弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

江戸時代

2018年9月 8日

木喰上人

(霧山昴)
著者 柳 宗悦 、 出版  講談社文芸文庫

木喰(もくじき)上人(しょうにん)とは、真言宗(真言宗)の僧であって、江戸時代にたくさん輩出した、木喰戒(もくじきかい)を守る僧を呼ぶ。
著者が大正14年から15年にかけて全国を調査し、5百個の仏躰を目撃してまとめたのが本書です。
木喰上人は、北海道から四国、九州まで足を運んでいます。安永2年から寛政12年まで、28年間に及ぶ旅です。
木喰戒は、火食を避け、また肉食を摂(と)らない。しばしば、木の葉や木の実で足りた。五穀やソバ粉を生のままとった。ソバ粉は特に好むものだった。チベットを旅した日本人僧もソバ粉を主食としていたことを思い出しました。それでよく生きられたものだと思いますが、なんと80歳の長寿と健康を誇ったというのです。少量の食物で、全国を旅して、病気にかかることなく80歳まで長寿をまっとうしたなんて、なんと素晴らしいことでしょう。
このほか、温泉に浸るのは好んでいますし、お酒もたしなんだようです。
ときに弟子が同行していますが、基本はひとり旅です。
木喰上人の彫った仏像はいかにも独創的で、見る人に圧倒的なインパクトを与えます。固定した形式からは自由。伝統への執着がなく、また伝統への反抗もない。木喰上人の仏像は、無心から生まれた。
木喰上人の仏像には模倣の跡がない。したがって、何らマンネリズムがない。ある作風への固守もなく、また慣例的な様式もない。旧習への追従もなく、同時に新案への作為もない。因襲への愛も、憎しみもない。
木喰上人が仏を刻んだのは、いつも夜だった。誰も、それを見ることは許されなかった。開眼(かいげん)の日までは、不浄の眼に触れるべきものではないからである。
昼間は木喰上人にとってことのほか多忙であった。なぜなら、病める者に治療を施していたから。
わが心、にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり
木喰上人の仏像は、円突上人の仏像と似ています。どちらも素朴さをありありと残しつつ、いかにも尊い仏様の表情です。
村々をめぐりながら、仏像を刻みながら、村人たちにどんな話をしたのか、どうやって91歳という長寿を木喰戒を尊守しながらもまっとうすることができたのか、とても興味深く、惹きつけられた文庫本です。
(2018年4月刊。1800円+税)

2018年7月21日

江戸の骨は語る

(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版  岩波書店

2014年7月、東京の「切支丹屋敷跡」から3件の人骨が発見された。
新井白石が尋問し、藤沢周平が『市塵』に描いた江戸時代の潜入宣教師シドッチの人骨ではないのか・・・。
この謎を解いていくスリリングな過程が生き生きと描かれていて、人体をめぐる科学の進歩・発達を実感させてくれます。結論を先取りすると、今のDNA鑑定は、人骨となった人物がイタリアの中部地域に居住していたというところまで特定できるのです。ですから、そこまで判明したら、当然のことながら、その人骨はイタリア人のシドッチだと特定されます。
徳川幕府によるキリスト教信者の弾圧が強まり、潜入・潜伏していた宣教師たちが、あるいは残酷に処刑され、また棄教(ころび)していった。それを知ったローマ教皇庁は、日本への宣教師の派遣をついに断念した。
シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、年に銅25両3分と銀3匁(もんめ)ずつを支給され、拷問もなく過ごした。しかし、4年後の1713年に、シドッチの世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したため、3人とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチは、10ヶ月後の1714年に47歳で衰弱死した。
シドッチが切支丹屋敷内に埋葬されたというのは、キリスト教関係者の間では広く知られていた。そして、実際に、その切支丹屋敷内から3件の人骨が保存状態も良く発見されたのです。では、本当にシドッチたちか、どれがシドッチか・・・。その探索が始まります。
東京の地下は、土質が粘土質で、嫌気的な環境が保たれやすいので、人骨は残りやすい。九州では、地面の下から人骨が消失していくのに対して、関東では、地面にしみ込んだ雨水が人骨を溶かすので、上面にあたる部分から骨が消失していく。
古代人骨のDNA分析では、歯の内側の空所である歯髄腔の内側面を削り、内部の象牙質を用いることが多い。
古代の人骨のなかで、最もDNAをふくむのは、頭骨の内耳の周辺の骨。人骨中に残るDNAの保存に関しては、水は大敵。酸性に傾いた日本の土壌では、しみこむ水も酸性を示し、骨中に残るDNAを破壊する。
DNA分析の技術の進展がこの人骨をイタリア人であると断定できるまで進んだタイミングで発掘されたことになる。
江戸時代の男性の平均身長は156センチ。ところが問題の人骨は身長が170センチをこえている。
シドッチの遺骨が発見されたのは、没後300年という節目(ふしめ)の年であり、2014年は日本とイタリア修交150周年でもあった。
すごいですね、人骨がイタリア人であることを確実に断定できるまでDNA分析ができるとは・・・。
(2018年4月刊。1500円+税)

2017年11月23日

ヘンな浮世絵

(霧山昴)
著者 日野原 健司 、 出版  平凡社

歌川広重は有名ですが、その弟子に歌川広景(ひろかげ)という浮世絵師がいたって、私は初めて聞きました。
知る人ぞ知る無名の浮世絵師で、その正体は謎。広景の代表作は、「江戸名所道戯尽(どうけづくし)」。老若男女の江戸っ子たちが、江戸の名所を舞台に、笑ったり、騒いだり、転んだりと、見ているほうが思わず脱力してしまうユーモラスな姿で描かれている。さしずめ「お笑い江戸名称」と言ってよい珍品。
ばかばかしさが満載の「ヘンな浮世絵」です。ぜひ一度、手にとって眺めてみて下さい。ニンマリ、ニッコリ、ホッコリしてくること請けあいです。師匠である歌川広重、そして葛飾北斎の描いた絵を平然とパクっているというのも特色です。
この「ヘンな浮世絵」が描かれたのは幕末のころ、安政6年(1859年)から、文久元年(1861年)までの2年8ヶ月あまり。社会が大きく揺れ動いているなかでマンガみたいな浮世絵が刊行され、江戸町民の人気を集めていたのでした。
犬のケンカがあり、馬が暴れて運んでいた料理が空を飛び、トンビが油揚げをさらっていく。ナマズが蒲焼屋から脱走し、子どもが水鉄砲で遊んでいて通りかかった武士に水をかけてしまう。さらに、いろんな人がすってんころりんしている姿がユーモアたっぷりに描かれます。
東大本郷の赤門(加賀藩前田家上屋敷の御守殿門)前を、男たち3人が突然の雨で、1本の傘しかないので2人が下になって1人を肩車で担いで傘をさす姿が描かれています。ナンセンスなマンガそのものです。幕末のせちがらい世の中だったからこそ、人々はこんな笑いを求めていたのでしょうか・・・。
知っていて損はしません。江戸の人々の生きた姿を実感できる楽しい本です。
(2017年8月刊。1700円+税)

2017年11月12日

北斎漫画入門

(霧山昴)
著者 浦上 満 、 出版  文春新書

私はテレビをふだんはまったく見ませんが、出張先のホテルで見ることはあります。そのとき、たまたま北斎の「赤富士」を拡大して解説する番組がありました。もちろん北斎が素晴らしい構図の画家だということは知っていましたが、この本を読んで、改めて北斎が世界的な画家だということを再認識させられました。
1998年、アメリカの「ライフ」がこの1000年にもっとも偉大な業績をあげた世界の人物100人を特集したとき、日本人としては北斎が一人選ばれたそうです。それほど北斎は世界に影響を与えたのですね・・・。北斎は86位、ピカソは78位でした。
世界で一番有名な絵は、ダヴィンチの「モナリザ」と、北斎の「大波」だという話も紹介されています。「大波」とは北斎の「神奈川沖浪裏」という絵です。逆まく大波に船が呑み込まれそうになっていて、遠くに白雪を頂上いただく富士山が見えるという有名な絵です。その北斎による「北斎漫画」を開設した入門書です。
「北斎漫画」は江戸時代のベストセラー。1編あたり5000冊から1万冊は摺られた。
シーボルト事件で有名なシーボルトは北斎に会って、肉筆画を直接注文したとのこと。知りませんでした。同時代の人なのですね。
そして、北斎は、5回も改名していて、6つの名前をもっているのですね。また、売れっ子画家だったはずなのに貧乏暮らしだったようです。100回近くも転居していますが、要するに長屋暮らしで引っ越しするのが簡単だったからのようです。家財道具を運ぶこともなかったのです。
北斎は大胆な構図で緊張感あふれる絵を描きました。同時代の広重は、平明で穏やかな作風の絵を描いています。
「北斎漫画」は、北斎がそれを刊行しはじめたのは55歳のとき。90歳で亡くなったあとも出版は続き、明治11年に15編が刊行されて完結した。人物、動植物、風景、建築そして妖怪幽霊まで、ありとあらゆるものが描かれている。まさしく「絵で見る江戸百科」になっている。これが、イギリス、フランスに大きな影響を与えた。ゴッホも影響を受けた一人なのですね・・・。実物はともかく、もっと詳しいカラー図版を買って拝むことにしましょう。
「北斎漫画」の世界的コレクターによる手頃な入門解説書です。
(2017年10月刊。1200円+税)

2017年8月12日

殿様の通信簿

(霧山昴)
著者 磯田 道史 、 出版  新潮文庫

「土芥(どかい)冠讎(こうしゅう)記」という元禄期の本があるそうです。
著者は、この本のなかから、現代に生きる私たちに、江戸時代の殿様の生々(なまなま)しい生活の実情を教えてくれます。この本は、隠密(おんみつ)の探索の結果にもつづいて、幕府高官が書いたもののようです。殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる、という意味の言葉です。
水戸黄門とも呼ばれた徳川光圀の素行調査もされている。
それによると、とても品行(ひんこう)方正(ほうせい)とは言えない。江戸時代の大名のなかでも、光圀はズバ抜けて好奇心の強い人物だった。現実の光圀は、諸国漫遊こそしなかったが、その存在は、当時の人々にとって、衝撃的だった。家康の孫という高貴な人物が、好奇心にかられて、色街に出没する。その噂だけでも、当時の人々の心は十分に浮き立った。浅野内匠頭(たくみのかみ)は、無類の「女好き」であり、さらには、「ひき込もり」行動がみられた。そして、地元の家老の仕置も、心もとない。若年の主君が色にふけるのをいさめないほどの「不忠の臣」だから、おぼつかない。
前田利家は、体が大きく、身長も高く、180センチもあった。
江戸時代は270年も続いた。人間の一世代を30年前後とすると、約10世代になる。
江戸時代は250の藩があり、それぞれ一つの大名がいた。だから、少くなくとも250人の大名がいた。
江戸城では、大名の席順は、石高ではなく、官位で決まる。そのため、「官位」は、大名の最大の関心事になっている。
この本を読むと、殿様は決して気楽な稼業とは言えなかったようです。
(2017年6月刊。520円+税)

2017年3月 4日

幻の料亭・日本橋「百川」

(霧山昴)
著者 小泉 武夫 、 出版  新潮社

江戸時代の高級料亭としては「八百善(やおぜん)」が有名ですが、日本橋にあった料亭「百川(ももかわ)」も、それに続いていました。
なにしろ、お値段が高い。最低でも1万6700円はしました。その上は2万5000円、最高は3万3400円です。「八百善」は、さらに高額です。
江戸番付三大料亭は、「八百善」のほか、深川の「平清(ひらせい)」、檜物町の「嶋村」。「百川」は、それらに次第に肩を並べるようになっていった。
江戸時代の一流の料理屋は、食事の前に、まず風呂に入っていたのだそうです。汗を流して、さっぱりした気分で美味しい料理をいただいたのですね。今でも合宿したときなどには、宴会の前に一風呂あびることがありますが、それと同じです。
「百川」には、当代きっての文人墨客が頻繁に出入りしていた。その中心的存在は大田南畝。
「百川」は真夏に「霰(あられ)酒」を供した。極上の酒に氷を砕き入れたもの。冷蔵庫のない江戸時代なのに、真夏にオンザロックで酒を飲んでいた。山に氷室を備えていた。
「百川」の厨房は、カマドの火力が強く、煙突は高くして煙は強制的に外へ吐き出すようにしていた。常に新鮮な水が井戸から汲み上げられていた。
江戸っ子は、魚は白身を食べていた。マグロは下魚として敬遠された。
日本橋の魚河岸に隣接して、幕府のつかう魚を確保するための「活鯛(いけだい)屋敷」が設けられていた。「肴役所」(さかなやくしょ)とも呼ばれた。
幕末のペリー来航のとき、「百川」が活躍したのだそうです。初めて知りました。1853年7月のことです。ペリー58歳。「百川」の主人・茂左衛門は72歳。このとき、幕府はペリー一行をもてなすため、アメリカ側300人、接待する日本側200人の合計500人分の料理を「百川」に請け負わせた。
これはすごいですね。冷蔵庫のない時代の500人の宴会料理って、いったい、どうやってつくって、また運んだのでしょうか。
一人前3両、つまり30万円、500人分だと1億5000万円の大饗宴です。
ところが、魚主体で、微妙な味わいを誇る日本料理は、ペリー側を満足させるものではなかったようです。肉や乳製品に食べ慣れている口には、きっと物足りなかったのでしょう。
ただ、デザートのカステラは好評だったとのこと。
ところが、この「百川」は明治になったとたんに姿を消してしまうのです。不思議です。
そんな「百川」の粋を尽くした料理を味わった江戸の人々は幸せでした。さすがに料理の大家が発掘した話ですから、味わい深い内容の本になっています。
(2016年10月刊。1300円+税)

2017年1月 1日

料理通異聞

(霧山昴)
著者 松井今朝子 、 出版  幻冬舎

 江戸にあった有名な高級料亭「八百善」の成り立ちを活字にした「舌品」の時代小説です。「八百善」という存在は前から知っていましたが、どうやら今に続いているようです。なんと十代目がおられるとのこと、すごいですね。
 著者の料理に関する描写は並はずれています。その素材の扱い方から調理法まで、よくもここまで調べたものだと驚嘆していましたら、著者自身が「あとがき」で曾祖父の代から続いている京都の料理屋(割烹『川上』)の長女として生まれ育ったというのです。
もちろん取材もされたのでしょうが、ともかく、美味しい料理をつくる工夫が微細に語られていて、それだけでも心が惹かれます。
どんな料理も手間のか方ひとつで味がまるで違ってくる。料理は何もないところで一から生み出すものではない。昔から伝わる仕方にほんの少し工夫を加えたり、しっかりと手間を欠けることで独自の味を創るのだ。
さばいた魚をすり身にするときには、並みならぬ丁寧さが他に優る味を生み出す。一方で、魚をさばくときには、思い切りの良さが要る。
何事も手早くして、熱い汁は熱いうちに出すのが、やはり料理の肝腎かなめだ。
 茶漬けを所望する客に対して、時間をかけて食材から水まで、手間ひまかけて取寄せて差し出した。そして二人分で一両二分を請求した。ふつうなら36文、安い店なら12文でも食べられるお茶漬けに、「八百善」が二人分で一両二分の値をつけたという話は江戸中に広まった。
「八百善」には、将軍様まで立ち寄ったようです。
「八百善」は『料理通』という本を刊行していますが、当時の著名な文化人である、大田南畝(なんぽ)などが序文や挿画を寄せています。当時、ベストセラーになりました。
油揚げをつまんで口元に寄せると日向(ひなた)臭いような匂いがした。噛めば大豆の甘みがじわじわと口中にひろがって、善四郎(主人公です)は母親の懐に抱かれたようなほっこりした気分だ。干瓢(かんぴょう)の出汁は強い主張がなくとも、大豆のほのかな甘みを損なわずに、巧(うま)く引き立てている。
 どうですか、うまいですよね。ついつい美食のワールドに引きずり込まれてしまいます。
 江戸時代の食文化の極みがよく再現されていると、読みながら何度も驚嘆しながら大いに楽しませてもらいました。

(2016年12月刊。1600円+税)

2016年12月26日

あきない世傳・金と銀(一)(二)

(霧山昴)
著者 髙田 郁 、 出版  角川春樹事務所

 うまいです。読ませます。しびれます。いえ。身も心も温まります。小説って、こうじゃないといけませんね。私は、感嘆のあまり、一人でなんども頭を上下させました。
 大阪の商人の世界にけなげな少女が入っていき、商人として成長していく過程が刻明に描かれていきます。主人公は幸(さち)という女の子です。学者だった父が早く死んだため、大阪の呉服商「五十鈴(いすず)屋」に女衆として奉公することになります。その女衆とは、要するに女中です。店の商売にはタッチせず、あくまで裏方として働くのです。ところが、主人である三代目徳兵衛が早くに病気でなくなったことから、呉服商は経済危機に陥ります。そこに幸が活躍する道が開けてくるのです。
 幸の父親は、商売なんかに関わるなと言っていました。
「自らは何も生み出さず、汗をかくこともせず、誰かの汗のにじんだものを右から左へ動かすだけで金銀を得るのが商人だ。商とは、即ちいつわり(詐)だ」
 これに対して「五鈴屋」の番頭は幸に次のように諭します。
 「真っ当な商人は、正直と信用とを道具に、穏やかな川の流れをつくってお客に品物を届ける。問屋も小売も、それを正業に生きるから、誰の汗も無駄にしないように心を砕く。それでこそ、ほんものの商人なのだ」
 そして、幸がついに「五鈴屋」の商売再建へ乗り出していくのです。このころ呉服商は店売りではなく、なじみの客を訪問して注文をとってきて売る方式のみ。ところが、近江商人が現銀掛値なしの店売りを始めたのでした。
 「五鈴屋」も一度やって、在庫を一掃することができました。では、すぐにこちらに乗りかえるかと思うと、そんな簡単に商売の方法を変えることにはなりません。
幸は、呉服屋仲間に認められるのに成功したのですが、それは「商売従来」を暗唱できたからです。
「挨拶、あしらい、もてなし、柔和たるべし」
見事なストーリー展開です。簡単に読み飛ばすのがもったいないほど、江戸の呉服商の世界にぐいぐいと引きずりこまれていきました。まことに、いい小説とはありがたいものです。読み終えると、気分がはつらつとしてきます。続編が楽しみです。

 
(2016年3月、8月刊。580円+税)
東京銀座の映画館でデンマーク映画『ヒトラーの忘れもの』をみました。
第二次大戦中、デンマークを占領していたナチス・ドイツ軍は連合軍の上陸作戦を防ぐためにデンマーク海岸だけでも200万個という大量の地雷を敷設しました。
終戦後、その大量の地雷の処理を捕虜になったドイツ兵にやらせたのです。
2000人のドイツ兵が地雷処理にあたらされたのですが、その大半が15歳から18歳までの少年兵でした。そして、地雷処理はとても危険な作業であるため、慣れない少年兵の半数近くが死亡ないし重傷を負ったのでした。
この映画は、デンマーク国民すらあまり知らない歴史的事実を忠実に再現しています。ははじめはナチス・ドイツ軍が餓死しようが爆死しようが当然だと考えていたデンマーク軍の軍曹が、大ケガしたドイツ兵が「ママ、ママ」と泣き叫ぶのを見て、ああ、やっぱり、まだ子どもなんだと思い考えを変えていくのです。
とても見ごたえのある映画でした。
福岡県大牟田市にあった連合軍捕虜収容所の所長だった日本軍中尉が戦犯として処刑された事実がありますが、それを映画にしたようなものでしょうか。この国では、そんなことはタブー視され、「自虐史観」だとか野次を飛ばされて、まともな議論すら許されません。
おかしな日本になってしまいました・・・。

2016年12月24日

江戸看板図聚

(霧山昴)
著者 三谷 一馬 、 出版  金曜日

 ヨーロッパの街並みと日本の街路との最大の違いは看板にあると思います。色と形、ネオンサイン、電光掲示など、それこそありとあらゆる工夫を凝らした看板が商店の前だけでなく、ビルの壁一面を飾っています。
 夜のイルミネーションの派手派手しさにも独特のものがあります。
 フランスの店も、もちろん看板は出しています。ただ、街並みは厳しい景観規制が働いているようで、あくまで調和優先で、控え目なのです。ですから、落ち着いた気分で街並みを散策することができます。
この本は現代日本の街路にあふれる看板が、実は江戸時代の伝統をきちんと受け継いでいることを如実に証明しています。
 看板の重要性が増すのは江戸が開かれて以降のこと。商業が発展し、京阪の商人は江戸に商品とともに看板を送り、「下り看板」と称して商品に権威づけをした。
 商家が繁盛すると、看板の権威は一層まし、大金をかけて大看板をつくったり、漆や金銀を使った豪華な看板が目につくようになった。
江戸時代の看板は、看板屋のほか、武士、僧侶、学者、書家、作家、画家など、さまざまな人が手がけた。
有名な良寛が書いたものと伝わっている飴屋の看板もある。
看板書きの書体は、唐様(からよう)でもなく、御家流でもなく、さりとて提灯(ちょうちん)屋のものとも違っていた。
「一膳めし」屋の看板もありました。「二八そば」だけでなく、「二六そば」の看板も紹介されています。「貸本屋」もあります。もちろん新刊本を売る店もあります。
よくぞこれだけの看板の図を文献から集めてきたものだと驚きます。
 眺めているだけでも楽しい図聚です。また、江戸時代を知るためには欠かせないものだとも思いました。

 
(2016年9月刊。1250円+税)

2016年12月18日

池田屋事件の研究

(霧山昴)
著者 中村 武生 、 出版  講談社現代新書

 幕末の京都に起きた有名な池田屋事件の顛末とその背景について、豊富な資料をもとにぐっと掘り下げた本格的な研究書です。400頁をこす新書ですから、ずっしりとした手応えがありますが、内容も重さに負けていません。
 池田屋事件は元治元年(1864年)6月5日に起きた。そのころ、各地で攘夷浪士による挙兵が相次いでいた。大和の天誅組の乱、但馬生野の変、水戸の天狗党の乱、長州毛利家の率兵状況(禁門の変、蛤御門の変)。
 池田屋事件のきっかけとなったのは、京都・四条小橋西詰真町の桝屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の逮捕だった。その6月5日の朝、古高(当時36歳)は自宅で新撰組に捕えられた。それを知った長州毛利屋敷は激しく動揺し、新選組の壬生屋敷を襲って、暴力に訴えてでも古高を奪還しようとなった。池田屋に新長州浪士たちが集まったのは、その具体化のためだった。
 なぜ町の一介の商人を毛利家中が見殺しにせず、救出しようとしたのか・・・。それほど、古高は重要人物だった。
新撰組は文久3年(1863年)3月に創立された、京都守護職会津松平容保所属の浪士集団。畿内で暗躍する新長州の浪士集団に対抗するため、会津松平家は同じく浪士集団の必要性を感じていた。
 古高は、皇族・堂上・長州毛利家をはじめとして広く交流しており、情報が集中し、面談場所として解放されていた。したがって、その存在を新撰組を気づくのは必然でもあった。
新撰組が古高を拷問にかけたとしても、その具体的供述によって初めて池田屋襲撃がなされていたというものではない。新撰組は古高の逮捕前から、浪士の潜伏場所として、20カ所あまりを確認していた。そこで、新撰組は、会津藩、一橋家、桑名藩に応援を頼んだから、応援組が遅れたので、待ちきれずに新撰組は行動を開始した。
 桂小五郎も新撰組が池田屋を襲撃した当時、その場にいて、すぐさま脱出して屋根伝いに逃げて対馬屋敷へ入った。
新撰組に襲われて池田屋内で戦死した者が7人か8人いるのは確実だが、それが誰なのか、今なお確定していない。
池田屋事件の直前、近藤勇は新撰組の解放を請願していた。近藤勇は、自分たちを攘夷を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。攘夷が実行されず、京都の市中見回りに配属されるのをよしとしなかった。しかし、禁門の変のあと、変化した。禁門の変のあと、近藤勇は攘夷よりまず長州征討を行うべきだと主張するようになった。そして、一・会・桑(いっかいそう)が近藤勇と新撰組を手離さなかった。薩長にとって政局打開の最前線の敵は、一・会・桑だった。その一・会・桑の最重要軍事力こそ新撰組だった。ここで、たかが150名程度の兵士と考えてはいけない。150名というのは決して少なくないし、軍事的精鋭によって構成されている。
 池田屋事件からまもなく起きた禁門の変で、長州は惨敗する。ところが禁門の変で反長州の立場をとった薩摩が、こんどは一・会・桑とことなり長州の社会復帰を助けた。あくまで毛利家の羽体化を望む一・会・桑との決戦を覚悟したのが、薩長同盟。それが長州征討の失敗につながる、会津が長州と全面戦争を行う覚悟を決めた事件として池田屋事件は位置づけられる。
 5年前に刊行された本です。絶版になっていたので、ネットで古本を入手しました。その後、研究はさらに進んでいるのでしょうか・・・。

(2011年10月刊。1200円+税)

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