弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(中世)

2011年4月 5日

僧兵=祈りと暴力の力

著者 衣川 仁 、  講談社選書メチエ 
 
この本を読むと、中世のお寺というのは、そこで僧侶が静かに修行していただけというものではなく、社会的な権力体であり、ときに集団的な暴力沙汰も辞さない物騒な存在であったことが分ります。何ごとも固定観念で、とらえてはいけないものなのですね。
比叡山延暦寺など、寺院は社会的な権力体として、最大級の権力基盤をそなえていた。その勢力は、寺領荘園という経済的基盤と、俗人も含みこんだかたちで拡大していた寺僧の集団によって支えられていた。
大衆は、だいしゅと読む。寺院の勢力を担う僧侶集団をさす。ときに何千人もの規模を誇っていた。
世俗的な要素を色濃くもつ中世の寺院では、ときに熾烈な内部抗争があり、延暦寺の根本中堂でも大きな騒乱が発生したことがある。
平安時代。八世紀、千人をこえる大衆が京都へ入浴し、強訴を敢行した。このうち6百人が大般若経を、2百人が仁王教を1巻ずつ持参し、残る2百人は武装していた。
大衆が行う僉議(せんぎ)では、聴衆を魅了する弁舌をそなえたリーダーシップが必要だった。 中世の寺院の意思は、座主でも僧綱でもなく、大衆の名のもとに形成されていた。
近年、僧侶になる者は、1年に2,3百人おり、その半数以上は、「邪濫の輩」(じゃらんのともがら)である。諸国の百姓(ひゃくせい。一般の人民)が、税負担を逃れようと自ら剃髪し、勝手に法服を着ている。それが年々増加し、今では人民の3分の2が僧の姿をしている。彼らの家には妻子がいて、平気で肉を食べている。うむむ、なんとなく分かりますね。
戒牒(かいちょう。受戒したことを証明する文書)を、税逃れの根拠としている。
天皇が「現神」(あきつかみ)であることのみで権威を保ち得た時代は過ぎ去り、諸神との相互関係のうちに権威を高める新たな段階にいたった。
中世寺院は、10世紀公判以降、寺院の意思として集団的に武力を行使するようになった。中世において、仏法は、他の時代に対して、恐るべき力をもっていた。
神人(じにん)、寄人(よりうど)とは、国司への負担を免除されるかわりに寺院・神社に従属した民のこと。中世の寺院や神社は、荘園住民を神人・寄人として組織することにより、その経済基盤と支配領域を拡大していった。
神人がその宗教的脅威を利用したのは、借金の取り立てだけではなかった。彼らは、都や在地社会において、大衆の手先となって神威をふるっていた。ときに都において神人がみせた神威のもっとも先鋭的なかたちが神輿(しんよ)動座である。そして、それは大衆の強訴(ごうそ)として採用された。神輿動座をともなった強訴は、11世紀末以降、頻発した。この強訴には暴力性をともなっていた。強訴では、視覚・聴覚に訴える要素が重要であった。
こうやってみてくると、平安時代って、琴の音とともに静かな時代というイメージなんか吹っ飛んでしまいますよね。それどころか、むき出しの暴力までもが横行する、荒々しい社会だったのではないかという気がしてきます。
古い寺院も、その視点で改めてのぞんでみてみましょう。
                   (2010年11月刊。1500円+税)

2011年1月 4日

中世民衆の世界

 著者 藤木 久志、 岩波新書 出版 
 
 のっけから衝撃的な問題提起がなされています。年貢納入を前提として、百姓の
 逃散を認める、その年の年貢さえ払えば、百姓はどこへ行ってもかまわない、というのは、中世を一貫して近世に至っていたのではないか。「百姓は土地に縛りつけられた者」と断定すること自体が、もともと間違っていたのではないか。
 ええっ、な、なんということでしょうか・・・・。欠落人(かけおちにん)の田畠は、あくまでも「惣作」(村による耕作の維持管理)が建て前で、家財のように分散はしない、というのが焦点であった。
 村を捨てた欠落百姓を近世では「潰れ百姓」ともいった。この「村の潰れ百姓」もまた、本来、「かならず再興されるべき百姓株(名跡)」とみなされ、そのための積極的な再興作(賄い)が問題になっていた。
 村はずれに、村人たちが寄りあって建てた堂、惣堂があり、そこなら村の「方々」の断って借りるまでもない。だから、村人も気軽に旅人にそこを勧めた。惣堂は、「みんなのもの」でありながら、「だれのものでもない」と広く見なされていた。
 領主が地主に断りもなく村を他人に売り払ったとき、地元の住民は「逃散」という反対運動を起こし、売買を破棄させる。これは特異な出来事ではなかった。
 戦国の村から人夫を調達するには、その労働の程度に応じて、社会的にみて適当と思われる額の「代飯(だいは)」が支給されるのが通例となっていた。
 百姓の夫役は有償だったのであり、タダ働きではなかった。金額の多少を問わず・・・・。中世の軍役は、兵粮自弁ではないのである。
 領主側は、もっぱら朝廷に訴え、裁判によって解決するという道を選んでいた。これに対して村側は、一貫して実力行使によって解決しようとし、鎌を取る行為と、その返還要求が焦点になっていた。
 中世の日本で、百姓は意外にもしたたかで、しぶとく領主権力とたたかっていたのですね。改めて日本史を見直し、考え直してみる必要があると思いました。
(2010年5月刊。800円+税)

2010年12月19日

深重の橋(上)

 著者 澤田 ふじ子 、中央公論新社 出版 
 
 ときは応仁の乱のころです。深重は、じんじゅうと読みます。すごいんです。すごいですね、作家の想像力には、ほとほと感嘆します。
 15世紀、一条兼良(かねら)が活躍しているころの京都です。将軍足利義政、義尚の政治下にありますが、無法もまかり通っています。
 人々は死に近くなると鴨川のほとりに無造作に投げ捨てられ、まだ生きているうちから着物をはぎ取られてしまいます。野犬に食われ、カラスに身体をつつかれ、洪水とともに川下に流されていくのが遺体の始末となっていました。
 そんな世の中ですから、人買いが横行し、若い男女が辻に立たせられて売られていきます。そんな境遇にあっても希望を捨てずに字を学び、算盤を習得し、たくましく生き抜こうという若者たちがいました。すると、それを支えよう、助けようという人々もいるのです。
 面白い展開です。下巻が楽しみです。
 
(2010年2月刊。1700円+税)

2010年5月 9日

北畠親房

著者 岡野 友彦、 出版 ミネルヴァ書房

 鎌倉時代末期(13世紀)、公家社会は、親幕府的傾向を持つ持明院統よりのグループと、反幕府的傾向を持つ大覚寺統よりのグループに大きく分かれていた。公家社会にとって最大の感心事は、自家の存続であり、いずれかのグループに旗幟を鮮明にしてしまうことは、きわめて大きなリスクを追いかねない。そこで、ほとんどの公卿層は、いずれの勢力にもある程度のコンタクトを持ちつつ、周囲の情勢をうかがっていた。そのなかで、あえて大覚寺統よりであることをいち早く鮮明にしたのが北畠家の人々だった。
 北畠家の盛衰は、とりもなおさず大覚寺統の盛衰を反映したものにほかならなかった。親房は、北畠家の嫡男として生まれた時点で、大覚寺統派の公卿として活躍すべき運命が初めから定められていた。
 中世社会の平均寿命は、およそ50歳。後醍醐天皇52歳。足利尊氏54歳、新田義貞は39歳で亡くなった。当時の人々は、40歳を一定の定年と考えていた。当時の人々にとって出家とは、今日の定年退職にほかならない。40歳をすぎてからの人生は、いわば第二の人生であった。親房は、38歳で出家したが、父も38歳で、祖父は46歳で出家していた。
 北畠親房は、出家した後、陸奥、伊勢、そして常陸へと下向し、その地の実情を目の当たりにして、その地の人々と交流するなかで、40歳を超えてから人間として大きく成長を遂げた。
 親房は、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐天皇の朝令暮改ぶりに対して、このままでは世論の信頼を失う可能性があると諫言したかったに違いない。
 奈良時代以来、壬申の乱の記憶なるものは、天皇家にとって、常に立ち直ってもっとも輝かしい過去であった。うひょう、そ、そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
 大日本は神国なり。この書き出しに始まる『神皇正統記』のなかで、親房は、不徳の天皇は廃位されて当然としている。この本は、幼少の後村上天皇を訓育・啓蒙するために書かれた本である。
 「南北朝」対立の本質は、あくまでも公卿中心の政治を目ざす南朝と、武家中心の政治を目ざす足利政権との争いであった。これが武家政権によって巧妙に「君と君との御争い」に持ち込まれてしまったのである。
 北畠親房を保守反動の象徴的人物とみるのは必ずしもあたっていないという本書の指摘は、大いにうなずけるところがありました。
 中世日本における公卿と武士の関係を考え直させてくれる面白い本でした。
 
(2009年10月刊。3000円+税)

2009年8月17日

著者 下川 博、出版社 小学館

 黒澤明の『七人の侍』をよみがえらせたような小説です。ただし、舞台は戦国時代よりはるかにさかのぼった14世紀の半ば、南北朝のころです。まだ荘園が健在だったころのことです。
 14世紀の百姓を、貧しく哀れな存在と決めつけるのは間違い。侍を雇えるくらいには豊かで、百姓はたくましく力強く自立していた。
 この本は、横浜市金沢区に今もある称名寺(しょうみょうじ)に残されている古文書。とくに結解状(げちじょう。土地の収支報告書)をもとにして当時の百姓たちがいかにして村を守ったのか、そのためにお金を出して侍を雇っていたことを明らかにしています。まさしく『七人の侍』と同じ状況が日本の農村に実際にあったのですね。驚きました。
 荘園において、ある田んぼの百姓の耕作権は永続的に保障されていたのではない。個人契約であり、毎年、領主の代理人である雑掌と契約を結び直す。毎年、百姓の耕す田んぼは違うのだが、立地条件によって、収穫の多い良田、収穫の少ない悪田の違いがどうしても生じる。
 農民が土地に執着するというのは、近世になって出来た神話であり、このころの農民は、得にならないと思えば、案外あっさりと土地を捨てた。
 長者の屋敷は卯花垣(うのはながき)に取り囲まれている。卯花垣は長者の象徴だ。屋敷を卯花垣で囲むことが長者の証なのだった。
 弩(ど)は、弓と似ていて、矢が空を飛ぶ。しかし、形状と操作手順が弓とはまるで異なる。弓は縦に構えるが、これは地面と平行に横に構える。弓を引きしぼって弦(つる)を留金(とめがね)に掛けておく。次に矢を番(つが)える。引き金を引いて留金を外す。矢が飛び出す。和弓と違って矢を引きしぼった状態に保っておく必要がない。そのため、素人でも狙いが定めやすく、的に面白いほどよく当たった。
 弩の歴史は古い。秦の始皇帝の兵馬傭坑からは、保存状態の良い弩が数多く出土している。日本に入ってきたのは弥生時代のころ。実用の武器としては、蝦夷(えみし)対策用の武器として大和朝廷が採用している。
 ただし、弩は日本に一度つかわれたものの、やがて廃(すた)れた。というのも、弩には武器として大きな弱点があるから。的に良く当たるが、一度、発射してしまうと、二の矢を撃つのに手間がかかる。強い弓を撃つためには、弓を引きしぼらねばならず、半端でない力がいる。
 この弱点を補うため、分業という工夫がなされた。矢を撃つ者、弓を引きしぼる者、矢をつがえる者、3人を1組にし、作業を分担した。しかし、日本では戦場で分業が必要な武器には人気が集まらなかった。威力があっても攻撃に空白が生じてしまう武器は人心に不安を生じさせるため、どうしても不人気になる。
 この時期、百姓が侍を雇うのが珍しくない時代になっていた。村を襲う領主の暴力から守るため、侍を雇い、知恵をしぼって、分業体制をとって戦ったのです。ここらあたりは『七人の侍』と同じパターンです。
 日本人の多くが昔から長いものには巻かれろということでは必ずしもなかったことのよく分かる面白い本です。一読をおすすめします。
(2009年7月刊。1700円+税)

2009年7月 8日

院政期社会の研究

著者 五味 文彦、 出版 山川出版社

 院政期は、腕力こそがものを言った社会であった。しかし、腕力だけがすべてではなかた。常に文書なるものが作成される必要があり、その文書の理が腕力ともども院政期社会を支配していた。
 たとえば、この時期の訴訟は、証文をそえて、その「調度文書理」「次第文書理」に任せて裁可されることを要求するのが通例であった。腕力といえども、この文書の理を真っ向から否定するわけにはいかなかった。
 このように、腕力も文書を必要としていた。謀書といわれる偽文書が多く作成されたのも院政期社会の特徴である。それは、腕力が文書の理を認めざるをえなかったことを物語るものである。すなわち、腕力と文書の理との微妙な共存関係こそが、院政期社会の一つの特徴なのである。武士の腕力は、結局のところ、文書の理と争って、それを退けることになったが、それはその後の武士の発展を暗示するものであった。
 白河、鳥羽、後白河の3上皇の院政の時期を院政期という。
 承久の乱(1221年)は、西国に支配の基盤をもつ院と、東国に政権を樹立した鎌倉幕府(北条義時)との武力衝突であった。鳥羽院は、「朕の生まるるは、人力に非ざるなり」と述べ、天皇家の血統性の故ではなく、直接、神と結ばれている点に自己の権威を位置づけた。
 中世社会において勧進聖人の果たした役割はすこぶる大きかった。東大寺再興に寄与した重源をはじめ、諸大寺の再興・造営の多くは勧進聖人の活動を待たねばならなかったし、港湾の修築、道路や橋梁の修造など、さまざまな土木・建築事業に勧進聖人は多大の貢献をした。
 院政期以来、造寺・造仏・造橋などに勧進聖人は庶民に受け入れられていたが、そのなかでもことに大仏の造営において庶民の熱狂的な歓迎を受けた。東大寺の大仏開眼や大仏殿供養に、庶民は熱狂的に参加した。
 鎌倉の大仏は何度かの造営を繰り返したが、それを可能にしたのは、それを支持する庶民がいたからであった。苦しみにあえぐ人々にとっての救済への願望が大仏に託されていたのだ。なーるほど、そういうことだったのですね。
 悪左府、悪源太、悪僧。これらに共通する「悪」とは、単なる反価値としての悪ではない。地方社会の深部から作り出されたエネルギーが、そこに盛り込まれている。ここでは、悪はアクであってワルではありません。ワルだと少し軽いノリですね。
 中世の裁判制度の歴史をみると、社会の動揺や政治的内紛があるたびに裁判の改革が行われていることが分かる。鎌倉幕府では、承久の乱のあとの評定制、宝治合戦のあとの引付制など、主要な改革は内乱や内紛のあとになされている。朝廷においても、院評定制は宮騒動後に設けられている。さかのぼると、治承・寿永の内乱のあとの記録所や、保元の乱のあとの記録所も同じである。
 これは、裁判制度が、徳政の一環として秩序の維持に重要な役割を果たしていることを為政者が認識していたからである。裁判が秩序維持機能を果たしうるためには、何よりも裁判に公正さが要請される。公正さを欠いた裁判は、むしろ秩序を乱す結果すら生む。鎌倉幕府はつとめて裁判の公正さを保つために心を砕いた。退座規定を設けたり、評定衆から起請文をとって公正を誓わせている。昔から日本人は裁判が嫌いだったなんてとんでもない嘘です。日本人が昔から裁判大好きだったことが、ここにも裏付けられています。
 花押は、個人の表徴として文書に証拠力を与えるものであった。すなわり、花押こそ文書に証拠力を与えたのである。そうはいっても、この花押なるものは、よく読みとれませんよね。英語のサインと同じで、読みとれないから他人が容易にマネできない。だから価値がある、ということなのでしょうか……。
 女院制度が制度的にもっとも充実していたのは院政期だった。源氏は、為義・義朝・頼朝の三代にわたって女院に接近して、政治的進上を果たした。院につかえていた京武者の源氏が「貴種」と呼ばれ、さらに政権をつくるのにあたって、女院の存在はきわめて大きな意義をもっていた。平氏も同じで、平忠盛は待賢門院に仕え、続いて美福門院に接近した。平氏一門が「公達」として高位高官についたのも、また女院の存在なくしては考えられない。
 待賢門院以後の女院は、大規模な荘園をもつ荘園領主として存在し、その女院につかえる女房はそれらの荘園を知行して経済的基盤としていた。しかも、女院領は女院から女院へと伝領され、女房の所領も女房へと伝えられてゆき、そこでは女院・女房が一体となって社会的な影響力を与えていた。
 日本では、昔から女性は政治の舞台でも大いに力を発揮していたというわけです。
 院政期の日本社会の実相を、少しながら知ったように思いました。500頁近い大作ですが、分からないなりに読み通して学者の偉大さを思い知りました。

 昨日(7日)、今年初めてセミの鳴き声を聞きました。歩道わきのビルの壁にセミの抜け殻を見つけたのが先でした。あちこちでヒマワリの花も見かけます。我が家の庭は今年はヒマワリがなぜかとても少なく、寂しい気がします。そして、ヒマワリはまだ花を咲かせてくれません。
 
(2005年12月刊。 円+ 税)

2009年3月31日

中世の借金事情

著者 井原 今朝雄、 出版 吉川弘文館

 借りたものは返せ。返せないなら生命にかえてでも返せ。これが現代日本の常識です。ところが、中世日本では、そんな「常識」は通用していなかったというのです。目からウロコが落ちる思いで読みすすめました。
 あれーっ、うひゃあ、そうだったのか……と、驚くばかりの記述がありました。
 著者は現代日本の「常識」に対して、根本的な問いを投げかけています。借りたものは返せというけれど、大銀行や大企業のかかえた巨額の不良債権はどのように処理されたのか。巨額の公費(もちろん私たちの負担した税金のことです)を投入してまで債権放棄を容認した。金融危機になったら、国民生活を破壊する。それを避けるためのやむをえない超法規的措置だと国民を無理に納得させて、たとえば第一勧銀に900億円、富士銀行に1兆円の公的資金を投入した。飛島建設への6400億円、青木建設への1049億円の債権免除を銀行に認めさせた。私有財産制、自由競争の市場原理の絶対性が、現実にはダブル・スタンダードになっている。もはや、借りたものはあくまで返せという近代債権論は、社会常識の暴力と化している。なーるほど、そう言われたらそうですよね。同じことはアメリカでも問題になっていますね。銀行が倒産しそうだというので巨額の税金をつぎこむけれど、庶民が破産しても政府からは冷たく放っておかれるだけです。自己責任の原則だというのです。でも、よく考えたら、これっておかしいですよね。
 中世日本では利子率を制限する法はなかった。利子が年に10割でも12割でもよかった。しかし、その代わり、利子は元本の2倍以上には増えないという総額規制が働いていた。これを利倍法という。
 私出挙の利息が増殖するのは480日間までで、その額は本銭の倍額まで、貸借期間が何年になっても、利子はそれ以上には増殖しない。
 法定以上の利子をとった借金は、違勅罪として敗訴した。債務不履行になったら、質物(しちもつ)を流してよい、という契約を結んでいても、あらためて本人との合意文書を作らなければ質物を流すことはできないという慣習法が生きていた。
 中世は身分制社会であったから、領主が借用だと言って領民から強制的に借金をしておきながら、踏み倒すということが多かった。それと反対に、領主が強制的に領民に貸し付けて利子を取り立てるという貸し金制度が展開されていた。借金の強制による利殖をもっとも合理的に活用したのは織田信長である。
法外な利子は天皇の命令に反する違勅罪であり、債務者は借金の元本は返すべきだが、非法な利息分は返さなくてもよいという判決が下された。
 雑令(ぞうりょう)や格に違反した法外な利息をむさぼる貸借契約によって借りたものは、返済する必要がないと判決された。
 法外な利息は無効である。これが12世紀の法曹官人の社会常識であった。
 元本の倍額以上の利息を徴収する出挙(すいこ)の利は違勅罪だという法理念が中世日本の社会に浸透していた。
 債務者の権利を保護しようとする社会意識が債権者の権利擁護よりも強固であった。窮民救済のために債務者の権利保護が社会正義であるという法理念が生きていた。
 中世の日本では、質流れ地には私的所有権が成立しなかった。質地は債権者の自由な私有地になることはなかった。質地は永領の法なし、が大原則だった。
 中世社会では、質物が質流れになったあとにおいても、債務者はなんどでも受け出す機会を保障されていた。債務者の権利と債権者の権利とが共存しあっていた。中世人の社会常識では、質物はいつまでも質物であり、双方の合意がないかぎり物権は移動しない。
 要するに、借りたものは利子をつけて返すのが古代以来、不変の社会常識であるという現代人の常識は誤りなのである。
 うへーっ、そ、そうなんですか。それは知りませんでした。常識論の怖さですね。最近の最高裁判例で、ヤミ金に対しては借りた元金も返す必要がないというのは中世日本の常識にかなっているというわけです。
(2009年1月刊。1700円+税)

2009年3月 6日

いくさ物語の世界

著者:日下 力、 発行:岩波新書

 いくさ物語、つまり、軍記物語として、保元(ほうげん)物語、平治(へいじ)物語、平家物語、承久(じょうきゅう)物語の4作品が取り上げられています。いずれも鎌倉時代、1230~1240年ころに生まれた作品です。
過去の戦いをふりかえり、文字化しえた背景には、久しぶりに訪れた平和があった。
 平家物語が成立当初より琵琶の語り物だったとは考えがたい。その文体と語りとを結びつけるのは難しい。1300年ころには、琵琶法師が、「保元」「平治」「平家」三物語をそらんじていた。さまざまな過程で、口頭の芸と交渉をもった軍記物語は、民衆の中に受け入れられていき、かつ、庶民の望む方向へ成熟させられた。正しい歴史事実を伝えるよりも、人々と感動を共有することが求められた。
 軍記文学には年齢の記述が欠かせない。熱病に冒されながら頼朝の首を我が墓前にと言い残して死んだ清盛は64歳。白髪を黒く染めて見事な討ち死にを遂げた斉藤別当実盛(べっとうさねもり)は70有余歳。人々は、その実人生に思いを馳せる。年齢の記述は、その人物の現実社会における生と死を、具体的に想像させる重要な機能も果たしている。とくに年齢が強調されるのは、戦いの犠牲となった幼い子どもたちの悲話。
「平家物語」の一の谷の戦に出てくる敦盛(あつもり)、師盛(もろもり)、知章(ともあきら)、業盛(なりもり)の4人は10代、16歳前後だった。16という年齢は、若くして戦場に散った薄幸の少年たちを象徴するものであった。いくさの無情さが、この年齢に託されている。
 軍記物語が扱うのは内戦に過ぎない。そのためか、勝敗を相対化する社会が内在している。少年平敦盛(あつもり)の首を取った熊谷直実(なおざね)は、武士の家に生まれた我が身の出自を嘆く。勝つことが絶対的価値を持つものではなく、勝者も単純には喜びえない戦いの現実がものがたられている。
 東国から改めて上がる武士たちの行動には、皇室の権威などに臆せぬ小気味の良さがある。「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付きなんず。弓箭(ゆみや)取る身の習ひぞかし」
つまり、勝つ方に付くのが武士の常道であることを堂々とこたえた。
 現在を生き抜く計算、功利的な価値観が、武士の行動の原点であった。
武器使用に心得のある者は等しく「武士」である。貴族のなかにも、自らを「武士」と称する人物がいた。力をもつことへの渇望が、社会全体に偏在していた。
 平家が壊滅した一の谷の合戦は、平家群万に対して、源氏軍はその10分の1ほど。にもかかわらず、平家はあっけなく壊滅した。なぜか?
平家軍に対して朝廷側が平和の使者を派遣し、平家側は、それを受け入れようとしていたところに、突然、源氏の軍勢が襲いかかってきたためである。幕府の記録である「吾妻鏡」が、宮廷貴族の姑息な策謀に乗って手中にした勝利を、素直にこう書くはずはない。武士の活券にかかわるからである。「平家物語」には、実際にあった醜いかけひきの影はみじんもない。物語は、この合戦を、勲功に野心を燃やして果敢にふるまう、熊谷のごとき東国武士たちと、その野心に欠けるゆえに悠長な、かつ、駆り集められたゆえに団結力にも欠ける平家武士たちとの戦いとを描いた。
 一方で、集団を誘導する人心掌握術にたけた総大将義経を描くと同時に、他方、集団から守られることなく、非業の死を遂げていく歌人忠度(ただのり)や笛の名手敦盛といった、野蛮な東国人と気質を異にする教養ある平家の人々の姿を描いた。その見事な作劇のため、今日まで歴史記述をも誤らせてきたのだ。うむむ、なるほど、そういうことだったのですか・・・。面白い本です。


(2008年6月刊。740円+税)

2008年2月 7日

関ヶ原合戦と大坂の陣

著者:笠谷和比古、出版社:吉川弘文館
 いやあ、実に面白い本です。本を読む醍醐味をしっかり堪能することができました。まるで戦国絵巻を見ているような臨場感あふれていて、ハラハラドキドキさせられるほどの迫真の出来映えです。従来の通説に著者は真っ向から大胆に立ち向かっていきます。小気味のいい挑戦がいくつもなされ、思わず拍手を送りたくなります。著者は私とほとんど同世代ですが、たいした学識と推察力です。これまでにも『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ)や『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社)を書いていて、私はすごく感心して読んでいたのですが、本書は、まさしく極めつけの本です。
 関ヶ原の地には、私も2度だけ現地に行ってみました。今度は、家康の本陣があった桃配山、小早川秀秋のいた松尾山、そして毛利の大軍が動かなかった南宮山などを、現地で見てみたいと思いました。
 石田三成が加藤清正や福島正則、細川忠興など有力7武将から追撃されて伏見にある家康の屋敷に逃げこんだという通説は誤りである。三成の入ったのは、伏見城内にあった自分自身の屋敷である。ひえーっ、そうだったんですか・・・。
 石田三成は伏見城西丸の向かいの曲輪にある三成自身の屋敷に入ったのである。それは「三成は伏見の城内に入りて、わが屋敷に楯籠もる」という当時の軍記本に明記されている。
 石田三成襲撃事件の本質は、朝鮮の陣における蔚山城戦をめぐるものであって、事件の主役は蜂須賀家政と黒田長政の2人だった。家康は、この事件を平和的に解決したことから世望が高まり、伏見城に入った。
 家康が会津追討に動いたあと、石田三成を首謀者とする上方方面での反家康挙兵は2段階ですすんだ。第1段階は、石田三成と大谷吉継だけの決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも何らの事前の相談も事情説明もなされていなかった。第2段階は、三成らの説得工作がうまくいって大坂城にいる豊臣奉行衆や淀殿が三成の計画に同調し、豊臣家と秀頼への忠節を呼号して家康討伐の檄文を発出した段階。
 会津征討の途上にある下野国小山でなされた有名な小山評定は、この第1段階を前提としてなされたものであって、そのとき既に第2段階にあることを家康ほか誰も知らなかった。ふむふむ、なるほど、家康も自信満々というわけにはいかなかったのですね。
 家康は、東軍として行動していた豊臣系武将を十分に信用してはいなかった。彼らが西軍と遭遇したときの行動に不安があった。もし、西軍が秀頼をいただいて攻め寄せてきたらどうなるのか、家康には大きな不安があった。そんな彼らと身近に行動することの危険性を感じていた。
 家康は上杉方への押さえ、諸城の守備のため、かなりの武将を配置していて、関ヶ原合戦に投入することができなかった。家康にとって、背後にいる上杉・佐竹の連合軍を無視することはできなかった。
 徳川の主力部隊を率いていたのは嫡子の秀忠の方だった。そして、信州・上田城主の真田昌幸らを攻略するのは、小山評定で策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な巧名心に発するものではなかった。つまり、中山道を進攻する秀忠部隊の主要任務は、上田城にいる真田勢を制圧することであり、それが家康の指令だった。
 ところが、真田制圧ができていない状況のもとで、すぐに来いという家康の指令が届いて、秀忠部隊は大混乱に陥った。秀忠には、本来の任務である真田制圧作戦に失敗したという心理的な負い目が迷走を増幅させた。
 このように秀忠部隊の関ヶ原合戦の遅参は、徳川勢力の温存を意図してなされたものという説は間違いである。では、家康が江戸城にぐずぐずしていたのはなぜか。そして、出陣を急に決めて戦場へ急いだのはなぜなのか?
 もし家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、東西決戦の決着がついたら、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうのは明らかである。
 家康は、豊臣武将たちの華々しい戦果の報告に接すると、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止させ、家康の到着を待つよう指示した。
 家康がもっとも恐れた事態は、大坂城にいる西軍総大将である毛利輝元が豊臣秀頼をいただいて出馬してくる事態であった。秀頼が戦場に出馬してくるという風説を流されるだけでも東軍の豊臣武将たちが浮き足だつ心配があった。だから、できる限り早く三成方の西軍との決着をつけなければならなかった。
 関ヶ原合戦での東軍は3万人というが、徳川の主な兵力は井伊直政と松平忠吉のあわせて6千人でしかなく、残りはすべて豊臣系の将士だった。
 石田三成は、かねて大坂城より大砲数門を運んできていて、この大砲で応戦したため、東軍の大部隊を相手にして、長時間にわたってもちこたえた。
 むしろ、小早川秀秋が家康方東軍の要請にこたえて、手はずどおりに動かなかったことが、この合戦を複雑なものにした最大の要因だった。
 西軍の鶴翼陣のなかに包まれるように東軍が布陣したのは、小早川軍の裏切りを織り込んでいたことによる。家康は一気に勝敗をつけるつもりでいた。ところが、石田三成の部隊が最後の一兵にいたるまで奮戦敢闘したため、小早川秀秋の裏切りがずるずると遅れてしまったのである。家康は、自分が罠にはめられたとうめいたほどである。
 関ヶ原合戦のあと、家康による論功行賞がなされたが、最大の功労者である福島正則に対しても、使者による口頭伝達がなされた。なぜか?
 領地配分の主体が家康なのか、秀頼なのかという微妙な問題があったから。
 関ヶ原合戦において家康方東軍が勝利しても、豊臣体制が解体したわけではなく、まだ、家康は豊臣公儀体制の下で、大老として幼君秀頼の補佐者にとどまっていた。したがって、家康は、書面を発給できなかった。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そういう事情があったのですね・・・。
 秀頼は、関ヶ原合戦のあとも、将来、成人したあかつきには武家領主を統合する公儀の主宰者の地位に就くべき人間であると了解されていた。慶長8年に家康が将軍に就任し、同20年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでは、二重公儀、二重封臣関係の時代であった。
 関ヶ原合戦のあと、豊臣家と秀頼が摂河泉の3国の一大名に転落したという認識は誤っている。この3か国は純粋の直轄領にすぎず、ほかにも知行地はあった。
 豊臣氏は、諸大名とは別格であり、徳川将軍と幕府の支配体制に包摂されない存在だった。家康は、将軍に任官したあとも、秀頼に対しては臣下の礼をとった。家康は、秀吉の臨終間際の、「秀頼をよろしく頼む」という哀願を受け入れて行動した。
 家康は、徳川将軍家を基軸とし、豊臣関白家と天皇家との血縁結合を完成させるべく起想し、実行していた。血縁結合による徳川・豊臣・天皇家のトライアングルを形成することこそ、徳川成犬を強化する最善の戦略だった。
 しかし、しかし。すべては家康という固有の軍事カリスマの存在が前提である。この状態で家康が死んだら、どうなるか・・・。ふむ、ふむ、なるほど
 方広寺大仏殿の鐘銘は単なる偶然のことではなく、意図され、意識的に記されたものだった。家康の知恵袋である金地院崇伝が言いがかりをデッチ上げたという説は誤りである。
 うむむ、これも、そうなのか・・・、と、つい、うなってしまいました。
 大坂冬の陣そして夏の陣の経緯についても興味深いものがありましたが、ここでは割愛します。興味のある方は、ぜひ、本書を手にとってお読みください。
 私は、すごい、すごい、そうだったのかと、大いに興奮しながら読みすすめていきました。学校で教わる日本史の教科書も、ぜひ、このように書いてほしいものだとつくづく思いました。
(2007年11月刊。2500円+税)

2007年11月26日

風は山河より

著者:宮城谷昌光、出版社:新潮社
 徳川家康が三河一帯を支配する前から始まる大河小説です。主人公は三河の武士である菅沼三代。東から武田信玄が攻めてきて、織田信長が西にいて、両雄のあいだで揺れ動かざるをえません。5巻ものの大長編です。『小説新潮』に2002年4月号から2007年3月号まで連載されていたそうです。
 モノカキのはしくれを自称している私は「あとがき」に目がひかれました。いやあ、ホンモノの小説家って、ホント、大変なんですね。
 連載開始後、一年もたたぬうちに、つらさをおぼえた。そのつらさは軽減するどころか、増大しはじめた。小説をつづけてゆくうえで調べなければならぬことが山ほどあり、毎日、5時間ほど資料と文献を読んだあと、原稿用紙にむかうと、疲れはてた自分がいた。そういう状態では、一日に一枚しか原稿を書けない。
 これがいつまで続くのか。そう考えるたびに悪寒をおぼえ、暗澹となった。引くに引けない、とはこういうことであろう。私は尺取り虫のようなものであった。そういう寸進を2年以上続けた。連載回数が50回に近づくころ、ようやく筆が速くなった。その速さに、自分でもおどろいた。結末が遠いながらもはっきりとみえたことで、小説がぶれなくなった。
 すごいですね。ここまでやるのですね。著者は「原稿用紙にむかう」と書いているので、パソコン入力ではないのでしょうね。私と同じ、手書き派だと推測しました。そして、実は、私も5巻ものの大長編小説(実は6巻まで考えています)に挑戦中なのです。既に3巻を出して、近く4巻目を刊行する予定です。私の場合には、結末がまだ自分でも見えてきませんので、主人公たちは一体どうなることやらと思いながら書きすすめています。なにしろ私の分身たちも主人公の一人なのですが、小説というのは書きすすめているうちに独り歩きしていくので、たとえ書き手であっても完全に制御することはできないのです。また、そこに書き手としてのワクワクする楽しみもあるわけですが・・・。
 第1巻は三河の守護の成り立ちの説明から始まっています。室町時代には、細川氏でなければ一色氏であった。しかし、応仁の乱以降、守護の威権ははなはだしく衰え、一色氏は南の渥美を戸田氏に奪われ、足下から台頭した波多野全慶に敗れて、ついに三河を支配する力を喪失した。ところが一色氏に仕えていた牧野古白成時は、今川に近づき、波多野氏に勝って一色氏の旧領の中心部を支配することになる。
 実は、私の配偶者の旧姓は牧野と言います。亡くなった父親は古文書や家系図に関心をもっていて、三河の牧野家の末裔であることを誇りに思っていました。ひょんなところで、牧野家の話が出てきて、驚いてしまいました。
 決断せぬ者を相手にすることは、時の浪費である。うーん、そうなんですね・・・。
 甲斐の武田晴信(のちの信玄)が父の信虎を駿河へ追放した。このとき晴信は21歳、信虎は48歳。うむむ、よほど信虎は家臣から人望を得ていなかったのですね。それにしても、とても信じられない年齢です。
 無沙汰とは、沙汰(訴訟)をとりあげないことをいう。なおざりにすることを意味する。 全5巻を半年かけて、ようやく読みきりました。こんな長編を書くのは本当に大変だったと思いますが、読むほうもそれなりに大変でした。それでも戦国時代の息吹を強く感じさせられ、生きた日本史の勉強になりました。
 私の読めない、意味を知らない漢字、熟語がたくさんあったことにも驚きました。
(2006年12月〜2007年3月刊。1700円+税)

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