台にあらわれていませんでしたが、その実、政治を動かしていたのは女性だった。それを実感させてくれる本でもあります。
 平安時代の摂関政治の最大の関心事は、閨事(ねやごと)、つまり男と女の性の営みにあった。
 摂政関白という地位は、天皇の外祖父が後見役になることで得られるものだから、大臣たちは次々に娘を天皇に嫁入りさせ、親族関係を築いていた。
 摂関政治は、結果として、一夫多妻婚を必然とした。後宮に集う女たちは、天皇の籠愛をえるために、そして天皇の子、とりわけ次代の天皇の寵愛を得るために、次代の天皇となる第一皇子を身ごもるために競いあった。
 摂関政治は男たちの権力闘争だった。そして、それを実際に動かしていたのは、いくつものサロンの抗争、女たちの闘争だった。そのことを細やかに伝える書物が藤原道長の栄華を描いた歴史物語「栄華物語」である。「栄花物語」は、物語の形式をとりながらも史書として企図されたものであった。
当時の女たちが漢字漢文を使わないのは、使えないというのではなく、知らないふりをすることが、女たちのたしなみであったから。その証拠に、「枕草子」にも「源氏物語」にも、漢詩が引用されている。
 天皇を中心として宮廷において、多くの女たちが天皇の后候補として、あるいは女房として参内(さんだい)し、後宮を形成した。その後宮を支配するのは、当の天皇ではなく、摂関家であった。
 天皇の系を存続させながら、そこに寄生することで、権力を得た摂関政治にとっては、性そのものが直截(ちょくせつ)に政治であった。
 摂関政治においては、后の位を強化するより、むしろ、出産によって次の天皇を生み出すことに権力闘争の中心があった。天皇家との婚姻関係だけでは権力は生み出されなかった。天皇のこの誕生と闘争の地点をずらすことによってのみ、藤原氏は、家格として「正統」となりえた。
 藤原氏だけが天皇の孫、つまり二世の女王と娶る(めとる)ことができた。藤原氏の優位性は、実質的な権力に依存しながら、天皇の皇女を得ることによって強化された。
 天皇の父になることはできないが、天皇の母になることはできた。
 そして、子育てをするのは、母親ではなく、雇われた乳母(めのと)であった。そうすることによって、母親をすばやく次の出産態勢に戻し、多くの子どもを抱えることを可能とした。
桓武天皇の詔以来、天皇の娘は藤原氏に独占的に与えられてきた。
 後宮においては、誰の娘かということで女たちは序列化されていた。娘たちの入内(じゅうだい)は家格によって序列化されており、その家格は、天皇の娘がどのように分配されているかという問題にかかわっている。
 天皇の子でありながら、臣下である藤原氏は、政界で優遇されることによって、その不均衡を埋め合わされていた。他方、藤原氏は、外威という形でしか天皇の系にかかわることができない。
 摂関制度という、藤原氏に有利な制度は、律令に定められた親王優位の制度をいかに骨抜きにするかということに賭けられていた。
 次代の天皇を争う摂関政治の制度は、立后を切り札としてしまいはしなかった。天皇が一人であるのに対して、后は複数存在したからだ。后になること自体は、権力奪取に実質的な意味を持ち得なかった。
 后のなかの后たるものは、母であらねばならない。国母(こくも。天皇の母)のほうに価値が転換された。
 権勢家は、娘が天皇に入内し、男子を生んだとなれば、いきおいその男子の即位を急ぐ。
 父と子が、同じ女性とのあいだに子をもうけるということは、正妻格にはありえないが、女房格にはあった。
 女房の性は、正妻とちがって、囲いこまれているわけではなかった。だから、誰の子であるかは、父側にとって不確かな要素を常にもっていた。子の誕生には、不確かさが入り込んでいた。それは、一夫多妻的な関係が同時に一夫多妻的な関係であったからである。
 平安時代の貴族政治を女性の視点でとらえ直している興味深い本です。
(2014年10月刊。860円+税)

 
  夕方、外出先から戻って庭に出てみると、別の木にヒヨドリが止まってしきりに鳴いている。そこに幼鳥がいるようだ。鳥カゴを見るとなかは空っぽだ。
 その木の下にいってみると、ヘビがいた。そしてヘビの腹がぷっくり太っている。あーあ、幼鳥は食べられてしまったんだ。親鳥は、それでも、夕方まで、木の上でずっと鳴いていた。
 ヒヨドリは、ヘビを発見したとき、うるさく鳴きかわし、ついには人間にまで知らせて、何とかしてくれと言いたかったようだ。しかし、スモークツリーの木のある巣はとても高くて、ヘビをはたき落とせるような位置にはない。
 結局、2羽とも幼鳥はヘビに食べられてしまった。残念だが、仕方がない。これも自然の植物連鎖だとあきらめるしかない。

2015年5月14日

平安時代の死刑

                               (霧山昴)
著者  戸川 点 、 出版  吉川弘文館

 日本では平安時代に死刑制度が廃止され、それ以後、ながく保元の乱までの350年間、死刑執行はなかったと言われるのを聞くことがあります。本当なのだろうか・・・、と疑っていました。この本を読んで、ようやく真相を知ることができました。
 著者は、団塊世代の私より10歳若く、今は高校の教員をしています。名前は、ともると読みます。
 死刑の執行については、天皇に3度も奏聞(そうもん)することになっていた。それだけ慎重に扱っていた。
 唐の玄宗皇帝は治世の最初より死刑を避けた。中国においても死刑廃止の動きがあり、それが遣唐使を通じて日本にも伝えられた。それが唐文化に傾倒した嵯峨天皇によって日本でも実施されたのではないか。
 しかし、日本では、律の条文を改編して死刑制度を廃止したのではなかった。あくまで死刑を停止したというのにとどまる。
 聖武天皇は、仏教思考や徳治思想の影響から死刑を減刑しようという発想を強くもった天皇だった。聖武天皇の出した恩赦は32例であり、歴代の天皇のなかで一番多く発令している。次に多いのが持統天皇の16例である。
 嵯峨天皇が聖君と扱われたことから、嵯峨天皇が死刑を廃止したというイメージが定着していったのだろう。
 薬子(くすこ)の変は、嵯峨天皇の王権に大きな影響を与えるものだった。この危機を乗り切った嵯峨天皇は権威と求心性を高める必要があった。死刑の停止により、自身の徳をアピールしようとした。
 死刑を停止したといわれる嵯峨朝以降も、合戦や群盗との争いのなかの処刑や国司、検非違使別当の判断で死刑が実施されることはあった。
中央政府の死刑忌避は、秩序・治安維持のために太政官の預からぬところでの死刑や肉刑を生み出していった。こうして太政官のタテマエとしての死刑忌避と実態としての死刑というダブルスタンダードが生まれた。
保元の乱のあと死刑が復活したといっても、実際に処刑されたのは、「合戦の輩」のみだった。このときも、貴族は死刑を忌避し、死刑復活に反発した。そして、貴族を除く武士などには実態としての死刑が実態されていた。
 なーるほど、ここでも日本人お得意の、ホンネとタテマエの違いがあったのですね。
(2015年3月刊。1700円+税)

2014年3月10日

阿弖流為(あてるい)


著者  樋口 知志 、 出版  ミネルヴァ書房

 ときは平安時代。桓武天皇の治世、東北地方で国家統一に「反逆」した人々がいた。その首領の名は、「あてるい」(阿弖流為)。私は『火怨』(かえん。高橋克彦、講談社。1997年刊。上下2巻)を読んで、すっかりアテルイびいきになってしまったのでした。その後、『蝦夷(エミシ)・アテルイの戦い』(久慈力、批評社)という本も読みました。そこでは、アテルイは横暴な大和朝廷の軍隊に雄々しく戦い続ける英雄として、その姿が生き生きと描かれているのです。
 ところが、この本では、実はアテルイの真実の姿は平和を愛する男だったというのです。ええーっ、そうなの・・・と思いました。何ごとも、一面的に見てはいけないということです。
アテルイは、国家との戦争のない平和な時期に生まれ、育ち、結婚し、子どもをもった年代まで大きな戦乱のない時代に生きていた。
 アテルイは、胆沢(いざわ)平野に根をはる農耕民系の蝦夷族長だった。アテルイは決して戦闘を専業とする人ではなかった。
 桓武天皇は、征夷と造都を二大事業とした。奈良時代に皇統の本流をなしていた天武嫡系の血統とは無関係の自分が天皇になったことから、それは天命が自分に降下したものと解し、自らを新王朝の創始者に擬し、前例に執着せず、独自の政治路線を邁進していった。桓武天皇の意識の裏側には、自分の出自が傍流で、しかも生母が朝鮮半島出身の卑母(高野新笠)の所生子であるという強いコンプレックスがあった。
アテルイは、自らの率いる軍隊とともに10年以上にわたって大和朝廷の軍隊と粘り強く戦い続けた。しかし、延歴21年(802年)、アルテイは500余人の軍兵とともに坂上田村麻呂に投降した。そして、平安京に連行されていった。坂上田村麻呂の助命嘆願もむなしく、アテルイは桓武天皇の命令で処刑された。ところが、アテルイが処刑されたあと、東北地方では反乱は起きなかった。それは、アテルイが上京する前に、もしも故郷に生きて帰ることができなくても、決して反乱を起こさないように、あらかじめ蝦夷社会の人々に対して言葉を尽くして説得していたから。
 アテルイは、それまでの忍耐強い努力の積み重ねによって、ようやく手に入れた和平のための好条件が、決して水泡に帰すことのないようにひたすら願っていた。
このようなアテルイの強い意思を深く察した蝦夷社会の人々は、その約束を守り、アテルイの刑死という悲しい現実に直面しても、決して未来への希望を捨てることなく、辛抱強く耐えたのだろう。
 アテルイたちは、このようにして、死して蝦夷社会の人々にますます畏敬され、誇りとして、かけがえのない存在となった。
 なるほど、この本で展開されているアテルイに対する新鮮なとらえ方には、大いに共鳴できるものがありました。
(2013年10月刊。3000円+税)

2013年8月21日

王朝びとの生活誌

著者  小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗 、 出版  森話社

『源氏物語』の時代について、生活の視点でとらえた本です。
 「三日夜餅」(みかよのもち)は、現在の皇族も行っている。現代まで続いている婚姻儀礼の象徴である。三日夜餅を食べるのが正式な儀礼であり、正式な儀式をした女性が正式な妻である。
 平安貴族の女性も子育てをしていた。授乳すると妊娠しにくくなるので、授乳は一つ下の階級にまかせる。しかし、子育てはしていた。
古代の日本では、女性も男性と同じように、老いることは目出たいことだった。だから、古老の知っていることは、証拠書類と同じくらい重要視されていた。
 平安朝の後宮(こうきゅう)には宦官(かんがん)という去勢された男性官人がいなかった。この宦官のいない後宮が、日本の特異なところだった。それが、『源氏物語』のような密通の物語を成り立たせる基盤となった。平安朝の後宮は、江戸時代の「大奥」と違い、男性禁制の空間ではなかった。
 女文字とされた「かな」文字によって、平安朝の女たちは男とも和歌による手紙(恋文)を交わしたりしていた。これが、王朝女性文芸の基盤である。
 日本の後宮にのみ宦官がいなかったことは、王朝の交替がなく、天皇を中心とする貴族社会による王権が継続したことと関わる。天皇は絶対的な王ではなく、後宮が男子禁制でなかったのも、殿上人たちが特権的な貴族に限られていたからで、あえて言えば、密通も許容される社会だった。
 王朝びとの生活において、恋愛は大きな意味をもつ行為である。こと貴族においては、誰と恋愛し、結婚するかは、個人の問題におさまらない。公達・姫君の婚姻は、家の将来を左右し、どの家と結びつくかは、社会的にも影響を及ぼす大事だった。お披露目の場となる婚儀は盛大にとりおこなわれた。儀式は3日を要し、その手順は多岐にわたった。
 いまも太宰府で行われる曲水宴は奈良時代の光仁天皇から桓武天皇の時代にかけて続いていた。ところが、奈良時代に定着していたはずの曲水宴は平安初期に中絶した。
 藤原道長も曲水宴を主催した(寛弘4年、1007年)。
物忌(ものいみ)は物忌人が外出したり、社会と面会するのを防ぐことが本儀ではない。そうではなくて、災厄が物忌人の身に及ばないために行うものだった。
 『源氏物語』の生まれたころの日本人の生活がよく分かります。相も変わらぬ、日本人の心象風景がそこにありました。
(2013年3月刊。3100円+税)

2013年5月 6日

藤原道長の日常生活

著者  倉本 一宏 、 出版  講談社現代新書

藤原道長のつけていた「御堂関日記(みどうかんぱくき)」は長徳4年(999年)から、治安元年(1021年)まで、33歳の時から56歳までの23年間が現存している。
道長は藤原兼家の五男として康保3年(966年)に出生した。道長は、この日記を後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための備忘録として認識していた。しかし、現実には、摂関家最高の宝物として、大切に保存されていて、時の摂関さえも容易に見ることはできなかった。
 「御堂関白記」は世界最古の自筆日記である。だから、この日記を読むと、道長の人柄がよく分かる。道長は感激屋である。よく泣く。まことに素直な性格の道長は自分の皇位に対して素直に自賛したり、その場の雰囲気にあわせて冗談を言うことも多い。その反面、道長はたいそう怒りっぽい人でもあった。さらに、道長は非常に気弱な人でもあった。側近の行成に弱音を吐いたり、愚痴をこぼすのもしばしばだった。
 道長は健康なときでも、強気の政務運営は見られなかった。道長は、忘れっぽい人でもある。小心者の道長はよく言い訳を日記に記している。道長は、本気で端麗な字を書こうと思えば、書けた。
道長には、小心と大胆、繊細と磊落、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断。このような二面性があった。
 平安貴族の政務や儀式は、質量ともに激烈なものであった。めったに休日もなく、儀式や政務は、連日、深夜まで続いていた。
 当時は、儀式を先例どおりに執りおこなうことが最大の政治の眼目とされていた。政務のうちでもっとも重要とされていた陣定(じんのさだめ)は審議機関ではなく、議決権や決定権をもっていなかった。
平安貴族の社会において、もっとも重要な政務は人事であった。道長の時代は、いまだ儀式の基準が確立されておらず、各人がそれぞれの父祖や自分の日記から事例を引勘(いんかん)して、それを「先例」として重視している状況であった。
 「憲法は、ただ一人(道長)に御心にあるのか」と、実資は『小右記』に書いた。このとき「憲法」は、今の日本国憲法とはまったく意味が異なりますね。守るべき先例という意味なのでしょうか・・・。
 平安貴族は、大量のお酒を呑む餐宴の後に徹夜で漢詩を作り、翌朝、それを披露した後に帰宅した。平安貴族の体力と意欲は信じられないほどである。
 当時の貴族は、儀式に際して必要な装束や装飾を互いに貸し借りしていた。
 栄養の偏り、大酒、運動不足、睡眠不足など、不健康な生活を送っていた平安貴族は、病気にかかることも多かった。当時は、新鮮な食材に恵まれないうえに、タンパク質の摂取が少なかった。仏教信仰に傾倒すると、魚肉をとらなかった。
道長がこの世を「我が世」と認識したのは、政権をとった時点でも外孫が生まれた時点でもなく、長女の生んだ外孫に三女が入内して立后した時点であった。これによって永久政権が視野に入ってきたからである。
 当時、一時期には妻は一人しかいなかった人が多い。道長ほどの権力者であっても、正式な妻は、源倫子と源明子しか確認されない。
結婚したのは、道長22歳、倫子24歳と、当時としては二人とも晩婚であった。
道長の日記を通じて、道長という人物と平安貴族の生態を知ることができました。
(2013年3月刊。800円+税)

2012年8月15日

あくがれ

著者   水原 紫苑  、 出版   ウエッジ  

 久々に平安時代の和歌を詠み、貴族になった気分に浸ることができました。
 それにしても、気の利いた和歌をその場でつくって相手に返す早業は並みのひとにはむずかったのではないでしょうか。私には、とても自信はありません。
 冥(くら)きより冥き道にぞ入りねべき はるかに照らせ山の端(は)の月
 この世は暗い。だが、その闇よりも、さらに濃い闇に入る日が来るのだろうか。あるはずもない山の端に、大きな月が一輪。
 これは和泉式部の代表作とされるものです。恋多き平安の女性の奔放ともいえる生活の実情が小説として描かれています。
 和泉式部は、源氏物語の空蝉(うつせみ)とは異なり、ここ一番の賭けでは、危険を顧みず一歩踏み出してしまう女性だった。夫がいる身であっても、雲の彼方への恋に和泉式部は踏み出していくのです。父の大江雅致は、そんな和泉式部を勘当してしまいます。
 男が女のもとに通う貴族社会では、逆に女が男のもとに行って逢うのは、屈辱的な行為だった。親王と受領(ずりょう)の妻という、圧倒的な身分の隔たりはあっても、恋においては対等、という誇りを持ち続けてきた和泉式部は、踏みにじられた心地だった。
 ここらあたりは、現代とは、いささか状況が異なりますね。
 白露も夢もこの世もまぼろしも、たとへていへば久しかりけり
 白露も夢もこの世もまぼろしも、およそはかないもののすべてでも、あなたとの逢瀬に比べれば、久しいものです。
 どんなにはかないものよりもはかない一瞬に、人は生きている。ここには恋によって恋の彼方、うつしみによってうつしみの彼方を見る詩人の魂がある。
和泉式部は愛し、愛されれば、より一層、愛の向こう側にあくがれる、この世なら魂をもった女性であった。
 飽(あ)かざりし昔の事を書きつくる 硯(すずり)の水は涙なりけり
 幸せだった昔のことを書きつける硯の水は涙なのですよ。
 今の間の命にかへて今日のごと 明日の夕べを嘆かずもかな
 今このときの命と引きかえにして、明日の夕べは今日のように嘆かずにしたい。
 夕暮はいかなる時ぞ目に見えぬ 風の音さへあはれなるかな
 夕暮れというのは一体どんな時なのだろう。目に見えない風の音さえ心にしみる。
 藤原道長と同じ時代に生きた和泉式部の生きざまを、その日記(もちろん現代文で)たしかめてみたいと思いました。それと、日本女性は昔から強かったんだなと改めて思ったことでした。
(2012年5月刊。1400円+税)

2012年5月18日

謎とき平清盛

著者   本郷 和人 、 出版   文春新書

 著者はNHK大河ドラマの時代考証も担当する学者です。その指摘には、はっとさせられる鋭さがありました。
日本の歴史には二つの特徴がある。
第一に、平清盛が鎌倉に幕府を開いて以降、明治維新に至るまで、700年間ものあいだ武士が社会の支配者として、大きな役割を果たした。
 第二に、伝統が重んじられ、世襲が社会の基本原則として機能してきた。
 第一の点では、戦前の日本で軍人が偉そうに威張って、日本という国を破滅に導いた愚をくり返したくないものです。昔も今も自衛隊出身の国会議員がいますが、彼らが偉そうに言っているのを聞くと、虫酸が走ります。
 第二の点では、会社はともかくとして政治家の世襲なんて嘆かわしい現象だと思います。これは日本だけではなく、ブッシュ父子のようにアメリカでも起きています。
 黄櫨染(こうろぜん)と黄丹(おうだん、おうに)。前者は赤みを帯びた肌色で、天皇だけが用いることのできる色。後者は赤みをおいたオレンジ色で、皇太子だけに許されている。いわゆる禁色(きんじき)の色である。うひゃあ、こんな色が禁色だったのですね。
 中世の本質は、統一性ではなく、多様性にある。
 税を徴収するために、郡司(ぐんじ)、郷司(ごうし)、保司(ほうし)が任じられた。彼らは、存置の有力者で、国の役所である国衙(こくが。現在の県庁)の役人である在庁官人に任じられた。国衙では太田文(おおたふみ)という台帳が作成されていた。米で収める「年貢」、特産品で収める「公事」(くじ)、労働力を提供する「夫役」(ぶやく)の三つが当時の税を構成していた。幾内の国では「夫役」は、「京上夫」(きょうじょうふ)として、実際に京に行っていた。
 国司に任じられた貴族は、自身は京都にいて、家礼(けらい)を現地に派遣した。この家礼は目代(もくだい)とか眼代(がんだい)と呼ばれ、在庁官人を指揮して、国を統治した。
朝廷は官僚をもたなかった。日本では中国・朝鮮・ベトナムのような科挙の制度を導入しなかった。そのため、才能よりも世襲が政府における支配的な原理となり、貴族だけが政治に関わった。
 また、朝廷は軍隊も保有しなかった。常備軍は消滅した。
朝廷の正式な儀式においては、天皇よりも上皇がえらい。政治の実権を握っているのも上皇だった。
 「精兵」(せいひょう)と形容した強い武士、優れた武士とは、まずは強弓を引ける人。弓の上手に大変な敬意が払われている。戦いで倒れる兵は多く、古くは弓で射られ、また、鉄砲でうたれて命を失っていた。
 日本列島の西方を重視する政権づくり、経済重視、海外交易の推奨。そして改革者だという武士として、平清盛と織田信長の2人があげられる。
 平清盛は、既存の知行国制を有効活用し、いわば朝廷のなかに将軍権力を生み出そうとした。ただ、身分の低い武士が結集する場としては、伝統ある京の都はふさわしくなかった。そのため、清盛は福原への遷都を強行したのではないか。
 平清盛と武士たちについて、いかにも鋭い分析がなされていて、驚嘆しながら面白く読了しました。
(2011年11月刊。750円+税)

2012年2月27日

平清盛の闘い

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫

 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

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