弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2013年1月22日

ワルシャワ蜂起1944 (下)

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社

1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

2013年1月17日

ワルシャワ蜂起(上)

著者  ノーマン・デイヴィス 、 出版  白水社

この本を読んで、すっかりポーランドびいきになってしまいました。国民が全体として自由をかちとるためには死をも恐れず、団結していたなんて、心が震えるほどの感動を覚えました。
 ワルシャワ蜂起というと、ナチスに対する無謀なたたかいだったというイメージがあります。また、ワルシャワ市民が決起して何か月も死闘を目の前で繰り広げているのをソ連赤軍は腕を組んで見殺しにしたという暗いイメージがあります。
 蜂起が成功しなかったのはたしかですが、それでもポーランド市民の不屈の勇気は大いなる称賛に値するものと思います。蜂起なんて無謀だった、愚かな過ちだったなどと非難するのは許されないことだと、上巻だけでも550頁もある本書を何日もかけて読んで痛感しました。
 ワルシャワ蜂起が起きたのは1944年8月。6月にノルマンディー上陸作戦があった、連合軍がフランスを経て、ドイツに迫ろうというときです。パリではレジスタンス勢力が蜂起し、ワルシャワとは違って、パリ市内に残ったナチス・ドイツ軍を降伏させることができました。ワルシャワで蜂起した国内軍はパリ蜂起を祝っています。ところが、ナチス・ドイツ軍はワルシャワから撤退するどころか、各地から応援部隊を投入し増強したのです。そして、ソ連赤軍はスターリンの指示によって対岸から動かず、ひたすら情勢の推移を見守るのでした。
 イギリスは、大陸戦を自力で戦う能力をもっていなかった。1939年当時、英国陸軍の地上軍はチェコスロヴァキアよりも小規模だった。そのうえ、イギリスの財政事情は破綻寸前だった。イギリスの厳しい財政状態は、欧州戦争を戦うか、それとも大英帝国を救うかの二者択一を迫っていた。当時、たよりになる唯一の支援国であるアメリカから莫大な財政援助が得られない限り、勝利する可能性はほとんどゼロだった。
 ソ連は政治的粛清と大量処刑の渦中にあり、国家機能をマヒさせるような重大危機が進行していた。そして、赤軍はモンゴルで日本軍と戦争状態にあった。
 ポーランドは、ナチス・ドイツとソ連軍が分割支配した。ソ連のNKVDは、占領の前に占領したあと即刻逮捕すべき者の住所・氏名の膨大なリストを用意していた。そして、ポーランド軍将校と警察部隊の士官2万5千人がNKVDの捕虜となり、数か月間の取り調べの後、冷酷に射殺された(カチンの森事件)。
 1930年代にソ連国内で結成されたポーランド共産党はスターリンによる粛清の対象となり、ほとんど党の全活動家に相当する5000人の男女が、大部分はユダヤ人だったが、スターリンの命令で銃殺された。そのため、開戦当時のポーランドには、組織的な共産主義運動は存在しなかった。
 1940年7月から10月にかけて続いた英国本土上空の空中戦、バトル・オブ・ブリテンは、英国空軍がゲーリングのドイツ軍に粘り勝ちした。このときイギリスから出撃した英国空軍の操縦士の10%はポーランド人パイロットだった。そして、撃墜した敵機の12%はポーランド人パイロットの功績だった。
 ポーランド空軍飛行中隊の比類ない勇気と目覚ましい戦果がなければ、果たしてイギリスがバトル・オブ・ブリテンに勝利できたかどうか疑わしい。
 これは、イギリス空軍大将の言葉である。そして、連合国空軍によるドイツ爆撃作戦についてもポーランド空軍兵士の貢献には目覚ましいものがあった。
 イタリアを進んでいた連合軍はモンテ・カッシーノ要塞を攻めあぐねた。この攻防戦においてもポーランド軍2個師団の勇敢な兵士たちの活躍は目覚ましかった。
 ワルシャワは、世界でもっともユダヤ人の数が多い都市だった。やがてニューヨークが世界一になるが、そのニューヨークのユダヤ人の多くは、ワルシャワからの移民だった。
1918年、ユダヤ人はワルシャワの全人口の40%をこえ、まもなく過半数を占めると思われていた。ユダヤ人は、少なくとも500年前からワルシャワ住民だった。貴族階級がユダヤ人を保護していた。ワルシャワに住むユダヤ人の大多数は、ポーランド人とまったく同じ権利を持ち、ポーランド人と同じような考え方をしていた。
 あの有名なコルチャック博士も、ポーランドに同化したユダヤ人だった。
 ユダヤ人は、ポーランド全人口の10%でしかなかったが、大学生の比率は、はるかにそれを上回っていた。ワルシャワ大学の法学部と医学部の学生の過半数はユダヤ人だった。
 アドルフ・ヒトラーは、心の底からポーランドを憎悪していた。ポーランドは、スラヴ人とユダヤ人が住む国だったが、ナチスの教義では、その両方ともが人間以下の存在だった。
 ヒトラーは部下たちに対して、ポーランドでは可能な限り残忍に行動するよう命令した。
 ドイツのポーランド占領作戦は、他の西欧諸国に対する占領政策とは大きく異なっていた。総督府の使命は、「あらゆる手段をつかってポーランド人を最終処理する」ことにあった。
 ワルシャワ・ゲットーの人口は、最大時には38人に達した。1939年11月から1943年5月まで存在した。ゲットーの唯一の自衛手段はユーモアだった。誰も彼もが、必至の思いで現実から逃避しようとしていた。
 1943年4月、ゲットー蜂起が始まった。しかし、ゲットーの住民の中にも同胞の苦悩にまったく無関心な富裕層がいた。ゲットーの中でも、少数の金持ちは豊かな生活を送っていた。1943年のゲットー最後の日までダンスとコンサートを欠かさず、外で銃砲が飛びかっているなかでフルコースの料理を楽しむ一家も存在した。
 ええっ、ウソでしょ、そんな・・・と思ってしまいました。
 密使ヤン・カルスキがゲットーの中に立ち入り、イギリスにわたって、報告したことは別の本で紹介しました。
 ゲットー内のユダヤ人警察は、ナチス親衛隊の手先となってユダヤ人を殺害した。そうすることで自分自身が生きのびる期間が見つかると愚かにも信じていたからだ。
 これを愚かと言うには、あまりに残酷すぎますよね・・・。
 コルチャック博士は、自分の孤児院の子どもたちと一緒にゲットーに囲い込まれ、最後は子どもたちの手を引き、歌をうたいつつ、楽しい「ピクニック」へ出かける夢を語りながら絶滅的収容所への道を歩いていった。
 その気高さには、何度も涙が出て止まりませんでした。
 ゲットー蜂起とその失敗を多くのワルシャワ市民は聞いたことがないか、聞きたいとも思わなかった。噂が耳に入っても、どう理解すればよいか分からなかった。
 ポーランド人を奴隷民族にするという目標にあわせて、ナチスは強制労働システムを導入した。
 戦争中に200万人のポーランド人労働者がドイツ本国に強制移送された。
 ウッチ少年収容所に収容されていた1万3000人の子どものうち、1万2000人が収容所内で死んだ。
自由を求めて闘う気風はポーランドの長い伝統である。祖国を分割した列強勢力(ロシア、オーストラリア、プロイセン)に対して19世紀に繰り返し発生した武装蜂起は、ポーランドの歴史を語るうえで欠かせない重要事件である。
 決定的に重要な役割を果たしたのは女性だった。ポーランドの女性は、妻として、女として、また祖母として、民族の伝統を受け継ぎ、社会の基本構造を守り、活動家を支え、男たちにその果たすべき役割を教えた。女性がみずから武器をとって戦いの先頭に立つことさえあった。
 ポーランド地下抵抗組織は、誕生の最初の段階から確固たる命令系統と正統な法的枠組みの中で活動する組織だった。抵抗運動の最終目標が占領軍に対する一斉武装蜂起であることは、関係者全員にとって暗黙の了解事項だった。
 ポランド市民がドイツ侵略軍に協力するというのは、例外的な場所を除けば皆無だった。ポーランドのレジスタンスが選んだのは、危険と孤立と犠牲の道だった。
 勝利とは、敗北に耐えること。そして降伏しないことだ。抵抗運動を自発的、本能的に支えるという雰囲気が社会全体にあった。
 1944年7月は、ポーランドの地下国家閣僚会議が成立した。秘密国家は機能していた。地下国家の司法制度は地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって支えられていた。対独協力者は処刑され、判決は公表された。ワルシャワの地下裁判所は220人に対して死刑判決を下した。
 1944年8月に始まった蜂起について、一般市民がこぞって熱狂的に蜂起を支持したというのは単なる伝説だ。正確に言えば、ワルシャワ市民の大多数は蜂起軍に共感していたが、蜂起とは無関係の立場を維持し、ひたすら自分が生き残ることのみを考える市民も多かった。 
 蜂起に対して、ソ連のスターリンは見殺しにし、アメリカも放置し、イギリスのチャーチルのみ空爆その他で援助したようです。
 蜂起したあとの経緯をたどるのは、心苦しいばかりではありますが・・・。下巻に続きます。

(2012年11月刊。4800円+税)

2012年12月28日

私はホロコーストを見た(上)

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社

『ワルシャワ蜂起』を読んで、ポーランド国民の不屈の伝統を知り、大いに見直したばかりです。
 この本は、元ポーランド・レジスタンス機関の密使カルスキが語ったものです。そのすさまじさに圧倒されます。ところが、ヤン・カルスキは自分の任務は失敗したと思い、1945年以来、ずっと沈黙していたのでした。1981年10月になって忘却のなかに埋もれていたヤン・カルスキは再登場したのです。
 1942年夏、トレブリンカ絶滅収容所への大量移送後もまだワルシャワで生きのびていたユダヤ人ゲットー代表者からの要請を受け、カルスキは自分が目撃したユダヤ民族絶滅作戦の実態を連合国首脳に伝えようと、1942年11月末、ワルシャワからロンドンに到着するなり必死に動いた。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ではないが、周囲にはユダヤ人家族が多かった。カルスキは予備士官学校に入って、そこを首席で卒業し、外務省に入った。1940年2月、陸軍少尉として初めて密使としてパリへ行った。そのたぐいまれなる記憶力、緻密さ、分析力は、「逸品」と評された。
 1942年10月に密使として出発するときには、カトリックの聖体とともに致死量の青酸カリも手渡された。
 ワルシャワ・ゲットーに対するナチスの「大作戦」と、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボルという名に象徴される絶滅作戦に関するすべての報告書をポーランド地下の国内軍(AK)情報部はマイクロフィルムにおさめていた。それをカルスキはカギの中に隠してパリまで運んだ。そのあと、ロンドンに届けられた。
 1942年12月、カルスキはロンドンでイギリス政府およびユダヤ人代表に口頭で報告した。さらに、1943年7月、アメリカでカルスキはルーズヴェルト大統領に直接報告した。
 つまり、アメリカもイギリスも、その最高首脳部はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅作戦が進行中であることを直接きいていたのです。それでも、彼らはユダヤ人救出作戦を発動することはありませんでした。自国の都合を優先させたのです。アメリカ国内のユダヤ人勢力も、その点では似たようなものでした。結局、同朋を見殺しにしてしまったのです。
 ヤン・カルスキは、密使としてワルシャワからパリに行く途中でゲシンタポに捕まり、ひどい拷問を受けます。そして、自殺を図って病院に運び込まれるのでした。その病院は全体がレジスタンスに組み込まれていて、ついにカルスキは救出されました。
 何とも感動的な話です。下巻に続きます。
(2012年9月刊。2800円+税)

 本年もお読みいただきありがとうございました。
 今年よんだ本は560冊ほどです。弁護士会の用事が増えて出張が多くなると、読書タイムがそれだけ増えますので、うれしい面もあります。
 といっても、弁護士会の用事が増えたというのは、自民党が「大勝」して憲法改正の気運が強まっていることによりますので、本当は困ったことだと考えています。
 それはともかく、新年も引き続いて書評を書き続けますので、ご愛読をお願いします。

2012年12月14日

デンマーク流「幸せの国」のつくりかた

著者  浅本 隆行 、 出版  明石書店

国民の幸福度が世界一位のデンマークの実情を探った本です。日本はなんと90位でしかありません。たしかに、日本ではデタラメな政治家たちと自分のことしか考えない財界のせいで、多くの国民は泣かされていますよね。
デンマークには国王(今は女王)がいる。王は国の象徴にすぎない。王女は町に買い物に出かける。同じ象徴でも、日本の天皇は、決してそんなことはしませんね。
選挙権も被選挙権も18歳から。現に高校生(19歳)の市会議員がいる。投票日は平日。それでも投票率は常に85%前後。日本が輸入している豚肉は、アメリカ、カナダの次はデンマーク。日本のインスリン(糖尿病の治療薬)の8割はデンマークの製薬会社「ノボノルディスク」製。原子力発電所はなく、風力発電に重点を置いている。デンマークは自給率300%の農業大国である。
 デンマークの公務員は87万人。公務人が働く者の3分の1を占めている。介護サービスの従事者は、ほとんど公務員。税金として吸い上げられたお金は、公務員の給料として大部分が使われ、かなりの割合で内部で循環している。
 デンマークの幸福度一位は、医療費が無料、高い教育水準、国民一人あたりのGDPも世界高水準による。高校そして大学まで教育費は無料。それどころか、大学生には返還無用の奨学金が月8万5千円もらえる。しかも6年間。そのうえ、月4万円余りの学生ローンも借りられる。
 労働組合への加入率は80%をこえる。組合に入っていないような「ややこしい者」は経営者も好まない。
仕事を終わったあとの長い余暇時間の使い方に悩むという答えが多い。
 なんということでしょう。日本では考えられもしない答えですよね・・・。
失業手当は、3年間のうち2年間はもらえる。
子どもにとって、学校は楽しいものというのは当たり前のこと。通信簿はない。高校受験もない。だから学習塾もない。デンマークは物的資源に恵まれない国として、人的資源の開発に力を入れている。
もちろん、デンマークもいろんな問題をかかえています。たとえば、デンマークの離婚率は日本の倍以上。ところが、離婚しても、慰謝料や子どもの養育費を父親が支払うことはまずない。子ども手当をもらい、所得が少なければ、その分だけ控除も受けられる。離婚が金銭的な支障を伴わないため、離婚歴2、3回はザラということになる。
 大いに学ぶべき国だと思いました。
 今日は私の誕生日です。赤穂浪士の討ち入りの日と同じです。いつまでも気は若いのですが、頭のほうはすっかり白くなってきました。それにしても、国防軍にするとか、日本も核武装せよとか、キナ臭い話が次々に出て、それをマスコミが無批判にたれ流す現実に寒気を覚えるこのころです。軍隊で平和を守れるというのは、イラクやアフガニスタンを見たら幻想だというのは明らかだと思うのですが・・・。
(2012年10月刊。1600円+税)

2012年10月13日

ロッシュ村幻影

著者   井本 元義 、 出版   花書院 

 仮説アルチュール・ランボーというサブタイトルのついた本です。著者は私と同じ日仏学館で学ぶフランス語仲間です。
 会社を定年で辞めてフランスに何ヶ月間か住むという優雅な生活を過ごしています。そして、ランボー研究に精進しているのですから、すごいものです。
 パリでは、安い屋根裏部屋を借りて長期滞在するとのこと。料理なんかはどうするのでしょうか。自炊なのでしょうか。
 ランボーは、1891年11月、37歳の若さで亡くなります。
 ランボーを悩ませ走らせたのでは、それが歓びとして昇華されることがあっても、荒れ狂う言葉の群れとの葛藤だった。そして片方では、新たな言葉を吸い込もうとしている砂地のように乾いた脳の奥底があった。何千冊の読書をこなしても言葉は一瞬のうちに吸い込まれた。言葉は狂乱して止むことはなかった。輝いてリズミカルに跳びはねた。目ぼしいものを見つけると、遠い彼方の空間からも言葉が飛んできた。その音に共鳴して、さらなる言葉が襲来してきた。そして規則正しく配列して決して終わろうとしなかった。独りでに言葉が口をついて出してきた。単語そのものが音と色を放った。それらを詩にして紙に書きなぐったとしても収まることはなかった。それは激しい性欲に似ていた。満たされても満たされなくても、すぐに次の衝動は起こってきた。さらに激しくなって。
 ランボーはパリ・コミューンが成立する騒乱のパリに向かった。そして、1871年5月、パリ・コミューンが弾圧され兵士が虐殺されていくなか、ランボーはパリ脱出が成功した。
 ランボー自身の心理描写と著者の心象風景が混然とした小説風のエッセイでもあります。昨年(2011年)は、アルチュール・ランボーの没後120年だったとのこと。
 アフリカの闇に11年間もランボーが沈み込んでいた謎に迫ろうとする意欲にあふれた本でもあります。贈呈いただき、ありがとうございました。
(2011年10月刊。1800円+税)

2012年10月 4日

ソハの地下水道

著者   ロバート・マーシャル 、 出版   集英社文庫  

 「シンドラーのリスト」と同じように、実話にもとづいた映画の原作です。まだ映画はみていませんが、ポーランドの小都市の地下水道に、子どもを含むユダヤ人11人がポーランド人の労働者に助けられて、ナチス・ドイツが撤退するまで14ヵ月も隠れていたというのです。すごい話です。早く映画をみてみたいと思いました。
 場所は現在のウクライナです。当時はポーランドの領内でした。ルヴフという小さな都市です。
 彼らは1943年6月1日に下水道に入り、1944年7月28日に地上へ出てきた。この間の14ヵ月を下水道で過ごした。どうやって・・・?
 ユダヤ人たちは地下室の床を掘り下げていき、下水道に出ようという作業が始まった。石灰岩のブロックを少しずつ削りとり、ついに縦坑が貫通した。下水道に通じることが出来た。そして、そこで下水道を管理しているポーランド人労働者と出会った。
 「力を貸すことはできるが、タダで、というわけにはいかない」
 「あんたらを密告すれば、ヒーローだ。ところが助けようとしても、もしそれが見つかったら・・・」
 「銃殺なんてものではない。女房も子どもも街頭の柱から吊されるんだよ」
こんなやりとりでも、結局、ポーランド人労働者は密告しませんでした。
ナチスがユダヤ人絶滅作戦を開始した。縦坑の存在を聞きつけたユダヤ人が続々と地下室に集まってきた。そして、次々に地下水道へ逃げ込んでいく。総数は400人から500人。でも、地下水道を流れる川におぼれ死んだり、我慢できずに地上に出て、次々に死んでいった。それでも100人は残った。いったい、100人もの人間が狭い都市の地下水道にいつまで隠れておれるものか・・・。
 ポーランド人は労働者のリーダーであるソハは4日目、70人以上の人間が地下水道にいる現実を知って、話したいと言ってきた。とても面倒みきれないのは当然だ。もっと人数を減らさなければ協力できないという。12人以下でないと無理だ。どうするか・・・。
 ヒゲルたちユダヤ人がポーランド人労働者のソハに支払ったのは、1日あたり500ズウォティ。当時の労働者の平均月収は200ズウォティ。下水道労働者だと150ズウォティ。だから、月収に等しい額を、毎日、ソハはもらっていたことになる。
でも、ソハは500ズウォティのなかから21人分の食料を危険覚悟で調達してこなければいけないのだ。
 本当にすごいことですよね。とてもお金ほしさだけでやったなんて思えません。恐らく、このユダヤ人グループのなかに2人の幼い子どもがいたのが良かったのでしょうね。
 ソハは、やってくると、子どもたちに自分の昼めし(パンやソーセージなど)を分けてやっていた。
 やがて、グループのなかにいさかいが起きます。そして一方のグループは、地下水道の暗闇から地上へ出ていくのです。もちろん地上に出たところで全員が殺されます。
 ところが、一人、地上に出て「取引」に成功する仲間もいるものです。ここらあたりが、人間の不思議なところです。地上の町と地下水道を行き来できる仲間もいるのでした。そのうえ、なんと、地下水道で出産する女性までいました。でも、赤ちゃんは無惨にも仲間に殺されてしまいます。その泣き声が困るからです。
なぜ、ポーランド人労働者がユダヤ人グループを1年以上も生命がけで助けたのか。お金だけでは決して説明がつかない。なぜなら、ユダヤ人たちはお金を途中で使い果たしてしまったから。
 ソハは、このとき、生まれて初めて他人から信頼の証を見せられたと感じた。それも、学があり、時代が時代なら、社会的名声もある紳士から、信用のおける人間だと思われた。これには、単なるお金以上の価値があり、それだけで、ヒゲルとその仲間たちが社会の追放者以上の存在に見えてきたのだろう。ソハにとって、ヒゲルとの関係はお金に代えがたい価値があるものだった。うむむ、なるほど、人間って複雑な存在ですよね。
 解放される寸前には、ロシア兵まで地下水道にやってきた。脱走ロシア兵だ。このロシア兵を逃したら、まだ残っているナチスにユダヤ人グループの存在がバレてしまう。ロシア兵を監視した。決して逃すわけにはいかない。
 このように最後の最後まで、地下水道では緊迫した状況が続いていきます。それでも、子ども2人をふくめて11人が助かるのでした。すごい実話です。ほっと胸をなでおろします。そして、ソハはどうなるのか、また、ヒゲルたちは・・・。ぜひ本書を読み、また映画もみてください。
(2012年8月刊。720円+税)

2012年9月29日

フランス・プロテスタントの反乱

著者   カヴァリエ 、 出版    岩波新書 

 カミザール戦争の記録というサブ・タイトルのついた部厚い文庫本です。
 南フランスに行ったのは、私がまだ50代のときでした。弾圧された異端キリスト教徒として有名なアルビジョワ派の本拠地であるアルビにも行きました。この本は、その南フランスで起きたカトリック教徒によるプロテスタント弾圧のなかで、反乱に立ちあがったプロテスタントの動きを紹介しています。いつの話かと思うと1700年ころのことです。フランス大革命が起きたのは1789年ですから、わずか80年か90年ほど前のことなのでした。
 この本を読むと、キリスト教って本当に寛容な宗教なんて言えないよね、とついつい思ってしまいます。だって、同じキリスト教徒なのに、ローマ教皇の支配下にあるかないかだけで、残酷な殺しあい延々と続けるのですからね。これって、宗教の嫌らしさそのものですよね。
カミザール戦争とは何か。本のオビには、次のように書かれています。
 18世紀初頭、南フランスのセヴァンヌ地方でプロテスタントの農民が宗教の自由を要求して蜂起し、国王軍と戦った反乱について、その指揮官であったカヴァリエが遺した回想記。農民が10倍をこえる正規軍を敵にまわして、いかに戦ったかを生きいきと伝える。
 セヴァンヌ地方というのは、南フランスのマルセイユに近い地方です。
 1598年、アンリ4世がナント王令を発布し、フランスにおける宗教戦争に終止符をうったのでした。ところが、その孫に当たるルイ14世(太陽王と呼ばれました)は、1685年、ナント王令を廃棄し、国内のプロテスタントの徹底的な弾圧に転じたのです。ところが、新教徒人口の密度の高いセヴァンヌ地方では弾圧も抵抗も苛烈だった。2000人ほどの農民が、2万5000をこえるフランス国王の派遣した正規軍と2人の元師を敵にまわして2年あまり、いかに戦ったかカヴァリエは記録した。セヴァンヌの蜂起がなかったら、プロテスタントはフランスで存続しえなかったであろう。
 セヴァンヌ戦争は、プロテスタントたちが未曾有の固い決意をもって、自分の子どもをカトリックのプロパガンダから守ったことを明らかにした。セヴァンヌ戦争は、政治とは無縁で、単に信仰の自由の擁護のみが惹起した戦いだった。
 ルイ14世によるナント王令廃棄のあと、監獄ガレー船はプロテスタントで一杯になった。死刑台と絞首台は、プロテスタントの血で汚れた。これほど恐ろしい残虐行為は、プロテスタントの敵にとって不利になり、それだけプロテスタントに有利になった。というのは、それまではプロテスタントの仲間に加わる気などなく、静かに自分の家で暮らしていた人たちが、もはや誰ひとり安全ではないと知って、ためらうことなくプロテスタントの戦列に加わったからである。そこで、プロテスタントの軍営は人数が増え、強力になった。
フランスの山岳地帯において、第二次大戦中のナチス・ドイツ軍に対するレジスタンス運動さながらの抵抗闘争を展開していたプロテスタントたちの実情がよく伝わってくる本です。
 私も、一度、ナント王令が出たナントに行ってみたいなと思っています。
(2012年2月刊。1320円+税)

2012年9月21日

スペインのユダヤ人

著者    エリー・ケドゥリー 、 出版    平凡社 

 中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害史です。
 1492年、ユダヤ人はスペインから追放された。まもなく、ポルトガルからも追放された。そのころ、ユダヤ人は、イベリアの諸国王の中で卓越した地位を得ていた。資金の提供者として、また徴税官として財政面で中心的な役割を担った。社会生活全般に関与し、都市でも農村でも、追放される直前まで、あらゆる生活の場にユダヤ人はいた。
1492年3月、フェルナンドイザベルによってユダヤ人追放令が出された。
 15世紀のスペインにはコンベルソがいた。コンベルソとは、宗教的理由による迫害と、まさに追放を逃れるために改宗した人々である。
ユダヤ人追放令は、1391年。暴動に始まる一連の事件の最終結末だった。恐怖と迫害のなかで、多くのスペインのユダヤ人がキリスト教に改宗した。
 スペインの異端審問所の判決は大変に厳しかった。有罪であるとされたコンベルソには死刑が言い渡されることがあった。そして、有罪判決は、有罪とされた人物の財産を国益のために没収することを意味した。
 1481年から1488年のあいだに700人以上のコンベルソが火焙りとなり、5000人以上が教会と和解した。スペインの異端審問が廃止されたのは1834年のこと。1808年までに、3万2000人の異端者が火刑になったと推定されている。その大部分がコンベルソであったと思われる。
火刑になると分かっていても、自分の信仰は捨てなかった人が、こんなにいたのですね・・・。驚きます。それにしても25年間で3万2000人の火刑だなんて、1年間にすると1280人。1ヵ月に100人以上だなんて、いくらなんでも大変な火刑ですよね。
ポルトガルの王は、ユダヤ人を一括して強制的に改宗したことにした。だから、ポルトガルのユダヤ人全体が一気に新キリスト教徒になった。こうした緊急避難的な改宗のために、ポルトガルでは、ユダヤ教の知識・伝統・社会的ネットワークが、禁圧と秘密主義の被いの下に生き残った。
16世紀末から、アムステルダムに、ポルトガルのユダヤ人たちが定住し、なんの妨げもなくユダヤ教が許された。ポルトガルからオランダに逃れてきた隠れユダヤ教徒は、新キリスト教徒として1世紀以上も暮らしたあと、真のユダヤ教にもとづくユダヤ人共同体をアムステルダムに再建することができた。
ユダヤ人がスペインの国庫と金融業の大半を支配したというのは誤解である。しかし、その一方、最有力のユダヤ人が他の追随を許さない技術力と才覚をもっていたことも事実である。金融業の才覚のまったくないユダヤ人もいたし、キリスト教徒の金融業者もたしかに存在した。
 ユダヤ人は、生まれながらにしてキリスト教徒以上の金融業者として才覚を有していたわけではなかった。しかし、親族関係に支えられて金融業に携わったので、一度この業務に習熟すると、その才能は代々継承されていった。
 「奴隷」としてのユダヤ人は、しばしば王権の保護下に置かれ、ユダヤ人共同体は内政面での広範な自治権を保障された。
 15世紀初めのスペインのアラゴン王の宮廷にはユダヤ人の用人たち、金融家。占星技術士師、ライオン使い、医者がいた。15世紀のスペインにおいて、都市ではユダヤ人の徴税請免人や医者はごく普通の存在だった。
 1492年以前から、側近にユダヤ人の財務官や医者を抱えていた国王は、1492年以降も改宗したユダヤ人を顧問官に置き、1508年には、行政におけるコンベルソへの信頼を公然と表明している。反ユダヤ主義はイベリア社会で持続した。だが、追放令の目的は、ユダヤ人を排除することではなく、彼らを強制的に教会のメンバーに入れさせることだった。コンベルソの企業家たちは、新世界、アフリカ、そして極東に支店を置き、香料、砂糖、コーヒー、カカオ豆、奴隷プロゲード、刺繍製品その他を輸入し、取引した。
コンベルソは、どこにいっても異端審問所に追いかけられた。異端審問所は、メキシコシティー、リマー(ペルー)、コロンビア、ブラジルそしてゴアに裁判所をもっていた。
イベリア半島からのユダヤ人追放令のもっとも恐るべき結果は、コンベルソの増加にあった。多くのユダヤ人は流涙の民になるより残留を選択した。スペインのキリスト教徒は、異端審問所を介して改宗者を以前の宗教であるユダヤ教から完全に引き離そうと努めた。
 しかし、コンベルソは、このあと3世紀にわたって、常にフダイサンテ、つまり隠れユダヤ教徒として多くの人々から疑惑の目で見られた。
 1494年から1530年にバレンシアで有罪判決を受けた1997人のうち909人(45.5%)は死刑が宣告され、うち754人は実際に処刑された。多数のフダイサンテが現実に存在していた。
 また、貴族のメンバーで、コンベルソの先祖をもたない者はほとんどいなかった。
 キリスト教徒とユダヤ人との意外に微妙な関係を知ることができる本でした。
(1995年12月刊。2816円+税)
 一日ゆっくり神田の書店街を歩いてきました。今回は、古書店はざっと眺めるだけにして、新書を売る大きな店に入りました。福岡にも、もちろんありますが、あまりにも大きな書店に入ると、大量の本に圧倒されて、かえっていい本にめぐりあわないことがあります。神田の裏通りにある本屋は独特の並べ方をしていて、ここには何かいい本に出会える、そんな期待をもたせてくれます。
 いい本は背文字で訴えてきます。それが手積みされていて、表紙まで見れたら、強烈な自己アピールを感じます。そのオーラを感じたらすぐに手を伸ばし、手にとってみます。写真があったら、それを眺め、目次をみて、ぱらぱらと本文をめくってみます。
 感じるときには、もう手放せません。勘定場に直行します。あのとき、買っておけばよかったなんてあとで後悔しないようにするためです。

2012年8月 5日

ローズ・ベルタン

著者  ミシェル・サポリ 、 出版   白水社  

 舞台はフランス大革命の前夜のフランスです。かの有名なマリー・アントワネットに仕え、モード大臣とも呼ばれた女性が主人公です。
 ローズ・ベルタンは奇抜なファッションで、当時の上流階級の女性を夢中にさせました。そして、宮廷が衣装に費やす費用は膨大なものとなったのです。といっても、モード大臣の下では大勢の庶民が働いていたのです。それはフランス国内だけでなく、イギリスの片田舎にまで及んでいました。冨はいくらか循環していたのです。
 フランスの片田舎に生まれて花の都パリに上ってきた貧しい女の子がお針子さんからブティックの店員そして王女の衣装係にまでなって、ついには全ヨーロッパの王室を相手として商売していたのです。その並外れた想像力(デザイン)はたいしたものですよね。
 王妃アントワネットに対して、母のマリア・テレジアは次のように忠告した。
「身だしなみには常に気をつけるように。あなたの年齢で身だしなみに関心がないなどというのは、もってのほかです。自分の立場をわきまえるように。フランスの王族方が長い間陥っている愚かな習慣に、あなたも染まってしまうようなことには、絶対になってほしくないのです。体型にも、体裁にも、決して怠慢な態度をとらないように。ヴェルサイユをリードするのは、あなたなのです」
 ローズ・ベルタンは、15年間、ほとんど毎日、王妃アントワネットと二人きりで顔をあわせた。国王のそばに商人が出入りするのは、宮殿の規則で厳しく禁じられていた。ところが、ベルタンは王妃の寝室に足を踏み入れていたようだ。
 1778年、ベルタンは宮廷で「モード大臣」の称号を得た。ベルタンは、間接的に現実の権力を手にした。アントワネットが王妃だった時代の女性の肖像画を見ると、ほとんどすべて、お気に入りのモード商ベルタンの衣装をまとっている。ベルタンの店は、「ムガール帝国」という名前だった。華々しいショーウィンドウによって道行く人々の目を楽しませ、購買意欲をかきたてた。店の正面には大きな字で「妃殿下御用達」と揚げていた。
 仕立て屋とモード商の違いは、石土と建築家との違いのようなもの。ベルタンは針をもったわけではなく、ひたすらアイデアを生み出した。
 ベルタンは、1776年9月に協同組合ができたとき、序列の頂点に立った。そこで、絶大な権力を行使し、絶対的な影響力をもって、政府に対しても商人たるブルジョワジーの一代表者となった。
モード商の仕事は製造業ではなく、職人たちが生産した商品をさらに輝かせること。ベルタンは固定給で終身雇用の社員を30人も雇っていた(1779年)。そして、取引先の業者は120(最大734)もいた。
フランスの大革命が始まるとさすがのローズ・ベルタンも没落してしまいますが、最後までマリー・アントワネットに差し入れしていたようです。偉いものですね。
 知られざるフランス大革命直前のパリのモード社会を知ることができました。
(2012年2月刊。2200円+税)

2012年8月 2日

第一次世界大戦(下)

著者   ジャン・ジャック・ベッケール、 出版    岩波新書 

 今ではフランスとドイツが戦争するなんてとても考えられません。でも、わずか100年前は、両国民はお互いに敵とみて殺せ、殺せと叫んでいたのですよね。不思議な気がします。
 第一次大戦の根本的な特徴は、それが兵器の戦争になったこと。大砲が主役となった。フランスの戦死者の7%が砲弾によるものだった。フランス軍には、360万の負傷と280万人の負傷者が記録されている。これは、かなりの負傷者が2度以上、負傷していることを意味する。そして、フランスの負傷者の14%は顔面を負傷している。
毒ガスをつかいはじめたのは、1915年4月、ドイツ軍だった。しかし、多くのドイツ軍上級将校は、むしろ、それに抵抗しており、すすんで使用しようとしたのではない。
 1918年におけるドイツ軍の準備砲撃で使用された砲弾の4分の3がガス弾だった。フランス軍が始めてガス砲弾を使用したのは1915年9月からで、ドイツ軍が使ってわずか5ヵ月後だった。
 ドイツは大砲の砲弾に4万8000トンの化学物質を使用したのに対して、フランスは半分の2万3000トンだった。毒ガス被害者の数は限りなく大きかった。フランスの死傷者は13万人、ドイツは10万7000人だった。
 フランス軍とドイツ軍は塹壕で相対峙した。ときにわずか数メートル、一般に数百メートル離れていた。フランスの塹壕は完成度がもっとも低かった。最低の衛生条件。気候への隷属。冬の寒さ、季節の雨。泥は強迫観念となった。
 1916年のヴェルダンの戦闘は、フランスとドイツの間の恐るべき、空前絶後の殺戮の象徴になった。ヴェルダンでのドイツ軍の準備砲撃は「肉ひき器」と呼ばれたが、その砲火の雨にもかかわらず、敵を壊滅させるのに成功しなかった。
 1916年2月から12月までも続いたヴェルダンの戦闘において、フランス軍は戦死者16万人をふくむ40万人の兵士が犠牲となった。ドイツ軍は戦死者14万人をふくむ33万人が犠牲となった。全体として、1916年に130万人の兵士が死傷した。100万の戦死。
ドイツ軍から、1917年と1918年に10万人の脱走兵があった。これはドイツ兵全体の1320万人に比べると、驚くほど少ない。ドイツの軍事裁判官は48件しか死刑宣告しなかった。
 フランス軍では、反乱した兵士に対する554人の死刑判決のうち、執行されたのは49人のみ。反乱者の大部分は戦争に対して抗議したのではなく、しばしば無為に戦死させられるやり方に対して抗議していた。
 1918年、終戦による講和会議の展開と条約の条文はドイツ軍に憤慨を引き起こした。フランス人は喜んでよさそうだが、実際には違っていた。フランス人の態度は複雑だった。フランスの国会で条約は1919年10月、372対53票で批准された。反対票のうち49票は社会党だった。
 戦争が終わったとき、フランスとフランス社会は間違いなく貧しくなっていた。貧窮の主要な犠牲者は、中産階級だった。
フランスは戦勝国でありながら、勝利を祝うことはまれだった。
ドイツは、戦争で若者の相当な部分を犠牲にした。200万人の死者、400万人の負傷者である。戦争はドイツ領ほとんど及ばなかったため、日常生活から遠く、切り離されたものだった。よく理解されていないままの戦争だったから、勝者が求めた賠償金の金額に対するドイツ人の抗議は激しかった。戦後、700万の兵士がドイツへ復員した。ドイツでは、ワイマール共和国が存在した全期間を通じて不当な敗北の心の責任者という、左翼に対する非難は人々の心につきまとっていた。
 1919年1月にベルリンで起きたスパルタクス国の反乱の鎮圧は、この増悪にみちた暴力を反映している。社会民主党政権と共産党との関係は裂け目が常に刻印されていた。
 1933年のヒトラーの政権得票まで、左翼政党のあいだに討たれた裂け目を乗りこえることはできなかった。ワイマール共和国が受けた襲撃に対して共同戦争を作ることはできなった。そして、労働者が離れていった。
 なぜ、ヒトラーがドイツで選挙によって政権を握ったのか、少し分かったように思いました。
(2012年3月刊。3200円+税)
 アメリカの映画館のなかでバットマン映画の上映中に銃を乱射する男がいて、何人もの人が亡くなりました。
 これで銃規制が強まるかと思うと、かえって銃が一般市民に飛ぶように売れているとのことです。その発想は、映画館のなかで銃をぶっ放す男がいたら、そいつをすぐにうち殺せばいいんだというものです。でも、映画館内で撃ちあいになればなれば、さrに被害者は拡大するのは必至ですよね。
 アメリカって、つくづく野蛮な国だと思いました。

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