福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

世界(フランス)

2007年03月26日

ブドウ畑で長靴をはいて

著者:新井順子、出版社:集英社インターナショナル
 ロワール地方にはたくさんのシャトーがあります。ブロワ城や有名なシュノンソー城もロワール河の支流シェール川沿いにあります。そのシェール河近くに日本人女性がワイン畑のオーナーとなり、無農薬でブドウを栽培してワインをつくっているのです。すごーい。日本女性をまたまた見直しました。
 1ヘクタールに6000本のブドウの樹が植わり、8ヘクタールのうち2ヘクタールは休耕地になっているから、6ヘクタールだと3万6000本。これを一本一本、手で剪定していく。一本の樹に5分から15分かかる。
 ブドウの赤ちゃんに「元気に育ってね。たくさんお世話するからね」と話しかける。ブドウの樹は人間よりずっと頭がいいから、フランス語でも日本語でも分かる。
 ブドウの樹は6月ころ花を咲かせ始める。気がつかないほど小さな白い花がプチプチ咲く。とても愛らしい。花が咲いて100日後にブドウの収穫が始まる。花が咲くと、その年の収量を調整するため芽かき作業をする。一本の樹から多くて10房までとした。ゴメンナサイネと謝りながら、残酷にもブドウの芽を摘んでいく。
 ワイン用の樹は小さく育て、皮を厚く実を小粒にして糖度を上げていく。
 8月は放っておいてもブドウが熟成するので、ワイナリーはバカンスをとる。
 ブドウジュースを樽に移し替えるとすぐに発酵が始まる。
 「チチチチ・・・・」
 木樽に耳を当てていると、発酵の始まった音が聞こえてきた。ワインが息をしはじめ、発酵が健全に動き出した証拠だ。音で確認できる。
 足踏み作業は醸造の大切な過程だ。水着の上にTシャツを着て、素足で開放桶に飛びこむ。ズボボボーと足がブドウの粒の中に沈んでいく。踏むというより、まるで底なし沼でもがいているようだ。それも酸欠状態で。笑いごとではない。桶の中にいる人間は要注意だ。ときどき桶から顔を出して息継ぎする。
 著者はスポーツ・ウーマンでもあります。19歳から29歳までの10年間、空手にいそしみ、3段をとっています。お稽古事にもいろいろ手を出しました。料理、華道、茶道、着付け教室、そしてワインスクールに通うようになったのが、彼女の運命を決めたのです。
 一級テイスターに合格第1号でした。なにしろ、1時間で15アイテムのワインをブラインド・テイスティングで14アイテム以上の銘柄を正解しないと合格できないというのです。よほど繊細な舌をもっているのでしょうね。私などは、これがまったくダメです。コンビニの安ワインの方を高級ワインよりおいしいと思ってしまうほどの舌でしかありません。残念です。年に4000本から6000本のワインをテイスティングしたというのですから、さすがプロを目ざす人は違います。
 彼女は、ワインは自分でお金を出して飲みなさいとすすめています。
 生徒の前に3つのコップがおかれる。どれも一見すると、タダの水。一杯を飲む。なんともない。2杯目、うむ、なんかある。3杯目、いよいよ何かある。3杯目のコップに何も感じなかったら鑑定家のプロになる資格はない。2番目のコップには、1リットルあたり1ミリグラムの砂糖が入っており、3番目のコップには3ミリグラムの砂糖が入っていた。これが分からないような舌では、まるでつかいものにならない。うーむ、厳しいんですね。恐らく私はダメでしょうね。
 丹精こめてブドウの樹を育て、心をこめてワインをつくっている姿が写真と文章でしっかり伝わってきます。実にうらやましい。生き生きした笑顔が輝いています。一度、彼女のワインを飲んでみたくなりました。
 庭にチューリップの花が50本ほど咲いています。まだまだ、これからが本番です。ピンクに白いふちどりのあるチューリップの花に気品を感じます。クロッカスの白い花、青紫色のムスカリの花が並んで咲いてくれました。お互いにひきたてあっています。まさに春到来です。雨戸を開けて庭を見るのが毎朝、楽しみです。
 

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2007年06月15日

フランス父親事情

著者:浅野素女、出版社:築地書館
 フランスは日本と違って出生率を回復しています。EU諸国の平均が1.5に対して、フランスは2.0です。いろんな出産優遇措置の成果だとされています。
 たとえば、2002年から、父親手帳なるものが誕生し、父親にも2週間の出産休暇が認められました。先の大統領選挙で惜敗した社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルが家族・児童担当大臣だったときにスタートした制度です。父親学級だってあります。妻の出産に立ち会うのも、今や普通のことです。私は3人の子どもたちの出産に一度も立ち会ったことがありません。いつも、部屋の外で待っていました。
 フランスでは、2人に1人の子どもが婚姻関係にない父親から生まれる。フランスでは、生まれたときの名前が生涯を通じての正式名であり、日本のように結婚して名前が変わるという制度はない。
 2006年には、100組のカップルのうち42組が離婚する計算となる。カップルの寿命はますます短くなる傾向にある。1990年に共同生活を始めたカップルの15%が5年後に別れ、10年後には30%が別れている。
 中絶権は、女性たちの手にあり、父親の意思が反映される余地はまったくない。
 いまや、世界の真理は女性たちの手に握られている。そして、男たちは表面上は女性に対する理解にあふれている。だが内心、男たちは、戦々恐々、強くなった女性たちに畏れをなしている。
 父親の2週間の出産休暇は、3人に2人が活用している。このとき、給料の8割が保証される。これって、いい制度ですよね。うらやましいですね。
 父親は、子どもの前に、「他者」として立ちはだかる最初の人間だ。一方的に、母親の伴侶としての現実の父親の存在があって、もう一方に、頭の中につくられる父親像がある。むしろ、頭の中でつくりあげられた父親のイメージを通して、息子たちは、今度は自分が父親になるのである。なーるほど、ですね。
 フランスには、パクス(市民連帯契約)という制度があります。
 同性カップル、男女のカップルでも結婚したくないけれど、ある程度の社会的認知や保護がほしいときに有効です。これは結婚とちがって、市役所を通さず、裁判所の書記官を通すこと、ひとりの一方的な決断だけで契約解消できること、双方が自動的な遺産相続人とはならないことが大きな違いです。健康保険や税金面では、婚姻関係にあるカップルと同じ優遇措置が受けられます。
 うむむ、これはすごいですね。日本ではまったく考えられませんよね。日本の少子化を政府が本気で心配するのなら、若い人たちが安心して子どもを産んで育てられる環境をととのえるべきだと思います。その点が今の日本にはまったく欠けています。

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2007年11月14日

ある日、あなたが陪審員になったら・・・

著者:オリヴィエ・シロンディン、出版社:信山社
 フランス重罪院のしくみ、というサブ・タイトルがついています。日本の裁判員制度にフランスの陪審制は参考になるという紹介がありましたので、フランス語が少々できる私としてはぜひ読んでみようと思った次第です。
 フランスでは、毎年2万人ほどの市民が陪審員になるべく招集される。1978年以来、選挙人名簿に登録された23歳以上のすべての市民は陪審員に任命される可能性がある。パリだと1800人、その他の県だと人口1300人に1人の割合で選出される。
 市長は公衆の面前で、選挙人名簿をもとに23歳以上の人からくじを引いて、定数の3倍までしぼりこむ。そこから、法曹三者などから成る委員会が不適格者を除外する。そして、2度目のくじ引きが裁判の始まる30日前までに行われる。これも公開の法廷でのくじ引き。40人と予備員12人を選び、期日に召喚される。そして、開廷日の初日に3度目のくじ引きとなる。
 重罪院は、3ヶ月に一度、2週間の開廷期で開かれる。
 陪審員は、5年間のうち一開廷に限られる。
 人を裁くなんて、神以外の誰にもできるはずがないと言われた。私が人を裁くなんてできるはずがないと思ったし、自分の意見をもつのも得意ではないので悩んだ。それでも、政治意識から召喚を拒否しなかった。
 理由なく陪審員が欠席したら、3750ユーロの罰金が科される。
 困難な任務にもかかわらず、いつも陪審員の熱意と真面目さと努力に驚かされる。
 もし重罪院が舞台なら、そこで演じられているのは悲劇だ。陪審員のなかには、泣いたり、気を失ったり、部屋を出てもいいかと頼む者がよく出てくる。救急車が重罪院に頻繁にやって来る。
 陪審員は、あなたは心底から確信しているか、と自らに問いかける。
 評議室は閉ざされ、出入り口は守衛によって警備される。評議室から出ることはできず、トイレに行くときも、警備員が付き添う。外部からの接触は一切排除される。
 ここは、人間がふだんの自分以上の、崇高な存在になれる場所なのだ。
 陪審員による投票は2回に分けて行われる。まずは有罪か無罪かについて。そして有罪と決まったときには、量刑について投票する。有罪についての評決は12人のうち8票の多数を必要とする。量刑については7票でもいいが、法定刑の最長期の刑を言い渡すときには8票を要する。ちなみに、フランスは死刑判決はない。
 フランスの弁護士は3万9000人いるが、刑事弁護士と呼ばれるごく少数が重罪院で活動している。
 重罪院にかかった事件のうち無罪になるのは7%。2002年から無罪判決に対して検事長は控訴することができるようになった。控訴率は24%。
 2002年に重罪院の判決は2825件だった。17%は故殺、13%は凶器所持強盗、52%が強姦事件。
 いろいろ勉強になりました。イラスト入りでかかれた読みやすい本です。
(2005年11月刊、3200円)

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2008年04月21日

シェフの哲学

著者:ギイ・マルタン、出版社:白水社
 パリの三ツ星レストラン『グラン・ヴェフール』のシェフが語った美味しい話です。読むだけで思わずよだれがこぼれ落ちてきます。フランス人は食に人生をかけているのです。
 私がフランスが好きなのは、そこに魅かれるのです。あっ、中国人も食を大切にしていますよね。それに比べてアメリカ人って、なんであんなに食事を粗末にするのでしょうけ。ファーストフードなんて、身体にも良くありませんよ。
 原産地証明つきの食材でしか仕事をしない。そのためには納入業者の質が重要だ。その質こそが食文化を洗練するための基礎になる。そして、もっとも時宜にかなった最良の食材を探し求める。季節の移り変わりに完全に合致した旬の食材追求を片時も中断してはならない。これには、強い好奇心が必要だ。
 著者は冷凍魚や長期にわたって氷漬けになっていた魚は断固拒否します。ブルターニュや地中海から直接に取り寄せたものですし、養殖物ではありません。
 食材のなかの最良のものを探し出すのが、シェフの挑戦なのだ。
 な、なーるほど。やっぱり、まずは素材なんですね。インチキ産地はいけません。
 人は単に食べるためだけにレストランにやって来るのではない。期待にみち、喜びを求めてやって来る。だから料理には、香り、味わい、彩りはもとより、質感、たとえばぐっと凝固しているとかスポンジ状であるとか、蜂の巣状であるといった姿。さらに柔らかい、溶ろける、パリパリした、カリカリしたという食感が求められている。
 料理は、感覚全体、つまり味覚は当然のこととして、さらに嗅覚、視覚、触覚そして聴覚の五感で賞味されるものだ。シェフはこんなあらゆる要求を満足させるように、あらゆる期待感を呼び起こすように自分だけのレシピを入念に仕上げる。
 シェフは幸福を売るセールスマンのようなものである。
 多くのシェフと違って、著者はゼロから始めました。業界内にコネはなく、家系も別にありません。今日の有名シェフの多くは、その両親もこの業界に身を置いていたそうです。
 プロフェッショナルな試食・試飲は、冷静に、技術的に、客観的に行われなければならない。著者が自店でつかうすべての食材をパリで試食・試飲するのは、そのためだ。余人を交えずに比較し、メモをとり、議論し、最後に自分たちだけで決める。
 たとえば、フォワグラの生産者が売り込んできたら、その鴨はどのように飼育されたのか、どこから来た鴨か、何日間肥育したのか、肥育にはどのような穀物のどのバリエーションをつかったのか、その原産地はどこか、などを訊く。それに答えられなかったら、話はそこで終わる。それに詳しい説明ができたら、その人が有機農法規則にしたがって仕事をしていたら、見本を求める。そして試食してみる。見本をみて、このフォワグラは、処理場まで生きたまま運ばれたのか、殺されて処理場で取り出されたのか、などを確認する。
 うむむ、おぬし、そこまでやるか・・・。驚きました。
 私はフランス料理のなかでは、リ・ド・ヴォーが大好物なのですが、日本ではなかなかめぐりあうことができません。もし、あなたがリ・ド・ヴォーを食べたことがなかったら、一度、挑戦してみてください。もちろん、人によって好きじゃないということになるかもしれませんが・・・。
 厨房では、舞台裏と同じく、秩序ある興奮が支配していなければならない。
 料理という芸術を実践することは、毎日、綱渡りをしているようなものなのだ。シェフは独奏者であると同時に、オーケストラの指揮者でもある。常に自分の協力者たちの真ん中にいて、ジュを味わい、火入れの加減を確認するまさにその瞬間に、これから起こることを想定し、うまくいかないであろうと思えることを見分け、修正し、改めて必要な説明を行ない、安定して質的に統一されたやり方で、正確なリズムをチームにもたらすことができなければならない。
 もし、シェフが美食の殿堂の警護を自認するなら、それぞれの皿のごく細かい部分までコントロールしなければならず、料理人たちの驚きを誘うことにこだわりながら、新しいレシピを構成しなければならない。そのためには、まず何をおいてもオリジナリティ、創造性、新しいアイデアが不可欠である。
 あらゆる料理は、いくつ作っても同じ出来でなければならない。シェフと同等と考えられているセカンドたちと、スー・シェフは、シェフが不在であっても、火入れの加減、香り付け、盛り付けを変えることなく、それぞれのレシピが料理できなければならない。
 シェフの協力者たちは、単に創造のプロセスを全体として理解しているだけでなく、シェフ固有の感受性にいたるまで、ミリ単位ですべてを転写するように、また、シェフのどんな細かい眼差しの違いにもいちいち対応させられるように同化していなければならない。
 うひょー、これってすごいことですよね。たしかに、毎回ちがった味では困ります。といっても、マックといったファーストフード店のように、全世界どこでも同じ味つけというのはいやですね。私はマックは食べません。合成的な味つけに舌を慣らしたくないからです。あんなものを食べるくらいなら、メロンパンにしておきます。
 フォワグラは、曲げの力を加えたときに割れずに曲げられなければならないし、かといって、あまりにも柔軟であり過ぎてもいけない。つまり、固すぎても柔らかすぎてもよろしくない。その次に、見た目、色、肌理(きめ)が検証される。目に快い仕上がりでなければならない。小さな粒子感があって、高密度に締まっており胆汁の痕跡は無視できる程度でなければならない。
 料理人には味覚がもっとも重要だ。味覚を訓練し、繊細なものにしていかなければならない。これは一朝一夕ではつくり出せない。さまざまな味に徐々になじんでいく必要がある。繊細な舌、繊細な味覚をもつというのは、必ずしも生まれつきの才能ではなく、勉強であり、一つ一つの味や匂いを記憶していくことだ。薫り(アローム)は、個々の食材や香辛料の香りがきわめて複雑にまざりあって出来あがっているものだが、シェフであるからには、さまざまな香辛料を含んだ料理を味わったとき、直接的に何がつかわれているかを識別できなければならないし、つかわれた主な香辛料は何か、これをだいたい把握出来なければいけない。
 むひゃあ、すごーい。とても私にはできそうもありません。さすが三ツ星レストランのシェフですね。そのプライドがよく伝わってくる本です。
 高級レストランの経営も大変なんだという話も出てきます。こんなお店で、気のおけない友だちとおしゃべりしながら美味しく味わいたい、そんな本です。
(2008年2月刊。2700円+税)

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2008年08月04日

「情熱のシェフ」

著者:神山典士、出版社:講談社
 福岡出身のシェフがフランスでミシュランの星を獲得しました。それも、わずか28歳とは、恐るべきことです。この本は、その若きオーナー・シェフである松嶋啓介の足どりを丹念に追いかけています。いやあ、プロの料理人(シェフ)というのは、すごいものです。一度は、ぜひとも味わってみたいものです。
 この本の人物紹介を紹介します。
 1977年に福岡県で生まれる。高校を卒業したあと、上京し、料理学校「エコール辻東京」に学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」などで働いたあと、20歳でフランスへ渡る。フランス国内で修業を重ね、南仏ニースに2002年12月、25歳のとき自分の店
「Kei’s Passion」をオープン。素材の魅力を存分に生かした斬新な料理が話題を呼び、3年後の2006年、28歳でミシュラン一つ星を獲得した。
 その後、店を拡張し、「KEISUKE MATSUSHIMA」に改めた。近く東京にも進出する。
 ケイは、食材の組み合わせは基本的なものであっても、完成したときに意外性を出す。料理はエンタテイメントなのだから、「驚き」は大切な要素だ。
 まずは食材・素材ありき。食材に対する感動こそ、料理人に対する最大の賛辞となる。料理人は、ある意味で、生産者の通訳である。
 ケイは味覚を複雑にせず、食材の良さを前面に出すような作品を心がける。その代わり、シンプルな料理は味覚の組み立てが完璧でなければいけない。
 ケイにとって料理をつくるのも楽しいことだが、一番うれしいのはフロアーに出て客から「メルシー」と言われた瞬間だ。料理は、自分のためではなく、人に喜んでもらうためにこそある。
 ケイの父は福岡市城南区に住む団塊世代の営業マン。祖父は太宰府に住む。1000坪の農地でニワトリを飼っていた。
 ケイは子どものころ、やんちゃの一言に尽きる悪さ坊主だった。ただし、味覚の良さは抜群だったし、母親はいつも手づくりの料理で、冷凍食品はめったにつかわなかった。
 ケイは東京で調理師学校に通うかたわら、東京の有名レストランを見てまわった。
 ニースのレストランが居抜きで1000万円に売りに出されるのを買ったのです。すごい決断ですね。24歳のときです。25歳の誕生日に店はオープンしました。20歳でフランスに渡って、わずか4年でフランスで店を構えるというのですから、その実行力と決断力は常識はずれのものがあります。
 しかも、開店して3日目には22席が満席になったというのです。
 今や、夏に月商13万ユーロ(2100万円)、冬でも10万ユーロ(1600万円)。1日の売上が平均4000ユーロです。店は150平方メートル(45坪)です。フロアと調理場をあわせて17人。うち日本人が6人(19万円の給与)、フランス人11人。平均年齢は、なんと22.6歳。最年少は15歳。調理場にも16歳2人、17歳、19歳がいる。ニースの料理学校から実習に来ている少年少女たち。
 ところが、スタッフの確保と養成は大変なようです。
 毎朝、市場にまで買い出しに行って、そこで生産者と顔を合わせながら、食材を自分の目で選び、その食材に合わせて料理を考えるというケイのスタイルに大いに魅かれるものがありました。これからも大いに活躍してほしい日本人、いえ福岡県人です。
(2008年6月刊。1700円+税)

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2008年08月11日

美食のテロノロジー

著者:辻 芳樹、出版社:文藝春秋
 いやあ、実に美味しい本です。本ごと食べてしまいそうになります。美食の極みですね。ぜひ一度は味わってみたいと思います。でも、たとえばオーストラリアのシドニーにある「テツヤ」という店は、世界でもっとも予約のとれないレストランだというのですから、この本の写真を見てよだれをたらすだけで我慢することにしましょう。
 「テツヤ」は4人の専任スタッフが常駐して予約を受けつけているのに、いつも6ヶ月先まで120席が予約で埋まっている。キャンセル待ちのウェイティングリストにも常時100人いる。うへーっ、恐れいりました。でも、行ってみたいですよ。
 オーナーシェフの和久田哲也は、フランスの雑誌の選んだ世界の三大シェフの一人である。あとの2人は、アラン・デュカスとフェラン・アドリア。アラン・デュカスは私も名前だけは知っています。
 ところが、この和久田哲也は、初めから料理の道を志していたわけではなかった。ワーキング・ホリデーを利用して、22歳のときにシドニーへ渡った。そして、皿洗いから、魚をおろす仕事に移り、工夫しているのが認められて、やがてシェフのアシスタントをしているうちに、料理の基本を叩きこまれた。
 娘の結婚式のレセプション用に200人分の寿司を握ってほしいとシェフに頼まれ、お寿司の雰囲気を感じとれる「かわりずし」を発案した。シャリは型で抜いて、その上に、たたきにした仔牛や、タルタル風にしたマグロをのせる。表面が乾かず、旨みをのせるためオリーブオイルとマヨネーズをつかった。そして、2日間、寝ないで、1人で500個の「寿司」をつくった。仕上がりが美しく、美味しいと大評判をとった。す、すごーい。すごいです。そして、いかにもおいしそうじゃあ、ありませんか。食べてみたいです。私がシカゴの大ローファームに行ったときに出された、とびきり美味しい寿司を思い出してしまいました。アボガド巻きのごまかしばかりではありませんでした。もう20年ほども前のことです。
 試作して納得した料理しかメニューにのせたくなかったので、毎日、試作に明け暮れた。
 店では、一晩に2500皿をつくり、並行して、その場で客の注文を受けての料理も出す。試作品は、まず哲也が1人でつくる。それを2人のシェフに試作させる。次に、シェフがスーシェフに教える。そのスーシェフがつくったものを哲也が食べる。こうやって第三者的な目で見る。
 哲也は、必ず味見をするようにシェフたちに求める。何百回つくっていようと、味見は大事である。味見をしない人間は、料理を単なる作業としか考えていない。パッションのない人間は味見をしない。ふむふむ、なるほど、そういうことなのですね。納得です。
 ミェル・ブラスは料理人にとって必要な資質について、次のように語った。
 繊細な感性が大事だ。料理は写真であるし、建築であるし、科学であるし、感動であるし、幸福である。豊かな感性であればあるほど、その表現は豊かになる。
 2007年。フランス人の料理人の所得番付によると、アラン・デュカスが飛びっきりの1位。2位は、ジョエル・ロブション。その差は大きい。
 アラン・デュカスは33歳で3つ星を獲得した。それ以降、18年間に、3つ星レストラン3ヶ所、1つ星レストラン3ヶ所の合計の星を獲得して、世界中をあっと驚かせた。
 いやあ、一度は行ってみたいですね、こんな美食の店に。写真を眺めているだけでよだれが口中にあふれてきます。美味しい料理を、いかにも美味しそうに撮る写真にもしびれます。
(2008年1月刊。1905円+税)

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2008年09月08日

フランスものしり紀行

著者:紅山雪夫、出版社:新潮文庫
 私は大学生のころからフランス語を勉強していますし、フランスにも5回ほど行きましたので、それなりにフランスのことは知っているつもりでしたが、なんのなんの、まだまだ知らないことばかりだということを思い知らされる本でした。この夏にフランスへ行ってきましたが、フランスへの飛行機のなかで一生懸命にこの本を読んで予習しました。
 パリはフランス語ではパリですが、英語ではパリスと、語尾のスまで発音しますよね。パリの語源はパリシイ族に由来する。
 3年前にはロワールの城めぐりとモン・サン・ミッシェルそしてボルドー、サンテミリオンを歴訪しました。この本にもロワール川流域にある美しい城がいくつか紹介されています。アゼ・ル・リドー城、シノン城、ブロワ城、シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城です。その優美さ、壮大さは思わず息を呑み、足を停めてしまいます。素人カメラマンでも美しく撮ることができます。
 そして、この夏は南フランスをまわってきましたので、そちらを紹介します。
 アルルはゴッホが住み、こよなく愛した町です。駅から歩いて10分もかからないところに旧市街入り口の古い門があります。
 ゴッホは、アルルは明るい色彩効果のため、日本のように美しく見える、と言ったそうです。もちろんゴッホが日本に来たことはなく、日本の浮世絵を見ていたことからの連想です。中心部にローマ時代の円形闘技場がほとんど完全な形で残っています。近づくと本当に圧倒されてしまいます。よくもこんな巨大な石造りの建物をつくったものです。この本によると、ローマ帝国が滅亡したあと集合住宅としてつかわれていたのが保存に幸いしたのだそうです。なーるほど、ですね。
 アルルの郊外に有名なゴッホの「跳ね橋」があります。私は20年近く前にアルルの町から歩いていこうとして、見つからずに断念したことがありました。今回、タクシーに乗って「跳ね橋」に行ってみて、歩いていけるような距離ではないことを実感しました。ガイドブックに女性の一人歩きは厳禁と書いてありましたが、私は、女性だけでなく、男性もやめたほうがいいと思いました。なにしろ遠すぎるし、迷い子になるのは必至だと思ったからです。ゴッホの「跳ね橋」は再現されていますが、晴れていたら絵になるロケーションにありました。残念なことに、私の行ったときには曇り空でしたので、絵にはなりませんでした。
 アルルから、タクシーでレ・ボーに行きました。ここは前にも一度行ったことがあるのですが、奇岩城としか言いようのない断崖絶壁の町です。
 松本清張がレ・ボーを題材に『詩城の旅びと』(NHK出版、1989年)という本を書いています。清張は次のように描きました。
 レ・ボーは、アルピーマ山塊の一部が平野に向かって突出した細長い岩山の上にあり、まわりを断崖絶壁で囲まれていて、まさに難攻不落としか言いようがない天然の要塞である。岩山の上に城塞の廃墟が延々と連なっている。
 私も一番高いところまでのぼりましたが、とても風が強くて吹き飛ばされそうなほどでした。写真でお見せできないのが残念です。
(2008年5月刊。590円+税)

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2008年09月13日

フランスに学ぶ国家ブランド

著者:平林 博、 発行:朝日新書

 フランスは超大国ではない。核保有国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国であるが、経済規模や人工などの観点からすると、中規模国家である。面積を除いて、日本の方が経済力などで上まわる。しかし、フランスには独特の国家ブランドがある。フランスには、独自の「国のかたち」があり、強い発信力がある。
 そうなんですよね。まるで下駄の雪みたいに、踏まれてもバカにされてもひたすらアメリカの言いなりになる日本とはまったく違って、フランスは独自路線を少しでも強調しようとします。もっとも、今のサルコジ大統領は露骨な親米政策を打ち出していますが…。
 サルコジはかつてトヨタ自動車がフランスに進出するに当たって、弁護士としてアドバイスしたことがあり、トヨタの招待で日本にも一度来ている。サルコジの父はハンガリー貴族であり、ソ連赤軍から逃れてフランスに亡命した。母はギリシャ出身のユダヤ人。サルコジはパリ大学は卒業したが、グランゼコール(シアンス・ポ)に入ったものの卒業はしていない。フランスのグランゼコールというのはエリート中のエリートを輩出する大学です。
 フランスは欧州諸国の中でもっともユダヤ人が多い。60万人いる。フランスを旅行すると、町並みを出た途端、豊かな田園風景が広がる。
 フランスは穀物、乳製品、ワインなどの生産量は自国民の消費量を上まわる。果物や野菜も十分に生産しているが、輸入もしている。カロリー・ベースで計算したフランスの食糧自給率は122%(2003年)。フランスより自給率が高いのは、オーストラリア(237%)、カナダ(145%)、アメリカ(128%)である。
 フランス人は食料の安全保障を当然に必要なことと考えている。
 そうなんです。そこが日本と決定的に違います。日本人は、政府の間違った食糧政策を盲信させられています。食べ物は、お金さえあれば好きなように買えると思いこまされています。でも、そんなことは決してないのです。食料と水は、今や世界を制覇する道具と化しているのです。少なくとも、食糧自給率の向上に今すぐ日本政府は真剣に取り組むべきです。だって、日本の食糧自給率は、せいぜい40%しかないのですよ…。
 フランスの就業人口の4分の1は公務員か国営企業に勤める準公務員である。
 今の日本では、公務員を一人でも減らしたらその政治家の大手柄になります。一方では政治家の口利きと称して子弟を公務員として送り込んできたわけですが、目下、そのことが最大争点の一つとなりつつあります。
 また、フランスでは、いくつかの宗教系の私立学校を除いて、学校はすべて公立ないし国立である。入学金も授業料もごくわずか。北欧となると、そのいずれもタダだそうです。
 ニースから電車に乗って、カーニュシュルメールというところに行きました。駅前に無料のシャトルバスがあるとガイドブックに書いてありましたが、見あたりません。駅から歩いてルノワール美術館を目指しました。強い陽射しを浴びながら坂道をのぼっていったのです。ちょうど昼前のことでした。なんと、午後2時まで昼休みだというのです。汗が一度に噴き出してきました。仕方がありません。もう一つの目的地である古城にまわり、一休みしたあと、再びルノワール美術館に出かけました。オリーブの木が植えられている広大な丘にルノワールが晩年を過ごした建物が残っていました。ルノワールの絵って、本当にいいですよね。見ていると、気持ちがほんわか、ゆったりしてきます。暑いなか苦労してたどり着いた甲斐はありました。
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年09月28日

アシナガがゆく

著者:辻本 公一・斉藤 護、 発行:徒歩々庵編集工房
 いやあ、驚き、呆れ、恐れ入りました。こんなことを思い立ち、そして、それを実行する人が、この世の中にはいるんですね。信じられません。だって、パリからスペインまでの1800メートルを2ヶ月かけてテクテク歩いていったというのですよ。それも、いい年齢(とし)した弁護士のおっちゃん(67歳)が…。私の方はちょうど膝に神経痛が出て、歩くのも不自由していたときに読みましたから、余計に驚嘆してしまいました。
大阪には、狂歩楽々宗なる得体の知れないグループがあるとのことです。しかも、そのメンバーたるや、今の大阪弁護士会長、元の日弁連副会長まで加わっているというのです。なんだか西欧社会を背後で操っているというフリーメーソンみたいではありませんか…。(失礼しました)
 この本はまず、その狂歩楽々宗の有力信徒の一人である佐伯照道弁護士より贈呈されました。途中まで読んでいたところ、なんと恐れ多くも狂歩楽々宗の教祖様である辻本公一弁護士からも贈呈本が届いたのです。私のかねてより敬愛する石川元也弁護士の紹介で送るとの添え書きがついています。これは大変なことになった。そう思って後半を読み進めていったという次第です。
 いったい、2ヶ月間も、フランスをパリからスペインにかけて歩きとおすなんていう発想はどこから出てきたのでしょうか…?あとがきによると、大阪でも通勤するのに往復を歩いていたということです。1年間に360キロを歩いたと書いてありますので、毎日1キロ歩いたというわけですね。すごいですよね、これって…。それで、音に聞くコンポステル巡礼路へ行ってみよう、そして、美しいというフランスの田舎も見てみたいと思うようになった、というのです。なるほど、フランスの田舎町は美しいです。でも、でもですよ。一人でテクテク歩くのです。それも重たいリュックサックを背負って、なんですよ。私なんか、考えただけでも足が引きつってしまいそうです。
 パリから歩いていく途中で、ロワール川の古城めぐりのお城も登場します。シャンボール城やブロア城などです。私も3年前の夏に行ってきました。タクシーで一日かけて回りました。観光バスよりはゆっくりできたと思いますが、それを歩いて回ったとは…。
 ブロアもいいし、アンボワーズもいいところです。レオナルド・ダヴィンチが生活していたお城でもあります。この本には、歩いた風景が写真で紹介されています。うんうん、こんなのどかな情景って、フランスのあちこちにあるよね、そこをゆっくりのんびり歩くって、人生最高の贅沢だよね。私もそう思います。だけど、でも、ですね…。
 アシナガ氏は、ホテルに泊まって朝食をとって、だいたい午前9時ごろに歩き始めたようです。たまには3日間ほど同じホテルに泊まって、休養もしたようです。それはそうですよね。そして、一日9時間も歩いたことがあるそうです。一日に30キロとか40キロも歩くのです。しかも、雨が降っていても歩いたというのです。すごーい。
 ホテルはケータイで前日のうちに予約していたようですが、たまにはぶっつけ本番であたったりもしています。道に迷ってしまって夜になってもホテルが見つからず、道を尋ねたところ、親切な母娘に車でホテルまで送り届けてもらったこともあるといいます。やはり、見知らぬ国での一人旅は大変な冒険です。
 ところが、フランスではひなびた村にもとびきり美味しい料理を出してくれるレストランとホテルがあるのです。そこが、フランスの旅の良いところです。
 壁には風雅な飾り物。趣味のいい調度品、ゆったりとしたテーブルの配置、テーブルの上には古風なローソクスタンド。実に落ち着いたくつろぎの空間を演出している。若い夫婦二人で切り盛りしているホテル・レストラン。夫は厨房で料理を、妻はテーブルを回ってメニューを配り、注文を聞き、料理やワインを運び、天性の美しい笑顔で、お客と和やかに言葉を交わす。その挙措は精錬され、優雅なことこの上ない。
 アペリティフはカシスのキール。本日のスープはバジリコ入りの熱々スープ。メインデッシュは盛り付けも鮮やかな鴨のステーキ。味も申し分なし。ワインにもハズレたころは一度もない。
 いやあ、ホントなんですよね。さすが、うまし国、フランスだけのことはあります。どんな田舎に行っても、美味しい料理を期待できる。それがフランスです。
 田園地帯を歩いていると、牛が物珍しそうに近寄ってくる。眠たそうな目でじっと見つめ、トコトコと寄ってきて、「おっちゃん、どこ行くん?」と聞いてくるのもいるほど…。
 やはり、狂信的な信者というしかありません。いやはや、見事な道中記です。写真もまた素晴らしいですね。 感心、感嘆、感銘を受けました。
(2008年8月刊。?円)

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2009年04月08日

ナポレオン帝国

著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店

 ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
 この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
 1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
 第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
 ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
 1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
 1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
 ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
 ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
 ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
 ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
 普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
 金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
 脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
 ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
 以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
 チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
 今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
 チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
 ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)

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2009年06月15日

フランスの子育てが日本より10倍楽な理由

著者 横田 増生、 出版 洋泉社

 子どもにとって、きちんとした食事や十分な睡眠が成長に不可欠であるのと同じように、大人の注目や時間もまた、子どもの大切な栄養分なのだ。3歳までの子どもにとっては、身近にいる人間の注意や愛情を十分に受け取ることが必要なのだ。
 私も弁護士になってから35年が過ぎましたが、表情の乏しい大人の顔を見ると、きっと子どものころに親の愛情に満ちた声かけが少なかったのだろうな、と思うようになりました。親から愛情をたっぷり注ぎこまれた子どもは、大人になっても断然、その表情、とりわけ眼の輝きが違います。
 日本と違って、フランスでは出生率が再上昇している。それには3つの理由がある。一つは所得格差が小さいこと。二つは職場における男女格差が小さいため、女性が仕事か子育てかの二者択一を迫られることがないこと。三つには、週35時間労働にあらわれているように、労働時間が短いため、男女とも育児や家事に参加できること。
 ふむふむ、これはなるほど日本とは大違いです。
 フランスでは、女性が難なく仕事と子どもの両方を選ぶことが出来る。女性が子どもを産んでも、それまでとほとんど変わらない生き方をしていけるのがフランスなのである。
 うむむ、な、なるほど、ですね。さすがフランスです。
 フランスで子育てが前向きにとらえられる理由の一つに、政府の支援策によって子育ての負担が大きく軽減されることがある。とくに子どもが3人以上いる家族は、大家族として手厚い支援を受ける仕組みがある。家族手当の額が増えるだけでなく、交通機関や動物園、美術館、博物館などで割引を受けられる。うひゃあ、うらやましいですよ、これって。
 フランスでは、3歳から公立の学校に通える。
 ええーっ、保育園ではなく、学校なのですか…?
 フランスでは、ほぼ100%の子どもが3歳からエコル・マテルネルに通う。8時半から4時半まで、学費は無料。ちなみに、公立学校なら、大学卒業まで学費はタダ。
 うへーっ、なんと…タダ。しかも、今、2歳からにしたらどうかと議論されているというのです。これには、さすがにまいりました。
 フランスでは、日本のように夫が給料袋をそっくり妻に渡すようなことはしない。フランスの男性は、自分で稼いだお金は自分で管理する。だから、専業主婦になると、自分の自由になるお金がないことになる。ふむふむ、だからフランスの女性は働きたいのですね。
 子どもに対して支払われる養育手当の財源は、企業が労働者の賃金に5%を上乗せして納める税金である。つまり、労働者に年100万円の賃金を支払っていると、5万円を企業は国に支払うことになる。これって、日本でも考えていい制度ですよね。
 フランスの大統領選挙の投票率は、80%を超す。
ここですよね、日本との違いの決定的なところです。日本人の多くが、政治にあきらめてしまっています。フランスでは、そんなことはありません。政府の方針がおかしいと思うと、女子高生が一人で街頭でプラカードを手にしてデモ行進をして意思表示します。やがて、賛同者が増えて、いつのまにか道路を埋めるデモ行進になるのです。日本のような、連帯心の欠如というものがありません。みんな、明日は我が身と考えるのです。デモ行進で一時的な迷惑は受けるけれど、それよりもっと肝心なことがあるので、そちらを考えて連帯するわけです。

 私の事務所のホームページのブログで、「私の本棚」シリーズを始めました。私の読んだ本をジャンル別に本棚の写真をあわせて、順次、公開していきます。ぜひ、あわせてアクセスしてみてください。

(2009年3月刊。1400円+税)

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2010年02月20日

エレーヌ・ベールの日記

著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店

『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
 訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
 1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
 このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
 私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
 勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
 結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
 私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
 要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
 私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
 人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
 今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
 人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
 シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
 きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
 エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
 フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
 
(2009年10月刊。2800円+税)

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エレーヌ・ベールの日記

著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店

『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
 訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
 1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
 このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
 私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
 勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
 結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
 私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
 要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
 私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
 人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
 今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
 人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
 シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
 きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
 エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
 フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
 
(2009年10月刊。2800円+税)

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