日本史(中世)
2007年03月09日
雷神の筒
著者:山本兼一、出版社:集英社
織田家鉄炮頭(てっぽうがしら)橋本一巴(かっぱ)の物語。
火縄銃が種子島に伝来して11年。織田鉄炮衆は200挺もそろえていた。先日読んだ本によると、火縄銃が種子島に初めて伝来したのか、本当のところは確証はなく、そのころ、九州各地に一斉に鉄炮が伝来してきたのではないかということでした。要するに、海の彼方から西洋製の鉄炮が伝来してきたというわけです。種子島の沖には川より流れのはやい黒潮があり、それに乗れば種子島から堺までわずか4日。種子島は海の宿場町。奄美・琉球はもとより台湾、福建、浙江はては呂宋やポルトガルの連中までやってくる。
先日の新聞に、種子島では、この新説に対して大いに異論を唱えており、近くシンポジウムを開くとのことです。
この本では鉄炮となっています。鉄炮一挺の相場は10年でずいぶん下がって、銭50貫文。米にして百石(こく)。武具というより、珍奇な玩具のたぐい。そんな高価な鉄炮を集めて喜んでいるのは、九州の大名のほかは足利将軍義輝くらいのもの。九州では実戦に鉄炮がつかわれ、大隅国では鉄炮による初の戦死者も出た。
日本人は器用ですから、伝来してきた鉄炮を分解して、たちまち大量生産をはじめました。近江の国友村は、琵琶湖の北東にある小さな村だが、数十軒の鉄炮鍛冶がある。この国友村こそ、鉄炮製造の一大メッカだった。さまざまな大きさと形の鉄炮が試作されていった。
世界で最初に黒色火薬を発明したのは、おそらく10世紀の中国人。硝石に硫黄と炭を粉にして混ぜると、すばやく着火、燃焼する。
火薬をつくるうえで欠かせない塩硝は尿にふくまれる硝酸アンモニウムと珊瑚を焼いた炭酸カリウムを硝化菌というバクテリアのはたらきで硝酸カリウム(硝石=塩硝)に変成させた。
鉛玉がそろえられないため、陶製の玉(陶弾)をつくった。土を選び、釉薬を加減して硬く焼きしめると鉛玉と同じように発射できた。甲冑(かっちゅう)への貫通力もある。
織田軍と武田軍の長篠の戦いのとき、三段撃ちは実戦と違うという指摘がなされています。鉄炮は、設楽原に1000挺、鳶ヶ巣山を襲った別働隊に500挺。あわせて1500挺と推測しています。
ただ、この本は従来の通説にしたがって今川義元が敗死した田楽狭間(でんがくはざま)について、狭い谷としていますが、これは間違いと思われます。実際には小高い丘の上に今川義元の本陣はあり、織田軍は、そこへ正面突破をかけたのです。小説であっても歴史物を書く以上、学説の動向をきちんとふまえておかないといけません。
日本は明に日本刀を輸出した。一振(ふり)、二振の単位ではなく、束にして一把(ぱ)、二把の単位で数えた。値のいいときは、日本で一振八百文から一貫文の刀剣が明では五貫文で売れた。享徳2年(1453)から天文16年(1547)までのあいだに、113万8000振の日本刀が中国に輸出された。
鉄炮伝来以来の戦(いくさ)の変容と、それを担った鉄炮衆の存在に目が見開かされる面白い小説でした。
2007年05月25日
一所懸命
著者: 岩井三四二、出版社:講談社
この本を読んでいるうちに映画「七人の侍」をついつい思い出してしまいました。なんだか、とても似たシチューエーションなのです。
ときは戦乱に明け暮れる戦国時代。織田勢が大軍を仕立てて美濃の国へ攻め入ってくるという。地侍は領主の命令で小者を従えて出仕しなければならない。たとえば騎馬侍二騎、槍足軽二人、指物持ち一人、弓持ち一人、徒歩立ち二人の合計八人を出す必要がある。大変なことだ。
他国の軍勢が侵入してくれば、どのようなひどいことになるか。
米や麦を盗む、女を犯すぐらいは当たり前のことだ。盗むものがなければ、刈り入れ前の稲を刈ったり、麦や野菜を踏みつけてめちゃくちゃにするなどの嫌がらせをする。負けて捕らえられて者は、奴として売り飛ばされるし、軍勢が去る前には家を焼いたり、井戸に糞を撒いたりする。それは、自分自身も合戦に参加すればやってきたことだ。
この本は合戦に否応なく参加させられた雑兵の眼で描いています。なるほど、戦国時代の合戦というのはこんなものだったんだろうなと思いました。
織田信長や秀吉など、トップに君臨する英雄だけに目を向けるのではなく、それを底辺で支えていた人々の気持ちを考えてみることに目が向きました。読みものとしても大変面白く出来ていますが、歴史の見方に目が開かされた思いがしたという点で、私はこの本を高く評価したいと思います。
2007年06月06日
検証、本能寺の変
著者:谷口克広、出版社:吉川弘文館
とても面白い本でした。信長が突然殺された本能寺の変については、陰謀説など諸説いり乱れており、私もずっと関心をもっていろんな本を読んできました。この本は、それら汗牛充棟の本をまとめて、A説、B説などと分類するだけの本かなと、期待せず読みはじめたのです。ところが、読みはじめたとたん、ぐいぐい引きこまれてしまいました。1時間の通勤電車のなかで読み終えることができず、裁判のあい間にも引っぱり出して読みふけり、ようやく帰りの電車で読み終えました。読み終わったのがもったいない感じがするほと読みごたえのある本でした。当時の日記や文書(覚書とか聞書)も、どの程度信頼できるのかを明らかにしていますが、この点もとても説得力がありました。
信長が安土城を出発したのは、天正10年(1582年)5月29日の早朝のこと。京都に入ったのは、午後4時ころ。
6月1日、京都の本能寺で、信長は堂上公家(とうしょうくげ)と対面した。まるで皇居が一時的に移ったかのように賑わった。このとき、信長と朝廷とのあいだには、任官の問題(三職推任ーさんしきすいにん)と、暦の問題があった。すなわち、信長は4年前に右大臣と右近衛大将の両官を辞任し、このとき朝廷の官職には何も就いていなかった。また、暦の問題を信長が蒸し返したのは6月1日の当日に日食が起こり、京暦が予測できなかったから。当時、日食のときの日光は汚れとされ、天皇の身体を汚れから遮るため御所を薦で包むのが慣例だった。日食が予測できたということのほうが私には驚きでした。
6月1日、本能寺には、小姓たちが2〜30人、中間、小者(こもの)、それに女性を入れて100人ほどしかいなかった。信長の馬廻りの人々4〜500人は、京都の方々に分宿していた。
6月1日の家康は、茶の湯三昧の日だった。朝は今井宗久邸、昼は天王寺屋で津田宗及の茶会、夜も堺奉行松井友閑邸で茶の湯の饗応を受けた。
信長の長男信忠のいた妙覚寺は本能寺から直線距離で600メートル、道に沿っても1キロしか離れていない。光秀の軍が本能寺を襲ってから、二条御所を陥落させるまで4時間かかった。ほぼ予定どおりだった。光秀は6月5日に安土城に入り、残されていた金銀財宝を気前よく将兵に分け与えた。ところが、光秀が頼みにしていた筒井順慶からは「消極的拒絶」に会った。そして、もう一人の細川藤孝からははっきり拒絶された。
家康は6月2日の朝、堺を逃げ出した。伊賀越えして、伊勢白子に出た。
秀吉が変報に接したのは、6月3日の夜半過ぎ、今でいう4日の未明のこと。すぐに毛利方との交渉を成立させた。しかし、さらに2日間、高松(岡山)にとどまった。毛利軍の出方を警戒したのだ。秀吉は6月6日午後2時に高松を出発して沼城に入った。翌7日、大雨のなか、あふれる川も渡って、70キロを駆け抜け、その日の夜に姫路城に着いた。大雨のなか、甲冑をつけての行軍だった。兵の大部分が置いてきぼりを食らい、遅れて姫路城に着いた。そして、2日後の6月9日午前、姫路城を出て、明石に向かい、10日夜に兵庫に着き、11日朝に尼崎に着いた。13日午後4時から山崎の戦いが始まった。
このような流れを確認したうえで、著者は陰謀説などを批判していきます。胸のすくような論証であり、とても説得力があります。
朝廷と信長との関係については。両者の協調・融和を示す記事こそあれ、対立というべき緊張した事態をうかがわせる記事は見あたらないとしています。
足利義昭の関与説については、光秀がすでに零落している義昭を担いだとて、どれだけ味方を糾合する力になったか疑問だとしています。なるほど、そうでしょうね。
光秀の動機について、精神的疾患が原因だったという説については、
ときは今 あめが下(した)知る 五月(さつき)かな
という有名な句をふまえて、これは古典の教養がちりばめられた質の高い作品であり、非常に冷静な心境がうかがわれるとしています。ふむふむ、そう言われたら、きっとそうなのでしょうね、としか言いようがありません。
著者自身の推測は次のようなものです。光秀は67歳と高齢だったというのです。それが本当だとしたら、ちょっとイメージを変える必要がありますよね。その年齢で天下取りの野望を抱くとは、あまり思えませんからね。
光秀は、このときまでの3年近く、手すきの状態が続いていた。それにもかかわらず、ずっと担当していた四国の長宗我部氏との外交の仕事も実質的に取り上げられてしまった。謀反を起こすまでの光秀は、このように無聊(ぶりょう)をかこつ状態だったのである。信長が四国対策を転換したことは、光秀にとって相当な打撃だった。光秀は乱の当時55歳ではなく、67歳だった。ところが嫡男は、まだわずか13歳。
自分が追放されたら、息子も含めて家族みなが路頭に迷う。どう考えても、丹波一国はおろか、坂本城ひとつさえ息子に残す方策はなかった。そこで、ついに光秀は決断した。
本能寺の変をめぐる状況について、一段と認識を深めることができました。
2007年07月12日
敗者から見た関ヶ原合戦
著者:三池純正、出版社:洋泉社新書y
関ヶ原合戦の首謀者は、当時の日本を訪れていた朝鮮使節には毛利輝元だと見えていた。その毛利が所領を4分の1に減らされただけで何の処罰も受けることもなく、その配下の石田三成が首謀者として処刑されたのが不思議だと思われていた。
石田三成は近江佐和山城主19万5千石の大名の一人で、豊臣政権を支えた奉行の一人でしかない。しかも、その奉行の身分は、関ヶ原合戦の直前に徳川家康によって剥奪され、表面上は何の権限も持っていなかった。
関ヶ原合戦は、石田三成を首謀者に仕立て上げて処刑することで、その責任のすべてを三成に一方的に押し付け、その幕を閉じた。
私は関ヶ原古戦場跡に2度行ったことがあります。やはり百聞は一見に如かずです。
この本では、各将が合戦当時に陣取っていた位置を重視しています。毛利軍が陣を布いた南宮山からも、長宗我部のいた栗原山からも合戦場となった関ヶ原はまったく見えない。2万6千という西軍の大軍は、合戦当日、遠くに鉄砲の轟音やときの声を聞いて、黒煙を覆う光景は見えても、両軍が戦う姿は最後まで見えなかった。
たしかに、関ヶ原の現地に立つと、意外に狭いことに驚かされます。西軍の有力な軍隊が隠れるようにいたというのは、それなりの思惑があったのでしょうね。
通説は石田三成について典型的な文人官僚であり、軍事に疎い人物だとしている。しかし、果たしてそうだろうか。三成は官僚である前に、何より軍人であり、武将であった。秀吉のそばにずっといて、合戦についての大局的観点や陣城の構築などを学んでいた。つまり、三成が軍事的に疎い、戦下手(いくさべた)などと考えるのは、不自然なのである。
朝鮮の役についても、文禄・慶長の役を通じ、三成は一貫して兵站・補給力をふくめて国力全体を見通した戦略を構築し、無理な戦いを避けようとした。三成の戦略視点の高さが朝鮮の役で表れている。著者はこう見ます。
徳川家康は関ヶ原合戦のとき、いくつもの不安材料をかかえていた。安心して合戦にのぞんでいたわけではない。福島正則ら豊臣系大名を味方につけていたが、それは「三成憎し」という感情や、その場の雰囲気からであって、もし大坂城にいる秀頼が毛利輝元に擁されて出陣してくれば、どう心変わりするか知れない。
会津の上杉の動きも心配だった。上杉と三成が連携し、上杉が佐竹とともに攻め込んできたら、前後からはさみ撃ちされる心配があった。
頼みの伊達政宗も、その家臣団は一枚岩ではなく、すべてが家康寄りではなかった。だから、家康は江戸を動けなかった。それで家康は全国の諸将に書状を書きまくった。何と160通にものぼる。そして、肝心の徳川本軍3万8千は、信州の真田昌幸の攻城に予想外に手間どり、関ヶ原合戦には間に合わなかった。ことは重大であった。
東軍は西軍の移動を察知することが出来ず、西軍を関ヶ原に着陣させるという失態を演じた。しかしながら、南宮山に陣取った毛利隊は戦う気がないのを東軍に見抜かれていた。長宗我部も同じで、合戦を放棄していた。
三成は松尾山城を重視し、西軍にとって錦の御旗となるべき城と考えていた。そこに三成は毛利輝元を入れるつもりだった。ところが、そこにもっとも警戒していた小早川秀秋が入りこみ、三成の計画は頓挫してしまった。
三成の作戦は決して場当たり的なものではなく、以前から用意周到に考えられ準備されたものだったのだ。三成、恐るべし、である。
小早川秀秋は周囲を東軍に固められていて、西軍に味方することなど不可能だった。要は、東軍につくタイミングだけの問題だった。
関ヶ原合戦について、新しい視野がぐんと広がる、そんな気にさせる面白い本です。
2007年07月19日
武田信玄と勝頼
著者:鴨川達夫、出版社:岩波新書
タイトルだけからすると、信玄と勝頼という戦国大名の親子の葛藤を古文書にもとづき再現・分析した本のように思えます。しかし、本の中味は、文書にみる戦国大名の実像というサブ・タイトルのとおりです。そして、それはそれなりに面白い内容です。
私は、ひやあ、そうだったのか、知らなかったなあ、と思いながら、とても興味深く読みすすめていきました。くずし字の古文書を著者のようにスラスラと解読できたら、どんなに世界が広がるかと、私には著者がうらやましくてなりません。
文書は手紙系の書状と書類系の証文とに大別できる。書状には年紀をつけない。相手が家臣や近隣の大名であるときは、堅切紙(たてぎりがみ。通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名のときには切紙(きりがみ。横に半分に切ったもの)が多く使われる。
証文は、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書である。各級の家臣や寺社、商工業者や郷村の人々まで、領国内の諸階層に幅広く与えられていた。中身は多岐にわたるが、土地の領有を新規にまたは継続して認めたもの(充行状・あてがいじょう、安堵状・あんどじょう)、各種の義務の免除など何らかの特権を認めたもの、戦場における功績を確認したもの(感状)などが目立つ。体裁は必要な事柄を事務的に記したうえで、「仍って件の如し」(よってくだんのごとし)という文言で結ぶのが原則。そして、年紀が必ず記入される。
信玄は永禄9年(1566年)夏ころ、証文のつくり方を変えた。それまでは折紙(おりがみ。紙を横に二つ折りにしてつかう)をつかっていたのを、堅紙(たてがみ。紙の全面をつかう)に改めた。また、信玄自身の名義で出すものと、当該案件の担当奉行名義で出すものとに二分し、前者には花押を書き、後者には龍の朱印を捺(お)すことにした。そこで、信玄名義で花押のあるのを判物、奉行名義で朱印のあるものを朱印状と称する。身分の高い相手や重要な案件については判物、それ以外の大半の案件については朱印状というのが原則であった。つまり、朱印状より判物のほうが格が高い。
出馬と出陣とは違う。出馬は一軍の大将が出動するときにつかう。大将がどこかに滞在することを馬を立てるといい、行動を終えて帰還することは馬を納めるという。大将の下にいる将兵が出動するときには、出陣という。
信玄の直筆の手紙からすると、信玄には気の小さい、臆病なところがあったと解される。しかし、その一方、きわめて強気な態度を示すこともあった。
信玄は、遠江・三河を攻めたとき、そのまま京都に攻め上り、天下を取ろうとしたのだという通説に対して著者は疑問を投げかけています。
信玄の標的が岐阜であり、信長を主敵と考えていたことは間違いないとしても、それは必ずしも本意ではなかった。朝倉義景や本願寺など、当時、信長に圧倒されていた勢力によって反信長陣営に主将として引っぱり出されただけ。
なーるほど、そうかもしれません。戦国大名の統治形式と心理をうかがい知ることのできる手がかりが得られる本です。
2007年08月03日
声と顔の中世史
著者:蔵持重裕、出版社:吉川弘文館
日本人は、訴訟沙汰という言葉があるように、昔から裁判が嫌いだった。そんな俗説が常識となっています。でも、とんでもありません。聖徳太子(果たして実在の人物なのか、という疑問を投げかける学者もいますが・・・)の十七条憲法に「和をもって貴しとなす」というのは、それだけ当時の日本人が争いごとを好んでいたことを意味します。そのころも訴訟好きの日本人が、たくさんいたのです。
この本を読むと、中世の日本人がいかに訴訟を好んでいたか、よく分かります。ただ、今との違いは、弁護人というか職業としての代理人がいないことです。
『日本書紀』によると、孝徳天皇元年(645年)に、訴える人は伴造(とものみやつこ)など所属する集団の長を通じて名前を記して訴状を書いて函(はこ)に投じて訴え、あつめる役人が毎朝これを取り出して天皇に上奏する。天皇は群卿に示したうえで裁断するというシステムだった。天皇が訴を正当に扱わないときは、訴人は鐘(かね)を打ち鳴らした。
称徳天皇の天平神護2年(766年)は、律令制国家になっていたが、朝廷のある壬生(みぶ)門で口頭による訴が認められた。
道長の『御堂関白記』によると、陽明門での大音声での訴があった。これは、天子・官人への訴であるが、同時に平安京の人々への訴でもあった。恐らく口頭による訴を受けて役所ないし官人が訴状を作成したものと思われる。そこで百姓申状が多数のこっている。ただし、夜の訴は認められなかった。その理由は、夜の訴だと訴人が誰か不明だからである。匿名による訴は認められなかった。政敵による謀訴を招くからだった。
先日、東京地裁へ行きました。門前で一人の男性が坐ってハンドマイクで判決の不当性を大きな声で訴えていました。これって平安時代以来の日本の伝統なのですね。
鎌倉中期以降、徳政が重視され、裁判制度の充実(雑訴興行)が重視されるようになった。それは、民間での寄せ沙汰、大寺社の強訴(ごうそ)、幕府の裁判制度の充実に対応するものだった。
鎌倉幕府は、裁判・訴訟の系統を雑務(ざつむ。債権・動産関係)沙汰、検断(けんだん。刑事関係)沙汰、所務(しょむ。所領関係)沙汰の三つに分けた。所務沙汰では、訴状と陳状(答弁書)を3回やりとりする三問三答がおこなわれた。裁許は、引付(ひきつけ。判決草案を作成する役所)頭人より勝訴者に渡される。裁判結果の救済措置もあり、越訴(おっそ)、手続きの過程には庭中(ていちゅう。直訴)があった。
このように幕府の訴訟制度は、基本的には徹底した文書主義だったが、口訴の訴も認められていた。
織田信長時代の天正8年(1580年)のこと。貝を吹くというのは刑の執行の告知。貝によって人を集め、その場で罪名を口頭で告知し、たとえば家を焼いた。口頭音声の罪状告知によって、刑は執行の正当性が確認される。
なーるほど、ですね。日本人は昔から裁判手続を重視し、裁判を為政者は大切にしてきたのです。
2007年10月03日
中世のうわさ
著者:酒井紀美、出版社:吉川弘文館
おぼしきこといはぬは、げにぞ、はらふくるる心ちしける。かかればこそ、むかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりては、いひいれ侍りけめ。
これは、平安時代の歴史物語『大鏡』の序文です。まことに、人間は、思っていることを自分ひとりの腹のうちにためておくことを大の苦手とする生き物ではあります。「ここだけの話だけど・・・」という話は、またたくまに、大勢の人に伝わっていくものです。
なま身の人間の口や耳を通して伝えられ広がっていく「うわさ」には、それにかかわった膨大な人々の意識、願いや望み、心配や恐れ、それらがないまぜになって、何層にも重なり合って刻みこまれていくことになる。それは、まるで多くの人間の手仕事によって織りあげられた織物のようである。
中世社会は自力の世界だったと言われる。たとえば、殺害事件が起きたとき、他の第三者にその捜査や解決をゆだねるのではなく、事件の被害者の血縁者や同じ場に生活している集団が、いちはやく動き出し、事件の状況把握につとめ、犯人を捜査し、さらにはその処罰までをも実行するというやり方が、中世社会では普通だった。これを自力救済という。
何ごとも自分たちの手の届く範囲で解決していこうという姿勢は、中世の人々のもっていた強い集団への帰属意識を軸にしてはじめて実現できるものであった。
中世の日本社会では、「国中風聞」が物証に匹敵するような地位を占めていた。切り札として「国中風聞」が扱われていた。
ええーっ、単なる「げなげな話」が物証に匹敵していたなんて・・・。ホントのことでしょうか?
室町時代の裁判のことが紹介されています。日本人は昔から裁判が嫌いだった、なんて俗説は、まったくの誤りです。日本人は昔も今も(もっとも、今のほうがよほど裁判が少ない気がします)、裁判大好きな民族なのです。そして、それは、日本人が健全な民族であったことを意味する。弁護士生活も33年を過ぎた私は、そのように考えています。
この本に室町時代の土地争いが紹介されています。有名な東大寺百合文書には、折紙銭、礼物、会釈などという、裁判に要した費用の名目と金額が記録されていました。
当時、三問三答というルールで裁判は運営されていました。そして、口頭で弁論して、相手を言い負かした人に感状が与えられたのです。
「器用の言口」(きようのいいくち)とは、相論対決の場で、自分たちの主張を理路整然と展開することのできる力、相手方の矛盾を的確に突き、それを論破する力のことを言います。今の私たち弁護士にも同じものが求められています。私などは、弁護士を長年やっていても、残念ながらなかなか身につきません。いえ、文章のほうは書けるのですが、口頭での対決・論争に自信がないということです。裁判員裁判が始まると、これまでより以上に口頭で論破できる能力が求められることになります。
風聞(ふうぶん)と巷説(こうせつ)と雑説(ぞうせつ)とを並べてみると、巷説と雑説の方は、その内容に信頼度が低く、風聞のほうが信憑性が高いと考えられていた。
物言(ものいい)というのは、まだ起こしていない事件についての予言的なうわさを言う。「国中風聞」という事実が、殺害事件の真実に迫る重要な証言とされるのも、人口(じんこう)に乗ることが悪党である徴証のひとつにあげられるのも、落書起請(らくしょきしょう)で犯人を特定する際に実証と並んで風聞にも一定の席が用意されているのも、すべて、中世のうわさに付与されていた力、神慮の世界との密接なかかわりによる。
同時に、うわさされている内容をくつがえそうとするときには、やはり神慮を問うための手続きが必要とされていた。そのひとつが、精進潔斎したうえで、神前に籠もり、起請文を書いて一定の期間内に「失」があらわれるか否かを問う「参籠起請」であった。
うむむ、こうなると、中世の日本人と現代の日本人とは、同じ日本人であっても、全然別の人間かなと一瞬思ってしまいました。でも、よくよく考えてみると、今の日本人でも神頼みする人はたくさんいるわけですので、あまり変わっていないのでしょうね。
(2007年3月刊。2600円+税)
2007年11月26日
風は山河より
著者:宮城谷昌光、出版社:新潮社
徳川家康が三河一帯を支配する前から始まる大河小説です。主人公は三河の武士である菅沼三代。東から武田信玄が攻めてきて、織田信長が西にいて、両雄のあいだで揺れ動かざるをえません。5巻ものの大長編です。『小説新潮』に2002年4月号から2007年3月号まで連載されていたそうです。
モノカキのはしくれを自称している私は「あとがき」に目がひかれました。いやあ、ホンモノの小説家って、ホント、大変なんですね。
連載開始後、一年もたたぬうちに、つらさをおぼえた。そのつらさは軽減するどころか、増大しはじめた。小説をつづけてゆくうえで調べなければならぬことが山ほどあり、毎日、5時間ほど資料と文献を読んだあと、原稿用紙にむかうと、疲れはてた自分がいた。そういう状態では、一日に一枚しか原稿を書けない。
これがいつまで続くのか。そう考えるたびに悪寒をおぼえ、暗澹となった。引くに引けない、とはこういうことであろう。私は尺取り虫のようなものであった。そういう寸進を2年以上続けた。連載回数が50回に近づくころ、ようやく筆が速くなった。その速さに、自分でもおどろいた。結末が遠いながらもはっきりとみえたことで、小説がぶれなくなった。
すごいですね。ここまでやるのですね。著者は「原稿用紙にむかう」と書いているので、パソコン入力ではないのでしょうね。私と同じ、手書き派だと推測しました。そして、実は、私も5巻ものの大長編小説(実は6巻まで考えています)に挑戦中なのです。既に3巻を出して、近く4巻目を刊行する予定です。私の場合には、結末がまだ自分でも見えてきませんので、主人公たちは一体どうなることやらと思いながら書きすすめています。なにしろ私の分身たちも主人公の一人なのですが、小説というのは書きすすめているうちに独り歩きしていくので、たとえ書き手であっても完全に制御することはできないのです。また、そこに書き手としてのワクワクする楽しみもあるわけですが・・・。
第1巻は三河の守護の成り立ちの説明から始まっています。室町時代には、細川氏でなければ一色氏であった。しかし、応仁の乱以降、守護の威権ははなはだしく衰え、一色氏は南の渥美を戸田氏に奪われ、足下から台頭した波多野全慶に敗れて、ついに三河を支配する力を喪失した。ところが一色氏に仕えていた牧野古白成時は、今川に近づき、波多野氏に勝って一色氏の旧領の中心部を支配することになる。
実は、私の配偶者の旧姓は牧野と言います。亡くなった父親は古文書や家系図に関心をもっていて、三河の牧野家の末裔であることを誇りに思っていました。ひょんなところで、牧野家の話が出てきて、驚いてしまいました。
決断せぬ者を相手にすることは、時の浪費である。うーん、そうなんですね・・・。
甲斐の武田晴信(のちの信玄)が父の信虎を駿河へ追放した。このとき晴信は21歳、信虎は48歳。うむむ、よほど信虎は家臣から人望を得ていなかったのですね。それにしても、とても信じられない年齢です。
無沙汰とは、沙汰(訴訟)をとりあげないことをいう。なおざりにすることを意味する。 全5巻を半年かけて、ようやく読みきりました。こんな長編を書くのは本当に大変だったと思いますが、読むほうもそれなりに大変でした。それでも戦国時代の息吹を強く感じさせられ、生きた日本史の勉強になりました。
私の読めない、意味を知らない漢字、熟語がたくさんあったことにも驚きました。
(2006年12月〜2007年3月刊。1700円+税)
2008年02月07日
関ヶ原合戦と大坂の陣
著者:笠谷和比古、出版社:吉川弘文館
いやあ、実に面白い本です。本を読む醍醐味をしっかり堪能することができました。まるで戦国絵巻を見ているような臨場感あふれていて、ハラハラドキドキさせられるほどの迫真の出来映えです。従来の通説に著者は真っ向から大胆に立ち向かっていきます。小気味のいい挑戦がいくつもなされ、思わず拍手を送りたくなります。著者は私とほとんど同世代ですが、たいした学識と推察力です。これまでにも『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ)や『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社)を書いていて、私はすごく感心して読んでいたのですが、本書は、まさしく極めつけの本です。
関ヶ原の地には、私も2度だけ現地に行ってみました。今度は、家康の本陣があった桃配山、小早川秀秋のいた松尾山、そして毛利の大軍が動かなかった南宮山などを、現地で見てみたいと思いました。
石田三成が加藤清正や福島正則、細川忠興など有力7武将から追撃されて伏見にある家康の屋敷に逃げこんだという通説は誤りである。三成の入ったのは、伏見城内にあった自分自身の屋敷である。ひえーっ、そうだったんですか・・・。
石田三成は伏見城西丸の向かいの曲輪にある三成自身の屋敷に入ったのである。それは「三成は伏見の城内に入りて、わが屋敷に楯籠もる」という当時の軍記本に明記されている。
石田三成襲撃事件の本質は、朝鮮の陣における蔚山城戦をめぐるものであって、事件の主役は蜂須賀家政と黒田長政の2人だった。家康は、この事件を平和的に解決したことから世望が高まり、伏見城に入った。
家康が会津追討に動いたあと、石田三成を首謀者とする上方方面での反家康挙兵は2段階ですすんだ。第1段階は、石田三成と大谷吉継だけの決起であり、淀殿にも豊臣奉行衆にも何らの事前の相談も事情説明もなされていなかった。第2段階は、三成らの説得工作がうまくいって大坂城にいる豊臣奉行衆や淀殿が三成の計画に同調し、豊臣家と秀頼への忠節を呼号して家康討伐の檄文を発出した段階。
会津征討の途上にある下野国小山でなされた有名な小山評定は、この第1段階を前提としてなされたものであって、そのとき既に第2段階にあることを家康ほか誰も知らなかった。ふむふむ、なるほど、家康も自信満々というわけにはいかなかったのですね。
家康は、東軍として行動していた豊臣系武将を十分に信用してはいなかった。彼らが西軍と遭遇したときの行動に不安があった。もし、西軍が秀頼をいただいて攻め寄せてきたらどうなるのか、家康には大きな不安があった。そんな彼らと身近に行動することの危険性を感じていた。
家康は上杉方への押さえ、諸城の守備のため、かなりの武将を配置していて、関ヶ原合戦に投入することができなかった。家康にとって、背後にいる上杉・佐竹の連合軍を無視することはできなかった。
徳川の主力部隊を率いていたのは嫡子の秀忠の方だった。そして、信州・上田城主の真田昌幸らを攻略するのは、小山評定で策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な巧名心に発するものではなかった。つまり、中山道を進攻する秀忠部隊の主要任務は、上田城にいる真田勢を制圧することであり、それが家康の指令だった。
ところが、真田制圧ができていない状況のもとで、すぐに来いという家康の指令が届いて、秀忠部隊は大混乱に陥った。秀忠には、本来の任務である真田制圧作戦に失敗したという心理的な負い目が迷走を増幅させた。
このように秀忠部隊の関ヶ原合戦の遅参は、徳川勢力の温存を意図してなされたものという説は間違いである。では、家康が江戸城にぐずぐずしていたのはなぜか。そして、出陣を急に決めて戦場へ急いだのはなぜなのか?
もし家康ぬきで、家康が江戸にとどまったままで、東西決戦の決着がついたら、家康の立場はどうなるか。家康の武将としての威信は失墜し、戦後政治における発言力も指導力も喪失してしまうのは明らかである。
家康は、豊臣武将たちの華々しい戦果の報告に接すると、前線に相次いで使者を派遣して新たな作戦の発動を停止させ、家康の到着を待つよう指示した。
家康がもっとも恐れた事態は、大坂城にいる西軍総大将である毛利輝元が豊臣秀頼をいただいて出馬してくる事態であった。秀頼が戦場に出馬してくるという風説を流されるだけでも東軍の豊臣武将たちが浮き足だつ心配があった。だから、できる限り早く三成方の西軍との決着をつけなければならなかった。
関ヶ原合戦での東軍は3万人というが、徳川の主な兵力は井伊直政と松平忠吉のあわせて6千人でしかなく、残りはすべて豊臣系の将士だった。
石田三成は、かねて大坂城より大砲数門を運んできていて、この大砲で応戦したため、東軍の大部隊を相手にして、長時間にわたってもちこたえた。
むしろ、小早川秀秋が家康方東軍の要請にこたえて、手はずどおりに動かなかったことが、この合戦を複雑なものにした最大の要因だった。
西軍の鶴翼陣のなかに包まれるように東軍が布陣したのは、小早川軍の裏切りを織り込んでいたことによる。家康は一気に勝敗をつけるつもりでいた。ところが、石田三成の部隊が最後の一兵にいたるまで奮戦敢闘したため、小早川秀秋の裏切りがずるずると遅れてしまったのである。家康は、自分が罠にはめられたとうめいたほどである。
関ヶ原合戦のあと、家康による論功行賞がなされたが、最大の功労者である福島正則に対しても、使者による口頭伝達がなされた。なぜか?
領地配分の主体が家康なのか、秀頼なのかという微妙な問題があったから。
関ヶ原合戦において家康方東軍が勝利しても、豊臣体制が解体したわけではなく、まだ、家康は豊臣公儀体制の下で、大老として幼君秀頼の補佐者にとどまっていた。したがって、家康は、書面を発給できなかった。
うむむ、なるほど、なーるほど、そういう事情があったのですね・・・。
秀頼は、関ヶ原合戦のあとも、将来、成人したあかつきには武家領主を統合する公儀の主宰者の地位に就くべき人間であると了解されていた。慶長8年に家康が将軍に就任し、同20年の大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでは、二重公儀、二重封臣関係の時代であった。
関ヶ原合戦のあと、豊臣家と秀頼が摂河泉の3国の一大名に転落したという認識は誤っている。この3か国は純粋の直轄領にすぎず、ほかにも知行地はあった。
豊臣氏は、諸大名とは別格であり、徳川将軍と幕府の支配体制に包摂されない存在だった。家康は、将軍に任官したあとも、秀頼に対しては臣下の礼をとった。家康は、秀吉の臨終間際の、「秀頼をよろしく頼む」という哀願を受け入れて行動した。
家康は、徳川将軍家を基軸とし、豊臣関白家と天皇家との血縁結合を完成させるべく起想し、実行していた。血縁結合による徳川・豊臣・天皇家のトライアングルを形成することこそ、徳川成犬を強化する最善の戦略だった。
しかし、しかし。すべては家康という固有の軍事カリスマの存在が前提である。この状態で家康が死んだら、どうなるか・・・。ふむ、ふむ、なるほど
方広寺大仏殿の鐘銘は単なる偶然のことではなく、意図され、意識的に記されたものだった。家康の知恵袋である金地院崇伝が言いがかりをデッチ上げたという説は誤りである。
うむむ、これも、そうなのか・・・、と、つい、うなってしまいました。
大坂冬の陣そして夏の陣の経緯についても興味深いものがありましたが、ここでは割愛します。興味のある方は、ぜひ、本書を手にとってお読みください。
私は、すごい、すごい、そうだったのかと、大いに興奮しながら読みすすめていきました。学校で教わる日本史の教科書も、ぜひ、このように書いてほしいものだとつくづく思いました。
(2007年11月刊。2500円+税)
2009年03月06日
いくさ物語の世界
著者:日下 力、 発行:岩波新書
いくさ物語、つまり、軍記物語として、保元(ほうげん)物語、平治(へいじ)物語、平家物語、承久(じょうきゅう)物語の4作品が取り上げられています。いずれも鎌倉時代、1230~1240年ころに生まれた作品です。
過去の戦いをふりかえり、文字化しえた背景には、久しぶりに訪れた平和があった。
平家物語が成立当初より琵琶の語り物だったとは考えがたい。その文体と語りとを結びつけるのは難しい。1300年ころには、琵琶法師が、「保元」「平治」「平家」三物語をそらんじていた。さまざまな過程で、口頭の芸と交渉をもった軍記物語は、民衆の中に受け入れられていき、かつ、庶民の望む方向へ成熟させられた。正しい歴史事実を伝えるよりも、人々と感動を共有することが求められた。
軍記文学には年齢の記述が欠かせない。熱病に冒されながら頼朝の首を我が墓前にと言い残して死んだ清盛は64歳。白髪を黒く染めて見事な討ち死にを遂げた斉藤別当実盛(べっとうさねもり)は70有余歳。人々は、その実人生に思いを馳せる。年齢の記述は、その人物の現実社会における生と死を、具体的に想像させる重要な機能も果たしている。とくに年齢が強調されるのは、戦いの犠牲となった幼い子どもたちの悲話。
「平家物語」の一の谷の戦に出てくる敦盛(あつもり)、師盛(もろもり)、知章(ともあきら)、業盛(なりもり)の4人は10代、16歳前後だった。16という年齢は、若くして戦場に散った薄幸の少年たちを象徴するものであった。いくさの無情さが、この年齢に託されている。
軍記物語が扱うのは内戦に過ぎない。そのためか、勝敗を相対化する社会が内在している。少年平敦盛(あつもり)の首を取った熊谷直実(なおざね)は、武士の家に生まれた我が身の出自を嘆く。勝つことが絶対的価値を持つものではなく、勝者も単純には喜びえない戦いの現実がものがたられている。
東国から改めて上がる武士たちの行動には、皇室の権威などに臆せぬ小気味の良さがある。「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付きなんず。弓箭(ゆみや)取る身の習ひぞかし」
つまり、勝つ方に付くのが武士の常道であることを堂々とこたえた。
現在を生き抜く計算、功利的な価値観が、武士の行動の原点であった。
武器使用に心得のある者は等しく「武士」である。貴族のなかにも、自らを「武士」と称する人物がいた。力をもつことへの渇望が、社会全体に偏在していた。
平家が壊滅した一の谷の合戦は、平家群万に対して、源氏軍はその10分の1ほど。にもかかわらず、平家はあっけなく壊滅した。なぜか?
平家軍に対して朝廷側が平和の使者を派遣し、平家側は、それを受け入れようとしていたところに、突然、源氏の軍勢が襲いかかってきたためである。幕府の記録である「吾妻鏡」が、宮廷貴族の姑息な策謀に乗って手中にした勝利を、素直にこう書くはずはない。武士の活券にかかわるからである。「平家物語」には、実際にあった醜いかけひきの影はみじんもない。物語は、この合戦を、勲功に野心を燃やして果敢にふるまう、熊谷のごとき東国武士たちと、その野心に欠けるゆえに悠長な、かつ、駆り集められたゆえに団結力にも欠ける平家武士たちとの戦いとを描いた。
一方で、集団を誘導する人心掌握術にたけた総大将義経を描くと同時に、他方、集団から守られることなく、非業の死を遂げていく歌人忠度(ただのり)や笛の名手敦盛といった、野蛮な東国人と気質を異にする教養ある平家の人々の姿を描いた。その見事な作劇のため、今日まで歴史記述をも誤らせてきたのだ。うむむ、なるほど、そういうことだったのですか・・・。面白い本です。
(2008年6月刊。740円+税)
2009年03月31日
中世の借金事情
著者 井原 今朝雄、 出版 吉川弘文館
借りたものは返せ。返せないなら生命にかえてでも返せ。これが現代日本の常識です。ところが、中世日本では、そんな「常識」は通用していなかったというのです。目からウロコが落ちる思いで読みすすめました。
あれーっ、うひゃあ、そうだったのか……と、驚くばかりの記述がありました。
著者は現代日本の「常識」に対して、根本的な問いを投げかけています。借りたものは返せというけれど、大銀行や大企業のかかえた巨額の不良債権はどのように処理されたのか。巨額の公費(もちろん私たちの負担した税金のことです)を投入してまで債権放棄を容認した。金融危機になったら、国民生活を破壊する。それを避けるためのやむをえない超法規的措置だと国民を無理に納得させて、たとえば第一勧銀に900億円、富士銀行に1兆円の公的資金を投入した。飛島建設への6400億円、青木建設への1049億円の債権免除を銀行に認めさせた。私有財産制、自由競争の市場原理の絶対性が、現実にはダブル・スタンダードになっている。もはや、借りたものはあくまで返せという近代債権論は、社会常識の暴力と化している。なーるほど、そう言われたらそうですよね。同じことはアメリカでも問題になっていますね。銀行が倒産しそうだというので巨額の税金をつぎこむけれど、庶民が破産しても政府からは冷たく放っておかれるだけです。自己責任の原則だというのです。でも、よく考えたら、これっておかしいですよね。
中世日本では利子率を制限する法はなかった。利子が年に10割でも12割でもよかった。しかし、その代わり、利子は元本の2倍以上には増えないという総額規制が働いていた。これを利倍法という。
私出挙の利息が増殖するのは480日間までで、その額は本銭の倍額まで、貸借期間が何年になっても、利子はそれ以上には増殖しない。
法定以上の利子をとった借金は、違勅罪として敗訴した。債務不履行になったら、質物(しちもつ)を流してよい、という契約を結んでいても、あらためて本人との合意文書を作らなければ質物を流すことはできないという慣習法が生きていた。
中世は身分制社会であったから、領主が借用だと言って領民から強制的に借金をしておきながら、踏み倒すということが多かった。それと反対に、領主が強制的に領民に貸し付けて利子を取り立てるという貸し金制度が展開されていた。借金の強制による利殖をもっとも合理的に活用したのは織田信長である。
法外な利子は天皇の命令に反する違勅罪であり、債務者は借金の元本は返すべきだが、非法な利息分は返さなくてもよいという判決が下された。
雑令(ぞうりょう)や格に違反した法外な利息をむさぼる貸借契約によって借りたものは、返済する必要がないと判決された。
法外な利息は無効である。これが12世紀の法曹官人の社会常識であった。
元本の倍額以上の利息を徴収する出挙(すいこ)の利は違勅罪だという法理念が中世日本の社会に浸透していた。
債務者の権利を保護しようとする社会意識が債権者の権利擁護よりも強固であった。窮民救済のために債務者の権利保護が社会正義であるという法理念が生きていた。
中世の日本では、質流れ地には私的所有権が成立しなかった。質地は債権者の自由な私有地になることはなかった。質地は永領の法なし、が大原則だった。
中世社会では、質物が質流れになったあとにおいても、債務者はなんどでも受け出す機会を保障されていた。債務者の権利と債権者の権利とが共存しあっていた。中世人の社会常識では、質物はいつまでも質物であり、双方の合意がないかぎり物権は移動しない。
要するに、借りたものは利子をつけて返すのが古代以来、不変の社会常識であるという現代人の常識は誤りなのである。
うへーっ、そ、そうなんですか。それは知りませんでした。常識論の怖さですね。最近の最高裁判例で、ヤミ金に対しては借りた元金も返す必要がないというのは中世日本の常識にかなっているというわけです。
(2009年1月刊。1700円+税)
2009年07月08日
院政期社会の研究
著者 五味 文彦、 出版 山川出版社
院政期は、腕力こそがものを言った社会であった。しかし、腕力だけがすべてではなかた。常に文書なるものが作成される必要があり、その文書の理が腕力ともども院政期社会を支配していた。
たとえば、この時期の訴訟は、証文をそえて、その「調度文書理」「次第文書理」に任せて裁可されることを要求するのが通例であった。腕力といえども、この文書の理を真っ向から否定するわけにはいかなかった。
このように、腕力も文書を必要としていた。謀書といわれる偽文書が多く作成されたのも院政期社会の特徴である。それは、腕力が文書の理を認めざるをえなかったことを物語るものである。すなわち、腕力と文書の理との微妙な共存関係こそが、院政期社会の一つの特徴なのである。武士の腕力は、結局のところ、文書の理と争って、それを退けることになったが、それはその後の武士の発展を暗示するものであった。
白河、鳥羽、後白河の3上皇の院政の時期を院政期という。
承久の乱(1221年)は、西国に支配の基盤をもつ院と、東国に政権を樹立した鎌倉幕府(北条義時)との武力衝突であった。鳥羽院は、「朕の生まるるは、人力に非ざるなり」と述べ、天皇家の血統性の故ではなく、直接、神と結ばれている点に自己の権威を位置づけた。
中世社会において勧進聖人の果たした役割はすこぶる大きかった。東大寺再興に寄与した重源をはじめ、諸大寺の再興・造営の多くは勧進聖人の活動を待たねばならなかったし、港湾の修築、道路や橋梁の修造など、さまざまな土木・建築事業に勧進聖人は多大の貢献をした。
院政期以来、造寺・造仏・造橋などに勧進聖人は庶民に受け入れられていたが、そのなかでもことに大仏の造営において庶民の熱狂的な歓迎を受けた。東大寺の大仏開眼や大仏殿供養に、庶民は熱狂的に参加した。
鎌倉の大仏は何度かの造営を繰り返したが、それを可能にしたのは、それを支持する庶民がいたからであった。苦しみにあえぐ人々にとっての救済への願望が大仏に託されていたのだ。なーるほど、そういうことだったのですね。
悪左府、悪源太、悪僧。これらに共通する「悪」とは、単なる反価値としての悪ではない。地方社会の深部から作り出されたエネルギーが、そこに盛り込まれている。ここでは、悪はアクであってワルではありません。ワルだと少し軽いノリですね。
中世の裁判制度の歴史をみると、社会の動揺や政治的内紛があるたびに裁判の改革が行われていることが分かる。鎌倉幕府では、承久の乱のあとの評定制、宝治合戦のあとの引付制など、主要な改革は内乱や内紛のあとになされている。朝廷においても、院評定制は宮騒動後に設けられている。さかのぼると、治承・寿永の内乱のあとの記録所や、保元の乱のあとの記録所も同じである。
これは、裁判制度が、徳政の一環として秩序の維持に重要な役割を果たしていることを為政者が認識していたからである。裁判が秩序維持機能を果たしうるためには、何よりも裁判に公正さが要請される。公正さを欠いた裁判は、むしろ秩序を乱す結果すら生む。鎌倉幕府はつとめて裁判の公正さを保つために心を砕いた。退座規定を設けたり、評定衆から起請文をとって公正を誓わせている。昔から日本人は裁判が嫌いだったなんてとんでもない嘘です。日本人が昔から裁判大好きだったことが、ここにも裏付けられています。
花押は、個人の表徴として文書に証拠力を与えるものであった。すなわり、花押こそ文書に証拠力を与えたのである。そうはいっても、この花押なるものは、よく読みとれませんよね。英語のサインと同じで、読みとれないから他人が容易にマネできない。だから価値がある、ということなのでしょうか……。
女院制度が制度的にもっとも充実していたのは院政期だった。源氏は、為義・義朝・頼朝の三代にわたって女院に接近して、政治的進上を果たした。院につかえていた京武者の源氏が「貴種」と呼ばれ、さらに政権をつくるのにあたって、女院の存在はきわめて大きな意義をもっていた。平氏も同じで、平忠盛は待賢門院に仕え、続いて美福門院に接近した。平氏一門が「公達」として高位高官についたのも、また女院の存在なくしては考えられない。
待賢門院以後の女院は、大規模な荘園をもつ荘園領主として存在し、その女院につかえる女房はそれらの荘園を知行して経済的基盤としていた。しかも、女院領は女院から女院へと伝領され、女房の所領も女房へと伝えられてゆき、そこでは女院・女房が一体となって社会的な影響力を与えていた。
日本では、昔から女性は政治の舞台でも大いに力を発揮していたというわけです。
院政期の日本社会の実相を、少しながら知ったように思いました。500頁近い大作ですが、分からないなりに読み通して学者の偉大さを思い知りました。
昨日(7日)、今年初めてセミの鳴き声を聞きました。歩道わきのビルの壁にセミの抜け殻を見つけたのが先でした。あちこちでヒマワリの花も見かけます。我が家の庭は今年はヒマワリがなぜかとても少なく、寂しい気がします。そして、ヒマワリはまだ花を咲かせてくれません。
(2005年12月刊。 円+ 税)
2009年08月17日
弩
著者 下川 博、出版社 小学館
黒澤明の『七人の侍』をよみがえらせたような小説です。ただし、舞台は戦国時代よりはるかにさかのぼった14世紀の半ば、南北朝のころです。まだ荘園が健在だったころのことです。
14世紀の百姓を、貧しく哀れな存在と決めつけるのは間違い。侍を雇えるくらいには豊かで、百姓はたくましく力強く自立していた。
この本は、横浜市金沢区に今もある称名寺(しょうみょうじ)に残されている古文書。とくに結解状(げちじょう。土地の収支報告書)をもとにして当時の百姓たちがいかにして村を守ったのか、そのためにお金を出して侍を雇っていたことを明らかにしています。まさしく『七人の侍』と同じ状況が日本の農村に実際にあったのですね。驚きました。
荘園において、ある田んぼの百姓の耕作権は永続的に保障されていたのではない。個人契約であり、毎年、領主の代理人である雑掌と契約を結び直す。毎年、百姓の耕す田んぼは違うのだが、立地条件によって、収穫の多い良田、収穫の少ない悪田の違いがどうしても生じる。
農民が土地に執着するというのは、近世になって出来た神話であり、このころの農民は、得にならないと思えば、案外あっさりと土地を捨てた。
長者の屋敷は卯花垣(うのはながき)に取り囲まれている。卯花垣は長者の象徴だ。屋敷を卯花垣で囲むことが長者の証なのだった。
弩(ど)は、弓と似ていて、矢が空を飛ぶ。しかし、形状と操作手順が弓とはまるで異なる。弓は縦に構えるが、これは地面と平行に横に構える。弓を引きしぼって弦(つる)を留金(とめがね)に掛けておく。次に矢を番(つが)える。引き金を引いて留金を外す。矢が飛び出す。和弓と違って矢を引きしぼった状態に保っておく必要がない。そのため、素人でも狙いが定めやすく、的に面白いほどよく当たった。
弩の歴史は古い。秦の始皇帝の兵馬傭坑からは、保存状態の良い弩が数多く出土している。日本に入ってきたのは弥生時代のころ。実用の武器としては、蝦夷(えみし)対策用の武器として大和朝廷が採用している。
ただし、弩は日本に一度つかわれたものの、やがて廃(すた)れた。というのも、弩には武器として大きな弱点があるから。的に良く当たるが、一度、発射してしまうと、二の矢を撃つのに手間がかかる。強い弓を撃つためには、弓を引きしぼらねばならず、半端でない力がいる。
この弱点を補うため、分業という工夫がなされた。矢を撃つ者、弓を引きしぼる者、矢をつがえる者、3人を1組にし、作業を分担した。しかし、日本では戦場で分業が必要な武器には人気が集まらなかった。威力があっても攻撃に空白が生じてしまう武器は人心に不安を生じさせるため、どうしても不人気になる。
この時期、百姓が侍を雇うのが珍しくない時代になっていた。村を襲う領主の暴力から守るため、侍を雇い、知恵をしぼって、分業体制をとって戦ったのです。ここらあたりは『七人の侍』と同じパターンです。
日本人の多くが昔から長いものには巻かれろということでは必ずしもなかったことのよく分かる面白い本です。一読をおすすめします。
(2009年7月刊。1700円+税)

