弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

世界(アラブ)

2017年3月 3日

ようこそアラブへ

(霧山昴)
著者 ハムダ なおこ 、 出版  国書刊行会

アラブ首長国連邦(UAE)にすむ日本人女性によるレポートです。大変面白く、一気に読みあげました。なるほど、国が違うと、こんなにも考え方や、習慣が異なるのですね。改めて、よくよく考えさせられました。
もちろん、みんな違って、みんないい、という金子みすずの言葉のとおりなのですが、それを実感し行動するには、自覚的な努力が必要なのだと思います。
著者はUAEの男性と結婚し、UAEで5人の子どもの子育てをしました。ですから、UAEの学校生活の様子も語られるのですが、その試験の厳重さは、日本をはるかに上回っています。
UAEの人口は900万人。ところが、UAEの国民はその1割強の96万人。外国人が圧倒的多数を占めている。
UAEの国と国民に見習いたいことは、人を見る眼と寛容さ。
旅人は3日間は無条件に親切にされる。そして、そのあいだに人間を見抜かれる。
UAEの人が、人間を見る眼は非常に怜悧(れいり)。外部の人間を簡単に信用するようでは、一族を破滅に導いてしまうという厳しい自然・社会環境を生き抜いてきた人々である。
イスラムの国では、コーラン(クルアーン)朗誦を省略する儀式(儀典)はありえない。
そして、朗誦のあと、それにあわせた詩が詠まれる。
商店で買い物するとき、女性は決して店内に入らない。
アラブの人々には素晴らしい能力がある。即応能力であり、即戦力である。どんな状況になっても慌てないし騒がない。流動的な状況を見きわめて、すばやく適切な行動をとる。
アラブでは、出来る人間がやる。神様は担げる人間にしか荷を背負わせない。荷を担げる人間は、担げない人間よりよほど幸福だ。
アラブでは、貸しや借りをその場で清算しようとする人はいない。自分の貸しが、将来、自分に、家族に、部族に、いつかどこかで違った形でも戻ってくると考える。
預言者マホメット(ムハンマド)は、世界でもっとも大切にしなければならないのは母親だと説いた。二番目も、三番目も母親で、四番目にやっと父親が出てくる。アラブ・イスラーム世界で母親をないがしろにする人間は、世間からも社会からも、まったく尊敬されない。
イスラームでもっとも立派な人間とされているのは、自分の家族に優しい人。
イスラームでは出家を禁止している。家族とともに生きて、宗教上の義務をつとめることとされている。
UAEでは、自国民については、幼稚園から大学まで、教育は無償。
アラブ世界では、高校の卒業成績はとても重要で、一生涯、履歴書にのせるほど重視される。公立高校の期末試験は国が問題をつくって厳重な管理・監督の下で試験が実施される。採点も三人が担当し、インチキが出来ないシステムである。
アラブ世界では、高校を卒業したり、病気が治ったり、子どもが生まれたとき、資格をとったときには、周囲の人々へ当人がお祝いを出す。もらうのではない。自分の幸運に感謝して、周りの人々も幸福のおすそ分けをする。
アラブ世界に生きる誇り高き人々の生きざまの一端を知ることのできる、興味深い本でした。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2016年12月刊。1800円+税)

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2016年6月 3日

移ろう中東、変わる日本

(霧山昴)
著者  酒井 啓子 、 出版  みすず書房

2011年に「アラブの春」と呼ばれる大規模な民衆デモが起き、アラブ世界に広がった。ところが、今またアラブ社会そして中東地域を暴力と抑圧が覆っている。
本当に残念な事態です。そこに例のISIS(イスラム国)が進出し、さらに野蛮にかつ強権的に支配しているようです。日本人も何人も殺されてしまいました。一刻も早く、暴力の連鎖を止めてほしいと願うばかりです。
ISISは、今やイギリスと同じほどの領土を支配し、その残虐性、偏狭性、奇抜性に世界は震撼する。理念のない空爆、共通利害のない介入は、ますますISISというモンスターを強大にしている。モンスターの方に理念が、義が、夢があると考える人々が、世界中からISISに集まり、モンスターを支えている。ISIS(イスラム国)が代表する世界は、混沌である。
本来、戦争とは、外交手段が尽くされたときに、最終手段としてやむをえず取られる手段のはず。ところが、中東諸国の国民は、自分たちの指導者がそういう合理的判断ができるかどうか、怪しいと思っている。
いま中東で起きている戦争が厄介なのは、軍特有のルールが通用しない世界が生まれていることにある。そこでは、人ではなく、機械が戦う世界がある。無人偵察機や爆弾処理ロボットが戦力の主軸になっている。
シリアでは、軍は国や国民を守るための暴力装置ではなく、党や政権を守るための組織になってしまっている。
アメリカ国民も、駐留が長引くなかで、帰還兵士から戦場の様子を聞いたりして、戦場の危険とあわせて、現地住民や中東全体で、アメリカ兵への憎しみが募っていることを感じないわけにはいかない。
イラクのサマワに日本の自衛隊が進出したとき、それは民間企業が進出するまでの「つなぎ役」という役割を日本の財界は期待した。しかし、その期待は見事に裏切られた。
イラクへの自衛隊派遣は、対米協力を謳うとともに、イラクで経済利権の獲得につながればと、二兎を追ったものだった。しかし、経済利権については、日本は目的を達成することができなかった。
 日本政府は自衛隊をイラクに派遣するとき、「日本とイラクのため」としたが、本当の目的は対米貢献であり、中東における日本人とイラクの安全に貢献したのではない。
イラン・イラク戦争が長引くなかで、イラクのフセイン政権は、従軍兵士の士気高揚のために、トヨタのスーパーサルーンを贈った。トヨタは、イラク人にとって、長いあいだ富と繁栄の象徴だった。
 コカ・コーラは、エジプトでは1967年から12年間、販売が禁止されていた。アラブ連盟は、1991年までコカ・コーラをボイコットしていた。アラブ世界で長く飲まれてきたのはコカ・コーラではなく、ペプシ・コーラだった。コカ・コーラがアラブ世界でボイコットされたのは、そのイスラエルとの親密な関係からだ。
 中東という複雑な社会をイスラム研究センターで長らく働いてきた学者が分かりやすく解説しています。目が開かされる思いがしました。

(2016年1月刊。3400円+税)

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2014年6月11日

「アラブ500年史」(下)


著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社

 1952年7月、エジプトのファルーク国王は国外へ去った。国王に代わった自由将校団は平均年齢が34歳だった。
 1954年10月、ムスリム同胞団がナセルを暗殺しようとした。しかし、ナセルは銃声にたじろがず、演説をそのまま再開した。ナセルは1954年末から70年に死ぬまで、エジプトの大統領とアラブ世界の総司令官をつとめた。
 モロッコでは、フランスは独自のテロ組織をつくり、ナショナリストを暗殺し、支持者たちを威嚇した。
 1955年8月、アルジェリアではFLN(民族解放戦線)が入植者の村を襲い、男女子ども123人を殺害した。フランス軍は直ちに残酷な報復措置に出て、少なくとも数千人のアルジェリア人を殺害した。
 1956年のスエズ危機は、エジプトにとって、軍事的敗北を政治的勝利に変えた典型的な例だった。ナセルの大胆な言葉と勇気ある抵抗は、どんな軍事的成功にも勝るものだった。
 1950年代にエジプトは地域のもっとも影響力のある国家として頭角をあらわし、ナセルはアラブ世界の文句なしのリーダーになった。ところが、ナセルの目覚ましい成功の進展は、1960年代にしぼんでしまった。
 1962年以降、ナセルはエジプト革命をアラブ社会主義路線に乗せた。ソ連と運命をともにして、その国家主導型経済モデルに従うことにした。
 アルジェリアの独立戦争は、1962年9月のアルジェリア民主人民共和国の樹立まで、8年間、全土で猛威をふるった。100人以上の人々が生命を失った。
 1956年9月、首都アルジェで3発の爆弾が炸裂した。「アルジェの戦い」として知られる激しい作戦の始まりだった。
 1958年には、フランス自体がアルジェリア問題で分裂しつつあった。1954年のフランス軍は6万人だったのが、1965年には50万人と9倍にもふくれあがっていた。フランスの納税者は、巨額の戦費を負担に感じるようになっていた。徴兵されたフランスの若い兵士は言語を絶する恐怖の戦争に巻き込まれたことに気がついた。
 フランスの世論は、フランス兵が第二次大戦中に、野蛮なナチスがフランスのレジスタンス運動を抑圧するのと同じ方法をつかったことを知り、衝撃を受けた。
 アルジェリアの危機は、フランス人共和国そのものを崩壊させる危険があった。そのことに気がついたドゴールは立場を変え、アルジェリアのフランスからの離脱をフランス国民に覚悟させはじめた。そして、ドゴール暗殺計画が企図された。それでも、1962年、アルジェリアの国民投票はほとんど全員一致で独立に賛成した。1962年6月だけで、アルジェリアのフランス人30万人が出国した。
 1967年のナセルにとって、イスラエルとの戦争は、いちばんやりたくないものだった。しかし、自分の成功のせいで、やらざるを得ない羽目に陥っていた。
 1967年の敗北のあと、ナセルは辞職を申し出た。しかし、民衆が、それを阻止した。幻覚から覚めた人々は、アラブ世界において、政府に対するクーデターや革命を引きおこした。
 1967年の戦争で、アメリカがイスラエル側に立って参戦したというナセルの主張は事実無根だった。実際は、まったく逆で、イスラエル軍はアメリカの情報収集艦「リバティー号」を攻撃し、アメリカは多数の死傷者を出した。
 1964年、「ファタハ」のイスラエルに対する作戦は軍事的には失敗だったが、宣伝行動としては成功した。アラブ世界は、波乱に富んだ1970年代に、石油の力によって変貌した。しかし、石油を武器としてつかうのは、言うのはやさしく、行うのは難しい。
 1973年10月、エジプト軍がシナイ半島に進攻し、基地を築いた。「10年戦争」は、外向的勝利でもあった。
 1970年代、テロリスト暴力が吹き荒れるなか、パレスチナ強硬派とイスラエル諜報機関「モサド」の双方とも、積極的に敵を暗殺していった。
 ヨーロッパの軍需企業は、欧米寄りの「穏健な」アラブ諸国に対して、アメリカと競って重火器を売り込んだ。
 1981年10月6日、サダド・エジプト大統領が公衆の面前で兵士たちから暗殺された。
 1983年10月23日、レバノンのベイルートで強力な爆弾が自爆攻撃によって爆発し、300人が死亡した。アメリカ海兵隊の将兵241人、フランス軍の将兵58人がふくまれていた。
PLOの指導者アラファトをイスラエル軍は暗殺しようとした。
 イスラエルの侵攻ほど、レバノンにイスラム原理主義運動を助長した出来事はない。「ヒズボラ」が生まれたのは、イスラエルに負うところが大きい。パレスチナ人は、イスラエル軍との対決で決して武器をとろうとしなかった。非暴力であることが、パレスチナ人のさまざまな運動家を「インティファーダ」に引きつけた。
 アラブ世界の揺れ動く内情を少しでも理解しようと思い、上下2巻の大作に挑戦してみたのです。少しだけ感触を得ることができました。
(2014年1月刊。3300円+税)

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2014年5月29日

「アラブ500年史」(上)


著者  ユージン・ローガン 、 出版  白水社

 アラブの近代史を上・下2巻にまとめた本です。宗教の違いとは、こんなにも大変なことなのか、ついため息を尽きたくなるほどの重苦しさを覚えました。
イギリスによる1917年のイラク・バグダットの解放は、1798年のナポレオンのエジプト解放と何ら変わりがなかった。イギリスは、1916年に軍事同盟国であるフランスとの間で、すでにアラブ世界の分割に同意していた。
 2003年に、アメリカのブッシュ大統領が独裁的なサダム・フセインの支配からイラク国民を解放するために侵略戦争の準備をしていたころ、アラブ人は占領というオオカミが解放という羊の毛皮をまとっているという相変わらずの事実をみんな知っていた。一国の国民の知性を見くびって侵攻するほど、恥ずべきことはない。
 「マムルーク」とは、アラビア語で「所有された者」つまり「奴隷」を意味する。しかし、マムルークは、エリート軍人階級を形成していた。彼らはユーラシア平原やカフカス地方のキリスト教領土からカイロに連行され、そこでイスラム教徒に改宗させられ、武術の訓練を受けた。一人前のマムルークになると、やがて奴隷の身分から解放され、支配階級エリートの仲間入りをする。
マムルークは、白兵戦における究極の戦士だった。1249年にはフランス王ルイ9世の十字軍を敗北させ、1260年にはモンゴル軍をアラブ領土から追い払い、1291年には最後の十字軍をイスラム領土から放遂した。このように、中世最強の軍隊を次々に打倒した。
オスマン人はいろいろなテンでマムルーク人に似ていた。どちらの帝国でも、エリートはキリスト教奴隷の出身者だった。
 マムルークと同じく、オスマン人も奴隷のなかから新兵を補充するという独自の制度を活用した。それは、イエニチェリ(新兵)と呼ばれる最強の歩兵軍団を構成した。
 オスマン帝国の軍国の軍隊や政府内でエリート階級入りするのは、だいたいイエニチェリ出身だった。
 18世紀に入って、オスマン人の世界で、「国民兵」という概念が登場した。それまでの兵士は、奴隷出身の軍人階級と思われていた。労働者や農民から徴用された兵隊(国民兵)という概念は耳新しいものだった。イエニチェリの兵士たちは妻をめとり、息子も「イエニチェリ」に入れるようになった。
 1807年、イエニチェリは反乱を起こし、セリム3世を退位させ、「新式」軍を解隊した。
 マムルークとして、ハイルッディーンは奴隷から政治勢力の最高峰にまで出世した最後の人物だった。
 1875年、オスマン帝国の中央政府は破産宣告寸前だった。この20年間に、オスマン帝国は16ヶ国とのあいだで、総額10億ドルもの借款契約をした。借款が増えるたびに、オスマン帝国の経済は、ヨーロッパのよる経済支配に強く牛耳られるようになっていた。借款が成功しても、自国の経済に充てるための投資にあてることができたのは、わずか1割ほどの2億2550万ドルほどでしかなかった。
 ヨーロッパの帝国主義がアラブ世界の触手を伸ばしはじめたのは、1875年以降のこと。フランス軍のアルジェリア征服が始まった。1847年までに、11万人のヨーロッパ人がアルジェリアに入植した。1870年、25万人のフランス人の入植者をもつアルジェリアは正式にフランス領に併合された。
 イラクで「1920年の革命」として知られる1920年の蜂起は、現代イラク国家のナショナリストの神話の中で、1776年のアメリカ革命に匹敵する特別な地位を占めている。欧米人の大半は1920年の蜂起をまったく知らないが、イラクの小学生たちは、何世代にもわたって、ファルージャ、ルクーバー、ナジャフの町で、外国軍と帝国主義に抗議して立ちあがったナショナリストの英雄たちことを学びながら成長している。
 パレスチナのユダヤ人コミュニティは1882年から1903年にかけて、2万4000人から5万人へと倍増した。さらに1914年までに、ユダヤ人の総人口は8万5000人に達した。
 ユダヤ人の入植と土地購入は委任統治のはじめから、パレスチナに緊張状態を高めた。
 1922年から29年にかけて、7万人ものシオニスト移民がパレスチナにやって来た。そして、ユダヤ民族財団はパレスチナ北部の土地24万エーカーを購入した、移民の急増と土地購入の拡大が1929年にパレスチナでの暴動を次々に起こす原因となった。
 ドイツでナチスが政権をとったあと、移民流入のピークは1935年で、6万2000人が入国した。
 1938年から39年のあいだに、100人以上のアラブ人が死刑を宣告され、30人以上が実際に処刑された。これは、パレスチナ・アラブ人のイギリス支配への抵抗運動だった。
皮肉なことに1930年代、アルジェリアの完全な独立を要求したのは、フランス本国で外国人労働者として働く活動家たちだった。フランスにいる10万人をこえるアルジェリア人労働者たちのなかで政治活動をしていた一握りの人々が、共産党を通じてナショナリズムに肩入れした。
 パレスチナにユダヤ人の民族領土をつくるというシオニストの夢を実現させたイギリス政府に、ユダヤ人入植者が戦争を仕掛けるなんて信じられないだろう。しかし、第二次世界大戦がすすむなかで、イギリスはパレスチナのユダヤ人コミュニティから、ますます攻撃にさらされるようになった。
 複雑怪奇という言葉がぴったりくるアラブ世界の動きとその意義が、生々しく、そして総体として語られています。大変勉強になりました。
(2014年1月刊。3300円+税)

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2012年3月 7日

イスラームの「英雄」サラディン

著者   佐藤 次高 、 出版   講談社学術文庫

 12世紀のアラブ世界で十字軍の侵略に真っ向から対決し、ついにエルサレムを奪回したイスラムの英雄・サラディンの一生を詳しく紹介した本です。とても面白く、最後まで一気に読み通しました。十字軍の内部も決して一枚岩ではありませんでしたが、対するアラブ世界も一枚岩どころか、四分五裂の有り様でした。同じイスラム教徒といっても、やはり主導権争いは激しかったのです。サラディンは12世紀の人です。イラク生まれのクルド人でしたが、30歳でエジプトを手中におさめ、十字軍からエルサレムを奪回したのでした。
 イスラムの世界は中国と並ぶ「書の世界」であり、サラディンの生涯に関する伝記史もかなり豊富である。うむむ、これは知りませんでした。アラビア文字の、あのとらえどころのない字体から、漢字のように書の世界が展開していたなんて夢にも思っていませんでした。
 サラディンは1137(1138)年にイラク北部の町タクリート(今のティクリートでしょうか?)に生まれた。父はクルド人の代官だった。現在、イラク北部からトルコにかけて1500~2000万人のクルド人が住む。アーリア系のイラン人を基礎に、アルメニア、アラブ、トルコ、モンゴル民族の侵入と混血をへて今日のクルド民族が形成された。3分の2がスンニー派、3分の1がシーア派だ。
サラディンの性格として二つのことが言える。一つは、近親者の要求を優先した。サラディンは、兄弟や自分の子どもに厚く報いた。二つ目は、性急には武力を行使せず、忍耐強かった。
サラディンは17人の息子と1人の娘に恵まれた。17人の息子のうち2人は奴隷女に生ませた子どもだった。
 サラディンが十字軍との戦いを続けられたのは、エジプト・シリアの政治的な統一に加えて、エジプトの富を十分に活用することができたからである。
 エジプト経済の基礎は農業にあった。ナイル川の西岸には豊かな農耕地が広がり、個々で生産される農産物が都市の人口を養った。
 エジプトの農民たちは、遊牧民と結託して、しばしば納税拒否の反乱に立ち上がった。農村地帯には、伝統的な遊牧生活をおくるアラブ部族がおり、農民からみれば彼らは機動力と武力をあわせもつ「強い味方」だった。
 イスラム世界では、世代をこえて受け継がれていく固定的な「騎士の身分」は存在しなかった。由緒正しいアラブの血を引く者であれ、よそ者の奴隷兵(マムルーク)であれ、騎馬戦士はすべて騎士(ファーリス)の名で呼ばれた。彼らは、いわば職業的な戦士であって、商人や職人あるいは、農民が騎士にとりたてられる道は開かれていなかった。正規軍を構成する騎士は初めの小規模なイクターを与えられ、スルタンへの忠実な奉仕を続けて戦功をあげれば、やがて軍団を統率するアミールに任じられた。
 アミールはイクター収入を用いて子飼いの騎士を養い、スルタンから出陣の命令が下れば、みずから戦備をととのえ、これらの騎士をひきいて参戦することが義務づけられていた。ヨーロッパの騎士へ与えられた封士は相互の契約にもとづいたが、イスラムの騎士へのイクターの授与はスルタンへの絶対的な服従を前提としていた。
 キリスト教徒の騎士にとって、学問や教養はかえって武勇のさまたげになるとみなされていた。この点は、イスラム社会の通念とは大いに異なっていた。
 ムスリム騎士は軽装であり、十字軍騎士は重装だった。
サラディンは死後に継承されるべき政治体制を確立することなく病没した。自らはスルタンを名乗らなかったことからも明らかなように、国家の首長の地位そのものがあいまいだった。ここに至るまでのアイユーブ朝は、サラディンの個人的な権威や人望によって、かろうじて一つにまとまっていたにすぎない。そのため、人々がサラディンを「スルタン(王)」と呼んだとしても、その権力は、決して絶対的なものではなかった。
 十字軍はアラブ世界に200年も侵略、占領、滞在していたようですが、当然のことながら、最後にはアラブの人によって放遂されました。ムスリムの首長であったサラディンの実像を初めて知ることができました。
(2011年12月刊。960円+税)

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2010年9月11日

ソルハ

著者:帚木蓬生、出版社:あかね書房

 著者の『水神』は福岡県南部を舞台とする感動的な本でした。今回は、ぐっと趣きを変え、遠くてアフガニスタンの地が舞台となっています。タイトルの「ソルハ」とは、アフガニスタンの言語の一つであるダリ語で「平和」を意味します。
 アフガニスタンのカブールに生活する、普通の庶民の家庭で育つ少女が主人公です。少年少女向けの物語ですが、実際には、私たち大人にも面白く読むことが出来ます。私も、最後まで一息で読み通しました。
 著者も恐らくアフガニスタンの現地に足を踏み入れたことはないと思うのですが、実際にそこで生活していたかのような臨場感にあふれています。その筆力は、いつもながら感嘆してしまいます。さすが、たいしたものです。
 そして、著者の優しい目線と柔らかい語り口にも、ほとほと感嘆します。
 今、アメリカはイラクから軸足をアフガニスタンへ移そうとしています。オバマ大統領はアフガニスタンへアメリカ軍の増派を決めていますが、それを批判した司令官を更迭してしまいました。アフガニスタンへ少々増派してもどうにもならないという現実を前にして、アメリカの支配層のなかにも隠しきれない矛盾があるわけです。
 他民族を力で抑え込もうとしても、うまくいくはずがありません。アメリカの野蛮な力の政策は必ずみじめに破綻すると思います。
 そうなんです。どこの民族だってプライドがあるのです。この本は、民族のプライドが子どものころより育まれている現実を思い出させてくれます。そんなアフガニスタンへ日本が自衛隊を派遣するなんて、とんでもないことですよ。武力の前にやることがあります。
 アフガニスタンで今もがんばっておられる、ペシャワール会の中村哲医師のがんばりには、本当に頭が下がります。ときどき西日本新聞に掲載されるアフガニスタンにおけるペシャワール会の活動ぶりに大きな拍手を送ります。最新のレポートは、砂漠で米づくりが出来たというものでした・・・。中村先生、安全と健康には、くれぐれもご注意くださいね。
 子どものころの気持ちを忘れそうになっているあなたに、強く一読をおすすめします。
(2010年4月刊。1400円+税)

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2010年4月13日

人は愛するに足り、真心は信ずるに足る

著者 中村 哲・澤地 久枝、 出版 岩波書店

 実にタイムリーな、いい本です。たくさんの日本人に読まれることを私からも望みます。私からも、と書いたのは、この本の聞き手である澤地久枝さんが、はじめにのところで、アフガニスタンで一人がんばっている中村哲医師のために何か役に立ちたいと考えて、中村哲医師の本をつくり、その本がよく売れるようにつとめ、その印税によって若干なりとも助けたいと思ったからだと書いていることによります。
 そう言えば、私は最近とんとペシャワール会へのカンパをしていないなと反省させられたことでした。
 この本を読んで、初めて知ったことが3つありました。
 その一は、中村医師は最近、流れ弾に当たって負傷したということです。幸い足のけがですんだそうです。しかも、自分で足のケガを2針縫ったというのです。アメリカ軍の「誤爆」という危険もありますよね。中村医師の無事を改めて祈りたいと思います。
 その二は、有名な作家である火野葦平との関係です。中村医師は火野葦平の甥にあたるのでした。中村医師の母は、火野葦平の妹なのです。
 中村医師の父親は戦前の社会主義者で、刑務所にも入れられたことのある人です。そのことは、前に、この欄で紹介したことがあります。
 火野葦平も一時期はマルクス主義に傾倒していたようです。その後、「転向」して戦記作家として有名になりましたが、戦後、そのことを気に病んで、53歳のとき自決したようです。
 その三は、中村医師のプライバシーにかかわることなので伏せておきます。別に変なことではありません。私生活を世間にさらしたくないというご本人の意向を私も尊重したいと思います。
 日本人は、自分の身は針で刺されても飛び上がるけれど、相手の身体は槍で突いても平気だと言う感覚をしている。これをなくさないとだめだ。
 マドラッサというのは、地域の共同体のカナメである、マドラッサで学ぶ子どものタリバンと政治勢力としてのタイバンは違う。国連も、欧米そして日本も、マドラッサつまりモスクを中心にして行われている学校教育は危険思想の中心だと考えている。しかし、地域のアイデンティティのもとなのである。
 マドラッサがないことには、アフガニスタンの地域共同社会というのは成り立たない。いま、ペシャワール会はマドラッサを建てている。そこで、ペシャワール会はタリバンのシンパじゃないかと偏見を持つ人がいる。しかし、イスラムの過激論者は、農村部には発生する土壌がない。ほとんど都市部である。自分の生きる根拠を失った人々が極端な行動に走りやすい。
 ペシャワール会の職員で、日本人の伊藤さんのほかに5人が亡くなった。弾にあたって死んだ人のほかは、事故死。
 ペシャワール会のかんがい事業は、150人の従業員と数十万人の命を預かっている。
 62歳になって、体力の限界を迎えているが、「身から出たサビ」と考えて、一人、アフガニスタンに止まっている。代役は、そう簡単に見つからないと思う。
 アメリカ軍は、アフガニスタンに十万人派兵すると言う。しかし、襲撃されるから地上移動を極度に制限している。そこで、アフガニスタン国軍を育てようとしている。
 ところが、アフガニスタンという国は、イラクより二枚も三枚も上手である。遠からず、自分が育てたアフガン国軍兵士がアメリカ軍と対決する構図になることが大いにありうる。
 中村さん、ぜひ、安全と健康に気をつけて、今後とも大いに頑張ってください。心より応援しています。
 ぜひ、あなたも、この本を買って読んでください。それが、ペシャワール会を助けるのですから……。
 
(2010年3月刊。1900円+税)

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2010年3月 9日

知ってほしいアフガニスタン

著者 レシャード・カレッド、 出版 高文研

 著者はアフガニスタン出身のお医者さんです。今は日本に帰化して、静岡県の島田市で医師会長をしておられます。たいしたものですね。
 NGO「カレーズの会」の理事長として、アフガニスタンに診療所を開いて治療にあたっているといいます。ペシャワール会の中村哲医師といい、このレシャード・カレッドさんといい、その並々ならぬご努力に対して心より敬意を表します。
 先日、「ペシャワール会」の伊藤さんがアフガニスタンで不幸にも殺害されてしまいましたが、この伊藤さんも初めは「カレーズの会」の所属でした。農業の分野で貢献したいという本人の希望により、「ペシャワール会」への移籍をすすめたということです。善意が時として戦争の中で通じなくなるという不幸なことが起きてしまって残念です。
レシャード・カレットさんは生粋のアフガニスタン人ですが、日本に関心を持って大学生の時に日本に渡ってきて、千葉大学そして京都大学で医学を学んで、医師になったのでした。なれない日本語を身につけ、たくさんのアルバイトをして苦学していたことが書かれていますが、本当に大変だったと思います。
 そして、アフガニスタンを見捨てることなく、現地でも診療活動を続け、ついに診療所まで建てたのです。大変治安の悪くなっているアフガニスタンでも、この「カレーズの会」の診療所にはアフガニスタン人の患者が殺到していると言います。地元の人々の絶大なる信頼を得ているわけです。
 日本政府は、自衛隊なんかアフガニスタンへ送るのではなく、このような「カレーズの会」や「ペシャワール会」への援助を大々的にしたら、どれだけ現地の人々に喜ばれることでしょうか。
 アメリカでオバマ政権が誕生しても、日本で民主党政権が生まれても、チェンジ(変化)が起きず、相変わらず軍事制圧しか考えないと言うのは悲しすぎます。
 お前は甘っちょろいという人がいるかもしれません。でも、戦火をくぐってボランティアで献身しているレシャード・カレッド医師は何と言っているでしょうか……。
 どんなに困難であっても、アフガニスタンは復興を目指して歩んでいかねばならない。当然、多くの国々から支援を続けていただかなくてはならないが、その支援はあくまでも武力を使っての援助ではなく、非軍事的な手段で平和構築に貢献してもらうことである。
 今のところ日本は、アフガニスタンでもっとも信頼が厚く、信用のある国です。その日本の役割は、カンボジアや東ティモールで実績をあげた『対話路線』を推進することであると確信している。すなわち、日本がカンボジアでの道路整備をPKOで行ったように、農業や飲料水の確保、ダム等の建設、空港や鉄道などのインフラ整備を、軍事的な手段を使うことなく進めていったら、それはアフガニスタン国民に対する友情の賜物として深く感謝され、かつ賞賛されることだろう。
 まさに、この通りではないでしょうか。アメリカ軍の後ろに自衛隊がのこのこと尾いていくというのこそ、最悪の事態です。そして、それは日本の治安悪化までもたらしかねません。多くの人に、ご一読をおすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)

 チューリップがいよいよ咲き始めました。先発隊ですね。今5本がピンクの花弁を閉じています。庭の数区画に球根500個をまとめて植えています。今月末から4月上旬にかけて我が家はミニミニハウステンボスとなります。
 青紫色のヒヤシンス、朱色のクリスマスローズ、白とピンクのクロッカス、紫色のツルニチニチソウそして可憐な黄水仙が庭のあちこちで咲いています。
 そして春にはウグイスです。ずいぶん上手くなりました。ホーホケキョと住んだ泣き声を聞きながら花々を見ると春到来を実感します。

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2009年9月23日

イスラエル

著者 臼杵 陽、 出版 岩波新書

 ユダヤ人といっても東欧、ロシア出身の「白人」からエチオピア系の「黒人」まで様々である。アシュケナジームは、ドイツ系ユダヤ人。スファラディームはスペイン系ユダヤ人。エチオピア系ユダヤ人は10万人。貧困層が多く黒い肌の色のために差別されている。そしてイスラエル人口の2割が超正統派ユダヤ教徒である。
 イスラエルには建国前からこの他に住んでいるアラブ人が人口の2割近くもいる。イスラエルの人口は737万人。そのうちアラブ人が148万人いる。740万人に対して150万人だから、アラブ人の占める比率は決して小さいとは言えない。イスラエルに居住するアラブ人はイスラエル国家と文化に決して同化しようとはしない。
 世界で最大のユダヤ人口を擁する国家はアメリカである。アメリカには650万人のユダヤ人がいる。
 イスラエルには憲法がない。憲法に変わる基本法はある。ユダヤ国家においてユダヤ教をどのように位置づけるかを巡ってユダヤ教宗教勢力と世俗勢力が激しく対立し妥協を見出せなかった。そのために憲法を制定することができなかった。
イスラエルの独立宣言はユダヤ国家であると同時に民主国家であると規定している。イスラエル大統領は国事行事を行う国家元首であるが、実権を持たない名誉職である。
 イスラエル建国後の大規模なユダヤ人新移民のほとんどではシオニズムという政治イデオロギーとは無縁の人々だった。そのため、建国前のシオニズムの考え方に共鳴してやって来たユダヤ人移民の性格を根底から変えた。
 1950年代に入ってモロッコ系ユダヤ人(ミズラヒム)が大量に移民してきた。ホロコーストの悲劇を経験しておらず、シオニズムのイデオロギーも信奉せず、モロッコ社会で培われた独自のユダヤ教信仰を持っており、イスラエル社会では異質の人々であった。このようなホロコーストを体験していない人々をイスラエル人として国民統合すべく政治的に利用されたのがホロコーストの神話であり、アイヒマン裁判であった。
 1960年代を通じてホロコーストは、イスラエルの国民統合にとって不可欠なシンボルへ昇格した。というのも、シオニズムがイスラエル国民を統合するためのシンボルとはなりえなったからである。
 1995年11月オスロ合意に調印したラビン首相は和平に反対する熱狂的なユダヤ人青年によって暗殺された。
 私は、このとき、ちょうどデンマークかどこか、ヨーロッパの都市にいました。また戦争が始まる。そんな不安へかき立てられたことをよく覚えています。
 2005年11月、労働党の党首にモロッコ出身のペレツが選出された。
 それまで労働党の支持者はキブツ居住者と都市中間層を中心にする高学歴の欧米系ユダヤ人だった。他方、リクード党は地方都市在住で、中東イスラーム世界出身の貧困層だという大まかな図式があった。それも壊れつつある。
 大きな内部矛盾を抱えるイスラエルという国を垣間見ることができました。

(2009年4月刊。780円+税)

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2009年1月18日

空爆と「復興」

著者:中村 哲、 発行:石国社

 9.11あとのアフガニスタンにおける、著者を現地代表とするペシャワール会の困難な活動が紹介されています。伊藤さんが殺害される前の活動状況ですが、今でもその意義は高く評価できるものです。同じ福岡県人として中村医師の活動に心より敬意を表したいと思いますし、わが郷土の誇りです。
 2001年1月、大干魃によって死に瀕しているアフガニスタンを国際社会は見捨て、援助どころか国連制裁を実行した。
 アフガニスタンの権力の基盤は、各地域のジルガ(長老会=伝統的自治組織)にある。階層的に、より大きなジルガがつくられ、大事な決定はそこで行われる。タリバン政権といっても、日本で言われているような「ひと握りの圧制者」対「民衆」という図式は成り立たない。タリバンを受け入れるかどうかも、ジルガが決めたものであり、人々の平和を求める声が政権を支えていた。暴力に対して暴力で報復するのではなく、少なくとも人が餓死するような状態を解消しなければ、テロは根絶できない。
 タリバン政権は、いってみれば非常に古風な農村社会を代表する「田舎政権」そのものなのである。アフガン社会を律するのは、地縁と血縁である。そして、強固な伝統社会を底辺から支えている、もっとも強力なパワーは女性である。ともすれば妥協しがちなアフガン男性の尻を、「あんた、それでも男か」と叩いているのが、アフガンの女性なのだ。これが、どこの村でも見られる光景である。抑圧されているようで、実はアフガン社会をコントロールしているのは女性なのである。
アフガニスタンにおける対日感情、日本に対する信頼というのは、絶大なものがあった。それが、日本の自衛隊が軍事行為、報復に参加することによって損なわれる可能性がある。自衛隊派遣は有害無益である。著者たちが十数年かけて営々と築いてきた日本に対する信頼感が現実をふまえないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去る危険が現実のものになろうとしている。
日本の国際貢献は、軍事力によらず、アフガン社会の再建に平和的に寄与することにあるべきです。
 ペシャワール会の目標は、平和な自給自足の農村を回復すること、それだけである。教育の破綻しかけた(日本のことでしょう)が外国に教育支援するなど冗談にもほどがある。現地のことわざに「アフガニスタンでは、カネがなくても食っていける」といい、「アフガン人に半人前はいない」という。精神はカネでは買えない。独立不羈の気風がアフガニスタンの屋台骨だ。
 目先の利にさとく、強いものには媚び、衆をたのんで弱い者には居丈高になるのは見苦しいこと。自分の身は針でつつかれても飛びあがるが、他人の身は槍で突き刺しても平気。かつての日本でも、こういう人間は嫌われた。
 あるアメリカ士官が、「タリバン兵は、昼はフツーの農民の顔をしており、夜になると凶暴な攻撃者に変わる」と言ったが、そのとおりである。
 アメリカ軍がいる限り、カルザイ政権は国家統一ができない。しかし、アメリカ軍が去ったら、即座に国家は崩壊する。そんな矛盾の中でカルザイ政権は延命している。
 ペシャワール会のような地道な活動こそ日本政府は支えるべきであって、自衛隊を派遣するなんて愚の骨頂だとつくづく思います。中村医師の安全を心より願っています。

(2004年7月刊。1800円+税)

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