弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮(韓国)

2014年8月 6日

先進国・韓国の憂鬱


著者  大西 裕 、 出版  中公新書

 日本と同じように、韓国も大きな矛盾を抱えている国だということがよく分かる本です。いずこも悩みは深いのです。
 2012年12月の韓国の大統領選挙で朴槿恵(パククネ)が勝利した。このときの投票率は2007年に李明博が当選したときの63%に比べて大幅にあがり、76%になった。
 街宣車による連呼が禁じられているため、静かな選挙戦だったが、有権者の動員は進んだのだ。朴槿恵も対立候補の文在寅(進歩派の隠健中道)も、新自由主義的改革で深刻となった経済格差を解消しなければならず、そのためには財閥改革と社会福祉の充実をしなければならないという点では一致していた。このように、政策的対立は乏しいけれども、深刻なイデオロギー対立が高い投票率につながった。
 文在寅は湖南地方と若年層の支持を得、朴槿恵は嶺南地方と高齢者の支持を得た。
 韓国経済の快進撃は財閥系企業による。そして、その利益の大半は、財閥とごく一部の社員が得ており、一般市民や中小零細企業は、その恩恵にあずかっていない。
 韓国が財閥中心の経済構造になったのには、二つの要因がある。その一つは、財閥が歴代政権によって特権的に保護されたこと。その二は、自由化がすすみ、弱肉強食の市場原理が働くなか、政権と強く結びついて強い立場にあった財閥の一人勝ちの状況になった。
 ジニ係数と相対貧困率をみる限り、韓国はOECD諸国のなかで、それほど平等性の低い国とは言えない。しかし。貧困層の困窮度合いは、かなり深刻である。相対的貧困層に属する人々は、数が多いだけでなく、平均してかなり貧しい。韓国は、OECD諸国のなかで65歳以上でみると、最悪に近い。すなわち、韓国の高齢者における不平等は深刻で、貧困層の厚さも、その困窮度合いも際立っている。それは、社会保障制度の整備が遅れたことによる。
 そして、韓国の若年層は就職がしにくい。ワーキングプア、高齢者、若年層などに着目すると、韓国の貧困の状況は、かなり深刻だ。そのうえ、政府の対策は量的に不十分である。弱肉強食の世界を招きかねない新自由主義的な改革を推進したのは、1998年から10年間続いた、金大中、盧武鉉という進歩派政権だった。なぜか・・・?
 1998年2月、金大中政権は、進歩派の人々から大きな期待を受けて登場した。ところが、この政権は、新自由主義的としか思えない経済改革を次々に断行していった。
 金大中政権は、進歩派からは裏切ったと思われ、保守派には不十分と評価された。金大中には、アカ(パルゲイン)のレッテルがついて回った。
 それでも、韓国は曲がりなりにも福祉国家を実現した。
 次の盧武鉉政権は、二つの新しい福祉圧力に直面した。その一つは、少子高齢化の進行。その二は、「新しい社会的リスク」への対応。
韓国の福祉政治で不思議なのは、市民団体や労働団体が政治過程に参加しているのに、福祉団体はあまり目につかないこと。そもそも福祉を推進する団体があまり存在しない。存在しても、福祉の拡大には、それほど積極的ではない。韓国の福祉団体は、地方自治体から行政指導を受けることも多いため、行政にきわめて依存的な存在である。韓国には、福祉に関心をもちながら保守的という特異な事情がある。
盧武鉉は、いわば地域の草の根保守に足もとをすくわれてしまった。
 盧武鉉は、アメリカとの交渉には成功したものの、国内での批准に失敗し、条約の発効にまで持ち込むことができなかった。
 三八六世代の台頭は、それまで親米反北朝鮮があたり前だった韓国世論を大きく変えた。三六八世代とは、1960年代に生まれ、80年代に学生生活を送った、2000年当時に30歳代の世代を指す。彼らには、韓国という国そのものへの拭い去れない疑惑があった。そこで、ナショナル・アイデンティティという争点が浮上した。
 韓国の新聞市場は、三代新聞社の寡占状態にあるので、新聞を読む限り、保守的な言説しか国民には伝われない。
 米韓FTAについて、保守派勢力が支持し、盧武鉉を支えた進歩派は勢力が反対した。盧武鉉は、彼の信念からすれば予想外だったろうが、進歩派からは背信者よばわりされた。
 盧武鉉は、低所得層にいる人々が、彼が従事している産業の低生産性ゆえに所得を得ることができないことに注目していた。所得の低い状態から抜け出すには、彼らに教育と訓練と機会を与えることが必要だと考えた。貿易自由化が福祉政策と重なれば、社会的弱者の生活の質につながると盧武鉉は考えたのだ。
 盧武鉉は、伝統的な進歩派の考えとは異なる発想のために支持者から批判を受けた。そして、不幸なことに、保守派からも支持されなかった。
金大中、盧武鉉と二代10年にわたる進歩派政権は、結果的に支持者を裏切るような経済改革を行ってしまった。福祉国家化には成功したものの、量的規模は小さく、新自由主義的な改革が進んだ。
 李明博は、強いリーダーシップを発揮することができなかった。彼は、大衆からも政治家からも任期のある大統領ではなかった。
 李明博は、進歩派の反対で挫折を余儀なくされた。大統領選挙と国会議員選挙で敗北したものの、進歩派は衰えてはいなかった。
 韓国政治の矛盾とダイナミズムを、生き生きと分析している画期的な名著だと思いました。
(2014年4月刊。840円+税)

2014年7月10日

順伊おばさん


著者  玄 基榮 、 出版  新幹社

 「スニおばさん」と読みます。1948年済州島四・三事件を取りあげた小説です。
 「順伊ねえさんは、ほんとはその昔に死んだ人だ。畑を取りまいてからに、それこそ雷みたいに銃を撃ちまくったんだけども、順伊ねえさんだけは擦り傷ひとつ負わんでな、ほんとに不思議だった」
 「どうも、射撃の直前に気絶して倒れてしもうたようなんだ。気がついてみたら、自分の身体の上に死んだ人間が何人も折り重なっていたという」
 「その畑で死んだ人たちが、ぐにゃぐにゃに腐って、肥やしになって、それであくる年の芋はすごい豊作じゃった」
 夜は部落出身の共匪たちがあらわれて、入山しない者は反動だと竹槍で突き殺し、昼は巡警たちが幌付きのトラックでやって来て、「逃避者」の検束をするものだから、結局、村の若者たちは昼も夜も身を隠して過ごすしかない立場だった。
 大部分の男たちは村にそのまま踏みとどまっていたが、暴徒に追われ、軍警に追われて右往左往しながら、結局は、なすすべもなく、ハルラ山麓の牧場へあがっていき、川のそばの洞窟内に非難した。済州島は、もともと火山地帯なので、至るところに洞窟があり、暴徒と軍警の板挟みになった良民たちが、人知れずに身を隠すのには誂え向きだった。
 西北青年出身の巡警たちは、子どもたちに洋菓子を与え、父や兄の隠れ場所を教えてほしいと騙した。無邪気な子どもたちは、竹ヤブのなかや家の床下、馬小屋やわら積みの下を掘った穴に隠れている自分の父や兄を指さして教えた。
 暴徒も恐ろしく、軍警も恐ろしくて山へ避難した良民を、軍警は暴徒と見なした。
 入山者の家族まで釈放されたという噂が広がると、若者たちが続々と下山してきた。彼らは下山すると、いっていの帰順手続を踏んでから、宣撫工作隊に編入されて討伐隊の協力者となった。
 ときには、幹部級の入山者の切り取られた頭が名札をつけて展示されもした。
 朝鮮戦争が始まり、海兵隊が募集されると、帰順者たちは一人残らず入隊を志願した。アカの汚名を拭うことのできる絶好の機会だった。
 鬼神を捕まえる海兵隊として勇名をとどろかせた草創期の海兵隊は済州島出身の青年3万人を主軸にして成立した。
 以北の人間たちにやられたことを以北の人間たちに仕返してやるという感情が認められた。済州島の青年たちが6.25動乱のときに見せた戦史に輝く勇猛さは、一時、軍警側で島の住民といえば無条件に左翼視し、その獰猛なアカ狩りの対象にした単細胞的な思考方法が、どれだけ重大な誤解を犯したかを反証している。
 済州島四・三事件を一般住民の置かれた状況から考え直させてくれる本です。
(2014年4月刊。1600円+税)

2014年6月13日

済州島四・三事件(第2巻)


著者  済民日報四・三事件取材班 、 出版  新幹社

 1948年に韓国の済州島で起きた事件を詳しく追跡した本です。
 1948年は私の生まれた年です。朝鮮戦争が始まったのは1950年6月のこと。その前夜の殺伐とした韓国内の状況が詳しく描かれています。
 1948年4月3日の早朝から、左翼武装隊が済州島内の11の警察署(支署)を一斉に襲った。このとき、武装隊の武器は九九式銃一挺の他は棍棒など、貧弱だった。
 この襲撃は北朝鮮がそそのかしたとか、南朝鮮労働党(南労党)中央の指令によるというものではなかった。四・三蜂起は、むしろ南労党の戦略的立場からは不都合なものだった。
米軍政検察総長は、官公吏の腐敗、警察の苛酷行為、西青(反共青年団)の蛮行などによってたまった膿(うみ)を左翼系が針でつついて噴出させたのが、済州島自体の真相だとした。別の検察官も、今回の事件の導火線は共産党系列の策動にあったとしても、その原因は警察官の済州島民に対する誤った行為にあると断言した。
 戦後の韓国警察の幹部は、戦前の親日警察官が主流であり、冷戦下の反共イデオロギーによって過去の薄汚れた経歴を覆い隠すことができるだけでなく、「新たな愛国者」に変身する道が開けたことから、それにしがみつき、あらゆることを反共の旗幟(きし)を高く掲げて処理しようとした。
 武装隊の武器は全体で小銃30挺ほどでしかなかった。それに対して、討伐軍警は米軍から常に新式の武器を供給されていた。
武装隊は、主力部隊が500人、同調加担者が1000人から3000人。しかし、四・三事件で殺害された済州島民は3万人以上。ゲリラと関係ない島民は「アカ」「暴徒」として殺されただけでなく、その遺族までが「アカ」の烙印を押され、連座制の鎖につながれて、言語を絶する苦しみをなめた。
 四・三蜂起の直接的な名分は「単独選挙・単独政府反対」だった。これについては、南労党などの左派勢力だけでなく、右派陣営まで同調・加勢していた。
 警察と警備隊(軍隊)は反目しあっていた。警備隊は、四・三事件の当時、第三者的立場に立っていた。それというのも、警察の苛酷な島民弾圧に対して不満をもって警備隊に入隊した済州島出身兵士が少なくなかったから。
 第九連隊の連隊長であった金益烈中佐(当時27歳)は、武装隊責任者の金達三(当時25歳)と4月28日、国民学校の校長室で会談をもった。そして、一応の和平協商が成立した。ところが、5月1日、放火事件が発生した。これは、警察の後援による西青・大青などの右翼青年団体によるものだった。
 4.28平和協商の翌日(4月29日)、米軍政長官ディーン少将が突然、済州島を事前連絡もなく非公式に視察した。
 4.28平和協商は「共産暴動」と言い、「早期鎮圧」を豪語していた警察幹部の面目を丸つぶれにするものだった。そして、ついに、ディーン少将の前で、警察幹部と連隊長が殴り合う自体となった。5月5日のことである。
 金連隊長を指さし、「そこに共産主義青年がいる」と趙炳玉警務部長が言った。金連隊長は「黙れ」と叫び、壇に駆け上り、襲いかかった。腹を殴りつけ、胸倉をつかんで警務部長を背負い投げで投げ飛ばそうとした。
 金連隊長は、翌日、解任された。これで、金連隊長の推進していた和平政策は頓挫した。
ディーン将軍は、金連隊長の後任となった朴珍景中佐に焦土作戦を命令した。これこそ、金連隊長と軍政長官マンスフィールドが反対してきた作戦だった。
 朴珍景は、済州島に赴任して1ヵ月後に討伐作戦の功労を認められて大佐へ特急昇進した。しかし、結局、部下たちに暗殺された。
 済州島四・三事件の殺戮作戦の過程で、それに反対して和平交渉を進めていた現地軍の連隊長がアメリカ軍のトップの面前で警察幹部と殴り合いまでしたというのは驚きでした。そして、アメリカ軍当局は和平派をおろして強硬派に鎮圧作戦を命じたというのです。四・三事件について、アメリカ軍の責任は重大だと痛感しました。
(1995年4月刊。4000円+税)
 夕食にマッシュド・ポテトを食べました。もちろん、素材は日曜日に我が家の庭で掘り上げたジャガイモです。牛乳ではなく、豆乳をつかったのですが、ツヤツヤして、のどごしも良く、本当に美味しく、やや小ぶりのジャガイモ6個からなるマッシュド・ポテトを全部たいらげて家人からとがめられてしまうほどでした。
 もちろん、完全無農薬の自家栽培ですから絶対安心です。地産地消の極みです。
 これこそ、田舎に棲む人間の究極のぜいたくです。

2014年5月16日

植民地朝鮮と日本


著者  趙 景達 、 出版  岩波新書

 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国は滅亡し、日本帝国の一部となった。
 首都の漢城府が京城府と改められた。
 韓国統監が初代の朝鮮監督に就任した。総督は陸海軍大将から選任された。
 天皇に直隷する総督は、実際にも総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は、各省大臣と同格のはずだったが、実は総理大臣と同格とも言える政治的地位にあった。
 朝鮮総督は、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇ごとき存在として朝鮮に君臨した。憲法上においても、朝鮮は、それを施行しない異邦域のごとく見なされた。
 朝鮮総督の政治的地位は、内閣の監督下に置かれた台湾総督とは異なるものだった。
 総督府は、1907年に竣工した、南山麓の倭城台にたつ総督府庁舎をそのまま庁舎とした。
 1912年3月、総督府は朝鮮笞刑令を交付した。犯罪即決令によって笞刑に処された数は、総刑罰の5割近くを占めた。日本人には、当然のことながら適用されなかった。
 同じく、1912年3月の朝鮮刑事令では、判事が証拠を示さずに判決を言い渡すことができた。これによって、政治犯を恣意的に裁くことができた。
 朝鮮には、日本国籍法が適用されなかった。これは、台湾や樺太とは違っている。朝鮮人から国籍離脱の権利を奪い、第三国への帰化を認めなかった。
 帝国憲法が施行されなかったため、朝鮮半島にいる朝鮮人、そして日本人にも参政権が認められなかった。
 総督府の諮問機関として中枢院があったが、会議が開かれない時期もあり、議長は政務総監だった。
 1919年1月、高宗皇帝が亡くなった。高宗の国葬にあわせて、朝鮮独立運動の示威行動が企画された。それは、当初、3月3日を予定した。
 3月1日、パコダ公園には数十万人の市民が集まり、独立万歳を高唱した。
 当時、京城の人口は25万人ほどだったが、3月3日には、全国から50万人が京城に結集した。
 この3.1運動のなかで、16歳の女子学生、柳寛順が逮捕され、獄死した。
 3.1運動は、アメリカのウィルソン大統領が揚げた民族自決主義への期待を契機として展開された。しかし、アメリカ国務省は正式に朝鮮独立の要求を退けた。
 3.1運動に理解を示したのは、日本の大正デモクラシーの中心人物であった吉野作造だった。このころ、日本の社会主義者は大逆事件(1910年)のあと、「冬の時代」にあった。
 独立派の一部は日本支配層へテロ行為に走りました。
 1932年1月、桜田門外で天皇暗殺未遂事件が起こり、同年4月には上海で白川・陸軍大将が爆殺され、日本公使も重傷を負った。
 1925年12月、新しい総督府庁舎が景福宮の前に竣工した。光化門は移築された。
 939年11月、朝鮮民事令が交付され、創氏改名が決められた。創氏は義務(強制)であり、改名は「任意」とされた。それでも、20%の朝鮮人は創氏しなかった。
朝鮮人の労働動員は計画では86万人だったが、実際には70万人以下だった。
朝鮮人慰安婦は、数万人と考えられている。戦地で「性奴隷」とされた。
 日本帝国が支配していた植民地朝鮮の実情の一端を知ることのできる貴重な通史です。
(2013年12月刊。820円+税)

2014年4月23日

日韓・歴史問題をどう解くか


著者  和田 春樹・金 泳鎬 ほか 、 出版  岩波書店

 1965年の日韓条約には、批判されるべき重大な欠陥があった。日本側に植民地支配に対する反省がなく、それがもたらした損害と苦痛に対する謝罪がなく、補償をおこなう考えがなかったことである。
 日韓条約は、歴史認識の対立をそのままにして、併合条約の無効に関する条約第2条を日韓が都合のいいように訳し、解釈することを認めることで成立した。
残されている、解決を必要とする問題は四つある。第一に、強制された併合条約は当初から無効であったと解釈すること、第二に、日本側は自発的に、道義的に追加的な償いの行動を補完的にとること。第三に、日韓請求権協定で解決されていない深刻な問題があること、たとえば慰安婦問題や在韓被爆者への援護問題、サハリン残留韓国人の帰国問題などについて、日韓首脳会談で協議すること、第四に、独島・竹島問題についての合意。
 なーるほど、いろいろの問題がまだまだ未解決のまま残っているのですね・・・。
 併合条約の有効性の問題を政治家や官僚たちにまかせることはできない。そうではなく、市民社会が乗り出すべき問題である。これは、過去からの要請というより、未来からの要請なのである。
 韓国併合条約には、形式上も手続き上も、重大な欠陥が認められる。大韓帝国の宝印奪取、皇帝の署名偽造、公表勅諭の捏造など。そして、韓国では、国内手続を経ておらず、皇帝が裁可することもなかった。
 したがって、韓国併合条約は、「締結されてもいなかった」のである。
日本の敗色が濃くなっていた1944年12月、朝鮮・台湾の居住者への参政権付与案が検討され、翌45年4月に、選挙法が改正された。しかし、朝鮮の衆議院定数はわずか23人。有権者も直接国税15円以上納付に限定された。
 それまで、朝鮮人は立法にも予算の審議にも関与できなかった。
 「韓国併合」100年を記念して日韓知識人の共同声明が出された(2010年5月10日)。翌11日の韓国各紙は、この共同声明を大きく報道した。ところが、日本では、朝日、東京そして共同通信のみが報道するだけ、しかも小さな記事でしかなかった。
 2010年8月10日、菅直人首相は、談話を発表した。
 「日韓併合条約が締結され、・・・・植民地支配が始まった」
 「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反しておこなわれた植民地支配によって、国と文化を奪われた」
 いま、本屋の店頭には、韓国と韓国人をバカにするような本が平積みになって大々的に宣伝され、売られているようです。まさしく「ヘイト・スピーチ」が公然と大手を振って、まかりとおっています。恐ろしいことです。隣国とは、たとえ意見の違いが大きくても、仲良くしなければいけません。「敵」ではないのです。
 先日、私は娘の結婚式のためにソウルに初めて行ってきました。みんな平和に生きています。それが、私たちの願いです。戦争に駆り立てて金もうけしようなんている連中に乗せられてはいけません。
 植民地になって朝鮮はかえって良かったとか反映していたと主張する日本人がいます。残念でなりません。自由と独立のないところで、どうして「繁栄」があるというのでしょうか。日本人は開き直ってはいけないと私は思います。
 反省すべきところは反省し、償うべきは、きちんと償うべきなのです。それが未来への道を切りひらいていくことになります。
(2013年12月刊。2900円+税)

2014年3月16日

検証・朝鮮戦争


著者  白 宗元 、 出版  三一書房

 この本は1950年6月25日、韓国軍が攻撃を開始し北進したのが朝鮮戦争の始まりだとしています。明らかに歴史的事実に反します。ただ、そのことを除けば、朝鮮戦争の前夜の状況を詳しく紹介していて、なるほどと思わせます。
 そして、この本は日本が朝鮮戦争といかに関わり、利益を得たかを明らかにしています。
 日本における特需景気は頂点に達した。特需は陣地戦に必要な土のう用麻袋、有刺鉄線、野戦携帯食糧、毛布など、広範囲にわたった。とくにナパーム弾や砲弾などの需要が激増した。52年だけで、大阪機工は迫撃砲528門を生産している。小松製作所は81ミリ迫撃砲弾を32万5000発、同4.2インチ砲弾を63万3000発、大阪金属は同じく30万発など、大量受注している。
 まさしく、日本は死の商人としてもうけ、そのおかげで日本経済は立て直しにつながったのでした。
満州にいた日本軍の引部隊の幹部だった北野政次は、GHQの命令で朝鮮戦線に派遣され、「4ヵ月のあいだ滞在しながら流行性出血熱ウイルスの確保」に従事していた。
 細菌兵器として、野ネズミが埼玉県内の農家で大量飼育されていた。
731部隊の元軍医中佐であった「ミドリ十字」の創始者は、朝鮮戦争当時、アメリカ軍兵士の輸血用血液を大量に供給する必要があったため、この会社をおこしたのだった。
 朝鮮戦争における仁川上陸、掃海作戦には、多くの日本人が参加した。
 朝鮮戦争が始まると、日本政府は特別調達庁を積極的に運用した。アメリカ軍の作戦にあたって必要なあらゆる調達の要求を直ちに対応する中央機関であった。
 1950年から55年までのアメリカの軍需発注は、武器弾薬の調達と役務をふくめて18億ドル近く、軍人・軍属による軍需品買付が17億ドルあって、朝鮮特需は合計35億ドルをこえるものがあった。1952年から55年までの砲弾特需は総計400億円にのぼり、そのうち小松製作所が160億円で、4割を占めた。
 トヨタは、1000大もの米軍用トラックを受注したことが発展の基礎となった。トヨタは倒産寸前にあったのが、これで息を吹きかえした。
 仁川上陸に成功したあと、マッカーサーは元山上陸作戦を立て、そのため機雷掃海を日本政府に命じた。日本政府は、25隻の掃海艇、巡視船からなる「特別掃海隊」を編成し、旧日本海軍軍人1200人を動員して1950年10月12日から12月12日まで、元山、海州、仁川、群山、南浦で機雷の掃海に出動させた。
 そのなかで10月17日、掃海艇1隻が触雷して沈没し、19人の死傷者を出した。
朝鮮戦争はまだ休戦状態にあり、終わっていません。そして、この戦争に日本も深くかかわっていたことを忘れるわけにはいきません。
 北朝鮮の金正恩の暴走は心配ですが、日本人も考えるべきことは多々あります。決して他人事(ひとごと)ではありません。
(2013年6月刊。2500円+税)

2014年1月16日

戦争記憶の政治学


著者  伊藤 正子 、 出版  平凡社

 ベトナム戦争は、私が物心ついたときには既に進行中でした。大学生時代には、ベトナム反戦デモに何回も参加しました。
 「アメリカのベトナム侵略戦争に反対するぞ」
 こんなシュプレヒコールを何度も何度も叫びました。深夜に、東京・銀座の大通りいっぱいを埋めるフランスデモをしたときには、気分も爽快でした。
 そのベトナム侵略戦争には、韓国軍も加担していました。
 1965年から1973年までの9年あまり、韓国軍の青龍(海兵第二旅団)・白馬(第九師団)・猛虎部隊(首都師団)など、31万人あまりがベトナムに行き、5000人ほどの戦死者を出した。
 この9年あまりのあいだに、韓国軍は1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回もの小規模部隊単位作戦を遂行した。そして、韓国軍は4万1400人の「敵」を射殺した。韓国では、ベトナム戦争への参戦は「武勇伝」として語られてきた。
 1999年からハンギョレ新聞はその実情を知らせるキャンペーンを展開し、大反響を呼んだ。
 2000年6月、ハンギョレ新聞社はベトナム参戦軍人2400人に包囲され、パソコンを破壊され、幹部が監禁された。
 ところが、これに対するベトナムの反応は複雑だったのです。
「反韓」感情が国民のなかで強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった。その結果、ベトナム戦争の終結後に生まれた世代が7割を占めるようになったベトナムでは、戦争中に韓国軍が引き起こした事件は当該地域以外であまり知られていない。
 ベトナム戦争によって、ベトナムでは30万人が亡くなり、450万人が身障者になり、200万人の枯葉剤被害者が発生した。でも、アメリカがベトナムに与えた苦痛に比べたら韓国軍の誤りはとても小さいと言える。
 ベトナム戦争に参戦した韓国側のNGOは、「負の歴史を刻んで未来の平和に生かそう」というスローガンで活動している。ところが、ベトナム国家は、それとは逆の「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンを掲げている。過去に多くの国家から侵略を受けてきたベトナムは、グローバル化する21世紀を生きていくうえで、どの国家とも良好な政治・経済関係を維持・発展させていくために、この方針をとっている。
 2009年、韓国の国会で審議中の法律の条文に「ベトナム参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」とあるのに、ベトナム政府が抗議した。
 金大中(キム・テジュン)大統領は、非常に明瞭な形でベトナムに謝罪の言葉を述べた。その後、ODAによるベトナム中部地域への韓国からの投資が増大した。
 しかし、金大中大統領の謝罪は、自分たちの尊厳を冒瀆したとみなすベトナム参戦軍人たちが反撃に出た。「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に慢心することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとって、掘り起こしても何の得もない「歴史」にすぎない。
 ベトナム戦争をめぐる公定記憶は、人々の苦しいながらも国家に貢献した誇らしい記憶である。しかし、「輝かしい勝利」になんら貢献していない、生き残りの人たちが語る「ハミ村の虐殺」は、ベトナム国家の公定記憶になりえないのだ。つまり、韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムでは、ナショナリズムと結びついた記憶にはならない。結びつけようとした時点で、ナショナリズムがほころびてしまう。この点が、日韓や日中の関係ともっとも異なるところである。
 私が韓国軍のベトナム参戦とその問題点を知ったのは、1989年に『武器の影』(岩波書店)、1993年に『ホワイト・バッジ』(光文社)を読んでからのことです。それが今、ベトナムが経済成長優先策のもとで難しい局面を迎えているのを知り、複雑な気分になりました。
(2013年10月刊。2800円+税)

2012年12月 7日

天が崩れ落ちても生き残れる穴はある

著者  李 貞順 、 出版  梨の木舎

韓国に生まれ、日本で育ち、今はアメリカに住むコリアン女性のたくましい半生記です。1942年生まれの著者は、終戦前の静岡の大空襲の記憶があるとのこと。3歳になったばかりです。空が真っ赤になり、防空壕に入ったとき、中学生の叔母が泣いていたのを覚えているといいます。
この夜の空襲によって静岡市は廃墟と化し、24人の市民が死んだから、3歳の幼児に鮮明な記憶が残ったのだろう。
戦後、著者一家は韓国に戻った。ところが、まもなく(1950年6月25日)朝鮮戦争が始まった。そのとき8歳で、小学3年生だった著者の父親は、その前に日本へ仕事しに行っていた。そして、著者たち残された一家も再び日本に渡ることになった。1953年8月のこと。密航船で対馬の無人島に着いた。何とか博多にたどり着き、神戸に落ち着いた。
やがて、東京に移り、朝鮮中高級学校で学ぶようになった。そのとき、帰国運動が起きた。東京朝鮮高校の優秀な生徒たちのほぼ全員が北朝鮮への帰国戦意乗ることを志願した。進学を保障し、就職を保障すると約束する祖国の北朝鮮は、生徒たちにとって輝かしく魅力的であった。
著者は、卒業する1年前に、行進の練習や自己批判会や抗日パルチザンの回想記にうんざりしていて朝鮮高校を中退していた。それがなければ、きっと地上の楽園である祖国・北朝鮮への帰国という巨大な台風の虜となって、ともに新潟港から北朝鮮に向かっただろう。
 このとき、老人も壮年も若者も、在日同胞の多くが巧妙な政治宣伝の虜となり、一方では在日朝鮮人の一を減らしたい日本当局の思惑も巧みに働いていて、10年間にほぼ10万人の在日同胞そして日本人配偶者が北朝鮮に渡った。それは在日同胞の6人に1人の割合だった。
 自由意思とはいえ、宣伝でつくりあげた幻の祖国を求めて、かくも大量の人間が北朝鮮に渡ったことは、在日朝鮮人にとってやるせない戦後史の一章である。
 そして、韓国は朴正熙大統領の軍事独裁制によって、経済的には立ち直りつつあったが、その代償のように国民の人権は抑制されていた、北への幻想に目覚め、荒れ狂う南の反共法に嫌悪する著者たちはアメリカに仕事を求めて渡った。
 アメリカで韓国人と付きあうとき、在日同胞に対するかすかな蔑みの気持ちを感じることがあった。本国でくいつぶして日本に渡った無知な人々とその子孫。ろくな仕事ももたず、パチンコ屋をして金持ち面をして・・・など。そして、1960年代、アジアの人々からエコノミックアニマルと言われた日本人に対する反感を日本に住む在日の同胞にも向けていた。強弱の度合いはあるが、「韓国人のくせに、韓国語もろくに話せない」と在日同胞の韓国語をわらった。日本で生まれ育ち、日本人と同じ教育を受けた多くの在日韓国人にとって、韓国語を流暢に話すのがどれほど難しいか想像できない韓国人エリートの卵たちがいた。
著者と同じ同年配の、アメリカに住むベトナム人がこう言った。
 「あなたは、国籍イコールその国への愛国心または民族への愛着と思っているのでしょう。私は愛国心を振りかざして殺し合うのを私の国で見てきたわ。もし選べるとしたら、自分に最大限の保護と利益を与える国籍をとればいいのよ。あなたが、どこの国籍を持っていても、自分の民族や文化への愛着を持つのを妨げないでしょう」
この本の最後に、著者の東京朝鮮中高校時代の恩師である李進熙先生が登場するのに驚きました。その『広開大王陵碑』の研究は私も読みましたが、その斬新かつ鋭い問題提起に大変な衝撃を受けたものです。
 学問的な研究がすすみ、「帰化人」という言葉が消えて、「渡来人」という言葉がつかわれるようになりました。なるほど、そうですよね。中国大陸、そして朝鮮半島のほうが当時の日本より断然文化レベルが上だったのですからね。
シルクロード沿いの小国や数ある南方の少数民族が歴史のなかで次々と消えていくなか、中原からすぐにも手の届く距離にある李氏朝鮮のような「崇文」の弱小国が漢民族の胃袋にも飲み込まれず、コブにもならず、清朝が滅びることまで存続できたのはなぜなのだろうか・・・。
 朝鮮民族のしたたかな自民保存性と強烈な自意識のせいだろう。しかし、それは、朝鮮民族だけの特性でもない。
日本、韓国そしてアメリカの三国でたくましく生き抜く朝鮮人女性に圧倒される思いでした。
 私の尊敬する先輩弁護士である内田雅敏氏より贈呈されて読みました。遅くなりましたが、お礼を申し上げます。
(2012年10月刊。2000円+税)

2012年9月 5日

路上の信仰

著者   朴 炯圭 、 出版    新教出版社 

 激動の韓国現代史を生きたキリスト者の証言とオビに書かれていますが、この本を読むとまさしくそのとおりで、心の震えるほど感動していました。こんな気骨のあるキリスト教のリーダーがいたのですね。なにしろ、何回も警察に捕まっては刑務所に入れられ、教会堂での礼拝が当局に妨害されたら、なんと警察署前で6年間も路上礼拝を続けたというのです。まさしく信念の人です。信仰を実践し続けた不屈のキリスト者です。
 『世界』に連載されていた「韓国からの通信」の裏話も紹介されています。この「通信」は1973年から1988年まで15年にわたって続いたものです。KCIAがやっきになって犯人探しをして、妨害しようとしたのですが、果たせませんでした。
 著者の「TK生」が誰なのか、ずっと謎でした。これは、キリスト教のNCCKが金観錫牧師を中心として、徹底した安全対策を講じて資料を日本に送った。送ったのは主として宣教師ときに外交官郵袋や米軍の軍事郵便も利用した。これを日本で呉在植先生のところに集め、池明観教授が原稿をかいた。それを、『世界』の安江編集長が自らないし夫人によって書き写して植字工に渡した。並々ならぬ注意が払われたのですね。15年間、よくぞ続いたものです。
 王に直言し、民衆の堕落を告発し、またそのため、ときには犠牲を受けるのが旧約聖書の予言者の伝統である。キリスト教の牧師として監獄に行くのは、聖書からすると当然のこと。旧約の時代から予言者たちは絶えず監獄に出入りするのを当然のことと考えてきた。聖書の伝統は、キリスト教が何か哲学的、仏教的な空の思想というが、世を捨てて山中にこもり神秘境にひたるというか、脱世俗的な宗教ではなく、少なくともキリスト教の正しい伝統は世俗の中に入っていき、この世の問題に関与し、その時々に神の意を明かし、それに背くものに対しては直言する。そのような伝統がある。
 なーるほど、これはよく分かる話でした。
 韓国の民主化闘争の過程においてキリスト教を信じる人々の力は大きかったと改めて認識させられた本でした。
(2012年4月刊。2381円+税)

2012年4月26日

サムスンの真実

著者   金 勇澈 、 出版   バジリコ

 著者は私よりひとまわり年少の韓国の弁護士です。特捜部検事をつとめたあと、サムスンに入り、会長秘書室で7年間、財務チームと法務チームに所属し、裏金作りと賄賂渡しという汚れた仕事をしていました。そして、弁護士になって良心の告白をし、サムスンの不正を世に知らしめたのでした。ところが、いわば生命がけの告発も不発に終わり、サムスンは今もなお韓国政治を牛耳る巨大な存在として君臨しています。
 韓国法曹界に対する違法なロビー活動の実態には刮目せざるをえません。
 モチ代検事リストというのがある。賄賂をもらった検事たちの名簿である。
 ところが、サムスンから賄賂を受けとっていた公職者は失職するどころか、要職に就いていった。これはとくに今の李明博政権になって、さらにひどくなった。
 大韓民国は民主共和国ではなく、サムスン共和国である。
大韓民国の主権は1%の富裕層が握っており、法は1万人に対してのみ平等だと言われている。権力層に顔の広い大物の前では無力になるのが韓国社会だ。人々は何か問題が起きると、まず人脈を探して解決しようとする。原理、原則では、不可能なことも、人脈を使えば解決できるという後進的な文化がある。
 検察庁の部長は、後輩検事の捜査を督励するのではなく、上司の意向を尊重し、捜査を妨害する役職だ。そして、血気盛んな後輩たちを意のままに操る部長になるためには、スポンサーとなる後ろ盾が必要だ。ときには豪勢な場所で部下たちを飲み食いさせてこそ、本物の部長を言われる。
ある地域の判事、検事、弁護士はみな同窓生で、それを理由として普段から頻繁に酒席をともにしていた。弁護士は、判事と検事を盛大に接待するのが当たり前になっている。これは日本では、ありえないと弁護士歴40年になろうとする私は確信しています。
 相手方の弁護士を買収したり、担当裁判官を買収する。判事を買収するのは当たり前と思われている。だから、今回は我々サイドの判事だ、ところが相手サイドの判事に変わった、などという報告があがってくる。うひゃあ、日本ではそんな話を聞いたことがありません。もちろん、権力に弱い判事はいるのですが・・・。
 裏金はサムスンの系列会社でつくり出す。そして、借名口座で裏金を管理する。テーマパークの無料利用券や衣料商品券を現職の検事に渡したことがある。
 初めは、ちょっとしたものを贈る。これを受けとる鈍感が大きな不正へとつながっていく。慣れたら、結局、賄賂も受けとるようになる。たしかに、慣れは恐ろしいですよね。
公職者に一度お金を渡すと、ずっと渡し続けなければならない。後になってお金を渡すのをやめたら、相手は不快に思い始める。
 恥も数を重ねると、何とも思わなくなる。不正なお金を渡す側も、もらう側も同じだ。公職者がサムスンからはばかることなくお金をもらう背景には、サムスンのお金は安全、もらって危険がないと言う意識があった。彼に賄賂をもらって公職から追放されても、サムスンが職場を用意してくれる。
サムスンに不利な判決を下した判事は、私は反企業的な法曹人ですと宣言したも同然、反企業的な法律家だという噂が流れると、韓国社会の主流から一瞬のうちに排除される。うへーっ、そこまでなんですか・・・。
 今では、サムスンが、政府、司法、議会の上に君臨している。大統領といえども簡単には接することのできない巨大権力だ。
 サムスンの不正を告発した著者は、左翼共産主義者だと非難されたそうです。しかし、むしろサムスンこそ資本主義の市場経済体制を脅かしていると反論しています。まったく同感です。韓国の繁栄の裏側を鋭く告発した本だと思いました。
(2012年3月刊。1800円+税)

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