日本史(戦国)
2007年03月22日
淀殿
著者:福田千鶴、出版社:ミネルヴァ書房
淀殿とは、豊臣秀吉の側室の一人。秀吉の愛妾となって秀頼を産み、秀吉の死後は、秀頼とともに大坂城にあって、大坂冬の陣、夏の陣を引き起こし、ついに豊臣家を滅亡に導いた。このような定説に真っ向から挑戦した本です。
淀殿の本名は、浅井茶々(ちゃちゃ)。
殿と様には違いがある。「殿」付けで呼ばれるより、「様」付けで呼ばれる人物の方が格上であった。淀殿というのは江戸時代になってからの呼称。その生存中には、「様」付けで呼ばれていた。
天下人たる豊臣秀吉は、一夫多妻の婚姻形態をとっていた。明治になるまで、天皇家においては、制度的に后(正妻・嫡妻)が一人とは限られなかった。后以外にも女御などの別妻や多くの女官(侍妾)がいた。摂関家も同じく一夫多妻制だった。天皇を超越する権威と権力をもった天下人秀吉の妻が一人でなければならい理由はない。
著者は、秀吉の妻は少なくとも5人いたとしています。有名な醍醐の花見のとき、御輿に乗って現れた女性、すなわち、政所(杉原寧)、西の丸(浅井茶々)、松の丸(京極龍子)、三の丸(織田氏)、加賀(前田摩阿)です。
秀頼は茶々(淀殿)が秀吉以外の男性と密通して生まれた子だという説がありますが、著者は否定します。秀吉の身近にいた寧が秀頼を秀吉の子であることを疑っていなかったこと、秀吉の嫉妬深く残忍な性格からして、茶々がもし密通していたら、それが発覚したときには生命の保障はない。だから、そんなことはありえない。なるほど、ですね。
寧と茶々の二人は、個々の問題で対立する場面はあったが、重要なことは、二人とも豊臣家の後家として連携することを基本として考え、常に行動していた。
秀吉は、第一番目が寧であり、第二番目が茶々であるという序列を強く意識しており、この順序を崩すことはなかった。
秀吉が残忍なことは秀次とその関係者の処刑の件で知っていましたが、もうひとつあったのですね。天正 17年(1589年)2月25日夜、聚楽城の表門(南鉄門)に誰かが落首を貼り出しました。
大仏の功徳もあれや鑓かたな
釘かすがいは子だからめぐむ
などです。子種がないと思われていた秀吉に子ができたことが大仏の功徳として嘲笑されたのです。秀吉は自尊心を大きく傷つけられ、直ちに報復の行動に出ました。
番衆17人を処罰。3日にわたって、一日ずつ鼻を削ぎ、耳を切ったうえで、逆さ磔に処していったのです。このようにして合計して113人が処刑されました。
もっとも、秀吉は人気回復の手もうちました。金賦(くばり)です。金6千枚、銀2万5千枚を諸大名や寺社に分配したのです。
そして、懐妊した茶々のために御殿を新造しました。茶々は御新造様になったわけです。
茶々が淀に在城していたから淀殿と呼ばれていたというのは誤りだ。正しくは、淀在城を機に茶々が「淀」を号として用いたため、死後に号の「淀」に敬称の「殿」をつけて「淀殿」と呼ぶようになり、近代になってからは「君」をつけて「淀君」と呼ぶようになったものである。
茶々は初めての子「鶴松」を亡くしても秀吉の正妻としての地位は失わなかった。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が62歳で死んだ。秀頼はわずか7歳だった。茶々は、大坂城が灰燼に帰す日まで、17年間、秀頼とともに大坂で暮らした。
このころの大坂は人口20万。経済的にも文化的にも、日本でもっとも繁栄した活気ある大都会だった。家屋も二階建てだった。
慶長16年の二条城会見で、成人した秀頼を見た家康は、徳川の天下の行く末について不安を感じた。それから4年後、豊臣家は完全に滅亡させられた。
大坂夏の陣で、茶々は秀頼とともに自害した。その様子について、伊達政宗は手紙に次のように書いた。
大坂城は本丸をみずから焼き、秀頼とお袋(茶々のこと)は翌日まで天守下の丸の蔵に生き残っていたところ、公方様が千姫を引き取り、秀頼には腹を切らせ、お袋は成敗した。
著者は、茶々について、家康の保護下に入ることを拒み続け、何としてもわが子を天下人にするという自己主張を貫き通した茶々の姿には、男にもひけをとることのない精神力の強さと、戦国女性ならではの意地を見る思いだ、としています。なるほど、そういう見方ができるのですね。
ところで、この本には再三、「武功夜話」が引用されています。偽書だという説もあるわけなのですから、その点のコメントなしに引用されているのにひっかかりました。どうなんでしょうか・・・。
2008年03月14日
臥竜の天
著者:火坂雅志、出版社:祥伝社
伊達政宗の生涯を描く、スケールの大きな時代小説です。
東北地方、出羽米沢城で生まれた伊達政宗は、生みの母から愛されなかった。母は次男を溺愛し、あばた面で独眼の政宗を遠ざけた。天然痘にかかって、右眼を失明したのである。政宗を支えたのは、父の輝宗。その輝宗が畠山勢に拉致されていこうとしたとき、政宗は、畠山勢に向かって鉄砲を打ちかけた。そして、輝宗はあえなく最期を遂げた。
のちに、母の意志に逆らって行動しようとした政宗は母の招待宴で毒を盛られた。そこで、政宗は母はそのままにして、弟を自らの手で殺した。家中の政争の種を根絶したのである。ひやあ、すごい時代ですね。何も罪のない弟を刺し殺したというのです・・・。
伊達家は、最上と争い、佐竹と争い、一進一退。そこへ秀吉が登場する。秀吉になびくのかどうか。政宗は秀吉に簡単になびく気はなく、遠ざかっていた。
しかし、ついに北条討伐にやって来た秀吉のもとへ参上することにした政宗は、決死の白い陣羽織姿でのぞんだ。いやあ、たいした度胸です。恐れを知らない若者だからこそ出来たことでしょうね。
もう一度は、蒲生氏郷に秀吉支配に反抗する一揆をあおった証拠を握られ、秀吉に申し開きができない状況に追いこまれたとき、再び白装束になった。こうやっても何とか生きのびいった政宗の運の強さはすごいものです。
まだ20歳台の青年武将という気迫が秀吉に気に入られたようです。中央政界に面従腹背を続けた気骨の士だったことがよく分かる本でした。
(2007年11月刊。1900円+税)
2008年03月28日
名将・中山鹿之助
著者:南原幹雄、出版社:角川書店
私は中山鹿之助を絶対に忘れることができません。というのも、私が大学受験勉強をしているとき、中山鹿之助の言葉を私の机の前に大きく書き出して、それを自分への励みにしていたからです。当時、私は東京へ出たくてしかたがありませんでした。田舎の九州にいて、東京に出たら、きっときっといいことがある。自由の天地があると夢見ていました。ところが、東京は実際に行って住んでみると、まさに人、人、人、人の海なのです。人の波におぼれて沈みこんでしまいそうです。つかみどころのない超巨大な大都会でした。わずかに下町の商店街で安らぎを感じたものです。そして、東京は地震が多くて、いつ大震災に見舞われるかもしれません。丸々10年間、私は東京に住んで、福岡へUターンしてきました。自然を身近に感じ、四季の移り変わりを花や木とともに体感できる生活こそ自分の性にあっていると今では思っています。でも、それは私が年齢(とし)をとったということでもあります。
江戸時代の豪商として名高い鴻池(こうのいけ)の先祖が山中鹿之助だというのを、この本を読んで初めて知りました。
戦国の世に無類の英雄・豪傑として名を知られた山中鹿之助幸盛こそ鴻池一門の先祖なのである。その鴻池は毛利家の依頼によって大名貸しをするようになった。
毛利家こそ、山中鹿之助の主家である尼子(あまこ)の宿敵だった。尼子が毛利家にほろぼされてから、鹿之助は強大な仇敵を相手に生涯、再興戦をいどみ続けたが、ついにむなしく敗れ去った。しかし、その長い復讐戦を通じて、鹿之助の不撓不屈、剛勇無双ぶりはあまねく人々に知れわたった。
もともと、毛利元就(もとなり)は尼子の武将の一人であった。尼子は周防(すおう)の大内氏と長いあいだ戦っていたが、毛利元就はいつも尼子家の先鋒として奮戦し、功績があった。尼子経久は元就の器量を高く買い、大身の豪族なみに処遇してきたが、経久のあとを継いだ晴久が毛利を侮って強圧的な態度に出た。そこへ大内氏が好条件で元就を誘ったので毛利は寝返った。晴久は憤って毛利征伐に出たが、逆にさんざんな敗北を喫した。これが尼子と毛利の長い戦いのきっかけとなった。毛利は大内氏に代わって強大な勢力として急速に成長し、ついに昔の主家である尼子を脅かす存在となった。
山中鹿之助は天文14年(1545年)に生まれた。山中家は出雲尼子家の弟の子孫である。願わくは、われに七難八苦を与えたまえ。よくこれを克服して武士として大成すべし。鹿之助はこのように念じた。
尼子家の再興を願って、僧侶になっていた尼子勝久を捜し出し、還俗させて毛利に戦いを何度も挑む鹿之助です。
陣頭に立って指揮する大将は赤糸威(あかいとおどし)の鎧(よろい)、三日月の前立(まえだて)に鹿の角の脇立(わきだて)の兜(かぶと)をかぶった大男。それならば、まごうかたなく山陰山陽に隠れなき、山中鹿之助。
山中鹿之助に長男が誕生し、遠くの親戚に預けて育ててもらいます。その子が鴻池家をつくり出すことになるわけです。
何回となく尼子家の再興を目ざし、京都へのぼって織田信長を頼りにします。木下藤吉郎を頼りにし、秀吉が毛利征伐に乗り出すことによって、ようやくその先人として尼子軍は勝機をつかもうとします。ところが、秀吉軍は二正面作戦を余儀なくされ、あえなく尼子軍は見捨てられるのです。
さすがの山中鹿之助も、ついに降参し、毛利のもとへ連行されます。ところが、その途中、甲部川で背後から切り殺されてしまうのです。
強大な毛利家を相手に何度も執念深く尼子家の再興を図り、ついに無念のうちに倒れた山中鹿之助の一生を描いた本です。読みごたえがありました。
(2007年11月刊。1800円+税)
2008年07月04日
負け組の戦国史
著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)
2008年07月25日
のぼうの城
著者:和田 竜、出版社:小学館
非常にユニークな時代小説とオビにかかれています。なるほど、そうでしょうね。戦国時代のお城の攻防戦を描いているのですが、とてもユニークな物語です。そして、それが史実をふまえているというから、余計に面白いわけです。
ときは戦国時代末期。秀吉の小田原攻めの最中に起きました。信長が本能寺の変で倒れる前、秀吉は毛利軍と戦っている最中でした。そのときとられた作戦は有名な備中高松城の水攻めです。
秀吉がつくった人工堤は、下底が12間(22メートル)、上底が6間(11メートル)の幅があるという、途方もない分厚さがあるものを、3里半(14キロメートル)という気の遠くなるような長大さをもっていた。
いやあ、これはすごいですね。北条攻めに動いた秀吉軍は総勢16万騎。そして、石田三成を総大将とする2万の大軍が忍城に向かった。忍城は関東7名城のひとつに数えられていた。忍城にいた成田長親は、周辺の百姓を城に呼びこみ、迎え入れた。
三成は、籠城は内より崩れることを知っていたので、それを止めなかった。無駄な数の籠城兵は、兵糧を喰い散らす。兵糧が減るにしたがって裏切りの噂が噴出して城内は疑心暗鬼となり、裏切り者とされた者はどんどん粛清されてしまう。やがて籠城方の大将は、この状態では開城やむなし、と城を明け渡す。すなわち、城内に人が多いと、ほころびも増すことになる。
やがて、忍城には3740人の籠城兵が充満した。ところが、城内には戦闘心旺盛で、士気は衰えなかったのです。
三成は緒戦で忍城の計略によって負けたので、水攻めに切りかえた。7里(28キロ)の堤をつくることにしたのだ。秀吉の堤の倍である。のべ10万人を5日間、昼夜兼業で働かせる。人夫に対し昼は永楽銭60文、夜は100文。それぞれ米一升をつける。夜だけでも夫婦2人が5日間働くと、家族4人が1年食べられる米が買える。なーるほど。
三成が人工堤の建設に着手したのは天正18年6月7日。数十万人が人夫として集まった。人工堤は、断面の台形の下底を11間 (20メートル)、上底を4間(7メートル)という厚さとし、高さを5間(9メートル)とした。秀吉のつくった備中高松の人工堤とほぼ同じ大きさ。三成は秀吉をはるかに上まわる長大な人工堤防を短期間のうちに完成させ、あわや忍城は落城寸前。ところが、アリの一穴が始まったのです。
本を面白さがなくなりますので、これ以上は紹介しませんが、奇策によって忍城は助かってしまうのです。これだけ面白く読ませるのですから、たいしたものです。さすがに大絶賛を浴びた本だけのことはあります。
三成は意外や意外、敗軍の将となってしまったのでした。
最後に、「のぼうの城」というのは、「でくのぼう」の「でく」をとった呼び名からきています。「でくのぼう」でありながら、民衆の心をつかんでいた殿様だったというわけです。
(2007年12月刊。1500円+税)
2009年02月28日
桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった
著者 藤本 正行、 出版 洋泉社新書y
桶狭間(おけはざま)というと、谷底のような低地というイメージがあります。しかし、実際には、桶狭間山という丘陵地帯に今川義元は陣を置いていた。そして、信長は、堂々たる正面攻撃で今川軍を打ち破った。
信長は、遺棄された義元の塗輿を見て、「旗本はこれだぞ、これを攻撃せよ」と命じた。ここまでは最初の攻撃で破った今川軍を追撃するのに夢中で、義元を捕捉できるとは考えてもみなかったはずだ。
決戦は雨上がりに始まった。信長は空が晴れるのを見て、鑓(やり)を取り、大音声(だいおんじょう)をあげ、「かかれ、かかれ」と命じた。信長の軍勢が黒煙を立ててかかってくるのを見た今川軍は、後ろにどっと崩れた。
今川軍は、初めは3百騎ばかりが真丸になって義元を囲み、退却を始めたが、信長軍の追撃を受けて、二度三度、四度五度と踏みとどまって戦ったものの、次第しだいに人数を減らし、ついには五十騎ばかりになった。そこで、信長軍の若者(服部小平太)が義元に切りかかり、毛利新介が義元の首をとった。
以上は『信長公記』による。今川義元の出動は、京都に上洛して天下に号令するためという説があるが、本当は、信長との領国拡張競争で境目の城の取り合いをして衝突したということである。当時の史料で「天下」という言葉は、日本全国ではなく、京都を中心とした畿内近国を意味している。
著者は、「奇襲」説は明治32年に参謀本部が刊行した『日本戦史・桶狭間役』に、信長の奇襲が大成功したとあることによるものだが、それは、資料にもとづかない創作だとしています。この本は、信長の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』(しんちょうこうき)を良質の史料として、それに全面的に依拠していますが、なるほどと思わせるものがあります。
豪雨のなか、信長がわずかな手勢で義元の本陣に突入して義元の首を挙げたという通説のイメージは確固たるものがありますが、どうやら戦前の参謀本部に騙されているだけのようです。
(2008年12月刊。760円+税)
2009年04月17日
利休にたずねよ
著者 山本 兼一、 出版 PHP研究所
さすが直木賞を受賞した作品というだけのことはあります。利休の心の動きが、ことこまかに憎らしいほど描写されています。作家の想像力のすごさに圧倒される思いを抱きながら(実のところ、私のイマジネーションの貧弱さを嘆きつつ)読み進めていったのでした。
次は、利休の言葉です。
わしが額(ぬか)づくのは、美しいものだけだ。
いやはや、この文章を根底において、山あり谷あり、起伏のあるストーリーに仕立て上げる腕前はおみごとというほかありません。
おのれの美学だけで天下人・秀吉と対峙した男・千利休の鮮烈なる恋、そして死。
これは帯にあるコトバです。
千利休が秀吉の側に長く使えていたこと、そして、秀吉が死を命じられたことは歴史的な事実です。それを秀吉の心理描写とあわせて、緊張感あふれる場面が次々に繰り広げられていきます。
そして、茶道の奥深さも実感できるのです。たまにはこんな本を読むのも忙しさを忘れていいものだと思います。
小説にしては珍しく、巻末に参考文献が明記されています。
春の庭は色とりどりです。見てるだけで心が浮きうきしてきます。いま咲き始めたのはジャーマンアイリスです。手入れをしてはいけない丈夫な花です。ぬれ縁の先に気品ある薄紫色の花を次々に咲かせます。深い青紫色のアヤメの花も咲いています。こちらは胸をときめかす高貴な花です。妖しげな魅力があり目を惹きつけます。
庭のフェンスにからまっているのは朱色のクレマチスです。そのうち純白の花も咲いてくれるはずです。
車庫のそばの地面は鮮やかな朱色の芝桜が覆っています。そして最後に、終わりかけていますがチューリップもまだ健在です。今、黒いチューリップが咲き、フリンジがあったり、変わりチューリップがまだいるよと誇り高く叫んでいます。
みんな私のブログに写真をアップしているので、見てください。
(2009年3月刊。1800円+税)
2009年07月15日
真田氏三代
著者 笹本 正治、 出版 ミネルヴァ書房
戦国時代の武将の中で真田氏は人気ランキング1位になったりするほど、特別な人気がある。
確かに私も、子どものころに読んだマンガ『真田十勇士』などに影響されてか、真田幸村(ゆきむら)には、とても愛着があります。徳川家康と互角で戦った戦国武将というイメージです。
この本は、戦国合戦を生き抜いた武将というより、戦国時代を統治者として生き延びた真田氏三代を明らかにしています。
真田氏は、出自が明らかではない。真田家が飛躍するのは、武田信玄に仕えた真田幸隆の代から。武田信玄と上杉謙信とのあいだの川中島決戦に、真田幸隆は武田軍の重要な武将として参加している。
武田信玄は父を追放して当主となったが、その嫡男・義信を自刃させた。これって、戦国時代の非情さを示す象徴ですよね。
武田勝頼にとって真田一族は、もっとも信用に足る家臣であった。武田信玄にとって真田幸隆は使い捨ての駒だったが、使ってみると思ってもみなかった戦功をあげてくれたので、そのまま対上杉謙信戦の最前線に置いた。そして、その都度、幸隆が手柄を立てたので、次第に重用していった。武田信玄は、真田幸隆の子、昌幸そして信昌を人質にとった。
真田幸隆が亡くなると、その跡を継いだのは嫡男の信綱であったが、信綱は織田信長との長篠の戦いで討死してしまった。このとき、信綱の弟・昌輝も戦死したため、三男の昌幸が家督を継いだ。真田氏三代のうちでもっともよく知られるのが、この昌幸である。
真田昌幸は使えていた武田家が滅亡するや、主家を滅ぼした織田信長に臣従した。ところが、その後、2か月もたたぬうちに信長は明智光秀に襲われて死亡した。これ以降、真田昌幸は、自分の領地を守ろうとして、周囲にいる北条氏直、徳川家康、上杉景勝、豊臣秀吉という大勢力の中を泳ぎ渡らねばならなくなった。
やがて、真田信幸は豊臣家譜代として位置づけられた。
秀吉の死後、関ヶ原合戦に際して、真田昌幸と次男の信繫が石田三成の西軍につき、嫡男の信幸が東軍について、一家で道を分けた。その直前、この父子三人は石田三成の密使を前に去就を話し合い、このように決めた。というのも、真田氏は、家が絶えることの悲惨さを身近に感じていたからである。
真田昌幸は、宇多氏を媒介として石田三成と深くつながっていた。嫡男の信幸は、家康重臣の本多忠勝の娘を妻としており、家康そして秀忠と密接な関係にあった。
当時の人々は、家の存続を第一義としていた。その背後に、家と家とのつながり、それを実体化していた女性の役割が大きかった。
この本で不満が残るのは、関ヶ原の戦いについて、当然に家康の東軍が勝つべくして勝ったと見ており、秀忠軍が真田昌幸を攻略できずに遅れたことは影響を与えなかったとしていること、また、大坂夏の陣のとき、真田信繁が家康の本陣へ突撃して一時は家康を窮地に追い込んだ状況が詳しく描かれていないことなどにあります。とりわけ関ヶ原の戦いについては、家康も内心、秀吉子飼いの武将を信用し切れなかったのではないかという最近の有力説は説得力があると思いますが、この本はその点についてまったく触れるところがありません。残念です。
大坂夏の陣の戦いについて、薩摩藩の武士が、真田こそ日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と書いたそうです。
真田氏三代の実相をよく知ることのできる本です。
先日受けた仏検(1級)の結果が届きました。ガーン。なんと39点です。ショックです。120点満点で3割しかとれていません。いやはや、どうにもなりません。脳の老化現象のせいでしょうか、単語がポロポロと忘却の彼方へ飛び去っていきます。まあ、でも、なんとか、めげずに、こりずに、これからも毎日毎朝フランス語を聞き続きます。
(2009年5月刊。3000円+税)
2009年08月24日
知将・毛利元就
著者 池 享、 出版 新日本出版社
中世の日本社会は自力救済の社会だった。
この指摘には改めて眼を開かせられる思いでした。なるほど、現代社会と違って、全国に通用する裁判所とか国家警察はなかったわけです。
中世の社会には、人々の権利を守り、安全を保障する国家=公権力は存在しなかった。国家の大切な役割の一つに、裁判などを通じた紛争の解決があるが、中世は紛争を私的実力により解決する自力救済の社会だった。
私人間の紛争の場合、民事訴訟で判決が下されても、裁許状と呼ばれる判決文が出されるだけで、その執行は当事者に任されていた。ただ、これは鎌倉時代の話で、南北朝室町時代になると、使節遵行(じゅんぎょう)といって、守護などが判決の執行にあたった。そこで、私戦と呼ばれる実力行使が盛んに行われていた。
室町幕府は、私戦を取り締まるために「故戦防戦法」という法律を定めた。「故戦」とは、私戦を仕掛けること。「防戦」とは、それに応じることを意味する。
「喧嘩両成敗」というのは、紛争の解決において私的実力を行使した者は、理由の如何に関わらず死刑に処すというもの。こうやって私戦を禁止し、紛争解決は大名の裁判に委ねさせようとした。こうやって喧嘩両成敗法は社会に受け入れられて、天下の大法として定着していった。
秀吉は、「惣無事」を打ちだした。「惣無事」とは全面的平和という意味である。秀吉は、「惣無事」の名のもとに大名間の領土紛争に介入し、秀吉の裁定に従うよう命じた。これに応じない者は「征伐」の対象となった。これによって薩摩の島津氏は降伏を余儀なくされ、小田原の北条氏は滅亡に追い込まれた。
中世の一揆の特徴は、参加者が主従のような上下関係ではなく、対等な関係にあること。カラカサ連判状の意味は、そこにもあったのですね……。
毛利元就は筆マメで、100通以上の自筆書状が残っている。これらの手紙からは、その被害者意識の強さ、執念深さが浮かび上がってくる。他人を信用しない猜疑心の強さが示されている。
家督の決定が家老たちの合議で決まるというのは、当時、珍しいことではなかった。家臣の意向は無視できなかった。家老たちが家督後継者を決めるときに最大の判断基準としたのは、器量だった。器量とは、才能のこと。それは、地域の平和と秩序を維持する能力だった。
守護と国人領主との間は、ゆるやかな双務的契約関係だった。だから、状況によって寝返るのは、それほど悪いこととは考えられていなかった。交渉のとき、「現形」(げんぎょう)という、今で言うと裏切りに近い意味の言葉が平気でつかわれていた。
家来(けらい)と家臣とは少し違う。家臣は従者一般の意味だが、そのなかに家人と家来という区別があった。家人は、主人の家に従属し、主人と命運を共にする存在である。家来は、将軍の御家人のように独自の「家」をもつ自律的存在をさす言葉である。
元就は、家中統制を目ざし、自律的家臣であった井上衆を誅罰した。時代の流れが、従来の方式での秩序維持を困難にしていたからである。
このころ、押し買いの禁止というのがあった。押し買いとは、価格交渉の途中で、買い手の側が勝手に安値で買い取ろうとする行為のこと。新聞の「押し紙」を思い出しました。
戦闘者としての武士身分にとって、合戦の持つ意味は、手柄を立てて恩賞、とりわけ領地を獲得すること。これがないと戦闘意欲が出てこない。この「ごほうび」があるべきところ、上様が怠ったときには、年寄中が上申した。
毛利元就は、大名領国を作り出した。大名領国を統合することによって(複合国家)、全国統一政権支配が確立した。
毛利元就が中国地方でのし上がっていく過程を実証的に知ることのできる面白い本でした。
(2009年2月刊。2000円+税)
2009年10月08日
大飢饉、室町社会を襲う
著者 清水 克行、 出版 吉川弘文館
室町時代の日本人として現代の私たちにもっともポピュラーなのは一休さん(一休宗純)だろう。一休は実在の人物であり、ドクロの杖を持って正月の京の町をねり歩いたり、森侍者という女性との赤裸々な情交を詩によんだり、破天荒な逸話にこと欠かない人物である。そうなんですか、そこまでは知りませんでした。トンチ話だけかと思っていました。
一休が大きく悟ったのは応永27年(1420年)のこと。このとき応永の大飢饉が起きていた。室町幕府は4代将軍足利義持の時代である。
応永の大飢饉は、日本中世史において希有な相対的安定期にいた人々を一気に恐怖のドン底に陥れた衝撃的な大災害だった。餓死者が相次ぎ、田畠は荒廃し、都は難民であふれかえって、行き倒れた人々の死臭が市街に充満していた。
このころ、「風姿花伝」を書いた世阿弥元清(ぜあみもときよ)も活躍した。
ムクリコクリ。私も子どものころ聞いた○きす。蒙古(ムクリ)と高句麗(コクリ)のことを指す言葉です。得体の知れない恐ろしいもの、という意味で古くから伝わっていました。鎌倉時代の蒙古襲来の恐ろしさは、室町時代になっても人々の記憶に生々しく生きていました。現に、対馬の倭寇を退治するため朝鮮半島から侵攻があったのでした。
室町時代、京都の米商人たちは、米価を意図的につり上げるため、道路を封鎖し、お米が京都に入らないようにしていた。そのことを、察知した室町幕府は米商人を逮捕し、その主犯格6人を斬首した。
いつの世の中にも我が身のことしか考えない悪徳商人というのは存在するものなのですね。
祈雨奉幣(きうほうへい)、止雨奉幣(しうほうへい)。雨乞い、また、晴天祈願のこと。室町時代の70年間、雨乞いの祈雨奉幣は10件、晴天を祈願する止雨奉幣は11件。
首陽に赴く、とは餓死すること。京都に向かうという意味ではない。中国の首陽山の故事に由来する言葉である。これも知らないものです。いやはや、世の中には知らないことだらけですね。だからこそ、本を読む楽しみがあります。
中世の人々は、春に多く死んでいた。秋の稲穂を十分に得られなかった中世の人々は、その後、蓄えを食いつぶしながら何とか翌年まで生き続けるものの、初夏の麦の収穫を待ちきれないで、春になると次々に死んでいった。中世は慢性的飢餓状態にあった。うへーっ、そ、そういうことだったのですか…。
応永という元号は延々35年にも及んだ。それは、改元する権限を握っていたはずの天皇の地位がかつてないほどまでに低下し、かわりに室町殿が朝廷の政務にテコ入れをするという事態になっていた。そして、どこからも改元が提案されないまま、応永の元号が放置されていた。むむむ、なーるほど、ですね。
室町幕府は、守護や国人(こくじん)、地元の有力武士といった武家の前では何らの利益の代弁者の顔をしながら、同時に公家や寺社の前では天皇にかわって何らの利益の擁護者として振る舞わなければならないという二面性を持っていた。このジレンマは室町幕府がずっと抱えていた矛盾である。
室町時代の本質的問題がよく分かる本でした。
(2008年7月刊。700円+税)
2010年01月07日
描かれた戦国の京都
著者 小島 道裕、 出版 吉川弘文館
16世紀、室町時代の終わりころの京都とその周辺の景観、風俗を描いた屏風絵が残っています。『洛中洛外国屏風』と呼ばれるものです。この本は、この屏風絵を部分拡大もしながら、そこに描かれている人物を特定しつつ、その情景を解説しています。カラー図版もあり、楽しく学びながら室町・戦国期の京都風景を味わうことができます。
学者って、本当にすごいですね。よく勉強しています。ほとほと感心します。
屏風は2つで一双と呼ぶ。左右で1組になる。右隻(うせき)、左隻(させき)と呼ぶ。京都の東側を描くのは右隻で、西側は左隻。そして、この屏風絵は鳥瞰図(ちょうかんず)となっている。市街地を上空から眺めている。
著者は、相国寺(しょうこくじ)の東に六角七重の巨大な塔が建っていて、その上から見た景色が描かれているとみています。この塔は、高さが109メートルあり、今の京都タワー100メートルより少し高いというのです。すごい塔がそびえ立っていたのですね。信じられません。
屏風図には、伝統的な四季絵、月次(つきなみ)祭礼国を踏襲して、春夏秋冬がきれいに配分されていて、それが京都の東西南北の方位に合致している。いやあ、大したものです。
室町時代の幕府、すなわち将軍の御所は、かなり転々としており、代替わりごとに新たな御所を営んでいた。花の御所を作ったのは、三代将軍足利義満である。それまで幕府はほかの場所にあった。その後も、必ずしも花の御所が使われたわけではない。応仁の乱のあと、将軍は逃亡して京都にいないことが多く、京都にいるときも寺院や武家などの屋敷に間借りすることが多かった。
幕府の門前では、たとえ関白であろうと乗り物に乗ることは許されないという慣行があった。これは将軍の格の高さを示すものである。
このようなことを手掛かりとして、絵に描かれている人物を特定していくのです。
古い京都とそのころの日本人の生活の一端を視覚的に知ることのできる本として、面白く読みました。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくご愛読ください。
お正月は風もなく晴れ上がって気持ちの良い一日でした。午後から庭に出て球根を植えました。通りかかったお隣さんが、「いいお天気に恵まれましたね。今年はいいことがありそうですね」と声をかけてくれました。本当にそうですね。今年が日本と世界にとっていい年であることを心から願っています。
大晦日は恒例の除夜の鐘をつきに近くの山寺に出かけました。11時45分から鐘をつき始めます。まだ若いお坊さんから、つく前に注意を受けました。つく前に、まず今年一年の反省をしてください。そして、ついた後に新年の希望を願掛けしてください。なるほど、と思いましたが、どちらもたくさんありますので、とりあえず新年は家内安全、無病息災を願いました。
不況のせいなのか、例年になく鐘つきに並ぶ人は少なかったのですが、午前0時を過ぎたころ人が次々にやってきました。実は、我が家には韓国から娘の友人である若い女性が泊まりに来ていましたので、一緒に出かけて鐘をついてもらいました。日本は初めての人です。
(2009年10月刊。2200円+税)
2010年02月05日
戦国大名と一揆
著者 池 亨、 出版 吉川弘文館
越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
(2009年8月刊。2600円+税)
2010年03月20日
小太郎の左腕
著者 和田 竜、 出版 小学館
ときは戦国時代。種子島から入ってきた鉄砲が大量に使われ始めています。
火縄銃による試合があります。火縄銃は連射を旨とすれば、1分間に5発の弾を撃つことが可能だ。小太郎は、これをやった。もはや速いという程度のものではない。ほとんど無造作ともいうべき所作で、瞬く間に玉薬を銃口に流し込み、弾を押しこみ、火皿に口薬を盛り、火ぶたを閉じた。火ぶたを閉じるや、すぐさま鉄砲を構えた。火ぶたを切るや、引き金を引いて激発させた。
小太郎は、実は雑賀(さいが)衆の一人であった。雑賀衆とは、現在の和歌山市を中心とする一帯に猛威をふるった鉄砲傭兵集団である。鉄砲についてまだ懐疑的な当時の武将たちも、その雑賀衆の鉄砲における精兵ぶりには舌を巻き、彼らを敵に廻すのを極度に恐れた。
雑賀衆は、五組の代表者が合議のうえで衆としての方針を決め、雑賀五組に住む者たちは、その決定に従うという形態で運営されていた。とはいえ、五組の代表者が雑賀衆を支配しているわけではない。五組の代表者は各村々の決定事項を持ち寄るため、惣国の構成員は決定された事柄に当事者意識を持ち、それもあってその結束は比類ないものとなった。そして、雑賀衆として敵と認めた一国には、一丸となってこれに当たった。
えいえい、おう。
この叫び声は、漢字で書くと、曳々、応だそうです。初めて知りました。
『のぼうの城』も傑作でしたが、この本も実に読ませます。たいした腕前です。感心しながら一気に読みとおしました。
(2009年12月刊。1500円+税)
2010年04月16日
城と隠物の戦国誌
著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
長野口持ち 足軽30人 農人300人
北谷口持ち 足軽30人 農人200人
佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
忍口持ち 足軽100人 町人670人
行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)
2010年04月18日
センゴク兄弟
著者 東郷 隆、 出版 講談社
ときは戦国時代。信長、秀吉につかえて、四国讃岐10万石の領主となった。失態があって浪人。後に戦功をたてて信州小諸5万石の主に返り咲いた。江戸時代になって兵庫県出石5万8千石の領主になるも、江戸末期に仙石騒動という有名な家督争いがあって、3万石に減封された。
青年漫画誌ヤングマガジン掲載の、「センゴク」シリーズの原作本です。
よく出来ています。よく調べています。感嘆しながら、どんどん読み進めました。
越前の一乗谷が出てきます。私も一度だけ行ったことがあります。古い小京都といった趣があります。織田信長がまだ天下を取る前の時代です。美濃には、斉藤道三ががんばっていました。
仙石兄弟が初陣に出かけるとき、旗持ち1人、長柄が6人、弓2人。兵糧運びの軍夫3人、馬上の武者2人。長柄は軍役規程によって2間半が4本、1間半の短槍2本。いずれも穂の長い直槍で、持ち手は自前の具足を身につけているものの、その形は鎧の袖がなかったり、脛当てがなかったりだった……。
桔梗一揆。これは武士団の団結した姿を示すもの。
着到(ちゃくとう)。国主からの催促状を差し出して名簿に記入すること。炭鉱で坑内に入る(下がる)前に点呼を受けるのも、同じく着到と呼んでいました。
詞戦(ことばいくさ)は、慣れたものでなければつとまらない。少しでも言葉に詰まれば、敵味方の笑いものとなり、二度と立ち直れないほどの恥辱となる。これは、単なる悪口合戦ではなく、言葉によって相手を屈服させる呪詛(じゅそ)なのだ。
江戸期と異なり、戦国時代の百姓身分は帯刀が許されていた。
物揃え(ものぞろえ)。軍役ほどおおげさなものではないが、近隣で不意の小競り合いがあったときに備えての予備動員のこと。
懸銭(かけぜに)とは、畑に対する賦課額。
秋成(あきなり)とは、秋の収穫高。
巻数(かんじゅ)とは、年末の特別な祈祷札のこと。
公界人(くがいにん)とは、乞食のこと。浮浪者が多かった。公界人は神の子。これを守るのは神仏を尊ぶものの務めである。
御発(ごはっこう)は出陣。山入りでは大事な家財を村の城に運び込んでいた。
戦国時代について、よくよくイメージの湧いてくる本でした。ところが、参考文献に『武功夜話』が紹介されていますが、これは偽作だと私も思っています。ですから、引用するときには、せめて偽作とも指摘されているくらいのことは触れるべきでしょう。
(2009年12月刊。1600円+税)
2010年07月18日
関ヶ原、島津退き口
著者、桐野 作人 、学研新書 出版
天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦において西軍の雄、島津義弘軍は敗戦が決まったあと、決死の敵中突破を図り、なんとか成功します。この本は、まず著者自身が「島津の退(の)き口(ぐち)」のルートを実地に踏破した体験にもとづいて書かれていること、そして、生還した将兵たちの手記を活用しているところに大きな特徴があります。つまり小説ではなく、その意義を実証した本なのです。
この本を読むと、当時の島津家というものが対外的にも内部においても、きわめて微妙な立場にあって、義弘が大軍を動かせなかった実情とその苦悩がよく伝わってきます。そんな苦しいなかで、よくぞ敵中突破300里に成功したものです。驚嘆せざるをえません。
島津家中で義弘は孤立化していた。石田三成と義久との間で板ばさみになっていた。
関ヶ原合戦において、義弘は太守ではなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有しておらず、そのため、義久や忠恒の家臣はもちろん、一所衆とよばれる一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の家臣団以外はほとんど動員できなかった。
義弘は、西軍に加担することを決めてから、11通もの軍勢催促状を国許に送った。しかし、義久・忠恒は義弘の懇請を黙殺し、ついに最後まで組織的な動員はなかった。
結局は、関ヶ原における義弘の軍勢は1500人ほどだったと推定される。
島津勢は、関ヶ原合戦においては、「二備え」(にのそなえ)、二番備、後陣だった。勝機は去ったと判断し、66歳の義弘は、前方を突き破って故国へ帰ろうと考えた。
島津勢の主要武具は鉄砲だった。これを足軽ではなく、武士が撃った。退き口の敵は、飢えだけでなく、東軍方や百姓たちの落武者狩りが容赦なく義弘主従に襲いかかった。
途中で300人ほどのはぐれ組みが発生した。
関ヶ原の戦場離脱から鹿児島帰着まで190日かかった。走破距離は海路をふくめて千数百キロに及ぶ。何より義弘の生き抜くという牢固な意志力と義弘を慕う家臣たちの自己犠牲的な奉公と献身の賜物であった。
義弘とともに大阪に戻ったのはわずか76人でしかないが、これは島津勢の生き残りすべてではない。1500人の島津氏の将兵3分の2が戦死もしくは行方不明となった。逆にいうと、3分の1も鹿児島にたどり着いたわけです。
義弘は、85歳の大往生をとげた(1619年)。
義弘軍の敵中突破の実情をしのぶことができる面白い本でした。
(2010年6月刊。790円+税)
2010年08月06日
日本人の戦争
著者:ドナルド・キーン、出版社:文藝春秋
まず、有名な著者を紹介します。
1922年にアメリカはニューヨークに生まれました。コロンビア大学で日本文学を学び、アメリカ海軍の日本語学校で学んだあと、情報士官として太平洋戦線で日本語の通訳官をつとめました。戦後、京都大学にも留学しています。つまりは、日本語が読める、日本の研究者であるアメリカ人の学者です。
日本人作家の日記を読んで、その分析がこの本にまとめられています。
ここでは、私にとって「くのいち忍法」などで身近な存在である山田風太郎にしぼって紹介することにします。
日本人が日記をつける習慣は古く10世紀にまでさかのぼる伝統である。日本人は、別に事件のないときでも、ごくあたりまえの日常の経験を、日記に書くことで残す必要を感じていた。それは老年になってからの備忘録として、あるいは子どもたちの教育に資することを願ってのことだった。
日本軍の兵士は、新年になるたびに日記帳を支給された。アメリカの軍人は日記をつけるのを禁じられた。敵にとって有利な情報が日記に記されることを恐れたから。日本軍で日記をつけるのが奨励されたのは、日記を検閲して、思想状況を確認しようとしたから。
山田風太郎は、昭和20年1月1日、医学部の学生として日記に次のように書いた。
「運命の年、明く。日本の存亡、この1年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」
激しい空襲、また原爆が落とされたあとも、山田の戦争支持の姿勢は揺らぐことがなかった。8月15日の天皇の放送を聞いたとき、山田が味わったのは、安堵の思いではなく、苦い失望だった。
山田は、戦時中、この戦争での日本の勝算について、客観的に考えることが出来なかった。日本の敗北の可能性について触れることは、山田には出来なかった。
ヒットラーの死を知った山田は、ヒットラーを絶賛している。
ヒットラーは、実に英雄なりき。シーザー、チャールス12世、ナポレオン、アレキサンダー、ピーター大帝に匹敵する人類史上の超人なりき。いやはや、なんということ・・・。
8月15日朝、友人から天皇が放送すると聞いた山田風太郎は、いよいよソ連に対する戦線の大詔であると確信した。うむむ、ちょっとどうなんでしょうか。
しかし、終戦後まもなく、山田は人々が軍人を軽蔑の眼で見るようになったことを知って愕然とする。そして、9月1日の日記に山田は、多くの日本人が驚くほど短時間のうちに、従来とまったく正反対の態度をとるようになるに違いないとの予言を書いた。
「今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるだろう。敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、1年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう」
さらに、山田は次のように予言した。
「このぶんでは、いよいよ極端なる崇米主義が日本に氾濫するだろう」
山田の嘲笑の対象となったのは、新たに手にした自由を喜び、軍閥によって課せられた奴隷状態の束縛から日本人を解放してくれたことで、マッカーサー元帥に感謝を捧げている類の人々だった。
終戦時に大学生だった山田風太郎の日記を主として紹介しましたが、それは、彼が当時の典型的な軍国青年だったことを意味すると思ったからです。
(2009年10月刊。1714円+税)
2010年08月07日
長篠の戦い
著者:藤本正行、出版社:洋泉社新書
長篠(ながしの)の戦いは、戦国時代の日本史に関心のある人で知らない人はいないでしょう。
1575年(天正3年)5月21日、三河の長篠城外(現在の愛知県新城―しんしろ―市)で、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を大敗させた。このとき、信長は、鉄砲隊3千を3段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行うことによって、精強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。これが「通説」である。
この本は、その「通説」がまったく根拠のないものだということを改めて(初めて、というのではなく)実証したものです。私も、改めてなるほど、と思いました。
この長篠の戦いのとき、信長は42歳で、勝頼は30歳だった。
通説が誕生したのは、戦前の陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』シリーズによるものだと知って驚きました。
織田信長には、直属の銃兵のほか、大小の家臣たちが所有する銃兵がいた。つまり、信長直属の常備鉄砲隊があり、このほかに臨時編成の鉄砲隊がいた。常備鉄砲隊は、装備もととのい、火薬などの消耗品も潤沢に支給され、集団訓練も受け、強力だった。しかし、信長だけが鉄砲の威力を理解していたわけではない。鉄砲隊にも二種類あったなんて、初めて知りました。
信長の「三千挺、三段撃ち」を初めて言い出したのは、江戸初期の儒医であり、作家であった小瀬甫庵(おぜほあん)である。
しかし、火縄銃を等間隔で連続して射撃することは、一人でも容易なことではない。これが複数になると、等間隔の連続射撃は、いっそう困難になる。まして、実戦の場で3千人が千人ずつ、交替で連続射撃することなど、空想の産物以外の何ものでもない。著者は火縄銃の構造もふまえて、このように断言します。
火縄銃は、発射準備が、人により、銃により一定しないのである。
長篠の戦いにおいて、信長は自軍の大兵力を隠そうとしていた。そして、別働隊を勝頼軍の背後にまわした。
長篠の戦いのとき、柵から押し出したのは徳川勢であり、信長の軍勢は、みな柵の内にひきこもって一人も出なかった。
要するに、織田信長の「三千挺三段撃ち」というのは、完全な創作なのである。これを実現するには、銃兵のなかから誰一人として死傷者が出ないこと、何発うっても銃の調子が変わらないこと、戦線の端から端まで敵が一斉に射程距離内に入ること、戦線の端から端まで射撃開始の命令が連続して届くことなど、奇跡に等しい諸条件が整わない限り、絶対に不可能なのである。
この本は、敗戦後の勝頼の行動についても紹介しています。「先衆が少々敗れただけ」というのでした。実際には、大損害だったわけですが・・・。それに対して、信長のほうは、勝頼を誇大に宣伝しています。さすがです。
この本では、長篠の戦いで信長が勝ったことについて鉄砲は勝因の一つに過ぎないと強調しています。
背後を強力な別働隊に占領されたうえ、退路を川でふさがれ、左右への迂回路はなかった勝頼が、他に選択する余裕のないまま圧倒的な兵力で堅固な陣地に拠った織田・徳川軍を正面から攻撃して勝てるはずはない。要するに、信長の作戦勝ちだった。
この長篠の戦いから鉄砲が急増したということもない。鉄砲が一挙に増加したのは、束の間の平和で軍備を整える余裕ができ、明と朝鮮の連合軍との激戦が展開された朝鮮出兵のころのことである。
著者の本は、大変に実証的だと、いつも感嘆しています。
(2010年4月刊。840円+税)
2010年08月14日
日本の城
著者 西ヶ谷 恭弘・香川 元太郎、出版 世界文化社
日本の城の多くが、カラー国判で詳しい解説とともに紹介されています。見て、読んで楽しい、日本の城の大国鑑です。
みなさんに、ぜひ一度は現地に行くことを私がおすすめするのは、安土城と一乗谷城です。
一乗谷(いちじょうだに)は、越前の朝倉氏の本拠地でした。ここは戦国時代に織田信長に滅ぼされ、そのときの戦火にあったまま埋もれていたのです。現在、大々的な発掘調査が進行中です。私が現地に行ったのは、もう10年ほども前になります。ぜひ、もう一度行ってみたいと思います。
現地には、朝倉義景(よしかげ)の館が発掘されています。また、被官の屋敷が立ち並び、さらには町屋も軒を連ねています。
中世の町並みをほうふつさせる貴重な発掘状況です。
安土城には2度行ってみました。なにしろ、あの織田信長の居城となった安土城です。ルイス・フロイスの「日本日記」にも紹介されている、豪華けんらんのお城です。
本丸御殿には、天皇を迎えるための御幸(みゆき)の間とあいました。
羽柴秀吉邸跡とみられる場所もあります。
天主に向かって幅広い直線一本道の大手門もあります。豪壮な天主閣を仰ぎながら多くの将兵そして町民たちが朝に夕に登り降りした道です。
天守の跡が頂上に残っています。私は、案外に小さい、狭いと思いました。でも、少し離れたところに天主の一部を原寸で復元した建物があります。それを見ると、やはり壮大な建物だったようです。
織田信長が安土城に移る前に居城としていたのは岐阜城です。ここは完全な山城です。ここで、信長は、ルイス・フロイスと3時間も話し込み、世界各国の話を聞いて、大いに満足したといいます。
今は金華山とも呼ばれ、昔は稲葉山城とも呼ばれていました。「まむしの道三」が支配する城でした。木下藤吉郎が攻め落としたことでも有名です。
私もこのお城に登りましたが、あまりに急峻な名山城なので、驚きました。
「のぼうの城」で有名になった埼玉県行田市にある忍(おし)城には一度行ってみたいですね。石田光成の水攻めに耐えた壁城です。日本のお城めぐりも楽しいですよね。そのときのガイドとして大変役に立つ本です。
(2009年6月刊。2800円+税)
2010年08月18日
山本五十六
著者 田中 宏巳 、吉川弘文館 出版
日本海軍の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六提督の実像を仮借なく暴いた衝撃的な本です。この本を読むと、山本五十六っていう海軍提督がなぜ、東郷平八郎と並んで有名なのか、わけが分からなくなります。
たしかに真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげたが、4ヶ月のあいだ勝ち続けたあとは、じりじり後退する一方であり、日本が劣勢に立たされはじめたところで山本提督は早々に戦死したため、敗戦の将にならずに死んだ。だから、山本の名声の根拠は不明なのである。
ロンドン軍宿会議の当時、日本政府は、国民の存在が視野に入っていたとはとても思えない。うへーっ、なんだか、これって今の日本政府とまるで同じですよね。
強い軍備によって国を守るのも国家のためだが、国の財政負担を軽減させることも国家のためであり、どちらも国家のために欠かせなかった。海軍軍人は軍備にしか関心がなかっただけでなく、軍縮が外国との約束事であり、これを破れば国家間の対立を助長しかねないにもかかわらず、海軍軍人が国際通という一般論とは裏腹に、意外なほど国家間の関係に無節操だった。
日本においては、陸海軍におよる航空機開発がまったく別個にすすめられた。これは世界的にみても特異な現象であった。アメリカでさえ国家をあげてやっとB29を完成させたのに、日本では、同じような性能をもつ大型攻撃機の開発を別々にやろうとした。このとき、陸軍が支配的になることを山本五十六が嫌ったため、空軍として独立できなかったし、研究開発が一本化できなかった。山本五十六は歴史の流れに背を向けた。空軍を独立させたとき、その指導権を陸軍出身者がとり、陸軍の用兵思想にもとづく空軍になることを山本たちは危惧した。要するに、組織の縄張り争いであり、人数の多い陸軍にはかなわないが、指導権を取りあげられたくないというのが山本の考えだった。そもそも、山本は海軍航兵隊だけで戦えると錯覚していた。
日本海軍は、日露戦争の教訓をあたかも絶対的公理のように扱い、もっとも近い第一次世界大戦の教訓を究明しなかった。このため、海軍では戦訓研究の発展が妨げられ、戦略戦術思想の研究が停止状態になった。
日本海海戦から40年たつのに、この海戦の勝利の戦訓を取り入れた「海戦要務令」は高い価値をもつとし、軍機として厳しい秘密扱いを続けた。日進月歩の軍事技術の進歩と古色蒼然たる「海戦要務令」の軍事思想とが矛盾なく整合することはありえなかった。
山本五十六は革新性にみちた軍人ではなかった。艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に近い考えを山本五十六も持っていた。つまり、艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本も日本海軍も考えていた。総力戦では、途中の和平が不可能なことを山本は理解していなかった。
日本海軍における艦隊決戦主義は宗教の教義みたいなもので、情勢や環境がそんなに変わっても信じられ続けた。技術の進歩や兵器の変化を認めながら、それを駆使する思想を変えようとしない矛盾に気づかない海軍軍人が多すぎた。
山本五十六が辞職をちらつかせて要求するからハワイ作戦(真珠湾奇襲)にお付きあいはするが、本当は南方作戦が主作戦だから、ハワイ作戦で空母を損傷して南方作戦に支障が出てはたまらないというのが海軍軍令部の本音だった。だから、せっかくのハワイ奇襲も、軍令部や南雲・草鹿らによって肝心な点が骨抜きにされてしまった。真剣に勝利の機会を探し続けた山本が気の毒なほどだ。うへーっ、そうだったのですか・・・・。
昭和17年3月の珊瑚海海戦で、日本海軍が敗退した。このとき、世界初の空母機動部隊戦だった。しかし、歴史に学ばない、戦訓に学ばない日本軍人の性向が、日本の運命を左右することになった。珊瑚海海戦は、日本海海戦のように並行する戦艦中心の敵と味方の艦隊が打ち合う近代海戦を過去のものとし、空母機が相手の艦隊に対して爆弾、魚雷を放つ、新しい戦闘形態に切り替わる転換点だった。
このころ、山本五十六の声望は頂点に達しており、その一言一言がまるで神の声であるかのように海軍内にこだましていた。周囲のそんな雰囲気に山本自身も冷静な観察眼を失っていた。部下たちが浮ついていても、その雰囲気を戒め、失敗を客観視する冷静さこそ司令官の責任だったが、このころの山本には、これが欠けていた。
山本だけでなく、連合艦隊の指揮官に欠けていたのは、歴史の教訓に学ぶ姿勢、時間軸をたどって物事を考える態度であった。
山本五十六がラバウルへ飛行機に出かけるのをアメリカ軍は暗号解読で察知していたのは有名ですが、そのとき日本軍の打った電文は長く、なんと二回も発信したのでした。巡視の準備(たとえば、服装など)まで電文にしていた。これは最前線の緊迫感が欠如していたことの反映である。
なるほど、ですね。山本五十六提督と日本海軍の実像を初めてしっかり知った気がしました。
(2010年6月刊。2100円+税)
ディジョンから車で1時間ほどかけてフラヴィニ・シュル・オズランという村へ出かけました。フランス映画『ショコラ』の舞台となったちいさな村です。フランスの美しい村の一つに選ばれているというので行ってみました。陸の孤島にポツンと浮かんでいる本当に小さな村でした。小さなスーパーが一つ、カフェが一つしか見当たりません。周囲には平穏な牧草地が広がっています。ところどころ白い牛たちが固まって点在して、いかにものどかな風景です。大きな古い納屋が食堂になっていて、人々が詰めかけ満員盛況でした。私はカフェでワインを一杯飲んでゆっくり休憩しました。
ここで日本人夫婦とばったり出会いました。やはり同じようなことを考える人はいるものなんですね。

