弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2017年8月19日

武田氏滅亡

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書

ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

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2017年8月15日

大航海時代の日本人奴隷

(霧山昴)
著者 ルシオ・デ・ソウザ 、 岡 美穂子

日本人って、昔から案外、海外へ出かけていっていたようです。そのなかには、人さらいにあって海外に売られたという人もいたようですが、それ以外にもいたというのです。日本人の傭兵集団があったり、キリスト教信者が亡命したり・・・、です。多くはありませんが、世界各地に残っている日本人の記録を掘りおこした貴重な本です。
本書に登場するのは、マカオ、マラッカ、マカッサル(インドネシア)、ゴアとコチン(インド)、マドリッド、リスホンそしてセビーリャ(スペイン)。アフリカはモザンビーク、アンゴラ、サントメ、プリンシベ島。南アメリカのリマ(ペルー)、ポトシ(ボリビア)、コルドバとブエノスアイレス(アルゼンチン)、サンチアゴ(チリ)。最後にメキシコのアフカトラン、グアダラハラ、タアナファト、メキシコシティ、アカプルコ、ペラクルス、そしてカルタヘナ(コロンビア)です。このように、世界中、いたるところに日本人の足跡があるのです。
奴隷身分の日本人だけでなく、冒険心、商売人もいたのではないでしょうか・・・。
アメリカ大陸に渡ったアジア人奴隷は、「チーナ」と呼ばれたが、実際には、日本人もいた。
大分で1577年に生まれた日本人奴隷は、誘拐されて長崎へ連れていかれ、ポルトガル人に買われた。子どもの奴隷を買って従者にするのは、富貴と寛大さを周囲に知らしめる証と考えられていた。
長崎にいたポルトガル商人のなかに、実はユダヤ人がいて、キリスト教の異端し審問の対象になっていたというのを初めて知りました。
ポルトガルには、16世紀中ごろから、天正少年遣欧使節の到着より前から日本人が存在していた。1570年代初め、10歳にもならないに日本人少女マリア、ペレイラがポルトガルに到着し、20年のあいだ家事奴隷として仕えたあと、自由の身になったという記録がある。
マカオには、日本人女性だけでなく、日本人男性も少なからず存在した。船の乗組員にも日本人男性がいた。
長崎の頭人から町年寄へと出世した町田宗賀は若いころ、自分でジャンク船を操って海外貿易に従事する船長であり、マカオにも出入りしていた。
マラッカには、1600年ころ、町の警備役として、マレー人兵のほか、日本人傭兵がいた。関ヶ原の戦いのころのことです。
1608年ころ、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加した。そして、マカオ事件が起きた。1614年、マニラに33人の教会関係者と、100人の日本人が到着した。宣教師が日本から追放され、一緒に日本人キリシタンたちがやってきたのだ。マニラにいた日本人は、1595年に1000人をこえていた。そして、1619年には、日本人コミュニティは、2000人、1623年には3000人以上となっていた。
インドのゴアにも、多くの中国人と日本人がいた。
世界中の記録をよくも丹念に掘り起こしたものですね。スペインには、今もハポン(日本)の姓の人々がいるそうです。恐らく、昔の日本人の子孫なのでしょうね。世界は広いけれど、案外、狭いものでもあるようです。
(2017年4月刊。1400円+税)

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2017年6月18日

城をひとつ


(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  新潮社

「城をひとつ、お取りすればよろしいか」
これが本書の書き出しの一行です。うまいですね。憎いです。この本のタイトルにもなっていますが、ええっ、何、どうやって城を取るというの・・・。むらむらと湧いてくる好奇心に勝てません。
「江戸城を取るのは容易ではないぞ」
「容易かどうかは、入ってみねば分かりませぬ」
「間者(かんじゃ)は敵にばれたら殺されるが、貴殿はそれでも構わぬのか」
「命のひとつくらい懸けねば、皆さま方に信じてはもらえますまい」
小説の問答とはいえ、すごい状況ですよね。思わず息を吞んでしまいます。
城を取ると言ったのは大藤(だいとう)信基(のぶもと)。相手の殿様は、北条早雲の後継ぎ、北条氏綱。
今まで捕まった間者は顔色を読まれて捕まっている。つまり、自信をもってことにあたれば、恐れるものは何もないのだ。
江戸城内の権力抗争につけ入って、ついに内部崩壊させていく手口が鮮やかに描かれています。小気味よいものがあります。
信基は、義明の強固な自負心と年齢的な焦りを知り、その隙間に入り込み、自ら墓穴を掘らせることに成功した。その手法は見事なものです。
入込(いりこみ)とは、何者かに化けて敵や仮想敵の内部に入り込み、信用を得たうえで、味方に情報を流したり、撹乱工作をしたりすること。
戦国の時代、武士が商人に無法を働くことは極めて少ない。武力にものを言わせて商人から荷を奪えば、そのときは良くても、その武士は二度と交易ができない。必要な物資も情報も手に入らず、領内の経済が停滞し、自領でとれた米も、容易に売りさばけなくなる。
北条家中における大藤家の役割は、家伝の「入込」の技を使って相手の内部に入り込み、敵を撹乱することにある。
戦国小説の傑作の一つだと思いました。
(2017年3月刊。1600円+税)

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2017年5月21日

描かれたザビエルと戦国日本

(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版  勉誠出版

1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いがありました。その50年前の1549年8月にイエズス会の宣教師であるフランシスコザビエルが日本にやってきて、1551年11月まで滞在していました。2ヶ年3ヶ月の滞在でしかありませんでしたが、日本にキリスト教をもたらし、多大な影響を支えた宣教師の先達として今も高名です。
本書は、そのザビエルの足跡を絵画と写真とともに刻明に明らかにしています。
ザビエルの遺体が今もインド(ゴア)に保存されているというのにも驚きました。
そして、ヨーロッパに残された宗教画には、ザビエルとともに大友などの大名たちが登場しています。ただ、説明を聞かないと、まるで日本人とは思えない顔つきをしています。恐らく、絵を描いた画家は、見たこともない日本人の戦国大名たちを想像できず、身近なヨーロッパの領主を描いたのでしょうね・・・。
ザビエルは、私が学んでいるフランス語では、グザビエと発音します。なあんだ、そうだったのか・・・と思いました。
ザビエルは、ローマへの手紙のなかで日本人について、このように報告しています。
「日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲がある。
もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域のなかで、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思われる」
つまり、昔も今も、日本人には好奇心の旺盛な人が多かったということですね。何か目新しいものがあれば、すぐに飛びついて、我が物としたいという習性があるのです。
ザビエルは、1552年12月3日、46歳のとき、中国のマカオの先の小島でマラリアにかかって亡くなった。そして、その遺体が腐敗しなかったことから、インドのゴアまで運ばれて、死後400年以上たった今もミイラ化して、見ることできる(10年に1度だけ一般公開される)。
ザビエルは、山口の領主である大内義隆、そして、豊後の領主である大友義鎮(宗麟)と面会している。大分県市内にはキリスト教会が建立し、多くのキリスト教信者を迎えた。
ザビエルの足跡を、視覚的にもしっかりたどることのできる貴重な本です。
(2017年1月刊。2800円+税)

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2017年4月 1日

織田信長の城

(霧山昴)
著者 加藤 理文 、 出版  講談社現代新書

安土城は、天下統一をめざす信長が築き上げた富と権力の象徴であった。
安土城の石垣の最大の特徴は、石垣上に構築物が築かれることを前提として積まれている。
安土山(標高199メートル)は、岐阜と京都の中間点の琵琶湖東岸に位置する。京へも岐阜へも、ほぼ1日を要しない利便性と、中部、北陸、畿内各所への地理的優位性からの選地だった。また、来るべき上杉謙信との戦いも想定し、北国街道の喉元を押さえることも目的の一つであった。
築城工事を急がせた信長は、わずか1ヶ月後の2月23日、早くも安土に居を移す。
瓦は、唐人一観に命じ、康様にするよう言い付けた。
天主の外観は五重七階で、青や赤、白と各階の色が異なり、最上階は青と金色で、屋根に鏡が吊るされていた。窓は黒漆。屋根は青く光る瓦で葺かれ、瓦当や鬼瓦には金箔が貼られ、光り輝いている。
安土城は、軍事的目的をもつだけの施設ではなく、政治的、文化的施設として完成を見た。軍事一辺倒で、無粋きわまりなかった城は、安土城の完成によって、この時代を代表する芸術作品として生まれ変わった。
安土城は、天下人信長の居城であって、織田宗家の居城ではない。織田宗家の居城は、岐阜城である。
本丸御殿内に「御幸の御間」があり、そこは天主から見下す場所に位置する。すなわち、信長が天皇の上に位置することを暗に知らしめる目的があった。
信長が天皇をカイライとした政権運営を考えていたのは確実である。
安土城には二度のぼりましたが、この本を読んで、もう一度、天主跡に自分の足で立ってみたいと思ったことでした。
(2016年12月刊。840円+税)

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2016年9月17日

後藤又兵衛

(霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  中公新書

 後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政の二代に仕え、朝鮮に出兵して活躍しつつも、長政に疎まれて黒田家を去って牢人生活に入り、秀頼の招きに応じて大坂城に入って、大坂の陣で壮絶な討死を遂げた。
黒田長政にとって、後藤又兵衛は、自身が取立てたなかでも第一の家臣だった。その恩も顧みず黒田家を退去するのは、主君として許しがたい行為であった。
大坂夏の陣で没したとき、又兵衛は56歳だった。又兵衛は、黒田官兵衛に子飼いとして育てられ、14歳のとき、長政付の近習として仕えるようになった。
若き日の又兵衛は、何が何でも討死することが「御奉公」であると考えるような荒武者ではなく、冷静な判断力をもつ武将だった。
又兵衛は槍の名手として有名だが、朝鮮出兵のときの虎退治において、又兵衛は初めから刀を抜き、虎を仕留めている。
関ケ原合戦のとき、黒田長政は33歳。その供衆35人の筆頭に後藤又兵衛の名前がある。「黒田25騎」とは、近世中期になって選ばれた黒田家の功臣であるが、そのなかに黒田家にとって逆臣ともいうべき後藤又兵衛が入っているのは、それだけ存在感が大きかったということ。
黒田氏の家中形成の過程で、長政のもとで頭角を現し、長政取立家臣のトップに躍り出たのが又兵衛だった。
又兵衛の娘は、黒田家中の野林家で天寿を全うした。つまり、又兵衛の血筋は女系によって黒田家中に伝えられた。
黒田と細川は犬猿の仲にあった。そこで、細川は、又兵衛の筑前出奔を支援した。同じく池田輝政も又兵衛を支援したので、輝政と長政は仲が悪くなり、互いに音信を絶った。
大名たちは、江戸で家康から起請文の提出を強制させられ、表向きは徳川方への忠誠心を示しながら、裏では頼みとなる人物に隠し置いていた牢人たちを預けて大坂城へ差し向け、太閤秀吉の遺児豊臣秀頼を支援していた。
このように忍び潜む牢人たちを支える社会構造があってこそ、10万とも言われる牢人たちが大坂城に結集できた。日ごろから捨て扶持を与えられて忍び隠れていた牢人たちにとっては、待ちに待った表舞台が大坂の陣だった。
 大坂の陣に向かう徳川方は豊臣系大名の裏切りを心底から恐れていた。
黒田長政が又兵衛に密命を与えて大坂城に入城させたという説が成立する余地はない。
 又兵衛が大坂の陣で討死したのは、武将として見事だったと最大の賛辞が送られている。
 豊臣秀頼は、自分に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。そのような秀頼だからこそ、又兵衛は冬の陣で大坂城に入り、和議後も大坂城を去ることなく、夏の陣を死に場所として選んだ。
 後藤又兵衛は、定めなき浮世において名称というにふさわしい知術武略を用いて生き抜いたからこそ、末代にその名を残した。
後藤又兵衛という戦国武将を見直すことが出来ました。
(2016年4月刊。820円+税)

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2016年8月13日

決戦!川中島

(霧山昴)
著者  宮本昌孝・矢野隆ほか  出版  講談社
 川中島の古戦場には、私も1回だけ行ったことがあります。しばし往事を愢びました。
古戦場というと、なにより印象深いのは、越前朝倉の一乗谷です。織田信長に滅ぼされて焼け野原となったあと、地中に埋もれたのが発掘され、武家屋敷の一部を復元して広大な公園として整備されています。
 関ヶ原の古戦場には二回行きました。石田三成の陣跡に立ち、家康のいた桃配(ももくばり)山を眺めました。安土城にも二回か三回のぼりました。天守閣跡に立ち、ここに信長も立っていたのかと少しばかり感傷的になりました。島原の乱のあった原城跡にも行ってみましたが、まさしく感慨一入です。
 まだ行っていませんが、ぜひ行きたいのは武田勝頼の軍勢が壊滅的な打撃を受けたという長篠の地(鉄砲の三段撃ちは本当にあったのでしょうか・・・)、そして今川義元が滅びた桶狭間の地です。やはり歴史を愛する者として、なるべく現地に行って、その場所に立って何かを考えてみたいと思います。
 この本は、7人の作家が、それぞれ異なる登場人物を主人公として書いています。競作です。武田信玄、上杉謙信、山本勘助そして真田昌幸ほかです。その心理描写がさすがにプロだけあって、いずれも見事です。もちろん動きだけでなく、合戦の状況も真に迫って活写されています。
 景虎の卓越している点は、最前線にあっても広い視野が発揮されることにあった。小高い場所で、床風に腰かけ、じっと戦況を見ているのと同じ眼差しを、自ら太刀を振るいながら保つことができた。そのような才能、あるいは阿鼻叫喚の激戦においても視野が曇らぬ胆力は、そうそう万人が持てるものではない。
 またさらに、その虎視をもって、勝機を逃さず、つかむ力もずば抜けていた。機を見る敏。機を窺うに静。機を制するに剛。好機と、みるや間髪をいれずに号令を発し、それまではひたすら冷静に戦況を見極め、いざ動いたときには圧倒的な力で、相手をねじ伏せる。常に相手の一瞬の隙をとらえて就く景虎の戦いぶりは、相対した者からすれば、いつどうやって攻められたかも分からぬほどで、気がつけば、陣形は崩壊し、味方はみな壊走しているという有様だった。
 これは、上杉謙信についての叙述です。読んでいるとむくむくとイメージが湧いてきますよね。プロ作家の想像力には圧倒されます。
 (2016年5月刊。1600円+税)


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2016年3月 5日

戦国の陣形

(霧山昴)
著者 乃至 政彦 、 出版  講談社現代新書

 戦国時代の合戦といえば、魚鱗とか鶴翼、そして車懸(くるまがかり)の陣立(じんだて)が有名です。ところが、著者は、このような陣形が実際に存在したという証拠の文書はないというのです。
陣形とは、布陣の形状である。
中世の足利(室町)時代には、その軍政は騎兵中心だった。楯兵も弓兵も、騎兵が下馬して構成されていた。中世における正規の戦力は、原則として騎兵だった。そして、騎兵が下馬することなく騎兵として戦うとき、武士としての真価が発揮された。
この時代の合戦の特徴として、しばしば騎兵の集団が遠距離戦闘を介することなく、戦闘を仕掛けた。足利時代の騎兵は、頻繁に接近戦を行った。中世の騎兵は、「馬上十飛道具」ではなく、「馬上十衝撃具」で戦った。
 中世の戦場では、定型の陣形があらわれることはなかった。それは、それを実用する規律ある軍隊がいなかったからだ。中世の武士は私兵の寄り合いに過ぎず、そこには基本となる部隊教練も存在しなかった。
 武田信玄と上杉謙信との戦いのなかで、上杉軍の一翼となった上村義清の部隊は、弓隊150人、鉄砲50人、足軽200人、騎馬隊200騎、長柄のやり100人という兵種別編成で戦った。そして、武田軍の本陣に切り込み、戦傷を負わせた。
上杉謙信は、村上義清の使った隊形を常備の隊形として取り入れた。それには強い信念と大量の物量が前提となった。この兵種別の五段隊形が全国に広がった。
 文禄の役のとき、朝鮮の官軍は、日本軍の「陣法」について学んで対抗した。
 「旗持が最前列、島銃手が二列。槍剣手が三列と、三段に構え、その左右に騎兵を配した。戦いが始まると、最前列の旗持ちが左右にひらいて、二列目の銃手が発砲し、ころあいを見て槍剣手が突撃する。そのあいだ左右にひらいていた旗持軍が両方から、左右の伏兵が敵の背後にまわって包囲する」
 いま有名な定型の陣形は、戦争が日常だった戦国時代には使われなかったが、天下泰平の徳川時代になると、机上に復活しただけのこと。
 武田信玄の「八陣」が一般に広く知られるようになったのは、なんと戦後のことだと著者は指摘しています。
 なんだ、なーんだという感じです。まあ、それもそうなんでしょうね。戦場で、そんなに形ばかりにとらわれていたら、敗北してしまいますよね。大いに目を開かされました。

                           (2016年1月刊。760円+税)

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2016年2月 7日

真田一族と幸村の城

(霧山昴)
著者  山名 美和子 、 出版  角川新書

真田幸村のことがよく分かる新書です。
真田一族は信州小県(ちいさかた)地方、上田盆地の北東隅の真田の里に発祥した小さい豪族。戦国時代、真田の里の四囲には、群雄が勢力を競って、ひしめきあっていた。
小豪族の真田氏は、大勢力の真っただ中をかいくぐって台頭し、戦国大名にのしあがり、激動の世に名をとどろかせた。真田三代は、すぐれた調略戦を駆使した。
真田一族は、時勢に応じて武田、織田、豊臣、上杉、徳川と同盟したが、武田のほかは主君としていない。
真田幸村の父・昌幸は、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言われた。これは、卑怯者というより、変幻自在の知略策謀による、あざやかな出前進退が興味深いというのもで、いわば戦国武将へのほめ言葉だ。
真田一族は六文銭(六連銭)の旗のもと、覇者への野望をいだくこともなく、国のごとく時代を疾走していった。
ヤマカン(山勘)というのは、当て推量のこと。山本勘助が上杉謙信との戦いのときに霧を読み誤ったことから来る言葉。
天正13年(1585年)、昌幸と家康とが戦った第一次上田合戦のとき、徳川軍の戦死者1300人、これに対して真田軍は、わずか40人のみ。真田軍の大勝利だった。
幸村が無名だったのは、次男だったから。江戸時代の前まで、長子相続は定まっていなかった。
幸村は20歳からの12年間を、秀吉の馬廻衆(近習)として秀吉のそばに仕えた。父の昌幸は、嫡子の信幸を家康に仕えさせ、幸村を秀吉の人質にした。これは、戦国の世には、よくあること。
戦国武将の多くは、世俗権力の介入を拒む高野山に菩提所をもちたいと願った。幸村の兄・信之は、93歳まで長生きし、戦国時代を知る語り部として奉公した。
真田家は、江戸時代に老中まで出して、名功として明治まで生き残った。
幸村は高野山においてたくさんの子らの声に囲まれていた。戦国武将の一人として、正室のほかに4人から5人の特定の女性がいて、子どもも10人を超えることは珍しくなかった。 
気軽に読める新書です。
(2015年9月刊。800円+税)

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2016年1月24日

戦国のゲルニカ

(霧山昴)
著者  渡辺 武 、 出版  新日本出版社

 大坂夏の陣で何があったのか、「図屏風」に描かれた絵を詳細に読み解いた本です。すごいです。5071人もの人物が表情豊かに描かれています。「真田丸」の主人公・真田幸村(信繁)も当然のことながら描かれています。
いったい誰がこんな詳細きわまりない絵を描けたのでしょうか。とても想像だけで描いたとは思えません。そして、すべてはオールカラーなのです。あちこちに首をとられた将兵の身体が地面にころがっています。そして、女性が襲われ、人さらいに連れられていっています。まさしく、戦争というものの悲惨さが如実に示されています。
ここには勇壮な合戦絵巻というより、戦争(合戦)の残酷さがよくも描かれています。
大阪城天守閣の元館長によるものですので、その解説はなるほどと思わせます。
5月7日、決戦の日の真田隊は、真田幸村自身をはじめ多くの将兵が家康の本陣を目指して捨て身の突撃を繰り返したため、一時は家康本陣のシンボルたる金扇(きんおうぎ)の大馬印を倒して家康を避難させる事態にまで至った。
幟(のぼり)、旗指物(はたさしもの)、鎧具足(よろいぐそく)などを赤一色で統一した「赤備えの真田隊」の奮戦振りはひときわ目立った。「真田、日本一の兵(つわもの)」と東軍の将兵たちも賛嘆を惜しまなかった(「薩藩旧記」)。真田幸村が越前兵に討ち取られたとき、数えの49歳だった。
豊臣家の馬印が平成びょうたんだというのは、江戸時代も後期の寛政年間(18世紀末)の創作であって、本当は金びょうひとつだった。この「屏風」もそのとおり正確に描かれている。この「屏風」は、合戦の現場を生々しく描いているところに特色がある。
合戦の現場は一人ひとりが必死の殺し合い。敵の首ひとつを取るのも容易なことではなかった。殺すか、殺されるかで、まさしく修羅場だった。
徳川軍の内部でも、各部隊の軍功争いは熾烈だった。そして、各人の高名争いは、さらに切実だった。参戦した将兵のうち、実際に高名をあげられたのは、少数でしかない。それで、敗走する将兵を襲って首を取る「追い首」、武器をもたない非戦闘員の避難民を襲って首を取る「偽首(にせくび)」も横行した。さらには、「味方討ち」さえ起きていた。
この「屏風」には、婦女暴行やら略奪の生々しい状況も描かれている。目立ちにくいところに、ひっそりと描きこまれているのだ。
「真田丸」を楽しみに見ようという人にとっては必読の本であり、「屏風」は必見(私も残念ながらまだ見ていません)だと思いました。
(2015年11月刊。1900円+税)

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