弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2012年11月25日

李鴻章

著者   岡本 隆司 、 出版   岩波新書  

 日清戦争のあと、日本の下関で開かれていた日中協議の最中、中国の全権使節・李鴻章は、若き(26歳)日本人壮土からピストルで顔面を撃たれた。しかし、弾丸の摘出もせず、顔面に包帯を巻いたまま、日本との協議を続けた。そのとき、73歳、なんという生命力であり、胆力の持ち主でしょうか・・・。
 怜悧(れいり)にして、奇智(きち)あり。常に放逸不羈(ふき)。無頓着に、その言わんと欲するところを言い放つ。
 李鴻章は、1840年、18歳で、科拳の第一段階である学校入試に合格した。
 李鴻章は25歳のとき、上から数えて15位で進士となった。かなりの速さだ。自信と自負の強い人物に成長した。
 清朝は、もともと華夷一体、多種族が共存する政権であった。
日本軍の台湾出兵によって、清朝の危機感は著しく高まった。
 中国民衆が心ならずも日本に譲歩することになったのは、軍備が空虚だったからだ・・・。
 李鴻章は、1860年代から、清朝きっての知日派だった。李鴻章は、中国の現況に失望すればするほど、日本に対する関心を高め、畏敬の念すら抱いていた。
 李鴻章という人物を見直すことになる本でした。
(2011年11月刊。760円+税)

2012年8月 7日

台湾海峡1949

著者   龍 應台、 出版   白水社

 中国解放戦を勝者側から描いた過程については、これまでずっと読んできましたが、この本は敗者であった国民党軍側から描いていて、とても新鮮でした。
 1984年11月、河南省の南陽市にある16校の中学・高校から5000人の生徒と教員が集合した。千里の道を歩いて、まだ戦火の及んでいない湖南省まで疎開しようというのだ。
 5000人もの青少年が一人ひとりリュックを背負って隊列をつくった。
 1949年3月、隊列は湖南省南西の零陵に落ち着き、授業を再開した。
 これらの教員の多くは、考え方が旧式だった。北京大学や精華大学出身の教員の思想は保守的で、新しい潮流を追いかけるタイプではなかった。共産党の考えを信じなかった。先生が生徒を引率するのは、母鶏がひよこを連れ歩くのと同じで、はぐれるものなどいなかった。先生と生徒とのあいだには、人間的な結びつきがあった。先生と一緒なら保護者も安心していた。
 1949年10月、教育省から緊急電報が入った。現地を即時撤退し、疎開せよ。これを受けて学生は二手に分かれ、雨風をおして湖南と広西の省境まで歩いた。広西省に達したとき、5000人の子どもは、半分になっていた。そして、国民党軍97軍246連隊が偶然そこに通りかかって、学生を守りながら進むことに同意した。ところが、共産党軍が追いつき、激戦のなか険しい山中を逃げまわった。南陽を出発した5000人の子どもたちが1年後にベトナム国境地帯に到達したとき、その数は300人にまで減っていた。
そして、フランス兵によってベトナムで捕虜収容所に収容された。しかし、すごいのです。300人にまで減った生徒と教員が、5000人だったときと同じように、腰を下ろして授業を再開したのです。
水も電気もないベトナムの鉱山の空き地で始まった青空学校で、河南省の南陽から携えてきた『古文観止』は、残された唯一の教科書だった。教師は全生徒に、30篇の詩を諳んじるよう厳しく指導した。
 1953年6月、ついに台湾に渡ることができた。そのとき生徒数は208人。
中国の東北地方がまだ満州国だったころ、多くの台湾人が出稼ぎに来ていた。当時、5000人以上の台湾人が満州国で働いていたが、その多くは医師と技術者だった。
 日本軍はたくさんの中国人を捕らえて収容所に閉じ込め、炭鉱作業に従事する苦力(クーリー)とした。逃亡を防ぐため、見張り役は錠を何重もかけた。就寝前に労働者たちから衣服をはぎ取り、パンツまで回収した。まるで豚扱いだ。そして共産党軍が東北へ進軍するとき、十分な兵員数を保持して国民党軍と対決するため、日本軍の方法をそのまま採用した。寝る前に総員のパンツを回収した。それでも、少年兵たちは必死に逃げた。3万2500人いた兵が4500人も減った。
 さらに、共産党軍は「兵力現地補充」作戦をとった。国民党軍の兵士を捕虜にとると、次々に戦場の最前線に送り、さっきまで味方だった国民党軍と戦わせた。解放軍(共産党軍)は、百万の民工の肩と腕を頼りに、前線まで物資を運び、傷兵を後方へ送った。民工は銃前と銃後を働きアリのように行き来していた。兵士1人のうしろに9人の人民がいて、食糧の手配、弾薬輸送、電線架設、戦場掃除、傷兵看護を担っていた。
 満州人は、日本人を「日本鬼」と読んだが、台湾人のことは「第二日本鬼」と呼んだ。台湾人は、必死で自分が日本人でないことを証明しようとした。
台湾接収を任務とする国民党軍と、「王の軍隊」の到来を期待していた台湾の民衆。両者は正面からぶつかりあった。相互不理解は内出血のごとく、あっという間に悪化して、化膿した。
 そして、1947年2月28日、台湾全島で動乱が起きた。2.28事件である。
 本書は、台湾へ逃げてきた国民党政権と軍隊について、台湾支配者という強者としてではなく、故郷を失った弱者として描いたところに特徴がある。
 なーるほど、本当にそうなんです。国民党軍との内戦のすさまじさを描いた中国映画を少し前にみました(申し訳ないことに、題名は忘れてしまいました)が、中国解放戦の過程では勝者も敗者も大変な苦しみを味わったことを少しばかり実感することができました。
 2009年8月に発売され、1年半で40万部も売れるベストセラーになりました。中国本土では禁書とされているようですが、実はかなり読まれているということです。たしかに勝者の側だけでは分からないことがありますからね。
 中国解放戦の内実を知るうえで、欠かせない本だと思いました。
(2012年7月刊。2800円+税)
さすがは海の幸
 稚内に来たら、やっぱり海の幸。一晩目は、居酒屋「竹ちゃん」。ほっけ、タラバガニそして、うに、いくらをしっかり堪能しました。最後は銀杏草(ぎんなんそう)という海草のみそ汁でした。
 二晩目は、地元の人の推薦の居酒屋「いつみ」。ここは家庭的な味わいです。まるごと食べられるハタハタのからあげを初めていただきました。八角(はっかく)の軍艦焼きは、甘いみそだれです。いつもは焼酎お湯わり2杯と決めているのですが、ついつい3杯目まで頼んでしまいました。

サロベツ湿原
 ラムサール条約にも指定されている広大湿原です。泥炭が採られていた歴史があります。稚内から鈍行に乗って一時間近く。そこからタクシーで行こうとしても、なんと町に一台。30分待ちでした帰りはバス。ところが、稚内行きは、4時間後しかないのです。
 ビジターセンターは近代的建物で、湿原は板道を歩けます。20分ほど。3回歩きました。残念ながらユリ科のエゾカンゾウはすっかり終わっていました。黄色一色のお花畑が広がるのを期待していたのですが・・・。ところどころ、わずかに紫色のハナショウブ、そして、エゾニュウの白い花を見かけるくらいで、緑の大草原です。その先に、利尻富士が見えます。海を隔てていますが、間近に感じます。傑作風景写真を狙ったのですが、もう一つでした。

2012年8月 1日

毛沢東、大躍進秘録

著者   楊 継縄 、 出版   文芸春秋

 毛沢東の最大の罪状の一つが大躍進政策下で3600万人もの中国人が餓死したという事実です。その後の文革大革命の過ちに匹敵する罪悪です。
著者は中国共産党のエリート記者として活躍していたのですが、大躍進時の中国の実情を暴いたこの本は中国では発禁となっているとのことです。
止むことのない革命的大批判、見たり聞いたりする残酷な懲罰、それらは怯(おび)えの心理状態をつくり出す。それは毒蛇や猛獣を見たときの瞬間的な怯えとは異なり、神経や血液のなかに溶け込んで生存本能となる怯えなのである。人々は、熱い火を避けるように政治的危険を避ける。
皇帝が一番偉いという考えの強い中国では、人々は中央政府の声を権威とみなす。中国共産党は、中央政権という神器をつかって、全国民に単一の価値観を注入する。経験の浅い青年たちは、この注入された価値観を心から信じ、世間を知る親たちは、あるいは神器に対する迷信から、あるいは政権に対する怯えから、自分の子どもが政府と異なる考えをもたないよう、常に子どもが従順でいうことを聞くよう要求する。
 1958年から1962年の間に中国全土で3600万人が餓死した。餓死者の特徴は、死に瀕して発熱はなく、反対に体温は下がる。
 死の前の飢餓は、死そのものより恐ろしい。トウモロコシの芯、野草、樹の皮を食べ尽くし、鳥のフン、ネズミ、綿の実、それらすべてを口にした。白い粘土(観音土)も口に入れた。死者の肉は、他人だけでなく、その家族すら食糧にした。当時、人肉食は特別なことではなかった。
公共食堂制度は、大量の餓死者を出した主要な原因である。公共食堂を始める過程は、家庭を消滅させる過程であり、農民から略奪する過程でもあった。
 公共食堂が始まった最初の2ヵ月あまり、人々はどこの食堂でも、やたらに飲み食いした。食糧が浪費された。公共食堂は、幹部特権化の基地にもなった。
 公共食堂のもっとも大きな効能は、プロレタリア独裁を一人一人の胃袋にまで徹底させたことである。公共食堂を始めてからは、生産隊長は「法廷」の長となった。そのいうことを聞かないものには飯を与えない。公共食堂とは、実際には、農民たちが飯茶碗を指導者に渡すことである。つまりは、生存権を指導者に渡すことであった。飯茶碗を失った農民は、まさに生存権を失った。
 
 農民が大量に餓死しているとき、幹部は分け前以上に食べている。これは普遍的な現象であった。
 1958年の夏秋以降、毛沢東は、公共食堂を何回となくほめたたえた。
 1960年12月に事実上、公共食堂は解散した。しかし、毛沢東は公共食堂が次々につぶれていく状況に非常に不満だった。
劉少奇や周恩来は毛沢東に反対したことはあったが、毛沢東には逆らえず、ときには、毛沢東よりもっと過激なことさえ言って火に油を注いで、さらに助長した。毛沢東に積極に加担した者、保身のために余儀なく支持した者、権力にとりいった者、無知蒙昧だった者、ドサクサに紛れてもうけた者など、いろいろいた。
 1958年の「人民日報」は完全にホラ吹き競技大会の紙面となっていて、ホラ吹きを組織していた。農民が農村で大量に餓死する一方で、都市の需要をまかないつつ、豚や卵は輸出されていた。政府の買い上げ目標が高いため、買い上げ作業は困難をきわめた。政府は、農民が食料を上納できないのは生産隊が食料を隠匿しているからだと考えた。
 1959年の廬山会議において彭徳懐は毛沢東を批判する私信を毛沢東に送り届けた。このころ、毛沢東は両目を失い指導者の地位を失うかもしれないと心配していた。
 毛沢東は、軍の高級将校たちの間に団結がないことから安心して手が打てた。周恩来や林彪は、毛沢東が彭徳懐を批判したとき、その保身に走った。周恩来も彭徳懐に対して、井戸に落ちた者にさらに石を投げつける態度をとった。
 毛沢東は1940年8月の百団大戦について否定的評価を下していた。これも彭徳懐の歴史的に重要な誤りとみなしていた。
 中国とはどんな国なのか、毛沢東の誤りはなぜ生前にただされなかったのかという点を学ぶことのできる本です。
(2012年3月刊。2800円+税)

2012年5月30日

不愉快な現実

著者   孫崎 享 、 出版   講談社現代新書

 サブタイトルは、「中国の大国化、米国の戦略転換」となっています。
日本がいつまでも対米従属一辺倒でいるうちに、アメリカは日本より中国を重視する政策に変わっている。それなのに、日本人はいつまでも、いざとなればアメリカが日本を守ってくれるなどという幻想に浸っている。
こんなことを厳しく警告している貴重な新書です。ぜひ、手にとってお読みください。私は、著者の話で一度じかに聞きましたが、まことに説得力のある話でした。
 著者は外務省に入って各国の大使館につとめたあと、イラン大使、そして防衛大学で教授をつとめています。ですから、決していわゆる左翼ではないのです。
 日本は、これまで外交、安全保障の分野で極端な対米従属をしてきた。対米従属で日本経済は本当に潤ってきたのだろうか・・・?
 実は逆である。日米関係を強固にする努力を続ければ、日米の反映があるという定説は、過去20年の日本に実は、まったくあてはまらない。事実でないことを、日本人はなぜ20年間、魔法にかけられたように、頑なに信じてきたのだろうか。
 今日、アメリカは、日本より中国をより重要と判断している。我々日本人には、中国が超大国になる。ましてアメリカの上にいくという事実を認めたくない。これが、今も無意識のうちに働いている。
 中国市場がどういう市場であれ、ここで勝利を収められない企業は、もはや世界市場で勝ち残れない。グローバル企業を目ざすなら、中国市場で戦うしかない。
 キッシンジャーは日本人を戦略的にものを考えない人たちと蔑視してきた。アメリカのクリントン長官にとって、普天間基地を辺野古に移転するかどうかは、不動産屋のような問題であり、知的刺激は何もない。だから、彼らは日本人と話したがらない。
中国の全体的な戦略国において、日本の重要性は甚だしく縮小した。
 米軍にとって在日米軍基地の最大の利点は、日本政府の財政負担である。日本政府は「思いやり予算」という各目で、基地経費の75%から80%近を補填している。アメリカの財政状況が厳しい折、これだけ魅力のある場所はない。
 中国の輸出金額はGDPの27%近い。今日の中国経済は輸出に依存している。したがって、冒険的対外政策をとって自国の輸出市場を失うことを避ける必要性は他の国に比べても高い。
 現在、アメリカは中国の軍事力増強を注意深く観察しつつ、しかし、政策としては協調路線を追及している。
 尖閣諸島近辺で日中刊の軍事衝突が起こったとき、日本が勝つシナリオはない。そんなとき、中国は戦闘機330機、駆遂鑑16隻、潜水艦55隻を動かせる。日本の自衛隊は、とてもこれに対抗できない。
 中国の一般市民の経済水準はアメリカの4分の1であるが、国全体としてみると、中国のGDPは世界一である。
 日本には、首相がいくらもがいても、政界、官界、経済界、マスコミにはアメリカに従属するシステムができあがっている。
 そうなんですよね。いつまでたってもアメリカの忠犬みたいに尻尾を振りつづける自民そして民主党政権と経済界中枢にはほとほと嫌気がさします。もっと日本人としての自立心をもてよと叫びたいところです。
(2012年3月刊。760円+税)

2012年3月24日

曹操墓の真相

著者  河南省文物考古研究所  、 出版  国書刊行会 

 『三国志』に有名な曹操のお墓が発見・発掘されたというニュースは、日本でも大きな驚きをもって報じられました。2009年のことです。
 曹操は216年に漢の献帝により魏王に封ぜられ、220年春の死後、魏武王の諡(いな)を得た。曹操は赤壁の戦いでも有名ですよね。映画『レッドクリフ』は、そのイメージをよく再現していました。
『三国演義』では曹操は奸臣(かんしん)として描かれている。旧劇の舞台でもおなじく奸臣とされたため、曹操のイメージは固定している。ところが、毛沢東は曹操を高く評価して名誉回復に努めた。曹操の詩を好み、その気魄が雄大で情緒豊か、宇宙を呑吐する様を好んだ。毛沢東は、「曹操は素晴らしい政治家、軍事家であり、また素晴らしい詩人でもある」と評価した。
曹操は古くからの部下を封賞して抜擢すると同時に、新たに優秀な人材を招聘し、寛容の心で来たる者を大切にした。功績がある者を封賞し有能の士を登用し、広く人材を集めることを通して有効に国家の管理システムを支配し、軍隊を掌握し、自身のブレーンを築き上げた。
 曹操は、中国を統一する大志を抱いていた。そして、天下を兼併するには、軍糧を手にすることが必須であることに思い至った。そのため、屯田制を始めた。屯田制が拡充されると、穀物の生産量は大いに増加し、倉庫は充実した。
 赤壁の敗戦のとき、曹操は54歳、曹操による中国統一事業における悲壮な敗北となった。
この本は曹操墓が発掘されるに至った状況を写真入で詳しく紹介し、曹操の墓だと判断した理由を明らかにしています。盗掘にもあっていたのですが、手がかりはいくつも残されていたのです。
かつて、明の十三陵を訪問したとき、中国には未発掘の陵や遺跡がまだたくさんあること、後世のため発掘には慎重であることを知って感動したことがあります。下手に発掘して貴重な遺跡を台なしにすることがないようし配慮しているわけですが、なるほどその決断は正しいと思いました。たしかに貴重な遺跡を十分な保存技術のないまま掘りあげるべきではありません。
 写真を眺めているだけでも楽しく、『三国志』や『水滸伝』を読んでわくわくしたことを思い出しました。中国のスケールの大きさを実感させられる本です。
(2011年9月刊。2300円+税)

2012年2月 8日

毛沢東の大飢饉

著者  フランク・ディケーター 、 出版   草思社

 毛沢東は本当に罪深い人物だと思います。この本は、「大躍進」時代に4500万人の死者を出した悲惨な実情に迫っています。
 1958年から1962年にかけて、中国は地獄へ落ちていた。毛沢東は、15年以内にイギリスに追いつき、追い越すという狂気の沙汰へと中国を駆り立てた。1958年から1962年にかけて、少なくとも4500万人が本来避けられたはずの死を遂げた。犠牲者のうちの6~8%、少なくとも250万人が拷問死あるいは尋問を受けずにその場で処刑された。
 一気に共産主義へと駆け上がる試みが、結果的に第二次世界大戦の空爆作戦をはるかにしのぐ、人類史上最大の資産破壊を招いた。総家屋の40%が瓦礫と化した。
 毛沢東の実際は、とりとめのないスピーチ、歴史おける自らの役割への固執、過去に受けた屈辱をくよくよと思い悩むことも多く、会議で感情的に威嚇するやり方に長け、何よりも顕著だったのは人命の損失に無頓着だった。
 惨事の主たる責任は毛沢東にある。毛沢東は仲間たちと駆け引きし、彼らを丸め込み、煽り立て、ときに苦痛を与えたり、迫害したりして、自らのビジョンを必死になって推進した。
 1953年のスターリンの死は、毛沢東にとっての解放だった。
 スターリンは、毛沢東とその山出しの兵士たちをろくに信用していなかった。スターリンは、自分の助けなしに政権を握った者が、自国と国境を接した広大な帝国を支配するような体制を認めるつもりなどさらさらなかった。
 周恩来は毛沢東の上司にいたことがある。毛沢東は、簡単に周恩来への遺恨を水に流しはしなかった。毛沢東は、権力の潜在的なライバルとなる周恩来を寄せつけない一方で、事を仕切るうえで周恩来の手腕を必要とした。毛沢東は日々の雑務や組織の細かい仕事には無頓着だった。そして、周恩来が毛沢東の権力に屈していく光景を目にして、経済分野の指導者たちも、あわてて同調した。
 1958年7月末、毛沢東はソ連のフルシチョフを中南海のプールで迎え入れた。フルシチョフが泳げないことを知ったうえで、毛沢東はプールを何度も往復した。そして、大躍進の成功を次のように語った。
「わが国は、米があまりに豊作で、どうしたものかとお手上げ状態だ」
しかし、フルシチョフは劉少奇から中国の現実を聞いていた。
「中国は飢えている。それなのにお米があり余るほどだという・・・」
毛沢東は鉄鋼に取りつかれていた。イギリスを追い抜くというのは、年間鉄鋼生産量で勝るという意味だった。この「成功」の秘訣は、すべての人民公社の裏庭につくった小型溶鉱炉「土法高炉」だった。
 しかし、土法高炉で生産された鉄は小さく、もろかったため、近代的な圧延装置にかけることは出来なかった。利用可能だったのは3分の1にも充たなかった。
 1958年の現実の穀物生産高は2億トンだったが、中央政府は4億1000万トンと算出した。肥料をたくさん施せば、それだけ生産量が上がるという単純な論法で、大変な無理がまかり通っていた。そして、公称と実際はどんどん離れていった。
 これって、日本でも、よくある話ですよね。私の町にも新幹線が開通しましたが、現実の乗降客は「予測」をはるかに下まわっています。
 1958年4月、早くも飢えと食糧不足が中国全土に広がった。毛沢東のもとには、全国から飢餓、疾病、虐待に関する無数の報告が届いていた。食料や原料の実際の輸出能力を完全に無視して、「より多くの輸入、より多くの輸出」が1958年の中国のキャッチフレーズだった。これは、国際社会に自らの政策の成功を誇示したい毛沢東にはうってつけのものだった。
 しかし、大躍進期には、綿花だけでなく穀物も、さらには工業製品もその生産量は公約とはほど遠いものだった。中国は深刻な貿易赤字に陥った。そして、中国全土が飢饉から抜け出す方法を模索しているとき、中国は400万トン以上の穀物を輸出していた。
 彭徳懐は、何度か毛沢東の大躍進政策を率直に批判した。ところが毛沢東は彭徳懐を糾弾し、その地位を剥奪した。この時点では、劉少奇はまだ、傍観を決めこんでいた。現実に起きていることには見て見ぬふりを決め込んでいた。鄧小平も、国の必要性に比べたら、人民が飢えることなどさしたる問題ではないという考え方に固執していた。
毛沢東は、農村があまりの大豊作に困り果てていると信じ込んだため、農地の3分の1を休耕地にするよう指令した。農民の都市への流出とあいまって、耕地面積は急激に減少した。大躍進期の中国では、家畜や家禽がすべて人民公社のものになったので、人々は世話をする意欲を失い、家畜はほったらかしにされた。そのため、人々も家畜も飢えと寒さと病気で死ぬケースが増えた。家畜の数が激減したにもかかわらず、国は容赦なく買い上げた。
大躍進は、大量の森林を破壊した。巨大病に取りつかれた地方は、大規模プロジェクトに急速に取り組んだ。
1958年、毛沢東は、ネズミ、ハエ、蚊、スズメの四害排除命令を出した。国をあげてスズメに全面戦争を挑んだこの運動は、環境に大きなダメージを与えた。スズメは絶滅寸前にまで追い込まれ、虫が大量に発作して作物に大きな被害を与えた。
 中国共産党の党員数は、次々に粛清されていたにもかかわらず、1958年の1245万人から1961年の1738万人へと、5割も増加した。幹部は偽数字を申告し、粉飾決算した。盗みが横行し、物資が隠匿された。
 ターニングポイントは、1962年1月の会議だった。この席で劉少奇国家主席は、3時間にわたって話し続けた。この難局は自然災害は30%、人災が70%だと語った。
 毛沢東は猛り狂った。毛沢東は、このとき、劉少奇はフルシチョフによると確信した。毛沢東は、じっと好機を待った。
 トップの政策の誤りによって引き起こされた悲惨な事態は、トップが自覚し反省しない限り、そしてトップに自覚させ反省させない限り是正するのは容易でないことを歴史が証明しています。
(2011年11月刊。1400円+税)

2011年11月11日

中国共産党

著者   リチャード・マクレガー 、 出版   草思社

 北京支局長として中国を見てきたイギリス誌の記者による中国論です。さすがに深い分析力だと感心しました。
 現代中国には、あまりに多くの驚くべき矛盾があり、人々を混乱させるため、世界最大の共産主義国家から「共産主義」というイメージが消えてしまったのも、ある意味で納得できる。
 かつて革命政党であった政党が、今では確固たる体制の側にいる。共産主義者は、権力の腐敗に対する国民の怒りをエネルギーにして政権を奪取したが、今や自らも同じ腐敗という病に蝕まれるようになった。指導者層は今でも公にはマルクス主義を標榜しているが、その実、貪欲な私企業が雇用を創出するシステムに依存している。党は国民の平等を語るが、一方、その政策はアジアのどの国よりも大きな所得格差を生み出している。
 中国でも格差の拡大はすごいものがあります。とは言っても、日本人に批判できる資格があるのでしょうか・・・。
 かつて共産主義者たちは買弁(ばいべん)と呼ばれる、革命以前の中国の事業家を侮辱していたが、1997年に香港がイギリスから返還されるや否や、臆面もなく香港実業界の大物たちと手を組んだ。
 中国共産党のレトリック、「中国は社会主義国である」というフィクションと現実とのギャップは年々大きくなっている。しかし、党はこのフィクションを守り抜かなければならない。なぜなら、政治的現状を維持するために、それが必要だからである。
 このところ中国には行っていませんが、たしかに北京や上海に行くと、東京と同じで、これが社会主義国家だとはとても思えない繁栄ぶりです。
政治組織として見ると、中国共産党は驚異的ともいうべき独特の特徴をもつ奇才である。2009年の党員数は7500万人、全国民の12人に1人という割合である。
 わずか一世代のあいだに党のエリート層は、陰気な人民服を着た残忍なイデオロギー集団から、スーツを着た、企業を支援する金持ち階級へと変身した。
この指摘は、かなりあたっているような気がします。
 2009年5月、中国には15万人の弁護士がいる。その3分の1の4万5000人が共産党員だ。また、弁護士事務所のほぼすべて95%に党委員会があり、そこで弁護士の給与査定が行われるが、評価基準としては法律業務能力だけでなく、党への忠誠心も加味される。ふむふむ、これは日本とはまったく違った特徴ですね。
 法制度のなかに深く入り込むことで、党は弱体化するどころか、ますます権力基盤を強固なものにしている。なーるほど、法治ではなく、人治だとよく言われます・・・。
 裁判所の判決に党が介入するとき、党の側は、それは介入ではなく、指導と呼ぶと反論する。
中国の裁判官のトップに立つ最高人民院の王勝俊院長は、法律を学んだ経験がない。ただ、日本でも最高裁判事には外交官とか行政官僚出身者がいます。
 党が払いのけられないほどの大きな法律の壁など中国には存在しない。保安当局は、憲法前文の「共産党指導のもと」という一文によって、どんな人物でも逮捕できる。
 政府の要職を守るための選挙や公の試験もないため、要職をめぐる舞台裏での抗争が、中国では政治の本質になっている。そして、情報を集め人事権を握る組織部が、党システム全体の中核となっている。
 毎年、新たな百万長者が生まれているこの国で、公的立場を利用してお金をもうけるという誘惑に打ちかつのは難しい。多くの人間が政府の仕事に就きたがるのは、その地位が現金に直結するからだ。役人の給与が微々たるものであることもまた、収賄を促す要因となっている。家や車、生涯うけとり年金などに関する特権はあるにしても、正規の現金収入は高級官僚であっても惨めなものであるため、違法な収入によって常に水増ししている状態にある。
 すべての役人には三つの生活がある。公人としての生活、個人としての生活、そして秘密の生活だ。
 中国の実情についての鋭い分析だと思いながら一気に読みすすめました。
(2011年8月刊。2300円+税)

2011年7月13日

岐路に立つ中国

著者    津上 俊哉  、 出版   日本経済新聞出版社

 いつのまにか中国は面目を一新するような発展を遂げ、2010年には、とうとうGDPで日本を抜き、世界第2位の経済大国に躍り出た。中国台頭は、いまや異論を差しはさむ余地のない現実となった。いま起きていることは、国有企業レネッサンスであり、いまや中国企業は、「官の官による官のための経済」の様相を呈している。
中国の学校で排外主義を教えるのは決して中国共産党が最近になって始めたことではなく、戦前から一貫している。むしろ、共産党の都合で「愛国・排外教育」をやっているのではなく、共産党もまた歴史のトラウマとタブーの呪縛の下に置かれているということだ。 中国人は、過去何百年にわたって、妥協は投降であり、売国だという歴史観のなかで育ってきた。
言論統制の根底にあるのは、社会の混乱への恐れだ。歴史のトラウマのせいで、国家利益に関わる問題で弱腰な姿勢・発言をすれば、漢奸(売国奴)として糾弾されるという不安感が今も中国人に根強く残っている。
 統一口径とは、中国という国が分裂し、外部から干渉を受けてしまった民族の痛恨の記憶から生まれた教訓、そうしないと国が不利益をこうむるという「弱い中国」の時代の自衛的心理を反映している。
 農民は、新中国に大きな貢献をしたのに、一貫して都市住民とは差別された二等公民と扱われてきた。中国の多くの都市では、農民の都市戸籍への移動に道を開いているものの、「持ち家が条件」と高い経済ハードルを課している。その根拠の大きなものは、財政負担だ。農民を都市住民に組み込むことには、巨額の財政負担をともなう。
上海の都心にたつ100平方メートルの内装済みマンションは、5000万円から1億円もする。東京と変わらない。
 いまの中国にカネがないわけではない。高度経済成長は中国の国富を飛躍的に増やした。いま、それが政府や国有企業など、広い意味での「官」にたまっている。この国富をもっと「民」に移すことが課題となっている。この数年の中国経済をみると、最大の勝ち組が政府であることは疑いない。この10年あまり、中国の国有企業は、ほとんど国庫に配当を納めてこなかった。
共産党や政府が昔ほど国民を抑圧しなくなり、国民も昔ほど党や政府を恐れなくなった。
 中国にとってより切迫した問題とは、共産党に権力が集中し、これに対する監督(チェック)のメカニズムがまったく不十分なこと。
文革世代(50歳後半から65歳まで)が、この10年間で、各分野でほぼ引退し終えた。そして、人の質が格段に上がった。
 田舎では、司法が行政に盲従してしまう弊害が著しい。司法の独立をどこまで許容するかという問題が立ちはだかる。
中国人の置かれている状況の分析として、よく理解できるものが多々ありました。出色の中国論として、一読をおすすめします。
(2011年2月刊。1900円+税)
 6月中旬に受けたフランス語検定試験(一級)の結果通知書が届きました。55点で不合格でした。自己採点で61点でしたので、5点も下まわっています。これは書き取りと仏作文の自己評価が高すぎたのだと思います。合格基準点は92点(150点満点)ですから、まだまだ日暮れて道遠しというところです。でも、あきらめず今後とも精進します。ともかく毎朝NHKを聴いて、書き取りはしているのです。
 夜、寝る前にベランダに出て天体望遠鏡で月を眺めます。別世界の素顔をのぞいていると、心が癒されるのです。

2011年5月31日

劉暁波と中国民主化のゆくえ

著者    矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子  、 出版   花伝社

 天安門事件の真相が語られています。解放軍の戒厳部隊が広場にいた学生などを虐殺した。その数、およそ4千人という報道があふれていました。ところが、その後、いくつか本を読んでも、そんな状況は描かれていません。おかしいと思っていましたところ、現場にいた学生たちのリーダーが威厳軍の現場指揮官と話し合って、広場での死者を出さずに撤退していたというのです。中国当局の公式発表の死者319人よりも多いものの、千人の大台をこえることはまずないということです。そして、日本のマスコミはそのことを現場に記者がいて知りながら訂正記事を出さなかったというのですから、ひどいものです。
 今度、ノーベル賞をもらった劉暁波は、広場からの撤退をリードした指揮者の一人でした。そして、天安門事件のおよそ3週間後に中国当局に逮捕されました。
 劉暁波は1955年生まれ。中国のあの文化大革命時代に青年期を送り、そのとき撤退的に考え、思想形成をした。
 文化大革命が終わると、中国の知識人が、なぜこんなにもデタラメなのかと劉暁波は怒った。中国共産党の心ある人たちも、今のままではいけないと思っている。しかし、それを実現するためには、中国共産党がスムーズに複数政党制や民主主義に離陸できるような路線を敷いてくれないといけない。そうでないと、騒乱状態、暴力対立が起きてしまう。こんなロジックに、知識人がからめとられている。
 中国の民主化運動の指導者たちは、外国に亡命したら、国内に拠点がなくなり、根無し草で何もできない。中国の温家宝の息子や全人代委員長の呉邦国の娘婿や李瑞環の息子たち、政治局の幹部の子弟はアメリカの投資企業などのドルに汚染されてしまっている。
中国内部はバラバラ、明らかに差別構造が強固に存在する。国内植民地をつくる体制だ。農民から収奪し、安い労働力として使えるだけ使うが、都市民の持っている福利厚生は一切与えない。
 貧しい民が大勢いるなかで、輸出一辺倒の政策をとるのは、飢餓輸出になる。
 いま中国は、特権まみれの社会である国家資本主義というより、官僚制資本主義である。石油、電力、兵器、通信、運輸など、大企業はすべて軍産複合体である。育ってきた民営企業は、あまりにもうかると、どこかに邪魔をされる。それを防ぐため、有力な国営企業に株をもってもらい、保障してもらう。
 今や、太子党の全盛時代である。太子党とは、革命元老党、革命元勲党、解放軍元老党、既得利益擁護党という強大な利益集団の別称である。革命後60年、中国の老幹部たちは、恵まれた特権や高給を保障され、それを子々孫々継承してきた。このような特権を贈与し、贈与されつつ既保権益を死守する精神が、中国共産党の建党精神とまったく乖離しているのは明らかだった。しかし、このような利権まみれ幹部の子孫、特権の世代間承継者こそが太子党のイメージである。
 そこで、腐敗がすすむと、この体制が崩壊するかというと、おそらく絶対に崩壊しない。なぜなら、崩壊させる人々や活動家がいないから。中国では、支配する階級と膨大な被支配階級に分裂している。いい大学を出て党幹部のエリートコースを昇り、上に行く可能性は開かれている。だから、支配体制はけっこう強い。党の内部では、ある程度、昇進の道が開かれている。
 7800万人の党員がいて、メールで密告するボランティア監視人は30万人もいる。中国共産党は決して弱い組織ではない。
 膨大な地下資源の眠るアフリカは典型的な発展途上国地帯で中国資本の開拓地となっている。中南米にも、ものすごい勢いで中国資本が入っている。
 中国は2006年までに4000億ドルのアメリカ国債を買い、今では1兆ドルに近い。だからもう米中は敵対関係ではなく、「利益共同体」だ、アメリカのゼーリック国務副長官がこのように宣言した。中国の債権は最大であり、アメリカの対外債務の2割も持っている。だから、アメリカは中国を味方にするしかないと決意した。アメリカはもう日本を頼りにしていない。
ところが、日本のマスコミは、日中が対立したときには「アメリカが助けてくれる」という幻想をふりまいている。とんでもない世迷い言である。アメリカの国益からしたら、日中どちらかの二者択一を迫られたら、文句なしに中国を選ぶはずだ。アメリカが中国と本当に対立したら、核戦争を免れない。それを避ける装置が対中戦略対話なのだ。
 現代中国の本質を知ることのできる貴重な本だと思います。
(2011年4月刊。2200円+税)

2011年5月29日

「ユーラシアの東西」

著者  杉山  正明     、 出版  日本経済新聞出版社   
 
 私より少し若いだけ著者ですが、その博識には驚嘆せざるをえません。しかも、いくつもの外国語に堪能のようです。うらやましい限りです。私は英語はまるでダメ、フランス語だけ少々話せますが・・・・。
 ロシアの内実は、すきまだらけで不安定きわまりなかった。国域の大半は、広漠たる未開の原野であり、他国からの侵略を恐れるほどの魅力もなかった。基本的に、一方的な侵略国家でいられた。ただ、ナポレオンやヒトラーがロシアを敵視して攻勢をかけたとき、尋常でない国土の広さと都市・町・村落の乏しさ、「社会資本」の未整備が逆に救いというか、武器となった。侵略軍は、個々の戦闘には勝っても、補給線のあまりの長さに疲れ果てた。なーるほど、これは、よくよく分かる解説です。
 現代中国では13億人の人口のうち、1千万人くらいの富裕層しか中国の主要大学には入れないという現実がある。うむむ、そうなんですか・・・・。
 鎌倉幕府にとって、モンゴル軍の2回目の侵攻がすんだあと、3回目こそモンゴル軍は本気で来るとよく分かっていた。そのプレッシャーは十数年も続いた。当時の支配当局(北条執権)は、モンゴルの動向をよく察知していたので、いわば国をあげてモンゴル軍への備えをせざるをえなかった。
モンゴル襲来のとき、モンゴル・高麗連合軍が済州島から逆に東に出撃して、そのままダイレクトに対馬に上陸するのは、地図の上では簡単だとしても、それは海流のうえで、不可能だった。
このモンゴル軍による日本襲来について、整然と2方向から艦隊を組んでいたという人がいる。しかし、そんなのは机上の空論に過ぎない。そのころの航海は動力を使わずに、南の風まかせでしかなかった。艦隊なんか組めなかったのですね。
 震旦とは、サンスクリット訳の漢字音読である、チーナスターチと同じ意味。イースタンとは、サンスクリットやペルシア語に通暁している。
 清朝は、その内実は、満州族で一本化できず、満州族とモンゴル族を二本柱とする満州・モンゴル連合政権を組んでいた。
 モンゴル帝国の歴代皇帝は自らを文殊菩薩だとしていた。文殊菩薩をマンジュシュリーという。満州とは、文殊=マンジュに由来する。
 ウラジオストクというのは、ウラジとは征服せよという意味で、ヴォストークとは東方のことなので、東方を正副せよということ。
ヒンデュークシュとは、インド人殺しという意味だ。
日本の長弓は、3百メートルは飛ぶ。モンゴル式の短弓は100メートルしか飛ばない。モンゴル式の短弓は連射には向いている。
 バサラとは、サンスクリットのヴァジュラ。金剛、つまりダイアモンドのこと。
能の起源も大陸にある。難儀という仮面劇で伝統演劇であった。これが能のもととなった。昔のアジアの西のことを知ることのできる本でした。

(2010年12月刊。1800円+税)

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