弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2015年3月 1日

窓から逃げた100歳老人

著者  ヨナス・ヨナソン 、 出版  西村書店

 スウェーデン発の奇想天外なストーリーです。
この100年間に世界で何が起きているのかをおさらいすることのできる痛快本でもあります。ありえない、こんなこと絶対にありえない、なんて思っていたらダメなんです。ふむふむ、なるほど、そう来たか。では、この次はどんな展開になるのだろうか・・・。
 その発想の奇抜さには、何度となく腰を抜かしそうになりました。400頁の本ですが、私にしては珍しく、3時間もかけて読みふけってしまいました。
 話は100歳の老人の脱走劇に始まるのですが、このストーリーは、老人の青年時代の回顧談というか、世界の超有名人と交わって活躍する話が盛り込まれているので、面白いのです。
 スペインのフランコ将軍、アメリカではロスアラモスの原爆製造会議に参加して、トルーマン副大統領と仲良しになる。中国に渡ると、毛沢東夫人の江青の生命を助ける。
 イランでは、秘密警察に捕まって処刑される寸前にまでなってしまう。しかし、結局、ウィンストン・チャーチル首相の危機を救って、本人も無事に脱出できる。
 次には、ソ連に渡って、ベリヤやスターリンと一緒に食事をする。しかし、ついには、強制収容所に送られてしまう。そこを何とか脱出して、金日成と金正日に面会する。まあ、よくも、こんなストーリーを考えついたものです。
 一応の史実を下敷きにしていますので、次の展開を知りたくなって、ついつい読みすすめてしまったのでした。
 映画はみていませんが、スェーデン初の喜劇作品として読むと、気持ちが軽くなります。
(2014年10月刊。1500円+税)

2014年10月25日

海賊と商人の地中海


著者  モーリー・グリーン 、 出版  NTT出版

 海賊というと、カリブ海の海賊をイメージしますが、この本では、地中海の海賊がテーマとなっています。そして、海賊というと、社会の落ちこぼれの、ならず者集団というイメージですが、実は地中海海賊の正体は、れっきとしたマルタ騎士団だったのです。
 ええーっ、キリスト教の信仰のあつい騎士団が海賊だったなんて・・・。信じられません。でも、騎士団には、イスラム教徒への聖なる戦い(十字軍)という口実があったのです。
 それにしても、本当に騎士団が海賊行為をしていたのでしょうか。その被害者は誰だったのでしょうか・・・。
被害者となったのは、ギリシア商人たち。彼らが、海賊行為の不当を主張して、賠償を求めて裁判に訴えた記録が残っているのです。
 この本は、その裁判所に残された文献を読み解いたものです。
 17世紀、東地中海では、商人を恐怖におののかせたのは、キリスト教徒の海賊だった。赤字に白の十字架が描かれたマルタ騎士団の旗がオスマン帝国の海域にひるがえると、イスラム教徒、ユダヤ教徒、そして、正教キリスト教徒からなるオスマン商人たちは、恐怖に震えあがった。この旗は、200年のあいだ、この海域を闊歩した。
 マルタ騎士団は、東地中海におけるカトリック勢力再興の一翼を担った。
 被害にあったギリシア商人たちは、マルタまで訴訟を起こすためにやってきた。海賊行為を働いたマルタ騎士団は、なんと自前の裁判所をもっていた。
 マルタ騎士団の海賊行為の背景にあったのは、地中海におけるキリスト教徒とイスラム教徒の永久戦争という理念だった。
 17世紀のイタリアで、メディチ家はリヴォルノを自由港とし、商品移動の自由ときわめて低率の関税を保証した。
 マルタ騎士団による私掠は公的性格をもっていた。公式の航海で得た利益は、すべて修道会の財政に組み込まれた。
 マルタ騎士団は、ガレー船を次第に増やしていった。一隻のガレー船は200人ほどの漕ぎ手が必要だった。マルタ騎士団の騎士は、300人から600人へと増加した。
 私的な私掠は、栄光のための十字架であったと同時に、利益のための十字架でもあった。30年間に出帆したマルタ騎士団のガレー船は、400隻をはるかに上回っていた。
 マルタの奴隷収容所には、1万人のイスラム教徒奴隷が辛酸をなめていた。
 マルタ騎士団が海賊として襲ったオスマン船の船長、船乗り、船主あるいは荷主の多くはキリスト教のギリシア人だった。マルタ騎士団は、法廷において、この矛盾をどう言い繕うかという問題に直面した。マルタ騎士団の法廷は、腐敗した組織だった。訴訟を取り仕切った判事たちも、奪略品の3%を受けとっていた。そもそも、マルタ島全体が私掠で成り立っていたのだ・・・。
 地中海の海賊、「十字軍」の汚い正体を見た思いがしました。
(2014年4月刊。3600円+税)

2014年9月28日

沈黙を破る者


著者  メヒティルト・ボルマン 、 出版  河出書房新社

 ドイツ・ミステリー大賞、第一位という小説です。
 ドイツでは、ヒトラーのナチス・ドイツ時代の幹部連中が今なお名前も変えて生き、栄えている現実があるようです。この小説もそれを背景としています。
 オビの文章を紹介します。
 「不可解な殺人事件を追う一人の巡査。50年の時をこえてよみがえる戦時下の出来事。気鋭の女性作家による静かな傑作」
 話は現代のドイツと戦中のドイツとが交錯して展開していきます。
 仲良し6人組の男女が戦争に突入するなかで、バラバラになっていきます。
 そして、戦後、死んだ父親の遺品の写真や証明書を手がかりに、聞かされていない過去を調べはじめると、協力者の女性ジャーナリストが惨殺されてしまうのです。
 戦前、一組の夫婦が行方不明となりました。それを担当していた刑事は、わずかな捜査で早々に打ち切ってしまいます。なぜか・・・。
 1960年生まれの著者が、知るはずもない戦前のドイツの状況をことこまかに描いています。
 戦時中の話を幼いころに母親から聞かされた経験が生かされているとのことです。
 著者の関心事は、ナチが政権を握っていた第三帝国時代に、ごくふつうの人間が、どのように暮らしていたのかを描き出し、その運命を読者にありありと感じとってもらうことにあった。その目標は達成していると思います。推理小説だと思いますので、ネタバラシはやめておきます。
 良質のミステリー小説です。
(2014年5月刊。2200円+税)

2014年9月15日

古代ローマ人の愛と性


著者 アルベルト・アンジェラ、出版 河出書房新社

 「古代ローマ人の24時間」などに続くシリーズ第3弾です。驚くことの多い古代ローマ人の生活です。
古代ローマ人には、奇妙な慣習があった。夫は妻からのキスを受ける権利があると定めた「接吻制度」があり、妻は毎日、夫の口にキスすることが法律で義務づけられていた。その主な目的は、女性がワインを飲んでいないかを調べることにあった。
 女性は絶対にワインを飲んではならず、妻が夫に隠れて純粋なワインを飲んだら、夫は妻を殺す権利があった。女性がワインを飲むことは、姦通と同等の罪だとみなされていた。ええーっ、そんな嘘でしょ・・・。こんなことが、本当に守られていたとは思えません。
 手へのキスには、敬意と服従と示すという明確な意味があった。人前では、身体と身体が触れあう行為は、いかなるものでも破廉恥とみなされ、道徳や貞操に反するとされていた。
 良家の女性は、一人で出歩くようなことは決してなかった。外出するときには、コメスと呼ばれる信頼のおける奴隷か親族によって常に警護されていた。夫たちは、こうして妻を監視していた。
 富裕層の娘にとって、結婚前に男性と性的関係をもつことは考えられなかった。女性は処女のまま結婚式にのぞむことが義務づけられていた。
夫に先立たれた女性は、再婚するを1年のあいだ禁じられていた。
古代ローマ社会で、もっとも自由を享受していたのはおそらく解放奴隷の女性たちだった。
 しかし、名門既婚女性(マトローナ)は、厳格な行動規範を平気で無視していた。若い男性を求め、行きずりのセックスや一夜限りのアヴァンチュールを好む熟年女性がいた。
 富裕層の女性は12~14歳で結婚した。下層の女性は16~18歳だった。
ローマ時代には、離婚がとても容易だった。離婚にあたっては、現代と異なり、法的な手続きは一切必要なかった。死別より離別のほうが多かった。
 古代ローマでは、夫が妻を殴ることは日常茶飯事だった。妻を殴っても、殺してしまわないかぎり、夫が裁判にかけられることはなかった。妻に対するDVは、中・下層階級において、より一般的だった。
 古代ローマ人の私生活の様子を知ることのできる面白い本です。
(2014年4月刊。2500円+税)

2014年8月28日

新・ローマ帝国衰亡史


著者  南川高志 、 出版  岩波新書

 ローマ帝国とは何か、改めて認識することが出来ました。
 ローマの征服軍が要塞の周辺には、軍に関係する民間人の定住地ができた。これをカナバエという。カナバエは発展して村落となり、軍が移動したあとの要塞敷地も含みこんで拡大した。
 境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式にもうけていた妻子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発展した町で暮らし、その有力者となる者も出てきた。
 軍隊は新しく「ローマ人」を生み出すうえで大きな役割を果たした。「ローマ人」とは、ローマ市民権をもつ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。国家が拡大してからは、新市民はローマ市の郊外地区に登録され、政治的な意味はなくなる。それでも、「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提だった。
 皇帝政府は、ローマ市民権をもたないため正規軍団に入れない部族の男性を補助軍として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統と訓練は、ローマ式になされる。そして無事に兵役をつとめあげるとローマ市民権が与えられ、その子はローマ市民として正規軍団に入隊して、ローマ社会の階悌を上がっていくことができた。
 こうやって、ローマ帝国は辺境において、兵員を確保するだけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成していた。
 ローマ社会は、人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などによって奴隷の境遇から解放されて解放奴隷となり、その子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらには実力と幸運に恵まれて騎士身分に状況し、元老院議員にまでのぼりつめる可能性があったし、実際にもそうした上昇例は多かった。
 属州に生まれてローマ市民でなかった者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれたら、社会の最上層にまで到達できたのだ。
 ローマ帝国は、国家として硬直した存在ではなかった。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法にもとづく国家の制度をもち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、きわめて柔軟な存在であって、排他的な生活を有していなかった。
 ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。
 次に、「ローマ人」としての生き方である。ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践すること。
 広大なローマ帝国を統治するうえで中央行政を担当していたのは、わずか300人ほどの「官僚」だった。
 ローマ異国を実質化する第三の要素は、外部世界の有力者たちの共犯関係にあった。
 今日では、ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は適切ではないと考えられている。
 「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、今日、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、そのときどきの政治的な利害によって離合集散を繰り返し、その構成員や集団のアイデンティティが形づくられていったと理解されている。
 古代ローマ帝国が柔構造をもつ社会だったことを初めて知りました。

(2014年5月刊。760円+税)

2014年4月27日

つるにのってフランスへ


著者  美帆 シボ 、 出版  本の泉社

 フランス人男性と結婚した日本人女性による、元気のでる話が満載の本です。
 著者は、反核・平和運動に取り組んでいることでも有名です。フランスの国防大臣をつとめた人が、今では反核運動に参加して、声をあげているそうです。その人は、アメリカのスターウォーズ計画は実現性がないと批判していました。すると、フランスの兵器産業界の大物が次のように言って批判した。
 「大もうけできる良い機会なのに、反対するなんて、とんでもない」
 そうなんです。兵器(軍需)産業にとって、世界の平和は望ましくないのです。危機をあおり、戦争を仕掛けることで、肥え太っていく死の商人が世界中に、もちろん日本にもいるのです。たとえば、それは三菱工業であり、コマツであり、IHIなのです・・・。
 フランスでは核兵器は生命保険なのかどうか、論争があった。
 「核抑止は生命保険である。だから、保険の節約はできない」
 「核兵器は死亡保険だ。本当に生命保険なら、なぜ他の国に核保有を禁じるのか。核兵器をもつことで国を敵から守れるのなら、なぜ高額な対ミサイル防衛が必要なのか。これは、核抑止が成り立たないことを証明している」
 本当にそうですよね.核抑止論なんて、インチキそのものです。
フランスは出生率が高い。それは、子育てがしやすいように国が手厚くしているから。
 フランスでは、出産はタダ。教育費も、大学まで公立、国立はタダ。授業料はなく、奨学金は返済する必要がない。 三人以上の子どもを産んだ母親には優遇策がある。
育児支援が充実しており、母親でも安心して働ける環境がある。
 フランスは農業国です。また、食を大切にしている国です。
大学生のときから、今なおフランス語を勉強していますので、フランス大好き人間として、一度は著者に会ってみたいものだと思いました。
(2014年2月刊。1600円+税)

2014年4月19日

40年パリに生きる


著者  小沢 君江 、 出版  綜風出版社

 私がフランス語を勉強するようになった40年以上になります。正確には大学1年生のとき、第二外国語として選択したのでした。
 初めてフランスに行ったのは今から30年ほども前のことになりますが、そのころはフランス語の単語に聞きとれるものがある程度でした。ですから先輩弁護士がフランス語でフランスの弁護士と話しているのがうらやましいというより、アナザーワールドの住人という感じがしていました。今でも話すのはうまくありませんが、耳のほうは、さすがに文章レベルでかなり分かるようになりました。それでも、哲学的表現の多いフランス語の文章は理解に苦しんでいます。
 この本はパリで発行されている日本語の無料誌「オヴニー」の創刊者の苦労話が語られているものです。もちろん日本人です。フランスの男性と結婚して、単身パリに渡ったのでした。
 「オヴニー」の前身「いりふね、でふね」が発刊したのは1974年5月のこと。A4サイズ8頁。今では6万部発行され、うち2万部は日本人に搬入されている。無料誌なので、広告料が発行を支えている。長年の下支えがある。
 全共闘とか、新左翼そして日本赤軍、ひいてはテロリストとの関連を疑われて、警察の探索、差押を受けた。
 「オヴニー」創刊号が出たのは1979年4月のこと。1981年にエスパス・ジャポンを開館した。「日本空間」ということで、日本の文化を披露する場である。
フランスに滞在する日本人3万人の3分の1は官庁・企業関係者とその家族。あと3分の1は留学生・研究者。残る3分の1は永住者(12%)、芸術家など(9%)、その他(7%)からなる。
著者も70歳を迎え、フランスに日本人が住むことの意味をしみじみ考察しています。
 フランス語には、日本語のあうん呼吸、以心伝心の感覚はない。すべてが目には目を式に言葉対言葉の対話文化であり、男女関係でも最後は言葉が支配する。
 日仏カップルの大半は、離婚か離別に終わっている。
 一般にフランス人は言葉を操り、楽しむ習性をもっている。
 言葉の裏や抑揚にニュアンスを込められている日本語。ピンポンのように言葉と言葉でやりとりするフランス語。
 うーん、そう言われても・・・。まあ、ともかくボケ防止に、毎朝、NHKのラジオ講座を聴き、CDでフランス語の書き取りをしましょう。きっと、何かいいことがあるでしょう。
(2013年12月刊。2000円+税)

2014年2月 1日

三秒間の死角


著者  アンデシュ・ルースルンド 、 出版  角川文庫

 スウェーデンのミステリー小説です。
 刑事マルティン・ベッグシリーズは読んだことがあります。『笑う警官』など、スウェーデン社会を背景とした警察小説はとても読みごたえがありました。
 解説には、これは警察小説であって、警察小説ではない、と書かれています。難しい表現ですが、この本を読むと、なんとなくうなずけるものがあります。
 共作者は、自らも犯罪をおかして服役した経験があるというのです。ですから、刑務所のなかの描写は真に迫っています。
ストーリーを小説にするわけには生きませんので、スウェーデンの刑務所を描写したところを紹介してみます。日本とは違った問題点があることが分かります。
 東欧マフィアの事情分野は三つ。銃の取引、売春、クスリ。スウェーデンには刑務所が56ある。それをマフィアが掌握する。おおぜいのヤクザものに借金を負わせて、意のままに操る。
 刑務所のなかには、クスリや酒に支配されている。クスリや酒の持ち主が、すべてを意のままに動かしている。刑務所のなかに大量のクスリを持ち込み、まずは値段を落とし、先行している連中を蹴落とす。そして、取引を独占してしまえば、値段を一気につり上げる。クスリが欲しいのなら、その値段で買え、いやなら注射を辞めればいいと客に言い渡す。
どの刑務所でも、毎日、毎時間、目覚めている時間のすべてが、クスリを中心に回っている。定期的な尿検査をかいくぐってクスリを持ち込み、使うこと。それがすべてだ。面会に来る家族に、尿を、検査しても陰性を示す尿を持ち込ませることもある。持ち込んだ尿が高値で売買されることもある。そして、尿検査で妊娠しているという反応が出てしまったことさえある。
 靴下を買うお金にも困っている連中にクスリを売りつける。彼らは借金を抱え、塀の外に出てもなお、借金を返すために働くしかない。彼らこそ、資本であり、犯罪のための労働力である。
ポーランド国内では、500もの犯罪組織が日々、国内資本をめぐって争いを繰り広げている。国をまたいで暗躍する、さらに大きな犯罪組織の数も、85に及ぶ。
警察が武装して戦闘に入ることも珍しくはない。毎年5000億クローナ以上に相当する価値の合成麻薬が製造されている現実を前にして、国民はひたすら首をすくめている。
 毎朝、看守のあける開錠からの20分間、午前7時から7時20分までの20分間に、すべてがかかっている。この20分間を生きのびることができれば、その一日は安泰だ。鍵が開き、「おはよう」の声がかかってからの20分間は生と死の分かれ目だ。計画的な襲撃は、必ず、看守たちが警備室に引っ込んでコーヒーを入れ、休憩しているあいだに行われる。区画に職員の姿がなくなる20分間。刑務所内で近年おきた殺人事件は、まさにこの20分の時間帯に起きていることが多い。
 規則でがんじがらめの日本の刑務所では、あまり収容者同士の殺人事件を起きているという話は聞きません。そこが、北欧と日本の大きな遠いように思われます。
 スウェーデンの刑務所と警察組織の一端に触れた気になる文庫本でした(上・下の2冊)。
(2013年10月刊。840円+税×2冊)

2013年9月22日

ブルゴーニュ公国の大公たち

著者  ジョセフ・カルメット 、 出版  国書刊行会

ボルトーと並んで有名なワインの名産地、ブルゴーニュ地方には中世に大きな公国があったのでした。その首都デイジヨンには大きな館があり、今では市庁舎と立派な美術館になっています。昔の栄華をしのばせる偉容には圧倒されます。
そして、デイジョンもボーヌも、まさしく美食の町です。星があろうとなかろうと、心ゆくまで美味しい食事を堪能することができます。ボーヌには2度行きましたが、ぜひまた行きたいところです。
初代ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディは、1342年生まれ。背が高く、頑健で、よい体付きをし、丸々と太っていて。色の黒い醜男だった。明敏な洞察力こそは、機を見るのに敏な感覚、決心とあいまって、公の主な長所とも言えた。
 二代目ブルゴーニュ公のジャン・サン・プールは、勇敢で大胆で、ひねくれ者で、際限のない野心家だった。1407年11月、ルイ・ドルレアンがジャンによって暗殺された。ジャン・サン・プールは、野望をみたすためには、目的のためには手段を選ばず、緊迫した情勢を解決できるなら、犯罪であってもやってのける政治家だった。逆にオルレアン公の方がブルゴーニュ公の暗殺を図っていた。だから、正当防衛しただけのことだと喧伝された。
 英国軍がヘンリー5世の下にアザンクールでフランス軍を大敗させた。ジャン・サン・プールはヘンリー5世と結んだ。そして、1419年9月、ルイ・ドルレアン公殺しの張本人が、モントロー橋の上で暗殺された。
 三代目のブルゴーニュ公は、フィリップ・ル・ボンである。背は高く、風采は立派、人並みすぐれ、見栄えする容姿の持主だった。その私生活は庶外れの自由奔放さで、30人の愛人がいて、公認の私生子は17人いた。
 このフィリップ・ル・ボンの時代に、あのオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌ・ダルクは、金貨1万エキュという巨額でもって英国人に売られた。裁判長のピエール・コションは、残忍な対英協力派、何でもやってのける聖職者だった。フィリップ・ル・ボンはジャンヌ・ダルクの裁判をちゃんと知らされていた。
 四代目で最後のブルゴーニュ大公は、シャルル・ル・テメレール(突進公)である。
 自分にも、他人にもきびしく我慢を知らず、粗暴で執念深く、すぐに逆上した。
 ブルゴーニュ公国では、民衆的な劇が非常に好まれ、数多くの俳優がいた。まばゆいばかりのロマネスク芸術の一派が花を咲かせた。
ブルゴーニュ宮廷は、15世紀に、稀にみる輝きを発した。祝宴は、公家のお得意芸の一つだった。パントマイム、人体を組みあげてくるお城、軽業の見世物などが宴会にはつきものだった。たえず工夫をこらしていることが決まりだった。
 ブルゴーニュ公国には、制度上の一体性はまったくなかった。
ブルゴーニュ公国は、現在のフランス、ベルギー、オランダ(の一部)、ルクセンブルクなどにまたがった広大な版土を有していた。
そんな中世のフランス公国を知ることのできる本格的な歴史書です。
(2000年5月刊。6500円+税)

2013年8月15日

ヴェルサイユの女たち

著者  アラン・バラトン 、 出版  原書房

ヴェルサイユ宮殿には2回行ったことがあります。もう20年も前のことです。電車を降りて歩いていくと、平地の向こうに大宮殿らしきものが見えます。ともかく広大な宮殿です。鏡の間などを見学したあと、広い庭に出て、それからずっと右奥のほうにあるプチ・トリアノンにまわりました。マリー・アントワネットが農村ごっこをしたという場所です。
 この本では、ヴェルサイユ宮殿で活躍した女性たちが主役です。
ヴェルサイユの利点は、パリからブルターニュに抜ける最初の拠点だった。未開発でじめじめした沼地が多かった。そして、野生動物が豊で、狩りにうってつけだった。
 パリの中心地からヴェルサイユまでは、わずか20キロしか離れていないが、都とは別世界が広がっていた。当時、ヴェルサイユに行くのは、ちょっとした旅行だった。
 ルイ13世の幼少期は幸せとは言い難かった。9歳のときに王位を継いだが、母のマリー・ド・メディシスは摂政として、「身体的にも精神的にも弱すぎる」との烙印を押して、政権から遠ざけた。
当時のフランスでは、修道院に入らない大人の女性が独身でいるのは、非常に珍しいことだった。
 ルイ14世は、道路を整備して、パリとヴェルサイユ間を6時間で行けるほどに近代的な道にした。
 当時は、太っていることは健康の印、やせているのは貧乏人の印だった。
 この当時、男性を夢中にさせるのには、ふくらはぎをちらっと見せるだけで足りた。女性は胸であわば惜しげなく乳首近くまで見せたが、足は夫か愛人にしか見せなかった。乳首を両方とも見せるのは、売春婦だった。
王とベッドを共にすることは、どんな結婚よりもその後の安定した生活を保証してくれた。王の肝入りで、そっと資産家に嫁いだ例も珍しくはない。だから、上陸階級は率先して体を売る商売に励んだ。ルイ14世の治世は、この商売を花開かせた。宮殿を囲む森は、さながら野外の売春宿の風を呈していた。
 ヴェルサイユ宮殿には、ふたつの空間がある。式典のための広間や「鏡の間」のような絢爛豪華な外向きの空間と、もうひとつ、実際にはだれも知らない、迷宮のような私的な空間だ。
 ポンパドール夫人は20年以上にわたってルイ15世の宮廷に君臨し続けた。その秘密は、王を満足させるためならどんな犠牲も払ったからだ。うつ気質のルイ15世をリラックスさせるため、小部屋の劇場で演劇を催し、自ら舞台に上がって見事に役を演じ、歌劇を演出し、バレエやコンサートも企画した。
 ポンパドール夫人が亡くなったとき、残されたのは涙にくれる王と空っぽの金庫だった。プチ・トリアノンはポンパドール夫人の希望でつくられたが、彼女が感性を見ずに他界してしまったため、そのままになっていた。
 庭師として、ヴェルサイユを知り尽くしている著者による、宮廷で活躍した女性の話でした。
(2013年3月刊。2600円+税)

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