弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

江戸時代

2007年9月28日

新潟 樽きぬた

著者:火坂雅志、出版社:小学館
 江戸時代に、小さいながらもパリ・コミューンみたいなことが起きていたなんて、ちっとも知りませんでした。
 長岡藩は、固定資産税である地子(ぢし)のほか、新潟湊(みなと)に出入りする船の積み荷の取引にかかる仲金(すあいきん)を取り立ててきた。そのうえ、臨時税として1500両もの御用金として新潟町に課した。新潟町の町政を取り仕切る検断は、昔から定員3人で、長岡藩が指名した。このときは1人欠けて2人の検断となっていた。室屋と加賀屋である。いずれも新潟で一、二を争う廻船問屋である。
 廻船問屋は新潟湊へ出入りする船から荷を買いつけ、売りさばく権利を一手に握っている。そのうえ、千石船、五百石船を何艘も所持し、大坂と蝦夷地の松前を結ぶ西廻り航路であきないをおこない、莫大な利益を得ていた。この豊富な資金力を元手に、田畑や山林を買って大地主となり、さらに経済力をつけていった。
 検断や町老人以下の町役人には、御用金の免除という特権も与えられていた。
 ときは明和5年(1768年)。天候が不順だった。雨の日が続いて、河川が氾濫して洪水が起きた。7月には台風に襲われ、イナゴの大発生によって田畑は壊滅的な打撃を受けた。米の不作は深刻となり米価は天井知らずに暴騰していった。
 そこで、長岡藩に対して、御用金の残る半分750両の先延ばしを嘆願することになった。ところが、裏切り者が出て、町会所(まちがいしょ)に洩れてしまった。
 検断は謀議の首謀者を町会所に呼び出し、入牢を申しつけた。
 それに町民が怒り、暴動を起こした。検断や町役人、米問屋などが次々に打ちこわされていく。ついに、町奉行は、これ以上の一揆の広がりを恐れて首謀者を釈放した。新潟町の打ちこわしは、9月26日、27日の2日間で終わった。2日で24軒が襲撃された。
 そして、町民自治が始まった。交代で町を警戒し、困窮した町民を救済した。買い占めていた米問屋に米を供出させ、米価を引き下げた。豆腐も酒も、日常用品を強制的に値下げさせた。質屋の利息を月2分に下げ、臨時に5軒の質屋を新設して、誰もが借金できるようにした。
 これより町中公事(くじ)、沙汰、また金銀の出入りごと、何ごとも、涌井藤四郎の取り計らいにてすまずということなし。
 町会所の町役人が失脚し、代わって選ばれた町中惣代となった藤四郎が町民の話しあいをもとに町政を取り仕切った。まさしく前代未聞の次第である。
 わずか二ヶ月とはいえ、この状態が続いたのです。しかし、ようやく態勢を立て直した長岡藩は、涌井藤四郎ともう一人を騒動の責任者として市中引き廻しのうえ打首獄門としました。
 涌井大明神として、今も人々に敬われているというのです。すごーい、ですよね。
(2007年9月刊。1400円+税)

江戸の転勤族

著者:高橋章則、出版社:平凡社
 タイトルと本の内容とのギャップが大きすぎます。むしろ、サブタイトルの「代官所手代の世界」がぴったりですし、さらにはオビにある「手代たちは狂歌がお好き」がもっと内容をあらわしています。
 江戸幕府の直轄地である天領を治める実務家である代官所手代は全国各地を転勤していたというのです。そして、彼らの多くは狂歌をたしなむ文化人でもありました。代官所手代は江戸時代の文化を担っていた人たちでもあったのです。
 代官手代とひとくくりにされている代官所の主要な構成員である「手附」(てつき)と「手代」(てだい)のうち、手附は、武士身分を有しており、代官同様に全国を転勤する転勤族であった。
 手附が幕臣であるのに対して、手代は農民・町人のなかから事務に習熟した者が縁故によって採用された。民間人が見習いの書役として出仕し、昇格して手代となり、なかには手附と同様に上位管理職である元締めとなった。そして、さらには武士身分を獲得し、手附となり、代官になった例すらある。
 飛騨高山には「高山陣屋」が再現されています。私も一度だけ行ったことがあります。
 この高山陣屋の主は、郡代とも呼ばれ、全国の10数%を占めた天領の行政・裁判の執行者である代官の最高位を占めたエリートだった。石高でみると、普通の代官領が5万石程度であるのに、郡代領は、その倍の10万石ほどであった。郡代は、関東・美濃・九州・飛騨の要衝地4ヶ所におかれていた。
 漬け物に あらねど人の 孝行は 親を重しと するが肝心
 老いらくの 身には針より 按摩より 気をもまぬこそ 薬なりけり
 なかなかよく出来た狂歌だと思います。
 お寺の扁額に狂歌作者たちの画像が描かれているものが紹介されています。ちょうど、公民館に歴代館長の写真を飾るような感じでしょうか・・・。
 江戸時代には役者から学者に至るまで、さまざまな人品をめぐる番付表が作成されていて、それぞれの世界における秩序・序列が可視的にまとめられていた。狂歌の世界でも多くの番付表がつくられた。ということは全国の狂歌作者が相互に知りあっていたということを意味する。
 ふーん。そうなんですね。江戸時代って、タコツボのような閉鎖社会ではなかったということですね。
(2007年7月刊。2600円+税)

2007年8月23日

江戸城、大奥の秘密

著者:安藤優一郎、出版社:文藝春秋
 大奥は、将軍の正室(御台所)、側室、将軍の子女、そして勤務する女性たち(奥女中)の生活の場である。もちろん、将軍の寝所もある。その面積は6318坪もあり、本丸御殿の半分以上を占める。表向(おもてむき)、中奥(なかおく。将軍が日常生活を送る空間で、居間)をあわせても4688坪に過ぎない。
 大奥というと、男子禁制の空間というイメージが強い。もちろん、将軍は例外だが、実は将軍以外の男性の役人も常時詰めていた。大奥内部は御殿向(ごてんむき)、長局向、広敷向の三つに分けられる。広敷向には、大奥の事務を処理したり、警護の任にあたる広敷役人が詰めていた。大奥といっても、この空間だけは男子禁制ではなかった。長局向と広敷向の境は七ツ口と呼ばれ、大奥に食料品など生活物資を納入する商人が出入りしていた。奥女中も出てきて、くしやかんざし、化粧品などの小間物(生活用品)を注文する。五菜(ごさい)と称する、奥女中に代わって城外での用件を果たす男性使用人(町人)も七ツ口までは出入りしていた。
 奥女中とは、いわば幕府の女性官僚である。下働きの女性をふくめると1000人をこす女性が働いていた。上級の奥女中の収入は500石クラスの中級旗本なみ、年収   1000万円。しかし、つけ届けがあるため、その実収入は相当なものだった。奥女中の蓄財は、1000両は普通で、7000両ということもあった。これは数億円レベル。幕臣に支給される米のうち、最上等の米は奥女中に支給され、それよりも質の下がる米は、権勢のある幕府役人に、何の権勢もない者には最下等の米を渡すのが慣例だった。
 さらに、奥女中のうち年寄と表使(おもてつかい)には、別に町屋敷が与えられた。その土地からあがる収入を自身の手当に充てることが許されていた。年寄の場合、200坪前後の地所を拝領し、労せずして年に8〜9両の地代収入があった。
 また、30年以上、大奥でつとめた者には、サラリーである切米と衣装代である合力金のうち多い方、さらに扶養手当の扶持米も、一生支給する規定が設けられていた。年金のようなものである。
 中臈(ちゅうろう)に与えられていた合力金は40両。しかし、この金額では足りず、実家に無心する女性が多かった。衣類代がかさんでいた。奥女中たちは、衣類をも古着屋に出す。江戸には、古着を扱う商人がなんと3000人ほどもいた。
 将軍の身の回りの世話をするのは、御小姓と御小納戸である。御側御用取次(おそばごようとりつぎ)のような政治職ではないが、ふだんから将軍の身近にいるため、隠然たる実力をもつことがある。
 小姓のほうが小納戸よりも格式は高かったが、その威を誇っていたのは、むしろ小納戸のほうだ。小姓は将軍の身辺を警護する役だが、小納戸は理髪や膳方など、将軍の衣食住の世話を直接する役である。小納戸のほうが、将軍にとっては、より身近な存在だったからだろう。小納戸の頭取職ともなると、将軍の御手許金を管理したり、あるいは将軍が鷹狩りなどで城外に出るときには、その現場責任者をつとめた。御側御用取次よりも格式は低かったが、中野石翁のように、将軍家斉の信任を受け、諸大名に恐れられるほどの実力を誇る者もいた。
 大奥と側近衆は、お互いに利用しあいながら、幕政への発言権を強めていった。
 大奥の経費は年間20万両と言われていた。大奥の経費とは、あくまでも将軍の生活費である。松平定信の寛政の改革は、この大奥経費を3分の1に減らした。だから大奥が反発したことは容易に想像できる。当然の成り行きとして、大奥は定信の前に抵抗勢力として立ちふさがった。改革は挫折に追いこまれた。
 家斉将軍のころ、ある大奥女中は次のように語った。
 自分たち奥女中が、どんなに贅沢な生活を送りたくても、先立つものがなければかなわないこと。しかし、それが可能なのは、幕府役人が頼みもしない賄賂を次から次へと大奥に贈ってくるから。大奥の贅沢な暮らしを止めるためには、幕府役人の賄賂を止めない限り、効果はない。
 なーるほど、ですね。大奥の権力の源泉と、その生活の実情の一端をうかがい知ることができました。
(2007年6月刊。690円)

2007年8月17日

幕末下級武士の絵日記

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

2007年8月10日

中世しぐれ草子

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

銀漠の賦

著者:葉室 麟、出版社:文藝春秋
 第14回の松本清張賞を受賞した作品です。なるほど、なかなかよくできていると感心しました。
 江戸時代の藩内の政治が語られます。百姓一揆もあります。藩主交代による政争があります。いかに英邁な藩主であっても、その子どもが成長すると、安穏ではいられません。息子を藩主として擁立し、父親を早く隠退させようとする勢力が出てきます。
 藩の経済状況の改善も重要な課題です。新田開発、そして、商人の活用が重要な施策となります。しかし、それは商人との癒着を生み、賄賂政治につながります。田沼政治は悪政だったのか、その次の定信の寛政の改革は善政だったのか、難しいところです。
 この本は小説なので、アラスジを紹介するのは遠慮しておきます。印象的にいうと、山田洋次監督の最近のサムライ映画・三部作の原作である藤沢周平の小説をもう少し明るくして、青春時代小説「藩校早春賦」(宮本昌孝、集英社)のイメージをつけ加えた感じです。
 暮雲収盡 溢清寒
 銀漠無声 転玉盤
 此生此夜 不長好
 明月明年 何処看
 日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、銀河には玉の盆のような明月が音もなくのぼる。この楽しい人生、この楽しい夜も永遠に続くわけではない。この明月を、明年はどこで眺めることだろう。
 著者は北九州に生まれ、西南学院大学を卒業して地方紙記者などを経て作家としてデビューしたとのことです。なかなかの筆力だと感心しました。
 ただ、松本清張賞というより直木賞ではないのかと、素人ながら私は疑問に思いました。

2007年7月30日

逝きし世の面影

著者:渡辺京二、出版社:平凡社ライブラリー
 文庫本で600頁の本です。東京からの帰りの飛行機のなかで一心に読みふけりました。なんだか、久しぶりに懐かしい人々に出会ったような、心温まる至福のひとときを過ごすことができました。
 江戸末期から明治にかけての日本人が、おおらかに毎日を楽しく幸せな日々を過ごしていたことを、何人もの海外からの観察者が異口同音に記録しているのです。ホント、うれしくなります。いえ、それは決して都市上層の裕福な町民の生活のことでは決してありません。むしろ、その大半は社会の底辺に住む人々の生活の描写なのです。
 日本人は落ち着いた色の衣服を好む。あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで、模様は多様だ。女は適当に大目に見られており、その特権を生かして、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。原色のままのものは一つもなく、すべて二色か三色の混和色の、和やかな柔らかい色調である。むしろ、裏に豪勢なものを着こなす。
 日本人の健康と満足は、男女と子どもの顔に書いてある(ティリー。イギリス人)。
 日本人はいろいろの欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる(オールコック)。
 どう見ても、彼らは健康で幸福な民族であり、人々は幸せで満足している(プロシャ使節団)。
 誰の顔にも陽気な生活の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れている。何か目新しく素敵な眺めにあうか、物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めているとき以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている(ヘンリー・S・パーマー。イギリス人)。
 この民族は笑い上戸で、心の底まで陽気である。日本人ほど愉快になりやすい人種は、ほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子どものように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続ける(ボーボワル)。
 日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人には生まれつきそういう気質がある(オイレンブルク使節団)。
 無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思がある(ブラック)。
 江戸庶民の特徴は、社交好きの本能、上機嫌な素質、当意即妙の才である。庶民の著しい特徴は、陽気であること、気質がさっぱりしていて物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること(アンベール)。
 人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがいい(ハリス。アメリカ人)。
 日本の下層階級は、おそろしく見たがり屋、聞きたがり屋だ(ジェフソン・エルマースト)。
 どうでしょうか。現代日本の社会に残念ながら失われてしまった雰囲気ではありませんか。人々が今よりもっとおおらかに毎日を暮らしていた、そういうことですよね。
 家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使いにとっては美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならない。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
 日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。
 今どき召使いと言われてもあまりピンときませんが、会社員と置きかえたら、これって今も通用しているものでしょうか。私には、かなり疑問に思えます・・・。
 離婚は、日本では異常な高率を示しているが、これは女性の自由度を示すものである。離婚歴は女性にとって何ら再婚の障害にはならなかった。その家がいやなら、いつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
 日本の女性は外国人に対して物おじしない。夫人の洋服を着たがり、自分の洋服姿に大満足だった。
 江戸時代の女性は、たとえ武家であっても飲酒喫煙は自由だった。たてまえは男に隷従するというものであっても、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であった。
 日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、2、3の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見いだしていることだ。
 私の法律事務所では、幸いにして笑いが絶えません。深刻な相談に乗っているときなどには、笑い声が聞こえてくると場違いな雰囲気になって、相談者に申し訳なく思うことがあります。それでも、私にとってはストレス発散になって、ノイローゼから免れることができる利点があります。

2007年7月20日

江戸の躾と子育て

著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
 江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
 赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
 これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
 江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
 文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
 子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文   (400円)だから、はるかに安い。
 識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
 農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
 漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
 すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
 いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。

薩摩スチューデント、西へ

著者:林 望、出版社:光文社
 あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
 明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
 外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
 若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
 船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
 この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
 その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
 イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
 かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
 雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。

2007年6月29日

天保暴れ奉行

著者:中村彰彦、出版社:実業之日本社
 天保の改革は老中であった水野忠邦が試みたものですが、途中で挫折しています。そのころ、水野忠邦に歯向かった江戸南町奉行がいたというのです。矢部定謙(さだのり)と言います。遠山金四郎と同じ頃の江戸町奉行です。
 長編時代小説ということですので、どこまでが史実なのか分かりませんが、小説としてもなかなか面白く、本のオビに「気骨の幕臣」がいたとありますが、なるほど、そうだなと本を読んで思いました。
 この本の面白いところの一つは、大人になって筋を通し抜いた定謙が、実は、子どものころは、父親からほとんどサジを投げられていた怠け者だったということです。堪え性のない気性だったのです。
 定謙は、小姓番組に加わって登城すると先輩たちから理不尽ないじめにあいます。江戸時代もいじめはかなりひどかったようです。自殺したり殺しあいがあったりしていました。
 新参者いじめに定謙は仕返しをし、番頭に報告して辞表をでしたしまうのです。たいした度胸です。
 ところが、定謙は、次に徒組(かちぐみ)に登用されました。徒組は、将軍の影武者となる役目を担っていた。徳川将軍は、平時も非常時も、徒組20組、計600人の影武者たちに守られて行動することになっていた。
 定謙は、火付盗賊改(あらため)を文政11年(1828年)から天保2年(1831年)まで、2年半つとめた。そして次に堺奉行となった。さらに、大坂西町奉行となり、そこで大塩平八郎を知った。このころ、大坂には、三郷借家請け負い人という制度があった。商売人が借金を返せなくなったとき、長屋住まいをしながら再出発するといシステムである。私は、このシステムについて前から知りたいと思っています。どなたか、専門に研究した本をお教えください。
 大塩平八郎と親密な交流をしたあと、定謙は江戸に戻り、勘定奉行に登用されます。見事なまでの出世です。役高3千石、役料として700俵、御役入用金として300両が支給される。朝は午前5時に出勤する。午前9時には御殿勘定所にいなければいけない。大変な激務のようです。
 このとき、大坂で大塩平八郎の乱が起きました。大塩平八郎に対する幕府の判決文に対して、定謙は水野忠邦に文句を言います。罪名を反逆とせず、大不敬の罪に処すべきだと提言したのです。怒った水野忠邦は、定謙を勘定奉行から罷免してしまいます。ところが、やがて水野忠邦は定謙を江戸南町奉行に任命するのです。人材不足からでした。
 しかし、水野忠邦の改革にタテつく定謙は、やはり罷免されてしまいます。そして、桑名藩に預けの身となり護送されるのです。そこで水野忠邦への抗議の意思表示として絶食をはじめ、49歳の若さで諫死してしまいました。
 定謙が「大岡裁き」のようなことをしたという話がいくつか出てきます。これはフィクションなのでしょうか・・・。

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