福岡県弁護士会の弁護士・職員の読んだ本・オススメの本

江戸時代

2007年02月02日

鹿児島藩の民衆と生活

著者:松下志朗、出版社:南方新社
 著者はあえて薩摩藩と呼ばず、鹿児島藩としています。鹿児島・島津家の所領は薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがっていたからです。
 そして、そもそも藩という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川幕府の大政奉還のあと、明治になってからのことなのです。
 江戸幕府が藩の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は知行所といい、1万石以上の大名の所領は領分と公称されていました。うむむ、さすが学者ですね。厳密です。
 それはともかく、本書では領内の百姓の生活が史料にもとづいて紹介されています。
 文化3年に志布志に近い井崎田村の門百姓たち11人が、志布志浦から船に乗って上方見物に出かけ、伊勢神宮に参拝して帰ってきた記録が残っている。98日間もの物見遊山を当時の農民たちはするほど生活のゆとりがあった。
 江戸時代の農民がかなり自由に旅行をしていたことは、今ではかなり明らかになっています。当の本人たちが日記を残しているのです。日本人って、昔も今も本当に記録好きの人が多いのですよね。かくいう私も、その一人です。
 鹿児島藩には、責任者としての名頭(みょうとう)がいて、その下に、名子(なご)がいました。
 農民は、役人が勝手に新田を開発したと考えたときには、実力でその新田をうちこわすという過激な実力行動をすることがありました。これも百姓一揆の一種なのでしょうね。
 飢饉のために貧農が飢えているときに藩ができないときには、村内の有徳者(豪農)に救済を依存していた。
 隠れ切支丹ではなく、隠れ一向宗の門徒が藩内に大量にいた。村によっては900人近く、村民の8割が一向宗門徒だったところもあった。これだけ多いと藩当局は門徒全員を処罰することも出来ず、代表者を見せしめ的に切腹させて終わらせていた。
 藩内で菜種栽培が盛んとなり、菜種油をめぐって商人が活躍するようになった。商業活動が盛んになると、当局へ訴訟が起こされ、また窮乏し欠落する農民が頻発するようになった。日本人は昔から裁判沙汰を嫌っていたのではありません。あれは明治中期以降の政府にによる誤った裁判抑制策にもとづく嘘に踊らされているだけなのです。
 また、鹿児島藩は積極的な唐通事優遇策をとっていた。唐通事は漂着した唐船を長崎に回送するときの通訳の役目を担う人々のことで、数十人もいた。うち2、3人を長崎へ留学させていた。唐通事として功績をあげると、門百姓の子が郷士へ上昇することができた。
 江戸時代の農民の生活の一端を知ることのできる本です。

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2007年03月02日

再発見、江戸の数学

著者:桐山光弘、出版社:日刊工業新聞社
 ええーっ、日本人って、昔から数学が好きだったんですかー・・・。つい、そんな叫びをあげてしまいました。江戸時代に数学(和算)が流行していて、ゼロまでつかわれていたというんです。ホンマかいな。そんな気すらしてきます。
 数学は暗記するのではなく、考えるのが楽しいもの。しかも、それが日本人に向いている。著者の訴えたいところは、ここにあります。
 江戸時代初期に出版された数学の入門書には、ゼロのところに、0または令という記号、漢字が入れられていた。鎖国中の日本人も必要に迫られてゼロを発見していたのだ。円周率も、3.16と表されている。ただ、増補改訂版は3.1416としている。
 江戸時代の数学書の三大ベストセラーは、塵却記、算法闕疑(けつぎ)抄、改算記である。
 本の中で、読者に出題し、正解ものせている。問題を「好」(このみ)といい、それに対する回答は「員数」と言った。
 徳川吉宗は、享保8年(1723年)、全国の大名に対して、寺子屋設置令を出した。この結果、11代将軍・家斉の時代には日本国民の識字率は70%に達してた。
 江戸時代になっても、キリスト教の宣教師はまだ日本にいたが、彼らは、故国イタリアに出した手紙において、日本人が数学好きであることを強調していた。
 和算で有名な関孝和の師匠は、実は、イエズス会の宣教師だった。こんな話が紹介されています。本当でしょうか。
 江戸初期に数学が盛んになった理由の一つとして、暦がおかしいということもあった。
 この改暦のとき、関孝和の一番弟子である建部賢弘は、太陽の動きは円運動であるとし、その直径(天径)を算出している。うむむ、これはすごーい・・・。
 江戸時代の数学家(算者または算勘者と呼ばれていた)の大切な仕事に測量があった。税金を取るためには、田んぼの広さを決める必要がある。そのためには測量が欠かせない。
 にっちもさっちもい(ゆ)かない、という言葉がある。これは漢字では二進も三進も行かないと書く。その意味は、二でも三でも割れないということ、つまり、どうしようもない状態を表している。
 江戸時代に10年間の複利計算もしていたそうです。すごいですよね。
 私は高校1年の終わりころ、数学の才能がないと悟って、理科系から文科系に乗りかえました。微分・積分については何とか分かったのですが、図形をつかった応用問題にまるで歯がたたなかったのです。
 今では、早いとこ文科系に移ってよかったと本心から思っています。やはり、人間、向かないものは向かないのですよね。

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2007年03月12日

きよのさんと歩く江戸六百里

著者:金森敦子、出版社:バジリコ
 山形の鶴岡に住む女性(きよの)が江戸・伊勢・奈良・京都見物の旅に出かけました。文化14年(1817年)のことです。31歳のきよのさんは、夫と2人の子どもを自宅に残し、同伴者の男性と荷物持ちの下僕と三人の旅です。
 夫も、その前に25歳のとき、長野・名古屋・伊勢・京都・四国・江戸・日光の124日間の旅をしています。だからでしょうか、妻の旅行には同行しませんでした。
 きよのさんは鶴岡の裕福な商家の家付き娘でしたから、この旅行に思う存分にお金をつかうことができました。普通は一日一朱というのが旅費の目安です。一両あれば16日間の旅が出来るという時代でした。
 江戸も後期になると、多くの女性が関所手形も持たずに旅立つのが普通になっていた。きよのさんは、108日間の旅の記録を残しました。それを解説つきで再現したのが、この本です。本当に昔から日本の女性って強かったんですよね。それがよく分かる旅の本です。
 江戸時代、宿場の飯盛女が売春することを禁じるお触れが何度も出されている。禁止しても守られなかったからこそ、何度も繰り返し禁令が出された。宿場の繁栄を飯盛女が担っているという現実があった。
 きよのさんたちには、彼女らは自分の身を売ることで家族を養っているのであって、賤しいことをしているという意識は少なかった。売春をやっきになって取り締まろうとしたのは為政者である。
 きよのが江戸で一番楽しみにしていたのは歌舞伎の見物だった。当時の芝居は明け方から日没まで上演していた。だから芝居茶屋を通して飲食し、用便もしていた。きよのさんたちは、5人で一両二朱もかけている。
 江戸では鶴岡藩の上屋敷の元締役所を訪れ、数々の御馳走を受けている。これは、きよのさんの商家が藩に多額の献金をしていたから。
 きよのさんは吉原に出かけて、遊女を見物している。また、江戸の呉服屋で、一七反もの買い物をし、さらに日本橋で本を一冊も購入した。俳諧と狂歌の本だ。
 きよのさんは現金をもち歩いたのではなく、前もって送金していた。
 江ノ島では210文もかけて、お昼に魚料理を食べた。
 伊勢参宮では、御師宅で豪華な食事の接待を受けた。一人一人に見事な鯛や伊勢海老が出て、お酒も飲み放題。伊勢見物には専用の案内人がついた。奈良でも京都でも、きよのさんは旅籠屋の主人に頼んで案内人(ガイド)つきで見物した。
 きよのさんは南禅寺門前の茶屋で名物の豆腐を食べ、お酒を飲んだ。これは私も経験しました。
 江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりではなかった。
 きよのさんはいたるところでお酒を飲み、五重塔のてっぺんまで勇ましく登っていった。誰もきよのさんを非難することはなかった。きよのさんが江戸の吉原を見物し、大坂新町で遊女をあげても奇異とは思われなかった。
 いやあ、実に自由奔放な旅行です。現代人にきよのさんを真似できる人がどれだけいるでしょうか・・・。

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2007年03月16日

江戸時代のロビンソン

著者:岩尾龍太郎、出版社:弦書房
 「ロビンソン・クルーソー」は有名ですが、実は私は全文を読み通したことがありません。なにしろ岩波文庫で上下800頁もあるというのです。しかし、そこには17世紀末の世界情勢がじつに色々と書きこまれているそうです。ヨーロッパでは、この手の航海記が昔から人気を集めていました。
 ところが、海国日本では数多くの漂流民をうんだ割には、海洋文学と言えるものはほとんどありません。現代日本社会では、冒険そのものに対する眼差しが冷ややかなのです。
 冒険心の抑圧、冒険物語の不在は、幕藩体制が固まった近世以降、きわだっている。
 しかし、そこは昔から記録好きの日本人です。漂流記録そのものは、判明しているだけでも300あります。眠っている古文書には少なくとも、その10倍はあるとみられています。
 1610年、徳川家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)につくらせた按針丸は太平洋を渡ってメキシコにたどり着いた。1613年、伊達政宗がつくらせた支倉六右衛門派遣船サン・ファン・バプティスタ号は太平洋を往復した。家光がつくらせ江戸にあった長さ62メートル、1000トン級の巨大軍船「安宅丸」は、1682年に解体された。そのころ徳川光圀が蝦夷探検用につくらせた「快風丸」も光圀の死後に放棄された。
 当時、海外の人々は、日本人を見て、ヒツポン、ひつほん、カツポン、じつぽん、じわぽん、ヤーパンなどと呼んでいた。
 船が漂流をはじめたとき、捌(は)ね荷、捨て荷をした。これは廻船の任務放棄だったので、そのとき、髻(もとどり)を切って海神にささげる。もはや、荷主や船主に対して責任を負える主体であることを止め、ざんばら髪の異形の者となって冥界をさまようのだ。
 和船には、構造的欠陥があったが、案外、沈まない強度も持っていた。
 日本人の漂流者は、生魚を食べるので、壊血病になるのは、欧米の漂流者よりも少なかった。
 徳川吉宗の治世のとき。静岡(新居)の船「大鹿丸」が九十九里浜沖で遭難した。無人島(鳥島)に12人が上陸し、食糧はアホウドリを主とし、魚を釣って生きのびた。20年後の1739年(元文4年)、そのうち3人が生き残って帰還し、吹上御所で将軍吉宗の上覧を仰いだ。
 さらに、その数十年後、土佐の長平が同じ鳥島で13年間、そのうち1年半は孤独な生活を過ごした。そこへ、大阪の肥前船が漂着し、11人がやって来た。この11人のうち9人が10年後に生還した。
 彼らは、漂着物を気長に待って、つぎはぎだらけの船をこつこつ造り上げた。木材を流木だけで調達した。鉄具は不足していた。製鉄のための風箱(ふいご)も自力でつくった。
 造船のノウハウを知っているものは少なかった。三尺の模船(ひながた)をつくり、これを皆で検討しながら、手探りで造船を続けた。すごいですね。
 南方の島に漂流していった孫太郎は、こう語った。
 世の中は、唐も倭も同じこと。外国の浦々も、衣類と顔の様子は変われども、変わらぬものは心なり。けだし、今日に通用する至言ですね。
 1813年から1815年にかけて、484日間、太平洋を漂流した記録があるそうです。船長(ふなおさ)日記です。
 もっと現代日本人に知られていい話だと思いました。

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2007年03月30日

徳川光圀

著者:鈴木暎一、出版社:吉川弘文館
 有名な「水戸黄門」の主人公の素顔を追求した本です。葵の印籠ですべてが解決するなんて、映画(ビデオ)のなかだったらいいのですが、現実にそんなものがあったら困りますよね。文句があっても、権力者の言いなりになれっていうことですからね。
 光圀は光国だったこと、少年時代はほとんど非行少年だったこと、隠居したあと側近を自ら手討ちした(殺した)ことなどを知りました。人生いろいろあるものなんですね。
 光圀は徳川家康の孫なんですね。知りませんでした。父の頼房は、家康の末子(11男)だったのです。父頼房も、壮年期になるまでは、豪気というより奔放・無軌道の一面があった。まだ戦国時代の風潮が残っていた。
 父頼房は光圀を世継ぎ(世子)と定め、気骨ある武人、武将に育てあげることに心を砕いた。しかし、光圀は勝ち気で強情な少年だった。馬術とともに水泳を得意とした。光圀は、17歳ころまで、父の期待を裏切ること甚だしい品行不良の少年だった。
 言語道断の歌舞伎人と評された。
 脇差しは前へ突出して差し、挨拶の仕方や殿中を歩く姿は軽薄・異様。着物はいろいろ伊達に染めさせ、びろうどのえりを巻き、長屋へ単身出かけて厩(うまや)番や草履取りとも気軽に色好みの話をし、三味線を弾いている。
 なーるほど、かなりの不良青年だったようですね。光圀が遊里から朝帰りするとき、酔っぱらいが刀をふりまわしているのにぶつかった。水戸家出入りの旗本の子だったので、一喝しておさめた。こんなエピソードも紹介されています。
 18歳になって、光圀はすっかり反省し、行状を改めました。それからは学問に精励したのです。
 光圀はなかなかの美男子で、もてたとのこと。色白にして面長、額ひろく切れ長の眼で鼻梁の高い美男だった。登城の日、その姿を見ようと大勢の人が押しかけ、人垣が崩れかかって騒動になったこともあるそうです。
 光圀はずっと江戸に住んでいた。36歳のときに初めて水戸へ下った。以後、10回、藩主として水戸に下っている。えーっ、そんなに少ないのですかー・・・。驚きました。
 光圀は生涯ほとんど旅行らしいものをしていない。水戸から鎌倉・江ノ島そして江戸へ17日間かけて旅行したのが、生涯唯一の旅らしい旅だった。要するに、「水戸黄門漫遊記」なるものは、まったく架空の話なのです。
 光圀はずっと光国でした。この圀という字は、唐の則天武后がつくった則天文字の一つです。ほかの字は廃されたのに、なぜか、この圀の字だけ日本に生き残ったのです。
 光国が光圀としたのは、56歳のときのこと。
 光圀は蝦夷地探検を試みた。苦しい藩財政に利益をもたらす目論見があったようだ。探検のため性能のよい大船(快風丸)を建造した。全長27間、幅9間。千石船をはるかにしのぐ規模の巨船だった。
 光圀67歳のとき、小石川の藩邸で能興行中に、腹心を手討ち(刺殺)した。かねがね、その高慢ぶりに注意を与えていたが、問答の末、もう堪忍なりがたく成敗した、というのです。やっぱり、殿様って怖いですね。
 光圀が大日本史の編纂にとりかかったのは30歳のとき。73歳で死んだときも、まだ完成はしていませんでした。歴史を書くというのは、すごく息の長い事業なんですね。
 

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2007年04月13日

遙かなる江戸への旅

著者:永井哲雄、出版社:みやざき文庫
 江戸時代、参勤交代は250年ものあいだ厳しく守られてきた。日向国にある四つの藩から江戸まで350里(1400キロ)を、毎年、200人以上の集団で、片道1ヶ月以上もかかる陸と海の旅を休むことなく往来した。
 この本は、その実情を当時の記録をもとに探っています。 寛永12年の武家諸法度以後、参勤交代は江戸到着日が決まっていたので、出立日は、それから逆算してきめられていた。飫肥藩は3月1日、佐土原藩も同じ。日向路は陸路、細島から船で大坂まで行き、大坂から大坂から東海道を陸路で江戸へ向かう。江戸に着くと、1年の在府。
 翌年の4月から5月に帰国の旅につく。真夏に辛い旅をする。国元には約10ヶ月しかおれない。
 役にある限り、生涯歩き続けるのが江戸時代の大名領下の役人である。幕末の飫肥藩の上士川崎一学は、55年間になんと14度の江戸御供をしている。人生の半分を旅に過ごしたことになる。
 参勤交代を守らないときには、大名改易の理由となった。
 大名が参勤交代の往返に耐えることができなくなったら、家督を譲る理由となる。
 大名の妻のうち、正室は幕府に認められた婚姻を結んだもの。夫がまだ家督をついでいないときには御新造様、当主になると御奥様、当主が隠居すると大御奥様、夫が死去すると院と呼ばれる。側室については、さまざまに呼ばれる。御部屋様、御召仕、奥御女中、御妾、奥御奉公人。
 正室と嫡男の江戸と国許の往来は厳しく禁ぜられているが、側室の方は往来自由となっていた。江戸藩邸は、上屋敷であれ、中屋敷、下屋敷であれ、藩主の私有物ではない。幕府からの貸与物である。いつ屋敷交替を命ぜられるも分からない。
 高鍋藩の場合、江戸藩邸詰の人数は、徒士(かち)以上は家老・用人・留守居各1人、者頭6人、給人・家嫡25人、中小姓24人、徒士52人、医師など3人、合計113人。このほかに足軽から小人(こもの)まで同数がいた。そのとき、国許には、徒士以上は  220人いた。
 つまり、藩主が江戸にいるときには、上、中家士のうち3分の1が江戸に詰め、残り3分の2が国許で城を守り、治世にあたっていた。
 高鍋藩の参勤交代の絵がある。1月前に先触れが通過する諸大名や幕府御料所に挨拶のため先行する。前日には、宿割りの一行が先行して、休憩・宿泊の準備をする。絵図に百数十人が描かれているが、実際には、これよりかなり多くなる。これが公高3万石前後の大名の供揃えである。大変な旅行だったんですね。

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2007年05月17日

真説・阿部一族

著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
 森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
 時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
 阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
 その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
 その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
 忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
 阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
 光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
 殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
 光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
 夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
 ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
 阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。

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2007年05月30日

天草島原の乱とその前後

著者:鶴田倉造、出版社:上天草市
 日本にキリスト教が伝えられたのは天文18年(1549年)、天草に伝えられたのは永禄9年(1566年)、さらに大矢野に伝えられたのは21年後の天正15年(1587年)のこと。すでに40年ほどたっており、早いほうではない。
 天草四郎は大矢野関係の人物であり、乱を企画し推進したとされる浪人たちも大矢野の千束(せんぞく)島に住んでいた。
 天草島原の乱の直接のきっかけは、口之津で信者が唱えごとをしていたときに、代官の林兵左衛門が御影を引き裂いたことにある。
 天草島原の乱に、小西・有馬・天草5人衆などの関係遺臣が多数いたのは紛れもない事実である。
 当時は数年にわたって天候異変が続いて連年の凶作だった。この異常気象は寛永9年ころから続いていた。寛永14年(1637年)にも異変が続いている。夏には干魃で、不作。5月に火の玉が天空を飛行、7月には江戸で激しい雷雨と地震、9月に高野山で火事、9月から10月にかけて連日、雲が真っ赤に焼けた。将軍家光は病気。人々は異常心理に陥った。
 このように地獄のような社会になったのは、先のキリシタン改めで自分たちが転んだために、天国の神様が怒っておられるせいだ。そのつぐないのためにキリシタンに復宗する必要がある。人々は浪人たちの策動に乗せられた。
 島原半島の各地では、主として領主の苛政に対する反抗が強かった。四郎を中心とする天草地方では、キリシタンの立場から、その救済のために立ち上がった。
 天草四郎の父は益田甚兵衛(ペイトロ)という長崎浪人で、乱の当時、宇土の江部村の庄屋次兵衛の脇屋に住んでいた。年齢は56歳。四郎の母は50歳で、マルタという。日本名は不明。四郎は長崎に生まれた。乱の当時、15歳か16歳。父も母も大矢野の出身で、親族も多かった。四郎が長崎で出生したのは、当時、長崎は各地で迫害にあったキリシタンたちの避難地になっていたからである。
 天草四郎と対面した久留米の商人がいる。その名を与四右衛門という。
 四郎のいでたちは、常の着物の上に白い袴をつけ、たっ付け袴をはき、頭には苧(からむし)を三つ組にして緒(お)をつけ、喉の下で結び、額には小さい十字「クルス」を立て、手には御幣をもっていた。
 幕府軍の一員として原城を攻めていた武士による天草四郎の姿は次のとおり。これは大坂から鉄炮奉行として松平信綱に従っていた鈴木重成が大坂へ送った書状にある。
 天草四郎は年齢15、6歳という。原城にいる者はあがめており、六条の門跡(もんぜき)よりも上という。下々の者は頭を上げて見ることもできないほど恐れている。
 籠城中の原城に対して、松平信綱は降伏をうながす矢文を送った。それに対して城内から次のような返事があった。
 城を出たら家や田畑をくれるというけれど、我々には広大無辺の楽土が約束されているので、そんなものは必要ない。まして、江戸や京都の栄華・悦楽は、かえって業障の障りになる。
 ともすれば恨み言の一つも並べたくなるような切迫した状況におかれながら、宗教の神髄を会得し達観していたと思われる矢文の返事である。
 ただし、原城内には、このようにキリシタンの作法に従って、すべてを許し喜んで死んでいこうとする者と、せめて領主の長門守に一矢を報いようとする者の両派があった。城内は、一枚岩ではなかった。城からの落人も、城内には3人の頭(かしら)がいて、争いが絶えないと証言した。
 天草四郎は総攻撃のあった2月27日の翌早朝に幕府軍に討ち取られた。四郎の首は「カネを入れた色白の綺麗な首」だったと書かれている。カネを入れるとは、鉄漿(おはぐろ)のことで、当時は、高貴の人は男もカネを入れていた。
 天草四郎の首は上使の実見の後、原城外に札をつけて晒(さら)され、のちにさらに四郎の生まれた長崎に移して1週間晒された。3月6日、四郎の母や姉らが処刑された。
 天草四郎の島原の乱について、上天草市が市史としてまとめた本です。島原の乱について、いろいろ勉強になりました。

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2007年06月08日

写楽

著者:中野三敏、出版社:中公新書
 ご存知、東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1795年)から7年にかけての、わずか10ヶ月ほどに百数十点の役者絵と数枚の相撲絵を残し、忽然と姿を消した。その写楽の正体を追求する本はたくさんありますが、著者は写楽が阿波藩士の斎藤十郎兵衛であることを立証します。
 なるほど、ここまではっきり断言されたら、そうだろうなと思わざるをえません。
 天保15年(1844年)の『浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也」とある。さらに、文化・文政期に成立した『江戸方角分』にも写楽が八丁堀地蔵橋住と書かれている。そして、八丁堀切絵図には、阿波藩能役者の斎藤与右衛門がいたことも判明した。そこで、与右衛門と十郎兵衛とが同一人物なのか、そしてその人物が浮世絵師であるのかが問題となる。
 「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」によると、斎藤家は代々、与右衛門と十郎兵衛とを交互に名乗ってきた家柄であることが分かる。つまり、親が与右衛門なら、子は十郎兵衛であり、孫は与右衛門となる。
 大名抱えの能役者の勤めは、当番と非番が半年か1年交代であり、謎の一つとされた写楽の10ヶ月だけの作画期間は、その非番期間を利用したものとみると納得できる。
 さらに、江戸時代に築地にあった法光寺が、今は埼玉県越谷に移転しており、そこの過去帳に寛政期の斎藤十郎兵衛の没年月日が発見された。そこには、「八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十郎兵衛、行年58歳」とある。
 「方角分」が写楽の実名を空欄にしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が、阿波藩お抱えの、たとえ「無足格」という軽輩とは言え、歴とした士分であったことによる。
 役者絵というものは士分の者の関わるべからざる領域であり、たとえ浮世絵師であろうとも、志ある者にとってはそれに関わることを潔しとしないというのが江戸の通年であった。10ヶ月も小屋に入りびたって、役者の生き写しの奇妙な絵を描いている写楽という絵師が、実は五人扶持切米金二枚取りの無足格士分で、阿波藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であることを知悉していたからこそ、あえて、その実名を記さなかった。
 十郎兵衛自身の口から、我こそは役者絵描きの写楽にて御座候ということは、口が裂けても言えることではなかった。公辺に知れたら、自身の身分を失うだけではすまず、ひいては自らの上役、もしかすると抱え主である藩主にまで、その累が及ぶやもしれない事態であった。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
 ここまで論証されると、写楽とは誰かというのは、今後は単なる暇(ひま)人お遊びにすぎないように思えますが、どうなんでしょうか・・・。

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2007年06月29日

天保暴れ奉行

著者:中村彰彦、出版社:実業之日本社
 天保の改革は老中であった水野忠邦が試みたものですが、途中で挫折しています。そのころ、水野忠邦に歯向かった江戸南町奉行がいたというのです。矢部定謙(さだのり)と言います。遠山金四郎と同じ頃の江戸町奉行です。
 長編時代小説ということですので、どこまでが史実なのか分かりませんが、小説としてもなかなか面白く、本のオビに「気骨の幕臣」がいたとありますが、なるほど、そうだなと本を読んで思いました。
 この本の面白いところの一つは、大人になって筋を通し抜いた定謙が、実は、子どものころは、父親からほとんどサジを投げられていた怠け者だったということです。堪え性のない気性だったのです。
 定謙は、小姓番組に加わって登城すると先輩たちから理不尽ないじめにあいます。江戸時代もいじめはかなりひどかったようです。自殺したり殺しあいがあったりしていました。
 新参者いじめに定謙は仕返しをし、番頭に報告して辞表をでしたしまうのです。たいした度胸です。
 ところが、定謙は、次に徒組(かちぐみ)に登用されました。徒組は、将軍の影武者となる役目を担っていた。徳川将軍は、平時も非常時も、徒組20組、計600人の影武者たちに守られて行動することになっていた。
 定謙は、火付盗賊改(あらため)を文政11年(1828年)から天保2年(1831年)まで、2年半つとめた。そして次に堺奉行となった。さらに、大坂西町奉行となり、そこで大塩平八郎を知った。このころ、大坂には、三郷借家請け負い人という制度があった。商売人が借金を返せなくなったとき、長屋住まいをしながら再出発するといシステムである。私は、このシステムについて前から知りたいと思っています。どなたか、専門に研究した本をお教えください。
 大塩平八郎と親密な交流をしたあと、定謙は江戸に戻り、勘定奉行に登用されます。見事なまでの出世です。役高3千石、役料として700俵、御役入用金として300両が支給される。朝は午前5時に出勤する。午前9時には御殿勘定所にいなければいけない。大変な激務のようです。
 このとき、大坂で大塩平八郎の乱が起きました。大塩平八郎に対する幕府の判決文に対して、定謙は水野忠邦に文句を言います。罪名を反逆とせず、大不敬の罪に処すべきだと提言したのです。怒った水野忠邦は、定謙を勘定奉行から罷免してしまいます。ところが、やがて水野忠邦は定謙を江戸南町奉行に任命するのです。人材不足からでした。
 しかし、水野忠邦の改革にタテつく定謙は、やはり罷免されてしまいます。そして、桑名藩に預けの身となり護送されるのです。そこで水野忠邦への抗議の意思表示として絶食をはじめ、49歳の若さで諫死してしまいました。
 定謙が「大岡裁き」のようなことをしたという話がいくつか出てきます。これはフィクションなのでしょうか・・・。

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2007年07月20日

薩摩スチューデント、西へ

著者:林 望、出版社:光文社
 あのリンボー先生による初めての長編時代小説です。「小説宝石」に2004年5月から2年にわたって連載されていました。
 明治維新の前夜、まだ海外渡航が禁止されていた時代、薩摩藩は、前途有為な若者たち15人を、ひそかにイギリス留学へ旅立たせた。藩としての秘密使節4人が同行した。
 外国への渡航は死罪にあたる国禁であったから、発覚したときには藩上層部の責任が問題になるのは必至である。しかし、海外との密貿易をすすめて財を得ていた薩摩藩は、巨額の資金とともに若者たちを送り出した。
 若者たちは、全員脱藩の扱い。出発するのもこっそり。長崎のグラヴァーが迎えの船を用意し、乗り込む。最年少の長沢はまだ13歳。次に15歳、そして19歳が2人いて、大半は20台前半の若者たちである。
 船中で英語を学び、船酔いに苦しみ、慣れない洋食に悪戦苦労していく様子が描かれていきます。文明開化を取り入れた先達の苦労が偲ばれます。
 この本で圧巻なのは、日本の若者たちがヨーロッパ文明に圧倒されながらも、気後れするだけでなく、すすんでその技術を身につけようとする様子です。好奇心旺盛な彼らは、ヨーロッパ文明をひとつひとつ自己のものにしていきます。それは、科学・技術だけでなく、商売の点でもそうですし、工場運営などについても大いに学んでいくのです。
 その2年前に薩摩藩はイギリス軍と鹿児島湾内で戦い、圧倒的な武力の差に惨敗し、町を焼き払われています。わずか2年後に敵国イギリスに若き俊英をひそかに送りこんだわけです。その大胆な発想の転換には驚かされます。
 イギリスで薩摩藩使節たちは最新式の武器を大量に購入しました。今のお金で22億円相当というのですから、なんともすごいものです。小銃2300挺などです。
 かつての日本の若者の意気の高さを、現代日本に生きる我々は見習いたいものだと思いました。
 雨の多い梅雨でした。蝉の鳴き声をずっと聞くことができませんでした。朝、雨が降っていないのに蝉が鳴かない日は、やがて雨が降るということです。どうやって蝉は地上の天気を知るのでしょうか。このままずっと雨が降り続いたら、地中の蝉は来年の夏を待つことになるのか、心配していました。朝から元気よく鳴き蝉の声を聞くと、うるさくもありますが、やっと夏が来たという実感に浸ることができます。

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江戸の躾と子育て

著者:中江克己、出版社:祥伝社新書
 江戸の親たちは、子育てに熱心だった。その証拠に、じつに多くの育児書や教育書が出版され、さまざまなことが述べられている。
 赤ん坊が笑い、話すような仕草をするときは、乳人(めのと)やまわりにいる人がその都度、赤ん坊に話しかけるようにすれば、赤ん坊もよく笑い、その人の真似をして話すような仕草をするものだ。このようにすれば、言葉を話しはじめるのが早いし、人見知りをせず、脳膜炎などの病気になることもない。
 これには私もまったく同感です。子どもたちが赤ん坊のころ、私もせっせと話しかけたものです。おかげで、表情が豊かになったと私は考えています。
 江戸時代の子どもたちは、たいそう本好きで、子ども向けの本も数多く出版された。部数はよく分からないが、当時の日本は出版王国といってよいほどで、江戸時代に6万点から7万点の本が出版された。
 文化年間(1804〜1817)のころ、京都に200軒、江戸に150軒の出版元がいた。その多くは、出版と卸・小売を兼業していた。当時は1000部も売れるとベストセラーだった。それだけ読書人口が多かった。庶民の識字率が高く、知的好奇心も強かったことによる。
 子ども向けの本は赤本と呼ばれた。表紙が赤色だったからで、中身は挿絵と短い文章を添えた絵本だった。値段は安く、宝暦年間(1715〜63)で5文(125円)、享和年間(1801〜03)には10文(250円)した。当時、屋台のかけそばは一杯16文   (400円)だから、はるかに安い。
 識字率は、江戸市中では男女ともに70〜80%、武士階級は100%。幕末期の江戸には1500の寺子屋があった。享保6年(1721)には、800人の師匠がいた。生徒が200人いたら、師匠は俸禄20石の下級武士並みに生活できた。教科書は「往来物」と呼ばれ、7000種類もあった。うち1000種は女子用である。
 農民の子どもたちは、「農業往来」「百姓往来」「田舎往来」によって農業を学んだ。
 漁村用には「浜辺小児教種」船匠用には「船由来記」があった。
 すごいですよね。江戸時代の人々って、現代日本人とあまり変わらないっていう気がしますよね。ところで、いわゆる大検(大学入学のための検定試験)がなくなったそうですね。私の知人の塾教師から教えてもらいました。これまでは大検受験のために勉強している高校を中退した若者などを相手に教えていたのが、大検がなくなったので、その分野の生徒が来なくなって困っているということでした。高校卒業の認定で足りるようになったけれど、予備校が高校認定を受け、レポート提出で足りるという運用をしている、とのことでした。本当にそんなんでいいのかな、と不安に思ってしまいました。
 いま、我が家の庭に咲いているのは、黄色いカンナ、モヤモヤとしたピンクの合歓(ねむ)の木、ヒマワリ、淡いピンク色と白のエンゼルストランペット、そして、淡紅色のサルスベリです。台風で少し倒れたせいもあって、キウイの雌の木を大きくカットしました。その足元にひ弱なキウイの雄の木があります。雄の木はこれで5代目です。今度こそ大きくなってほしいのですが・・・。

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2007年07月30日

逝きし世の面影

著者:渡辺京二、出版社:平凡社ライブラリー
 文庫本で600頁の本です。東京からの帰りの飛行機のなかで一心に読みふけりました。なんだか、久しぶりに懐かしい人々に出会ったような、心温まる至福のひとときを過ごすことができました。
 江戸末期から明治にかけての日本人が、おおらかに毎日を楽しく幸せな日々を過ごしていたことを、何人もの海外からの観察者が異口同音に記録しているのです。ホント、うれしくなります。いえ、それは決して都市上層の裕福な町民の生活のことでは決してありません。むしろ、その大半は社会の底辺に住む人々の生活の描写なのです。
 日本人は落ち着いた色の衣服を好む。あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで、模様は多様だ。女は適当に大目に見られており、その特権を生かして、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。原色のままのものは一つもなく、すべて二色か三色の混和色の、和やかな柔らかい色調である。むしろ、裏に豪勢なものを着こなす。
 日本人の健康と満足は、男女と子どもの顔に書いてある(ティリー。イギリス人)。
 日本人はいろいろの欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる(オールコック)。
 どう見ても、彼らは健康で幸福な民族であり、人々は幸せで満足している(プロシャ使節団)。
 誰の顔にも陽気な生活の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れている。何か目新しく素敵な眺めにあうか、物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めているとき以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている(ヘンリー・S・パーマー。イギリス人)。
 この民族は笑い上戸で、心の底まで陽気である。日本人ほど愉快になりやすい人種は、ほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして、子どものように、笑いはじめたとなると、理由もなく笑い続ける(ボーボワル)。
 日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人には生まれつきそういう気質がある(オイレンブルク使節団)。
 無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意思がある(ブラック)。
 江戸庶民の特徴は、社交好きの本能、上機嫌な素質、当意即妙の才である。庶民の著しい特徴は、陽気であること、気質がさっぱりしていて物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫であること(アンベール)。
 人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがいい(ハリス。アメリカ人)。
 日本の下層階級は、おそろしく見たがり屋、聞きたがり屋だ(ジェフソン・エルマースト)。
 どうでしょうか。現代日本の社会に残念ながら失われてしまった雰囲気ではありませんか。人々が今よりもっとおおらかに毎日を暮らしていた、そういうことですよね。
 家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使いにとっては美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならない。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。
 日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒するとき、女中もその仲間入りして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。
 今どき召使いと言われてもあまりピンときませんが、会社員と置きかえたら、これって今も通用しているものでしょうか。私には、かなり疑問に思えます・・・。
 離婚は、日本では異常な高率を示しているが、これは女性の自由度を示すものである。離婚歴は女性にとって何ら再婚の障害にはならなかった。その家がいやなら、いつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
 日本の女性は外国人に対して物おじしない。夫人の洋服を着たがり、自分の洋服姿に大満足だった。
 江戸時代の女性は、たとえ武家であっても飲酒喫煙は自由だった。たてまえは男に隷従するというものであっても、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であった。
 日本人の性格の注目すべき特徴は、もっとも下層の階級にいたるまで、万人が生まれつき花を愛し、2、3の気に入った植物を育てるのに、気晴らしと純粋なよろこびの源泉を見いだしていることだ。
 私の法律事務所では、幸いにして笑いが絶えません。深刻な相談に乗っているときなどには、笑い声が聞こえてくると場違いな雰囲気になって、相談者に申し訳なく思うことがあります。それでも、私にとってはストレス発散になって、ノイローゼから免れることができる利点があります。
 
 

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2007年08月10日

銀漠の賦

著者:葉室 麟、出版社:文藝春秋
 第14回の松本清張賞を受賞した作品です。なるほど、なかなかよくできていると感心しました。
 江戸時代の藩内の政治が語られます。百姓一揆もあります。藩主交代による政争があります。いかに英邁な藩主であっても、その子どもが成長すると、安穏ではいられません。息子を藩主として擁立し、父親を早く隠退させようとする勢力が出てきます。
 藩の経済状況の改善も重要な課題です。新田開発、そして、商人の活用が重要な施策となります。しかし、それは商人との癒着を生み、賄賂政治につながります。田沼政治は悪政だったのか、その次の定信の寛政の改革は善政だったのか、難しいところです。
 この本は小説なので、アラスジを紹介するのは遠慮しておきます。印象的にいうと、山田洋次監督の最近のサムライ映画・三部作の原作である藤沢周平の小説をもう少し明るくして、青春時代小説「藩校早春賦」(宮本昌孝、集英社)のイメージをつけ加えた感じです。
 暮雲収盡 溢清寒
 銀漠無声 転玉盤
 此生此夜 不長好
 明月明年 何処看
 日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、銀河には玉の盆のような明月が音もなくのぼる。この楽しい人生、この楽しい夜も永遠に続くわけではない。この明月を、明年はどこで眺めることだろう。
 著者は北九州に生まれ、西南学院大学を卒業して地方紙記者などを経て作家としてデビューしたとのことです。なかなかの筆力だと感心しました。
 ただ、松本清張賞というより直木賞ではないのかと、素人ながら私は疑問に思いました。

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中世しぐれ草子

著者:高橋昌男、出版社:日本経済新聞出版社
 江戸時代には、「南総里見八犬伝」などのようなスケールの大きい小説があります。この本で紹介されるのは、徳川九代将軍家重から次の家治のころ、寛延・宝暦(1748〜1764)に上方で読本(よみほん)なるものが流行し、やがて江戸の空想好きの読書人の心をとらえた。
 本書は、その一つ、「恋時雨稚児絵姿」(こひしぐれちごのえすがた)を現代語に翻案したもの。それが、なかなかに面白いのです。
 ときは鎌倉末期。ところは京都市内外。老獪な堂上公卿や血気の公達が、大覚寺統と持明院統の二派に分かれて策をめぐらし、刃を交える。
 正親町(おおぎまち)侍従権大納言公継(きんつぐ)卿には、右近衛将監(しょうげん)公幸(きんさち)という19歳の息子と、しぐれと呼ぶ姫君があった。
 しぐれが内侍司(ないしのつかさ)の一員として松尾帝のお傍近くに仕えて、主上の眼にとまったとしても、父の公継卿が従三位の権大納言と身分が低いから、源氏物語の桐壺と同様、中宮はおろか、女御より下位の更衣どまりで終わるだろう。そうは言っても、しぐれの局の美貌は、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)のあいだでは評判の種だった。このしぐれをめぐって大活劇が展開していきます。
 私は、この本は、本当に江戸時代の読本の現代語訳なのか、ついつい疑いながら読みすすめていきました。それほど、策略あり、戦闘場面あり、そして恋人同士の葛藤ありで、波乱万丈の物語なのです。すごいぞ、すごいぞと思いながら、ときのたつのも忘れるほど車中で読みふけってしまいました。
 江戸時代の人の想像力って、たいしたものですよ、まったく・・・。
(2007年6月刊。1890円)

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2007年08月17日

幕末下級武士の絵日記

著者:大岡敏昭、出版社:相模書房
 私も小学生のころ、夏休みに絵日記をつけていたことがあります。ところが、変化のない毎日ですので、何も書くことがなく、苦労した覚えがあります。そして、残念なことに絵も上手ではありませんでした。いえ、下手ではなかったのです。絵をかくのは好きなほうでした。ただ、自分には絵の才能がないということは子ども心に分かっていました。この本は、江戸時代末期に下級武士が自分の毎日の生活を絵と言葉でかいていたというものです。すごいですね。江戸時代についての本は、私もかなり読みましたが、武士が絵日記をつけていたというのは初めてでした。行灯(あんどん)の絵もかいていたというのですから、もちろん絵が下手なわけはありません。劇画タッチではありませんが、当時の下級武士の日常生活が絵によってイメージ豊かに伝わってきます。とても貴重な本だと思いました。
 ところは、現在の埼玉県行田市です。松平氏所領の忍(おし)藩10万石の城下町に住む10人扶持の下級武士、尾崎石城がかいた絵日記です。
 石城は御馬廻役で100石の中級武士だったところ、安政4年、29歳のとき、藩当局に上書して藩政を論じたため蟄居(ちっきょ)を申し渡され、わずか10人扶持の下級身分に下げられてしまいました。ときは幕末、水戸浪士が活動しているころで、尊皇攘夷に関わる意見書だったようです。
 石城の絵日記をみると、毎日、実にたくさんの友人と会って話をしていることが分かる。平均で5〜6人、多い日には8〜9人にもなる。当時は、それだけ人と会うのが密接だった。家にじっと閉じこもっていたわけではなかったのです。
 石城は書物を幅広く読んでおり、自宅には立派な書斎をかまえていた。貸し書物屋が風呂敷に包んだ本を背負って、各家を訪ねていた。石城が読んでいた408冊も日記に登場する。万葉考、古今集、平家物語、徒然草、史記、詩経、五経と文選、礼記、文公家礼などの中国古典もあり、庭つくりの書まであった。
 床の間の前で、寝そべりながら、友人たちと一緒に思い思いの書物を読んでいる姿も描かれています。のんびりした生活だったようです。
 酒宴がよく開かれていたようです。しかも、そこには中下級の武士たちだけではなく、寺の和尚と町人たちも大勢参加しているのです。身分の違いがなかったようです。仲間がたくさん集まって福引きしたり、占いをして見料(3800円)をもらったり、ええっ、そんなことまでしてたのー・・・。と驚いてしまいました。
 酒宴をするときには、知りあいの料亭の女将も加わって踊りを披露したり、大にぎわいのようです。そのなごやかな様子が絵に再現されています。
 茶店は畳に座るもので、時代劇映画に出てくるようなテーブルと椅子というのはありません。
 石城が自宅謹慎(閉戸、へいと)を命ぜられると、友人たちが大勢、そのお見舞いにやってきたとのこと。なんだかイメージが違いますね。友人がお酒1升と目ざしをもってきたので、みんなでお酒を飲んだというのです。
 石城は明治維新になって、藩校の教頭に任ぜられています。独身下級武士の過ごしていた、のんびりした生活がよく伝わってくる絵日記でした。

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2007年08月23日

江戸城、大奥の秘密

著者:安藤優一郎、出版社:文藝春秋
 大奥は、将軍の正室(御台所)、側室、将軍の子女、そして勤務する女性たち(奥女中)の生活の場である。もちろん、将軍の寝所もある。その面積は6318坪もあり、本丸御殿の半分以上を占める。表向(おもてむき)、中奥(なかおく。将軍が日常生活を送る空間で、居間)をあわせても4688坪に過ぎない。
 大奥というと、男子禁制の空間というイメージが強い。もちろん、将軍は例外だが、実は将軍以外の男性の役人も常時詰めていた。大奥内部は御殿向(ごてんむき)、長局向、広敷向の三つに分けられる。広敷向には、大奥の事務を処理したり、警護の任にあたる広敷役人が詰めていた。大奥といっても、この空間だけは男子禁制ではなかった。長局向と広敷向の境は七ツ口と呼ばれ、大奥に食料品など生活物資を納入する商人が出入りしていた。奥女中も出てきて、くしやかんざし、化粧品などの小間物(生活用品)を注文する。五菜(ごさい)と称する、奥女中に代わって城外での用件を果たす男性使用人(町人)も七ツ口までは出入りしていた。
 奥女中とは、いわば幕府の女性官僚である。下働きの女性をふくめると1000人をこす女性が働いていた。上級の奥女中の収入は500石クラスの中級旗本なみ、年収   1000万円。しかし、つけ届けがあるため、その実収入は相当なものだった。奥女中の蓄財は、1000両は普通で、7000両ということもあった。これは数億円レベル。幕臣に支給される米のうち、最上等の米は奥女中に支給され、それよりも質の下がる米は、権勢のある幕府役人に、何の権勢もない者には最下等の米を渡すのが慣例だった。
 さらに、奥女中のうち年寄と表使(おもてつかい)には、別に町屋敷が与えられた。その土地からあがる収入を自身の手当に充てることが許されていた。年寄の場合、200坪前後の地所を拝領し、労せずして年に8〜9両の地代収入があった。
 また、30年以上、大奥でつとめた者には、サラリーである切米と衣装代である合力金のうち多い方、さらに扶養手当の扶持米も、一生支給する規定が設けられていた。年金のようなものである。
 中臈(ちゅうろう)に与えられていた合力金は40両。しかし、この金額では足りず、実家に無心する女性が多かった。衣類代がかさんでいた。奥女中たちは、衣類をも古着屋に出す。江戸には、古着を扱う商人がなんと3000人ほどもいた。
 将軍の身の回りの世話をするのは、御小姓と御小納戸である。御側御用取次(おそばごようとりつぎ)のような政治職ではないが、ふだんから将軍の身近にいるため、隠然たる実力をもつことがある。
 小姓のほうが小納戸よりも格式は高かったが、その威を誇っていたのは、むしろ小納戸のほうだ。小姓は将軍の身辺を警護する役だが、小納戸は理髪や膳方など、将軍の衣食住の世話を直接する役である。小納戸のほうが、将軍にとっては、より身近な存在だったからだろう。小納戸の頭取職ともなると、将軍の御手許金を管理したり、あるいは将軍が鷹狩りなどで城外に出るときには、その現場責任者をつとめた。御側御用取次よりも格式は低かったが、中野石翁のように、将軍家斉の信任を受け、諸大名に恐れられるほどの実力を誇る者もいた。
 大奥と側近衆は、お互いに利用しあいながら、幕政への発言権を強めていった。
 大奥の経費は年間20万両と言われていた。大奥の経費とは、あくまでも将軍の生活費である。松平定信の寛政の改革は、この大奥経費を3分の1に減らした。だから大奥が反発したことは容易に想像できる。当然の成り行きとして、大奥は定信の前に抵抗勢力として立ちふさがった。改革は挫折に追いこまれた。
 家斉将軍のころ、ある大奥女中は次のように語った。
 自分たち奥女中が、どんなに贅沢な生活を送りたくても、先立つものがなければかなわないこと。しかし、それが可能なのは、幕府役人が頼みもしない賄賂を次から次へと大奥に贈ってくるから。大奥の贅沢な暮らしを止めるためには、幕府役人の賄賂を止めない限り、効果はない。
 なーるほど、ですね。大奥の権力の源泉と、その生活の実情の一端をうかがい知ることができました。
(2007年6月刊。690円)

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2007年09月28日

江戸の転勤族

著者:高橋章則、出版社:平凡社
 タイトルと本の内容とのギャップが大きすぎます。むしろ、サブタイトルの「代官所手代の世界」がぴったりですし、さらにはオビにある「手代たちは狂歌がお好き」がもっと内容をあらわしています。
 江戸幕府の直轄地である天領を治める実務家である代官所手代は全国各地を転勤していたというのです。そして、彼らの多くは狂歌をたしなむ文化人でもありました。代官所手代は江戸時代の文化を担っていた人たちでもあったのです。
 代官手代とひとくくりにされている代官所の主要な構成員である「手附」(てつき)と「手代」(てだい)のうち、手附は、武士身分を有しており、代官同様に全国を転勤する転勤族であった。
 手附が幕臣であるのに対して、手代は農民・町人のなかから事務に習熟した者が縁故によって採用された。民間人が見習いの書役として出仕し、昇格して手代となり、なかには手附と同様に上位管理職である元締めとなった。そして、さらには武士身分を獲得し、手附となり、代官になった例すらある。
 飛騨高山には「高山陣屋」が再現されています。私も一度だけ行ったことがあります。
 この高山陣屋の主は、郡代とも呼ばれ、全国の10数%を占めた天領の行政・裁判の執行者である代官の最高位を占めたエリートだった。石高でみると、普通の代官領が5万石程度であるのに、郡代領は、その倍の10万石ほどであった。郡代は、関東・美濃・九州・飛騨の要衝地4ヶ所におかれていた。
 漬け物に あらねど人の 孝行は 親を重しと するが肝心
 老いらくの 身には針より 按摩より 気をもまぬこそ 薬なりけり
 なかなかよく出来た狂歌だと思います。
 お寺の扁額に狂歌作者たちの画像が描かれているものが紹介されています。ちょうど、公民館に歴代館長の写真を飾るような感じでしょうか・・・。
 江戸時代には役者から学者に至るまで、さまざまな人品をめぐる番付表が作成されていて、それぞれの世界における秩序・序列が可視的にまとめられていた。狂歌の世界でも多くの番付表がつくられた。ということは全国の狂歌作者が相互に知りあっていたということを意味する。
 ふーん。そうなんですね。江戸時代って、タコツボのような閉鎖社会ではなかったということですね。
(2007年7月刊。2600円+税)

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新潟 樽きぬた

著者:火坂雅志、出版社:小学館
 江戸時代に、小さいながらもパリ・コミューンみたいなことが起きていたなんて、ちっとも知りませんでした。
 長岡藩は、固定資産税である地子(ぢし)のほか、新潟湊(みなと)に出入りする船の積み荷の取引にかかる仲金(すあいきん)を取り立ててきた。そのうえ、臨時税として1500両もの御用金として新潟町に課した。新潟町の町政を取り仕切る検断は、昔から定員3人で、長岡藩が指名した。このときは1人欠けて2人の検断となっていた。室屋と加賀屋である。いずれも新潟で一、二を争う廻船問屋である。
 廻船問屋は新潟湊へ出入りする船から荷を買いつけ、売りさばく権利を一手に握っている。そのうえ、千石船、五百石船を何艘も所持し、大坂と蝦夷地の松前を結ぶ西廻り航路であきないをおこない、莫大な利益を得ていた。この豊富な資金力を元手に、田畑や山林を買って大地主となり、さらに経済力をつけていった。
 検断や町老人以下の町役人には、御用金の免除という特権も与えられていた。
 ときは明和5年(1768年)。天候が不順だった。雨の日が続いて、河川が氾濫して洪水が起きた。7月には台風に襲われ、イナゴの大発生によって田畑は壊滅的な打撃を受けた。米の不作は深刻となり米価は天井知らずに暴騰していった。
 そこで、長岡藩に対して、御用金の残る半分750両の先延ばしを嘆願することになった。ところが、裏切り者が出て、町会所(まちがいしょ)に洩れてしまった。
 検断は謀議の首謀者を町会所に呼び出し、入牢を申しつけた。
 それに町民が怒り、暴動を起こした。検断や町役人、米問屋などが次々に打ちこわされていく。ついに、町奉行は、これ以上の一揆の広がりを恐れて首謀者を釈放した。新潟町の打ちこわしは、9月26日、27日の2日間で終わった。2日で24軒が襲撃された。
 そして、町民自治が始まった。交代で町を警戒し、困窮した町民を救済した。買い占めていた米問屋に米を供出させ、米価を引き下げた。豆腐も酒も、日常用品を強制的に値下げさせた。質屋の利息を月2分に下げ、臨時に5軒の質屋を新設して、誰もが借金できるようにした。
 これより町中公事(くじ)、沙汰、また金銀の出入りごと、何ごとも、涌井藤四郎の取り計らいにてすまずということなし。
 町会所の町役人が失脚し、代わって選ばれた町中惣代となった藤四郎が町民の話しあいをもとに町政を取り仕切った。まさしく前代未聞の次第である。
 わずか二ヶ月とはいえ、この状態が続いたのです。しかし、ようやく態勢を立て直した長岡藩は、涌井藤四郎ともう一人を騒動の責任者として市中引き廻しのうえ打首獄門としました。
 涌井大明神として、今も人々に敬われているというのです。すごーい、ですよね。
(2007年9月刊。1400円+税)

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2007年11月02日

露の玉垣

著者:乙川優三郎、出版社:新潮社
 登場人物はすべて実存するという歴史小説です。窮乏にあえぐ越後の新発田藩。その家老たち一族の物語が史実をふまえて生き生きと語られます。
 話は天明6年(1786年)に始まります。家老の溝口半兵衛はまだ31歳の若さ。記録方で歴代藩主の廟紀(びょうき)を編纂(へんさん)していた。
 新発田藩は慶長3年に藩祖溝口秀勝が入封して始まった。5万石から、新田開発を続けて、実高は9万石をこえた。広大な平地と水に恵まれながら、潟や湿地が多く、米のほかにこれといった特産物がなく、ひとたび川が氾濫すると、水泡に帰してしまう。
 溝口家の祖は藩祖秀勝の弟である半左衛門勝吉にはじまり、以来、賓客として徒食を強いられてきた。家中に溝口を名乗る家はいくらかあるものの、先祖が家臣となったのちに溝口姓を賜ったものが多く、代々、半左衛門か半兵衛を名乗ってきた彼の家とは主家とのつながり方が違った。家老の溝口内匠(たくみ)の実氏は加藤であったし、武頭(ものがしら)で普請奉行の溝口数馬の先祖は坂井といった。どちらも元は織田家の家臣で、信長の死後、溝口に仕えた。彼らが高禄を食んで重く用いられてきたのに対し、半兵衛の父祖は賓客としての名誉を与えられたかわりに、およそ藩政や重要な役目に関わることはなかった。そのため、知行が増えることも減ることもほとんどなかった。
 家中の祖には織田をはじめ、逸見、斎藤、浅井、朝倉、柴田、蒲生、加藤といった家々の遺臣が多い。加えて松平や上杉、酒井や細川などから任官替えした家臣たちの子孫が城の周りに軒を並べている。もし一斉にかつての旗印を掲げたら、まるで乱世の縮図のようではないか。
 ひゃあ、そうだったんですね。江戸時代の藩士というのは、いろんな地方の元浪人を抱えこんで成り立っていたのですね。おどろきました。
 家老が博奕(ばくえき。バクチです)を好み、博打仲間が切腹させられ、本人は隠居させられるという事件も起きました。
 学問せぬものは、目なき擂鉢(すりばち)といって、人のためにも自分のためにもならん。当人はそのことにも気付かずに未熟な自分ひとりの考えを正しいと信じて一生を終えてしまうものだ。なーるほど、ですね。
 信長の死後、羽柴秀吉が明智光秀を討ち果たし、やがて天下取りをかけて柴田勝家と対立したとき、高浜城主となっていた溝口秀勝は羽柴方の丹羽長秀の武将として参戦したが、同時に柴田方へ家臣の柿本蔵人を、念には念を入れて羽柴方へ姉婿の加藤清重を送っている。やはり信長の遺臣で、勝吉とともに柴田に属した溝口久助こと丹羽久助秀友は清重の娘婿であったから、兄と弟、義父と婿、主君と家臣がそれぞれ敵味方に分かれて戦った。 藩主のお国入りの準備役が、本陣として予定していた町で大火が起きて予定が狂い、ほかにもいろいろ変更があって乱心し、同役を斬り殺してしまった。もちろん、切腹。やはり、すまじきものは宮仕え、なのですね。
 連年の災害と借上げ、終わりのない生活の苦しさも、そこへ巡ってきた馴れな役目と対象的な相役、予期しない日程の変更、津川の大火、そういうものが重なりあって悪く働いた結果の乱心ではないか。運の悪さは夫の罪ではない。乱心は御宿割の役目を果たしたあとのこと、重責やそこに至るまでの苦悩を斟酌しないのはおかしい。彼の妻はこのように言い募った。
 江戸の人々の生活と心理状態が見事に描かれた本です。さすがは実録歴史小説だと感嘆しました。私も一度はこういうものを書きたいと考えています(目下、挑戦中なのです)。
(2007年6月刊。1500円+税)

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2007年11月09日

銀しゃり

著者:山本一力、出版社:小学館
 いやあ、うまいですね。何が、ですって?そりゃあ決まっています。本のつくりといい、出てくる鮨の美味しそうなことと言ったら、ありゃしませんよ。思わず、ごくんとつばを飲みこんでしまいそうです。
 ときは、江戸も寛政2年(1790年)。木場で働く川並(いかだ乗り)や木挽き職人相手の飯屋で働く職人の話。
 手早く米を洗い、米は1升五合に加減した。水は心持ち多目にした。重たい木のふたから出る湯気は勢いがよかった。シュウッと力強く噴き出した湯気が、炊き上がりの上首尾を請合っているようだった。鮨飯には、シャキッと硬い飯の腰が命だ。
 21歳の新吉は、もっとも江戸で手間賃が高いと言われる、腕利きの大工と肩を並べる給金をもらっていた。最初の給金が24両。月にならせば2両である。天明4年(1784年)は、飛びきり腕のよい大工の手間賃が出づら(日当)700文だった。月に20日、働いたとして、大工の手間賃が14貫文。金に直せば2両3分だ。
 炊き口で火勢を見ている新吉は、薪を動かして炎を強くした。重たい木ぶたの隙間から湯気が立ち始めれば、火をさらに強くするのがコツである。
 煙を出していた薪から、大きな炎が立った。へっついの火が、さらに勢いを増した。炎につられたかのように、湯気が噴き出し始めた。
 木ぶたのわきに手を置くと熱い。すぐさま炊き口の前にしゃがむと、まだ燃え盛っている薪を取り出した。三本の薪を取り除いたところで、湯気の勢いが弱くなった。飯が炊き上がりつつある。思いっきり細めた火が燃え尽きたところで、へっついから釜をおろす。そして、しっかり木ぶたを閉じた。ここからゆっくり三百を数え終われば、飯が一番うまく蒸し上がる。
 うまいものですね、この描写。本当に飯がうまく熱々に炊き上がる情景が眼前に浮かんできます。子どものころ、キャンプ場で飯ごう炊飯しました。夏休みに兄と田舎のおじさん家に行くと、炊事場にはへっついや釜がありました。なつかしく思い出します。
 湯気が消えて、釜のなかの飯が見えた。ひと粒ひと粒、きれいに立っている。一合の酢に40匁の砂糖をつかう。
 炊き上がった賄いメシを口に含んだとき、新吉は心底から驚いた。米粒が艶々と光っていたし、米には旨味が加わっていた。旨味はコンブのものだけではなかった。井戸水の塩気を巧みに残し、その味にコンブの旨味を乗せていた。
 こいつあ、てえした按配だ。
 私と同年生まれの著者の筆力には、いつもほとほと感嘆させられます。
(2007年6月刊。1600円+税)

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2008年01月11日

侍の翼

著者:好村兼一、出版社:文藝春秋
 いやあ、たいしたものです。まいりました。フランスのパリに長く住む剣道の達人である日本人が、江戸時代の侍の生きざまを見事に描き出したのです。剣道8段の腕前です。なんと私と同世代。大学生のときに剣道の指導員としてフランスに渡り、それ以来、フランスで剣道の指導をしているというのです。これまで、『日本刀と日本人』などの本があるようですが、この小説によって作家としてデビューしたというわけです。その勇気と努力に対して心から拍手を送ります。私も遅ればせながら作家を目ざしていますが、道はるかなり、というところです。まあ、それでもあきらめずにがんばります。ぜひ応援してやってください。
 大阪城の陣に参戦し、やがて天草の乱に出動します。そこで、我が子が戦死してしまいます。そのうえ、藩主が自害して、武士を失業。行くあてもなく、江戸に出て、侍の誇りを失わないようにしながらも人夫として働きに出ます。
 妻は労咳、今の結核にかかって、病の床にふせっています。死に至る病いです。夫に心配をかけないように表面をとりつくろった無理がたたったのか、早々と亡くなり、主人公は自暴自棄の心境となります。そこへ由比正雪と知りあい、その謀反の手伝いをさせられようとします。一夜、悶々とした主人公はある決断をします。
 子を失い、妻を亡くした主人公は天涯孤独の身となり、生きる意義を見失ってしまいました。あとは、いかに死ぬるかだけを考えて過ごします。
 天雷无妄(てんらいむぼう)という言葉を私は初めて知りました。无妄とは、妄(みだ)り无(な)し、つまり偽りも迷いもない、ありのままの状態をいう。天の運行は晴曇風雨と、さまざまな象となって現れ、そこになんら天の作為はないのに、地上の我々はえてして慌てふためき、作為をもってそれに反応してしまう。ありのままの天に対して作為はいらない。ありのままに応ずるだけだろう。
 自然の摂理に従う限りは、天に背くことはない。その先に待っているのは、きっと平安であろう。著者の言葉です。味わい深いものがあります。
 この本は12月31日に読み終わったものです。私の読書ノートによると、昨年1年間で読んだ単行本は556冊でした。これからも、いい本にめぐりあうために私はせっせと乱読を続けます。速読の秘訣を尋ねられました。私の答えは、ともかく本を読むことです。好奇心をもって本を読めば、どんどん速く読めるようになるものです。
(2007年11月刊。1667円+税)

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2008年01月30日

田沼意次

著者:藤田 覚、出版社:ミネルヴァ書房
 田沼意次の父の意行(おきゆき)は、紀伊藩の徳川吉宗に仕えていた。吉宗が将軍になったため江戸へ出て、幕臣となり旗本になった。いわば吉宗子飼いの家来であった。意次は意行の長男として、吉宗の長男である家重の小姓になった。蔵米300俵をもらった。父意行の知行600石を受け継いだ意次は23年に1万石の大名に出世した。600石の旗本が1万石という大名になるのは異例の大出世である。
 田沼意次は、徳川家重の小姓から御用取次、ついで徳川家治の御用取次を経て側用人、さらに老中格からから老中に昇進したが、なお側用人の職務をそのままつとめた。老中と側用人とを兼任したこと。これこそ、意次がまれにみる権勢を手に入れた理由であった。
 1684年、当時の大老堀田正俊が江戸城で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺された。この事件をきっかけに、将軍の身の安全から、老中以下の諸役人と将軍とが直接に接する機会を制限した。その結果、将軍と諸役人との間に、側用人や側衆を介在させる仕組みになり、老中といえども、側衆や側用人を仲介しないと将軍に会えなくなった。その結果、側用人など奥づとめの役人たちの役割が大きくなっていった。
 側用人は、将軍に近侍して政務の相談にあずかるとともに、将軍の命令を老中に伝達し、老中の上申を将軍に伝えるという、将軍と老中との間を取り次ぐのが主な職務である。側用人は将軍の意思を体現する存在である。側用人が幕政に強い権勢をふるうには、将軍の特別な恩顧のほかに、個人的な野心や能力が必要だった。
 側用人政治を否定したとされる吉宗は、幕府政治の改革にあたり、みずから新設した御用取次をつかって、側用人政治とよく似た政治運営をしていた。
 田沼意次が活躍したときの将軍家重と家治は、いずれも幕府政治に積極的に関わろうとしないタイプの将軍だった。
 田沼意次が幕府政治と直接関わるようになったのは、美濃郡上一揆の処理から。この一揆は、宝暦4年から8年にかけてのこと。幕府は、老中、若年寄という重職を罷免し、若年寄を改易、大名金森の改易という、まれにみる厳しい処罰を断行した。これを果断に処理したのが御用取次の田沼意次だった。
 町奉行や勘定奉行など、幕府の重要ポストには、田沼意次と直接の姻戚関係もふくめ、何らかのつながりをもつ役人たちが配置されていた。田沼意次は、子弟や姪らを介して、老中2人、若年寄1人、奏者番2人、勘定奉行などと姻戚関係をがっちり結んでいた。
 重要な政策は、その発議が意次か奉行であるかは別にして、意次と担当の奉行が事前に協力して立案し、そのあとで老中間の評議にかけていた。意次は幕閣の人事を独占しただけでなく、幕府の政府を主導していた。
 意次時代には、幕府の利益を追求する山師が跋扈し、田沼意次こそ山師の頭目であった。しかし、これは、田沼意次の政策が革新的であったとも言えるものだ。
 耕地を増加させるため、新田開発策をとった。意次にとってもっとも大きな問題は、幕府の財政をどうするか、だった。
 明和7年(1770年)、江戸城の奥金蔵や大阪城の金蔵にはあわせて300万両もの金銀が詰まっていた。これが天明8年(1788年)には81万両にまで急減していた。
 この時代の山師中の山師は平賀源内である。源内のパトロンが田沼意次だった。
 意次は、銅と俵物の増産に取りくんだ。また、白砂糖の国産化もすすめた。
 印旛沼の干拓をすすめ、ロシアとの交易、蝦夷地の開発もすすめようとした。
 田沼意次が清廉潔白とは言えないが、当時、賄賂は義務的なものでもあった。
 田沼意次は「はつめい」の人と言われた。「はつめい」とは、かしこい、という意味。家来の下々にまで目を配り、家来たちが気持ちよく働けるようにするための配慮や心づかいのできる人物であり、人心操縦の術にたけた人物でもある。
 意次の長男である意知が殿中で切られて死亡すると、意次もたちまち失脚してしまう。それほど反感を買っていたということでしょう。
 出世や優遇を期待して田沼家と姻戚関係をもった大名家や、意次の家来と姻戚関係をつくった旗本家は、かなりの数にのぼった。しかし、田沼家が凋落したとき、櫛の歯を挽くように離縁が相ついだ。その節操のなさには、呆れるほどだ。
 しかし、意次は、「御不審を蒙るべきこと、身をおいて覚えなし」という書面を書いています。意次にも反論したいことが山ほどあったようです。
 意次の素顔を知ることのできる本です。
(2007年7月刊。2800円+税)

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2008年02月15日

江戸人のこころ

著者:山本博文、出版社:角川選書
 江戸時代の人が書いた手紙が自由自在に読めたら、どんなにいいかと思うのですが、私にはアラビア文字と同じで、さっぱり分かりません。それをスラスラ読み解く学者って、やっぱり偉いですよね。
 遊女がイギリス商館長のカピタンであるリチャード・コックスに宛てた手紙が紹介されています。江戸時代の平戸に1623年(元和9年)までイギリス商館があったのですね。この遊女の手紙は大英図書館の東洋・インド部に所蔵されているものです。
 優美なかな書きの手紙なので、大坂の陣で没落した武士の妻女出身とも考えられる。かなりの教養をもった女性だろうと著者は推測しています。
 さてさてあいたいぞ、見たいぞや・・・という文言があり、胸をうちます。
 多摩地方の上層農民(名主クラスの裕福な農家)の娘が、江戸城大奥や御三卿などの奥へ奉公に出ていた。これは、貧乏な家庭を助けるための「口減らし」ではなく、いわば田舎から都会の女子大へ行くような、行儀見習いのための奉公だった。
 多摩地方は、江戸城大奥の下級女中の供給源となっていた。その中の一人、御殿女中だった吉野みちの手紙115通が残されていて、紹介されています。
 みちは、奥奉公がやたらとお金がかかったため、実家の父親によく小遣いをねだっている。うーん、なんだか、今もよくありそうな親子のあいだの手紙です。ぴんときますね。
 滝沢馬琴の手紙も紹介されています。八犬伝の定価は、1冊あたり、1分3朱。金1両を現在の物価で換算すると、20万円になるので、八犬伝は1冊あたり8万7500円。初版500部で、江戸で300部を売り出し、上方へ200部を発送する。江戸ではすぐに増刷し、年末までに累計600部は確実。発売して半年で800部の売上げがあった。350両になる。経費を差し引いた純益金は300両なので、6,000万円のもうけだ。ところが、馬琴の手にしたのは、原稿料は1冊わずか2両が相場だった。なーるほど、江戸時代の出版事情って、そういう仕組みだったんですか・・・。
 赤穂浪士の何人かの手紙も紹介されています。大石内蔵助の手紙から、内蔵助は、たしかに祇園や伏見に踊りを見に行ったが、それは息子の主税と一緒だった。したがって、内蔵助の遊興は、こうした物見遊山が中心で、祇園の茶屋で派手に遊んだということではなかったのだろう。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 すでに自分の命はないものと決め、盟約に加わった者たちの首領になっている内蔵助の手紙は、穏やかで、妻の身体を気づかい、周囲の人の気遣いに感謝し、妻への思いやりに満ちている。
 なぜ討ち入りをしたのか。武士が面子をつぶされることは、死に勝る屈辱である。これを回復するためには、吉良を討って喧嘩両成敗法を自らの手で実現しなければいけなかったのだ・・・。
 江戸人の心の奥底を少しだけのぞいたような満足感を与えてくれる本でした。
(2007年9月刊。1400円+税)

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2008年05月02日

おたすけ鍼(ばり)

著者:山本一力、出版社:朝日新聞社
 江戸を舞台とする山本一力ワールドは、いつ読んでも、読む人の心をほんわか、あっためてくれます。いいですよね。この感触が・・・。現代日本人が忘れ去った、ほんわか、ふんわりとした心地良いあたたかさです。
 オビに書かれているキャッチ・フレーズを紹介します。
 江戸の人情と心意気、「一力節」が冴えわたる!鍼(はり)一本、灸ひとつ、人助け、世直しいたします。「ツボ師」の異名を持つ気骨の鍼灸師、染谷(せんこく)と剛直の大商人、野島屋仁左衛門との交情を軸に描く痛快長編時代小説。
 まさしく、このオビのとおりなのです。まあ、私に騙されたと思って読んでみてください。最近、身体の節々が何かしら痛むな、ちょっと疲れてるな、そう思ったときに読む本として、おすすめします。きっと、ハリ・灸でも打ってもらおうかな、という気になることでしょう。
 実は、私の長男がまさに、この鍼灸師を目ざしているのです。いろんな経過を経て、ようやく鍼灸師として一人立ちしようとしている彼に対して、私は心よりエールを送りたいと思っています。親のようにはなりたくない。しかし、親のようであってほしい。この相克を、彼なりに乗りこえて鍼灸師を目ざしているのです。
 ひとは、だれしもが、おのれの身体をおのれが治す、生まれながらの力を秘めている。鍼灸や薬は、眠っているその力を、呼び覚ますための助けにすぎない。
 なーるほど、きっと、そういうことなのでしょうね。でも、なかなか、凡人はそのことを自覚できませんよね。
(2008年1月刊。1500円+税)

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2008年05月30日

日月めぐる

著者:諸田玲子、出版社:講談社
 江戸末期、駿河の小藩に流れゆく時、川、そして人。名手が丹念に紡いだ珠玉の七篇。
 これはオビの文章です。いやあ、実にそのとおりなんです。5月のゴールデンウィークで熊本までお城を見に行ったときの電車のなかで一心に読みふけりました。恋しくも哀しくもある人情あふれる話が、次々にくり出されてきます。主人公が前の話では脇役として登場してきたり、七篇が駿河国小島(おじま)藩のなかで連続的に展開していきますので、話の展開が待ち遠しくなってきます。その語り口はいかにも見事で、ついつい引きこまれてしまいます。さすがはプロの書き手だと感心しました。
 小島藩には城がない。かろうじて大名の端くれにしがみついている1万石の小藩には、城など築く余裕はない。が、陣屋の周辺には城下町とも言える町々が広がっていた。馬場もあり、寺社もあり、武家屋敷町もある。
 小島藩には大名家の体裁をととのえるだけの家来を抱える財力がない。そのため、必要に応じて、農家の次男・三男を足軽として徴用している。これを郷足軽(ごうあしがる)という。
 小島藩ではかつて、財政難から苛酷な年貢を徴収した。追い詰められた農民が一揆を起こし、藩は窮地に立たされた。わずかながら領民の暮らしが上向き、藩も息がつけるようになったのは三椏(みつまた)のおかげ。三椏の樹皮は駿河半紙の原料である。漂白しやすく、虫にも食われないため、評判は上々。加えて、紙漉(かみすき)は、農閑期の余業に適している。藩では、年貢を紙で納めるよう奨励した。三椏を植える農家は年々ふえていった。東京の日比谷公園にも、この三椏があります。
 七篇は、この三椏による駿河半紙づくりを背景として、それに関わる人々の生活とともに展開していきます。
 駿河半紙は小島藩の者が三椏を紙の原料として発見してから急速に広まったもので、歴史は浅い。だが、それまでの楮(こうぞ)でつくった紙より丈夫で上質な紙ができるというので、高級品としてもてはやされた。三椏は紙の原料となる太さに枝が生長するまでに3〜4年かかる。ただし、そのあとは毎年刈り取ることができる。
 皮をはぎ取るのは難しい。そのため、大鍋で木を蒸す。剥いだ皮は乾燥させ、必要な次期が来るまで保存しておく。
 皮を石の台にのせ、木槌で勢いよく叩く。こうやって木の皮の糸をほぐす。叩いたあとは、濾舟(すきぶね)の中でかきまわす。すると1本1本、バラバラになる。ほぐした樹皮と、とろろあおいの根っこを叩いてどろどろにしたものを桶の中で混ぜあわせる。とろろあおいは粘りけがあるので、紙を固める役目を果たす。紙濾をしたあと、石台に置き、重石(おもし)で圧搾して水分をしぼり出す。その紙を栃(とち)や銀杏の干し板に貼りつけ、戸外へ並べて天日で乾燥させる。松をつかうと脂(やに)が出る。年輪の詰まった木の板でないと、紙に無駄な筋が出てしまう。
 和紙づくりの手順と苦労まで、少しばかり理解することができました。
(2008年2月刊。1600円+税)

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2008年07月22日

そろそろ旅に

著者:松井今朝子、出版社:講談社
 やじさん、きたさんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者が十返舎一九というのは江戸時代や日本史に詳しくなくても、誰だって知っていることでしょう。初めの題は『浮世道中膝栗毛』というものでした。主人公は神田八丁堀あたりに住む独身男の弥次郎兵衛と居候の北八。ところが、シリーズの最後には、やじさんは弥二郎兵衛、きたさんは喜多八と表記が変わり、この二人はかつて男色の契りをかわしていたという設定になってしまった。
 ひえーっ、驚きですね。
 それはともかく、このコンビは、江戸を発って東海道を上りながら、出会った女を手あたりしだいにくどいてまわり、隙あらば他人に悪さを仕掛け、あげく失敗を重ねて箱根までの滑稽な珍道中をくり広げた。
 街道のかごかき、馬士(まご)のおかしな言葉づかいに、旅籠(はたご)の様子、名物の食べ物などにはやたらに詳しい本である。駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に詳しいので、ここでは省略する、こんな宣言をし、風景描写は皆無にひとしい。実に特異な旅行記であった。ところが、思いのほか好評のうちに迎えられ、翌年の第2編で大井川まで、さらに第3編、第4編と延びてゆき、ついには、第6、7編で京都、第8編で大坂の町を書きあげた。これで終わりかと思うと、出版元が許さない。なんと、20年にも及ぶ長旅になってしまった。
 すごい、すごい。すごーい、ですよね。私も写真入りの旅行記を自費出版でたくさん出していますが、残念なことに、これほどの反響はありませんでした。
 十返舎一九は、もともとは武士の身。同じように、武士出身で当時、活躍していたのが、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬(浮世風呂)。そして、この本は、江戸時代の文化を支えていた、これらの文人たちの生きざまを彷彿とさせる楽しい読み物です。
 実は、初めのころはあまり面白くないなあと思って読み飛ばしていたのです。ところが、中盤あたりから急に面白く思い、あとは一気呵成に読みすすめていきました。
 十返舎一九が作家になるまでの苦労といいますか、遊里通いで放蕩する場面、そして、その心境が、ちょっとあまりにもデカダンス(頽廃)すぎて、ついていけなかったということもあります。
 先日、チャップリンについて書かれた本を読んでいますと、「女たらし」とか「女性の敵」とか批判されているときのチャップリンのほうが芸術的には優れたものを生み出している。逆に、品行方正になったときのチャップリンの作品には面白みに欠けるという評価がなされていました。人間の才能というのは、ことほどさように評価が難しいものなのですね。
 それにしても、この本は、江戸の文化、文政時代の雰囲気、つまりは、田沼時代のあと、松平定信の寛政の改革と、その後の社会の様子をよくぞ再現していると感心しながら、後半は一気に読了しました。さすがはプロの物書きです。
(2008年3月刊。1800円+税)

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2008年08月08日

遊女(ゆめ)のあと

著者:諸田玲子、出版社:新潮社
 いやあ、まことに作家の想像力というのは想像を絶するものがあります。ロマンあふれる時代小説、これはオビに書かれたキャッチフレーズですが、まさしく、そのとおりです。
 全国各地で大飢饉に見舞われ、財政難にあえいでいた幕府は八代将軍吉宗のもとで、倹約に次ぐ倹約で財政を立て直そうとしていた。ところが、尾張名古屋だけは違った。尾張徳川家七代宗春(むねはる)を藩主とあおぐ名古屋には、飢饉もなければ貧困もない。重税もなければ圧政もない。死罪もなければ諍(いかさ)いもない。大道に商店がひしめき、各地から押し寄せた商人の威勢のいい売り声が飛びかう。老若男女が愉(たの)し気に行きかい、城下は活気にみちている。不夜城のごとき遊郭からは、華やいだ嬌声や音曲が流れ、雨後の筍のごとく出現した芝居小屋の幟(のぼり)で、道の両側は埋め尽くされている。
 藩主宗春が江戸からお国入りしたときは、黒装束に縁がくるりと巻きあがった鼈甲(べっこう)の丸笠という奇抜ないでたちで、人々の度肝をぬいた。
 そんな名古屋の地へ、女2人、旅立った。ひとりは博多から。もうひとりは江戸から。
 宗春は正室をもたない。これも幕府への反発のあらわれだった。正室は人質として江戸に住まわせるという定めがある。それはよいが、御三家まで従えというのは、がまんがならない。
 宗春のしなやかな細身の体にまとっているのは、派手な青海波(せいがいは)文様の絹小袖、ゆるめにしめた細帯は黒びろうどで、髪は江戸で大流行の文金風。髷(まげ)の根を一気に上げて前へ折り曲げるこの髪型は、宗春の音曲の師匠でもある浄瑠璃語り、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の発案だった。
 宗春は鮮やかな紅の小袖と羽織袴をつけ、緋縮緬のくくり頭巾を被っていた。くくり頭巾とは、頭をすっぽり覆う丸頭巾の先端が縫い閉じられている。白牛ではなく、この日は駕籠(かご)に乗っていた。駕籠には天井がない。左右の簾も巻き上げてあるから、沿道の人々には宗春の姿がはっきりと見える。もとより、見せるために趣向を凝らしている。
 「ひゃあ、目が醒めるようやわァ」
 これが江戸時代の藩主の服装なんですよ。いやあ、すごいものです。
 真夏の陽射しを浴びて、紅と緋が禍々しい(まがまがしい)ほどの光彩を放っている。
 初夏の陽射しが降りそそいでいる。南天、芍薬、梔(くちなし)・・・。御下屋敷の北東の一画を占める薬草園では、草木の緑が萌え立ち、花々が妍(けん)を競っていた。
 鉄線とはクレマチスのことです。昔からあったんですね。今とまったく同じものなんでしょうか。私はクレマチスの花も大好きです。牡丹は私の庭にも2株、もらったものがあります。地植えにしています。毎年、見事な花を咲かせてくれます。その豪勢さには、つい見とれてしまいます。芍薬は、なぜか今年は花を咲かせてくれませんでした。枯れてしまったわけではなく、あとになって緑々した葉だけを茂らせてくれました。
 江戸情緒たっぷりのロマンあふれるお話でした。さすが、プロの書き手は読ませます。
(2008年4月刊。1900円+税)

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日本人登場

著者:三原 文、出版社:松柏社
 江戸時代の末期から日本人の軽業見世物一座がアメリカやヨーロッパに渡って、大変な人気を集めていたなんて、知りませんでした。子どものころは、よくサーカス一座が私の住んでいた田舎町までやって来ました。親に連れられて見に行くことがありました。最近はサーカスの巡行というのはほとんど見かけません。その代わりに大がかりのマジックショーを見ることがあります。春にハウステンボスで見たのは、大きなゾウが一頭まるまる目の前から消えるマジックでした。あれれ、いったいどういう仕掛けなのか、今もって不思議でなりません。昔はやったスプーン曲げや、時計を止めるというマジックはインチキであったり、偶然と確率を利用したりだということは、頭ではそれなりに理解しているのですが・・・。ロシアのボリショイ・サーカスを見たのもずい分と前のことです。
 日本の見世物は、西洋の人々の好奇心をみたした。日本人一座の芸は並外れて優れていた。サンフランシスコにある石造りの豪華大劇場で、3000人もの観客を日本人一座の演技は高く評価された。
 慶応2年から3年にかけて、アメリカへ出かけた一座は少なくとも6座はあった。女性芸人も子ども役者もいた。
 江戸末期に活躍した軽業名人日本一は、早竹虎吉である。その虎吉の名前が刻まれた墓石と線香立が大阪市内に今も残っている。この虎吉は、不運にもニューヨークで客死している。
 この本には、日本人一座の活躍を報じるアメリカの新聞記事や写真などが紹介されています。曲芸中心の舞台は、アメリカ人の大評判を呼び、連日連夜、超満員の観客の目を楽しませた。
 すごいですね。日本人は、この分野でも幕末期にすでに世界的興行をうっていたのですね。昔の日本人は偉いものです。それにしてもよく資料を発掘しましたね。
(2008年3月刊。3500円+税)

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2008年08月12日

江戸の高利貸

著者:北原 進、出版社:吉川弘文館
 1985年に『江戸の札差』として出版されたものが復刊されたものです。したがって、江戸時代の札差の実態が主要なテーマです。
 札差というのは、旗本に代わって、切米手形(札)を差し、俸禄米を受領して、ついでに米問屋に売却するまでの面倒な手間一切を請け負った商人のこと。その前身は蔵前の米問屋であった者が多く、米問屋との関係は深い。
 札差は蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれの手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差し引いて、現金を各屋敷に届けてやる。札差が旗本に蔵米を担保として金融するときの利子率は年利25%とか20%であった。
 大岡越前守忠相によって、109人の札差仲間が公許された。8代将軍徳川吉宗の享保改革が進行中のときである。このとき利率は15%から18%となった。しかし、この公定された利子率と蔵米受領・販売の手数料のほかに、札差がもうけの大きな拠りどころとしたものがあった。
 奥印金(おくいんきん)。これは、架空の名前の金主をつくり、自分が金元の仲立ちをしてやり、保証印まで押してやったことを恩に着せて、札金をとる。これは、通常、貸金額の1割だった。そして、証文を書き替えるときに、1ヶ月ぶんの利子を2重に取るのである。これを月踊りという。
 札差が直に蔵米を受取ることを直差(じきさし)とか直取(じきとり)という。
 そこに、わずかな手数料をとって直取の世話をする浪人者などが寄生した。直差の世話人には、多くの浪人ややくざのような不良が、小遣稼ぎにおこなっていたらしい。
 旗本は、腕の立つ浪人とかやくざ者を、一時的に家来として雇い、これを札差の家にさし向けて強引に金を借り出そうとする。この札差ゆすり専門家を、蔵宿師(くらやどし)または単に宿師と称した。
 札差は、腕っぷしの強い、いさみ肌の若者をやとって蔵宿師に対抗させる。これを対談方(たいだんかた)という。対談方の年間給与は、支配人の一段下か同じ程度に遇されていた。対談方は、弁舌さわやかに相手を丸めこみ、かんじんなときには商人らしい物腰など二の次にして、大立ち廻りを演じなければならなかった。つまり、旗本や御家人は蔵宿師を使って無理談判を試み、札差は対談方にその対応をさせたというわけです。
 札差の繁栄は宝暦から天明(1751〜88年)に頂点に達し、派手な消費生活を旗本や御家人に誇示した。すると、幕府は札差株仲間に対する取り締まりを強化した。
 当時、江戸には18人の代表的な通人といわれる者がいた。称して、「十八大通(だいつう)」という。そのほとんどを浅草蔵前の札差が占めていた。
 将軍徳川家治の治下、宝暦10年(1760年)から天明6年(1786年)までの26年間に、不良旗本と御家人の処罰が76件あった。1年に平均して3件である。たとえば、自分の居宅でいつも博奕(ばくち)をしていた者もいた。
 天明6年に大凶作となり、江戸で打ちこわしが始まった。それに参加した困窮民は24組5000人もいたが、非常に規律があり、火の元に用心し、目的の家のみを打ちこわして隣家に及ばぬようにし、米や雑穀を引きちらかしても、誰一人盗もうとしなかった。「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉」したという記録が残っている。
 金銀貸借の相対済し令(あいたいすましれい)とは、返済が滞っている借金について、貸借の当事者が話し合いで返済法などを決めるのを原則とし、たとえ紛争が起きても、訴訟を受けつけないとするもの。武士を相手とする町人の経験的事実は、相対済しが債権者の立場を不利にしたことは間違いない。
 松平定信の寛政の改革のとき棄捐令(きえんれい)が出された。これは、6年前までの貸付金は新古の区別なく、すべて帳消しとする。5年以内の分は、利子をそれまでの3分の1に下げて永年賦とするというもの。まさに借金の棒引きである。
 この棄捐令は札差に大打撃を与えた。その結果、旗本・御家人に対する締め貸しとなって返ってくる。要するに、旗本・御家人は札差から借金できないわけである。
 ところが、札差は、これによって息の根をとめられたわけではなく、幕末・明治維新期まで、旗本・御家人の俸禄制度が存続しているあいだは、しぶとく生き続けた。
 水野忠邦の天保改革のとき、札差は半数以上が閉店した。旗本・御家人は金策の相手を半分以上も失ってしまったわけである。困ったのは、札差からの借金なしには一日も暮らしていけない旗本・御家人たちであった。幕府はあわてて札差に2万両の資金貸下げをしたが、札差は容易に乗らなかった。
 武士に対する金貸し(札差)の実情を知ることができました。江戸時代にも激しい借金取りがあっていたようです。なんだか、現代日本と似ているなあと、つい思ってしまいました。
(2008年3月刊。1700円+税)

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2008年08月26日

百姓の力

著者:渡辺尚志、出版社:柏書房
 現代日本人の代表的な行動特性に、狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感で、過剰なほどまわりに気をつかうというものがある。会社や学校などの小さな社会のなかで、自分の本心を隠してでも周囲から浮かないことを心がけ、場の空気を読んで行動し、集団の和を重視する。ところが、その世間を一歩出ると、とたんに周囲には無頓着となる。タバコのポイ捨て、電車内での携帯電話、人前での化粧など、何とも思わなくなる。こうした日本人の行動パターンは、狭い村が世間そのものであり、そこから排除されるとたちまち生活基盤の崩壊につながった江戸時代の村人の暮らしから生まれた。このように、現代日本社会は、江戸時代の社会の延長線上にある。ふむふむ、このように言われると、なるほどと思ってしまいますね。
 江戸時代における全国の村の数は、元禄10年(1697年)に6万3000ほど。平均的な村は、人口4000人ほどだった。
 江戸時代に庶民の識字率は上昇した。明治8年(1875年)の学齢人口(6〜11歳)の就学率は男子54%、女子19%。全国の寺子屋は明治8年までに1万5500校あった。19世紀には、1軒の寺子屋に平均して男43人、女17人の子どもが在籍していた。
 村には文書を保管するための専用倉庫(郷蔵)が建てられた。半紙に一行かかれただけの短い文書であっても、千金にかえがたい貴重な価値があるとされた。
 1600年ころの日本の総人口は1500〜1600万人、耕地面積は163万5000町歩。享保6年(1721年)には人口3128万人、297町歩へ急増した。人口は2倍、耕地面積は1.8倍に増えた。人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものだった。
 日本人の多くが江戸時代、古くても戦国時代までしか先祖をたどれない。これは記録がないからではなく、それ以前には、百姓の家そのものが成立していなかったことを意味する。うむむ、そういうことだったのですね。安定的な「家」なるものは、中世前にはなかったわけなのですか・・・。私も祖先のルーツを少し調べてみましたが、私の家では江戸時代にまでさかのぼるのがやっとでした。お寺の過去帳までは調べることができなかったのです。知人に100回忌を永年営んでいるという人がいます。私はそれを聞いて驚きました。古くからのお寺が存続しているから、そんなことができるのです。
 近代になる前の社会では、土地の所有権は一元化されず、一つの土地に複数の所有者がいる状態が、むしろ普通だった。百姓と武士とが、それぞれ権利の内容を異にしながら、ともに所有者として一つの土地に関係していた。領主の所有権は国家の領有権に近い性格をもっており、百姓の所持権とは位相が異なっていた。そして、注目すべきは、村も所有者として土地に関係していたということ。
 割地(わりち)とは、村が主体となって定期的に農地を割り替えること。何人かに一度、くじ引きなどによって、村人たちが所持地を交換していた。年貢負担の不平等をなくすためである。割地がなされていた村では、村人は割地から次の割地の間だけ、その土地の耕作権を保障されていた。村の耕地は、全体として、村の管理下にあった。
 土地を質入れして、流れてしまっても、元金を返済しさえすれば、何年たとうと戻せるという慣行が広く存在していた。無年季的質地請戻し慣行だ。これは村の掟だった。村の土地は村のものであり、個々の百姓の土地所有権は村によって管理・規制されていたという事情がある。
 そして、村人は村を出ていくときには、その所有地を無償で村に返した。その所持地は、村に住み、村の一員として耕作に従事し、領主に年貢などをきちんと納めている限りにおいて、その所有と認められていたのである。村の成員の資格を失ったら、土地を自由に処分することはできないものであった。そういうことなのですか、知りませんでした。
 零細錯圃制(れいさいさくほせい)という言葉を初めて知りました。個々の百姓の所持地は、屋敷地の周囲など1ヶ所に固まっていることは少なく、村内のあちこちに少しずつ分散しているのが一般的だった。自然災害などの危険を分散できる利点があった。なーるほど、ですね。江戸時代、子どもは村の未来を担う宝であり、その成長には村も責任を負っていた。子どもは「家の子」として育てられると同時に、「村の子」としても育てられるべき存在だった。
 江戸時代には、「7歳までは神のうち」という言葉があった。乳幼児の死亡率が高かったということです。
 7歳をすぎた子どもは「子供組」という集団をつくった。15歳になったら一人前の村人と認められ、男は「若者組」、女は「娘組」に属し、集団の規律を学んだ。
 若者たちは、村役人の監督下に、青年にふさわしい役割を果たしつつ、村のルールを身につけていた。若者組も娘組も、村のなかの一組織であり、村の教育機関としての役割をもっていた。
 現代日本人は訴訟を敬遠しがちだが、江戸時代の百姓は頻繁に訴訟を起こしていた。江戸時代は健訴社会だった。19世紀になると、百姓たちの訴訟技術は向上し、百姓のなかに公事師的存在が増えた。ときに、偽の証拠や証言まででっち上げた。百姓は一面において、したたかで狡猾だった。
 いやあ、これってまさに現代日本人そのものではありませんか。まこと、江戸時代の日本人は今の日本人と変わらない存在なのですね。
(2008年5月刊。2200円+税)

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2008年09月05日

日無坂

著者:安住洋子、出版社:新潮社
 いやあ、うまいですね。すごいですよ。ただただ感心しながら電車のなかで夢中になって読みふけりました。いつのまに終着駅に着いたのかと思うほど、あっという間でした。
 父と息子がお互いに理解するのはとても難しいことだというのが、この小説の大きなテーマです。それを女性作家が見事に描き出しています。
 父のようになりたくはなかった。いや、なれなかった。薬種問屋の主人におさまった父と、浅草寺裏の賭場を仕切る息子。
 親と子の、すれ違い。謎解きが感涙に変わる江戸市井小説の名品。親と子のわがかまりと情を描き尽くす市井小説の名品。
 あの日の父の背中が目に焼きついて離れなかった。
 跡継ぎになることを期待されながら父利兵衛に近づけず、反発し、離れていった。あの日から10年、長男の伊佐次は、すっかり変わり果てた父とすれ違う。父は万能薬という触れ込みの妙薬をめぐって、大店の暖簾を守ろうとしていたのか、それとも・・・。
 以上はオビにある、うたい文句です。この本の内容を的確に簡潔にまとめています。山本一力の江戸世話物の世界とは一味違います。時代小説界の次代を担う新鋭の傑作長編というキャッチフレーズに異論はありません。次作が楽しみです。タイトルは、ひなしざか、と読みます。
(2008年6月刊。1400円+税)

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2008年09月16日

一朝の夢

梶 よう子  文藝春秋
 時は風雲急を告げる幕末。しかし、下級武士の中には珍しい朝顔を咲かせるのだけが生き甲斐のような不埒な者もいる。そんな男が、いつのまにか幕末の大政変、桜田門外の変に巻き込まれていく。
 いやあ、見事なものです。こんな小説を私も一度は書いてみたいと思うのですが・・・。江戸時代末期、あの朝顔は多くの人の心をとらえて放しませんでした。今よりもっともっと多くの変種朝顔が世に現れ、人々がそれを愛でていたというのは歴史的な事実です。
 私も朝顔は大好きです。でも、意外に朝顔を育てるのは難しいのです。知っていましたか?
 私の庭には、今も朝顔が咲いています。去年の朝顔です。実は、何年も前からのものなんです。なぜか、色がいつも同じで、青紫なのです。これはわが家のフェンスにからまっている宿根性で、外来種の朝鮮朝顔と同じです。鮮やかな紅色の大輪の朝顔が私の好みなのですが、去年咲いていても今年は咲いてくれません。それじゃあ、と思ってタネを植えても、大きくならないし、ましてや花を咲かせてくれません。チューリップだと、植えたら何もせず放っておいても9分9厘ちゃんと花を咲かせてくれます。朝顔は、よほど気むずかしい花なのでしょう。
 主人公の興三郎は北町奉所勤めの「八丁堀の旦那」である。ただし、吟味方や定町(じょうまち)廻りや隠密廻りなどといった、奉行所でも花形のお役目ではなく、両組御姓名掛りという奉行所員の名簿作成役であった。所内でも閑職の筆頭としてあげられる役だ。
 江戸には南と北の奉行所がある。今月が南町で月番だとすると、北町は非番だ。非番だと言っても休みになるわけではない。月番の時に持ち込まれた山と積まれた訴状や吟味の未決分を処理している。月番奉行所は門を八文字に開き、訴訟や事件などの類を受けつける。非番の奉行所は門を閉ざし、潜り戸はあけているが、訴訟などは受けつけない。
  朝顔の種は、牽牛子といい、下剤や利尿などに用いられる。朝顔の種子は半月型である。弧の部分を背と言い、直線の部分を腹という。片側の端にある小さな窪みはへそと呼ばれている。
 へそを傷つけないように、背と腹の境界に傷を付ける。これを芽切りという。土に指の先端を刺し、つくった穴にへそを上にして種子を入れる。
 江戸時代、朝顔は何度ももてはやされた。朝顔の品評会を花合わせという。植木屋はもちろんのこと、商人・町人・武家といった朝顔愛好家から出品された朝顔の優劣を競う。その結果は番付にして発表される。
 朝顔にはいろんな色がある。しかし、黄色の朝顔だけはない。朝顔は、どんなに美しく咲いても、花は一日で萎れてしまう。つまり、槿花(きんか)、一朝の夢だ。これは一炊の夢と同じ例えである。
 朝顔は自家受粉、つまり自らが自らの花の中で受粉する。だからツボミが開かないようにしても種子はできる。
 江戸の変わり咲き朝顔を紹介する本もあります。江戸時代の人々は、現代の私たちが想像する以上に多種多様な生き様を認め合っていたように思います。ひえーっ、こ、これが朝顔なの・・・。こんな悲鳴ををつい上げたくなるほど、ものすごい変わり咲きの朝顔が毎年出品・展示されていたというのです。それには、人々の心の豊かさがなければ、とてもできないことだと思いますよ、私は。あなたもそう思いませんか・・・。
 すみません、この本のストーリー展開はあえて紹介しません。お許し下さい。 
 南フランスの町のあちこちで、大型犬を連れた若者たちを見かけました。いえ、大型犬を連れたおじさんやおばさんもよく見かけたのですが、若者たちは、なんだかホームレスっていう感じで気になったのです。しかも、一人で二匹も三匹もの大型犬を連れて歩いているのを見ると、犬たちの食糧費だけでもバカにならないだろうと心配しました。アルルでは、3匹の大型犬を連れた物乞い(おじさん)がいました。教会の階段に、犬たちは寝そべって、ヒマをもてあましているように思いました。
(2008年6月刊。1524円+税)

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2008年10月20日

出星前夜

著者:飯嶋 和一、 発行:小学館

 島原の乱をテーマとする本は私もかなり読んだつもりですが、この本は出色の出来ばえです。 みなさんじっくり腰を落ち着けて読むことをおすすめします。540頁の大部な本ですし、中身がぎっしり詰まっていますので、速読を旨とする私もさすがに読了するのに3日かかっていまいました。次の展開がどうなるのか知りたくて、法廷のちょっとした待ち時間にもカバンから取り出して読んでいたほどです。
 島原の乱は宗教戦争という側面はたしかにあるけれど、その本質は苛政に対して民衆が決起した一揆であるという視点から、当時の農民の置かれた状況が生々しく語られています。
 ただ、最近の研究では、いわゆる百姓一揆は飢餓という極限状態にまで追いやられた農民たちが、死を賭して決起したというのは必ずしも正しくなく、自分たちの既得権益を守り、人間としての尊厳をかけて起ち上がったという側面も大きいと指摘されています。食うや食わずに陥った人には、もはや戦いに立ち上がる元気もないし、ましてや組織だって動くことは無理だ。一揆はかなり組織的で統制がよく取れていたというのです。
 百姓一揆の決起を促す文章には、飢餓状態について、かなりの誇張があるという指摘もあるのです。日本人の知的レベルの高さを忘れてはいけないという点は、私も大事な点だと思います。島原半島では、いったいどうだったのでしょうか。この本には、島原の乱の首謀者の中に、秀吉の朝鮮出兵で中国(明)軍と死闘を繰り広げた経験を持つ元武士もいたこと、熊本(肥後)の旧加藤家の武士などキリシタンでない者も多数含まれていたことが紹介されています。
 幕府側の討伐軍として出征した柳川・立花藩や久留米・有馬藩の兵士たちの不甲斐ない戦闘ぶりが描写されていますが、これって本当なのでしょうか。
 甘木には、島原の乱へ参戦するときの行列を描いた詳細な絵があると聞いていますが、私はまだ見ていません。ぜひ見たいものです。
 この著者の『神無き月十番目の夜』という本を読んだとき、私はしびれる思いでした。ええっ、ここまで臨場感あふれ、迫真の時代小説が書けるのか、と感嘆し、当時、周囲の誰彼となくすすめたものでした。同じ著者ですから、その思いが再びよみがえってきました。じっくり読むに値する本です。
 秋の夜長に満月が出ているのを見ると、つい南フランスの夏を思い出します。外のテラスで月を眺めながら、食事をゆっくり楽しみました。前にも書きましたが、なぜか蚊もおらず、虫も飛んでこないので、静かに食事ができるのです、目下、写真集を作っているところです。ブログでお見せできないのが残念です。カメラはアナログ(フィルム)とデジタルと両方持って出かけることにしています。
(2008年8月刊。2000円+税)

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2008年11月25日

カムイ伝講義

著者:田中 優子、 発行:小学館

 『カムイ伝』というと、私が大学1年生のころ、『ガロ』という雑誌に出会って、目を大きく開かされた思いがした思い出のある本です。寮で、いつも一心に読みふけり、その迫力あるマンガに圧倒されっぱなしでした。本(活字)だけでは分からない、江戸時代についてビジュアルなイメージを抱くことができたのです。
 でも、マンガ本が大学で学生向けの教材としていま使われているというのには驚きました。そして、カムイ伝に描かれた状況が、江戸時代の百姓と武士の日常生活をかなり正確に反映していることを改めて知ることができました。やっぱり、すごいマンガだったのですね。
 『カムイ伝』と『カムイ外伝』があります。読んだことのない人には一読をおすすめします。といっても、私自身は、大学生のころに読んだきりで、あれからもう40年たっています。いずれまた読んでみたいとは思いますが……。小学館から『カムイ伝全集』として刊行されているそうです。
 カムイ伝の時代背景は江戸時代の初期。
 江戸時代が戦国時代の価値観から完全に方向転換するのは1640年ごろ。徳川三代将軍家光の時代が終わったのは1651年のこと。武士は兵士ではなくなり、戦争のない時代の文治官僚となった。
 穢多と非人には違いがある。非人は足洗い、足抜きが認められている。非人に定められた職業から離脱することで非人ではなくなり、中心部への移住も可能だった。というのも、非人には犯罪や心中未遂によって非人となった者や、困窮のため乞食となった無宿非人などを含んでいたからである。これに対して、穢多には周辺部に居住地域が決められており、その身分から抜け出せなかった。
 非人には肘より長い着物を着ることが禁止され、着物の色も藍から渋染めに限定されていた。ところが、穢多の一部は絹織物を着ていた。
 非人は町中に暮らし、物乞い、大道芸、犯罪者の市中引き回し、処刑上での増益が主な仕事だった。これに対して、穢多は囲い地や穢多村に暮らし、皮革処理、皮細工、灯心売買の特権を持っていた。非人は田畑を持つことがなかったのに対して、穢多は農地領有高がふつうの百姓以上のこともあった。
穢多は脇差しや十手を持つことができたが、非人は持てなかった。
 穢多は非人の上に立っていた。職業を離れたら平民になれる非人が、身分を離れることのできない穢多より下に置かれ、その下人のように働いていた。
 乞胸頭(ごうむねがしら)・仁太夫は芸人たちを支配していたが、非人頭・車善七に冥加金(みょうがきん)を支払い、非人頭・車善七は浅草弾左衛門に冥加金を支払っていた。
 弾左衛門組織内は治外法権であり、弾左衛門支配の人間による犯罪が起こったとき、町役人や奉行はさばくことが出来ないし、犯罪人を小伝烏町の牢屋に入れることもできなかった。乞胸・仁太夫とその組織は武士が出自であった。
 明治維新のとき、浅草弾左衛門支配下の人は4373人で、非人頭支配は700人、乞胸頭支配は550人だった。
 『カムイ伝』には、江戸時代の百姓のさまざまな事業(たとえば綿作など)がことこまかく具体的に描写されています。しかし、なんといっても圧巻なのは一揆場面です。
『カムイ伝』の一揆の表現は迫力に満ちている。一期の手順に従って、具体的かつ詳細に描かれている。一揆は祭と同根で、古代からの日本の伝統だった。
 江戸時代(1590〜1877年)3710件の一揆が起きている。1年に平均13回。したがって、月1回は全国のどこかで一揆が起きている。一揆は、現代の組合や政治党派とかテロ組織とは異なり、組織体でなく、運動である。
 江戸時代は書類によって左右される法治国家であって、一揆の前には文書で訴えを起こしていた。訴状である。そうなんです。日本人は昔から読み書きできる人が指導者になっていたのです。それは百姓でも同じです。
結局のところ、武士とは一体どういう存在なのかを『カムイ伝』は問い続けている。このように著者は指摘しています。なるほど、と思いました。
 江戸時代の人々の生活などについて、大変勉強になる本です。
 (2008年10月刊。1500円+税)

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2008年12月01日

江戸城

著者:深井 雅海、 発行:中公新書

 江戸時代は格式社会である。
 大名も江戸城に入ると、下乗橋(げじょうばし)の手前で駕籠から降りなければならなかった。御三家は、その先の中之門の手前まで駕籠に乗ることができた。玄関からは大名一人の行動になる。数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時から将軍の威光を示し、将軍家の臣下であることを実感させる工夫がなされていた。
 一般的な大名は刀を玄関に持ち込むことができなかった。それに対して、御三家は玄関式台より奥の大広間溜(たまり)まで刀を持ち込むことが許されていた。
殿中儀礼に参加することにより、大名は、大名同士の競争意識を植え付けられていた。
江戸幕府が大名を親藩・譜代・外様の三つに分けていたという史実はない。大名の家格としては存在しなかった。これは『武鑑』を見れば明らかである。
有力外様大名は正月2日に大広間で将軍に謁見している。それだけ将軍にとって遠く、煙たい存在であったことを示している。
 国持大名は、幕府役職の信任から排除されていたため、自分自身の序列を上げるには官位昇進しか途がなかった。国持大名とは、律令の国郡制の一国一円以上を領する前田や島津などの大名(9家)と、それに近い規模をもつ伊達や細川などの大名(9家)をさし、十八国主と称された。
 旗本の場合は、どんなに高い家禄をもらっていても、諸大夫役に任命されないと官位は与えられなかった。
老中は、毎日九ツ時(午後0時)ごろに執務室を出て、近くの部屋を一巡する「廻り」という行事を行っていた。老中の執務時間は、四ツ半時(午前11時ころ)から八ツないし八ツ半時(午後2時から3時ころ)まで。つまり、老中の御用部屋での執務時間は3〜4時間と、限られていた。
 老中は通常4〜5人、若年寄のほうは3〜5人。ともに大事は合議で、日常的なことは月交代の月番制で処理していた。老中の合議は、書付を扇子にはさんで回覧するという、書類による稟議だった。
 将軍綱吉の時代に、老中の御用部屋が将軍の御座所から遠ざけられた。真の理由は、老中合議制から将軍独裁制への転換を図ったものである。
 寛政の改革、天保の改革は、いずれも主導者の松平定信、水野忠邦が老中を解任されて改革は終了した。松平と水野がだんだん独裁的になり、幕閣内で孤立化したことが要因とみられている。つまり、老中数人の合議を基本とする老中合議制という仕組みの中では、改革を長期間持続することが困難なことを意味している。
 なーるほど、ですね。
 歴代の将軍のうち、正室の御台所の子は三代家光だけ。世嗣をもうけるうえで、側室は不可欠だった。
 家綱・綱吉・家継の生母の父は、農民・町民・僧である。吉宗の生母の父も農民である。庶民の出身であっても、将軍の生母となれば、本人のみならず、親族の栄達も約束された。ただし、八代家斉の側室は全員が旗本の娘である。この時期に、側室は女中の中?から選ぶという制度がほぼ確立した。
 側室は、たとえ将軍の世嗣を産んでも、女中身分のまま。わが子が将軍職を継ぐと、はじめて家族の構成員となり、多くの女中がつけられた。
将軍の娘は、大名家などに嫁いだのちも、あくまで将軍家の「姫君」として遇された。この点、将軍の息子が大名家に養子に入ると、基本的にその家の人間になる。両者の扱いは大きく違っている。
 将軍家の娘が大名家に嫁ぐと、大名家の江戸屋敷地に別棟の住居が建築された。その住居を、御三家・御三卿など三位以上に昇進できる家に嫁いだときは「御守殿」他の大名家に嫁いだ場合は「御住居」(おすまい)と称した。そして、幕府若年寄の一人が「御掛」を命じられ、幕府から一定の「賄料」(まかないりょう)、つまり、生活費を支給され、女中と広敷役人が付けられた。
 将軍家御成、つまり、将軍の外出先として定められていたのは、上野の寛永寺と芝の増上寺、そして江戸城内にある紅葉山のみ。それ以外は個人差がある。将軍が大名の屋敷に出かける時には、たった一日の御成であっても「御成御殿」を造営して将軍を迎えた。将軍がたとえ一日移動するときであっても、幕府政庁の中枢が一緒に移動した。つまり、御用人、老中、若年寄などの執務室や奥右筆の部屋も一緒にもうけられたのである。
 江戸中期以降、将軍が外泊することはほとんどなかった。その例外が日光社参である。
 江戸時代の将軍とその取り巻きの人々の生活の一端を知ることができました。
(2008年4月刊。760円+税)

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2008年12月04日

江戸商人の経営

著者:鈴木 浩三、 発行:日本経済新聞出版社

 遅れた封建時代だったと考えられている江戸時代に、実は、高度な市場経済システムが成立していた。さまざまな業種で多様な市場競争が繰り広げられていた。江戸時代は、市場競争と市場メカニズムが機能する資本主義的な側面を色濃く持った時代だった。
江戸時代の商工業者にとって、事業の永続性は最大の経営価値だった。この点は、今の日本でもいえることだと私は思いますが、お隣の韓国ではまったくあてはまらないと聞いて、驚いたことがあります。
 井原西鶴の『日本永代蔵』には、現代の経営にも通じる企業行動と発想が随所にちりばめられている。たとえば、西鶴は烏金(からすがね。1日に限って貸す少額短期の高利金融)でわずかな元本を運用し、銭両替を経て本両替にまでなったひとの話を通じて、「銀(かね)が銀をもうける」という資本観念が当然のものだ、としている。
 また、『日本永代蔵』には、資金が遊休化しないように合理的な投資先やビジネスを探すこと、取引先の借用調査が重要だという認識、知恵や才覚によってビジネスチャンスを開くこと、後継者の指導育成と暖簾わけが重視されていたことが読み取れる。
 江戸の商業では、本業が危機に遭遇したときの保険・補完手段も発達していた。たとえば、多くの江戸の大店(おおだな)では、本店は近江や伊勢などの本国にあって、江戸の店は江戸店(えどだな)という支店の形態をとっていた。
日本列島沿岸に定期・商業航路が開設されたのは、戦国時代末期から江戸時代にかけてのこと。日本海側の海運組織としての北前船と西廻り廻船、そして、瀬戸内水運が、当時の経済先進国だった西国を中心に成立していた。
 そして、日本海沿岸の廻船は買積船(かいづみふね)だった。買積船とは、船主が自己資本で積み荷を買って船に積み、適当な相手に売るというビジネスで、差益商人そのものだった。主な船荷は、ふかひれ・ほしあわび・いりなまこなどの海産物や、金・銀・銅などの鉱産物だった。
江戸時代の貨幣経済の特徴は、金・銀・銅(銭)という3種類の貨幣が、それぞれ対等な本位貨幣として通用していたこと。金極め(きんぎめ)、銀極め(ぎんぎめ)、銭極め(ぎめ)という。金遣いの江戸でも、上等な茶、材木、呉服、薬品、砂糖、塩、職人の賃金などは銀建てだった。そして、吉原での遊興費や大名家で購入する書画・骨董などの高級贈答品は金建て。庶民の日常品、旅籠の宿泊料などは銭建てだった。
 江戸時代の年貢率は、寛文ころまでは7公3民で、農民の生産高の7割を領主が取立て、農民の手元には「もうけ」はほとんど残らなかった。ところが、寛文ころを境として、年貢率は急減して、農民に可処分所得が残るようになった。宝永・正徳期(1704〜16)には、3公7民となっている。
 町人は、信用を得るために両替商に預金した。当時の預金(銀)には当座預金しかなく、利子はつかなかった。しかし、両替高から信用されることは大いに評価された。
 よみ、かき、そろばんができないと丁稚にもなれなかったので、手習い=寺子屋が非常に盛んだった。天保期の江戸では、日本橋や神田といった町人の居住地域には手習い師匠が集中していて、師匠の生計は寺子屋だけで成り立っていた。「手習い師匠番付」まで発行されていた。寺子屋番付によると、221人の師匠が江戸で活動していたことがわかる。
 江戸時代に抜荷取り締まり令や禁止令がたびたび出されていたということは、それだけ抜荷つまり密貿易が頻発していた、ということである。
 江戸時代を新しい目で見ることを促してくれる本です。江戸と明治は切断されているのではなく、実は大きな連続性があるというわけです。
 このところ、曇天だったり小雨が降ったりすることの多い休日が続いていましたが、先の日曜日は久しぶりに秋晴れとなって気持のいい一日でした。選挙突入かと思われていたのに、いつの間にかそれはなくなり、かわって不景気風が吹き荒れています。こんなときには、庭いじりするのが何よりの気分転換です。
 まず、庭の一角を掘り上げ、コンポストの枯葉を取り出して埋め込み、その上にEMぼかしで処理した生ゴミを置き、土をかぶせます。本当はしばらく間をおくべきと思うのですが、師走の焦りから足で踏み固めるとすぐにチューリップの球根を植えこみました。
 そのあと、エンゼルストランペットを根元からバッサリ刈り取りました。コンポストに入れるために小さく切らないといけませんので、大バサミを使う腕が痛くなってしまいました。エンゼルストランペットは土中からすぐ芽を出すほど生命力の旺盛な木です。おかげで庭のあちこちにエンゼルストランペットが咲きます。すっかり見通しの良くなった庭に、ツメレンゲの小さな花がたくさん咲いています。
夕方5時半、暮れなずむ晩秋の夕空を見届けて本日の庭仕事の終了としました。
(2008年7月刊。1800円+税)

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2008年12月13日

荷抜け

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社

 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

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2009年03月13日

それでも江戸は鎖国だったのか

著者:片桐 一男、 発行:吉川弘文館

 オランダ連合東インド会社の日本支店であるオランダ商館における責任者、商館長=カピタンは、貿易業務を終えた後の閑期を利用して、江戸に「御礼」の旅をした。これをカピタンの江戸参府(さんぷ)と呼ぶ。カピタンの江戸参府は、オランダ商館が平戸にあったときから、不定期に行われていたが、寛永10年(1633年)から毎年春1回に定例化された。寛政2年(1790年)以降は、貿易半減に伴い、4年に1回となり、嘉永3年(1850年)までに166回の多きを数えている。
 これは、朝鮮通話使の12回、琉球使節の江戸登り18回に比べて断然多く、注目に値する。そして、カピタンは随員とともに江戸で宿泊し滞在した。そのときの定宿が本石(ほんごく)町3丁目の長崎屋である。本石町はお江戸日本橋に近い。いま、その場所は、JR新日本橋駅のあたりである。
 長崎出島からカピタン江戸参府の一行は、「鳥小屋」まで持ち運び、鶏を飼いながら旅を続けてきた。カピタンが江戸参府で献上・進物用に持参した毛類反物のうち、老中、側用人、若年寄、寺社奉行に贈られた「進物」が、それぞれのお屋敷において「御払物」になって売られた。長崎屋の手を経て、それを引き請けたのが越後屋であった。
 長崎屋はオランダ文化のサロンになっていた。平賀源内も客の一人である。医師の前野良沢、同じく杉田玄白も長崎屋を訪問している。大概玄沢そして青木昆陽も。うひゃあ、す、すごーい。なんと有名人ばかりではありませんか。すごい、すごい。
 若い医師シーボルトは、一か月以上も長崎屋に滞在して江戸の学者たちと親交を深め、情報の収集・資料の交換・買取、対談、教授、診療と、多忙な毎日を過ごした。
 前の中津藩主だった奥平昌高(中津候)は、オランダ語を身につけ、なんとオランダ語の詩まで書いた。うへーっ、これって驚きですよね。フレデリック・ヘンドリックというオランダ名前も持っていました。いやあ、すごいですね、これって。そしてこの中津候は、シーボルトが携帯して運び込んだ小型ピアノを大変気に入ったというのです。江戸時代に日本人がピアノの音を聴いていたとは、まったく想像もしませんでした。
 長崎屋の2階にシーボルトが滞在していたとき、そこは多目的ホールと化していた。民族学・民族学・動物学・植物学・機械工学・芸術学・飲食物の学など、教室であり、研究室であり、レクリエーション室であった。
 すごいですね、すごいですよ。ちっとも知りませんでした。花のお江戸に、こんな長崎屋があったなんて……。

(2008年11月刊。1700円+税)

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2009年06月07日

江戸の絵師、暮らしと稼ぎ

著者 安村 敏信、 出版 小学館

 この本の初めに、カラー図版の絵があり、江戸時代の豊かな文化を堪能することができます。ここでは、上方と江戸の元禄期を代表する2人の絵師、尾形光琳と英(はなぶさ)一蝶(いっちょう)が紹介されます。
 尾形光琳は、その生涯のうちに正妻をふくめて6人の女性に7人の子どもをもうけた。2番目の子を生んだという女性から、光琳は認知を求める訴えを起こされた。それで、家屋敷1ヶ所と銀10枚のほか、前年の「飯料」として銀500匁、諸道具・畳などを差し出して示談にし、そのかわり子が成人しても光琳の息子と主張しないことを認めさせた。
 うむむ、江戸時代にも認知請求の訴が起こされていたのですね。
 英一蝶は47歳から12年間、三宅島に流罪となった。しかし、江戸での人気は高く、江戸商人が島へ画材を送り込んで、さまざまな風俗画を描かせて、江戸で売りさばいた。
 江戸では流人となった一蝶の絵を求める人々がいた。絵具や紙・絹は江戸から送り込まれた。利にさとい江戸商人は、三宅島に一蝶画を買い付ける手を伸ばしていた。
 一蝶は江戸に戻ると、最上層の町人である樽屋新右衛門の字での振舞いに招かれ、また、お大尽の奈良屋茂左衛門の吉原遊興につきあい、幇間として完全復帰している。さらに、伊紀国屋文左衛門にも取り入っていた。
 すごいですね。江戸の町人文化のたくましさを改めて実感させられます。
 円山応挙(まるやまおうきょ)も日銭を稼ぐため、見世物小屋の眼鏡絵(めがねえ)を描いた。ふむふむ、武士も町人もそれなりにのびのび活動していたのです。
 江戸時代、女性も多くが絵筆をとっている。そうなんですか……。
 葛飾北斎は、生涯に93回の引っ越しをした。身なりも気にせず、粗末な家に住んだ。江戸時代の私生活を知る上で、視覚的にも参考になります。江戸時代の人々が必ずしも生活に窮々としていたわけではないというイメージを具体的に持つことのできる本です。

(2009年2月刊。1600円+税)

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2009年11月28日

建具職人の干太郎

著者:岩崎京子、出版社:くもん出版
 江戸時代、子どもたちは幼いころから家を出されて見習い丁稚(でっち)として奉公させられていました。
 主人公の干太郎は、わずか7歳で建具屋に奉公に出されたのです。友だちと遊んでいたいさかりなのに、学校(寺子屋)に行くこともなく、親の勝手から泣く泣く建具職人への道を歩みはじめるのです。
 干太郎は先に奉公にきている姉に叱咤激励され、家に帰ることもかなわないまま、建具屋での奉公を続けざるをえません。帰るべき実家に親はいても、そこでは満足にメシを食べさせてもらいないのですから、仕方ないのです。
 丁稚小僧(でっちこぞう)というのは今ではまったく聞きませんが、私の幼いころ(小学生のころ)、親が脱サラして小売酒店を始めたとき、住み込みの姉さんがいました(長続きはしませんでしたが・・・)。また、定時制高校に通う人が住み込みではありませんでしたが、丁稚のようにして店で働いていました。配達・集金など、よく働いていて、私たち子どもの面倒も見てくれていました。昔は住み込みで働くということが、どこでもあたりまえのようにありました。そこで難しい人間関係を乗り切りつつ、腕(技術)を身につけていくわけです。なかなか大変なことだと思いますが、丁稚小僧というのはすごく身近な存在でした。今ではあまり見かけないように思いますが、どうなのでしょうか。たとえば、海苔作業のため、そのシーズンになると長崎の五島列島から大勢の男女が出稼ぎに来て、泊まり込んでいたと聞きます。一台何千万もする全自動の海苔機械が出来てからはみかけなくなった光景です。
 この本は児童文学書として、その7歳で丁稚小僧になった干太郎の身になって物語が展開していきますので、職人の大変さもよく分かります。
 こんな職業教育も必要なのでしょうね、きっと・・・。
 そして、あとがきに、小説ではあるけれど、19世紀はじめころに実在した建具職人の記録をもとにしたと書かれています。作家の想像力と取材とは大したものです。
(2009年6月刊。1300円+税)

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2009年12月21日

手妻のはなし

著者 藤山 新太郎、 出版 新潮選書

 日本の伝統的奇術を奇術師自ら紹介している本です。大変面白く、ぜひとも実際に著者の演じる手妻を見てみたいものだと思いました。
 手妻、てづま、と読む。江戸から明治にかけて、日本ではマジックのことを手妻と呼んでいた。手妻とは、日本人が考え、独自に完成させたマジックのこと。
 幕末に日本にやってきた欧米人が手妻を見て、その技術の高さ、演技の美しさに驚嘆した。たとえば水芸。水道も電気もない時代に、舞台一面に水を吹き上げる。それも、ただ水を出すのではなく、まるで舞踊の所作のように軽やかな振りによって太夫が自在に水を操るのだ。
 蝶の曲。紙で作った蝶を扇の風で飛ばしながら、さまざまな情景を描く。
 蒸籠(せいろう)。小さな木箱から、絹帯を次々に取り出し。その絹帯の中から蛇の目傘を何本も取り出す。
 いやはや、文字で読むだけでは想像できませんね、ぜひぜひ、現物を見せてください。
 手妻とは、手を稲妻の如くすばやく動かすことによる。いや、手のつま。妻は刺身のつまのように、ちょっとしたもの、添えものという意味で、手慰みとか手の綾ごとという意味である。手妻はマジックではない。魔法という意味はない。
 朝鮮半島には伝統奇術がない。ええっ、本当でしょうか……?
 タネと仕掛けが少しばかり説明されているのも、この本の面白いところです。
 刀の刃渡り。刀は引くことによって切れるが、刃の上にまっすぐ足を乗せたときには切れにくい。要は、度胸がすべての術。そうはいっても、素人にはできない技ですよね。
 火渡り。初めに地面を少し掘っておいて、そこに水を張って水溜りをつくっておく。その上に薪をはしごのように組んで、水溜りを隠すように並べる。その上に、さらに薪を並べて火をつける。火が下火になってから、上から清めと称してたくさんの塩とカンスイを撒く。これは熱を下げるのに有効。そのうえで、梯子の隙間を縫って水溜りを歩く。火はほとんどないし、下は水だから足は熱くはない。ただし、下手すると、大やけどする。
 人間が生きた馬を飲み込んでいく呑馬術というものがあったそうです。その仕掛けが説明されています。
 舞台背景は暗幕。舞台前にはずらりと面明かり(ろうそく)を並べる。その明りが眼つぶしとなって、観客には明かりの奥の舞台が一層暗くしか見えない。舞台上には顔まで黒布で隠した黒衣(くろこ)がいる。観客には、まったく見えない。
 そして、手妻師(長次郎)は、手足顔すべてに鉛の粉末の入った高級白粉(おしろい)を塗った。光沢のあるものによって、暗い部屋で光を集める。そして、術者が馬を呑む演技をしながら、馬を徐々に黒布で隠していく。そのために、ベニヤ板のような大きな板を用意し、板には黒布を貼っておく。板の一部を三角形に切り取る。その三角形の凹んだところに馬の絵を近づけて、三角の裂け目に馬の顔をはさんでいく。観客から見ると、馬の顔は細くなったように見える。徐々にベニヤ板の裏側に隠していく。馬は三角形の切れ目の裏で黒布で覆っていき、それにあわせて、三角形の切れ目は首から胴と順に包んでいった。
 これは口で言うのは簡単だが、演者と表の手伝い、裏の黒衣の3人がよほどタイミングを合わせないと難しい。馬は一切協力しないし、機嫌が悪いと暴れ出すから、演じるのは難しかっただろう。
 なんとまあ、そんな仕掛けだったのですか……。それにしても、よくできた仕掛けですね。
 手妻師の舞台は、一日の売り上げが40両。今日の400万円だ。当時、小作百姓は1年に1両の貯金がやっとだった。ということは、すごい売上だったわけです。
 手妻は不思議なだけでは芸にならない。全体を通してしっかり形がとれていないと芸にはなりえないものである。そうですね。
 手妻を覚えたい人のために伝授屋(プロの指導家)がいて、伝授本(手妻の指導書)が売りに出され、手品屋(今日のマジックショップ)まで存在した。江戸時代の人はオリジナリティー豊かであった。ふむふむ、なるほどですね。
 江戸町内に、寄席が500軒もあった。江戸の町の2町にほぼ1軒の割合だった。
 二羽蝶が生み出され、ストーリーが生まれた。人生を語り込むストーリーだ。二羽蝶になることで、それまでは単なる曲芸でしかなかった蝶の芸が、蝶の一生を語る物語になった。
 いやはや、なんとも奥の深い芸なんですね。こんな素晴らしい本を書いていただいてありがとうございます。ぜひぜひ実際の芸を今度見せてください。よろしくお願いします。

(2009年2月刊。1600円+税)

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2010年03月23日

夜明けの橋

著者 北 重人、 出版 新潮社

 江戸の町人生活の哀歓を見事に描いた短編小説集です。
 藤沢周平というより、山本一力の作風を思わせますが、またどこか違います。
 日照雨は、そばえと読む。狐雨ともいうのでしょうか。降りそうもない空から、ふいに雨が降るという言葉が続いています。
 縹組、縹渺。はなだぐみ、ひょうびょう。どちらも読めない漢字です。虚空の心を持つという意味のようです。したがって、縹色とは空色をさします。うへーっ……。
 江戸で旗本奴(はたもとやっこ)が武士の男伊達(おとこだて)を競っていたころ、武士を捨てて町人へ降りかかった災難。我慢に我慢を重ねますが、それにも限界があり、ついに切れてしまうのです。
 隅田川に端をいくつか架ける工事が進んでいます。競争なので、ねたんだ連中が嫌がらせを仕掛けてくるのです。それにもめげずに橋を作り上げます。今も名前の残るお江戸日本橋です。
 江戸の街並みができあがってまもないころの武士や町人たちの日常生活が実感をもって伝わってきます。山田洋次監督の映画『武士の一分』を思い出しました。
 著者は山形県酒田市の生まれだそうです。となりの鶴岡市は藤沢周平の故郷です。私も、弁護士になりたてのころ、鶴岡市には何回となく通いました。灯油裁判の弁護団の末席を汚していたのです。恥ずかしながら何の働きもしませんでしたが、大変勉強にはなりました。
 ところが、山本周五郎賞の候補になったものの、61歳の若さで急逝してしまったのでした。胃がんだったようです。本人もどんなに残念だったことでしょう……。
 がんの再発を聞かされ、ベッドのなかで深刻な症状を感じていたはずの状況で、これらのしっとりした短編を書いたというのは、すごいことです。本当に残念です。ご冥福を祈るばかりです。

 
(2009年12月刊。1500円+税)

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2010年04月09日

江戸府内・絵本風俗往来

著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
 明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。  
 江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
 それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
 この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)

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江戸府内・絵本風俗往来

著者 菊池貴一郎、 出版 青蛙房
江戸時代の人々の生活をビジュアルに知ることのできる貴重な本です。
明治38年に出版された和本を昭和40年に復刻したものを、2003年5月に新装版として刊行されました。こういう企画の本は貴重ですね。これも大いに期待します。
 明治38年本は、古書店で2万円ほどするそうですが、この本は4300円です。  
 江戸時代の人々の生活というと、士農工商、切り捨て御免、男尊女卑、大飢饉、身売り、一揆など、否定的かつ暗黒のイメージばかりが強いのですが、実は案外、町民たちはおおらかに生きていたという実態があったようです。
 それは、この本に描かれている絵をみると、よくわかります。
 この本を読んで、私が一番驚いたのは、私の趣味と一致するからかもしれませんが、江戸市中で、植木や花売りがとても多かったということです。虫かごに入れたキリギリス売りも歩いていました。朝顔売りは、毎朝、未明のころから売り歩き、昼前には売り切っていた。
牡丹は珍しく、牡丹屋敷と呼ばれるところがあった。かきつばた(杜若)は、名所が江戸のいくつかにあった。
ホタルの名所もある。町には、金魚売も通ります。
子供たちは学校(寺子屋)で勉強し、別の町内の子たちと勇ましくケンカもしていました。
4月になると、行商の魚屋は初ガツオを売ります。江戸の人たちは厚切りのさしみで食べるのを好んでいたようです。現代人と同じです。
夏には花火も楽しみ、春の花見など、江戸の人々が四季折々の風流を味わっていたことがよく分かります。
江戸時代に人々がどんな生活を送っていたのか、具体的ん飽イメージを掴むためには、この本のように目で見てみるのも不可欠だと思います。
(2003年5月刊、4300円+税)

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