弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(中世)

2023年3月 4日

もうひとつの平泉


(霧山昴)
著者 羽柴 直人 、 出版 吉川弘文館

 平泉の中尊寺、そして金色堂には行ったことがあります。それはそれは見事なものでした。東北のこんなところに、京の都に優るとも劣らない堂があること、そして戦火で焼失することもなく、今に残っているのは、奇跡的としか言いようがありません。
 平泉の文化を築いた奥州藤原氏は中央の藤原氏に連なると同時に、土着の安倍や清原にもつながっている。
 この本は、平泉から北へ60キロメートル離れている「比爪(ひづめ)」にも、平泉とは別の奥州藤原氏がいて、この両者は、お互いが独立性を有する対等で並列な関係にあるとしています。まったく知らない話でした。そして、源頼朝が弟の義経とともに打倒した平泉の藤原一族が滅亡しても、比爪のほうは独自の動きをしていたというのです。
 12世紀の日本では、陸奥国が日本国の東端と考えられていた。平泉が陸奥国府よりも奥に位置し、比爪はさらに奥に位置する。
 奥州藤原氏の仏教信仰は阿弥陀如来信仰ではなく、薬師如来だった。
 12世紀当時、長子相続は確立しておらず、本家・分家といった概念も強い束縛はなかった。兄弟であっても、本家と分家であっても、器量や実力のある者が主導権をもち、勢力を伸張していく時代だった。これは陸奥国だけでなく、当時の日本国の一般的な状況だった。
 比爪にとって最大の重要事は、閉伊と北奥の経営だった。比爪の志向は東と北に向いていた。そして、平泉にとっての重要事は、奥六郡よりも南の地域での勢力拡張と維持だった。平泉の志向は西と南に向いていた。そして、平泉と比爪の双方にとっての重要事は、北奥の産物をめぐっての利益配分の調整だった。両者の利害関係の均衡の維持が奥州藤原氏の繁栄の大きな要因だった。
 源頼朝が平泉征伐するとき、源義経を打倒することから平泉政権自体を打倒することに目的がすり替わった。このとき、比爪の藤原氏は自ら戦いに加わらず、自らの拠点比爪からもいったん退いて、状況をうかがった。
 比爪方は、平泉の泰衡を比内で謀殺することを決めていて、頼朝も承知していた。これが、著者の推測です。そして、比爪の名分を守るため、泰衡を謀殺したのは泰衡の郎従(河田次郎)によるものと公表した。河田次郎は斬罪に処せられ、そのあと比爪の藤原一族は頼朝のもとに投降し、許される。とはいうものの、比爪の藤原一族は、結局、消滅したようです。そこが歴史の複雑怪奇なところなのでしょう。
 ともかく、平泉の北60キロメートルの地点に、別の藤原一族がいて、並立し、共存していたという話を初めて知りました。
(2022年8月刊。税込1870円)

2023年1月28日

安倍・清原氏の巨大城柵


(霧山昴)
著者 浅利 英克 ・ 島田 祐悦 、 出版 吉川弘文館

 奥州藤原氏は、藤原氏と名乗ってはいるものの、京都の藤原氏とは縁のない、蝦夷(えみし)の血筋を引く在地豪族とされることが多かった。
 しかし、今では、安倍氏も清原氏も、父系出自は、中央氏族にあるとされている。つまり、安倍・清原氏は、安倍朝臣(あそん)、清原真人(まひと)氏に父系出自をもち、蝦夷系の血統を引く現地豪族に母系出自をもつ、「両属的」な氏族だった。
 平安時代、陸奥(むつ)国には、奥六郡と呼ばれた地があった。奥六郡とは、阿弖流為(あてるい)ら蝦夷(えみし)と呼ばれた人々と中央政府(ヤマト政権)との戦いのあとに、中央政府が支配するために置かれた郡。
 奥六郡を管轄していた胆沢城は、中央政府(ヤマト政権)が律令国家として統一を目ざすにあたり、延暦21(802)年に坂上田村麻呂によって、造営された。
 私は阿弖流為なる蝦夷の大将がいたことを少し前まで知りませんでした。その活躍ぶりを初めて知ったのは、高橋克彦の『火怨(かえん)』(講談社)でした(2000年2月)。そして、熊谷達也の『まほろばの疾風(かぜ)』(集英社)を同年9月に読み、久慈力の『蝦夷・アテルイの戦い』(批評社)を2002年9月に、さらに、樋口知恵の『阿弖流為』(ミネルヴァ書房)を2014年1月に読みました。いやあ、すごい人がいたものです。驚嘆しました。
 結局、アテルイは戦いに敗れ、京都に連行され、そこで処刑されてしまうのですが、東北の人々の不屈の意思はきっちり表明したのです。まだ読んでいない人には、一読を強くおすすめします。昔から日本人が長いものには巻かれろというのではなかったことを、現代に生きる私たちは学ぶべきだと思います。
 この本では、アテルイについて、「大墓公(たいものきみ)阿弖流為」と表記されています。
 安倍氏の出自としては、安倍頼良(頼時)は、五位の位階があった、れっきとした中央の官人だった、とされています。清原氏のほうは、都の清原氏が出羽国の有力氏族と婚姻関係を結ぶことによって清原氏が成長・成立していったと推測されています。
 この本は、巨大な城柵を現地の写真と図解で紹介していますので、イメージがつかめます。
 出羽国の古代城柵にはなく、清原氏の館(城・柵)にあるのは、四面廂(ひさし)建物、土塁と堀、段状、地形。
 東北の陸奥国で栄えた奥州藤原氏の前に存在した安倍・清原氏の巨大城柵を現地の写真とともに紹介している本です。
(2022年7月刊。税込2640円)

2022年12月14日

日本商人の源流


(霧山昴)
著者 佐々木 銀弥 、 出版 ちくま学芸文庫

 1981年に初版が出た本が文庫の形で再刊されました。類書が少ないからのようです。
 店(見世。みせ)、行商、市場、相場、為替、切手など、商取引に関わる基本的な用語は中世を初見年代とするものが多い。商人という言葉自体も、中世に入って国内の商人をさす語として急速に一般化し、定着したとのこと。なので、日本商人の源流は中世に求められる。
 博多は、かつて大宰府の外港として、鴻臚(こうろ)館を中心とした使節送迎、貿易の歴史をもっていた。中世に入っても、朝鮮半島そして大陸との貿易の拠点として繁栄を続けた。
 宋から帰化した多くの商人が住み、日宗通交にともなう禅僧の渡来によって、多くの禅寺が建立された。そして、その関係の禅僧たちが続々と朝鮮におもむいた。
 15世紀、博多の商人。宋金一行は、瀬戸内海で海賊に襲われたとき、東賊なるもの一人を七貫文の身代金で買って、自分たちの船に乗せ、西賊の襲撃を免れた。
 京都などの都市で土倉(どそう)と酒屋は、もっとも裕福な、いわゆる有徳人層を形成している。
 酒屋は、自分で醸造した酒を直接その店頭で売り出していた。
 当時の酒屋は都市を問わず、もっとも担税能力のある富裕にして、都市商人の中心をなす有力商人が多く、いわゆる有徳人層の中心的な存在をなしていた。
 16世紀の天文年間には、洛中に六人百姓塩座があって、専売権を行使していた。そのうちの一人が塩座の権利を娘に譲って営業させていると、他の座衆から、この譲渡は座衆の承認を得ていない非法行為なので無効だと幕府に訴え出た。座が合議制にもとづいて運営されていたことが分かる。
 私が小学1年生のとき、父が47歳で脱サラを図って、小売酒屋を始めました。サラリーマンの給料では5人の子どもを大学にやるのは難しいからということです。それまで、小さな企業体の専務をしていた父は、小売酒屋の主人になっても客に「いっらっしゃい」と頭をさげることができませんでした。子どもながら、ちゃんと客に頭を下げて「いらっしゃい」と言って迎えたらいいのになと私は見ていました。父は、少なくとも初めのうちは、焼酎を立ち飲みするような、一部の客を見下していたのではなかったかと思います。
 私の姉たちはサラリーマン家庭の娘として育ちましたが、私は小売商人の息子として育ったので、ほんの少しだけ感覚が違います。この感覚の違いは私が弁護士になってから役に立っていると私は考えています。やはり、商人の感覚というものがあるのだと私は実感しているのです。
(2022年6月刊。税込1210円)

2022年11月25日

日本商人の源流、中世の商人たち


(霧山昴)
著者 佐々木 銀弥 、 出版 ちくま学芸文庫

 江戸時代の「士農工商」というコトバが職業の序列としてとらえられ、商売人は最下位に置かれていたというのは、今では間違いだとされています。といっても、そのことを私が知ったのは、それほど昔のことではありません。
 商売人がお金を扱うからといって、最下位の身分に置かれるなんて、考えられないことだと思います。「ヴェニスの商人」に登場するユダヤ人の商人がさげすみの」対象でしかなかったとは、私には信じられません。
 日本の中世商人は、著名な神社に所属し、奉仕するという神人身分であり、神威を背景とする特権をほしいままにしていた。
 これこそが中世当初の現実だったと私も思います。お金の力は今も昔も偉大なのです。
 高野聖(こうやひじり)とは、平安時代中期以降、厭世、隠遁(いんとん)の徒が高野山を修行の地とし、ここを根拠として全国を遊行・勧進して歩いた僧。中世後期からは、背に笈(きゅう)を負い、念仏を唱え、鉦鼓をたたいて布教して歩くかたわら、笈の中に呉服を詰め込んで、それを売り歩くようになった。この行商のため聖身分をふりかざし、声高に宿泊を強制するようになり、人々から「宿借聖」として忌み嫌われるようになった。そこで、高野聖は信仰面における人々の信頼を失い、統一権力者の信長や秀吉からは一種の無頼の徒とみなされた。
 12世紀前半に成立した『今昔(こんじゃく)物語集』には、伊勢に行商する京都の水銀商人たちの話がのっている。水銀は、化粧用白粉(おしろい)製造の原料だった。
 15世紀の商人は為替(かわせ)を振出していた。京都下りの商人は、京都との恒常的往来と取引によって形成された信用関係を背景にして、為替を振出すことによって現金を調達して、手広く仕入れることができた。
 全国各地の特産物を扱った行商は莫大な利潤をもたらした。その反面、常に命をかけた危険な旅でもあった。そのため、座と掟書が生まれた。
 旅の途中で出くわした山賊・海賊とは、話し合いで決着させた。
 鎌倉では、大町・小町・米町など都市化した地域に居住するものを町人といい、それ以外のものを商人と呼んで区別していた。
 室町時代から、店舗を示すコトバには「棚」から「店」に変わった。
 借金を帳消しとする徳政令について、商人の多くは債務破棄を申請しなかった。徳政令のあとの融資の可能性を保持するのを優先したことになる。
 京都では、土倉(どそう)と酒屋は一体とみなされていた。都市において土倉と酒屋は、もっとも富裕な、いわゆる有徳人層を形成していた。
 いつだって、したたかに生きてきた、日本の中世の商人の実像に迫った貴重な本だと思います。
(2022年6月刊。税込1210円)

2022年10月25日

奈良絵本・絵巻


(霧山昴)
著者 石川 透 、 出版 平凡社選書

 この本の冒頭に書かれていて、あっと驚いたのは、『ガリバー旅行記』に日本の絵本の影響が認められるということです。
 『ガリバー旅行記』は、イギリスの作家スウィフトが1726年に刊行したものです。私は原文を全文読んだ覚えはなく、ダイジェスト版の絵本を読んだと思います。でも、そこに、こびとの島や巨人の島、さらには馬人の島、天空の島が登場してくるのは覚えがあります。
 ところが、御伽草子(おとぎぞうし)の一つである『御曹司島渡(おんぞうし、しまわたり)』という、源義経が兵法書を求めて、さまざまな島を訪れるというストーリー展開の絵本があり、そこにこびとの島、背高島、馬人の島が登場するというのです。日本の絵本のほうが『ガリバー旅行記』より100年古い。いったい、これは、どういうこと...?
 スウィフトは、イギリスで駐オランダ英国大使の秘書をしていて、大使の遺品整理をしている。もちろん、オランダは江戸時代の日本と長崎・出島を通じて交流があった。そのなかに日本の絵本が含まれていた可能性は大いにある。そして、文章は読めなくても、絵を見るだけでストーリー展開は理解できる。空中の島も絵本の中にあり、スウィフトは最後に「日本」を登場させていることから、恐らく間違いないだろう。
 驚きましたね。日本の浮世絵がヨーロッパの絵画に大きな衝撃を与えていたことは知っていましたが、それよりもっと早い時期にも、日本の絵本がイギリスに伝わっていたとは...。
 奈良絵本とか絵巻というから、奈良時代か奈良地方でつくられたものかというと、いずれも間違い。奈良絵本・絵巻とは、17世紀を中心として、主として京都で製作された絵本・絵巻のこと。印刷ではなく、すべて手作り。豪華に彩色されていることが多い。その作者として、浅井了意がいるが、居初綱(いそめ)つなという女流絵本作家もいる。
 このあと、私たちがよく知っている昔話が、実は、昔はストーリーの結末が大きく異なっていることが、いくつも紹介されています。
 「浦島太郎」では、子どもが亀をいじめる場面はなく、浦島太郎は乙姫と結婚している。そして、太郎は船で蓬莱の島へ向かう。息のできない海中を進むような非科学的なシーンはない。なーるほど、そうだったんですね...。
 『鶴の草子』は「鶴の恩返し」のもとになった御伽草子だけど、室町時代から江戸時代にかけては、機織(はたお)りをするのは鶴ではなく、蛤(はまぐり)だった。
 『桃太郎』のもとになった『瓜子(うりこ)姫』では、日本の古い時代において円形状ないし卵状のものから誕生するのは、圧倒的に女子が多い。瓜から生まれた瓜子姫は、その代表的な存在。
 かぐや姫は、竹から誕生するのではなく、その多くは鶯(ウグイス)の卵から誕生する。そして、かぐや姫は月に帰るのではなく、富士山へ帰っていくのが多い。
 いやあ、知らないことばかりでした。物語って、こんなに内容が変遷していくのですね...。
(2022年7月刊。税込3960円)

2022年6月 4日

徳政令


(霧山昴)
著者 笠松 宏至 、 出版 講談社学術文庫

鎌倉時代の13世紀末(1297年)、「永仁の徳政令」が発布された。いったい、徳政令とは何か、実際にどのような効力(効果)をもっていたのかを追及した本です。
鎌倉時代にも、もちろん裁判所はあったわけで、この本では、幕府の京都出先機関である六波羅で裁判が進行しています。このとき、依拠すべき幕府の法令が実在することを、裁判の当事者が立証しなければいけなかったという、今ではとても信じられない指摘がなされています。幕府が自分で出した法令について、当事者の立証にまかせていたというのです。ひどい話ではないでしょうか...。
通常の幕府の法は、全国に散在する御家人ひとり一人に伝達されるシステムはもっていなかった。民は由らしむべし、なんですよね...。
幕府の裁判は、徹底して当事者主義を原則とし、証拠も自ら提出したものがすべてだった。この永仁徳政令には、次のような条文があります。
「金につまると前後の見さかいなく、借金を重ねるのが世の通例であり、金持ちが利子でますます潤うのに反し、貧乏人はますます困窮していく。今後は、債権者からの債権取り立てについての訴訟は、一切受理しない。たとえ債権安堵(あんど)の下知状を添えて訴えても同じである」
当時の利息は月5~7%が普通になっていた。
田地の売買があったとき、代金の一部が未払いなら、徳政令によって、田地は売主に売却された。そして、残る未払金については、売主の債権は保護されない。
中世の田地や宅地の書い手や売り手に、女性の登場する割合が大きいことは前から注目されている。
永仁の徳政令には、所領面に限定された、スケールの小さいものだった。にもかかわらず、社会に与えたインパクトは強烈だった。永仁の徳政令の本質は、「もとへもどる」という現象にすぎない。ええっ、何ということでしょう...。
よく分からないなりに、徳政令なるものをいろいろ考えさせられた本として紹介します。1983年の岩波新書の再刊本のようです。
(2022年3月刊。税込1100円)

2021年11月 3日

都鄙(とひ)大乱


(霧山昴)
著者 髙橋 昌明 、 出版 岩波書店

この本は、平安時代末期の源平合戦のころの日本を対象としています。とても勉強になりました。知らないことが次々に出てきて、朝からずっと裁判のあいまに読みふけって、夕方までに完読しました。
本書は、治承4(1180)年5月の以仁王(もちひとおう)の乱から元暦2(1185)年3月の壇ノ浦合戦での平氏滅亡までの、足かけ6年にわたって続いた、鎌倉時代成立に至るまでの戦乱の時代を扱っている。
そのなかで、義経のひよどりごえの戦いも、軍紀物語の話だとされています。
治承・寿永の内乱と呼ばれるのは、この戦乱が単なる源平の戦いに解消されない、激動と創造の時代であったことによる。貴族化し、腰ぬけ武士になったために負け続ける平家(へいけ)と、質実剛健で死をも恐れ東国の武士という、紋切り型の対比は必ずしも正しいと言えないこと。このことが、この本を読むと、よく分かりました。
まずは、平清盛など平家が権力を独占的に握ったことが戦乱を招いて、ついには平家滅亡に至ったという分析・指摘に驚かされました。
クーデターで権力を独占した結果、支配層内部での平家の孤立は深刻なものになった。
また、知行国や荘園を大量に集積し、自らの政治的・経済的基盤としたことは、全国の公領・荘園が生みだし、当時、深刻化しつつあった、中央と地方間の社会的・政治的な対立を、支配層内部で平家がまったく孤立したまま、一手に引っかぶることを意味していた。つまり、本来なら王家や摂関家などに向けられるべき当然の怨(うら)みが、相手を変えて平家に向けられるという皮肉な結果になった。
だからこそ、以仁王が平家打倒を呼びかけたとき、反乱は燎原の火のごとく日本全国に広がった。この内乱は源氏と平家の争覇という次元にとどまらず、広く社会矛盾の激発という本質をもっていた。
平清盛には福原に遷都する強い意欲があったが、以仁王の乱の衝撃から、準備不十分のまま急いで遷都が実行に移された。これが結果として平家を自ら孤立に追い込み、反平家の気運をさらに高めた。
このころ、日本は、西日本を中心として大旱魃(かんばつ)に襲われていて、深刻さが増していた。平家は兵糧米の調達に苦しみ、大軍を動かすことができなかった。
源氏と平氏という氏(うじ)の違いは、この内乱での敵と味方を分ける原因とはなっていない。たとえば、頼朝のもとに結集した関東の家人たちのほとんどは桓武平氏の末流であって、坂東八平氏と、平姓を名乗っていた。
このころ、「駆(かけ)武者(むしゃ)」という言葉があった。平家と日常的な主従関係を結んでいる武士ではなく、国衙(こくが)の力によって駆り集められた地方の武者たち。かれらにとって、戦(いく)さは、稼ぎの機会でしかなかった。これは、平家の軍隊の特色ではなく、平安時代には普通に行われた兵力動員方式だった。
平家軍の侍大将は、大将軍のもとで、その兵を預かり、実戦の指揮をする武将たちをさす。平家軍が大軍化するとき、一門を構成する名家とその御家人集団を単位としながらの連合という形をとる(とらざるをえない)。しかも、全軍を統率する真の意味での最高司令官は存在しない。大将軍と呼ばれていても、他家に所属する御家人への直接指揮は原則として、ありえなかった。
源義経の有名な「ヒヨドリ越えの逆落し」は、実は多田行綱をリーダーとする摂津武士たちによるもの。義経は平家討滅には大功があった。しかし、三種の神器のうち宝剣を回収することができず、安徳天皇を死なせてしまった...。
義経の、あざやかな指揮の連続は、範頼に率いられて、半年ものあいだ、山陽道や九州で戦った人にとって義経は怨嗟(えんさ)の対象ともなった。そこで、義経の進退は、今や、鎌倉勢力と後白河院とのあいだの政治的な綱引きの焦点になった。
源平合戦について、歴史上の豊富な史料にもとづく、目を見張る解説のオンパレードでした。
(2021年9月刊。税込3080円)

2021年9月17日

武士論


(霧山昴)
著者 五味 文彦 、 出版 講談社選書メチェ

武士たちの500年の通史です。サブ・タイトルは古代中世史から見直す、となっています。本格的な武士論だと思いました。
古代において、武士とは朝廷に武芸を奉仕する下級武官で、文人と対をなす諸道の一つ、とされた。中世でも、朝廷に武をもって使える者とされているが、乱れた世を平らげる存在ともされている。
10世紀、平将門の乱のころ、合戦の場では、合戦を始める旨の文書をかわし、矢を射る。基本は弓矢の合戦だった。弓箭(きゅうせん)の道に秀(すぐ)れていることが「一人当千」の武士だった。
11世紀(1019年)、女真族の刀伊が壱岐を襲撃したあと、志摩郡船津に上陸し、さらには肥前国松浦郡を襲った。これを大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家が武士を派遣して撃退した。元寇の前にも外国軍が侵入しようとしたことがあったんですね...。
平安時代の末、白河院は、源氏・平氏の武士たちとのあいだに主従関係を形成し、御所や京都を守護させた。そのなかで抬頭してきたのが平氏だった。平清盛は12歳の若さで、佐兵衛佐(さひょうえのすけ)に任じられた。そして、その父・平忠盛は山陽・南海道の海賊追討を院宣で命じられ、西国に勢力を拡大し、西国に確固たる基盤を築いた。そして、忠盛は昇殿を認められ、内の殿上人になった。格は高く、平氏は武家として待遇された。
保元の乱(1156年)で、後白河天皇の側が勝利したので、信西は天皇を全面に立てて政治をすすめた。このとき死刑を復活させた。武士の習いである私的制裁を公的に取り入れたということ。
平治の乱(1159年)のころ、平清盛は、太宰大弐になって日宗貿易に深く関わっていた。そして、平氏側が圧勝して、知行国もふえて、経済的にも抜きんでた存在となった。
ところが、平清盛には、新たな政治方針がなく、大量の知行国を手にして福原に戻った。ただ、院を鳥羽殿に幽閉した影響は大きかった。それまでの武士は院の命令で動いていたし、実力で治天の君を代えることはなかった。これを契機として、武士が積極的に政治に介入する道が開かれ、武力を行使して反乱をおこすことが可能になった。
源頼朝の伊豆挙兵(1180年)のとき、朝廷や平氏が特別な政策を打ち出していないなか、頼朝は徳政政策をかかげて、諸勢力を糾合していった。
少し時代を飛ばして鎌倉末期・室町時代の初期のころ。バサラ大名が出現した。その典型が佐々木道誉(どうよ)。茶や能、連歌、花、香など、この時代のあらゆる領域の芸能に深く関わった。
この本でたくさんのことを学びましたが、最後に二つ。その一つは、鎌倉時代の武士が諸外国の軍人と大きく異なるのは、文化的教養が備わるようになったこと。和歌(あとでは連歌)や「けまり」を身につけていた。もう一つは、訴訟がとても多かったこと。著者は「訴訟が雲霞(うんが)のごとく鎌倉にもたらされた」としています。鎌倉幕府も室町幕府も、訴訟の取り扱いには頭を悩ませ、慎重にすすめていたようです。ここにも、日本人が昔から訴訟が好きだったこと、「日本人は昔から裁判嫌い」だというのが真っ赤なウソだったことがよく分かります。
「葉隠れ」が武士道だなんて、とんでもないことを詳細に裏づけている本でもあると思いました。
(2021年6月刊。税込2090円)

2021年9月 4日

虫たちの日本中世史


(霧山昴)
著者 植木 朝子 、 出版 ミネルヴァ書房

日本人ほど虫(昆虫)を好きな民族はいないそうです。もちろん、真偽のほどは知りません。でも、孫たちはダンゴ虫が大好きですし、庭のバッタをつかまえて喜んでいます。カマキリが卵を産みつけたあとをみんなでじっと待ちかまえていましたが、ついに孵化せず、残念でした。ジャポニカ学習帳の表紙はずっと昆虫でしたよね...。
『鳥獣戯画』は遊ぶ動物たちを活写していますが、平安時代の『梁塵秘抄(ひょうじんひしょう)』には、たくさんの虫が登場します。ホタル、キリギリス(機織虫)、チョウ、カマキリ(蟷螂)、カタツムリ(蝸牛)、ショウリョウバッタ(稲子麿)、コオロギ(蟋蟀)、シラミ(虱)、トンボ(蜻蛉)です。
消えない火を灯しているホタル、衣を一生懸命に織っているキリギリス、おもしろく舞うチョウやカマキリ、カタツムリ、拍子をとるように飛んでいるショウリョウバッタ、鉦鼓を打つような声で鳴いているコオロギ、人の頭で遊んでいるシラミ、子どもたちと戯れるトンボ...。
12世紀初めの『堤中納物語』に登場する「虫めづる姫君」は、あまりにも有名です。
姫君は、毛虫についても嫌がることなく、毛の様子は面白いけれど、思い出す故事がないので物足りないと言って、カマキリやカタツムリを集め、歌い、はやさせる。
カタツムリを前に、デンデンムシムシ、出ないとカマをうちこわすぞと、はやしたてる。
これは、京の都にも奈良の寺院にも、子どもの遊びにも、芸能の舞台にも響いていた。
この「虫めづる姫君」のモデルは、太政大臣の藤原宗輔(むねすけ)の娘ではないかとされている。この宗輔は、蜂を数限りなく飼って思うままに操り、「蜂飼(はちかい)の大臣(おとど)」と呼ばれていた。
同時代の堀河天皇は、殿上人(てんじょうびと)に嵯峨野(さがの)で虫を捕らえてくることを命じた。捕らえた鈴虫を庭に放った。この虫撰びに蜂飼の大臣・宗輔も参加していた。
百足(むかで)は、平和を乱す恐ろしい存在であると同時に、勇者を守り、人々に福を与える毘沙門天の使いとして尊ばれてもいた。武田信玄の使番12人の武将たちは、百足文様の指物(さしもの)をしていた。対する上杉謙信のほうも、毘沙門天信仰が篤(あつ)く、家の旗印として毘沙門の「毘」の字を記していた。
「蚊のまつ毛が落ちる音」という表現があるそうです。清少納言の『枕の草子』に出てきます。ごくごく微細な音のたとえとして使われています。蚊にまつ毛なんてあるはずもありませんが、たとえとしてはイメージが伝わってくるコトバですよね。
ギーッチョン、ギーッチョンというキリギリスの鳴き声は、なるほど機織(はたお)りの音に聞こえますよね。ところで、中世にはきりぎりすと書いて実はコウロギを指すというのです。驚きました。江戸時代になってから、こおろぎがコオロギになったのです。
中国には、2匹のコオロギをたたかわせる遊びがある。コオロギのオスがメスや縄張りをめぐって激しくたたかう性質を利用した遊び。日本でも、伊勢・志摩などでやられていた(いる)そうです。
日本の古典文学の中で、チョウに代って霊魂を示すのはホタルだ。ホタルは、恋の物思いによって、身体から抜け出た魂ととらえられていた。明智光秀は死後に「光秀ホタル」になったという伝承もあるそうです。
塩辛トンボは、私の子どものころはフツーに近くを飛んでいましたが、今ではあまり飛んでいるのを見かけません。実際に塩辛トンボをなめたら、本当にしょっぱかったと学生が教えてくれたというエピソードが紹介されています。本当に塩辛いだなんて、信じられません...。
飛んでいるトンボを子どもがつかまえるのに、両端に小石を結んだヒモを空中に放り投げるというのがあるようです。私は、やったことがありません。
鼻毛でトンボを釣るというコトバがあるそうです。知りませんでした。トンボを釣れるほど長い鼻毛というのは、このうえない愚か者だということなんだそうです。
阿呆(あほう)の鼻毛に対して、美人の眉(まゆ)というのだそうですが、こちらは聞いたことがある気もします...。
トンボの姿が戦国時代の武将たちの兜(かぶと)のデザインにもなっています。これまた驚きました。世の中、知らないことは多いものですね。トンボは、勝虫(かつむし)だからなんだそうです。さすが学者です。よくよく調べてあるのに驚嘆させられました。
(2021年3月刊。税込3300円)

2021年7月30日

中世は核家族だったのか


(霧山昴)
著者 西谷 正浩 、 出版 吉川弘文館

この本のタイトルになっている問いかけに対して、本書は繰り返し、そのとおりだと答え、立証につとめています。なるほど、中世の家族というのは、そうだったのか、それは農業生産力の発展段階に見合ったものなのか...、得心がいきました。
中世の村では、おそらく男子も女子も生家を出て新たに世帯を形成する慣習が存在し、核家族が支配的な家族形態だった。
一般に男子は15歳、女子は12歳から14歳で成人した。男女ともに、人は結婚して所帯をもって、はじめて真の一人前とみなされた。男子の適齢期は16歳から25歳で、20歳にピークがあり、女子の適齢期は14歳から20歳で、17、8歳がピークだった。当時の若者には、親元からの速い巣立ちと結婚をうながす強力な社会的圧力が働いており、早婚社会だった。中世の民衆社会は、夫婦関係に依存して生きていくほかない社会であり、独身のままでいることには大きな困難をともなった。
親と成人した子どもは、それぞれ独立して財産を所有し、農業経営も核家族単位でおこなうというのが、当時の常識的な考え方だった。
配偶者の死亡率は高く、若い寡婦は再婚するのが普通だった。
中世民衆の家族構造は、単婚の核家族で、分割相続を基本とした。
中世においては、階層をこえて親子二世代夫婦不動居の原則が根強く存在していた。中世社会は、その原点において、夫婦一代ごとの家族形成を原則とする核家族社会だった。
支配者層は米を常食としたが、中世・近世の庶民の主食は麦だった。米の価格は、麦の3倍もした。庶民が米を食べるのは、正月・盆など年に26日あるハレの日だけ。
お米はベトナム南部(占城、チャンパ)から渡来してきた大唐米(だいとうまい)。風害に弱く、味も悪かったが、虫害・干害に強く、価格が低かった。
中世には、農業は男の仕事で、女は衣料の生産に従事していた。木綿は江戸時代から庶民の日常衣料となったが、中世は「苧麻」(からむし)の時代だった。女性は、この苧麻から衣料をつくるのに時間をとられた。近世になって、衣料が商品化したことで、女性は衣料生産労働から解放され、女性も農作業に本格的に参加できる(する)ようになった。百姓の妻女が紡(つむ)いだ衣料は、百姓自身の日用品であるとともに、一家の大事な収入源でもあった。
古代の百姓(はくせい、ひゃくせい)は、一般人民(公民)を表した。中世になると「ひゃくしょう」と読み、一般庶民や荘園の年貢の負担者を指した。必ずしも農民ではない。
日本の農業は規模が小さく、中世前期の農業は、「中農の時代」だった。
中世社会では「百姓の習(なら)ひは、一味(いちみ)なり」と言われるが、日常的に団結していたのではない。むしろ、利害関係が錯綜しているなかで、矛盾や対立を抱えた者たちが共通する強敵を前にして、他の問題を当面棚上げして臨時的に結成したのが中世の一揆だった。
古代村落の大半は9世紀から10世紀にかけて消滅していて、中世にはつながっていない。中世の村の多くは、地域開発にともなって、11世紀以降に誕生した。
中世の村と人々についてのイメージを大きく変える感のある力作です。
(2021年6月刊。税込1870円)

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