福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

日本史(現代史)

2007年02月02日

朝鮮人戦時労働動員

著者:山田昭次、出版社:岩波書店
 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。
 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。
 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。
 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、列車で500人ほどを連行してきたというのです。三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。
 昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。
 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。つまり、日本の責任は重いということです。
 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。
 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。
 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。
 貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。
 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。朝鮮を日本の植民地としていた。植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
 まったく同感です。亡父が強制連行に手を貸していたという一事をふまえて、私も自らがしたことではないとしても、朝鮮の人々に対して日本人の一員として謝罪すべきだと考えています。

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2007年02月08日

天皇の軍隊と日中戦争

著者:藤原 彰、出版社:大月書店
 現代史・軍事史研究の権威であった著者は陸軍士官学校を出て陸軍将校として中国へ派遣され、決戦師団の大隊長となったが、陸軍大尉として無事に戦後、復員してきました。その体験をふまえての軍事史研究ですから、やはり重味が違います。
 兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴だった。圧倒的勝利に終わった日清戦争をみてみると、日本陸軍の戦死傷者はわずか1417人。ところが病死者はその10倍に近い1万1894人。患者総数はのべ17万1164人であり、出動部隊の総人員17万3917人に匹敵している。これは軍陣衛生に対する配慮が不足し、兵士に対して苛酷劣悪な衛生状態を強いた結果である。
 日露戦争のときには兵士を肉弾としてつかい、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。ベトンで固めた旅順要塞に対して、銃剣だけに頼る決死隊の総攻撃をくりかえして死体の山を築いた。
 兵士の生命の軽視がもっとも極端に現れたのが補給の無視だった。精神主義を強調する日本軍には、補給・輸送についての配慮が乏しかった。武士は食わねど高楊枝とか、糧を敵に借りるという言葉が常用されたが、それは補給・輸送を無視して作戦を強行することを意味していた。
 アジア太平洋戦争における日本軍の死没者230万人の半数以上が、餓死か栄養失調を原因とする病死である事実を直視しなければならない。
 硫黄島の戦いを描いたクリント・イーストウッドの映画を2本ともみましたが、日本軍が兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に欠けていたという指摘は本当にそのとおりだと思いました。2万人いた守備隊のうち1000人ほどしか生還しなかったのです。栗林中将が自決したときにはまだ3000人の日本兵がいたというのに、降伏しないまま  2000人が死んでいるという事実は、実に考えさせられます。
 兵士の自主性を認めず、その生命を軽視している日本の軍隊が、その存立の起訴として重要視したのは、軍紀を確立し、絶対服従を強制することだった。絶対服従が習慣となるまでに、兵営生活の中で習熟させた。
 ただ、この点はアメリカ軍でも同じような気もします。ベトナム戦争を扱った映画「プラトーン」や「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」などに、新兵を殺人マシーンに仕立てあげていく様子がリアルに再現されています。
 最後の支那派遣軍総司令官だった岡林寧次大将が戦後(1954年)に偕行社で行った講演が紹介されています。
 日露戦争の時代には慰安婦は同行しなかったが、強姦もなかった。ところが、昭和12年になって、慰安婦を同行しても、なお多くの強姦する兵士が続出した。
 1939年(昭和14年)、陸軍次官は、中国戦線から日本へ帰還した日本兵が中国での虐殺や強姦の事実をしゃべることのないよう取り締まれという通達(通牒)を陸軍の各部隊に発した。というのは、帰還兵たちが、たとえば半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗だけだ、と言っていたから。
 著者は南京大虐殺を幻だとか捏造だと決めつけている論者を厳しく批判しています。
 たとえ捕虜の撃滅処断1万6000、市民の被害1万5000としても、それは大虐殺である。中国側のあげる南京での30万人の大虐殺という数字は、白髪三千丈式の誇張であるとし、それを攻撃することで、南京大虐殺は捏造だと決めつけることが、日本人として取るべき態度なのか。捕虜の不能な殺害や市民に対する残虐行為が、正確な数は不明としても多数存在したことは、消しがたい事実なのである。数の多少を問題にするのだったら、範囲を広げれば、いくらでもその数はふえるのである。
 日本軍が、軍紀の弛緩と中国人、アジア諸国に対する蔑視観とから、大規模な残虐行為を犯したことは遺憾ながら事実なのである。その事実を直視し、原因の追及と批判を行うことが、忌まわしい歴史を後世への教訓として生かすことになる。
 私は、この指摘にまったく同感です。私の亡父も中国戦線へ一等兵として送られていました。幸いなことにマラリアなどの病気にかかって本国送還されて南京攻略戦には参加していませんが、侵略軍の一員であったことは事実です。その子どもとして、日本人は加害者であったという事実を直視しなければいけないと考えています。

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2007年02月20日

「特攻」伝説

著者:原 勝洋、出版社:KKベストセラー
 第二次大戦中に、日本軍のカミカゼ特攻隊がアメリカ軍の艦船に体当たりしていった事実はよく知られています。この本は、アメリカ・メリーランド州にあるアメリカ国立公文書館?にある太平洋方面における戦闘記録と写真を掘り起こした写真集です。
 日本軍の陸海軍機がアメリカ軍の艦船に体当たりしていく状況をとらえた写真360枚が紹介されています。まさしく迫真の状況です。
 アメリカ軍は、カミカゼ特攻機が飛来し、爆弾を抱いて突入する姿、艦に体当たりする瞬間、被害箇所を克明に撮影し、記録していたのです。
 61年前の若い日本人青年たちが、体当たりの一瞬に人生のすべてを燃焼させていった記録写真です。彼らの出撃前のあどけない顔写真もあわせて紹介されています(こちらは日本軍がとった写真です)。
 この本によると、特攻機の命中率は語られていた以上に良かったようです。アメリカ軍の作成した資料によると、1944年10月、特攻機の命中率は42%、至近弾として損害16%で、合計58%。これによる損害として、命中した艦船は17隻、沈没したのは3隻。1944年10月から1945年3月までの間に、特攻が356回実施され、命中したのが140回で39%、命中と至近弾損害をあわせると56%にもなっている。命中した艦船は130隻で、沈没したのは20隻。沈没した船は1944年12月に11隻だったが、1945年に入ると、1月3隻、2月1隻、3月にはゼロとなっている。
 著者は、この写真と記録を見て、平和の時代に生きて良かったと実感させられたと述べていますが、私も本当にそう思いました。あたら有能な青年の前途を奪った戦争をくり返させてはなりません。
 アメリカ軍艦船「イントレピッド」の飛行甲板に突入した体当たり機操縦の特攻壮士の遺体写真について。人間の生命を犠牲とすることを前提とする特攻。この現状を知ってなお、「特攻攻撃は操縦する特攻壮士の崇高な意志を信頼してはじめて成立するもの」などと言えるだろうか。遺体写真のキャプションとして、著者は、このようにコメントしています。同感です。
 特攻は特別攻撃隊の略語であり、これは確実な死を意味していた。まだ一縷の生還の望みがある決死隊とは、まったく違うもの。
 それにしてもよく撮れたと思える写真です。はるか上空にいる日本のカミカゼ特攻機。艦に体当たり寸前の特攻機。本当に鬼気迫るものがあります。見上げるアメリカ軍兵士の顔が恐怖でひきつっているのまで判読できます。
 この特攻攻撃の自己犠牲は、アメリカ海軍の将兵にとっては理解のできない、身の毛もよだつ行為だった。アメリカ軍の検閲当局は、体当たりカミカゼによる被害関係情報を一切禁止した。
 出撃直前の特攻隊士の集合写真のなかには笑顔の青年も認められます。緊張した顔つきの兵士が大半ですが、それほど自己犠牲を当然視できていたのでしょう。教育の効果とは本当に恐ろしいことです。
 この本にはアメリカ側の記録だけでなく、日本側の出撃記録によって、いつ、どこから、誰が出撃していったのか、その氏名も明らかにされています。ですから、この写真にうつっているカミカゼ特攻機にのっているのは誰だろうという推測も書かれています。
 亡くなった日本人青年の冥福を祈ると同時に、こんな時代(事態)を再び招かないためにも、平和憲法を守り抜きたいと決意したことでした。
 いずれにせよ、手にするとずしりと重たい写真集です。

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2007年03月01日

十七歳の硫黄島

著者:秋草鶴次、出版社:文春新書
 硫黄島の戦闘が体験者によって刻明に再現されています。地獄のような地底で凄惨な逃避行を続けていく執念を読んで、腹の底から唸り声がわきあがってきました。感嘆、驚嘆、なんと言うべきでしょうか。よくぞここまで思い出して書きとめたものだと感心するばかりです。なかでも、地底の臭いの描写が私にはもっとも印象的でした。
 出征の前の晩。祖母はこう言った。
 死ぬでないぞ。死んで花実が咲くものか。咲くなら墓場はいつでも花盛りだ。
 著者は17歳の通信員。薄暗い壕内に寝起きする。通信科の隅にはバケツの水が用意されている。水番がいつも見張っている。一度に小さな茶碗に一杯だけ飲める。これは雨水。しかし、硫黄ガスの臭気と室温を溶かしこみ、ゴミや微生物も見え隠れしている。そんな水を一度でいいから思い切り飲みたいと願っていた。
 壕内の衛生状態は日一日と悪化した。微生物や虫の繁殖はものすごい。蚊とハエ、蛾は昼夜なくとび回り、のみとしらみもどんどん増えている。排泄物の累積に厠もたちまち満杯となる。
 アメリカ軍は上陸本番の前、2月18日に海岸線に緑、赤、黄、碧(あお)の小旗を立てた。部隊ごとの上陸地点を示す目印だ。
 アメリカ軍が本格的に上陸したのは2月19日。午前10時までに1万人が上陸した。それまで日本軍は一切反撃しなかった。突如として日本軍のラッパが鳴って反撃が始まった。著者は、この様子をずっと見ていたのです。
 彼我の距離は1キロ足らずの地に、双方あわせて5万をこす人間の殺戮戦がくり広げられた。10時間に及ぶ膠着戦だった。1分経過するごとに3人が死に、1メートルすすむたびに1人が死んだ。
 2月24日、早朝摺鉢山の山頂に再び日章旗が翻っていた。
 そして翌25日早朝、またもや摺鉢山に日の丸が朝日を浴びて泳いでいた。
 ええーっ、本当でしょうかー・・・。
 硫黄島攻防戦におけるアメリカ軍の総被害の7割は2月27日までのもの。あとは局地戦に移った。
 日本軍は、この1週間、飲まず喰わずで、兵器以外に手にしたものはない。
 壕内に霊安所がある。眼前に青紫色のあやしげな炎のようなものが立ち昇った。そしてすぐに消えた。ローソクのような燃え方に似て、ボボーッと燃えては消え、ボボーッと燃えては滅している。自分のまわりで消えては燃え、灯っては消えている。まるで蛍の一群のようだ。燐に取り巻かれてしまった。
 死が近い者はうわ言をいった。
 「今日は休みだよな。面会人が来ることになっているんだ。もう駅に着いているかなあ」
 「まだ戦争、やってんのかい?もうやめようって、みんなが言ってるよ」
 そうなんですよね。私は、このセリフを紹介するだけでも、この本の書評をのせる価値があると思いました。
 著者は、短かく見ても一週間、長くみたら半月は水一杯も口に入れていませんでした。それでも運よく、缶詰をあけて食べ、サイダーを飲むことができました。
 自分の傷口に丸々と太った真っ白い蛆(うじ)がいた。口中に入れると、ブチーッと汁を出して潰れた。すかさず汁を吸いこんだ。皮は意外に強い。一夜干しでもあるまいに。しばらくその感触を味わった。
 うえーっ、そ、そんなー・・・。これって正気の沙汰ではありませんよね。まさしく地獄のような地底での話です。
 木炭も食べました。軟らかそうで、うまそうだ。急に甘味を思い出し、思わずかじりついた。・・・。すごーい。
 5月17日まで島内を逃げまわり、気を失っているところをアメリカ軍の犬に見つけられ、捕虜収容所のベッドに寝ているところで目がさめたのです。まさしく九死に一生、奇跡的に助かったわけです。
 あの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無駄じゃねえ、と言ってやりたい。
 著者の言葉です。本当にそのとおりです。この60年の日本の平和を守ってきた日本国憲法(とりわけ9条2項)を変えるわけにはいきません。

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2007年03月15日

硫黄島の兵隊

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

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2007年04月10日

「聖断」虚構と昭和天皇

著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
 たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
 毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
 このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
 昭和天皇が終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
 私は、今の平成天皇は昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。

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2007年05月02日

テレビは戦争をどう描いてきたか

著者:桜井 均、出版社:岩波書店
 第二次大戦と日本人の関わりをテレビがどう映像で取りあげたのかを後づけた貴重な本です。ハーバート・ノーマンは次のように語った。
 みずからは徴兵制軍隊に召集されて不自由な主体である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷をうちつけるエージェントになった。
 なーるほど、言い得て妙の指摘だと思います。
 中国戦線に配置された兵士たちの多くは劣勢の太平洋(南方)戦線への転戦を命じられた。そこでの苛酷な転戦と敗北の過程で、被害体験を蓄積して生還した兵士たちは、中国大陸での加害の記憶をすっかり相殺していた。
 うむむ、そういうことだったのですかー・・・。
 井上ひさしが『父と暮らせば』で書いた言葉が紹介されています。すごい言葉です。
 他者の犬死にの上に生きのびた人間が、犬のように生きることは許されない。
 犬死にを強いたもの、これから犬死にを強いるかもしれないものに立ち向かうしかない。
 そうなんです。平和憲法をなくして、日本を戦争できる国にしたら、またぞろ徴兵制が復活します。若者があたら犬死にさせられるなんて、まっぴらごめんです。今のうちに憲法9条2項を守れと叫んでたたかいましょう。
 レイテ島の戦いで、日本兵8万4000人のうち8万1500人、97%が戦死した。軍上層部は、無謀な命令を出しておきながら、部下に抗命権を一切あたえず、兵に武器弾薬食糧を補給せず、投降する自由を認めなかった。
 そして、司令部と第一師団の主力800人は隣のセブ島に転進した。1万人以上の兵がレイテ島に置き去りにされた。私はレイテ島に行ったことがあります。密林なんてどこにもありませんでした。苛烈な戦火にあって、密林が消えてしまったのです。こんなところで多くの日本人の若者たちが餓死、病死そして殺されていったのかと、不思議な気がしました。いま日本企業がレイテ島にも進出しています。私は弁護士会の調査団の団長としてODAでたてられた三菱重工業の地熱発電所を視察しに行ったのです。
 大岡昇平の『レイテ戦記』には、フィリピン人に日本軍が何をしたのかという視点が欠落している、そんな指摘もなされています。なるほど、と思いました。
 昭和天皇は戦争の原因として次のように述べたそうです。
 わが国民性について思うことは、付和雷同性の多いことで、これは大いに改善の要があると考える。かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。軍備が充実すると、その軍備の力を使用したがる癖がとかく軍人の中にあった。
 つまり、付和雷同する国民と軍部の独走、この二つが結合したところに戦争の原因があったというわけです。そこには、天皇自身の戦争責任の自覚というものはありません。さらに、次のような天皇の言葉には驚かされてしまいます。
 負け惜しみと思うかもしれぬが、敗戦の結果とはいえ、わが憲法の改正もできた今日において考えてみれば、わが国民にとっては勝利の結果、極端なる軍国主義となるよりも、かえって幸福ではないだろうか。
 何千万人という多くのアジアの人々を侵略していった日本軍が殺し、また何百万人もの日本人が死んでいった戦争の悲惨さを自らの問題としてまったく自覚していない、いわば単なる傍観者的評論家としての言葉でしかありません。呆れ驚きます。
 昭和天皇を戦犯としなかった功績から、アメリカ軍のフェラーズ准将に対して1971年、日本政府は勲二等瑞宝章を贈った。この事実を知ると、日本が戦争責任をいかにあいまいにしているか、改めて実感させられます。質量ともに大変ずっしりとボリュームのある本でした。

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日本帝国陸軍と精神障害兵士

著者:清水 寛、出版社:不二出版
 徴兵制とは、その時代の国家目的にそって、戦時あるいは平時の軍事的必要度にみあうだけの兵力を、国民の中の壮丁(兵役義務の年齢に達した男子)の中から、強制的に集めるための制度であった。
 徴兵制度の歴史とは、広範な免役要件に対して、いかに制限を加えていくかという過程であり、同時に、免役条項を活用しての徴兵忌避、さらには強制徴兵制そのものに反対する運動を強力に抑えこんでいく過程にほかならなかった。
 明治期の軍隊の中には、かなりの低学力の兵士が送りこまれた。日露戦争を経たあたりから、無(低)学力兵士の問題が軍隊内部でも顕在化しはじめていた。
 明治35年(1902年)、陸軍懲治隊条例が制定された。懲治隊に入れられた入営前の非行・犯罪のあった者の中に、実は、思想犯もいた。社会主義を鼓吹する言動が問題となり、改悛の情なき不良兵士とされたのである。
 その中の一人である森川松寿は、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に共鳴し、社会主義宣伝の冊子を販売する伝道行商に従事していた。森川は、兵役は国民の義務ではない、兵役は恥とするところ、戦争は罪悪だと公然と述べていた。
 偉い人ですね。なんと、17歳のころから活動していたといいます。
 徴兵忌避をする者が少数ではあったが、存在した。身体を毀傷し、疾病を作為し、また詐称したとして摘発された者が1918年に578人、1931年に474人、1935年に145人いた。
 日本が敗戦したときの動員兵力数は716万人。当時17〜45の日本男子は1740万人だったから、その4割以上が軍に動員されていた。1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15〜16歳、女子17〜40歳の全員が義勇兵役の対象に組みこまれた。
 1923年、陸軍懲治隊は、陸軍教化隊と改称された。陸軍となっているが、海軍兵も対象としていた。教化隊のなかにも思想要注意兵がいた。総員778人のうち8人が該当者であり、一般教化兵と隔離された。
 教化隊に編入された兵士は累計で1000人。このうち原隊に復帰したのは、6.2%(55人)のみ。あとは、満期除隊した。
 この本は千葉県市川市にあった国府台陸軍病院という精神病院の患者の実情を明らかにしています。そこでは、戦争神経症が研究されています。当初、ヒステリー患者とされていました。大戦中、ヒステリー患者は、ほぼ一貫して全精神神経疾患患者の10%前後であり、平均すると11.5%と高率だった。
 たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。
 山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計にいやな気がした。
 ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。
 医師が戦争神経症に接して驚いたことは、ヒステリーの多いこと。目が見えない、耳が聞こえない、立ち歩きができないといったあらわな症状をもっていた。
 日本陸軍兵士における戦争神経症を研究した貴重な労作です。自他ともに認める軟弱な私などは、徴兵されて戦場に駆り出されたとしたら、真っ先にヒステリー症つまり戦争神経症にかかり、足腰が立たなくなること必至です。誰だって突っこめという号令に従って行動して無意味に戦死するなんてことになりたくはありませんよね。

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2007年05月08日

沖縄シュガーローフの戦い

著者:ジェームス・H・ハラス、出版社:光人社
 沖縄戦初日のアメリカ軍の上陸日はL(ラブ)デイと名づけられ、1945年4月1日。日本軍の反撃はまったくなく、予定より早く目的地に到着していった。
 アイスバーグと名づけられた沖縄進攻作戦は、54万8000人の将兵と1500隻の艦船を動員する計算だった。攻撃実施初日の兵力18万2000人というのは、1年前のノルマンディー上陸作戦のDデイを7万5000人も上まわっている。
 日本軍の第32軍司令官は牛島満中将であり、その副官で参謀長の長勇少将は、短気で攻撃的な性格だった。大酒飲みで女好き、盲目的な愛国主義者で先導的な性格だったから、牛島司令官の手に余ることも多かった。
 ところが、1945年5月12日から18日までの一週間、沖縄の首里攻防戦の西端にある小さな丘をめぐる争奪戦で、アメリカの第六海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。最終的に丘を占領するまで、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗して、すぐに小隊規模になり、さらに消耗して分隊規模になり、最後はシュガーローフ上で染みこむように消えていった。
 沖縄戦は太平洋戦争を通じてもっとも血みどろの戦いだった。82日間の戦闘でアメリカ軍の陸上兵力は7612人が戦死、行方不明、3万1312人が負傷、2万6211人が戦闘疲労症となった。海上兵力のほうも4320人が戦死、7312人が負傷した。
 第六海兵師団だけでも戦死傷者は8227人にのぼり、3人に2人が戦列を離れた計算になる。
 アメリカ海兵隊は高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないシュガーローフと名づけた貧相な丘を乗り越えることができなかった。この丘にはトンネルや坑道が複雑に張りめぐらされており、人員や物資を地上に出ることなく補給することができた。この丘にいた日本軍は一個中隊規模でしかない。しかし、すぐに豊富な予備兵力で増員できる体制にあった。しかも、陣地は重装備されていて、迫撃砲45門と擲弾筒29門が配備されていた。地形は防御側にきわめて有利。攻撃側は、さえぎるものが何もなく、丸裸で丘に接近しなければならない。
 太平洋戦線のアメリカ海兵隊には、夜間戦闘の絶対的掟があった。それは、動くものはすべて撃て、夜に動きまわるのは、すべて日本兵だ、というもの。
 シュガーローフの丘の上では、日本軍とアメリカ海兵隊の兵士たちの手榴弾合戦が続いた。メジャー一等兵は、戦車の残骸にいた日本兵の断末魔の悲鳴を聞いて、気分が少し楽になった。やつらも生身の人間だということが初めて実感できたからだ。
 日本兵は、アメリカ兵にとって生身の人間だとはおもわれていなかったわけです。爆弾をかかえて戦車に飛びこんでくる姿を見たら、たしかにそんな気になるのでしょうね。今のイラクと同じで、日本軍は自爆攻撃を常套手段としていたのです。
 食欲のある兵士は、ほんの一握りで、多くの兵士はタバコを吸いながら、Dレーションバーと呼ばれていた栄養食のフルーツ・チョコレートバーをかじっていた。そのため、前線勤務の兵士は例外なく体重が減り、平均7〜10キロはやせた。消化器系の不調にも悩まされ、下痢でげっそりするか、便秘でお腹がパンパンするか、どちらか。中間はなかった。
 シュガーローフでの前線勤務を経験すると、死は生きることよりも普通となっていった。死の多くは劇的ではなかった。ある兵士は突然、ベルトのあたりのシャツを手でまさぐり出した。そのまま座りこむと、ゆっくり横にもたれかかるようにして倒れ、そのまま死んだ。かなり遠方から飛んできた銃弾が背中にあたり、腹部から出ていったのだ。
 この本では、敵である日本軍の兵士を高く評価しています。次の狙撃兵の描写は、まるでスターリングラードの戦闘の様子を描いたような内容です。
 日本軍の狙撃兵は冷徹に選択された死の恐怖をアメリカ兵に味あわせた。狙撃兵は、きわめて忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校を見きわめていた。将校か通信兵を狙撃するため、一般の歩兵には目もくれずやり過ごした。そのため、将校は身につけている階級を示すあらゆる勲章や装備を隠した。将校で45口径の拳銃ストラップを肩からかけていたら、瞬時に射殺された。必ず眉間か胸のど真ん中を狙う。一発で即死した。狙撃兵による戦死傷者の中でもっとも多かった階級は中尉。ある将校は着任して15分で死んでしまった。シュガーローフ周辺での戦闘における将校の戦死傷率は平均60〜75%。大隊長3人と18人の中隊長のうち、11人が戦死ないし負傷した。当初から作戦に参加した中尉のうち、最後まで残ったのは、ごくわずかだった。
 多くのアメリカ海兵隊員は日本兵の姿を見ることなく死んでいった。日本兵はひたすらタコツボや洞窟、銃眼のなかで忍耐づよく待っており、アメリカ兵がその射界に入ってきたときだけ射撃した。
 日本兵はガニ股で飛びはねながら猿のように金切り声を上げたり、ブタのように鳴いたりするやつらだと思っていたが、実際に見ると目は落ち着きはらっており、まさにオレたち海兵隊員と同じ顔つきをしていた。これはアメリカ海兵隊の軍曹の言葉です。
 日本兵はきわめて統制のとれた集団だった。よく訓練され、統制のきいた陸軍兵士で、とくに士気の高さと身体能力の高さは特筆すべきだと海兵隊の活動報告書に書かれた。
 日本軍の兵士は、つねに頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に投降しなかった。
 この本が単なる戦記と違うところは、戦場でたたかえなかった兵士たちのことがきちんと描かれているところです。私なんか臆病者とののしられてしまうのは必至ですが・・・。
 精神の緊張状態は多くの兵士にとって、耐えられないものだった。
 頑強でたくましい大男の海兵隊員が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる。戦闘疲労症だ。あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲みこまれた。肉体的な極限状態のなかで、人間としての尊厳を守ろうとした場合に発症した。戦闘疲労症になる若い兵士は、とくに自責の念を感じているようだった。精神の崩壊は、肉体的な極限状態に、恐怖心と良心の葛藤が引き金となって発症した。相当数の兵士が二度と戦うことができなかった。
 日本軍はシュガーローフにおいて、反射面陣地と呼ばれる構築手法を多用した。これは、アメリカ軍側に相対する斜面には兵士を極力配置せず、反対側の斜面に主陣地を構築し、敵が頂上部に到達するのを待って攻撃する手法。この長所は、圧倒的な火力を有するアメリカ軍から直接的な攻撃を受けず、近距離に接近するまで兵力を温存し、かつ自軍の配備状況をアメリカ軍から察知されにくい効果があった。
 これって硫黄島でとられた戦法に似てますよね。沖縄戦において、圧倒的兵力の差があるアメリカ軍に対して局地的には互角以上の戦いをしていたというと意外な感じがします。硫黄島のような戦闘が沖縄本島でも繰り広げられていたことを初めて認識しました。
 ちなみに、シュガーローフというのは沖縄都市モノレールのおもろまち駅付近の小高い丘で、今は頂上に排水タンクがたっているところです。この本を読み、現地に立って激戦の状況を偲んでみたくなりました。戦争の残酷さを今の私たち日本人は忘れ過ぎているようです。

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2007年06月04日

ぼくは毒ガスの村で生まれた

著者:吉見義明、出版社:合同出版
 毒ガスの被害が、現代中国で発生しています。日本軍が投げ捨てていったものが、何も知らない子どもたちに拾われたりして事故を起こしているのです。
 なぜか。マスタードガス(イペリット)は、吸い込んだり身体にふれても、すぐには影響が出ない。数時間たってやっと影響があらわれる。その場で毒ガスにふれたことが気がつかないため、大勢の人が被害にあってしまう。
 毒ガスに触れた皮膚のキズは治りにくいだけでなく、大きな跡が残ってしまう。呼吸によって肺に入ると、ひどい咳が出て、呼吸が困難となる。現代の医学では、毒ガスの被害を完全に治す薬や治療法は見つかっていない。
 日本には毒ガスを製造していた島があった。瀬戸内海の小さな島、大久野島。今ではテニスコートなどもある国民休暇村となっていて、毎年12万人がやって来る。ここに、従業員5000人という大工場があった。毒ガスをつくっていた。
 日本でも中国と同じような事故が発生している。茨城県神栖町、神奈川県の寒川町や平塚市など。というのは、毒ガス弾を日本軍は終戦時に別府湾などに捨てたから。また、銚子沖にも捨てられている。
 日本にとって、戦後はまだ終わっていない。このことを実感させられる本でした。

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2007年06月22日

戦場に舞ったビラ

著者:一ノ瀬俊也、出版社:講談社
 第二次大戦中、日本軍とアメリカ軍が戦場でまいたビラ、伝単と言います、を収集して、その効果を検証した異色の本です。
 日米両軍とも、伝単の作成には力を注いだ。日本は陸軍参謀本部に、アメリカはマッカーサー軍司令部に、それぞれ専門の部署をおいていた。
 アメリカ軍は1942年(昭和17年)4月、空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B−25を16機発進させ、東京・横浜を空襲して中国大陸に着陸させるという奇策を用いた。このとき、アメリカ軍は「桐一葉」伝単を日本上空にまいた。
 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」にちなんだ伝単であり、「落つるは軍権必滅の凶兆なり」などと書かれていた。この伝単を考案したのは、戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた、後の評論家・石垣綾子だったという。
 ソロモン諸島に取り残された日本兵は、日本の大本営の大げさな戦果発表よりもアメリカ軍のまくビラの方がよほど信頼性があることをよく知っていた。そこでは、無気力・不感症になったような兵たちがアメリカ軍のまく伝単を拾っては貼りあわせて花札をつくり、毎晩、賭博を開帳していた。
 日本軍の士気の衰えがよく分かりますね。
 グアムにいた日本兵は、終戦になっても日本が降伏したことを知らず、ジャングルのなかにいて、敵から奪った手紙やごみという「意図せざる伝単」を通じて正確な情報を手に入れ、それによって自ら情勢を判断して投降した。
 横井庄一もジャングルのなかにいてアメリカ軍による投降勧告放送を聞いていたが、捕虜をつかったアメリカ軍の謀略だと解釈して応じなかった。このとき、日本陸軍の参謀自らが放送していたら応じていただろう。横井庄一は 1972年、28年間のジャングル生活の末にやっと投降した。
 1972年のことは今も覚えています。驚きでした。日本の戦後は終わっていないというのを実感させられた瞬間でした。
 日本軍に投降をすすめる伝単には、投降の「作法」を絵で示すものもあった。投降する日本兵がふんどし一つの裸で出てくる場面を当時の記録映像で見ることがある。それは、こうした伝単や投降放送の指示にもとづくものなのである。
 なるほど、投降するにもお互い生命をかけていたのですね。伝単の意義をしっかり理解することができました。
 わが家の田んぼに水が張られ、田植えが始まりました。蛙たちが一斉に鳴きはじめ、夏到来を告げています。

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2007年08月10日

盗聴二・二六事件

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

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2007年08月21日

陸軍特攻・振武寮

著者:林 えいだい、出版社:東方出版
 思わず腹が立ってしまう本です。いえ、著者に対してではありません。軍人のいやらしさに、対してです。死んで華を咲かせてこい、などと偉そうに命令しておいて、自分は後方で酒など飲んで、のうのうとしている。そして、最前線から生きて帰ってきたら、その兵士を懲罰したというのです。人命軽視というのは軍隊の相も変わらぬ体質です。あー、やだ、やだ。そんな軍人に日本が再び支配されるなんて、まっぴらごめんです。そんな気持ちに、しっかりさせる本でした。
 戦争末期。特攻機には不良機が続出していた。なぜか? たとえば、飛行機の部品をつくっていたのは、慣れない高等女学校の生徒たち。彼女らが必死にヤスリで削っても、しょせんは素人集団。熟練工でないため、不良品が続出するのもやむをえなかった。これは、ナチスの軍事工場で、動員された女工たちが意識的なサボタージュ(不良品をわざとつくっていた)とは違うものです。国の生産管理そのものに無理があったわけです。
 部品の不良品が続出し、何回テストしても不合格となる。作業する女学生の精神がたるんでいるからだと検査官は責任を作業する女学生に転嫁した。しかし、資財の不足は決定的だった。3月27日、アメリカ軍のB29による大刀洗飛行場大空襲によって、九州一を誇った大刀洗陸軍航空厰が全滅した。そのため熊本県菊池にある陸軍航空分厰と山口県下関にある小月分厰とに故障機が殺到した。
 大刀洗飛行場は、陸軍が誇る西日本一の飛行場だった。そこで1万人が働いていた。大刀洗航空機製作所は、百式重爆撃機「飛龍」を製造した。1万3000人の従業員がいた。飛行場の上空は気流が安定していて、飛行訓練には最適だった。
 飛行機の操縦士というのは、募集しても短期間では教育できない。一人前の操縦士を育てるには3年はかかるといわれていた。そこで、大学や専門学校に在学している学生に白羽の矢が立った。学問して基礎教育はできている。思想的にも大人になっている。体力的にも訓練に耐えられる。そのような学生を集めて、特別に操縦士の早期育成教育をすることになった。勅令によって、特別操縦見習士官という制度がつくられた。
 教官と助教は、日頃から、生徒の操縦に注目している。本人の性格まで分析して、体の動きが機敏で反応が早いのは戦闘機、動作がゆったりしているのは重爆、素早くて目がいいのは偵察と決まっていた。分けられた者をみると、いつも納得させられた。
 もともと陸軍の航空隊は、海上の敵機動部隊への艦船攻撃の訓練を受けたことがない。陸軍の航空本部長は特攻作戦に反対した。
 特攻隊というのは捨て身の戦法で、飛行機も操縦士も同時に失って再び戦闘につかえないという重大な欠陥がある。これは戦術的にも間違った戦法であって、本来やるべきことではない。お金をかけて長いあいだ養成した優秀な操縦士を、たった一度の体当たりで失うことに疑問をもった。しかし、そのように反対した本部長も参謀も更迭され、総入れ替えとなった。
 特攻隊をつとめるときには、熱望する、希望する、希望しないという3つの設定で回答を迫る。このとき、希望しないと書くのは、熱望すると書くよりも勇気がいった。うーん、たしかに、そうでしょうね・・・。
 陸軍の爆弾は、爆発した瞬間に広がり、敵兵をなぎ倒して死傷させることが目的であって、もともと艦船攻撃用のものではない。海軍の雷撃隊が使用する魚雷は、鉄鋼爆弾といって、戦闘艦の厚い鉄板を貫いて爆発する。陸軍の250キロ爆弾は、コンクリートの上に卵をぶつけるようなもので破壊力がない。
 特攻隊が出撃する前の軍司令官の訓辞は次のようなものでした。
 お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にはない。一命を投げ出して、国のためにいさぎよく死んでくれ。お前たちのことは、畏くも上耳に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけを見殺しにはしない。
 うむむ、なんとカッコいい激励のコトバでしょう。でも、現実は、そうではありませんでした。乗った飛行機が故障して帰ってくると、次のようにののしられました。
 貴様たち、なんで帰ってきた。卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない。卑怯者、死ぬのが怖いから帰ってきたのか!
 特攻隊で出撃して死にきれない隊員は、軍人精神がたるんでいる証拠だ。飯を食う資格がない。まず、反省文を書け。教育勅語と軍人勅諭をオレがいいというまで書け。
 貴様ら、その態度は何か。それでも軍人か。何で生きて帰ってきたのか。貴様たちは、そんなに死ぬのが怖いのか。
 盛大な見送りを受けた特攻隊員が生きて帰還したとき、それは罪悪として非難された。しかし、死に追いやった者が生還者に言うべき言葉ではない。そのとおりですよ、まったく。そして、実は、生還者をののしった参謀は戦後、長生きした。しかし、80歳になるまで生還者や遺族から襲われることを恐れて、自分の護身用としてピストルと軍刀を身辺から離さなかった。なんということでしょう。おぞましい人生ですね。特攻隊の現実を考えさせらる本でした。
 お盆休みに知覧へ行ってきました。たくさんの特攻隊員の顔写真を見ながら、死にたくなかっただろうな、とつくづく思いました。お国のために死んでこい、オレもあとから続くなんて言った偉いさんたちのほとんどは、若者への言葉を違えて安穏な戦後を過ごしたのではないでしょうか。改めて腹が立つのを抑えきれませんでした。
(2007年3月刊。2800円)

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2007年08月31日

湖の南

著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
 事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
 裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
 「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
 いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
 「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
 津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
 西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
 津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
 このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
 いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)

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2007年09月19日

第百一師団団長日誌

著者:古川隆久、出版社:中央公論新社
 伊東政喜中将の日中戦争というサブ・タイトルがついています。数少ない師団長クラスの日誌が物語る戦場の現実、オビに書かれているとおりでしょう。
 遺族の提供によって東京を母体とする特設師団(101師団)の実情がさらに解明されたわけです。素人ながら、その意義は大きいと思いました。
 盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発したのは70年前の1937年(昭和12年)7月7日のこと。日中戦争が始まった。その4年後には太平洋戦争へと拡大していく。
 日中戦争初期の1937年8月から1938年9月にかけて、第101師団長であった伊東政喜(まさよし)陸軍中将の日誌を解読し、中国側の資料もふまえて丁寧な解説がついています。素人にも大変わかりやすい内容の本です。
 第101師団は、いわゆる特設師団であり、予備、後備役の召集兵、つまり現役兵としての勤務を終えて社会に戻り、その中堅層として活躍していた人々で編成された部隊である。首都東京を根拠地とする部隊であるうえ、激戦地に投入されたため、多くの美談や武勇伝を生み、人々に広く知られた。
 伊東日誌はA5版のノート6冊から成る。伊東は、1881年(明治14年)に、大分市に生まれた。大分中学から陸軍幼年学校へすすんだ。そして陸軍士官学校を1902年に卒業し、砲兵少尉に任官した。さらに陸軍大学校に進学した。陸大は、30歳以下の少尉や中尉のなかから上官の推薦を受けた者が受験できる学校で、作戦をたてる役目をもつ参謀将校の養成を目的とした。師団長・軍司令官、陸軍中央の要職といった陸軍の高官は、陸大を卒業していないと、まずなれない。
 中国に駐屯する日本陸軍の傍若無人のふるまいが日中戦争を引き起こした。その背景には徹底した中国蔑視があった。それがまかり通った原因として、日本の軍隊が政府の指揮下になく、独自の組織となっていた(統帥権の独立)こととあわせて、日本社会に中国蔑視が蔓延していたことがあった。日本の陸軍や一般の人々は、中国軍の実力はたいしたことはなく、本気を出せばすぐに降参するだろうと高をくくっていた。ところが中国軍は、かねてドイツ軍から顧問を招いて上海地区に強固な陣地を構築し、精鋭部隊を配置していた。伊東師団長の率いる第101師団は、このような状況のなかで上海へ出征していった。
 特設師団は常設師団よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設師団の3分の1でしかなかった。
 第101師団が東京を出発するときには、楽観的かつ熱狂的な雰囲気の中で戦地に向けて出発していった。日誌には次のように書かれています。
 特設師団は編成素質不良にして、かつ、訓練の時間なく、しかも、もっとも堅固な敵正面の攻撃にあてられ、参戦以来3週間、昼夜連続の戦闘をなし、相当の死傷者を出した。
 幹部の死傷が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立つによる。そうしないと兵が従わないからだ。こんな涙ぐましい美談が少なくない。
 この「美談」は、そのままでは内地で報道することができませんでした。それはそうでしょうね。兵隊の士気がないことが明らかになってしまうからですね。
 東京で、第101師団について、不名誉な噂が広まり、伊東師団長はやきもきさせられました。第101師団は杭州攻略戦に参加したため、南京事件にかかわらずにすんでいます。南京大虐殺事件について、著者はあったことを否定できないとしています。私も、そう思います。このころ、日本軍の軍紀(綱紀)が相当ゆるんでいたことを、伊東師団長も再三、日誌のなかで嘆いています。
 ところで、このころ、日本は軍需景気に沸いていたということを私は初めて認識しました。そうなんです。戦争は、一部の人間にとっては、もうかり、楽をさせるものなのです。このころ、正月の映画興行がにぎわい、国内観光旅行客が急増しました。出版業界もバブルという好況になりました。
 軍需産業の繁栄と、日本が中国に負けるはずはないという思いこみによる将来への楽観視が、中国大陸の戦場の苛酷さとうらはらに、戦後1980年代日本のバブル景気を思わせる雰囲気を、この時代の日本はもっていた。読売新聞は、東京で一日3回発行していた。
 慰安所設置のことにも日誌はふれています。陸軍当局の方針として慰安所が設立され、運用されていたことは歴史的事実なのです。
 また、第101師団が、日中戦争で毒ガスをつかっていることも判明します。青剤(ホスゲン)や茶剤(青酸)のようなガスで直接的に多数の死者を出すものではなく、赤剤つまり、くしゃみ、嘔吐剤であり、戦力・戦意の一時的な喪失を狙ったものでした。
 なぜ、日中戦争で特設師団が勝つよう(多用)されたかについて、ちょうど同じ時期の日本を分析した岩波新書『満州事変から日中戦争』(加藤陽子。2007年6月刊。780円+税)には、次のように説明されています。
 日本軍の陣容を眺めると、特設師団(番号が三桁の師団や、軍縮で廃止された師団番号をつかって編成された師団)が含まれていることから分かるように、参謀本部は、ソ連の動向を考慮するあまり、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかった。つまり、陸軍はあくまで北(ソ連)を向いていたのである。
 この日誌を読んで、当時の日本軍の状況が師団長レベルの考えから、よくとらえることができました。ちなみに、600頁もの大部の本です。読み終わったあと、つい昼寝の枕にしてしまいました。ちょうどいい高さなのです。井上ひさしの『吉里吉里国』を読んだときを思い出しました。
(2007年6月刊。4200円+税)

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2007年09月20日

蟻の兵隊

著者:池谷 豊、出版社:新潮社
 敗戦したあとも中国に残って、毛沢東の率いる中国紅軍と3年半も戦っていた日本兵の集団がいたなんて、ちっとも知りませんでした。
 中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人は、中国国民党系軍閥の部隊に編入され、戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人あまりが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国できたのは昭和30年前後のこと。帰国したとき、これら元日本兵は逃亡兵の扱いを受けた。日本政府は、残留将兵たちが自らの意思で残留し、勝手に戦争を続けたとみなし、戦後補償を拒否した。
 2001年5月、元残留将兵ら13人が軍人恩給の支給を求めて国を訴える裁判を起こした。しかし、一審判決で敗訴した。日本って、ホント、むごい国ですよね。
 中国国民党系の軍閥の首領は閻錫山(えんしゃくざん)。彼は、1904年、21歳のときに日本へ留学し、陸軍士官学校に入学した。閻は孫文の中国革命同盟会に加盟し、弘前の連隊に勤務するなどした。5年間の日本留学を終えて中国に戻ると、山西省で大隊長級の軍人となった。そして、次第に力を蓄え、山西省に独立王国のようなものを築くにいたった。そこで、蒋介石は、閻錫山の軍隊と八路軍とを戦わせ、双方の弱体化を狙った。閻にとって、八路軍と衝突するのは蒋介石を利することになる。それを悟った閻は、日本軍と手を結ぶことにした。
 昭和20年の終戦時、日本の北支派遣軍第一軍は5万9000人いた。そのうち、閻は1万5000人を残留させ、自軍に編入することを試みた。名目は「鉄道修理工作部隊」とした。第一軍当局は、閻の要請を受け入れ、現地除隊の手続きをとらないことにした。現地除隊してしまえば、好きこのんで残留する将兵が誰もいなくなるからである。
 ところが、南京にある支那派遣軍総司令部から派遣された参謀が、山西省で軍の命令に反して勝手に日本兵の一部が残留しようとしているのを知り、妨害した。その結果、動揺が生じて、1万5000人の予定が残留者は2600人にまで激減した。
 日本兵の残留工作にあたった軍幹部の認識は次のようなものだった。
 蒋介石の国民党軍は、正規軍400万、地方部隊200万で、合計600万の大軍があった。これにアメリカが46億ドルの兵器を提供した。B29機、戦車、重砲、自動銃、火炎放射器、通信機。これに対する中国共産党軍は90万。兵器は蒋介石軍や日本軍から取り上げたもの。だから、1年か1年半で、人民解放軍を撃滅できる。
 ところが、八路軍は、徐向前の率いる20万の大軍、そして、猛将といわれた賀竜の率いる10万の大軍が進攻しており、山西省は陸の孤島になりつつあった。
 日本軍は山西軍を教育するだけでいい、直接の戦闘には加わらなくてよいという約束はたちまち反故にされ、早くも戦死傷者が出た。それまでは「逃げる八路軍」の体験しかなかった日本の将兵は、人海戦術で正面から戦いを挑んでくる共産党軍の存在を初めて知った。
 装備も士気も劣る山西軍との共同戦線なので、日本軍は必然的に最前線に立たされることになった。そこで、八路軍は、むしろ残留日本軍を標的に戦闘を仕掛けてきた。
 そんななか、中国残留をすすめていた山岡参謀長が帰国し、澄田第一軍司令官も日本に帰国した。澄田は帰国する前、次のように訓示した。
 祖国日本の復興のためにがんばれ。自分は閻将軍と台湾に行き、日本に帰ったら、必ず2万の救援軍を連れて帰ってくる。
 日本から2万の義勇兵を連れて中国に戻ることを約束したというのです。なんということでしょう・・・。この澄田元司令官は昭和54年に89歳で天寿をまっとうし、昭和29年9月に勲一等旭日大緩章をもらっています。まだ山西省で残留日本将兵が死闘をくり広げているころになります。
 軍隊そして軍人の無責任さには、ほとほと呆れてしまいます。
(2007年7月刊。1400円+税)

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2007年10月01日

パール判事

著者:中島岳志、出版社:白水社
 日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
 パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
 パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
 東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
 東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
 ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
 パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
 さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
 パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
 日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
 パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
 原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
 そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
 パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
 パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
 パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
 なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)

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2007年10月11日

大本襲撃

著者:早瀬圭一、出版社:毎日新聞社
 戦前の宗教弾圧事件として名高い大本(おおもと)教弾圧事件の詳細を描いた本です。その苛酷な弾圧を初めて知りました。
 当局の大本教についての認識は次のようなものだった。
 明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、その遺伝性素質がこの生活上の重圧の限界で発作を起こして、精神の異状を呈した。
 この狂女は、いくぶん平静さを取り戻すにつれ、土地の俗信である艮(うしとら)の金神(こんじん)や、従前の信仰であった天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しては、これまた一種の我流の施法をはじめた。医学的に後進地であった地方のため、新奇な物珍しさも手伝い、注目されるようになった。
 そこへ、上田喜三郎青年が助手として登場した。上田青年は、一度は排斥されたのち、再び、出口王仁三郎と名前を変えて迎えいれられた。
 開祖なおは文字を知らなかった。しかし、神が、「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが筆先のはじまりである。
 開祖なおは、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な筆先を書いている。筆先で一貫しているのは、世の立替え、立直しということである。
 筆先は、すべてひらがなで書かれているため、意味が判明しやすいように漢字をあてたのが出口王仁三郎である。
 大正に入るころから、陸海軍の幹部クラスや岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
 このような大本教を治安維持法違反として検挙したのですから、いかにも国家権力の横暴きわまれりというものです。治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられます。
 三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める
 これは大本の開教宣言の一句です。これが治安維持法にいう国体の変革を目ざすものと解釈されるのです。信じられません。まったく恐ろしいことです。狂気の沙汰とは、このことです。
 王仁三郎による教理が指向するものは、現在の統治の根本を否定し、代わって、自らがその地位を占有せんとするものであるから、明らかに国体を変革することを目的としている。
 ええーっ、これってウソでしょ。マジ、本気って、ありえないよね。そんな感じです。
 大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である。
 このようにこじつけて、当局は大本教の弾圧をはじめます。
 昭和10年(1935年)12月8日午前0時、臨時年末一斉警戒の名目で京都府警の警察官500人が京都御所に集結。大型バス18台と数台の普通車やトラックに分乗、各編隊に分かれた。遠い綾部へ向かう大隊は午前1時に、近い亀岡行きの大隊は午前3時に出発。途中で、警官に大本襲撃の目的が明かされた。同時に、大本は決死隊を結成していて、銃などの兵器も準備している。警官隊は皆殺しにあうかもしれない、などのウワサが飛びかい、はち巻きや下履きを配られた警官たちは必死の形相だった。
 もちろん、何ごともなく、教団側は無抵抗のまま大勢の信者が逮捕されます。教団の建物は全部が取りこわされてしまいました。
 綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、まず電話線を切り、午前4時半、突入した。信者は無抵抗だった。
 松江の大本別院にいた王仁三郎・すみ夫妻も逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束された。
 警察当局は大本は妖教、邪教、怪教だというイメージをつくりあげ、大阪毎日新聞などが連日、センセーショナルに書きたてた。しかし、信者はきわめて冷静に対応した。
 取り調べは京都府警特高課があたった。竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段を用いた。まったく、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった。
 三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか。
 これは、教祖すみが、独房に入れられているとき、夫婦者のゴキブリを見つけて仲良くしていた情景をふまえた歌です。
 昭和11年3月。京都府知事は大本の建物について、すべて破却せよとの命令を出した。
 結局、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その取調べ中(1年)に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。
 昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。
 教祖すみは、裁判の日には人前に出るのだから、白粉くらいつけようと思い、白粉のかわりに白い粉状の歯磨き粉を顔に塗った。
 このころの教祖すみの写真がありますが、屈託ない笑顔を見せていて、驚きます。次の王仁三郎の言葉もすごいものです。
 人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは、今というこの瞬間だけだ。だからわしらは、今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけより考えてはおらぬ。あとは一切神様にお任せしておけばよい。昨日、刑務所に入っていたことも考えなければ、明日、刑務所に入っていなければならぬと考えたこともない。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはない。未決が1年だろうが、7年だろうが同じことじゃよ。
 ここにあります、人間の自由になるのは今というこの瞬間だけだ、というのに、私は眼をぐーんと開かされた思いです。
 大本教弾圧事件について、その時代背景ともどもよく知ることができました。
(2007年5月刊。1600円+税)

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2007年10月17日

ナガサキ昭和20年夏

著者:ジョージ・ウェラー、出版社:毎日新聞社
 GHQが封印した幻の潜入ルポというサブ・タイトルがついています。オビには、「マッカーサーに逆らい、被爆直後の長崎に命がけで一番乗りした米国人ピュリツァー賞記者。60年経て日の目を見た、歴史的ルポ」となっています。なるほど、そのとおりです。
 1945年9月7日、長崎の惨状を著者が写真にとっています。荒れ果てた長崎は、まったくのゴーストタウンです。
 原爆放射能が人体にもたらす恐るべき影響について無知だった著者は、長崎に入った第一日目の原稿には、「街には痛ましいという雰囲気はない」と書いていた。しかし、日がたつにつれて、病院で被爆者を見たり医師の話を聞いているうちに意識が変わっていった。はじめ外傷もなく元気だった人が、2〜3週間後あるいは1ヶ月後に急に全身状態が悪くなって、嘔吐、下痢、腸内出血など手の施しようもなく死んでいく。
 ところが、このルポは、原爆の想像を絶する惨禍が世界に知られるのを恐れたマッカーサー司令部によって公表を差し止められた。
 そして、私は、この本で大牟田にあった捕虜収容所について、写真つきのルポを読み、初めてその実情を詳しく知ったのです。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は1700人を収容する、日本最大の連合軍兵士捕虜収容所である。その多くは、炭鉱で毎日、8〜10時間も働かされていた。
 彼らの何人かは、長崎に原爆を投下される状況を目撃した。
 「大きなキノコのような白い雲がどんどんふくれ上がり、その中は真っ赤で、中心部分が地上まで届いているように見えた」
 「初め白い煙が噴き出してキノコの形にふくれあがり、そして突然、内部で発火した。恐ろしかった。雲が発火したようだった」
 「ぱっと光ったあと、白い雲が巨大なパラシュートの形に広がり、その中心にオレンジ色の光が輝いている。30分ほど、そのままだった」
 「大きな火の玉が空に浮いていて、どんどん大きくなっていった。30分しても、まだそのままだった。新しいタイプのガスではないかと思った」
 炭鉱で働かされていた捕虜たちは次のように語った。
 「日本軍の処遇というのは、頻繁に行われる殴打と粗末な衣服、粗末な食べ物ということに尽きる。空腹のあまり盗みを働く者もいた。苛酷な冬だった」
 「一番の困難は、坑内の湧水、低い天井の下で腰をかがめていること、重い材木を運ぶこと。いつも日本人の監督に殴られることだった」
 連合軍捕虜収容所の隣に中国人炭鉱労働者収容所があった。2年前に中国を出発するときに1236人いたのに、日本に到着して300人が死亡した。現在、50人が重病。
 この収容所では2年間に日本人衛兵により殺された者が70人を数え、加えて病死者が120人、現在の生存者は546人。生き残っている中国人の多くは骨と皮という状態である。
 大牟田には、三井亜鉛工場で働く250人のイギリス人と、炭鉱で働く700人にのぼるアメリカ人と数人のイギリス人がいた。イギリス人のほとんどは、シンガポールとフィリピンで捕虜となった。
 オーストラリア人が420人いて、うち300人は700人のアメリカ人とともに炭鉱で働いていたという記事もあります。
 アメリカ人700人とその他の連合国人1000人という表現もあります。
 700人のアメリカ人は、フィリピンで捕虜になったようです。バターンとコレヒドールで捕虜になったとあります。捕虜収容所にいた病人の多くはナチ収容所のユダヤ人と似た状態にありました。まさしく骨と皮のみの白人の若者の写真が紹介されています。
 著者は飯塚にあった第7捕虜収容所にもまわっています。ここには、アメリカ人186人、オランダ人360人、イギリス人2人が炭鉱で働かされていました。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は日本最大の収容所であり、かつ、もっとも苛酷な収容所の一つだった。施設そのものは、ほかのところより多少よく、少なくとも年間、数ヶ月は水浴びができた。33棟の建物は、もともと三井鉱山が作業員宿舎として建てたもの、炭鉱は収容所から歩いて1.5キロメートルのところにあった。
 33棟もの建物から成る捕虜収容所が大牟田のどこにあったのか、私はぜひ知りたいと思いました。あとで、三池港の近くにあったことが分かりました。中国人収容所や朝鮮人収容所も近くにありました。
 捕虜収容所のフクハラ所長は、「収容所長として最も凶悪かつ非人間的な所長であった」ので、戦争犯罪人として有罪となり、1946年前半に絞首刑に処せられた。
 このフクハラ所長を取り上げた本を以前に読んだような気がします。題名も何もかも忘れてしまいましたので、改めて見つけて読もうと思います。
(2007年7月刊。2800円+税)

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2007年10月18日

中国戦線はどう描かれたか

著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
 昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
 だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
 中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
 戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
 林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
 なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
 佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
 『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
 昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
 炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
 やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
 兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
 敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
 出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
 実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
 林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)

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2007年11月16日

マツヤマの記憶

著者:松山大学 出版社:成文社
 日露戦争100年とロシア兵捕虜というサブ・タイトルがついた本です。203高地争奪戦のあと、旅順を守っていたロシア軍が降伏すると、日本へ大量のロシア兵捕虜が連行されてきました。当時の日本は、捕虜を人道的に扱い、国際社会で名誉ある地位を占めました。この本では、その実情と、隠された捕虜虐殺、そして捕虜処遇費用をロシアに全額弁償させた事実が紹介されています。飫肥に行ったときに小村寿太郎記念館で買い求めた本ですが、勉強になりました。世の中には知らないことって、ホント、たくさんあります。
 1904年の日露戦争開戦は、ひとつくれよと露にゲンコ、というゴロあわせて暗記しました。2004年は、開戦100年にあたります。
 松山収容所には、最大瞬間人員で3000人台後半から4000人台前半いた。埋葬者数は98人で、全国でもっとも多い。
 松山が捕虜収容所として選ばれたのは、道後温泉が近くにあるため。日本側は、捕虜となるのは戦傷病兵で、戦闘意欲を失った兵達だろうと予測していたから。つまり、松山収容所の特色は、将校と傷病兵を主として受け入れたことにある。
 ロシア兵捕虜の総数は7万9000人。捕虜になった場所は、旅順・開城4万4000人、奉天2万人、日本海海戦6100人、サハリン4700人だった。日本に連れてこられたロシア兵捕虜は、1905年11月から1906年2月にかけてロシア側に引き渡された。
 戦争の最中、松山は、帝国の品位をかけて捕虜優遇策をとった。官民あげて観光客なみにもてなした。たとえば、朝はバター付・パンと牛乳入り紅茶。昼はバター付パンとスープ玉子付のライスカレー、紅茶。夕はバター付パンと野菜スープ、タンカツレツ、紅茶。そして、将校のなかには、町中に日本家屋を借り、女中を雇うのものもいた。
 日本政府は、ロシア兵捕虜の給養に莫大な金額をつかった。食費だけで、将校には一日あたり60銭、下士官と兵卒には30銭を充てた。これに対して、日本の兵卒の食費は一日16銭にすぎなかった。破格の厚遇である。
 日本政府は、戦争中、捕虜のため4900万円もの予算を割りあてた。これは開戦前の国家予算の2割にあたる。この経費は、日本政府が国の内外から借金してまかなった。そして、これを戦後になって、ロシア政府に返済させた。
 日本側のかけた費用は、5000万円に達した。ロシア側は、2000人の日本人捕虜に対して、160万ルーブルをつかった。
 捕虜将校には、自由散歩制度がとられていた。月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで。海水浴が許され、自転車で外出することも認められていた。
 捕虜の将校は所持金も多く、戦時下の松山経済に好影響を与えた。当時の道後温泉は史上最高の収益を上げた。ロシアの捕虜は個人で1円50銭の貸し切りで1時間も楽しんだ。1日に300人も400人も入浴した。日本人は一人5厘、捕虜は一人1銭だった。
 ところが、日露戦争の末期、南樺太(南サハリン)で、日本軍はロシア軍の敗残兵を捕虜としたのち、翌日、残らず銃殺した。ロシア兵捕虜を優遇しただけではなかったのです。
 ふむふむ、知らなかったことだらけです。
(2004年3月刊。2000円+税)

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2007年12月07日

半世紀前からの贈物

著者:内田雅敏、出版社:れんが書房新社
 50年以上前の1953年(昭和28年)に発行された小学2年生の文集をもとに、当時の子どもたちの生活を再現した本です。私が小学校に上がったのはそれより2年あとになりますが、およそ同じような状況ですので、親近感を抱きながら読みふけりました。
 著者は1945年生まれで、いまは東京で弁護士として活躍しています。小学校は愛知県蒲郡町立南部小学校(蒲南。がまなん)です。
 かごの中の、じゅうしまつ(十姉妹)はちゅうちゅうないてせまい、かごのなかをとびまわっている、かわいそうだね。
 私の家でも同じように十姉妹を飼っていました。鳥籠を買って、私もその世話をしていました。毎朝、水を取りかえ、アワなどのエサをやり、鳥籠のなかの鳥のフンを始末してきれいにしてやりました。小鳥たちが楽しそうに水浴びしているのを、いい気持ちで眺めました。
 にわとり
 ぼくがおまつりでかったひよこが大きくなってたまごをうんでくれましたが、このごろうまなくなってしまった。
わが家でも鶏小屋をつくって鶏を何羽か飼っていました。私も、そのエサになる雑草をとりに行っていました。丈夫な卵をうんでくれるように、貝殻をこまかく叩いたものもエサとして鶏にやっていました。飼っている鶏を父が絞め殺し、さばく様子を間近で見ていました。卵の生成過程が見事にできているのも見ました。卵の殻が、あとで黄身と白身にかぶさるようになっていく様子もしっかり見て、自然の不思議を実感したことを覚えています。
 当時の少年雑誌は、今のような週刊ではなく、月刊。『冒険王』『少年画報』『少年』など。毎月7日の発売日が待ち遠しかった。
 私の家でも少年雑誌を一つ購入していたように思います。記憶が定かではありませんが、付録に組立できる工作がついていて、その組立が大きな楽しみでした。恐らく『小学○年生』だったと思います。姫路城を再現するような工作がついていました。ワクワクドキドキする豪華版の付録でした。といっても、前号の予告の写真のほうがすごくて、期待に胸をふくらませて開けてみると、なーんだ、こんなものかとガッカリすることもたびたびでした。
 蒲郡市の『広報がまごおり』に1年余にわたって連載したエッセーをもとにした本だということです。護憲派の弁護士として大活躍している著者の原点を知ることのできる好著です。
(2007年10月刊。700円+税)

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2007年12月25日

清冽の炎・第4巻「波濤の冬」

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 ついに第4巻が出ました。あれから40年。素敵なクリスマス・プレゼントです。
 いよいよ東大闘争はクライマックスになりました。本郷では、有名な安田講堂攻防戦が華々しく繰り広げられます。当時、日本国中をテレビにくぎづけにした市街戦さながらのショーを思い起こします。そして駒場では、全共闘が立て籠もっていた第八本館(通称・八本・はちほん)が、民青とクラ連の統一行動隊によって封鎖解除されます。
 この本では、攻める側、攻められる側、大学当局、警察と政府の動きが多元的に語られ明らかにされているところに画期的な意義があります。全共闘を一方的に賛美せず、逆に民青一辺倒ということでもありません。
 安田講堂の攻防戦の前、警察は内部偵察をします。建築会社のジャンバーを着て、修復工事の見積もりのためと称して、内部を全部みてまわりました。警察は安田講堂を攻めるために8000人の警察官を動員し、最新の防炎服を1万着もそろえるなど万全の装備を用意した。マスコミに派手に中継してもらうことが最優先された。
 安田講堂に立て籠もった全共闘の一人に当時の秦野警視総監の甥(この本では姪)がいました。学生に資金を提供し、軍事指導したアナーキストもいました。
 安田講堂内部では、革マル派が全員退去した。東大生もいるにはいたが、むしろ人数としては少なかった。全共闘は指導部を退去させて温存する方針をとった。攻防戦の前夜、女子学生が大講堂にあったピアノを静かに奏でた。
 加藤一郎執行部は安田講堂内の全共闘とのホットラインを2回線確保していて、光芒が始まってからも連絡をとりあっていた。
 民青は前夜のうちに本郷から完全に姿を消した。自民党は、そのことを知り、地団駄をふんで悔しがった。
 安田講堂攻防戦の前、駒場では12月13日と1月11日に代議員大会が開かれた。12月13日の代議員大会は駒場寮の寮食堂で開かれ、全共闘の一部が突入して乱闘になったが、すぐさま再開された。代表団10人が選出された。1月11日の代議員大会は全共闘の乱入を恐れて駒場寮の屋上で開かれた。
 1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部集会と称する公開団交が開かれ、東大当局と学生との間で確認書がとりかわされた。
 東大闘争の最終局面の息づまる展開が詳細に明らかにされます。大変な迫力です。
 東大のなかで連日の息詰まるようなゲバルトがあっているなかでも、地域におけるセツルメント活動は続けられます。授業で学ぶだけではない、そこにはまさしく生きた学問の場がありました。
 1巻、2巻、3巻と売れないまま続いてきたこの大河小説も、ついにクライマックスを迎えました。全国の書店で発売されています。書店にないときには、ぜひ花伝社へ注文してください(FAX03−3239−8272)。インターネットでアマゾンへ注文もできます。
 第5巻は、1996年2月と3月。そして、第6巻は登場人物の20年後、30年後の姿を描きます。そこまでたどり着くためには出版社に出版しようという意欲をもたせる必要があります。ぜひ応援してやってください。
 新年(2008年)は、東大闘争が始まって40年という記念すべき年なのです。
(2007年12月刊。1800円+税)

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2007年12月28日

私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた

著者:高橋武智、出版社:作品社
 1967年。私が大学生になったのはこの年の4月。ベトナムでアメリカ軍が侵略戦争をしていました。ベトナムが共産化したら、インドシナ半島全体が共産化するので、それを止めるというのがドミノ理論(ドミノ倒しになるのを防ぐというものです)で、それがアメリカ軍のベトナムへの介入の大義名分でした。本当にとんでもない言い草です。ベトナムに派遣されたアメリカ軍は50万人。アメリカ軍の戦死者だけで5万5千人です。アメリカの私と同世代の若者たちが死んでいました。もちろん、ベトナムの人はそれより2桁も多い人々がアメリカ軍に殺されました。もちろん、というのは、近代兵器の粋を尽くしたアメリカ軍が無差別にベトナムの人々を殺しまくった結果がそうだったという意味です。アメリカ軍のなかにも嫌気をさして脱走する兵士が相次ぎました。そこまでの勇気のない兵士はアルコールと麻薬におぼれました。
 この本は、アメリカ軍から脱走した兵士を日本人グループが国外逃亡に手を貸していた事実を明らかにしています。もちろん逮捕されることを覚悟のうえです。
 ベ平連が誕生したのは1965年。解散したのは1973年だった。
 アメリカ軍脱走兵士を国外へ逃亡させるための組織、ジャテックに脱走兵を装ってスパイが潜入してきた。海のCIAの別名をもつ海軍犯罪調査局(NCIS)の特別捜査官だったという。
 それまでは北海道から海路、ソ連へ脱出させていた。しかし、ソ連が断った。そこで別のルートを開拓するためにヨーロッパに飛んだ。その苦労話がこの本のメインです。
 いろんな人に会い脱出路を探ってたどり着いたのがパスポートの偽造。本物のスタンプに似せたものをどうやってつくるかという点をプロに教わった。完璧すぎるものをつくらないこと。インクをつけたペンで、それらしく点を打っていけばいいだけ。適当に歪みをつける。うーん、そうなんですか・・・。驚きました。
 脱走兵を日本国内でかくまったとき協力してくれたのが知識人たちです。中野重治、日高六郎などの名前が出てきます。軽井沢の別荘を借りたりして過ごさせました。2年も日本国内に潜伏していたアメリカ人脱走兵がいたというのですから、たいしたものです。いえ、本人も辛抱したでしょうけど、それを支えたジャテックも偉いです。
 いよいよ大阪空港から他人のパスポートで出国させます。ハラハラドキドキです。無事にパリのオルリー空港に到着。
 アメリカでは、元脱走兵に対して今も公然とした嫌がらせがあっているそうです。クリントンのような兵役忌避者は大統領になれたわけですが・・・。
 脱走が、実は、軍隊を内部から掘り崩した空洞化させるのに最大限有効な行為であり、国家からみたら絶対に許し難い行為だから、なのです。
 スウェーデンには、そのころ、400人ものアメリカ人脱走兵がいたとのことです。
 アメリカ軍の脱走兵を助けたジャテックの活動の全体像を知るためには、『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社、1998年)が資料集として、よくまとまっています。
 この本は、その中の一人が、さらに個人的体験をふまえて、運動の実情を明らかにしたものです。
 あれから40年たち、今こそ書き残しておくべきだという思いから書かれた本です。
(2007年11月刊。2400円+税)
 

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となりに脱走兵がいた時代

著者:関谷 滋、出版社:思想の科学社
 ベトナム戦争があっていた時代の日本です。始まりは1967年10月。えっ、私が東京で寮生活を始めた年のことではありませんか。もちろん、私もベトナム戦争反対の集会やデモに何度となく参加しました。夜遅い銀座で、大勢の人々と一緒に手をつないでフランス・デモをしたときの感激は今も覚えています。銀座の大通りを、デモ隊が完全に埋め尽くしていました。警察官も手を出すことができないほどの人数でした。もちろん、機動隊はいましたが、国会周辺と霞ヶ関あたりまでで、銀座にまでは手がまわらなかったのです。
 ベトナム戦争に反対する市民の会(ベ平連)は、その一部にアメリカ軍の脱走兵の日本国外逃亡を助ける活動をしていました。私は後になって、新聞報道で知りました。これには、東大生なども関わっていたようです。有名な知識人が何人も隠れ家を提供しています。あれから40年たって、その全貌が少しずつ明らかにされています。この2段組みで  600頁をこす大部な本は、大変貴重な歴史的記録です。
 ベトナム脱走米兵は、私と同じ世代です。「イントレピッドの4人」として有名なアメリカ脱走兵は、1947年と1948年生まれです。50万人以上のアメリカの青年がベトナムへ送られて5万8000人ものアメリカ兵ベトナムで死亡しました。もちろん、アメリカ軍によって殺されたベトナム人はケタが2つほど違います。
 ベトナム反戦のアメリカ脱走兵を助けたベ平連の幹部としてマスコミに登場したのは、小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎です。いずれも有名な知識人です。
 アメリカ海軍の航空母艦「イントレピッド」から脱走してきたアメリカ兵4人は横浜港からソ連船バイカル号に乗って、日本を脱出した。そして、ソ連を出て、スウェーデンに亡命することができた。
 脱走兵は、決して品行方正な英雄ではなかった。いろいろ手を焼かせた脱走兵が何人もいた。だから、世話をした人たちはなかなか大変だったようです。
 日本人アメリカ兵も脱走したきた。日本人もベトナムで戦死している。1967年4月20日、LSTの乗組員(50歳)が銃撃されて死亡した。
 脱走米兵の逃亡を支援する組織を解明するため、アメリカ軍はスパイを潜入させます。いかにも怪しい脱走兵なのですが、疑いはじめたらキリがないので、彼を信じて逃亡の手助けをしていきます。その息詰まる様子が再現されています。釧路からソ連へ船で渡るコースだったのですが、スパイがたれこみ、脱走米兵は結局、逮捕されてしまいました。ジャテックは、そこから、苦闘の道を歩むことになります。
 当時30歳前後のサラリーマンから毎月500円のカンパを集めるのは、かなり大変なことだった。今なら1万円にでも相当する金額でしょうか・・・。
 ジャテックに関わっていた小田実は、この本の座談会で次のように発言しています。
 「全共闘運動を勲章にするだけで、何もしない連中がそこらへんに一杯いるじゃない。現在、どうしているか、現在にどうつながるか、それが問題だ」
 なるほど、そのとおりです。私は全共闘と関わりがないどころか、その反対でがんばっていましたが、今の9条をめぐる政治情勢をどう考え、どのようにしたらよいのか、小さな声であっても、上げていきたいと考え、少しずつ、やっています。
(1998年5月刊。5700円+税)

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2008年01月16日

永遠なる青春

著者:桟敷よし子、出版社:青春社
 明治35年に生まれた著者の自伝です。母方の祖父は黒田藩士でしたが、博多を出て、北海道に移住しました。著者の父はキリスト教の信者であり、教師をしていたが、日露戦争に反対し、札幌で幸徳秋水らの平民新聞社グループの一員であった。明治41年、つとめていた学校の校長と意見があわず、開拓農民となった。
 結婚して15人の子どもをもうけたが、みなメアリーとかナポレオンなどの外国名をつけた。著者はジョセフィンと名づけられた。著者の15人兄弟15人のうち8人が乳児のときに亡くなった。ほかの兄弟も病気につきまとわれた。
 すごい名前ですよね。近ごろは、とても日本人の名前とは思えない名前の赤ちゃんばかりですが、なんと明治35年ころに自分の子どもに外国の名前をつけていた人がいたなんて。しかも、一応インテリなのですからね・・・。
 著者の父親は、貧しい開拓農民の身でありながら、著者を札幌の女学校に入れた。第一次世界大戦が始まったころのこと。
 著者は、女学生として、日曜学校に教えにも出かけた。やがて、関東大震災後の東京へ出て日本女子大に入学した。そこで、社会科学研究会(いわゆる社研)に入り、野坂竜に出会った。野坂参三の妻となった女性だ。この研究会で英文のレーニン『国家と革命』を読んだ。
 昭和2年、大学3年生のとき、授業で英文の「共産党宣言」を学んだ。卒業論文として、徳永直の『太陽のない町』で有名な文京区氷川下の人々の状態を調査するため戸別訪問した。この氷川下には、私の大学生のころ氷川下セツルメントが活動していました。
 そして、昭和3年に日本女子大学を卒業すると、倉敷紡績の工場に入った。今は大原美術館で有名な大原孫三郎のいた会社であり、寮の教化係として働いた。そこでのオルグ活動が成果をあげ、600人の女子労働者がストライキに突入した。すごいですね。昭和5年(1930年)のことです。大原社長の恩を仇で返す結果となったわけです。
 資本主義社会での階級的矛盾は、個人ではどうすることもできない鉄則で回る歯車である。資本家個人の善意とか温情などは、もうけ主義の恥部をおおう「いちじくの葉」にすぎない。著者は、このように述べています。なるほど、ですね。
 このストライキのあと、会社を首になった著者は大阪で地下活動に入ります。その実情はすさまじいものがあります。小林多喜二の『党生活者』を思い出します。ついに警察に捕まります。特高の拷問は、若い女性を裸にし、後ろ手にしばって、あおむけに寝かされ、口の中に汚ない手ぬぐいをつめこむというものでした。
 治安維持法違反で警察に3回検挙され、3つの留置場と4つの拘置所で4回の正月を送り、4年間の刑務所生活を過ごし、昭和11年5月、札幌大通刑務所を満期出所します。昭和9年に刑務所に連行されるときには、青服に深あみ笠の姿で、腰縄をうたれていました。当時の写真によく出てきますね、あれです。そして、大阪に出て、さらに東京に戻り、看護学の勉強をし、昭和13年8月、37歳のとき看護婦試験に合格した。そして、保健婦として活動するようになった。
 昭和20年3月、著者は中国大陸に渡った。満州開拓団の結核予防に取り組むためである。やがて8月に日本敗戦を迎える。日本への引き揚げが大変だった。開拓団難民3万人のなかで、発疹チフスが発生し、90%の患者を出し死亡者が続出、1日100人の死者を出したこともあった。そして、中国共産党の人民解放軍に加わり、後方病院に配属された。
 やがて、中国共産党が中国大陸全土を支配した。1958年5月、ついに日本に帰国することになった。中国で13年のあいだ生活していたことになる。
 そして、大阪で民医連の病院で保健婦として働くようになった。昭和46年、黒田了一革新府政が誕生。 
 古稀という体にねむる青春を きみ起こしたもう 永遠の青春。
 今から32年前の1975年に、著者73歳のときに発刊された本です。戦前の苦難のたたかいが偲ばれます。こんな古い本をなぜ読んだのかというと、いま、私も母の伝記をまとめているからです。話は母の曾祖父、明治時代の初めから始まります。だから、戦前どんな時代だったかというのは当然知っておかないといけないのです。
 私の敬愛する大阪の石川元也弁護士からお借りしました。ありがとうございました。
(1975年12月刊。750円)

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2008年01月22日

治安維持法とわたし(戦前編)

著者:桑原英武、出版社:日本機関紙出版センター
 明治45年(1912年)生まれの著者の、血わき肉おどるような自伝です。
 旧制三高の2年生のとき(昭和4年、1929年)、夏休みのある日、特高警察が自宅にやってきて、有無を言わさず京都・川端警察署に連行されます。非公然の三高社研(社会科学研究会)の読者会が警察にバレていたのです。
 若い著者は、マルクス主義に魅せられ、天皇制打倒と侵略戦争反対を親に向かっても高言してはばからなかった。黒田了一元大阪府知事は三高の一年先輩だった。
 工場の門前でビラまきをして著者は警察につかまった。29日までの勾留は警察署長が即決でできた時代である。
 昭和5年(1930年)、19歳のときに警察に捕まって拷問を受けた。
 20歳になって徴兵検査を受けたが、陸軍大佐の徴兵司令官は思想上の過ちがあったとして、「第2乙」とした。現役徴兵はされないことになった。
 治安維持法違反で、1931年(昭和6年)と1933年(昭和8年)の2回、法廷に立たされた。弁護人は、2回とも井藤誉志雄弁護士だった。
 著者は今の平成天皇の誕生によって減刑されたものの、合計4年半の刑期で大阪刑務所に入った。弁護人であった井藤弁護士も、1933年11月に治安維持法違反で懲役2年、執行猶予1年の判決を受けた。
 先に紹介した『永遠の青春』の桟敷よし子は、日銀総裁であった深井英五と父が懇意にしていたことから、よし子が逮捕されたとき、深井英五は200円もの更生資金をカンパしたという。桟敷よし子は1992年(昭和67年)2月、89歳で亡くなった。
 著者は青春まっただなかの、22歳から26歳までの4年間、大阪刑務所で独房生活を強いられた。1937年(昭和12年)4月に仮釈放されるまでのことである。
 著者は、貴重な青春時代の4年間を刑務所のなか、独房生活を過ごしています。22歳から26歳までのことです。なんとむごい仕打ちでしょうか。私でいうと、司法試験の合格を目ざし、司法修習生になり弁護士生活をスタートしたという激動の年齢です。そのとき、狭い部屋でずっと拘禁生活を余儀なくされて耐えていたというのですから、私はそれだけでも著者を大いに尊敬します。
 戦前の治安維持法による検挙者数が、紹介されています。
 1930年(昭和5年)に6877人、31年に1万1250人、32年に1万6075人、33年(昭和8年)に最高の1万6397人。34年には、5900人あまりと激減してしまいました。これは、ほとんど対象者がいなくなったということです。小林多喜二が特高警察の拷問によって死亡したのは1932年2月のことです。
 著者は1933年2月に2度目の逮捕を受けました。
 特高警察による犠牲者について、政府の公式発表は今もってありません。被害者側の調査によると、明かな虐殺死は80人、拷問・虐待が原因で死亡した人は144人、病気その他による獄死は1500人、逮捕され、送検された人は7万6000人、送検された人は数十万人ということです。驚くべき特高警察の威力です。
 獄中生活は、1日に15分前後の運動時間、週に1回の入浴時間というものだった。
 著者は短歌をつくっていました。
 独房に書(ふみ)読みおれば 合唱の君が代の声は聞こえ来にけり
 この歌が見事に入選し、その賞としてぜんざい一椀が支給されました。甘味品に渇していた著者にとって、何よりありがたい賞でした。
 著者は刑務所を出たあと、医師として再出発します。その勉強は、刑務所にいるときから始めたのです。人脈にも恵まれたのでしょうが、著者の人徳にもよるのでしょう。岩手医専を受験して、成績トップで合格したのでした。すごいですね。刑務所のなかの不自由な受験生活だったわけですからね。
 過去の経歴が知られないように心配しながら岩手医専の4年間を過ごしたといいます。でも、ずっと総代をつとめ、成績トップで卒業しました。30歳にして医師になったのです。戦争中は、軍医として働いています。前科2犯、懲役5年間の実刑を受けた身でありながら将校(軍医)に任ぜられました。まさに奇跡ですよね。
 大阪の石川元也弁護士の推薦で読みました。すごいお医者さんがいるものです。単なる自伝というより、戦前の日本の状況を実感で知ることのできる本です。
 博多駅近くの小さな映画館でハンガリー映画『君の涙ドナウに流れ』をみました。1956年に起きた「ハンガリー動乱」(日本人の私にとってはこのように言うしかありません)を描いた映画です。はじめのプールで繰り広げられる水球試合から息をのむほどの迫力で、ソ連と秘密警察によるすさまじい一斉射撃と、それへの市民の反撃が始まって展開する市街戦も迫真の映像であり、息をこらして画面に見入って、2時間があっというまにたってしまいました。ハンガリーの人々がソ連の支配のくびきから逃れようとして立ち上がったのです。そして、その先頭に大学生たちが立っていました。私の大学生のときの学園闘争は、この映画のシーンに比べるとまるでオモチャの世界です。ただ、それでも真剣ではありましたが・・・。やはり、歴史は正しく伝えられる必要があり、また、それは広く知られる意義があるとつくづく感じたことです。ぜひ大勢の人にみてほしい映画です。
(2007年9月刊。1429円+税)

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2008年02月06日

アジア・太平洋戦争

著者:吉田 裕、出版社:岩波新書
 太平洋戦争は真珠湾戦争で始まったものではない。その前の、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始した。その1時間後に真珠湾攻撃が始まった。
 この事実は、なにより対英戦争として始まったことを示している。オランダに対して日本は宣戦布告せず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを無疵で手に入れようとした。日本政府は、宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかった。
 日本政府が太平洋戦争を始めたときの戦争目的は、明らかに「あとづけ」でしかなかった。1941年11月2日、昭和天皇は、東条首相に対して、戦争の大義名分をいかに考えるのかと下問し、東条は「目下、研究中」と奉答した。
 むむむ、なんということ、「目下、研究中」の大義名分のために戦争を始めようとしたとは・・・。絶対に許されないことですよ、これって・・・。
 12月8日午前11時40分の宣戦詔書では、「自衛のための戦争」となっていた。ところが、同じ日の夜7時30分には「アジアの解放のための戦争」となっていた。
 日本政府のかかげた戦争目的は、「自在自衛」から「大東亜新秩序維持」と「大東亜共栄圏建設」とのあいだをゆれ動いた。
 いやあ、これって、あまりにもいい加減すぎます。まるで信じられません。
 日本軍がアメリカとの戦争を決意した理由は、臨時軍事費による軍備の充実だった。開戦時、太平洋地域では、日本の戦力はアメリカを凌駕していた。国策よりも、自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢があった。つまり、軍備拡充に必要な予算と物資とを確保するため、武力南進政策を推進する。しかし、十分な勝算のない対米英戦は、できれば回避したい、というのが海軍のホンネだった。ところが、海軍首脳が対米開戦反対を明言できなかったのは、海軍は長年、大きな予算をもらって、機会あるごとに海のまもりは鉄壁だ、西部太平洋の防守は引き受けたと言ってきた手前、今となってにわかに自信がないなどとはどうしても言えなかったということである。
 対米戦争の主役は海軍である。このことは陸軍もよく理解していた。だから、海軍が本当に対米開戦を決意しているのか、あるいは対米戦に勝利する確信をもっているのかというのは、陸軍の重大関心事だった。
 9月6日に開かれた御前会議の時点では、昭和天皇は、対米英開戦について確信をもてず、参謀総長などに対して、その勝算について厳しく問い正している。ただし、天皇が開戦に反対していたというわけでもない。勝算のない開戦には大きな危惧を抱きながらも、統帥部(軍部)の主張に耳を傾けていた。
 11月5日の午前会議の時点では、天皇は木戸幸一内大臣などの宮中グループの助言を受けいれながらも、はっきり戦争を決意していた。『機密戦争日誌』には、「お上もご満足にて、ご決意ますます強固になっているようだ」と書かれている。
 日本政府は、戦争瀬戸際外交をとっていたので、強力な言論報道統制と世論指導をした。
 政府には内乱への恐怖があり、内乱を避けるために戦争を決意せざるをえないという転倒した論理が生まれていた。戦争瀬戸際外交は、国内的にも、日本政府をあともどりできない地点まで追いこんでいく結果となった。
 アメリカの主力艦隊との艦隊決戦に備えて、まずアメリカの植民地であるフィリピンと米領グァム島を攻略したい海軍とは異なり、陸軍にとってアジア・太平洋戦争とは、何よりも日英戦争を意味していた。
 アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたという一次資料は存在しない。ルーズベルトは、通信諜報などによって、日本が戦争を決意したこと、東南アジアで軍事行動を開始したことは事前に知っていた。しかし、陰謀論は成り立たない。
 素人の私も、そうじゃないかと思います。
 真珠湾攻撃は、潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わっていた。真珠湾攻撃に際して5隻の小型潜航艇に2人ずつ乗り組み、戦死した9人の隊員(残る1人の将校はアメリカ軍の捕虜となった)を「九軍神」とたたえる大キャンペーンが展開された。
 日露戦争のときの軍神は30代から40代の中堅将校であったが、今度は20代の「軍神」である。時代は若者の大量死の時代にふさわしい新しいヒーローを必要としていた。
 うむむ、なるほど、なるほど、すごく鋭い指摘だと思いました。
 東条首相は、陸相として陸軍省の機密費を自由につかうことができたという有利な立場にあった。東条首相の政治資金の潤沢さは鳩山一郎からも指摘されていた。東条は、アヘン密売の収益金10億円を鈴木真一陸軍中将から受けとったという噂があった。東条のもっているお金は16億円で、それは中国でのアヘン密売からあがる収益だった。
 宮内省などに東条の人気が良かったのは、東条の付け届けが極めて巧妙だったから。たとえば、東条は、秩父宮と高松宮に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には、食物や衣服そして、万年筆などの贈り物をしていた。東久邇宮のところには、アメリカ製自動車が届けられた。いやあ、これって全然知りませんでした。東条が汚いお金で宮中などの要人を「買収」していただなんて・・・。ひどい話です。
 東条首相が昭和天皇の信頼を得ていたのは、東条が天皇の意向をストレートに国政に反映させようと常に努力していたから。
 1942年4月の翼賛選挙のとき、非推薦候補に対しては露骨な選挙干渉がなされたが、推薦候補に対しては1人あたり5千円の選挙費用が政府から交付された。この費用は、臨軍費から出ていた。ところが、激しい選挙干渉にもかかわらず。85人もの非推薦候補が当選した。そこには、翼賛選挙に対する国民の批判が一定反映されていた。
 東条内閣の政治では、憲兵の存在を忘れてはならない。陸軍大臣を兼任していた東条首相の意を受けた憲兵政治がなされた。憲兵の私兵化だ。
 また、東条は、メデイアを意識的に利用した最初の政治家だった。東条は絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとした。くり返しラジオに登場した。東条は最後までオープンカーにこだわった。国民の視線に常に自らをさらすというのが、一貫して姿勢だった。
 東条の芝居がかったパフォーマンスは、識者の反撥と顰蹙を買った。しかし、一般の国民は東条を強く支持した。東条は、一般の国民にとって「救国の英雄」だった。うむむ、そうだったのですか・・・。ここで、つい小泉純一郎の姿が東条英機にかぶさって思われました。
 陸海軍の兵力が急激に膨張したことは、精強さを誇ってきた日本軍が弱体化したことを意味する。幹部の質の低下である。指揮・統率能力が低く、体力・気力ともに劣る、兵士に対して押さえのきかない将校が増大した。同時に彼らは、一般社会の空気を吸い、一般社会での経験を積んできた将校でもあった。軍隊の地方化、市民社会がすすみつつあった。
 1944年3月、日本軍は「玉砕」という言葉をつかわないようにした。玉砕という表現が逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断にもとづいている。昭和天皇の弟である高松宮の日記(1943年12月20日)にも、「玉砕は、もう沢山」という表現がある。
 1943年12月。民心は、東条内閣からもうまったく離れていると小畑中将が細川護貞に語った。東条の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買っていた。
 大変勉強になる本でした。知らないことが、こんなにもあるなんて・・・。
(2007年8月刊。780円+税)

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2008年02月14日

BC級戦犯裁判

著者:林 博史、出版社:岩波新書
 東京裁判の被告が28人、BC級戦犯裁判では7ヶ国によって5700人が裁かれた。死刑になったのは東京裁判で7人に対し、BC級裁判では934人にのぼっている。
 うむむ、この差はなんということでしょう。これは、『私は貝になりたい』というケースがたくさんあったことを意味しているようです。
 アメリカ政府は、1944年夏まで、戦争犯罪の問題に積極的には取り組んでいなかった。その状況が一変したのは、財務長官がナチス・ドイツの指導者たちをつかまえたら即決処刑すること、「人道に対する罪」の責任者は軍事法廷で裁くことを提案したことからだった。ルーズベルトもチャーチルも、この考えに同調していた。しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は危機感を抱いた。そのような政策では、かえってドイツを徹底抗戦に追いやってしまうので、やはり裁判によって処罰すべきだと批判した。
 そこで、即決処刑方式は連合国全体に共通するもっとも基本的な正義の原則に反するとして否定され、主要戦犯は裁判にかけることになった。
 ドイツ指導者を裁判にかけることにチャーチル首相のイギリス政府は抵抗したが、ヒトラーが1945年4月末に自殺し、法廷でヒトラーの演説を聞かなくてよくなったので、国際裁判案をイギリスも受け入れた。
 A級とは平和に対する罪、B級とは通例の戦争犯罪、つまり戦争法規または慣例違反、C級とは人道に対する罪のこと。
 スガモプリズンで執行された最初の死刑判決は、1946年1月7日の福岡俘虜収容所第17分所(大牟田)の由利敬所長(中尉)だった。死刑は4月26日に執行された。
 捕虜への犯罪が43%、民間人への犯罪が55%を占めている。
 死刑になったのは、准士官と下士官が圧倒的に多い。将校では下級将校に集中しており、とくに大尉が多い。高級将校のなかでは、中将と大佐が比較的多い。軍人のなかでは、憲兵が高い比率を占めている。憲兵は死刑の30%、全件数の27%、人数の37%である。朝鮮人の俘虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者も少なくない。
 アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜となった連合軍将兵は35万人。そのうち29万人が開戦後、半年内につかまっている。そのうち15万人がイギリス人、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。
 日本は捕虜の「無為徒食」を許さないという方針をとり、各地で捕虜を強制労働に従事させた。きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。6ヶ国の捕虜15万人のうち4万人、28%が死亡した。これは、ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7%、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が10%だったのに比べると、きわめて高い死亡率である。
 『私は貝になりたい』という映画で2等兵が戦犯裁判で死刑に処せられているが、2等兵が死刑に処せられた事実はない。曹長ならあった。曹長と2等兵では、軍の中での立場はまったく違う。
 『私は貝になりたい』の原作者は上官の命令であったということだけでは免責されない、侵略戦争に協力した世界のすべての人の一員としてのあなたの責任が問われているという趣旨のことを指摘しています。
 イラク戦争に相変わらず狂奔するアメリカの下働きをする新テロ特措法を成立させた自民・公明の政府と、それを側面から支えている民主党の責任は重大です。
 戦争は、ある日突然に始まるものではない。この言葉を今こそかみしめるときではないでしょうか。
(2005年6月刊。740円+税)

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2008年02月22日

枢密院議長の日記

著者:佐野眞一、出版社:講談社現代新書
 大変な労作です。日本人が世界に冠たる日記好きの民族とはいえ、主人公のつけた日記は群を抜いています。なにしろ、26年間に297冊の日記をつけていたのです。ひと月にノート1冊分のペースです。1日あたり、400字詰め原稿用紙で50枚をこえることもある。26年分の日記をすべて翻刻したら、分厚い本にして50冊はこえる。すごーい。
 ところが、この日記は死ぬほど退屈なもの。といっても、その恐ろしく冗長な日記のなかに、ときに歴史観を覆すような貴重な証言が不意をついて出現する。
 主人公は、久留米出身の倉富勇三郎。嘉永6年(1853年)、久留米に生まれ、東大法学部の前身の司法省学校速成科を卒業したあと、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院議員、帝室会計審査局長官、枢密院議長などの要職を歴任した。
 この本は、その膨大な日記のうち、大正10年と11年に焦点をあてて紹介している。
 宮中某重大事件が登場する。昭和天皇の妃に内定していた良子女王の家系に色盲の遺伝子があるとして、婚約辞退を迫られた事件。婚約辞退を主張した急先鋒は、枢密院議長だった元老の山県有朋だった。山県をバックとする長派閥と、良子の家(久邇宮家)をバックアップする薩閥の対立に発展した。
 貞明皇后と良子女王のあいだには、まだ結婚前なのに、すでに穏やかならざる空気が漂っていた。ちょうど、いまの皇室の危機と同じように・・・。
 主人公の日記には、警視総監が久邇宮家の意を体した壮士ゴロの金銭要求をなんとか飲んでくれないかと言ったという話がのっている。これは内務大臣も了解ずみで、久邇宮家が皇后の座をお金で買ったことを認めているのも同然。
 うむむ、そういうことがあったとは・・・。
 倉富勇三郎には、恒二郎という2歳年上の兄がいた。この恒二郎は福岡から上京して官界を目ざした弟の勇三郎とは反対に、明治維新後、福岡で自由民権運動に加わり、福岡日日新聞社の創刊者の一人となり、最後は、同社の社長となった。福岡県弁護士会史(上巻)によると、明治24年8月に41歳で亡くなっていますが、久留米で代言人をしていました。自由民権運動で活躍し、死ぬまで県会議員でした。
 倉富の風貌は、村夫子(そんぷうし)そのもの。その春風駘蕩然とした表情には、緊張感がまったく感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめたのか不思議なほど。
 倉富は、超人は超人でも、スーパーマンではなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だった。
 柳原白蓮と宮崎龍介の騒動も紹介されています。2人のあいだに生まれた子は、早稲田大学にすすみ、学徒出陣で鹿屋の特攻隊基地で、敗戦の4日前にアメリカ軍機の爆撃を受けて戦死しました。白蓮女史は昭和42年2月に83歳で亡くなり、夫の宮崎龍介は4年後の昭和46年1月に80歳で死亡しています。
 主人公は日記をつけるために、下書きのメモまでつくっていた。そして、ヒマさえあれば読み返していた。まさに寸暇を惜しんで日記を書き続けた。
 いやあ、こんな人がいるんですよね。膨大な日記をこうやって読みやすい新書にまとめていただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。
(2007年10月刊。950円+税)

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2008年03月06日

画文集・シベリア抑留1450日

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

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2008年03月07日

母べえ

著者:野上照代、出版社:中央公論新社
 ベルリン映画祭で惜しくも受賞できませんでしたが、山田洋次監督の映画『母べえ』は、実に良い映画でした。見終わったあと、胸のなかに温かい湯たんぽを抱えたような気分にずっと浸っていました。観客150万人突破という宣伝文句が出ていますので、興行成績もまずまずのようで、うれしい限りです。まだ見ていなかったら、今すぐどうぞ映画館に足を運んでくださいね。反戦・平和のためには、今すぐ足を動かすことが求められています。
 山ちゃんが兵隊にとられて南方戦線へ輸送船で運ばれていくシーンがあります。薄っぺらな船です。護送艦隊もないのですから、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、魚雷をうち込まれたら、ひとたまりもありません。またたくまに、海のもくずと化していきます。今回、初めて、そのシーンをビジュアルなものとして見ることができました。
 ああ、こうやって、前途有望な多くの日本人青年が無念の死に追いやられたのだなと思うと、それだけで胸が一杯になりました。戦死といっても、まるで意味なく殺されただけなのです。それは、アメリカ軍に殺されたというより、軍上層部の無謀な戦争指揮によって死なされただけ。そうとしか思えませんでした。
 吉永小百合は、私より少し年長なのにもかかわらず、相変わらず凛々しい美しさを保持していて、畏敬の念にかられました。まさに信念の女性ですよね。反戦・平和の志を常日頃から表明しているのにも敬意を表します。
 著者の父親(父べえ)は、1926年に日本大学予科教授に就職し、執筆活動していたところ、治安維持法にひっかかっりました。日大を追放され、1940年から拘置所に入れられた。そのときの家族との往復書簡集がノートに書き写されて残っているのです。
 山田洋次監督の序文のかなに紹介されている詩を紹介します。
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や          (竹内浩三、「骨のうたう」)
 戦争反対です。私は、どんな口実であっても、戦争に反対します。
(2007年12月刊。1100円+税)

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2008年03月11日

南京事件論争史

著者:笠原十九司、出版社:平凡社新書
 日本人として、読んでいるうちに、思わず襟を正される思いのする本です。「南京事件の幻」とか、「南京での30万人大虐殺なんて中国政府のデッチ上げだ」という本が書店で山積みされている日本の状況は、本当に異常だと思います。ナチスによるユダヤ人のホロコースト(大虐殺)なんてなかったと叫んだ人がドイツにもいましたが、ちゃんと有罪になりました(と思います)。ところが、現代日本では依然としてマスコミで堂々と通用しており、教科書にもその悪影響が続いています。ほんとうに、日本には懲りない面々があまりにも多いと思います。
 日本人は南京事件を忘れても、世界は忘れない。日本人がなかったことにしても、世界はなかったとは認めない。世界各国は、忘れてはならないし、なかったことにしてはいけないと考えている。なぜなら、このような非人道的な行為が二度と繰り返されてはいけないからだ。南京大虐殺論争は、日本の今日の民主主義にかかわる深刻な問題なのである。
 これには私も、まったく同感です。南京事件、つまり、南京で大虐殺があったことは日本の当時の支配層も認めていたことです。
 前に紹介しましたが、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁の『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)にも、「日本軍の残虐行為を知らされました」と書かれています。三笠宮は1943年に南京にいたのです。岡村寧次(やすじ)中将(のちに大将)も、「南京攻略時に4.5万に大殺戮、市民に対する掠奪・強姦、多数ありしことは事実なるごとし」と書いています。
 田中新一・陸軍省軍事課長は「陸軍内部における多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられた」としています。当時の日本政府も軍部上層部も事実を知っていたものの、国民に対しては隠してしまったのです。
 南京事件は、南京攻略の過程で起きたことではなく、12月17日の南京入城式のあと、兵士たちの休養期間に多発している。南京事件でもっとも犠牲者数が膨大だったのは、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵の殺害であった。そして、違法行為であるとの自覚のもと、徹底して証拠隠滅が図られた。
 南京事件は、戦後の東京裁判で審理の対象となった。それは、発生したときに外交筋や報道関係者を通じて世界に報道され、国際的な非難を巻き起こし、日中戦争における日本軍の残虐事件の象徴として世界に知られていたから。
 南京占領後の1937年12月17日の時点で、南京城にいた憲兵は、わずか17人にすぎず、司令部には法務部もなかった。松井石根・中支那方面軍司令官は、その軍紀・風紀を取り締まるための軍編成をまったく考えず、軍中央の統制を無視し、補給輸送体制も無理なまま、上海戦で消耗した軍隊に南京攻略を強行させたことが南京事件の直接的な原因になった。
 東京裁判において、日本人弁護団も規模はともかくとして、南京事件があった事実は認めていた。インドのパール判事も、日本軍が南京で残虐行為があった事実は認定している。
 南京事件否定論者たちは、すでに東京裁判の審理において否定された弁護側の主張を相も変わらず、くり返しているにすぎない。
 南京は人口100万人とみられていて、日本軍占領下に20〜25万人が残留していた。つまり、大虐殺を免れた住民が20〜25万人いたということである。それを虐殺前の南京の人口としてはいけない。
 文科省(文部省)の歴史教科書検定で、南京事件の記述をさせまいとする姿勢は現在にいたるまで一貫している。
 南京事件を否定する田中正明は、資料の改ざんを平然におこない、原文にない文章を自ら加筆までしている。いやあ、これって、ひどいことですね。許せません。
 「偕行」に南京事件の特集をしたとき、編集者の意図に反して、虐殺した事実が明らかになった。そこで、次のように謝罪した。
 不法殺害1万3千人はもちろん、少なくとも3千人とは途方もなく大きな数字であり、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。
 これこそ、日本人のとるべき態度だと私も思います。
 いやあ、日本人って、本当に過去の歴史に学ぼうとしない民族なんですよね。それでも、山田洋次監督の映画『母べえ』を150万人の日本人が見たそうですから、まだあきらめたわけではありません・・・。
(2007年12月刊。840円+税)

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2008年03月21日

不屈

著者:瀬長亀次郎、出版社:琉球新報社
 こんな凄い政治家がいたのか。米軍統治下の沖縄で、常に大衆の先頭に立ち、平和と民主主義を求め続けたカメジローの闘い。これはオビに書かれた言葉です。本の表紙は、刑務所から出てくるカメジローの写真です。にこやかな笑顔で、右手を高く上げています。いかにも芯の強い人柄がにじみ出ています。この本は、カメジローの獄中日記からなります。
 日本にこんなすごい政治家がいたことを知って、誇らしく、また、うれしく思いました。序文に、琉球新報社の編集局長の次のような文章があります。なるほど、そうだよなと思いましたので、紹介します。
 日本の民主主義が未熟なのは、与えられた民主主義だからだ。こんな指摘がある。でも、沖縄については明確に否定できる。戦後27年間のアメリカ軍統治時代、沖縄では自由も人権も制限されていて、日本国憲法なるものは、はるか彼方の存在だった。そんな状況において、沖縄県民は為政者とたたかいながら、一つ一つ権利を手にしてきた。そのたたかいの先頭に立ったのが瀬長亀次郎だ。カメジローは、権力を恐れず、自らを犠牲にして立ち向かった。そうなんですね。沖縄のたたかいに日本人はもっと学ぶべきですよね。
 1952年4月、琉球政府発足式典で、立法院議員の瀬長は起立せず、USCARに対する宣誓を拒否した。
 沖縄人民党は、綱領の中に共産主義も社会主義もうたっていなかった。しかし、アメリカ軍は人民党を共産主義者の集まりとみた。
 1954年の人民党事件で、カメジローは、奄美出身の活動家をかくまったとして逮捕された。そして、その活動家が釈放されたのに、カメジローは収監されたままだった。
 そして、カメジローが刑務所にいるとき、刑務所で囚人による暴動が発生した。カメジローは、暴動を沈静化させた。受刑者大会では実力行使しないことが確認された。玉砕戦術は身をほろぼし、受刑者を不利にし、全県民の利益にもならないと述べてカメジローは受刑者たちを静かに説得した。
 当時、沖縄刑務所に収容されていたのは850人。女性や少年を加えると、950人で、これは定員(230人)の4倍以上。待遇改善を求めて暴動を起こして刑務所を占拠したのだ。このとき、50人が集団脱走した。結局、囚人側の要求の7割が受け入れられた。
 カメジローは、刑務所の独房で本ばかり読んでいた。法廷でカメジローは、次のように述べた。
 被告人瀬長の口を封ずることはできるかもしれないが、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない。瀬長の耳を聾することはできるだろう。しかし、抑圧された大衆の耳を封ずることは不可能である。瀬長の目をつぶすことは可能であろうが、不正と不義の社会の重圧をはねかえそうとして待機している大衆の眼をつき破ることはできない。瀬長を牢屋に叩きこむことは可能であろう。しかし、70万県民を牢屋に収容することは不可能である。
 いやあ、見事な弁論ですね。胸のすく思いです。
 刑務所における生活を単調にするか、内容ある生活をつくり上げていくかは、思想の力である。刑務所でのカメジローの仕事は闘病と独習だった。おかれた環境を十分に生かして人間革命の完成につとめた。獄中日記に出てくる本は80冊にのぼる。
 清潔にして、非衛生的環境を除く努力を集中する。房内において、身体と精神、生命力を維持し、きたえ上げ、みがき、将来のための準備工作をすすめる。カメジローは、自宅でも身のまわりをいつも清潔にし、きちんと整頓しておかなければ気がすまなかった。
 家族からの差し入れられる敷き布団の中に妻の手紙が隠されていた。ええーっ、信じられません。あまり検査しなかったのですね。もちろん、手紙はすべて検閲されていました。家族からの手紙もカメジロー本人には渡されず、沖縄県公文書館に保存されていて、発見された物がある。うむむ、なんということでしょうか。
 カメジローは、獄中で、体重が41キロにまで落ちてしまった。危ないところだったようです。1956年4月、カメジローは、刑務所から釈放された。満期出獄だった。1000人あまりの県民が出迎えたが、一緒に歩くとデモ行進禁止のアメリカ布令に反するので、人々は動かず、そのかわりにカメジローがひとり挨拶しながら閲兵するようにして歩いた。すごいですね。写真もあります。泣けてきます。
 出獄歓迎大会には、1万人をこえる沖縄県民が参加したといいます。
 200冊をこえる日記が残っているそうです。戦後日本の政治で忘れてはいけない出来事です。先日のアメリカ兵による少女強姦事件が、マスコミによる被害者バッシングにより告訴取り下げ、不起訴で終わったことに怒りを覚えます。もういいかげん、日本人も眼を覚ますときではないでしょうか。いつまでたってもアメリカの言いなりでは困ります。
 庭の桜の花が満開です。といってもソメイヨシノではありません。サクランボの桜です。花もピンクではなく、真っ白で、地味です。一気に全開となりました。5月の連休明けころに紅いルビーのようなサクランボをたくさんつけてくれることでしょう。チューリップも、もうすぐ咲きそうです。ヒヤシンス、クロッカスそしてアネモネが咲いています。
(2007年11月刊。1667円+税)

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軍神

著者:山室建徳、出版社:中公新書
 日本で軍神と呼ばれる英雄が誕生したのは、日露戦役のあと。日清戦役のときには存在しなかった。
 著者は、ここで戦役という耳慣れない言葉をつかっていますが、それは戦争という言葉は、明治期には俗な表現にすぎなかったからです。そのころは、戦役と呼ぶのが一般的だったのです。へーん、そうだったのですか・・・。
 日露戦役のとき、乃木希典の率いる第三軍が遂行した旅順攻略は、それほど困難な作戦ではないと一般に思われていた。旅順はロシア本国からの補給の道を絶たれているし、その10年前の日清戦役のときには、簡単に攻め落とせたから。
 旅順港の攻防戦で戦死した広瀬少佐(死後、中佐に進級)、中国大陸の遥陽会戦で戦死した橘少佐(同じく、死後に中佐に進級)。海軍の軍神に対抗して、陸軍の軍神が誕生した。しかし、広瀬が戦死した明治37年3月から橘の戦死した8月までのあいだに戦死の意味が大きく変わっていた。広瀬のときには戦死者はそれほど多くはなかったが、5ヶ月後には一度の会戦で5000人をこえる戦死者が出るほどになっていた。
 この2人が日本国民に広く知れわたったのは、国定教科書にのったからである。
 このような広瀬中佐の銅像が明治43年、東京の万世橋に立ち、東京名物の一つとなった。ところが、16年たった昭和2年ころには、この銅像はかえりみられずに悲惨な環境に置かれていた。邪魔者扱いにされたのだ。しかし、さらに満州事変が始まると、一転して英雄をしのぶ場に昇格した。
 このような広瀬中佐の銅像の扱いの落差のひどさは、日本人の熱しやすく、また冷めやすい気質をよく反映しています。
 大正1年(1912年)、明治天皇が死んだとき、乃木希典夫婦が自宅で自死した。このことは世間にすぐさま知れ渡った。これを知った同時代の人間にとっては、とても信じがたい意想外のできごとだった。殉死など遠い昔に廃れたできごとであり、よもや高位高官の中から古式にのっとり切腹する者が出るなど、誰にも想像できない事態だった。
 乃木の自決は、最初から賛美一色で塗りつぶされたのではない。自殺という行為に対する反撥は、それなりの広がりを見せていた。常人離れした乃木の行動に反感をもつ人々も、間違いなくいた。新聞記者たちのホンネでも、乃木に対する崇敬の念などなかった。
 しかし、乃木の自決否認論は世間の支持を受けることができなかった。一般の読者の反撥が強かったので、乃木の死を突き放してとらえる論調は紙面を飾らなかった。
 乃木は自ら死を選ぶことで、キリストや西郷隆盛、楠木正成に匹敵する存在とみなされた。日露戦役において、東郷平八郎は輝かしい心ときめく快勝を象徴する存在だったのに対し、乃木は著しく悲しみにみちた死闘を思い起こさせる存在だった。
 しかし、日清日露の戦役は、日本の強さを世界に示し、日本人の誇りとなった。インテリの一部を中心に反撥する向きがあったとしても、期せずして乃木の死に共感する声が日本全体を包み込んだ。日本社会から湧き上がってきたのは乃木夫妻に対する深い同情と尊敬の念だった。それで、乃木夫妻の葬式には、20万人が参集した。
 日本における軍神の誕生のメカニズムと、それに対する世界各国の反応の違いが総合的に語られていて、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。940円+税)

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2008年05月30日

若い世代に語る日中戦争

著者:伊藤桂一、出版社:文春新書
 1937年(昭和12年)に徴兵検査を受け、習志野の騎兵連隊に入営し、3年あまり北支(中国北部)の戦場で過ごし、さらに1943年から歩兵として中支(中国中部)で歩兵となり、伍長だった人の体験談です。中国大陸の戦場で、下っぱの兵隊生活を7年間送ったというわけです。その体験がかなり美化されて語られていると思いました。
 初めのころは、日本軍が20人、八路軍(中国共産党の軍隊)が100人だとすると、人数で大差があっても、日本軍が圧倒的に強い。なぜなら、日本軍は訓練を受けているのに、八路軍は軍隊経験のない若者ばかりだから。挑発しても、まともに日本軍と戦わない。しかし、逃げ方がうまい。ところが、日中戦争が続くなかで、八路軍はだんだん強くなっていく。
 日本軍のつかった38式歩兵銃は、銃身が長いから非常に命中率は高いけれど、その分重たい。アメリカの自動小銃は銃身が短くて、命中率が低いかわりに、数うって当てるというものだった。
 戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なのだ。本当に大事な存在だった。当時は公娼制度があった。本人たちも、一応納得してというのが建前だった。むろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったろうが・・・。
 ともかく、軍の管理する慰安所だった。兵隊たちにとって、慰安婦は大切な仲間。苦労をともにした戦友だった。それが単に汚らわしい関係だったように言われるのは、戦場体験者としては、ちょっとやりきれない。
 兵隊は黙って働き、その多くは黙って死んでいった。慰安婦たちは悲劇的な不条理のなかで生きていたし、兵隊たちも、もっと不条理の中で生き死んでいかなければならなかった。だから、お互い心が通いあうこともあったし、彼女たちとの思い出を胸に抱いて死んでいった兵隊もいる。
 このあたりは、なんとなく、その心情が分かる気がします。不条理の中に置かれ、明日の希望がもてない極限の状況に置かれていたのでしょうから・・・。
 ところが、この本には、南京事件を否定するという重大な欠陥があります。著者は南京事件に関する本をまったく読んでいないようです。この点は聞き手側の責任でもあると思います。著者は、戦闘のあとは、死者の世話、負傷者の介護、戦掃除の責任もあり、一般住民を何万人も虐殺するゆとりなど、日本軍にあるはずはなかったのです、と語っています。
 ひどいものですね。これで「若き世代に語る日中戦争」というタイトルで堂々と本が出るのですから・・・。先に、『南京事件論争史』(平凡社新書)でも紹介しましたが、南京事件は当時、南京にいたナチス党員のドイツ人からも「あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方」として厳しく批判されていました。昭和天皇の弟である三笠宮も「日本軍の残虐行為」があったことを自叙伝(『古代オリエント史と私』)のなかで反省をこめて指摘しています。
 南京事件は、日本軍の南京入城式のあとの兵士たちの休養期間に多発した大虐殺、大強姦事件なのです。その点をたしかめることもなく「虐殺するゆとりなどあるはずもない」という言葉で簡単に片づけることは、日本人として許されないことだと私は思います。
 この本が右翼を標榜する『諸君』に連載したものだとしても、「若き世代に」に間違ったことを教えてほしくない、そう思って、あえて紹介しました。
(2007年11月刊。710円+税)

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2008年09月17日

「百人斬り競争」と南京事件

笠原十九司 大月書店

 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

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2008年09月25日

天皇制の侵略責任と戦後責任

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店

 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

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2008年09月27日

戦争の法のもとに

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

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2008年10月07日

平頂山事件とは何だったのか

著者:平頂山事件訴訟弁護団、 発行:高文研

 わずか180頁の薄い本ですし、1400円ですので、多くの人に買ってぜひ読んでほしいと思いました。日本人として知っておくべき事実がこの本には書かれています。私もなんとなく知ったつもりになっていましたが、平頂山事件についての正確な事実経過とことの本質を知っていませんでした。
 1932年(昭和7年)9月16日、当時、満州(今の中国東北部)の撫順に駐屯していた日本軍が、平頂山地区の住民3000人を崖下の平地に追い立て、一斉機銃掃射を浴びせかけ、その遺体はガソリンがかけられて燃やされたうえ、ダイナマイトで崖を爆破して土砂によって完全に隠蔽した。
 1932年というと、日本で5.15事件が起きた年です。軍部の横暴・独走がますますひどくなっていたころ、中国で日本軍はとんでもない大虐殺事件を起こしていたのです。被害者は何の罪もない労働者とその家族です。国民党軍でも八路軍でもありません。
 平頂山事件の起きた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。ちなみに、朝鮮人は4000人、中国人は44万5000人。日本人のうち1万人は、日本の国策会社である満鉄の社員とその家族である。
 撫順炭鉱は満鉄が管理していた。石炭埋蔵量は9億5000万トンといわれ、世界有数の規模を誇っていた。撫順炭鉱は、関東軍によって厳重警備されていたが、抗日義勇軍(大刀会)が撫順炭鉱を襲撃した。そこで、日本軍の守備隊は、平頂山の村民が抗日義勇軍に加担したとみて、今後の見せしめのためにも、徹底的に殺しつくし、焼き尽くすという方針に出た。村民をだますために、記念写真を撮るとか、適当な嘘を言い募って住民を集合させ、重軽機関銃で一斉掃射した。
 ところが、当時の日本政府の見解は、不正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊捜索のために村に入ったところ、日本軍が攻撃されたために戦闘となり、戦闘中にその場所の大半が焼けて壊滅したが、住民虐殺はなかったというもの。
 そして、この日本政府の見解は、今もなお、正式に改められてはいない。そして、日本では今も平頂山事件そのものがまったく知られていない。まったく、そのとおりです。
 この平頂山事件でも生き残りの人々がいました。(幸存者と呼ばれています)。幸存者の人々が日本政府を被告として訴えを起こしたのです。
 ところが、日本政府は「国家無答責」という論理を使って、責任を認めようとしません。これは、国の権力的行為によって生じた損害については、国は賠償責任を負わないという考え方です。なぜ権力的行為なら賠償責任を負わないでいいというのか、私には理解できません。
 「国家無答責」というのは、明治憲法下において、判例の積み重ねによって徐々に形成されていった法理論のようです。しかし、日本国憲法下の裁判所が戦前の法理論に拘束されるというのは、おかしな話です。なのに、現代日本の裁判所はそれを認めた判決を次々に下しています。
 学者は次のように解説します。国家無答責(無責任)の法理が認められるのは、たとえば強制執行処分、徴税処分、印鑑証明の発布、特許の付与といった国の権力的公務が法律によって許されている場合に限られるし、そもそも外国人には適用されない。平頂山事件は1932年の事件であって、いわゆる日中戦争のさなかの事件(行為)ではなく、平和に暮らしていた中国の一般市民を突然に、日本軍が残虐の限りを尽くして虐殺した事件であるので、国家無答責の法理は適用されるべきではない。
 なるほど、そう、そうですよね。ところが、残念なことに、日本の裁判所は一審も二審もそして最高裁も、幸存者の請求を認めませんでした。残念ですし、中国人の被害者・遺族の方々に申し訳ないと思います。
 被害者の要求は3つです。第一に、日本政府が平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者と遺族に対して公式に謝罪すること。第二に、謝罪の証として、日本政府の費用で謝罪の碑を建て、被害者の供養のための陵苑を設置し警備すること。第三に、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないため、政府は事実を究明しその教訓を後世に伝えること。
 いやあ、どれもごくごく当然の要求ですよね。一刻も早く日本政府がこれらの要求を受け入れることを私も強く望みます。
 ところで、この3つの要求には金銭賠償が含まれていません。いろいろの議論があったようですが、その点も当然考えられるべきものと私は思います。
 それにしても、この困難な裁判を日本で起こし、遂行していった日本の弁護士の皆さんの労苦にも感謝したいと私は思います。
 ちなみに、私も「すおぺい」ニュースを読んでいます。 
(2008年8月刊。1400円+税)

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2008年10月11日

父の戦地

著者:北原 亞以子、 発行:新潮社

 召集され、遠くビルマへ派遣された父親が、故郷日本へ送った葉書70数枚が再現されています。愛する我が娘(こ)が小学校に入学する姿を見れず、祝福の声をかけられなかったって、どんなに残念なことだったでしょう。その娘によって、葉書に書かれた状況が生き生きと再現されています。亡き父親は残念な思いと同時に、今では、この本を知って天国で満足しているのかもしれません。それにしても、人間の作り出した戦争って、罪な存在だとつくづく思いました。好戦派の石破大臣も、自分や家族が戦地に出されたら身にしみて分かると思うのですが、今はひたすら口で勇ましいことを言うばかりで、厭になってしまいます。戦争は、中山前大臣みたいな「口先男」と利権集団のために起こされるものだとしか思えません。
 直木賞作家の著者の父は、著者が3歳のときに応召してビルマへ派遣された。東京・新橋で家具職人として働いていた。ビルマに送られてからは、絵入り葉書を故郷の娘へ大量に送ってきた。
 カタカナ文字に絵が描かれているのですが、素人絵ながら、本当に味わいがあります。決して上手な絵ではないのですが、それが妙に面白いのです。
 母が父の戦死の公報を受け取ってきた日のことは鮮明に覚えている。よく晴れた日、外で遊んでいた小学3年生の著者は、母に呼ばれて、日当たりの良い座敷に座った。終戦の翌年(1946年)のこと。
 「ちょっと話があるんだよ」
 「なあに」
 「お父ちゃんは死んだよ」
 「お父ちゃんが死んだなんて嘘みたい」
 母は泣いていなかった。母の膝にふつぶせて泣いた。自分の悲しさをどうすればよいのか分からず、ただ泣きじゃくっていた。
 昭和20年4月、ビルマから退却していた途中、輸送船に乗っているところを空襲されて死んだらしいということが分かった。
 父があの世へ旅立ったのは、父が病に侵されたからではない。まして、死にたいという意思があったからではなかった。もっと生きていたかったはずである。この世に未練も執着もあった。
 母に宛てた葉書に、「若く見られて恥ずかしいって、結構だ。うんと若くつくれ、今まであまりにくすぶりすぎていたから、これからはうんと若くつくれ。ズキン、ワイシャツ、どんな格好だろうな。どんなでもいいから、きれいにしていてくれ」と父は書いている。
 最後に、その父親の写真が一枚だけ紹介されています。俳優にしていいような素敵な笑顔です。つい、私は、亡くなった佐田啓二を連想してしまいました。
 幼い娘を泣かせてしまった戦争を私は憎みます。 
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年11月11日

新聞―資本と経営の昭和史

著者:今西 光男、 発行:朝日新聞社

 朝日新聞社から出版され、朝日の記者が書いた、朝日の裏面を鋭くえぐった画期的な労作です。
 大正14年(1925年)ごろ、大阪では朝日と毎日新聞が激しくしのぎを削っていた。朝日は夏目漱石を迎え入れ、毎日は原敬を年俸5000円で社長に招聘した。
 原敬が大阪毎日新聞社の社長として勤めていたことを初めて知りました。
 この両紙は、関東大震災前にそれぞれ100万部を超える巨大紙になっていた。
 ところが、大震災によって東京各紙は壊滅的な打撃を受け、朝日、毎日という大阪紙が首都でも席捲することになる。そこで、廃刊の危機にあった読売新聞を内務官僚だった正力松太郎が買収し、面白い新聞、売れる新聞を前面に押し出した激しい販売攻勢をかけた。
 このころ、新聞は「政権打倒」を標榜し、政権側も新聞の政治的影響力を無視できなかった。そこで、寺内内閣は内相の後藤新平が先頭に立って公安刑事に内偵を命じるなど、権力を動員して虎視眈々と新聞社弾圧の口実を探っていた。
 大阪朝日は、時の権力から「一大敵国」と名指しされ、言論弾圧の標的とされた。
 そして、事件が起こり、ついに朝日新聞は、権力に全面屈服した。編集綱領に定められた「不偏不党」は、「偏った政権批判」をしないという恭順の誓いだった。そうなんですよね。今でも新聞は、結局、政権与党ですよね。
 ところで、朝日新聞社はスタートした時点で政府から資金援助を受けていた。政府の機密費から2万5千円が支払われていたのである。
 政府は、朝日のような中立的大衆紙を、御用新聞や政権新聞としてではなく、報道主義を中心とした新聞に育てて国民の信頼を得、あわせて、そのような新聞によって官民の調和を図ろうとしたと推測される。
 朝日をはじめとする言論機関が、安寧秩序、朝憲紊乱という天皇政護持を口実にした権力の弾圧や、右翼による物理的な脅迫にはきわめて弱いことをさらけ出した。1925年1月、朝日の社長と勘違いした右翼が緒方竹虎編集局長を帝国ホテルで襲った。このとき、朝日は右翼に裏金を支払った。それが広告主への圧力が新聞社脅迫の手段として有効であることを右翼に教え、以後、この種の右翼交渉には金銭的解決をはかることが常套化した。
 1928年、朝日は右翼からの襲撃に備えて、東京編集局長室に何丁かのピストルを用意して壁にぶらさげた。当時は、一定の条件がある人は護身用のピストルを所持することができた。社内でピストルを調達するのに困難はなかった。緒方竹虎は日本刀を会社に持ってきた。また、浅草のヤクザに頼んで、人を集めて社屋を警戒する「自警団」を組織した。
 うひょーっ、こ、こんなことが朝日新聞社であっていたのですね。右翼の襲撃に備えて、日本刀やピストルを編集局長室などに用意していたなんて、とても言論機関のなすべきこととは思えません。信じられない記述でした。
 済南事件、満州事変による中国大陸での戦争勃発によって、新聞は再び号外競争に突入した。号外は、当時、最大最強の速報手段だった。
 朝日も毎日も、関東軍を中心とする日本軍の「快進撃」を連日報道し、満州の日本の権益擁護に同調していた。やがて、朝日は、満州事変容認、政府支援が社論統一の大方針となった。
 この社論転換は、ただちに軍部に伝わった。憲兵司令部から参謀本部次長への極秘通報がある。当局は、昔も今もジャーナリズムをこまかく監視しているわけです。
 満州事変が勃発してから、朝日新聞の販売部数の増加はすさまじい。1931年に91万部だったのが、1932年には105万部となった。全社で39万部増えて182万部となった。まさに、戦争は新聞にとって神風だった。
 日中戦争が激化すると、朝日新聞は1937年(昭和17年)7月から、軍用機献納運動を読者に呼びかけ、1ヶ月で462万円ものお金を集めた。
 残念なことに、いまや朝日新聞も含めた日本の新聞は「一大敵国」と呼ばれるような、権力から本当に恐れられるような存在ではもはやないようだ。権力によって新聞が「馴化」された面もなしとしない。
 本当にそのとおりだと思います。自民党と民主党とでは本当はどこが違うのか、また本質的には同じではないのか、もっと広く市民の声を反映するにはどうしたらよいのか、いろいろ本質的なところで日本のジャーナリズムは安心できないところが多々あります。いえ、ありすぎます。その本質的根源がこの本によって究明されています。
 私と同じ団塊世代の著者から贈呈されて読みました。ありがとうございました。
 渡り鳥のジョウビタキの鳴き声が聞かれるようになりました。人にすごく近づき、尻尾をチョンチョンと振って挨拶する愛想のいい小鳥です。
 曇り空の日曜日、チューリップの球根を200個植え付けました。富山産で、40個で1000円しません。1個20円あまり。畳一枚ほどの区画を掘り起こして整備して植え付けていきました。これで500個近くにはなりました。
(2007年6月刊。1400円+税)

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2008年12月03日

ペリリュー・沖縄戦記

著者:ユージン・B・スレッジ、 発行:講談社学術文庫

 著者はアメリカ第一海兵師団の一員として、中部太平洋にあるパラオ諸島のペリリュー島と、沖縄の攻略戦に参加しました。本書は、その体験記です。戦争の悲惨が惻々と伝わってきます。
 ブートキャンプの典型的な一日は、午後4時の起床ラッパとともに始まる。そして厳しい一日は、午後10時の消灯ラッパとともに終わりを告げる。
 無常で理不尽としか思われない、いじめも同然の「訓練」は、のちに戦場で生命を救った。戦争は、誰にも、とりわけ歩兵には眠ることを許さない。戦闘が約束するのは、永遠の眠りだけなのだ。
 しつこく何度もやってくる訓練教官の足音に聞き耳を立てた。真っ暗な闇の中、忍び寄ってくる教官の気配に絶えず耳を澄ませていたおかげで、聴力が著しく研ぎ澄まされた。
 強いストレスにさらされながらも、命令に従っているうちに、規律を身に着けていった。これがのちに戦場で明暗を分けた。聴力の鍛錬は、夜中に陣地に侵入してくる日本兵の気配を、塹壕の中で聞き分けることができた。
古参兵は言った。弾が飛んでくる音を初めて聞いたときは、クソ恐ろしくて、ライフルも構えていられなかったほどだ。怖気づくのは誰も同じ。怖くないなんて言うやつは、大嘘つき野郎だ。
 生き抜くためにすぐにも身に着けておかねばならん大事なこと、それは敵弾がどんな音を立てながら飛んでくるのか、それがどんな武器から発射された弾なのかを正確に知っておくこと。著者は、この訓練のおかげで激戦のなかを生き延びることができました。
 第一海兵師団の8割が18歳から25歳だった。そして、日本人に対して燃えるような憎悪を抱いていた。海兵隊員は、日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気はなかった。
 日本兵は死んだふりをしておいて手榴弾を投げつける。負傷したふりをしてアメリカ軍衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す。そして、日本軍は真珠湾を奇襲攻撃した。日本で、鬼畜米英と言われていたことの反対が、ここにあったのですね。
 用を足しておくことがいかに重要なことか、古参兵たちは身をもって学んでいた。激戦のさなかでは、食べたり眠ったりするのもままならないが、排便はなおさらなのだ。
 ペリリュー島に上陸したアメリカ軍はすぐに戦闘は終了すると見込んでいた。ところが、日本軍守備隊1万を率いた指揮官(中川州男大佐)はバンザイ突撃を禁じ、完璧な縦深防御の態勢を築いた。日本軍はバンザイ突撃どころか、戦車と歩兵が協同した、見事な逆襲をしてきた。その結果、アメリカ軍の死傷者の割合は、後の硫黄島でのそれに匹敵する。
 ペリリュー島では、硬い珊瑚の岩盤に深く塹壕を掘るのは不可能に近く、身のまわりに岩を積み上げ、倒木や瓦礫の陰に隠れて身を守るしかしかなかった。
 集中砲火を浴びたときや、長時間にわたって敵の攻撃にさらされているとき、一発の砲弾が爆発するごとに、身心はいつにもまして大きなダメージを受ける。大砲は地獄の産物だ。巨大な鋼鉄の塊が金切り声を響かせながら、標的を破壊せんと迫りくる以上に凶暴なものはなく、人間のうちにうっ積した邪悪なものの化身というしかない。まさに暴力のきわみであり、人間が人間に加える残虐行為の最たるものだった。
 銃弾で殺されるのは、いわば無駄なくあっさりとしている。しかし、砲撃は、身体をずたずたに切り裂くだけでなく、正気を失う寸前まで心も痛めつける。砲弾が爆発するたびに、力をなくしてぐったりし、消耗せずにはいられない。砲撃が長時間に及ぶときには、悲鳴をあげ、すすり泣き、あたりかまわず泣きわめきたくなる。大砲や直撃砲を集中的に浴びせられるのは恐ろしいとしか言いようがない。身を隠すすべもない開けた場所で集中砲火に身をさらすのは、経験したことのない者には考えも及ばない恐怖だ。
 ペリリュー島の日本軍守備隊は全滅した。死者1万900人。生きて捕虜になった日本兵は302人しかおらず、しかも兵士は7人、水兵は12人で、残りはアジア各地出身の労働者だった。これに対して、アメリカ軍精鋭の第一海兵師団は戦死者1252人、負傷者5274人。師団は見る影もなかった。
 ペリリュー島は悪臭の戦場と化した。地面は固く尖った珊瑚礁岩で、土というものが存在しない。日本兵の死体は放置されたままの場所で腐敗していった。そして兵士の多くがひどい下痢に苦しんだが、排泄物に土をかけるという処理ができなかった。屍臭に満ちた熱帯の大気が、筆舌に尽くしがたい悪臭を放った。汚物の山に埋もれたような状況で、ただでさえ熱帯に多いハエが爆発的に繁殖した。大型のクロバエ(アオバエ)で、丸くふくらんだ胴体は、青緑色の金属的な色をしている。ハエは、山地に散らばる人間の死体、排泄物、腐った携帯口糧に飽食して肥り、動作が鈍り、満足に飛べないハエすらいる始末だった。
 戦場のすさまじい悲惨さが異臭とともにひしひしと伝わってくる本でした。
 それにしても、アメリカ軍はこのペリリュー島を本当に攻略する必要があったのか、著者は疑問を投げかけています。同じことは、日本軍にとっても言えることでしょう。
(2008年5月刊。740円+税)

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2008年12月31日

1945年のクリスマス

著者:ベアテ・シロタ・ゴードン、 発行:柏書房

日本国憲法の誕生秘話です。日本で育ったユダヤ人女性が終戦直後、アメリカ本土からGHQの一員として日本に戻ってきました。ピアニストの父と母は、敵性外国人として軽井沢に追いやられ、栄養失調のため倒れていたのです。1941年、第二次大戦が始まると、軽井沢は第三外国人強制疎開地に指定された。300人の外交官が滞在し、5000人の外国人が軽井沢で生活した。
日本をよく知る22歳の白人女性は、日本国憲法の草案を短期間で作り上げるように命じられ、突貫作業に従事します。その様子が生々しく伝わってくる本です。
著者は5歳から15歳まで東京で育ち、日本語は上手に話せた。父シロタはロシア系のユダヤ人だった。親戚には、ナチスのため強制収容所に入れられ、殺された人が多くいた。
両親がキエフ生まれなので、ロシア語を話せる。著者はオーストリアのウィーンで生まれ、日本に来ても少女時代にはドイツ語学校に通っていたのでドイツ語は話せる。フランス語は家庭教師から習った。アメリカの大学ではスペイン語を学んだ。だから、英語と日本語を含めて6カ国語が自由に話せる。これが身を助けた。うむむ、こ、これは、す、す、すごい。すご過ぎる。語学のできない私にはうらやましい限りです。
1945年12月24日、著者はGHQの民間人要員の一人として、厚木基地に降り立った。そのとき、22歳だった。
職場は、皇居の前の第一生命ビルの6階にある民生局。同じフロアーにはマッカーサー元帥の執務室もあった。
GHQの民間人の民政局は、軍服こそ着ていたが、弁護士や学者、政治家、ジャーナリストといった知識人の集団だった。マッカーサー元帥の信任があって、元帥の信奉者だったホイットニー民政局長は、コロンビア・ロースクール出身の弁護士で、法学博士だった。ケーディス大佐もハーバードのロースクール出身の弁護士で、ユダヤ人。
メンバーの多くがルーズベルト大統領のニューディール政策の信奉者であり、アメリカで果たせなかった政革の夢を、焼け野原の日本で実現させたいという情熱を持っていた。
ホイットニー局長はこう言った。
「日本政府の憲法草案は、GHQとしては受け入れることはできない。なぜなら、民主主義の根本を理解していないから。修正するのに長時間かけて日本政府と交渉するよりも、当方で憲法のモデル案を作成して提供したほうが効果的だし、早道と考える」
人権に関する条項は、ロウスト中佐とワイルズ博士と著者の3人が任命された。そこで、著者はジープで都内の図書館や大学をまわり、アメリカ独立宣言、アメリカ憲法、イギリスの一連の憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、スカンジナビア憲法、そしてソビエト憲法を集めた。GHQの草案は、日本政府がつくったものとして発表することになっていた。
それまでの日本では、妻は準禁治産者と同じ扱いを受けていた。つまり裁判を起こせないし、遺産の相続権もない無能力者だ。もちろん選挙権もない。しかし、マッカーサー元帥の5大改革の中に婦人解放と参政権は含まれていた。
1946年2月4日から12日までの9日間は、著者の生涯でもっとも濃度の濃い時間だった。GHQがつくった憲法草案は、2月13日麻布の外務大臣で吉田茂外務大臣と松本恭治国務大臣に渡された。
このときホイットニー准将は、これが受け入れられなければ、天皇制は守られないかもしれないと日本側を脅した。
3月4日、GHQ(民政局)は日本政府と草案の逐語的な詰めの交渉をした。これに著者も通訳の一人として参加した。審議は時間がかかり、人権条項に取りかかったのは、午前2時頃。日本側は次のように言った。
「女性の権利問題だが、日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌がない。日本女性には適さない条文が目立つ」
これに対して、ケーディス大佐が次のように反論した。
「しかし、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に考えたものです。悪いことが書かれているはずはありません」
冬の夜が明け、およそ終わったのは朝10時頃。全体としては夕方6時まで詰めの作業が続いた。
すごいですね。日本国憲法ができあがるまでの苦労話として、もっと知られていい話だと思いました。
(2003年9月刊。1748円+税)

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2009年01月05日

失われた弥勒の手


著者:松本 猛・菊池 恩恵、 発行:講談社

安曇野(あずみの)伝統というサブタイトルのついた古代史の謎とロマンを語る現代小説です。
平安時代から鎌倉時代にかけて、弥勒(みろく)仏が盛んにつくられていた。戦乱の余になって、絶望的な末法思想が広がった。民衆はどこかに希望を見出したい。そこに信仰が生まれる。
 弥勒菩薩は、釈尊が亡くなってから56億7千万年後に、この世に訪れて人々を救済すある未来仏だ。弥勒は、仏教の世界観で言うと、與率天(とそつてん)という。まだ修行的な段階なので、苦しくて足を組んでいて手を頬について瞑想にふける姿で表現されることが多い。これが半跏思惟(はんかしい)像だ。
 日本人の中にも渡来人だった人が多く存在する。大和朝廷の中枢にはたくさんの渡来人が居た。秦(はた)、錦織(にしきおり)、綾部(あやべ)、海部(かいふ)というのは、みな渡来系の姓である。
 岩戸山(いわとやま)古墳は、北部九州最大の前方後円墳である。「日本書紀」によると、大和朝廷は、新羅に奪われた仼那を奪還するために、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)に6万の軍勢を率いて渡海させることにしたが、新羅は密かに筑紫君磐井(いわい)に賄賂を送って毛野臣の渡海を妨害させようとした。磐井は、肥(佐賀、長崎、熊本)と豊(福岡東部、大分)の2国の勢力で朝廷に立ち向かった。大和朝廷は、物部大連鹿火(もののべのおおむらじのあらかひ)を遣わして討伐した。磐井は継体22年(528年)11月、御井郡において激戦の末に斬られた。
 ところが、「筑後国国土記」には、磐井は、大分県の瀬戸内海に面したあたりに逃れたと記されている。岩戸山にある墓は、磐井が生前に造った寿墓というもの。磐井が逃げて捕まえきれなかった大和朝廷の軍勢が岩戸山の寿墓を壊したのだ。
磐井の乱によって大和王権から北九州を追われ、新羅に伽耶を追われた安曇族のかなりの集団が6世紀に信州(長野県)安曇野に移住してきた。そこには、すでに渡来系の人々の生活基盤があったからだ。このように、福岡・八女と信州・安曇野とが昔、密接な関連があったなどという話に目が開かれる思いでした。
 2世紀から4世紀まで、安曇族は志賀島を本拠地とし、糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)をふくむ博多湾周辺を活動の中心地としていた。
 安曇族は、朝鮮半島南部の伽那や筑紫の君、磐井と強い繋がりを持っていた。ところが527年の磐井の乱のとき筑紫の君について負けたために本拠地を失い、各国に散らばっていった。たとえば、滋賀県。ここに志賀町や南志賀という地名がある。安曇と志賀という地名のあるところは、安曇族が転出していったところである。全国に50ヶ所以上もある。
 ふむふむ、日本の古代史も面白いですよね。この本は小説仕立てですから大変読みやすくなっています。

(2008年4月刊。1800円+税)

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2009年01月27日

満州国とは何だったのか

著者:植民地文化学会、 発行:小学館

 虚偽の口実をもうけて、アメリカはイラクへ攻め込んだ。それと同じことを戦前の日本は中国でした。自作自演の事件を捏造(ねつぞう)して、中国東北部で戦争を起こし、次いで「満州国」という傀儡(かいらい)国家を建て、14年間に及ぶ苛酷な植民地支配を行った。日本人がそのことを忘れると、田母神という男が日本は侵略戦争なんてしたことはないと嘘ぶき、一部からもてはやされるのです。
 「満州国」の行政組織の特徴は、総務庁中心主義をとったこと。政府のおいての実権は日本人の総務庁長官の手に操られ、この総務庁長官は関東軍に操られていた。関東軍こそ、「満州国」の事実上の支配者であった。
 1932年9月、関東軍司令官(武満信義)は、国務総理(鄭孝胥)と日満議定書に調印した。この日満議定書の主文はわずか2条のみ。第1条で、満州国は日本の中国東北におけるすべての特権を承認し、第2条で、日本の中国東北における駐軍権と占領権を承認した。これによって、中国東北部は完全に日本の植民地となった。そして、この日満議定書には、4つの秘密文書が付属していた。
1936年に作成された「満州国の根本理念と協和会の本質」という文書によると、満州国皇帝は、天皇の大御心にもとづいたものであるから、天皇に仕えるのが在位の条件であった。そして、関東軍司令官は、天皇の名代として満州国皇帝の後見者であった。
 「満州国」警察のうち、日本人1万3000人、12%を占めていた。「満州国」に抵抗する抗日義勇軍と戦うため、関東軍は集中居住区、集団部落を強制的に作り上げた。これを人圏(人小屋)といい、2500ヶ所以上の集団部落(総人口140万人)がつくられた。
 満鉄は社員2万3000人以上を擁していた。国内にはりめぐらした情報網によって領事館や陸軍・警察署などの最新情報をつかむことができていた。満鉄の資産は11億円ほどだったのが、終戦直後には50億円をはるかに超えていた。
 万人坑とは、東北に住んでいた中国人が大量に殺害されて集中して埋められた場所のことをさす。
 内地の貧しい農民にとって、「満州に行けば、20町歩もの農地を与えらえて自作農になれる」というキャッチフレーズは、とても魅力的だった。敗戦直前に、東北在住の日本人農民の移民は、成人16万7000人、青少年6万人ほどであった。そして、東北に在住する朝鮮人の総人口は、1945年の時点で150万人と推定された。
 戦後、日本人戦犯を裁く法廷が中国各地につくられた(10ヶ所)。605件、883人が被告として裁かれた。東北部では撫順の戦犯管理所に収容されたが、6年間、きちんと処遇された。判決は禁固20年から12年までで、死刑は1人もいなかった。1964年に残りの日本人が日本へ帰国した。
 「満州国」 での日本人死者は、対ソ連戦で6万人。8月15日以前で18万5000人。1964年の引き揚げを前に「留用」された人々もいた。残留したのは1万人とその家族1万数千人。その多くは八路軍に入り、残りの一部は国民軍に徴用され、内戦の戦力となった。
 「満州国」の実態について、日中両国の学者が共同して調査し、議論してまとめた本です。日本人は、この本を読んで満州国の実体を美化することなく、よく理解すべきだと思いました。


(2008年8月刊。3400円+税)

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2009年02月26日

天皇・天皇制をよむ

著者 歴史科学協議会、 出版 東京大学出版会

 実在の大王(いまの天皇)と確認できる6世紀から7世紀までの大王の即位年齢は、男女ともに40歳以上。国政関与の経験を豊かに持ち、統率者としての資質・能力を備え、血統上の条件を満たす者が男女を問わず、群臣に要請されて大王となった。8代6人の女性天皇(大王)は、単なる「中継ぎ」というものではない。
 終戦時、天皇家の持つ財産は37億円もあり、三井・宮崎のような財閥家よりはるかに大きかった。そのうえ、国から毎年450万円も支給されていた。戦後の皇室費は、61億円(2008年度)になっている。昭和天皇が死んだときの財産は20億円だった。
 古代の大王・天皇の継承ルールは、時代とともに変化し、皇位継承の在り方を定めた明文はなかった。はじめは直系継承が基本であり、その後、兄弟間の継承となり、再び直系継承となって、その後は兄弟継承と直系継承とが入り混じるようになった。
 平安京を作り上げた桓武天皇は、母が渡来系氏族であったという脆弱さがあった。そこで、遷都と征夷という大事業にあたって桓武が頼りにしたのは、豊富な経済力と学識・技術をもっていた渡来系氏族だった。
 この本では、織田信長が天皇制を消滅させようとしたことはないとしています。
 天皇・朝廷を消滅させることなど、信長も秀吉も家康も誰も考えてはいなかった。対立や緊張はあったとしても、武家政権は天皇・朝廷を排除するのではなく、これを構造的に組み込み、公武が一体化して一つの王権を構成していた。これを公武結合王権と呼ぶ。
 江戸時代、武家への官位叙任は、実質的には将軍に権限があった。しかし、形式的ではあるが、最終的には天皇にも権限があった。将軍と天皇は、お互いに相手を排除して冠位叙任権を一元化しようとはしていない。両者は、ともに相手の権限を前提とし、それを自らの権限の補完材料としていた。
 徳川氏は、征夷大将軍として、武家の棟梁という顔と、もう一つ日本国王という顔をあわせもっていた。つまり、国王は天皇と将軍の2人なのである。
 幕末のころ、江戸の民衆の中に天皇を神権的な権威があるとして尊崇する見方はまれだった。
 天皇と皇族には、日本国憲法の人権規定がまともに適用されないことになっている。
 そうなのです。天皇って、ちゃんとした名前もなければ、人格も、人権も保障されないという特別な存在なのです。いつまで、このような存在が存続するのでしょうか……。
 月曜日に帰宅すると、大型封筒が届いていました。1月に受けた仏検(準1級)の結果の通知です。あれっ、おかしいな、大失敗したと落ち込んでいたのに……と思いました。不合格のときにはハガキが来るのです。前回は2点不足して不合格でした。今回、大型封筒で来たということは……、まさか、と思いましたが、やっぱり合格証書でした。うれしかったです。ダメだと思っていたのですが、トツトツながら話を続けたのを評価してもらえたようです。これで、フランス語の勉強を続けていく元気が出ました。
 仏検3級に合格したのは1990年2月、2級に合格したのは1994年7月のことでした。準1級の合格は2度目です。ペーパーテストには4回から5回合格しているのですが、このところ面接試験で落ち続けてきました。
 いま、NHKラジオ講座は『カルメン』を取り上げています。ドン・ホセとカルメンのやり取りをフランス語で聞き取り、書いています。頭のリフレッシュには最高です。

(2008年5月刊。2800円+税)

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2009年06月11日

テロルの時代

著者 本庄 豊、 出版 群青社

 1929年(昭和4年)3月5日、東京神田の旅館で、労農党代議士山本宣治(39歳。「山宣」やません)がテロリストに襲われ、命を奪われました。この本は、そのテロリスト黒田保久二を追跡しています。最後まで、大変興味深く読み通しました。
 なんと、テロリスト黒田は、戦後、北九州で失業対策事業に従事していて、全日自労(全日本自由労働組合)の組合員となっていたというのです。これには驚きました。そして、次のように語っていたそうです。
 山宣を刺したのは、ある偉い人から頼まれたもの。成功したら、150円の報酬と、いい身分を約束された。しかし、逮捕されてから、その偉い人は1回しか面会に来ず、服役を終えて面会を求めても相手にされなかった。そこで、新天地を求めて満州に渡った。けれども、うだつは上がらず、敗戦になって引き揚げた。そのときにも偉い人を訪ねたが、門前払いされた。
 そこで、この偉い人とは誰なのか、これを著者は追跡していきます。
1928年(昭和3年)2月の第1回普通選挙で、労農党の山本宣治が京都第2区で当選するなど、全国で無産政党から49万票を得て8人が当選した。政府はこれに驚き、同年3月15日、治安維持法違反として一斉捜索・検挙した(3.15事件)。
 テロリスト黒田は七生義団の相談役であったが、その前は、大阪や兵庫県で巡査をしていた。そうだったのか……、なんと元警察官がテロリストの正体だったのですね。
 山宣暗殺を黒田に直接指示したのは、七生義団総理の木村清。木村はアリバイづくりのため、事件当夜は朝鮮に渡っていた。この木村の後ろには、警視庁特高課がいて、事件のあと黒田を免罪しようと動いた。しかし、本当の黒幕は大久保留次郎であり、事件のとき大久保は台湾総督府の警視総長として台北にいた。なるほど、なるほど、そういうことだったんですか。
 自首してきた黒田を調べた警視庁特高課は、山本が先に手を出したから正当防衛だというキャンペーンをはろうとしていた。しかし、これに対して松阪廣政検事が、これは殺人事件だとして、誤ったリークをなした警視庁に厳重抗議をした結果、正当防衛キャンペーンは消え去った。
 黒田は殺人罪で起訴されたものの、裁判中に保釈された。えーっ、嘘でしょう。思わず、叫びたくなります。今ならあり得ませんよ、これって。そして、判決は求刑どおりの懲役12年であった。そのうえ、黒田は恩赦を受けて6年後には出獄した。なんということでしょう。
 黒田の法廷のほとんどは、七生義団の団員で占められていた。うむむ……。そして、刑務所内で、黒田は河上肇教授と出会った。『貧乏物語』で有名な河上教授です。不思議なめぐりあわせです。
事件の黒幕であった大久保は、千葉県知事、東京市長の要職を歴任し、戦後は代議士に当選して、国家公安委員長にまでなった。これに対して、テロリスト黒田は、1955年、北九州の遠賀療養所で、脳梅毒のため死去した。62歳だった。
 よくぞここまで調べたものだと感心してしまいました。山宣に少しでも興味のある人には欠かせない貴重な本です。わずか170頁の本ですし、読みやすいので、すらすらっと読みとおすことができます。

(2009年4月刊。1600円+税)

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2009年06月17日

重慶爆撃とは何だったのか

著者 戦争と空爆問題研究会、 出版 高文研

 第2次大戦中、日本は全国66都市がアメリカ軍によってナパーム攻撃を受けたが、その5年以上も前に、日本軍は中国・重慶市民の頭上に200回をこす間断ない空中爆撃を行い、2万人あまりの死傷者を出した。日本は、戦略爆撃の作戦名を公式に掲げて、組織的・断続的な空襲を最初に始めた国なのである。
 1937年8月に始まった南京空襲は、12月13日に日本軍が南京を占領するまで繰り返された。日本軍は、空襲36日、回数にして100回をこえ、飛行機はのべ600機、投下した爆弾は300トンだった。
 8月26日、南京に駐在していたアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア各国の外交代表が日本政府に爆撃中止を求めた。宣戦布告していない国の首都を爆撃し、しかも民間人を死傷させていることに抗議したのである。
 南京爆撃は、民衆の戦意を崩壊させ、中国軍の早期降伏を誘発するためのものであった。しかし、そうはならなかった。日中戦争の行き詰まり打開策として、戦略爆撃に重点が移動した。
そのとき、毒ガス弾の使用も軍当局は認めていた。ただし、目立たないように注意しろという但し書きがついていた。毒ガス弾の使用を認めたのは、中国軍の激しい抵抗を受けて日本軍にも多大な犠牲者を出した上海戦のようにならないためであった。1941年11月、日本軍機はペスト菌を中国にバラまいた。ペストが蔓延して、数千人の死者が出た。しかし、日本軍の毒ガス戦について、戦後、アメリカ軍はそのデータと引き換えに関係者を免責した。
 重慶爆撃で最大の死者を出したのは1939年5月のこと。2日間だけで死者は4000人にのぼった。日本軍は武漢を基地として、300機以上を動員した。このとき使われたのはナパーム弾の性質に近い焼夷弾である。日本軍は重慶を無差別・絨毯爆撃した。
 ドイツや日本と違って、中国側にはわずかな防空能力しかなかったので、日本軍はほしいままに攻撃できた。
 この作戦を主導したのは海軍参謀長の井上成美(しげよし)中将である。井上は「海軍リベラル派」の人物として、ともすれば「反戦大将」の面が強調されるが、重慶爆撃においては一貫して積極派であった。
 中国軍ではソ連の飛行機と飛行士が実は活躍していた。1937年から1939年にかけて、ソ連は中国に対して、1000機の飛行機と2000人の飛行士、500人の軍事顧問を送り込み、大砲・高射砲そして石油などの軍需物資を供給していた。しかし、ソ連はドイツとの関係が緊張した1941年7月に派遣を中止して引き上げた。
 日本人は、その受けた東京大空襲のみを思い出しますが、実は空襲の点においても無差別・民間人殺傷を始めたのは日本軍であったのです。その意味で忘れることは許されません。
 私も一度だけ、武漢そして重慶に行ったことがあります。夏は40度を超す炎暑の土地です。重慶では真っ赤な色をした火鍋をすこしだけ食べました。ともかく辛いのなんの、口が火傷しそうなほどとんでもなく辛いのです。
 この本を読んで、日本人はドイツと違って、今なおきちんと戦争責任に向き合っていないことを痛感させられました。
 
(2009年1月刊。1800円+税)

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2009年06月23日

不屈、瀬長亀次郎日記

著者 瀬長亀次郎、 出版 琉球新報社

 読んでいるうちに、思わず背筋を伸ばし、襟を正して、真面目に生きていこう、元気に生き抜くんだ、そんな力の湧いてくる不思議な本です。
 カメジローの日記です。私も、若いころに一度くらい本人の演説を聞いたような気はするのですが、たしかではありません。雄弁というより、とつとつとした語りだったという印象をもっていたのですが、この本を読むと訂正しなくてはいけないようです。
 カメジローは、49歳のとき、当時、沖縄にあった地域政党である人民党(のちに共産党と合流しました)公認として那覇市長選に立候補し、保守が分裂していたこともあって、見事に当選しました。しかし、野党が圧倒的多数を占める那覇市議会は、アメリカ軍政府の強力な指示をうけて、「共産主義者」カメジロー追い落としを図ります。しかし、カメジローは粘りに粘り、ついに市議会のほうを解散し、市議会選挙で多数はとれなかったものの、大きく前進しました。
 アメリカ軍政府はやきもきしたあげく、ついに民主的に選挙で選ばれたカメジロー市長を一片の指令で追放してしまいます。このあたりの経緯が、当の本人のカメジローの日記、そして、情報公開制度で明らかになったアメリカ政府の動きをふまえて詳しく解説されています。ですから、当時の行き詰る状況が手に取るようによく分かります。沖縄そして日本を知るために、本当にいい本が出版されたと思いました。
 カメジローの演説。
 異民族の奴隷への道、西へ進むのか、祖国への道、東へ進むのか、の分かれ道に立っている。市民よ。死への道ではなく、日本国民の独立と平和と民主主義の繁栄を保証される道を進もうではないか。
 つい最近、赤嶺代議士(共産党)が国会で、アメリカ兵が飲酒運転して事故を起こしても、公務遂行中だとして日本に裁判権がないのはおかしいと追及していました。このことを河野代議士(自民党)が、そのとおりだとブログで紹介しているそうです。
 カメジローは、1万6591票を得て、対立候補に1964票差で那覇市長に当選したのです。すごいことですよね、これって。ワシントンのアメリカ国防当局は驚き、重大な関心を示し、ただちにカメジロー落としを指令したのでした。
 沖縄の銀行は、市にお金を出さない。アメリカ軍は市に水道を供給しない。まさしく、「火攻め」「水攻め」です。
 カメジローの演説。
 私は神を信じない。人民の力を信じている。神様は天には居ない。人民の中に、人間の心の中にいる神は、いかなる権力でも粉砕することはできない。
 市会議員選挙の演説会は深夜に及んだ。午後8時に始まり、終了したのはなんと午前1時過ぎ。うへーっ、そ、そんな演説会があったなんて、まるで、まったく信じられません。トホホの熱気ですね。沖縄県民の底力は、恐るべきものです。
 アメリカの報告書には、瀬長派の選挙活動は57回の政治集会に4万5000人も動員した。反瀬長派は、24回の集会でわずか1万人にとどまった。いやはや、なんともすごいものです。
 演説会会場は民主主義実践の場であった。瀬長派は人々の共感を集め、幅広い支持を取り付けることに成功した。
アメリカは、小さなハエをやっつけようとしては失敗する大男のようだ。大男が腕を振り回して失敗すればするほど、こっけいに見える。これはアメリカの新聞に載ったレポートです。
 カメジロー市長の在任期間は11ヶ月でしかありませんでした。しかし、大変なインパクトがありました。カメジロー市長の後任の市長を決める市長選挙でも、結局、カメジローの応援した候補が当選したのです。このときの立会演説会には、10万人が集まったのですから、まさに圧巻です。この本に掲載されている写真を見ても、それが嘘でないことはよく分かります。
 私が大学生のころ、沖縄を返せという歌をよく歌っていました。福岡の全司法の人たちが作った歌だということでした。オレたちが作ったんだという書記官が福岡におられました。
(2009年4月刊。2190円+税)

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2009年07月10日

罪祭

著者 山下 郁夫、 出版 創思社出版

 戦争中、大牟田にフィリピンでバターン死の行進をさせられたアメリカ兵捕虜を収容していた俘虜収容所があり、そこで捕虜を虐待したことを理由として極東軍事裁判で4人もの死刑判決が出て、巣鴨プリズンで実際に絞首刑が執行されていたことを伝える本です。
 私がある小集会でうろ覚えの話をしたところ、その場で私の話を聞いていた依頼者の一人からこの本を提供していただきました。実は、この俘虜収容所は、私が小学1年生のころまで住んでいた自宅の近くにあったのです。もちろん、今では跡形もありません。そもそも捕虜を駆使していた三池炭鉱自体もないのです。
 昭和18年8月から昭和20年9月まで、大牟田市新港町に福岡俘虜収容所第17分所があった。その初代所長が五島出身の由利敬少尉だった。ここに、バターン死の行進の生き残り捕虜505人を三池炭鉱で働かせるために連れてきた。この収容所は、最盛時には2000人もの捕虜がいて、敷地面積は1万1000坪あった。
 2代目の福原所長も絞首刑となった。その訴因は、捕虜に対する殴打だった。
 由利所長の死刑判決の理由は、逃亡常習癖のある捕虜を裁判にかけることもなく、部下に命じて背中から刺殺させたこと、盗癖のおさまらない捕虜を独房で死亡(餓死)させたことである。
アメリカ軍GHQは、横浜において軍事法廷を昭和20年12月から開始した。その第1号死刑判決が由利所長であった。また、衛兵だった軍属2人(33歳と40歳)も死刑になり、そのほか、福岡の俘虜収容所長(菅沢大佐)も死刑となった。
 由利所長の裁判は、翌21年1月7日に判決言い渡しで終わった。3対2で有罪、絞首刑が宣告された。そして4ヶ月後の4月26日に処刑された。戦犯として絞首刑となった第1号が由利初代所長で、第2号は福原2代目所長であった。
 戦前の日本に起きた捕虜虐待、そして戦犯としての日本人処刑という悲しい話を忘れるわけにはいきません。
(1983年7月刊。1800円+税)

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2009年12月29日

歴史家の仕事

著者 中塚 明、 出版 高文研

 日本の近代でもっとも大きいウソの一つに、天皇は平和主義者だったというのがある。
 昭和天皇は戦後、こう語った。
近衛文麿に話して、蒋介石と妥協させる考えだった。これは、満州は田舎なので事件が起こってもたいしたことはないが、天津や北京で事件が起こると、必ず英米の干渉がひどくなり、衝突の恐れがあると思ったからだ。
 このように、昭和天皇が恐れたのはイギリスやアメリカの干渉であって、満州が田舎なら、朝鮮は我が家の裏庭くらいにしか考えず、中国や朝鮮を侵略することには何のためらいもなかったことが、その言動から明らかなのである。
 私も、この指摘にまったく同感です。昭和天皇が根っからの平和主義者だとしたら、太平洋戦争が起きたはずはありません。
 日清戦争の直前、日本軍が朝鮮王宮に攻め入って朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。このとき、日本軍は外部への通報を恐れて、まず王宮の電線を切断した。
 ところが、対外発表では雷雨によって電信線が不通になったなどと嘘をついたのです。そして著者は、日新戦争のとき、日本の軍艦が中国側の目をごまかすために、外国の軍艦旗を掲げて行動したことも、軍部のマル秘戦史に書かれていたことも掘り起こしました。日本の軍艦が、アメリカやイギリスの軍艦旗を掲げて中国領海内に入り、港の状況を偵察していたのです。
 日清戦争の講和会議がなぜ下関で開かれたのかについても解明されています。
 下関の春帆楼に行くと、関門海峡が良く見える。日本軍を乗せた輸送船が続々と戦地に向かう状況を、日本は中国側の全権大使であった李鴻章に見せつけたかったのである。
 盧溝橋事件についても、当時、そこら一帯は日本軍が抑えていた。中国軍に残されていた唯一の出入口は、盧溝橋であり、ここを失うと北平(北京)を中国側は失い、北平を失ったら、華北全体が危うくなると中国側は認識していた。
 その中国軍の目の前で、その抗議を無視して連日、日本軍は夜間演習をしていたのであるから、計画的な挑発であることは間違いなかった。
 これも、現地に行って立ってみないと分からないことである。なるほどですね。
 歴史学は、過去の事実を科学的に分析することによって、現在がどういう時代なのかを、私たちに教えてくれる。絶望したり、あるいは理由もなく楽天的になったりする誤りを正してくれる。すなわち、歴史学とは、私たちの歴史的な生き方の理論なのである。
 歴史の好きな私にとって、大変勉強になりました。
 
(2007年7月刊。2000円+税)

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