弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(現代史)

2009年1月27日

満州国とは何だったのか

著者:植民地文化学会、 発行:小学館

 虚偽の口実をもうけて、アメリカはイラクへ攻め込んだ。それと同じことを戦前の日本は中国でした。自作自演の事件を捏造(ねつぞう)して、中国東北部で戦争を起こし、次いで「満州国」という傀儡(かいらい)国家を建て、14年間に及ぶ苛酷な植民地支配を行った。日本人がそのことを忘れると、田母神という男が日本は侵略戦争なんてしたことはないと嘘ぶき、一部からもてはやされるのです。
 「満州国」の行政組織の特徴は、総務庁中心主義をとったこと。政府のおいての実権は日本人の総務庁長官の手に操られ、この総務庁長官は関東軍に操られていた。関東軍こそ、「満州国」の事実上の支配者であった。
 1932年9月、関東軍司令官(武満信義)は、国務総理(鄭孝胥)と日満議定書に調印した。この日満議定書の主文はわずか2条のみ。第1条で、満州国は日本の中国東北におけるすべての特権を承認し、第2条で、日本の中国東北における駐軍権と占領権を承認した。これによって、中国東北部は完全に日本の植民地となった。そして、この日満議定書には、4つの秘密文書が付属していた。
1936年に作成された「満州国の根本理念と協和会の本質」という文書によると、満州国皇帝は、天皇の大御心にもとづいたものであるから、天皇に仕えるのが在位の条件であった。そして、関東軍司令官は、天皇の名代として満州国皇帝の後見者であった。
 「満州国」警察のうち、日本人1万3000人、12%を占めていた。「満州国」に抵抗する抗日義勇軍と戦うため、関東軍は集中居住区、集団部落を強制的に作り上げた。これを人圏(人小屋)といい、2500ヶ所以上の集団部落(総人口140万人)がつくられた。
 満鉄は社員2万3000人以上を擁していた。国内にはりめぐらした情報網によって領事館や陸軍・警察署などの最新情報をつかむことができていた。満鉄の資産は11億円ほどだったのが、終戦直後には50億円をはるかに超えていた。
 万人坑とは、東北に住んでいた中国人が大量に殺害されて集中して埋められた場所のことをさす。
 内地の貧しい農民にとって、「満州に行けば、20町歩もの農地を与えらえて自作農になれる」というキャッチフレーズは、とても魅力的だった。敗戦直前に、東北在住の日本人農民の移民は、成人16万7000人、青少年6万人ほどであった。そして、東北に在住する朝鮮人の総人口は、1945年の時点で150万人と推定された。
 戦後、日本人戦犯を裁く法廷が中国各地につくられた(10ヶ所)。605件、883人が被告として裁かれた。東北部では撫順の戦犯管理所に収容されたが、6年間、きちんと処遇された。判決は禁固20年から12年までで、死刑は1人もいなかった。1964年に残りの日本人が日本へ帰国した。
 「満州国」 での日本人死者は、対ソ連戦で6万人。8月15日以前で18万5000人。1964年の引き揚げを前に「留用」された人々もいた。残留したのは1万人とその家族1万数千人。その多くは八路軍に入り、残りの一部は国民軍に徴用され、内戦の戦力となった。
 「満州国」の実態について、日中両国の学者が共同して調査し、議論してまとめた本です。日本人は、この本を読んで満州国の実体を美化することなく、よく理解すべきだと思いました。


(2008年8月刊。3400円+税)

2009年1月 5日

失われた弥勒の手


著者:松本 猛・菊池 恩恵、 発行:講談社

安曇野(あずみの)伝統というサブタイトルのついた古代史の謎とロマンを語る現代小説です。
平安時代から鎌倉時代にかけて、弥勒(みろく)仏が盛んにつくられていた。戦乱の余になって、絶望的な末法思想が広がった。民衆はどこかに希望を見出したい。そこに信仰が生まれる。
 弥勒菩薩は、釈尊が亡くなってから56億7千万年後に、この世に訪れて人々を救済すある未来仏だ。弥勒は、仏教の世界観で言うと、與率天(とそつてん)という。まだ修行的な段階なので、苦しくて足を組んでいて手を頬について瞑想にふける姿で表現されることが多い。これが半跏思惟(はんかしい)像だ。
 日本人の中にも渡来人だった人が多く存在する。大和朝廷の中枢にはたくさんの渡来人が居た。秦(はた)、錦織(にしきおり)、綾部(あやべ)、海部(かいふ)というのは、みな渡来系の姓である。
 岩戸山(いわとやま)古墳は、北部九州最大の前方後円墳である。「日本書紀」によると、大和朝廷は、新羅に奪われた仼那を奪還するために、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)に6万の軍勢を率いて渡海させることにしたが、新羅は密かに筑紫君磐井(いわい)に賄賂を送って毛野臣の渡海を妨害させようとした。磐井は、肥(佐賀、長崎、熊本)と豊(福岡東部、大分)の2国の勢力で朝廷に立ち向かった。大和朝廷は、物部大連鹿火(もののべのおおむらじのあらかひ)を遣わして討伐した。磐井は継体22年(528年)11月、御井郡において激戦の末に斬られた。
 ところが、「筑後国国土記」には、磐井は、大分県の瀬戸内海に面したあたりに逃れたと記されている。岩戸山にある墓は、磐井が生前に造った寿墓というもの。磐井が逃げて捕まえきれなかった大和朝廷の軍勢が岩戸山の寿墓を壊したのだ。
磐井の乱によって大和王権から北九州を追われ、新羅に伽耶を追われた安曇族のかなりの集団が6世紀に信州(長野県)安曇野に移住してきた。そこには、すでに渡来系の人々の生活基盤があったからだ。このように、福岡・八女と信州・安曇野とが昔、密接な関連があったなどという話に目が開かれる思いでした。
 2世紀から4世紀まで、安曇族は志賀島を本拠地とし、糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)をふくむ博多湾周辺を活動の中心地としていた。
 安曇族は、朝鮮半島南部の伽那や筑紫の君、磐井と強い繋がりを持っていた。ところが527年の磐井の乱のとき筑紫の君について負けたために本拠地を失い、各国に散らばっていった。たとえば、滋賀県。ここに志賀町や南志賀という地名がある。安曇と志賀という地名のあるところは、安曇族が転出していったところである。全国に50ヶ所以上もある。
 ふむふむ、日本の古代史も面白いですよね。この本は小説仕立てですから大変読みやすくなっています。

(2008年4月刊。1800円+税)

2008年12月31日

1945年のクリスマス

著者:ベアテ・シロタ・ゴードン、 発行:柏書房

日本国憲法の誕生秘話です。日本で育ったユダヤ人女性が終戦直後、アメリカ本土からGHQの一員として日本に戻ってきました。ピアニストの父と母は、敵性外国人として軽井沢に追いやられ、栄養失調のため倒れていたのです。1941年、第二次大戦が始まると、軽井沢は第三外国人強制疎開地に指定された。300人の外交官が滞在し、5000人の外国人が軽井沢で生活した。
日本をよく知る22歳の白人女性は、日本国憲法の草案を短期間で作り上げるように命じられ、突貫作業に従事します。その様子が生々しく伝わってくる本です。
著者は5歳から15歳まで東京で育ち、日本語は上手に話せた。父シロタはロシア系のユダヤ人だった。親戚には、ナチスのため強制収容所に入れられ、殺された人が多くいた。
両親がキエフ生まれなので、ロシア語を話せる。著者はオーストリアのウィーンで生まれ、日本に来ても少女時代にはドイツ語学校に通っていたのでドイツ語は話せる。フランス語は家庭教師から習った。アメリカの大学ではスペイン語を学んだ。だから、英語と日本語を含めて6カ国語が自由に話せる。これが身を助けた。うむむ、こ、これは、す、す、すごい。すご過ぎる。語学のできない私にはうらやましい限りです。
1945年12月24日、著者はGHQの民間人要員の一人として、厚木基地に降り立った。そのとき、22歳だった。
職場は、皇居の前の第一生命ビルの6階にある民生局。同じフロアーにはマッカーサー元帥の執務室もあった。
GHQの民間人の民政局は、軍服こそ着ていたが、弁護士や学者、政治家、ジャーナリストといった知識人の集団だった。マッカーサー元帥の信任があって、元帥の信奉者だったホイットニー民政局長は、コロンビア・ロースクール出身の弁護士で、法学博士だった。ケーディス大佐もハーバードのロースクール出身の弁護士で、ユダヤ人。
メンバーの多くがルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者であり、アメリカで果たせなかった政革の夢を、焼け野原の日本で実現させたいという情熱を持っていた。
ホイットニー局長はこう言った。
「日本政府の憲法草案は、GHQとしては受け入れることはできない。なぜなら、民主主義の根本を理解していないから。修正するのに長時間かけて日本政府と交渉するよりも、当方で憲法のモデル案を作成して提供したほうが効果的だし、早道と考える」
人権に関する条項は、ロウスト中佐とワイルズ博士と著者の3人が任命された。そこで、著者はジープで都内の図書館や大学をまわり、アメリカ独立宣言、アメリカ憲法、イギリスの一連の憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、スカンジナビア憲法、そしてソビエト憲法を集めた。GHQの草案は、日本政府がつくったものとして発表することになっていた。
それまでの日本では、妻は準禁治産者と同じ扱いを受けていた。つまり裁判を起こせないし、遺産の相続権もない無能力者だ。もちろん選挙権もない。しかし、マッカーサー元帥の5大改革の中に婦人解放と参政権は含まれていた。
1946年2月4日から12日までの9日間は、著者の生涯でもっとも濃度の濃い時間だった。GHQがつくった憲法草案は、2月13日麻布の外務大臣で吉田茂外務大臣と松本恭治国務大臣に渡された。
このときホイットニー准将は、これが受け入れられなければ、天皇制は守られないかもしれないと日本側を脅した。
3月4日、GHQ(民政局)は日本政府と草案の逐語的な詰めの交渉をした。これに著者も通訳の一人として参加した。審議は時間がかかり、人権条項に取りかかったのは、午前2時頃。日本側は次のように言った。
「女性の権利問題だが、日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌がない。日本女性には適さない条文が目立つ」
これに対して、ケーディス大佐が次のように反論した。
「しかし、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に考えたものです。悪いことが書かれているはずはありません」
冬の夜が明け、およそ終わったのは朝10時頃。全体としては夕方6時まで詰めの作業が続いた。
すごいですね。日本国憲法ができあがるまでの苦労話として、もっと知られていい話だと思いました。
(2003年9月刊。1748円+税)

2008年12月 3日

ペリリュー・沖縄戦記

著者:ユージン・B・スレッジ、 発行:講談社学術文庫

 著者はアメリカ第一海兵師団の一員として、中部太平洋にあるパラオ諸島のペリリュー島と、沖縄の攻略戦に参加しました。本書は、その体験記です。戦争の悲惨が惻々と伝わってきます。
 ブートキャンプの典型的な一日は、午後4時の起床ラッパとともに始まる。そして厳しい一日は、午後10時の消灯ラッパとともに終わりを告げる。
 無常で理不尽としか思われない、いじめも同然の「訓練」は、のちに戦場で生命を救った。戦争は、誰にも、とりわけ歩兵には眠ることを許さない。戦闘が約束するのは、永遠の眠りだけなのだ。
 しつこく何度もやってくる訓練教官の足音に聞き耳を立てた。真っ暗な闇の中、忍び寄ってくる教官の気配に絶えず耳を澄ませていたおかげで、聴力が著しく研ぎ澄まされた。
 強いストレスにさらされながらも、命令に従っているうちに、規律を身に着けていった。これがのちに戦場で明暗を分けた。聴力の鍛錬は、夜中に陣地に侵入してくる日本兵の気配を、塹壕の中で聞き分けることができた。
古参兵は言った。弾が飛んでくる音を初めて聞いたときは、クソ恐ろしくて、ライフルも構えていられなかったほどだ。怖気づくのは誰も同じ。怖くないなんて言うやつは、大嘘つき野郎だ。
 生き抜くためにすぐにも身に着けておかねばならん大事なこと、それは敵弾がどんな音を立てながら飛んでくるのか、それがどんな武器から発射された弾なのかを正確に知っておくこと。著者は、この訓練のおかげで激戦のなかを生き延びることができました。
 第一海兵師団の8割が18歳から25歳だった。そして、日本人に対して燃えるような憎悪を抱いていた。海兵隊員は、日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気はなかった。
 日本兵は死んだふりをしておいて手榴弾を投げつける。負傷したふりをしてアメリカ軍衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す。そして、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃した。日本で、鬼畜米英と言われていたことの反対が、ここにあったのですね。
 用を足しておくことがいかに重要なことか、古参兵たちは身をもって学んでいた。激戦のさなかでは、食べたり眠ったりするのもままならないが、排便はなおさらなのだ。
 ペリリュー島に上陸したアメリカ軍はすぐに戦闘は終了すると見込んでいた。ところが、日本軍守備隊1万を率いた指揮官(中川州男大佐)はバンザイ突撃を禁じ、完璧な縦深防御の態勢を築いた。日本軍はバンザイ突撃どころか、戦車と歩兵が協同した、見事な逆襲をしてきた。その結果、アメリカ軍の死傷者の割合は、後の硫黄島でのそれに匹敵する。
 ペリリュー島では、硬い珊瑚の岩盤に深く塹壕を掘るのは不可能に近く、身のまわりに岩を積み上げ、倒木や瓦礫の陰に隠れて身を守るしかしかなかった。
 集中砲火を浴びたときや、長時間にわたって敵の攻撃にさらされているとき、一発の砲弾が爆発するごとに、身心はいつにもまして大きなダメージを受ける。大砲は地獄の産物だ。巨大な鋼鉄の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる以上に凶暴なものはなく、人間のうちにうっ積した邪悪なものの化身というしかない。まさに暴力のきわみであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。
 銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲撃は、身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける。砲弾が爆発するたびに、力をなくしてぐったりし、消耗せずにはいられない。砲撃が長時間に及ぶときには、悲鳴をあげ、すすり泣き、あたりかまわず泣きわめきたくなる。大砲や直撃砲を集中的に浴びせられるのは恐ろしいとしか言いようがない。身を隠すすべもない開けた場所で集中砲火に身をさらすのは、経験したことのない者には考えも及ばない恐怖だ。
 ペリリュー島の日本軍守備隊は全滅した。死者1万900人。生きて捕虜になった日本兵は302人しかおらず、しかも兵士は7人、水兵は12人で、残りはアジア各地出身の労働者だった。これに対して、アメリカ軍精鋭の第一海兵師団は戦死者1252人、負傷者5274人。師団は見る影もなかった。
 ペリリュー島は悪臭の戦場と化した。地面は固く尖った珊瑚礁岩で、土というものが存在しない。日本兵の死体は放置されたままの場所で腐敗していった。そして兵士の多くがひどい下痢に苦しんだが、排泄物に土をかけるという処理ができなかった。屍臭に満ちた熱帯の大気が、筆舌に尽くしがたい悪臭を放った。汚物の山に埋もれたような状況で、ただでさえ熱帯に多いハエが爆発的に繁殖した。大型のクロバエ(アオバエ)で、丸くふくらんだ胴体は、青緑色の金属的な色をしている。ハエは、山地に散らばる人間の死体、排泄物、腐った携帯口糧に飽食して肥り、動作が鈍り、満足に飛べないハエすらいる始末だった。
 戦場のすさまじい悲惨さが異臭とともにひしひしと伝わってくる本でした。
 それにしても、アメリカ軍はこのペリリュー島を本当に攻略する必要があったのか、著者は疑問を投げかけています。同じことは、日本軍にとっても言えることでしょう。
(2008年5月刊。740円+税)

2008年11月11日

新聞―資本と経営の昭和史

著者:今西 光男、 発行:朝日新聞社

 朝日新聞社から出版され、朝日の記者が書いた、朝日の裏面を鋭くえぐった画期的な労作です。
 大正14年(1925年)ごろ、大阪では朝日と毎日新聞が激しくしのぎを削っていた。朝日は夏目漱石を迎え入れ、毎日は原敬を年俸5000円で社長に招聘した。
 原敬が大阪毎日新聞社の社長として勤めていたことを初めて知りました。
 この両紙は、関東大震災前にそれぞれ100万部を超える巨大紙になっていた。
 ところが、大震災によって東京各紙は壊滅的な打撃を受け、朝日、毎日という大阪紙が首都でも席捲することになる。そこで、廃刊の危機にあった読売新聞を内務官僚だった正力松太郎が買収し、面白い新聞、売れる新聞を前面に押し出した激しい販売攻勢をかけた。
 このころ、新聞は「政権打倒」を標榜し、政権側も新聞の政治的影響力を無視できなかった。そこで、寺内内閣は内相の後藤新平が先頭に立って公安刑事に内偵を命じるなど、権力を動員して虎視眈々と新聞社弾圧の口実を探っていた。
 大阪朝日は、時の権力から「一大敵国」と名指しされ、言論弾圧の標的とされた。
 そして、事件が起こり、ついに朝日新聞は、権力に全面屈服した。編集綱領に定められた「不偏不党」は、「偏った政権批判」をしないという恭順の誓いだった。そうなんですよね。今でも新聞は、結局、政権与党ですよね。
 ところで、朝日新聞社はスタートした時点で政府から資金援助を受けていた。政府の機密費から2万5千円が支払われていたのである。
 政府は、朝日のような中立的大衆紙を、御用新聞や政権新聞としてではなく、報道主義を中心とした新聞に育てて国民の信頼を得、あわせて、そのような新聞によって官民の調和を図ろうとしたと推測される。
 朝日をはじめとする言論機関が、安寧秩序、朝憲紊乱という天皇政護持を口実にした権力の弾圧や、右翼による物理的な脅迫にはきわめて弱いことをさらけ出した。1925年1月、朝日の社長と勘違いした右翼が緒方竹虎編集局長を帝国ホテルで襲った。このとき、朝日は右翼に裏金を支払った。それが広告主への圧力が新聞社脅迫の手段として有効であることを右翼に教え、以後、この種の右翼交渉には金銭的解決をはかることが常套化した。
 1928年、朝日は右翼からの襲撃に備えて、東京編集局長室に何丁かのピストルを用意して壁にぶらさげた。当時は、一定の条件がある人は護身用のピストルを所持することができた。社内でピストルを調達するのに困難はなかった。緒方竹虎は日本刀を会社に持ってきた。また、浅草のヤクザに頼んで、人を集めて社屋を警戒する「自警団」を組織した。
 うひょーっ、こ、こんなことが朝日新聞社であっていたのですね。右翼の襲撃に備えて、日本刀やピストルを編集局長室などに用意していたなんて、とても言論機関のなすべきこととは思えません。信じられない記述でした。
 済南事件、満州事変による中国大陸での戦争勃発によって、新聞は再び号外競争に突入した。号外は、当時、最大最強の速報手段だった。
 朝日も毎日も、関東軍を中心とする日本軍の「快進撃」を連日報道し、満州の日本の権益擁護に同調していた。やがて、朝日は、満州事変容認、政府支援が社論統一の大方針となった。
 この社論転換は、ただちに軍部に伝わった。憲兵司令部から参謀本部次長への極秘通報がある。当局は、昔も今もジャーナリズムをこまかく監視しているわけです。
 満州事変が勃発してから、朝日新聞の販売部数の増加はすさまじい。1931年に91万部だったのが、1932年には105万部となった。全社で39万部増えて182万部となった。まさに、戦争は新聞にとって神風だった。
 日中戦争が激化すると、朝日新聞は1937年(昭和17年)7月から、軍用機献納運動を読者に呼びかけ、1ヶ月で462万円ものお金を集めた。
 残念なことに、いまや朝日新聞も含めた日本の新聞は「一大敵国」と呼ばれるような、権力から本当に恐れられるような存在ではもはやないようだ。権力によって新聞が「馴化」された面もなしとしない。
 本当にそのとおりだと思います。自民党と民主党とでは本当はどこが違うのか、また本質的には同じではないのか、もっと広く市民の声を反映するにはどうしたらよいのか、いろいろ本質的なところで日本のジャーナリズムは安心できないところが多々あります。いえ、ありすぎます。その本質的根源がこの本によって究明されています。
 私と同じ団塊世代の著者から贈呈されて読みました。ありがとうございました。
 渡り鳥のジョウビタキの鳴き声が聞かれるようになりました。人にすごく近づき、尻尾をチョンチョンと振って挨拶する愛想のいい小鳥です。
 曇り空の日曜日、チューリップの球根を200個植え付けました。富山産で、40個で1000円しません。1個20円あまり。畳一枚ほどの区画を掘り起こして整備して植え付けていきました。これで500個近くにはなりました。
(2007年6月刊。1400円+税)

2008年10月11日

父の戦地

著者:北原 亞以子、 発行:新潮社

 召集され、遠くビルマへ派遣された父親が、故郷日本へ送った葉書70数枚が再現されています。愛する我が娘(こ)が小学校に入学する姿を見れず、祝福の声をかけられなかったって、どんなに残念なことだったでしょう。その娘によって、葉書に書かれた状況が生き生きと再現されています。亡き父親は残念な思いと同時に、今では、この本を知って天国で満足しているのかもしれません。それにしても、人間の作り出した戦争って、罪な存在だとつくづく思いました。好戦派の石破大臣も、自分や家族が戦地に出されたら身にしみて分かると思うのですが、今はひたすら口で勇ましいことを言うばかりで、厭になってしまいます。戦争は、中山前大臣みたいな「口先男」と利権集団のために起こされるものだとしか思えません。
 直木賞作家の著者の父は、著者が3歳のときに応召してビルマへ派遣された。東京・新橋で家具職人として働いていた。ビルマに送られてからは、絵入り葉書を故郷の娘へ大量に送ってきた。
 カタカナ文字に絵が描かれているのですが、素人絵ながら、本当に味わいがあります。決して上手な絵ではないのですが、それが妙に面白いのです。
 母が父の戦死の公報を受け取ってきた日のことは鮮明に覚えている。よく晴れた日、外で遊んでいた小学3年生の著者は、母に呼ばれて、日当たりの良い座敷に座った。終戦の翌年(1946年)のこと。
 「ちょっと話があるんだよ」
 「なあに」
 「お父ちゃんは死んだよ」
 「お父ちゃんが死んだなんて嘘みたい」
 母は泣いていなかった。母の膝にふつぶせて泣いた。自分の悲しさをどうすればよいのか分からず、ただ泣きじゃくっていた。
 昭和20年4月、ビルマから退却していた途中、輸送船に乗っているところを空襲されて死んだらしいということが分かった。
 父があの世へ旅立ったのは、父が病に侵されたからではない。まして、死にたいという意思があったからではなかった。もっと生きていたかったはずである。この世に未練も執着もあった。
 母に宛てた葉書に、「若く見られて恥ずかしいって、結構だ。うんと若くつくれ、今まであまりにくすぶりすぎていたから、これからはうんと若くつくれ。ズキン、ワイシャツ、どんな格好だろうな。どんなでもいいから、きれいにしていてくれ」と父は書いている。
 最後に、その父親の写真が一枚だけ紹介されています。俳優にしていいような素敵な笑顔です。つい、私は、亡くなった佐田啓二を連想してしまいました。
 幼い娘を泣かせてしまった戦争を私は憎みます。 
(2008年5月刊。740円+税)

2008年10月 7日

平頂山事件とは何だったのか

著者:平頂山事件訴訟弁護団、 発行:高文研

 わずか180頁の薄い本ですし、1400円ですので、多くの人に買ってぜひ読んでほしいと思いました。日本人として知っておくべき事実がこの本には書かれています。私もなんとなく知ったつもりになっていましたが、平頂山事件についての正確な事実経過とことの本質を知っていませんでした。
 1932年(昭和7年)9月16日、当時、満州(今の中国東北部)の撫順に駐屯していた日本軍が、平頂山地区の住民3000人を崖下の平地に追い立て、一斉機銃掃射を浴びせかけ、その遺体はガソリンがかけられて燃やされたうえ、ダイナマイトで崖を爆破して土砂によって完全に隠蔽した。
 1932年というと、日本で5.15事件が起きた年です。軍部の横暴・独走がますますひどくなっていたころ、中国で日本軍はとんでもない大虐殺事件を起こしていたのです。被害者は何の罪もない労働者とその家族です。国民党軍でも八路軍でもありません。
 平頂山事件の起きた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。ちなみに、朝鮮人は4000人、中国人は44万5000人。日本人のうち1万人は、日本の国策会社である満鉄の社員とその家族である。
 撫順炭鉱は満鉄が管理していた。石炭埋蔵量は9億5000万トンといわれ、世界有数の規模を誇っていた。撫順炭鉱は、関東軍によって厳重警備されていたが、抗日義勇軍(大刀会)が撫順炭鉱を襲撃した。そこで、日本軍の守備隊は、平頂山の村民が抗日義勇軍に加担したとみて、今後の見せしめのためにも、徹底的に殺しつくし、焼き尽くすという方針に出た。村民をだますために、記念写真を撮るとか、適当な嘘を言い募って住民を集合させ、重軽機関銃で一斉掃射した。
 ところが、当時の日本政府の見解は、不正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊捜索のために村に入ったところ、日本軍が攻撃されたために戦闘となり、戦闘中にその場所の大半が焼けて壊滅したが、住民虐殺はなかったというもの。
 そして、この日本政府の見解は、今もなお、正式に改められてはいない。そして、日本では今も平頂山事件そのものがまったく知られていない。まったく、そのとおりです。
 この平頂山事件でも生き残りの人々がいました。(幸存者と呼ばれています)。幸存者の人々が日本政府を被告として訴えを起こしたのです。
 ところが、日本政府は「国家無答責」という論理を使って、責任を認めようとしません。これは、国の権力的行為によって生じた損害については、国は賠償責任を負わないという考え方です。なぜ権力的行為なら賠償責任を負わないでいいというのか、私には理解できません。
 「国家無答責」というのは、明治憲法下において、判例の積み重ねによって徐々に形成されていった法理論のようです。しかし、日本国憲法下の裁判所が戦前の法理論に拘束されるというのは、おかしな話です。なのに、現代日本の裁判所はそれを認めた判決を次々に下しています。
 学者は次のように解説します。国家無答責(無責任)の法理が認められるのは、たとえば強制執行処分、徴税処分、印鑑証明の発布、特許の付与といった国の権力的公務が法律によって許されている場合に限られるし、そもそも外国人には適用されない。平頂山事件は1932年の事件であって、いわゆる日中戦争のさなかの事件(行為)ではなく、平和に暮らしていた中国の一般市民を突然に、日本軍が残虐の限りを尽くして虐殺した事件であるので、国家無答責の法理は適用されるべきではない。
 なるほど、そう、そうですよね。ところが、残念なことに、日本の裁判所は一審も二審もそして最高裁も、幸存者の請求を認めませんでした。残念ですし、中国人の被害者・遺族の方々に申し訳ないと思います。
 被害者の要求は3つです。第一に、日本政府が平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者と遺族に対して公式に謝罪すること。第二に、謝罪の証として、日本政府の費用で謝罪の碑を建て、被害者の供養のための陵苑を設置し警備すること。第三に、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないため、政府は事実を究明しその教訓を後世に伝えること。
 いやあ、どれもごくごく当然の要求ですよね。一刻も早く日本政府がこれらの要求を受け入れることを私も強く望みます。
 ところで、この3つの要求には金銭賠償が含まれていません。いろいろの議論があったようですが、その点も当然考えられるべきものと私は思います。
 それにしても、この困難な裁判を日本で起こし、遂行していった日本の弁護士の皆さんの労苦にも感謝したいと私は思います。
 ちなみに、私も「すおぺい」ニュースを読んでいます。 
(2008年8月刊。1400円+税)

2008年9月27日

戦争の法のもとに

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

2008年9月25日

天皇制の侵略責任と戦後責任

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店

 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

2008年9月17日

「百人斬り競争」と南京事件

笠原十九司 大月書店

 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

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