弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(中世)

2017年9月 2日

中世ふしぎ絵巻

(霧山昴)
著者 西山 克(文)、北村 さゆり(画) 、 出版  ウェッジ

変わった(凝った)装丁の本です。絵を主体として、解説しているように見えて、やはり文章が主体の絵巻解説本です。
『百鬼夜行絵巻』とか『百怪図巻』というものがあるそうですが、この本はそれをやや現代風にアレンジした感じの妖怪たちが描かれています。
そして、厩(うまや)につながれている馬が人の言葉をしゃべったという話ものせる怪異譚(たん)が紹介されています。
若い女は孤の化身だったとか、病気になった関白の肩に「小さき孤の美しげなる」が乗っていたのが目撃されたという話も紹介されています。
皆既日食をパロディー化した『百鬼ノ図』がある。日食の時間帯に、御法度(ごはっと)の歌舞音曲を楽しむ妖物たち。日食の間を待ちかねてメイクを始める化粧道具の怪。その闇の中で、妖物たちを解放する鬼卒(きそつ)。
『妖物記』は、寛正(1460年ころ)の飢饉という、大災害の記憶を留めるものとして描かれた。
天皇の家政機関に「作物所」があった。「つくもどころ」と呼ぶ。
先食台(せんじきだい)は、本当は施食台(せじきだい)であり、死者、いわば餓鬼や鬼神たちが一飯に与(あず)かっていた。
不思議な花があった。金花、銀花。本当に花なのか・・・。二人の陰陽師(おんみょうじ)の一人は花と言い、他方は花ではないと断言する。その正体は、クサカゲロウという昆虫の卵。
昔から日本でゲイの人を「おかま」と呼ぶことがあるのは、釜鳴りを鎮める呪法には異性装がからんでいた。そして、釜鳴りを鎮める呪法とかかわっていたから、「おかま」と呼ばれるようになったのではないか・・・。
なかなか読ませて魅せる長文の解説付きの妖怪絵本です。少し高価なので、せめて図書館で閲覧してみて下さい。
(2017年6月刊。3200円+税)

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2015年4月26日

描かれた倭寇

                                 (霧山昴)
著者  東京大学史料編纂所 、 出版  吉川弘文館

 日本の中世、14世紀ころ、日本の倭寇が朝鮮・中国の海岸部を荒らしまわったようです。
 中国は明王朝、朝鮮は高麗王朝から李王朝に変わったころのことです。そして、この倭寇は、16世紀になっても活発に動いていたのでした。しかし、後期倭寇は、果たして日本人なのか・・・、という疑問があります。
 この本は、後期倭寇を描いた「倭寇図巻」を詳細に検討したものです。高精細デジタルカメラによる赤外線撮影によって、肉眼では読み取れない文字が読めるようになった成果をふまえています。
「倭寇図巻」には、多くの類似した作品があった。そして倭寇を描く絵画は「倭寇図巻」だけではなかった。「倭寇図巻」を東京大学史料編纂所は、1923年より前から所蔵していた。そして、天安門広場にある中国国家博物館は「抗倭寇巻」を所蔵している。
両者の絵を紹介しつつ、その異同を細かく検討しています。なるほど、なるほどと思いながら、読みすすめていきました。
 倭寇というからには、日本人のはずです。そして、日本のイメージというのは、日本刀と日本製の折り扇だったのでした。扇も日本刀も、15世紀から16世紀半ばまで続いた遣明船貿易のなかで、日本から大量に輸出された商品だった。細身で強い反りを特徴とする日本刀は、多いときには公貿易分だけで3万7000本も中国に持ち込まれた。その値段は、量に反比例して、1本10貫文(100万円)から、1貫文まで下落した。1回の貿易で多いときには10万貫文もの売り上げを誇る最大級の輸出品だった。扇もまた大量に中国へ輸出された。15世紀前半、遣明船1回の公貿易だけで、2200本という記録がある。日本製の折り扇は人気の品であり、15世紀半ばの遣明船で明に赴いた僧侶は、扇1本で翰墨(かんぼく)全書一式を手に入れた。また、16世紀の遣明使節の日記には、扇を売って買い物費用を調達したり、世話になった明人たちへの贈答品にしたことが記されている。これらの日本製というイメージの濃い日本刀や扇が倭寇を示す記号として絵に描かれている。
果たして倭寇とは日本人なのかという疑問を解明することは出来ませんが、中国人(明時代の)倭寇のイメージをビジュアルにとらえることのできる貴重な本だと思いました。
 
 
(2014年10月刊。2500円+税)

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2013年6月 3日

古代・中世の芸能と買売春

著者  服藤 早苗 、 出版  明石書店

奈良時代の采女(うねめ)は、地方の郡司層の容貌の良い若い女性が選ばれ、はるばる都の朝廷に宮人として仕え、任を終えれば帰郷できた。
遊行女婦(うかれめ)や娘子(おとめ)たちの中には、都の官人にひけをとらない教養を身につけた地方出身の女性たちが多くいた。そして、宴のあとの性的交渉は、古来からの伝統であった。専門歌人として宴に列席した遊行女婦と都下りの官人たちとの共寝は、しごく自然の成り行きだった。
遊女は、性を売る芸能兼業女性として、9世紀末期ころから成立した。
 妻が夫以外の男性と性関係をもっても、それほど非難されず、それだけで離婚になることはなかった。
 男性がプロポーズしても、女性が同意しなければ、性愛関係はもてない。さらに、女性の母の同意がなければ、性関係も無理だった。女性は一緒に寝たいと素直に表現し、同意すると、男性は夜に通った。
 男女関係も夫婦関係も緩やかな時代から、生涯にわたる夫婦同居が社会秩序になっていくのは、9世紀末から10世紀以降である。
 11世紀中頃までは、平安京内の貴族層が邸宅内に遊女、傀儡女(くぐつめ)たちを招き、歌い遊ぶ遊宴はそれほど盛んではなかった。11世紀の後期になって多くなった。
 源経信たちと一緒に歌って遊んだ歌女は、遊女や傀儡女と同様に共寝も業としており、貴族にとって、ある程度長期間、あるいは一生の「愛物」的な存在である妾的配偶者だった。貴族の男性たちは、公にできない愛人との会合のための宿を欲していた。その宿所を提供していたのが、女房と宿所を媒介した女たちであった。
 拍子をはっきりと刻み、拍子にあわせて歌い舞うのが白拍子である。白拍子とは、雅楽の伴奏ではなく、拍子だけの伴奏で歌い舞う芸能であり、12世紀中ころから宮廷の殿上人たちによって舞われた芸能だった。
 本来は貴族の男性たちが宮廷で舞う男舞を、男装した女性たちが舞ったことに新鮮さと新しい時代の予兆があったのではないか。これが白拍子女の出現である。
 後鳥羽院において、皇子女を出産した三人は、ともに白拍子、舞女である。これは共寝も伴う芸能女性たちへの蔑視が強くない時代だったことを意味している。
 そして、貴族層にも白拍子女、遊女を母にもつ者が多かった。白拍子女・遊女・舞女たち芸能者は貴族層のツマになっていた。そして、その所生子は決して公郷層から除外されてはいなかった。
 しかし、白拍子女・舞女が正妻になったとまでは考えられない。遊女・傀儡女・白拍子女たちの中で、芸能にすぐれ、容貌が良く、さらにコミュニケーション力のある女性たちの中でも幸運な者のみが、上皇や貴族・武士層を長期にわたるパトロンとして獲得でき、子どもでもできれば、一生涯、愛人やツマとして遇された。
 貴族層の愛人となり、子どもを産むと、子どもはきちんと認知され、他の男性と関係をもっても、父親はそれぞれ確認される。
 鎌倉時代から傾城(けいせい)という言葉が見られる。13世紀ごろから出はじめる。
 14世紀の南北朝期以降、芸能と売色を兼ねる女性たちの諸国遍歴が増加する。
 遊女や芸能女性の地位が下がるのは、売色の要素が強くなったことと、諸国を流浪することによるのではないか・・・。
足利義満の側室となり、北野殿とか西御所ともよばれた高橋殿は中世後期の傾域としてもっとも著名である。この高橋殿は、美貌ばかりではなく、相手の気を引きつけるずば抜けたコミュニケーション力が、接待術で立身出世した。経済的に相当の負担がかかる熊野詣でに、高橋殿は少なくとも15回は行っている。
 古代・中世の女性の地位をめぐる考察として、大変興味深く読みました。
 古来、日本の女性は性におおらかだったことが、この本でもよく分かります。
(2012年10月刊。2500円+税)

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2012年4月28日

蕩尽する中世

著者  本郷  恵子   、 出版   新潮新書 

 芥川龍之介の『芋粥』の話は有名です。
 芋粥は、山芋を甘葛(あまずら)の汁で煮たお汁粉のようなもの。当時の侍にとっては、めったに食べられないご馳走だった。接待した藤原利仁(としひと)は国司を歴任した平安時代の武人である。
 受領(ずりょう)は、諸国の現地を支配する責任者であり、受領は地方の富を思うままにする、富裕を体現する存在であった。受領は自らの責任で任国を支配し、経営し、朝廷への納入物を核比するとともに、さらに多くを徴収して富を蓄えようとした。その強欲ぶりは『今昔物語集』にも紹介されている。
 院政とは、父から息子へという男系による直系相続を、父が壮年のうちに確定しようとする要請から生まれた政治方式である。院政の出現によって、母系に拠る摂関政治から男系原理への転換がはかられた。同時に貴族社会内部の結びつきも女性的なものから男性的な性格に移行することになった。
 院政の嚆矢となった白河院の時代は、荘園と受領、文書主義と情緒的結びつき、女系原理と男系原理が並立し、時代の変わり目がかつてない活況を生み出した。
 後白河院について、当代きっての才人にして有能な政治家であった信西は、「古今東西でこれほど愚かな王は見たことがない」と評した。後白河院は、臣下の優劣や忠と不忠の見分けがつかないばかりでなく、宮中の身分秩序を無視して、いわば雑芸に携わる者と身近に接しようとした。
 中世社会に一貫しているのは、荘園整理令に始まる文書主義で、これはたぶんに机上の帳尻あわせという性格をもつ。だが、大量に生産される文書は、支配権の存在が曖昧になり、武力や暴力が重みを増すなかで、社会を統合し、秩序を演出するための大きな力となった。
 実体をそなえた秩序を達成する新しい力があらわれて、文書主義が役割を終える段階がすなわち中世の終焉であろう。
 何でも文書(書面)にして記録として残しておきたいというのは、それこそ日本古来の習慣だったようですね。
 平氏政権の本質は、武力に傑出した全国規模の受領、すなわち、受領の最終形態というべきものだったのではないか。平氏は一国単位ではなく、全国を経営の対象としており、その方針を支持する各地の武士団や有力者を参加に集めた。平氏の軍事組織も、一種の利益共同体と考えるのが適当であり、平氏権力の低下とともに人々が離散するのも不思議ではない。
 室町幕府において、荘園支配をめぐっては、貴族や寺社等の旧来の本所勢力と武士との争いが頻発しており、足利直義のもとでの裁判は、しばしば武士に不利な判決を下している。証拠文書を検討し、領有の法的正当性を問うのだから、武力で侵略を行う武士が敗訴するのは当然ともいえる。室町幕府は秩序を回復するために、幕府を支えて戦う武士たちを冷遇するという、矛盾した裁定を行っていた。
平安から鎌倉・室町時代の人々の動きについて、ちょっと違った視点から通覧することのできる面白い本でした。
(2012年1月刊。1300円+税)

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2011年4月 5日

僧兵=祈りと暴力の力

著者 衣川 仁 、  講談社選書メチエ 
 
この本を読むと、中世のお寺というのは、そこで僧侶が静かに修行していただけというものではなく、社会的な権力体であり、ときに集団的な暴力沙汰も辞さない物騒な存在であったことが分ります。何ごとも固定観念で、とらえてはいけないものなのですね。
比叡山延暦寺など、寺院は社会的な権力体として、最大級の権力基盤をそなえていた。その勢力は、寺領荘園という経済的基盤と、俗人も含みこんだかたちで拡大していた寺僧の集団によって支えられていた。
大衆は、だいしゅと読む。寺院の勢力を担う僧侶集団をさす。ときに何千人もの規模を誇っていた。
世俗的な要素を色濃くもつ中世の寺院では、ときに熾烈な内部抗争があり、延暦寺の根本中堂でも大きな騒乱が発生したことがある。
平安時代。八世紀、千人をこえる大衆が京都へ入浴し、強訴を敢行した。このうち6百人が大般若経を、2百人が仁王教を1巻ずつ持参し、残る2百人は武装していた。
大衆が行う僉議(せんぎ)では、聴衆を魅了する弁舌をそなえたリーダーシップが必要だった。 中世の寺院の意思は、座主でも僧綱でもなく、大衆の名のもとに形成されていた。
近年、僧侶になる者は、1年に2,3百人おり、その半数以上は、「邪濫の輩」(じゃらんのともがら)である。諸国の百姓(ひゃくせい。一般の人民)が、税負担を逃れようと自ら剃髪し、勝手に法服を着ている。それが年々増加し、今では人民の3分の2が僧の姿をしている。彼らの家には妻子がいて、平気で肉を食べている。うむむ、なんとなく分かりますね。
戒牒(かいちょう。受戒したことを証明する文書)を、税逃れの根拠としている。
天皇が「現神」(あきつかみ)であることのみで権威を保ち得た時代は過ぎ去り、諸神との相互関係のうちに権威を高める新たな段階にいたった。
中世寺院は、10世紀公判以降、寺院の意思として集団的に武力を行使するようになった。中世において、仏法は、他の時代に対して、恐るべき力をもっていた。
神人(じにん)、寄人(よりうど)とは、国司への負担を免除されるかわりに寺院・神社に従属した民のこと。中世の寺院や神社は、荘園住民を神人・寄人として組織することにより、その経済基盤と支配領域を拡大していった。
神人がその宗教的脅威を利用したのは、借金の取り立てだけではなかった。彼らは、都や在地社会において、大衆の手先となって神威をふるっていた。ときに都において神人がみせた神威のもっとも先鋭的なかたちが神輿(しんよ)動座である。そして、それは大衆の強訴(ごうそ)として採用された。神輿動座をともなった強訴は、11世紀末以降、頻発した。この強訴には暴力性をともなっていた。強訴では、視覚・聴覚に訴える要素が重要であった。
こうやってみてくると、平安時代って、琴の音とともに静かな時代というイメージなんか吹っ飛んでしまいますよね。それどころか、むき出しの暴力までもが横行する、荒々しい社会だったのではないかという気がしてきます。
古い寺院も、その視点で改めてのぞんでみてみましょう。
                   (2010年11月刊。1500円+税)

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2011年1月 4日

中世民衆の世界

 著者 藤木 久志、 岩波新書 出版 
 
 のっけから衝撃的な問題提起がなされています。年貢納入を前提として、百姓の
 逃散を認める、その年の年貢さえ払えば、百姓はどこへ行ってもかまわない、というのは、中世を一貫して近世に至っていたのではないか。「百姓は土地に縛りつけられた者」と断定すること自体が、もともと間違っていたのではないか。
 ええっ、な、なんということでしょうか・・・・。欠落人(かけおちにん)の田畠は、あくまでも「惣作」(村による耕作の維持管理)が建て前で、家財のように分散はしない、というのが焦点であった。
 村を捨てた欠落百姓を近世では「潰れ百姓」ともいった。この「村の潰れ百姓」もまた、本来、「かならず再興されるべき百姓株(名跡)」とみなされ、そのための積極的な再興作(賄い)が問題になっていた。
 村はずれに、村人たちが寄りあって建てた堂、惣堂があり、そこなら村の「方々」の断って借りるまでもない。だから、村人も気軽に旅人にそこを勧めた。惣堂は、「みんなのもの」でありながら、「だれのものでもない」と広く見なされていた。
 領主が地主に断りもなく村を他人に売り払ったとき、地元の住民は「逃散」という反対運動を起こし、売買を破棄させる。これは特異な出来事ではなかった。
 戦国の村から人夫を調達するには、その労働の程度に応じて、社会的にみて適当と思われる額の「代飯(だいは)」が支給されるのが通例となっていた。
 百姓の夫役は有償だったのであり、タダ働きではなかった。金額の多少を問わず・・・・。中世の軍役は、兵粮自弁ではないのである。
 領主側は、もっぱら朝廷に訴え、裁判によって解決するという道を選んでいた。これに対して村側は、一貫して実力行使によって解決しようとし、鎌を取る行為と、その返還要求が焦点になっていた。
 中世の日本で、百姓は意外にもしたたかで、しぶとく領主権力とたたかっていたのですね。改めて日本史を見直し、考え直してみる必要があると思いました。
(2010年5月刊。800円+税)

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2010年12月19日

深重の橋(上)

 著者 澤田 ふじ子 、中央公論新社 出版 
 
 ときは応仁の乱のころです。深重は、じんじゅうと読みます。すごいんです。すごいですね、作家の想像力には、ほとほと感嘆します。
 15世紀、一条兼良(かねら)が活躍しているころの京都です。将軍足利義政、義尚の政治下にありますが、無法もまかり通っています。
 人々は死に近くなると鴨川のほとりに無造作に投げ捨てられ、まだ生きているうちから着物をはぎ取られてしまいます。野犬に食われ、カラスに身体をつつかれ、洪水とともに川下に流されていくのが遺体の始末となっていました。
 そんな世の中ですから、人買いが横行し、若い男女が辻に立たせられて売られていきます。そんな境遇にあっても希望を捨てずに字を学び、算盤を習得し、たくましく生き抜こうという若者たちがいました。すると、それを支えよう、助けようという人々もいるのです。
 面白い展開です。下巻が楽しみです。
 
(2010年2月刊。1700円+税)

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2010年5月 9日

北畠親房

著者 岡野 友彦、 出版 ミネルヴァ書房

 鎌倉時代末期(13世紀)、公家社会は、親幕府的傾向を持つ持明院統よりのグループと、反幕府的傾向を持つ大覚寺統よりのグループに大きく分かれていた。公家社会にとって最大の感心事は、自家の存続であり、いずれかのグループに旗幟を鮮明にしてしまうことは、きわめて大きなリスクを追いかねない。そこで、ほとんどの公卿層は、いずれの勢力にもある程度のコンタクトを持ちつつ、周囲の情勢をうかがっていた。そのなかで、あえて大覚寺統よりであることをいち早く鮮明にしたのが北畠家の人々だった。
 北畠家の盛衰は、とりもなおさず大覚寺統の盛衰を反映したものにほかならなかった。親房は、北畠家の嫡男として生まれた時点で、大覚寺統派の公卿として活躍すべき運命が初めから定められていた。
 中世社会の平均寿命は、およそ50歳。後醍醐天皇52歳。足利尊氏54歳、新田義貞は39歳で亡くなった。当時の人々は、40歳を一定の定年と考えていた。当時の人々にとって出家とは、今日の定年退職にほかならない。40歳をすぎてからの人生は、いわば第二の人生であった。親房は、38歳で出家したが、父も38歳で、祖父は46歳で出家していた。
 北畠親房は、出家した後、陸奥、伊勢、そして常陸へと下向し、その地の実情を目の当たりにして、その地の人々と交流するなかで、40歳を超えてから人間として大きく成長を遂げた。
 親房は、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐天皇の朝令暮改ぶりに対して、このままでは世論の信頼を失う可能性があると諫言したかったに違いない。
 奈良時代以来、壬申の乱の記憶なるものは、天皇家にとって、常に立ち直ってもっとも輝かしい過去であった。うひょう、そ、そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
 大日本は神国なり。この書き出しに始まる『神皇正統記』のなかで、親房は、不徳の天皇は廃位されて当然としている。この本は、幼少の後村上天皇を訓育・啓蒙するために書かれた本である。
 「南北朝」対立の本質は、あくまでも公卿中心の政治を目ざす南朝と、武家中心の政治を目ざす足利政権との争いであった。これが武家政権によって巧妙に「君と君との御争い」に持ち込まれてしまったのである。
 北畠親房を保守反動の象徴的人物とみるのは必ずしもあたっていないという本書の指摘は、大いにうなずけるところがありました。
 中世日本における公卿と武士の関係を考え直させてくれる面白い本でした。
 
(2009年10月刊。3000円+税)

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2009年8月17日

著者 下川 博、出版社 小学館

 黒澤明の『七人の侍』をよみがえらせたような小説です。ただし、舞台は戦国時代よりはるかにさかのぼった14世紀の半ば、南北朝のころです。まだ荘園が健在だったころのことです。
 14世紀の百姓を、貧しく哀れな存在と決めつけるのは間違い。侍を雇えるくらいには豊かで、百姓はたくましく力強く自立していた。
 この本は、横浜市金沢区に今もある称名寺(しょうみょうじ)に残されている古文書。とくに結解状(げちじょう。土地の収支報告書)をもとにして当時の百姓たちがいかにして村を守ったのか、そのためにお金を出して侍を雇っていたことを明らかにしています。まさしく『七人の侍』と同じ状況が日本の農村に実際にあったのですね。驚きました。
 荘園において、ある田んぼの百姓の耕作権は永続的に保障されていたのではない。個人契約であり、毎年、領主の代理人である雑掌と契約を結び直す。毎年、百姓の耕す田んぼは違うのだが、立地条件によって、収穫の多い良田、収穫の少ない悪田の違いがどうしても生じる。
 農民が土地に執着するというのは、近世になって出来た神話であり、このころの農民は、得にならないと思えば、案外あっさりと土地を捨てた。
 長者の屋敷は卯花垣(うのはながき)に取り囲まれている。卯花垣は長者の象徴だ。屋敷を卯花垣で囲むことが長者の証なのだった。
 弩(ど)は、弓と似ていて、矢が空を飛ぶ。しかし、形状と操作手順が弓とはまるで異なる。弓は縦に構えるが、これは地面と平行に横に構える。弓を引きしぼって弦(つる)を留金(とめがね)に掛けておく。次に矢を番(つが)える。引き金を引いて留金を外す。矢が飛び出す。和弓と違って矢を引きしぼった状態に保っておく必要がない。そのため、素人でも狙いが定めやすく、的に面白いほどよく当たった。
 弩の歴史は古い。秦の始皇帝の兵馬傭坑からは、保存状態の良い弩が数多く出土している。日本に入ってきたのは弥生時代のころ。実用の武器としては、蝦夷(えみし)対策用の武器として大和朝廷が採用している。
 ただし、弩は日本に一度つかわれたものの、やがて廃(すた)れた。というのも、弩には武器として大きな弱点があるから。的に良く当たるが、一度、発射してしまうと、二の矢を撃つのに手間がかかる。強い弓を撃つためには、弓を引きしぼらねばならず、半端でない力がいる。
 この弱点を補うため、分業という工夫がなされた。矢を撃つ者、弓を引きしぼる者、矢をつがえる者、3人を1組にし、作業を分担した。しかし、日本では戦場で分業が必要な武器には人気が集まらなかった。威力があっても攻撃に空白が生じてしまう武器は人心に不安を生じさせるため、どうしても不人気になる。
 この時期、百姓が侍を雇うのが珍しくない時代になっていた。村を襲う領主の暴力から守るため、侍を雇い、知恵をしぼって、分業体制をとって戦ったのです。ここらあたりは『七人の侍』と同じパターンです。
 日本人の多くが昔から長いものには巻かれろということでは必ずしもなかったことのよく分かる面白い本です。一読をおすすめします。
(2009年7月刊。1700円+税)

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2009年7月 8日

院政期社会の研究

著者 五味 文彦、 出版 山川出版社

 院政期は、腕力こそがものを言った社会であった。しかし、腕力だけがすべてではなかた。常に文書なるものが作成される必要があり、その文書の理が腕力ともども院政期社会を支配していた。
 たとえば、この時期の訴訟は、証文をそえて、その「調度文書理」「次第文書理」に任せて裁可されることを要求するのが通例であった。腕力といえども、この文書の理を真っ向から否定するわけにはいかなかった。
 このように、腕力も文書を必要としていた。謀書といわれる偽文書が多く作成されたのも院政期社会の特徴である。それは、腕力が文書の理を認めざるをえなかったことを物語るものである。すなわち、腕力と文書の理との微妙な共存関係こそが、院政期社会の一つの特徴なのである。武士の腕力は、結局のところ、文書の理と争って、それを退けることになったが、それはその後の武士の発展を暗示するものであった。
 白河、鳥羽、後白河の3上皇の院政の時期を院政期という。
 承久の乱(1221年)は、西国に支配の基盤をもつ院と、東国に政権を樹立した鎌倉幕府(北条義時)との武力衝突であった。鳥羽院は、「朕の生まるるは、人力に非ざるなり」と述べ、天皇家の血統性の故ではなく、直接、神と結ばれている点に自己の権威を位置づけた。
 中世社会において勧進聖人の果たした役割はすこぶる大きかった。東大寺再興に寄与した重源をはじめ、諸大寺の再興・造営の多くは勧進聖人の活動を待たねばならなかったし、港湾の修築、道路や橋梁の修造など、さまざまな土木・建築事業に勧進聖人は多大の貢献をした。
 院政期以来、造寺・造仏・造橋などに勧進聖人は庶民に受け入れられていたが、そのなかでもことに大仏の造営において庶民の熱狂的な歓迎を受けた。東大寺の大仏開眼や大仏殿供養に、庶民は熱狂的に参加した。
 鎌倉の大仏は何度かの造営を繰り返したが、それを可能にしたのは、それを支持する庶民がいたからであった。苦しみにあえぐ人々にとっての救済への願望が大仏に託されていたのだ。なーるほど、そういうことだったのですね。
 悪左府、悪源太、悪僧。これらに共通する「悪」とは、単なる反価値としての悪ではない。地方社会の深部から作り出されたエネルギーが、そこに盛り込まれている。ここでは、悪はアクであってワルではありません。ワルだと少し軽いノリですね。
 中世の裁判制度の歴史をみると、社会の動揺や政治的内紛があるたびに裁判の改革が行われていることが分かる。鎌倉幕府では、承久の乱のあとの評定制、宝治合戦のあとの引付制など、主要な改革は内乱や内紛のあとになされている。朝廷においても、院評定制は宮騒動後に設けられている。さかのぼると、治承・寿永の内乱のあとの記録所や、保元の乱のあとの記録所も同じである。
 これは、裁判制度が、徳政の一環として秩序の維持に重要な役割を果たしていることを為政者が認識していたからである。裁判が秩序維持機能を果たしうるためには、何よりも裁判に公正さが要請される。公正さを欠いた裁判は、むしろ秩序を乱す結果すら生む。鎌倉幕府はつとめて裁判の公正さを保つために心を砕いた。退座規定を設けたり、評定衆から起請文をとって公正を誓わせている。昔から日本人は裁判が嫌いだったなんてとんでもない嘘です。日本人が昔から裁判大好きだったことが、ここにも裏付けられています。
 花押は、個人の表徴として文書に証拠力を与えるものであった。すなわり、花押こそ文書に証拠力を与えたのである。そうはいっても、この花押なるものは、よく読みとれませんよね。英語のサインと同じで、読みとれないから他人が容易にマネできない。だから価値がある、ということなのでしょうか……。
 女院制度が制度的にもっとも充実していたのは院政期だった。源氏は、為義・義朝・頼朝の三代にわたって女院に接近して、政治的進上を果たした。院につかえていた京武者の源氏が「貴種」と呼ばれ、さらに政権をつくるのにあたって、女院の存在はきわめて大きな意義をもっていた。平氏も同じで、平忠盛は待賢門院に仕え、続いて美福門院に接近した。平氏一門が「公達」として高位高官についたのも、また女院の存在なくしては考えられない。
 待賢門院以後の女院は、大規模な荘園をもつ荘園領主として存在し、その女院につかえる女房はそれらの荘園を知行して経済的基盤としていた。しかも、女院領は女院から女院へと伝領され、女房の所領も女房へと伝えられてゆき、そこでは女院・女房が一体となって社会的な影響力を与えていた。
 日本では、昔から女性は政治の舞台でも大いに力を発揮していたというわけです。
 院政期の日本社会の実相を、少しながら知ったように思いました。500頁近い大作ですが、分からないなりに読み通して学者の偉大さを思い知りました。

 昨日(7日)、今年初めてセミの鳴き声を聞きました。歩道わきのビルの壁にセミの抜け殻を見つけたのが先でした。あちこちでヒマワリの花も見かけます。我が家の庭は今年はヒマワリがなぜかとても少なく、寂しい気がします。そして、ヒマワリはまだ花を咲かせてくれません。
 
(2005年12月刊。 円+ 税)

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