弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2008年9月 9日

タンゴ・ステップ

著者:ヘニング・マンケル、出版社:創元社推理文庫
 上下2巻のスウェーデン産ミステリー小説です。なかなかの読みごたえがあります。私はスウェーデンがナチス・ドイツのあいだに深い関係があったことを初めて認識しました。
 フランスに行く飛行機のなかで読みふけりました。実に面白く、ぐいぐい引きずられるように読みすすめました。第二次大戦前後、スウェーデンで大勢の人がナチス思想に共鳴し、ナチスの兵士になっていったというのです。今では信じられませんが、恐らく本当のことでしょう。著者は、私と同じ、1948年に生まれです。
 1930年代、40年代、スウェーデンは実にナチス信奉者の多い国だった。彼らはドイツ軍がスウェーデンに侵入するのを待ち望み、スウェーデンがナチズムに統治されるのを何より望んでいた。
 スウェーデンの軍事産業は多大な鉄鋼を寄贈し、それによってドイツの軍事産業はヒトラーの命じる最新式の軍艦や戦車を製造することができた。
 日本からパリまでの飛行時間は実に12時間あります。その長さを忘れ去れる充実した読書タイムでした。推理小説ですから、ここで種明かしをするわけにはいきません。そこで、オビなどに書かれている文句を少しばかり紹介します。
 影におびえ続けた男。元警察官の血まみれの死体は森の入り口で発見された。男は54年間、眠れない夜と過ごしてきた。森の中の一軒家、選び抜いた靴とダークスーツを身につけ、人形をパートナーにタンゴを踊る。だが、その夜明け、ついに影が彼をとらえた・・・。
 ステファン・リンドマン37歳。警察官。舌がんの宣告を受け動揺した彼が目にしたのは、自分が新米のころ指導を受けた先輩が、無惨に殺害されたという新聞記事だった。動機は不明。犯人の手がかりもない。治療を前に休暇をとったステファンは事件の現場に向かう。
 それにしても、スウェーデンにナチス信奉者がいたというのは何十年も前の過ぎ去った昔のこと、とは言えない現実があることを、この本は鋭くえぐり出しています。ネオ・ナチズムはヨーロッパのあちこちにひそんでいて、暗躍しているのです。それは、ちょうど、日本で大東亜戦争肯定論を唱える右翼のようなものです。どちらも歴史から学ぼうとはしません。
 アヴィニヨンの駅前からタクシーに乗ってシャトー・ヌフ・デュパープ村へ行ってきました。前にボルドーのサンテミリオンにも行ったことがありますが、とても似た雰囲気の小さな村です。この村は高級ワインを産出するので名高いところです。村の周囲にブドウ畑が広がっています。はるか遠くには頂に白いものも見える高い山々が連らなっています。村の中心部の高台には今や城郭の一部しか残っていませんが、古いお城がありました。またまた美味しいワインを飲みたくなったものです。
(2008年5月刊。980円+税)

2008年5月21日

ハンガリー革命1956

著者:ヴィクター・セベスチェン、出版社:白水社
 日本人の私にとっては「ハンガリー動乱」という言葉のほうがピンときます。この本では、「12日間にわたるハンガリー革命」と呼ばれます。ときは1956年10月末から11月初めにかけてのことです。ハンガリーの首都ブダペストが中心となります。
 ナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求し、ハンガリーの学生、労働者、知識人がデモを行ったことがきっかけで、火炎瓶、ライフル銃と死に物狂いの勇気でソ連軍の戦車を相手に壮絶な戦いをくり広げた。ソ連軍は、一時、撤退し、ハンガリー人は勝利したかのように思った。しかし、ソ連軍は引き返して第二次侵攻を開始した。
 アメリカのアイゼンハワー大統領のスポークスマンたちは「鉄のカーテン」と共産主義から解放すると言っていた。CIAはハンガリー民衆を大いにそそのかした。しかし、本当に助けが求められたとき、ワシントン当局は手を引いた。ハンガリーの人々はアメリカから見捨てられた。
 すべての共産主義衛星国は、ソ連に対して憤りを感じていた。ソ連は、衛星国をすべて植民地と見なし、そのように扱った。それをハンガリーほど強く深く憎んでいた衛星国はなかった。ハンガリーは敵国のように扱われる敗戦国だった。というのも、ハンガリーは、20年間ものあいだファシスト独裁者の支配下にあり、ポーランドかチェコと違って、ソ連に侵攻した国だった。
 ハンガリーは、1920年から1944年までの25年間、摂政ミクローミュ・ホルティ提督の独裁政治下にあって、ドイツにとって重要な枢軸国だった。ホルティ摂政の陸軍はソ連に攻め寄った。
 1944年12月のクリスマス・イブに始まった流血のブダペスト包囲戦は、51日間続いた。ドイツ軍は西部戦線からハンガリーへ10個師団を移動させていて、ヒトラーはいかなる犠牲を払ってでもブダペストを防衛せよと下命した。4万人以上のドイツ軍兵士と7万人以上のロシア軍兵士が戦死した。
 ソ連軍とともに、モスクワっ子として知られたハンガリー生まれの共産主義者集団がやって来た。その数は300人ほど。スターリンに慎重に選ばれた彼らは、ソ連市民となって、ソ連に15〜20年住んでいた。
 スターリンはユダヤ人であるラーコシを使い物になると判断して、ハンガリー共産党の指導者に任命した。ラーコシとその徒党には国家的基盤がなかったため、なおさらソ連に依存した。ラーコシ、側近のゲレー、ファルカシュ国防相、レーヴァイ教育相は、みなユダヤ人だった。
 ハンガリー陸軍は再編成された。標準的武器はソ連製である。しかし、ソ連軍のT34戦車は砲弾を発射することができなかった。重要な部品はソ連の軍事顧問が保管していた。
 ソ連のKGBに似たAVOが発足した。AVOの任務は、共産党に反対する政党を排除すること。AVOは、やがて巨大で思いあがった恐怖の官僚機構となった。5万人近い職員、人口の1割100万人もの情報提供者をかかえた。
 スターリンに批判的な者が摘発された。ライクがスパイとしてでっち上げられ、裁判にかけられた。ライク裁判のあと、大恐怖が3年以上も続いた。人口1000万人という小さな国で、大勢の人が動揺した。1950〜1953年に130万人以上が裁かれ、その半数が投獄された。2350人が即座に処刑された。3つの強制収容所に4万人もの人が収容された。1950年には、85万人の共産党員のうち半数が刑務所と強制収容所に送られ、国外に追放され、3年後に死亡した。
 イムレ・ナジはソ連での15年間と、ハンガリー政府の大臣であったとき、ソ連秘密警察のスパイだったという書類がある。1956年10月にハンガリー革命が始まったとき、ナジは原則として学生の抗議に反対だったし、デモに参加する提案に愕然とした。デモの先頭に立つなど、思いもよらなかった。ナジは革命を望んではいなかった。ナジは民衆の気持ちが理解できなかったし、難局に対処できなかった。
 フルシチョフはナジを復帰させて秩序を回復させようとした。そして、ハンガリーを監視するため、ミコヤンとスースロフを派遣した。同時に、陸軍参謀総長とKGB長官もこっそり派遣した。それほど、クレムリンのボスたちはハンガリー危機を深刻に受けとめていた。
 民衆のデモが始まったとき、ハンガリー軍の兵士のほとんどは、どちらにもつかず、兵舎に戻った。そして、武器と銃弾を市民に手渡した。ライフル銃も渡された。警察本部長は中立ではなく、革命者に転向し、警察の武器保管所を解放した。こうして、市民の抗議は武装蜂起に変わっていった。
 10月24日、ソ連軍は午前2時からブダペスト市内に侵入した。6000人の将兵と戦車700台を市内に送り込んだ。さらに、2万人の歩兵と1100台の戦車、185門の重砲を配備した。159機を有する戦闘機2分隊で地上部隊を支援できる態勢をととのえた。
 ブダペスト市内で市街戦が始まった。ソ連軍のT34戦車は白兵戦には適していなかった。1日間でソ連軍の死者は20人、負傷者は40人に達した。戦車4台と装甲車4台が大破した。秩序回復の兆候はなかった。
 2日目、反乱者は銃殺されていないどころか、元気づいていた。象に立ち向かう一匹のアリだった・・・。ソ連軍は1万4000人の兵士と250台の戦車の援軍を得た。
 このとき、アメリカのアイゼンハワー大統領はハンガリーには介入しないと決意していた。アメリカはソ連にそれを伝えて安心させた。1000万人しかいないハンガリー国民のためにアメリカ市民を戦争のリスクにさらす必要はないと判断したのだ。
 ハンガリー革命の戦士は1500人をこえていた。アメリカは表向き、革命者の戦闘継続を声援していた。だから、彼らがアメリカをあてにしたのは当然のことだった。しかし、ワシントンには、イムレ・ナジに政治的支援と物的援助を与える理由は何もなかった。
 革命が始まった1週間のあいだに1000人のハンガリー人と500人ものソ連軍兵士が命を落とした。
 アメリカは、このころ、英仏両国がイスラエルと共謀して対エジプト攻撃の計画を立てていることを知っていた。エジプトはスエズ運河を国営化した。このエジプト侵攻は、ハンガリー革命の直前になされた。おかげで、世界の注目はブダペストからそれてしまった。
 11月2日、ソ連軍が大雨のなか、ハンガリーに戻ってきた。ハマーショルド国連事務総長はスエズ問題に専念していた。スエズのほうが優先事項だった。
 ソ連軍が送りこんだ高速の新型T54戦車には、ハンガリー革命人士の火炎瓶と軽火器は歯が立たなかった。2日間で、ブダペストは破壊された。
 数ヶ月間のうちに、18万人ものハンガリー人が祖国を去った。アメリカに15万人、イギリスとフランスがそれぞれ3万人を受け入れた。ハンガリー革命のあと、ソ連は恐れられ、嫌われた。世界中が激怒した。ハンガリーにおけるソ連の蛮行はヨーロッパの左翼を粉砕した。フランス共産党は党員の半数を失い、分裂したイタリア共産党はモスクワと手を切った。イギリス共産党は3分の2の党員が脱党した。オランダ共産党は消滅した。
 日本共産党は、辛うじて生き残っています。そして、いま再び元気を取り戻しつつあります。ソ連共産党の誤りは許せないと勇気をもって批判したからです。
 少し前に映画『君の涙、ドナウに流れ』をみたので、その背景を知りたいと思っていたところに出会った本でした。私は、今でも社会主義の思想が間違っていたとは考えていません。それを運用していた独裁者と周辺グループに大きな問題があったと考えています。だって、今の日本を見て、「資本主義、万歳!」だなんて、言えますか・・・。
(2008年2月刊。3800円+税)

2008年1月15日

受けてみたフィンランドの教育

著者:実川真由、出版社:文藝春秋
 はじめから私事ですが、私の娘と同じ名前なので、とても親近感を抱きながら読みました。高校生の娘を遠くフィンランドへ一人送り出すというのは親も本人も、とても不安だったと思います。でも、結果オーライでした。大変な自信がついたようです。よかったですね、まゆさん。ぜひ日本でも大いにがんばってください。
フィンランドの教育レベルは世界一です。といっても、先日、フィンランドでも、アメリカと同じように高校生が校内で銃を乱射して人を殺し、自分も自殺したという事件が起きてしまいました。どこの国でも、まったく問題がないというわけではないのですね。それでも、この本を読むと、日本の高校と違って生徒がとてものびのび自由に毎日を過ごしているのがよく伝わってきます。うらやましい限りです。
 フィンランドの学力は、読解、科学で世界1位、数学、問題解決能力で世界2位。日本は、読解力は14位、数学は6位。
 フィンランド経済は年5%のペースで成長している。
 フィンランドには塾も偏差値もまったくない。
 フィンランドの高校は、どのクラスも25人から30人。中高一貫の高校は珍しくない。
 フィンランドの学校は基本的にすべてタダ。学費はタダだし、学校での昼食と軽食もタダ。ただし、おいしくない。大学はすべて国立。学生は毎月、国から奨学金を受ける。寮に入れば、寮費もタダ。塾はないし、高校は単位制。
 フィンランドでは、高校を卒業してすぐに大学に進学する人は少数派である。何年か働いたり、外国を放浪したり、ボランティアをしたり、兵役にいったりして、20歳を過ぎたころに、大学に行くことを考える。これって、いいですよね。自分の生き方、そして人生についてゆっくりじっくり考えることができます。私の娘も何回となく外国に出かけましたが、まだまだ考える時間が必要のようです。やはり、人生にはゆとりが欠かせません。
 フィンランドのテストは、ほとんど作文(エッセイ)。英語・国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ。つまり、自分の考えを文章にして書かせるのが一般的なテスト。フィンランドでは穴埋め問題などなくて、すべて記述式。テストには時間制限がない。テストの前、生徒たちはやたら分厚い本をかかえていて、それを読んで、知識を詰め込む。
 フィンランドの教育の質の高いのは、教師の質が高いことと、義務教育を9年一貫制にしたことによるという。フィンランドでは、教師は絶対に尊敬される職業である。
 教師は、授業中にふざけたり、しゃべったりする生徒がいると、何もいわずにドアを開けて「どうぞ」と言って外に出す。あとで、その生徒を呼び出して怒ることもない。
 うむむ、これはすごいですね。日本でも、もっと教師は大切にされるべきです。
 フィンランド人は暗算をしようとしない。フィンランド人は520万人。日本よりやや狭い面積。医療と教育に手厚いサービスがある。そして、地域コミュニティが機能している。地域のみんなが顔見知りで、挨拶しあう。友だちづきあいは一生続く。
 フィンランドの不動産は日本並みに高い。外食やショッピングをせず、家でごはんをつくって家族で食べて、庭いじりやインテリアを手作りで楽しめば、お金はそれほどかからない。スラムもない。
 フィンランド語は、書き言葉と話し言葉がかなり違う。メールは話し言葉で書く。フィンランド語は、ウラル語族に属していて、ハンガリー語と並んでヨーロッパでは特殊な言語である。フィンランドには、ぜひ一度行ってみたいと思っています。
(2007年9月刊。1524円+税)

2007年7月 6日

エリカ、奇跡のいのち

著者:ルース・バンダー・ジー、出版社:講談社
 柳田邦男氏が推薦していた絵本です。絵はとても写実的です。きれいに整いすぎている感じすらします。
 1944年のことです。1933年から1945年までの12年間に、600万人ものユダヤ人がヒトラー・ナチスによって虐殺されました。600万人といっても、まったくピンときませんよね。でも、福岡県の全人口より多いし、東京都民の半分というと、少しは想像できるようになります。殺されていった一人一人に語られるべき人生があったのですよね。600万人という数字だけで片づけられてはたまりません。
 そのとき、わたしは生まれてやっと2ヶ月か3ヶ月の赤ちゃんでした。父や母と一緒に、牛をはこぶ貨車に押しこめられ、立ったままぎゅうぎゅう詰めで動くこともできなかったでしょう。列車がある村をとおるとき、スピードを落としたので、母は「今だ」と思って、貨車の天井近くにある空気とりの窓から、外にわたしを放り投げてしまいました。
 すぐ近くの踏み切りで、村の人が汽車の通り過ぎるのを待っていて、貨車から投げ出される赤ちゃんを見ていたのです。
 母は、自分は死にむかいながら、わたしを生にむかって投げたのです。
 村人がわたしをひろいあげて、女の人に預けました。ユダヤ人の赤ん坊を預かるなんて、生命にかかわることでしたが、家族の一人として大切に育ててくれました。
 まさしく奇跡が起きたのですね。
 先日、福岡の小さな映画館で「それでも生きる子どもたちへ」という映画を見ました。少年兵として殺し、殺されの毎日を生きているアフリカの男の子、両親からエイズをうつされ、学校でいじめにあうアメリカの女の子、空き缶ひろいなどをしてたくましく生きているブラジルの兄と妹・・・。
 中国の大都会で捨て子として育った女の子は、金持ちの子が両親の不和から大切にしていたお人形さんを投げ捨てたのを拾ってもらって、大切に世話しています。でも、頼りにしていたおじいさんが交通事故で死んでしまうのです。
 たくましく生きていくこどもたちの姿に、何度も目がウルウルになってしまいました。

2007年4月20日

ブラックブック

著者:ポール・バーホーベン、出版社:エンターブレイン
 例年、裁判所の人事異動にあわせて何日間かの春休みをとるのですが、今年は残念なことに一日もとれませんでした。そのかわりに、平日の朝から、福岡の小さな映画館で見たのが、この映画「ブラック・ブック」でした。2時間あまりの大作なのですが、緊迫した場面が続き、身じろぎもせず、あっという間に見終わってしまいました。正直言って、深い疲労感が残りました。投げかけられた問題提起があまりに重いのです。美貌のユダヤ人歌手ラヘルを襲う悲劇とサスペンスは息つぐひまもありませんでした。
 時代は第二次大戦末期のオランダです。ナチスに占領されています。アンネ・フランクが隠れていたのと同じ時期です。裕福なユダヤ人家族を国外へ逃亡させるレジスタンス組織があります。ところが、船に乗って逃亡する途中、突然ナチス・ドイツ軍に襲われ皆殺しにあいます。せっかくの貴金属類などが全部ナチスの手に渡ってしまいます。命からがら救われたラヘルは、レジスタンス組織に匿われ、オランダ人になりすまします。そして、ナチス・ドイツの情報部の将校に近づいていきます。
 サスペンスたっぷりの映画でもありますから、これ以上は書きません。ぜひ映画を見てください。やっぱり、お茶の間ではなくて映画館に足を運んでほしいと思います。
 主人公のラヘルを演じる女性の毅然とした知的な美しさ、その裸体の神々しさは目が魅きつけられてしまいます。女性のたくましさをよく演じています。
 この本は、この映画が決して単なるフィクションではなく、あくまで事実をもとに組み立てたものだということを明らかにしています。
 ユダヤ人にも同胞をナチス・ドイツに売り渡した人間がいました。レジスタンスにも、多くのスパイが潜入していたのです。誰がナチスのスパイか分からないうちに、次々にワナにかかっていく状況が描かれ、誰を信じていいのかゾクゾクしてきます。終戦後、みんながレジスタンスを英雄だとしてもてはやすようになった。しかし、そのレジスタンスにも、さまざまな人物がもぐりこんでいた歴史的事実が描かれています。スパイだった疑いをかけられたとき、そのぬれ衣を晴らす大変さもありました。
 ナチスの本部にラヘルが盗聴器を仕掛けるシーンが出て来ますが、これも実話にもとづく話だそうです。ナチス・ドイツが降伏したあとも、ドイツ軍法会議によって裏切り者として銃殺刑を宣告されていた者について、銃殺刑の執行がなされた事実があるというのも驚きでした。本当に、事実は小説より奇なり、です。
 この本の最後に、次のような言葉があります。本作におけるまことに信じがたい詳細な記述は、想像が介入する余地のない現実からきたものである。
 まあ、それにしても、映画をみると、想像を豊かにかきたててはくれるものです。

2007年1月19日

風の影

著者:カルロス・ルイス・サフォン、出版社:集英社文庫
 本年度のミステリーナンバー1ということです。なるほど、どっしりとした読みごたえがあります。400頁の文庫本で2冊という大長編です。
 オビにある推薦の言葉を紹介します。小説を読む喜びにあふれている。物語の虜になることの愉しさがここにはある。まさに傑作。過去と現在を複雑な糸でつなぎ合わせ、読む者を浪漫の迷宮へ誘い込んでいく。すべての誠実な読書人におすすめしたい、掛け値なしの傑作である。
 どうですか。ここまで書かれると、うん、どんなものだかちょっと読んでみようって気になりますよね。私も、そんなわけで読んでしまったのです。それにしても、オビの3行とか4行で本屋で手に取って読ませようという文書を私も書いてみたいと思いました。
 舞台はスペインのバルセロナです。古書店の父と息子が登場します。スペインの小説には、いつもスペイン内戦の影がまとわりついてきます。フランコ派と人民戦線そしてアナーキストが互いに殺しあった悲惨な内戦の後遺症が今もあとを引いているようです。人々の消すに消せない重大な出来事だったのでしょう。
 いくら読みすすめていっても、いったいこの話はどんなふうに展開していくのか、まるで予測がつかないのです。だから、次はどうなるのか知りたくて、ひたすら頁を繰っていきました。
 話の筋が複雑にからみあっていて、なるほど、そういうことだったのか、と終わりころになって、ようやく事件の全貌をつかむことができます。それまで、物語の基調にあるレクイエムのような暗い調べをずっと聞いている気分に浸ることになります。決して心地よいものではありません。でも、先行見通しの不透明さ、人生の不可思議さをじっくり味わうことのできる小説ではあります。
 私はベトナム行きの飛行機のなかで読みました。ベトナムまで福岡から5時間かかるのです。

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