弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(鎌倉時代)

2017年2月19日

日本史のなぞ


(霧山昴)
著者  大澤 真幸 、 出版  朝日新書

 著者は日本の歴史上ただ一人の革命家は、信長でもなければ龍馬でもなく、北条泰時だと主張しています。
日本社会の歴史のなかで、天皇や朝廷に全面的に反抗して、なお成功したものは承久の乱のときの北条泰時のみ。それ以外には一人もいない。
そもそも、天皇に真っ向から完全に対決した者は非常に少ない。
承久の乱のあと、鎌倉幕府は、ときの仲恭天皇を廃し、三人いた上皇を、隠岐、佐渡そして土佐に流した(流罪)。非皇室関係から皇室関係者が一方的に断罪されたのは、これが初めてで、その後もない。
承久の乱(1221年)のとき、鎌倉幕府が執権北条得宗家を中心にしてまとまったのは、承久の乱を戦うことを通じてだった。この戦いのなかで武士たちは連帯した。鎌倉幕府は、京都からの軍を鎌倉で迎撃するのではなくて、積極的な攻撃に出た。
北条泰時は、地方の武士を連合させて中央の政争に介入して皇室軍に勝利した。
そして、日本列島全域に及ぶ権力を獲得し、独自の法(御成敗式目)を公布した。これによって「武者の世」が本格的に始まり、明治時代の幕開けまで続いた。泰時のなし遂げた革命とは、このことである。
北条泰時は、執権として関東御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めた。この法では裁判の公正性がもっとも重要だった。この御成敗式目は、中国の法律を受け継いだというものではなく、日本史上初めての体系的な固有法である。
北条泰時は、日本社会の歴史のなかで唯一の成功した革命家である。北条泰時は日本社会に初めて体系的な固有法をもたらし、この法は広く深く日本人の生活に浸透し、定着した。
北条泰時は、院宣に反して幕府軍を率いて天皇軍を打ち負かした。そして、天皇の一陪臣の身でありながら、三人の上皇を配流した。だから天皇制支持者から罵詈雑言をあびせられても不思議ではない。ところが、逆に天皇を熱烈に支持する学者からも激賞されている。
なるほど、こういう見方も出来るんだと、驚嘆しました。
(2017年1月刊。720円+税)

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2017年1月19日

南朝研究の最前線

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版  洋泉社歴史新書y

日本に二つの朝廷が併存していた時期が60年近くも続いたことがありました。鎌倉時代末期の南北朝時代です。後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したのが始まりです。
戦前は、この南朝が正統とされ、楠木正成や新田義貞が忠臣で、足利尊氏は逆賊とされていた。戦後になって、それが逆転してしまった。楠木正成は、むしろ「悪党」とされた。
この本は、最新の研究成果をふまえて、従来の通説をいくつもの点で覆しています。
後醍醐政権(南朝)には、旧幕府の武家官僚が多く参加し、その政権が崩壊すると、次に室町幕府に活躍の場を求めた。したがって、鎌倉幕府~建武政権~室町幕府のあいだには、スタッフの連続性が認められる。後醍醐天皇の人事は、良く言えば堅実、悪く言えば平凡なものだった。
朝廷の政治は、政権を担当する院・天皇と評定衆(議定衆)とが協力して進められていた。政権を勝ちとるために有効な方法と考えられていたのが訴訟制度の充実だった。
訴訟を扱う記録所に訴訟当事者が口頭弁論をする「庭中(ていちゅう)」と呼ばれる法廷を設けた。さらには、院への取り次ぎ役である伝奏(でんそう)を訴訟処理の中枢に起用することで、より早く裁許が出せるよう改善した。
どの政権も、徳政に取り組んでいることをアピールするため、訴訟制度の整備に心血を注いでいた。
日本人は昔から裁判を嫌っていたという俗説が一般化していますが、弁護士を40年以上している私は、決してそんなことはないと日々、実感しています。むしろ、日本人は、文章を書けることがあたりまえだったので、昔から裁判で決着をつけようと考えている人のほうが多かったのです。
鎌倉時代の後期、荘園社会の動揺などから、朝廷に持ち込まれる訴訟が増えていて、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなっていた。
朝廷の公家たちにとって、多くの先例をうち破った後醍醐の斬新で意欲的な政治姿勢など、狂気の政道にすぎなかった。
天皇は、記録神話によると、最高の祭祀者として神聖視される存在であった。そのため、天皇は、退位して上皇になることで初めて、仏教に積極的に関わることが認められた。
南北朝の対立・抗争事件の実情をよく知ることのできる意欲的な新書です。
(2016年7月刊。1000円+税)

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2016年11月21日

忍性

(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版  ミネルヴァ書房

鎌倉時代に、ハンセン病患者に挺身していた高僧がいたのですね。ちっとも知りませんでした。良観房忍性(にんしょう)という僧です。ハンセン病患者の患部に自ら薬を付けるなど、直接的な看護を目指していたというのです。すごいですね。
忍性たちの教団はその時代に10万人近くの信者を獲得し、1500の末寺を保有していた。鎌倉時代、最大の信者数を誇る新興教団だった。その規模は、当時の日本で最大の人口を有していた平安京が12万人ほどと推測されていることからも想像できる。
忍性の生きた時代、すなわち13世紀の後期・末期から14世紀初頭の鎌倉時代は、日蓮や一遍といった鎌倉新仏教僧が活躍した時代であり、また蒙古襲来という未曾有の危機に見舞われた時代でもあった。
忍性は、奈良や鎌倉で精力的にハンセン病患者の救済活動をすすめた。
当時、ハンセン病患者は、人間に非ざる存在(非人)とされ、筆舌に尽くしがたい差別を受けた。前世あるいは現世における悪業によって仏罰を受けた存在だと認識されていた。それは、ハンセン病患者の救済に従事した叡尊らも例外ではなかった。
ハンセン病患者たちは、もっとけがれた存在だと考えられていて、非人と呼ばれ、人々との交際も拒否されていた。そうした彼らに忍性らは救済の手をさしのべた。こうした慈善救済事業と戒律護持の態度などから、忍性は北条時頼、重時、実時ら鎌倉幕府の幕閣たちの尊敬をも集めた。
当時、僧侶の妻帯は一般化していたし、僧兵という、僧侶でありながら武芸を誇る者が多数いた。忍性は戒律を重視し、その護持を誓い、他者にもその護持を求める律僧であるとともに、密教僧でもあった。このころ僧侶の破戒は一般的だった。戒律復興を叫び、戒律護持を勧めた叡尊、忍性らが注目されたこと自体が、そのことを逆説的に証明している。
中世において、僧侶には、官僧と遁世僧という二つのタイプがあった。叡尊らは、不治の病とされたハンセン病患者救済をはじめ、橋・港湾の整備、寺社の修造、尼寺の創出など、さまざまな社会救済事業を行った。その結果、叡尊の教団は、10万をこえる信者を擁する鎌倉時代最大の仏教勢力の一つとなった。
叡尊や忍性らは行基の活動をモデルとしていた。彼らは行基信仰をもっていた。
忍性をライバル視し、激しく批判したのが日蓮だった。忍性と日蓮は、宿敵と思えるほど激しく対立した。その背景には、都市鎌倉での信者をめぐる獲得競争があった。
忍性は、1303年(嘉元元年)7月12日に87歳で亡くなった。
鎌倉時代の社会の実相を再認識させられる本でした。
長年の友人である裁判官からすすめられて読みました。いい本をすすめていただき、ありがとうございました。
(2004年11月刊。2400円+税)

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2015年4月28日

蒙古襲来

                                 (霧山昴)
著者  服部 英雄 、 出版  山川出版社

 蒙古襲来絵詞は有名です。残念ながら、私はその実物を拝見していません。竹崎李長は九州は熊本の武士です。この蒙古合戦での自分の活躍ぶりを絵にして鎌倉まで出かけて褒賞を得ようとしたのです。ですから、この蒙古襲来絵詞も、竹崎李長のコマーシャル、ペーパー(宣伝物)として、いくらか割引いて考える必要があります。それにしても、よく描けていますよね。合戦から10年たって、専門の絵師に書かせたのです。
 もちろん、頼まれた絵師たちが合戦の現場にいたわけはなく、その状況を見てもいません。竹崎李長の注文どおりに、それまでの絵と実物をもとに想像して再現図を描いていったのでしょう。
 竹崎李長の出身は、菊池川の河口にある玉名郡竹崎であって、益城郡竹崎ではない。蒙古軍(東路の高麗軍)は、志賀島を基地・陣営とし、博多湾岸に夜襲を繰り返した。さらには、長門(下関)へ上陸する部隊もいた。そして、遅れて西方に新規の江南軍(旧南宋軍)があらわれ、鷹島に碇泊して、博多湾へ出撃した。当時の軍事行動は、夜戦が多かった。
 7月1日の「神風」は、蒙古軍だけでなく、日本側の船にも多大の被害を与えた。この台風より前に、日本軍の将兵は疲労の限界にあった。しかし、7月5日、志賀島の海上戦に日本軍は勝ち、7月7日にも鷹島で勝利し、蒙古側は敗れた。捕虜は御家人に預けられ、戦後になって高麗は捕虜を厚遇したことについて感謝する国書を日本へ送ってきた。
 蒙古襲来は、近代以前に日本が経験した国内において戦われた最大規模の外国戦争である。当時、中国(宋)は、世界で最高最新の科学の国だった。元のフビライ皇帝は、日本の硫黄以外にも金や米、水銀、真珠、材木などに関心を寄せていて、交易を積極的に推進し、外交も求めたが、鎌倉幕府が反抗する以上は、武力制圧が不可欠だと考えていた。
日本の地方に「トウボウ」とあるのは、チャイナタウンたる唐房・唐坊のことであり、古代中世の日本には、いくつもあった。これまで、九州に14ケ所・山口県に7ケ所ほどの「トウボウ」地名が分かっている。
 この当時は、日本の通貨は宋銭(中国銭)だった。日本は独自の銭貨をつくらずに、中国の銭貨を用いた。
 蒙古軍(高麗軍)は、大宰府の陥落を目標とし、7日間ほど合戦を続けたが、7月1日に「嵐」があり、それを契機として7月末、北風が弱まったあいだに撤退し、帰国した。
 蒙古襲来が撃退されたのは、台風が来たこともあるが、御家人たちが必死の抵抗をしたことによる。蒙古軍は台風によって全滅したのではない。全軍を率いる司令官が早々に日本へ引き揚げたことは大きい。また、日本軍が置ち、負けた蒙古軍をなで切りにしたものでもないだろう。
 『八幡愚童訓』は創作であり、これを史学に使ってはならない。
蒙古襲来絵詞で使われた絵具は部外秘のものである。
馬については、1日に15リットルの水を飲ませて、家分を落ち着かせた。対馬について、高麗や朝鮮は両属域・無境界を認識しながら、意思疎通ができることが必要だった。
 蒙古襲来絵詞の高い評価をもつ所以をしっかり認識することができました。今から700年以上も前の話しではありますが、貴重な体験をした日本は、以降は力に頼る政治がずっと続いていきます。とても残念です。
 
(2014年12月刊。2400円+税)

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2013年1月27日

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館

ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

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2011年12月29日

河内源氏

著者   元木 泰雄 、 出版   中公新書

 目からウロコの落ちる思いのする本でした。
貴族と武士とは、決して対立的な存在ではない。武士は常に王権のもとに結集するのである。それどころか、武士も貴族の一員であり、ともに民衆に対しての支配者であった。
 かつてのように、貴族と武士を対立する階級とみなし、武士が結集して貴族に対抗する武士政権を樹立することを自明とみなしたり、貴族にとって武士は脅威であり、抑圧の対象であるといった、従来の河内源氏の理解は、もはや成りたたない。武士は貴族から生まれた。
実際の貴族は、それほど軟弱ではなかった。五位以上の位階をもつ武士を「軍事貴族」と称する。本来、貴族とは、朝廷において五位以上の位階をもつ者の呼称である。従って武士でも五位以上なら、れっきとした貴族の一員なのである。
武士にとって、力量を侮られることは単に屈辱というだけでなく、敵の攻撃を招いて滅亡する危険さえ有していた。東国武士は武名を重んじざるを得ず、無礼者には報復せざるをえなかった。源氏は、自力救済の世界における敵対関係と、降伏した者への寛容をうまく使い分けていた。
源義家は、朝廷を守る栄光の大将軍と、無用の戦争を繰り広げて残忍な殺戮を繰り返す武士の長者という二つの顔をあわせもつ武将だと貴族から認識されていた。
 源氏の共食いという忌まわしい言葉がある。源義家・義綱兄弟の対立、為義・義朝父子、頼朝・義経兄弟の対立など、河内源氏では内紛が続いた。
 当時、武士でも公家でも、家長が死去したあと、その晩年の正室が後家として亡夫にかわって家長権限を代行するという強い立場にあった。新家長に対して強い発言権を有し、場合によっては廃嫡することさえも可能であった。頼朝没後の北条政子がその典型である。当時も今も、日本の女性は強かったのですよね。
 保元の乱(1156年)。白川殿に結集した武士の中心が為義以下の河内源氏なら、それを攻撃する集団でもっとも中心的な役割を果たし積極的に行動したのも、河内源氏の義朝であった。この合戦は、まさに河内源氏の父子分裂、そして全面衝突の様相を呈した。
 合戦は後白河側の勝利となった。開戦から4時間ほどを要した激闘だった。平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭(うまごんのかみ)に、源義康は検非違使に任じられ、義朝と義康には昇殿が許された。
 平治の乱(1159年)。保元の乱は平安時代で初めて首都で起こった兵乱ではあったが、その戦場になった白河は京外であった。しかし、平治の乱の舞台はケガレを忌避する神聖な空間、左京のど真ん中で発生した。それだけに、人々に与えた衝撃は大きかった。ただし、平治の乱は、源平両氏の大規模な決戦とは言い難い規模でしかない。
 武士と貴族の関係を考えさせられました。
(2011年9月刊。800円+税)

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2011年7月23日

兼好さんの遺言

著者  清川 妙    、 出版  小学館

 いま90歳、現役の講師として活躍中の著者による、読んで元気の出る本です。
 たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえもなく楽しくて、心が慰められることだよ。
 人、死を憎まば、生を愛すべし。
 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
 人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。
 明日をも予測できない生命。死は背後からそっとしのび寄り、無警戒の人をつき落とす。雨がやむまでも待っておれない。いま、この瞬間、一刹那が大事。
 以上、いずれも兼好の言葉です。いいですね。
 著者は40歳のときに物書きとなりました。
 緊張と集中と、強い意思を求められる日々。だけど、原稿を書き終えたあとの達成感と充実感は、何ものにも換えがたい。生きているという実感が心身にみなぎる。
 そうなんですよね。私も目下自分の体験をもとにした小説に挑戦中なんですが、これを書いて考えているときには、生きている、60数年を生きてきたという実感があります。
 カルチャーセンターで講義を受けるとき、講師とは一対一だと思うべし。他の人は意識から消し去ること。自分ひとりが講師と向きあう、個人レッスンだと思わないといけない。そして、頭に浮かんだことを、素直に言葉にして講師と対話すること。
 なーるほど、ですね。そうなんですか。今度、私も、フランス人の講師とそんなつもりで話してみましょう。
 生きている、そのこと自体が、魔法のように不思議なこと。
 死という、目には見えない、しかも動かぬ定めを、創造力という心の目でしかと見定め、覚悟をもとう。そして、この世にある間は、いのちを大切にして、ひたすら生をいとしみ、この世の日々を充実させて生きようではないか。
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは・・・・。
 年を重ねてくると、その智恵は若いときよりまさる。それは、若いときには、その容貌が老人にくらべてまさっているのと同じことなのだ。
 むむむ、なるほど、まったくそのとおりです。これも私が年を取ったから同感できる言葉です。
 物事には、確かに潮時がある。しかし、本当にやりたいことがあるのなら、潮時なんて考えるな。やりたいと思ったときこそ、潮時なのだ。人生はたった一度しかないのだから・・・。
 「徒然草」の原文を読み返してみたくなりました。本当にいい本でした。90歳になっても、こんな本を書けるなんて、実に素晴らしいことです。心から拍手を送ります。

(2011年6月刊。1300円+税)

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2011年6月18日

源頼朝の真像

著者   黒田  日出男   、 出版    角川選書  

 かの有名な源頼朝がどんな顔をしていたのか、少しでも日本史に興味をもつ人なら、知りたいところですよね。著者は日本史の教科書にのっている源頼朝は別人のものだと断定します。それは、室町幕府の将軍であった足利直義(ただよし)の肖像だというのです。しかも、鎌倉時代ではなく14世紀半ばに製作されたとします。ところが、いま福岡で公開されている展覧会でも、依然として源頼朝の顔として紹介されています。学会で通説がひっくり返っても、教科書レベルの書き換えは至難のことのようです。
 では、源頼朝はどんな顔をして人物だったのか。著者は甲斐善光寺にある像が源頼朝だとしています。そして、源頼朝の実子である源実朝像との類似点も指摘されています。なるほど、この二体はまさに親子だと思わせます。似ているんです。
 では、なぜ、甲斐善光寺に源頼朝像が安置されていたのか、その謎を著者は探ります。信濃にあった善光寺を根こそぎ甲斐へ移し、甲府の地に建立したのは武田信玄の宗教的、政治的な大事業だった。そして武田信玄の死後、善光寺如来は京都に入り、そのあと40年ぶりに信濃に帰った。しかし、信濃からもたらされた源頼朝像は、そのまま甲斐善光寺に残っていた。
信濃善光寺は3度炎上したが、甲斐善光寺の大火は1度だけだった。そして、この甲斐善光寺にある源頼朝像の造像を命じたのは北条政子であった。
 通説の源頼朝の顔はいかにも貴族的ですが、甲斐善光寺の源頼朝像はとても人間臭い顔つきです。
眉間を厳しく結んだ目元は、どこか憂いをおびつつも、何かを見すえたような表情を示す。また、厳しく結んだ口元は、意思の強さを感じさせ、頬やあごのしっかりした骨格は、堂々とした貫禄を感じさせる。活動的で威圧的な風格を感じさせる像である。
 なるほど、かなりの人物だと思わせる像であることは間違いありません。そして、実朝像との類似点も指摘されているとおりだと私は思いました。学者って、すごいですね。
(2011年4月刊。1800円+税)

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2011年6月 8日

北条氏と鎌倉幕府

著者    細川  重男  、 出版   講談社選書メチエ

 執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった。
 紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった。
 伊豆時代の北条氏は系譜が正確に伝わるような家ではなかった。北条氏自身ですら、自家の先祖の系譜がよく分からなかったのではないか。
 平安、鎌倉期の武士団は意外に人数が少ない。父子2人に家臣1人とか兄弟2人だけといった、武家団というより、武家親子、武家兄弟とでも言いたくなる豆粒のような武家団も少なくなかった。
 頼朝期には、門葉(もんよう)、家子(いえのこ)、侍(さむらい)の区分があった。門葉は、頼朝の血族を指す。侍とは、頼朝と血縁のない家臣、つまり一般の武士国における郎従である。家子は、一般の御家人たる侍よりも上位に位置づけられている、頼朝によって選抜された側近、親衛隊である。
 鎌倉将軍は、室町将軍の奉公衆や徳川将軍の旗本のような直轄の軍事力を事実上保有しなかった。鎌倉将軍の軍事力とは、各御家人の有する軍事力の集合体であった。
頼朝という重石を失った鎌倉幕府は、激烈な内部抗争の時代を迎える。それは和田合戦まで14年に及び、源平合戦の戦友たちが殺し合った。
暗殺された実朝のイメージは、和歌をたしなむ、おとなしくて、かわいそうな将軍という、なよなよしたイメージがつきまとっていますが、その実相は、けっこう短気で怖いというものだったようです。
北条氏にとって、政子の生んだ実朝は自らの最大の権力基盤だった。だから、実朝暗殺の黒幕が義時らの北条氏であったとは考えにくい。
名執権として高名な北条時頼は、もともと庶子であったため、実は執権としても、北条氏家督としても正統性を欠く存在だった。
文永5年(1268年)初頭以来の蒙古の重圧を背景として、対蒙古戦争を必至とした鎌倉幕府は、臨戦体制の構築を目ざし、時宗への権力集中を急いでいた。
室町・江戸の両幕府と鎌倉幕府の最大の相違点は、将軍が一つの家の世襲とならなかったことにある。
鎌倉将軍は、源氏将軍三代(頼朝、頼家、実朝)、摂家将軍二代(頼経、頼嗣)、親王将軍四代に分けられる。
時宗には国際認識の欠如と野蛮なまでの武力偏重がある。時宗は中国の国書を無視したばかりか、使者を二度斬首し、ひたすら戦闘体制の構築に邁進した。時宗には外交交渉という発想がなく、国際常識をまったく欠いていた。鎌倉幕府には、天皇家や王朝を滅ぼすということは、できもしなかったし、その以前に発想もされなかった。
時宗は、自分が皇統に口出しできる存在であると考えており、実際に皇位の行方を決めた。時宗は皇位をも意のままにする日本国最高実力者であり、帝王にすら憐れみを寄せる超越者だった。
北条氏得宗の鎌倉幕府支配の正統性は、得宗が義時以来の鎌倉将軍の「御後見」たることにあるのであり、このような得宗の政治的・思想的立場からすれば、得宗自身が将軍になるなどという発想が出てこようはずもなく、得宗は将軍になりたくもなければ、なる必要もなかった。
鎌倉将軍は頼朝の後継者であるという観念を具現化した者こそ、七代将軍の源惟康だった。源頼朝の後継者である鎌倉将軍の「御後見」として、北条義時の後継者である得宗は、八幡神の命より鎌倉幕府と天下を統治する。
時宗による「御後見」の実態は、鎌倉幕府の全権力を一身に集中させた独裁者だった。
将軍を擁しつつ将軍権力を自身が行使するという時宗の地位は「将軍権力代行者」と定義できる。君臨すれども統治せざる神聖化した将軍の下で得宗が将軍権力を代行するという政治体制は、鎌倉幕府の歴史と伝統に基づく正統性と権威をもっていた。将軍が存在しながら、北条氏が権力を握っているというわかりにくい政治体制は、煎じ詰めれば頼朝没後の内部抗争に始まる混乱と迷走のあげ句に、なし崩しにできあがったものなのである。
いやあ、実に面白い歴史本でした。こんなことがあるから速読・多読・濫読はやめられないのです。
(2011年4月刊。1500円+税)

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2010年7月16日

歎異抄の謎

著者 五木 寛之、 出版 祥伝社新書

 『歎異抄』(たんにしょう)は不思議な本である。そこには、たくさんの謎はふくまれていて、読めば読むほど迷路にまぎれこんだような気持になることがある。
 初めて読んだときには、がつん、と強い衝撃を受けた。そして、ずっと自分の内側にかかえて生きてきた暗い闇が、明るい光に照らし出されたような気持ちになった。しかし、その後、ことあるごとに読み直すと、次々に新しい疑問がわきあがってきた。
 肝心なところが、どうしてもわからない。『歎異抄』は、いくつもの謎にみちた本である。
 いつ成立したのか、誰が書いたのか、はっきりしない。『歎異抄』には、原文というのが存在しない。
 蓮如によって禁書とされたというのは、違うだろうと著者は言っています。それは、軽々しく他人に見せるなということだろうというのです。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)とは、数ある仏の中でも、わが名を呼ぶ全ての人々を漏れなく救おうという誓いをたて、厳しい修行のもとに悟りを開いた特別の仏である。
 阿弥陀とは、永遠の時間(いのち)、限りなき光明(ひかり)を意味し、その誓いを本願(ほんがん)、その名を呼ぶことを念仏(ねんぶつ)という。
 善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
 善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
 いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢の人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかに頼る者がなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力(たりき)に身を任せようという、絶望のどん底からわき出る必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力(じりき)におぼれる心を改めて、他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるに違いない。
 私たち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちを奪い、それを食することなしには生きえないという根源的な悪を抱えた存在である。
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し、嘆き、他力の光に心から帰依(きえ)する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることが分かってくるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも、往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
 なるほど、分かった、と言いたいところですが、よくよく考えてみると、なかなか難しい言い回しですよね。でも、たまには、こんな根本的な問いかけを自らにしてみるのも大切ですよね。著者の小説『親鸞』を読んで触発されたので、読んでみました。
(2009年12月刊。760円+税)

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