弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史

2011年8月31日

トランクの中の日本

著者   ジョー・オダネル 、 出版   小学館

 日本の敗戦直後、進駐してきたアメリカ軍の若き従軍カメラマン(23歳・軍曹)が日本各地を撮影してまわりました。そのとき、彼は自分個人のカメラでも撮影していて、それをトランクに入れてアメリカに持ち帰ったのでした。7ヵ月間にとった300枚の写真のネガです。そのトランクを45年後に開けて公表したのでした。
 アメリカ軍が日本に上陸する直前の写真から始まります。佐世保の高いビルの屋上にのぼり、廃墟となった佐世保市内にカメラを向けている状況写真もあります。まさに、今回の東日本大震災と同じ、まるで何もありません。ところどころにコンクリートビルの残骸があるだけです。
 武装解除された日本軍の将兵が馬車に荷物を積み、歩いて市内を行進していきます。
子どもたちが、チョコレート欲しさにアメリカ兵に群がっています。
 死体を焼く悪臭のため、鼻を着物のそでで押さえながら若い娘たちが歩いて通り過ぎていきます。
アメリカ兵の宿舎となった旅館で風呂に入り、食事をし、仲居さんたちと談笑している状況もあります。
 福岡の町並みは、さすがに木造ばかり、パン屋の前には長い行列ができています。
 驚くべきことに小さな小学校で運動会があっています。障害物競走の様子がうつっています。子どもたちは皆、元気いっぱい。手伝いをして働いている子どもたちもいます。
 広島にも空から行って写真をとりました。佐世保以上に何もない光景が遠くまで広がり続いています。
 長崎の爆心地にも立ちました。瓦礫の山です。そして瓦礫の中に人骨が散らばっています。被曝者は、顔が真っ黒、着ている衣服もボロボロ。背中にひどい火傷を負った少年の写真もあります。
 同時に、小学校では既に授業が始まっています。ところが、机の上には、まだ教科書がありません。
 死んだ弟を背負って焼場に来た少年の健気な様子の写真には心を打たれます。
 カメラ片手に広島・長崎をさまよって放射能を浴びたことで、後年、若者は体調をくずしてしまいました。放射能は、随分たってから影響を及ぼすものなのですね。
1995年夏にスミソニアン博物館で展示が企画されたものの、アメリカ国内の在郷軍人などの反対で中止に追い込まれてしまいました。この大判の写真集はそこで展示されるはずの写真からなっています。少し高価(2500円)な写真集ですが、ぜひ手にとってじっくり眺めてください。つくづく戦争は嫌だという気になります。
(2008年8月刊。2500円+税)

2011年8月16日

活劇・日本共産党

著者   朝倉 喬司   、  出版  毎日新聞社  

 戦前の日本の現実の一端を深く知ることができる本でした。戦前って、激しい社会だったんだなあと思わず慨嘆してしまいました。
 三人の高名な共産党員が登場します。うち二人は、戦後は財界そして右翼の親玉として活躍しました。そんな人って、意外に多いのですよね。残る一人の徳田球一は弁護士ですが、法廷で活躍したというより活動家だったようです。
 初めに登場するのは南喜一です。大正12年9月1日の関東大震災が起きたとき、まだ30歳をこしたばかりの若さで、すでに70人以上の従業員を雇う工場の主だったのです。
ところが、亀戸警察に実弟が引っぱられていき、そこで陸軍の兵士らに銃剣で刺殺されたのでした。それを知って、南喜一は工場を売り飛ばして、大金をもって運動に飛び込んでいった。もちろん、弟の仇を取るためである。うひゃあ、なんとすごい兄弟愛でしょうか・・・・。
亀戸の虐殺は、権力側の意図とは逆の結果を招いた。「こんなひどいことが世の中にあっていいのか?」という義憤にかられ、かねて定評のあった南葛の労働運動に飛び込む若者が激増したのである。うむむ、なるほど、これこそ階級闘争の弁証法というものなんですね。
 南喜一は、その後、浜松の「日本楽器争議」に関わります。ダイナマイトを会社の役員宅に投げ込んだり、決死隊が組織されたり、さながらヤクザの出入りのような状況です。
 1925年(大正14年)9月、共産党の合法機関紙「無産者新聞」は読みやすくもないのに、売上が一気に1万部を突破した。そして、南喜一は1926年に起きた文京区の共同印刷の大ストライキにも関わります。
 次の徳田球一は、ソ連に福本和夫と一緒に渡りました。そこで、ブハーリンの主宰するソ連共産党の権威のもと、福本イズムは完敗させられたのでした。すると、徳田球一も手のひらを返したように福本を冷たくあしらうようになります。
 徳田は、モスクワに着いて、どうも形勢がおもわしくないと感ずると、ガラリと態度を一変した。この余にもあからさまな豹変ぶりは、一堂のひんしゅくを買い、本人にとっても大変な逆効果となり、たちまち党委員長を解任された。
このころって、ソ連とコミンテルンの影響が今日では想像できないほど強大だったのですね・・・・。
徳田球一は沖縄に生まれ育ち、大正年に、貯金局に勤めながら、夜間の日大法律学科に通った。大正10年に、弁護士資格を取得した。苦学3年である。うむむ、実は私の父も大川から上京して通信省に勤めながら法政大学の夜間部に通い、苦学して昼間部に移ったあと、合格はできませんでしたけれど、司法官試験を受験したのでした。
三人目の田中清玄は、戦後右翼の親玉の一人でもあります。戦前の田中清玄は共産党の指導者にまでなりましたが、その指揮下にわずか2ヶ月足らずのことですが、あの有目な太宰治(津島)がいました。武装共産党というのを始めた田中清玄たちは間もなく逮捕されます。要するに、共産党・アカは怖いんだというイメージを定着させることが出来たら、その役目は終わったのでした。
著者の死によって未完となった本ですが、よく調べていると感嘆させられました。

(2011年2月刊。3000円+税)

2011年8月 3日

天皇と天下人

著者   藤井 譲治   、 出版   講談社

 信長、秀吉そして家康が天下の実権を握っていたとき、天皇はどうしていたのか、日本の天皇制を考えるうえで知りたいところです。
 正親町(おおぎまち)天皇は、元禄8年(1565年)、キリシタン禁令を発した、豊臣秀吉のキリシタン禁令より22年も前のこと。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸(1549年)し、ヴィレラが元禄3年(1560年)に足利義輝から布教の許可を得たあとのことである。
 信長が京都にのぼり、永禄12年(1569年)にフロイスが京都での布教の許可を得た。ところが、正親町天皇は、同月に再び宣教師追放を命じる綸旨(りんじ)を出した。しかし、フロイスたちが信長に泣きつくと、「気にすることはない」との言質を得て、天正3年(1575年)に信長の援助を得て教会を京都に建設した。強制力を持たない正親町天皇のキリシタン追放例は将軍義昭や実権を握る信長から無視されて終わった。
 信長は朝廷から副将軍にすると持ちかけられても無視した。副将軍になることで将軍義昭の下位に位置づけられることを嫌ったのである。
足利将軍義昭は正親町天皇に従順ではなく、両者の調停者は信長であり、かつ、信長も言を弄して正親町天皇の意向どおりには動かない。
 年号を決めるとき、正親町天皇は信長に案を示し、信長が「天正」を選び、それを天皇が追認した。年号も天皇は自由に決められなかったわけです。
信長は内大臣そして右大臣に昇進した。ところが、信長は天正6年(1578年)に、突然、右大臣、右大将の官を辞した信長は、嫡男の信忠に譲与したがっていたのを、正親町天皇がこれを無視した。信長は信忠に朝廷での地位を譲ることによって、自らはさらにその上位に立つことを目論んだのである。しかし、それを正親町天皇は封殺した。
 信長は、朝廷に接近したときもふくめて、正式の参内を一度もしなかった。信長は、予が国王であり、内裏(天皇)であると語った。信長は、自らを天皇の上位に置いていた可能性が十分にある。
本能寺の変のあと実権を握った秀吉は即位費用として1万貫を朝廷に拠出することを約し、官位が授与された。
 天正13年(1585年)には、秀吉は正二位内大臣となった。さらには関白に就任した。秀吉は年に一度は朝廷に参内している。
 御陽成天皇は、秀吉の朝鮮渡海を思いとどまらせ、天皇の北京移徒をやんわり拒否した。
 秀吉は明皇帝からの日本国王に冊封することは受けいれたものの、その怒りの矛先を朝鮮に向け、朝鮮に「礼」がないことを責めて、朝鮮体節には会おうともしなかった。
日本軍が朝鮮半島において劣勢に追い込まれていくなかで、秀吉の関心は徐々に朝鮮から薄れていき、代わって自らの政権の将来へと移っていった。
秀吉は神号を新八幡か正八幡にすることを望んだが、結果は秀吉の思い通りにはならず、豊田大明神に決まった。
 家康は右大臣を辞し、秀吉以来の現職の官から退いた。秀忠が将軍となっても、秀忠が家康にとってかわって「天下人」となったのではなく、依然として天下人は家康だった。
 家康・秀忠は、禁中ならびに公家中諸法度を定めた。史上はじめて天皇の行動を規制したものである。その第一条で、天皇が政治に介入することを間接ながら否定している。  
家康の神号については、明神とするか権現とするか争われたが、幕府の意向によって権現と定められた。このように、天皇の役割は、将軍優位で決められたものを調えるだけに過ぎなかった。天皇が、それなりの権威は認められつつ、当時もほとんどお飾りだったことがよく分かる本です。
(2011年5月刊。2600円+税)

2011年7月30日

天平の阿修羅  再び

著者  関橋 眞理    、 出版  日刊工業新聞社  

 阿修羅像は、彫刻作品として見ても、空間構成の美しさ、三角のお顔に六臂の腕が、合掌から手が解き放たれて、天空に挙がっていく。そういった時空間が表現されている。バランスの美しい傑作である。鎌倉彫刻のような筋肉隆々の肉体美を見せるものでもないし、ヨーロッパのビーナスのようなものでもない。何もないところに時空間を作り出して行くという表現の素晴らしさがある。
 阿修羅像は、まさしく神々しい仏像の最高傑作ですよね。久しくおがんでいませんが、ぜひまた見てみたいものです。
 模造の阿修羅像は、肉身も裳の部分も朱色の鮮やかな姿で、興福寺にある実物とは印象がまったく違う。しかし、造られた当初はまさしくこの色だった。この色は日本画のエキスパートが一日中ルーペをのぞいて、布と布の間に隠れている色の粒子を見つけ出した。それは執念だ。その人が心の眼で見ている。ぼんやりしている人には見えてこない。
模造とは、単に形を真似るのではなく、使われている材料、構造、制作技術に至るまで、すべてを復元するということ。模造制作の目的は、材料、構造、製作技法を解明し、それを学ぶことによる修理技術者の養成と修理技術の向上である。模造は、現状維持修理を支えるという面をもつ。
 模造のためにつかう道具も、最終的には自分でこしらえる。大工道具は、播州とか新潟東京で主に作っている。彫刻の道具は東京に注文する。計測する道具が必要だが、金属だと図るものを傷めるので、木や竹にして、使い勝手がいいように自分で工夫する。
 像の部品を接着するだけなら誰にでも出来る。肝心なことは、いかに美しく処理できるかということ。プロの仕事はそういうもの。
粘土で原型をつくるとき、師匠が「腕は丸いんじゃない。四角いんだ。丸い腕も本来は四角なんだ。丸い腕でも正面があって、側面があって、背面がある。つまり、球だって四角い。必ず正面があって、側面があって、底面があって・・・・」なるほどですね。
美術院の修理技術者は有機溶剤取扱免許、危険物取扱免許、クレーンの運転免許、レントゲン技師など、各種の免許を取得している。
 奈良の興福寺の阿修羅立像はとても素敵なものですが、実は制作当時は朱色の像で、頭髪も金泥で、まさに茶髪なのでした。まあ、しかし、それはそれでいいものです。
いい本でした。奈良時代の技術が、しっかりしていること、それが現代に再現できるのを知ってうれしくなります。

(2011年2月刊。1000円+税)

2011年6月19日

天魔ゆく空

著者    真保 裕一  、 出版   講談社

 『ホワイトアウト』など、社会派の推理小説作家とばかり思っていた著者が、このところ歴史、時代小説にも進出していたとは、ちっとも知りませんでした。
 ときは室町時代。足利将軍はとっくに権勢を喪い、細川や山名という有力武将が激しい抗争を展開していた。
 八代将軍の足利義政は政治から逃げ、その正室(妻)の日野富子が幕府の実権を握っている。その子、九代将軍・足利義尚、そして十代将軍・足利義材、さらには八代将軍の兄の子である十一代将軍は、いずれも将軍家の実力を伴っていなかった。すべて武将たちの争闘のなかに漂流する存在でしかない。
 そんな京都の政治のなかで、本書の主人公の細川政元が次第に力をつけてのしあがっていくのです。一度は将軍の座に就いた者(足利義材)を追い落とすために八千の軍勢を率いて細川政元は出撃した。そして、比叡山延暦寺に焼き打ちをかけた。
 うひゃあ、織田信長よりも70年も前に根本中堂を火攻めした武将がいたのですね・・・。そして、細川政元の最期は信頼していた臣下に裏切られたのです。これまた信長と同じです。
 室町時代の情景が活写された本として面白く、一心に読みふけってしまいました。
(2011年4月刊。1700円+税)

2011年6月16日

「終戦」の政治史、1943-1945

著者    鈴木 多聞  、 出版   東京大学出版会

 終戦に至るまでの日本の政界上層部の動きを、昭和天皇や軍部の言動を含めて詳細にたどって分析した本です。とても面白くて、3.11大震災のあと久しぶりに上京する機中で、一心に読みふけりました。
 統帥権の独立とは、内閣が軍の作戦計画に干渉できないこと。戦前の日本では、統帥部と内閣とが政治的に対等の関係で並立し、国内には二つの政府があったと考えられる。敗戦色の濃い1944年2月、東条英機首相・陸相が参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎は軍令部総長をそれぞれ兼任した。陸軍大臣が陸軍の参謀総長を兼任し、海軍大臣が海軍の軍令部総長を兼任するというのは異例の事態であり、これはそれまでの総帥権独立の伝統に反したものであった。軍人が軍の特権を自ら破壊したということである。この統帥権独立の伝統が破られたため、重臣や議会そして国民は統帥権の独立を楯として、公然と東条と嶋田を批判することが可能となった。これは、逆説的に、戦時内閣を解させて、戦争終結への近道への道を開いたと言える。
ラバウルなどの地域は、「確保」から「持久」する地域へ改められた。「持久」とは、一見すると聞こえが良いが、要するに長期的には「確保」しないこと。前方の作戦地域の将兵を見捨てて、時間稼ぎの捨て石にすることだった。
 1943年9月30日に開かれた御前会議は、昭和天皇を落胆させた。合理的悲観論と観念的強硬論が入りまじり、示された対策は「決意」の表明でしかなかった。昭和天皇の戦局に対する失望は、相反する報告をする陸軍参謀本部と海軍軍令部に対する怒りに転化していった。
 そりゃあ、そうでしょうね。軍部はいつも自分に都合のいいことしか報告しない、そしていつのまにか敗色ばかり濃くなっていったのですから・・・。
 陸軍の参謀本部と海軍の軍令部は相互に秘密主義をとり、陸海軍省には戦況の一部を知らせる程度だった。だから、陸軍省は軍令部の作戦計画を、海軍省は参謀本部の作戦計画を知ることができなかった。つまり、日本軍には、「協同作戦」はあっても、「綜合作戦」というものは存在しなかった。海軍側には陸軍を統制できる人材がいなかった。
実際、航空機が主力兵器となったことから、海軍は次第に空軍化しつつあった。
 1944年7月、サイパン島が陥落した。これは日本本土がB29の爆撃圏に入ったということを意味し、この時点で日本が戦争に勝つ見込みはなくなった。
 7月20日、ヒトラー暗殺計画が失敗した。このころ、日本にも東条暗殺計画があったが、同じ7月20日が予定日であった。ええっ、うっそー、嘘でしょ、と叫んでしまいました。
 日本はドイツの勝利を前提として日米戦争へと踏み出していたのである・・・。
昭和天皇は、「アメリカ軍をぴしゃりと叩くことはできないのか」「どこかでもっと叩きつける工面はないものか」と言って米軍に一撃を与えることを期待していた。つまり、好機講和論であった。
昭和天皇は、参謀総長としての東条には不信任であったが、首相としての東条は信任していた。東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは、反東条運動が必ずしも和平運動、終戦工作ではなかったからである。それは戦局打開運動をうみ出し、東条や嶋田では戦争に勝てないという人事刷新運動になった。
 昭和天皇は、沖縄戦までは軍事的な期待を捨てきれないでいた。
「もう一度、戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思う」
 2.26事件で側近を殺された昭和天皇は、事件に関与した皇道派の軍人、宇垣、香月、真崎、小畑、石原といった人々には強い不信感を抱いていた。
沖縄戦について、昭和天皇は、「なぜ現地軍は攻勢に出ないのか。兵力が足りないのなら、逆上陸をやったらどうか」と攻勢作戦を督促した。そして、戦後になっても、「作戦不一致、まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と強い口調で不満を述べている。
大本営と政府の首脳部は、国民に対しては特攻精神を怒号しながら、肝心の航空用ガソリンが10月以降にはなくなることを知っていた。この石油要因は大きく、戦後になって昭和天皇は、「石油のために開戦し、石油のために敗れた」と語った。
 昭和天皇は、7月上旬になっても対ソ外交に進展がないのに不満をもち、7月7日、モスクワへの特使派遣を提案して政府を督励した。昭和天皇は、万が一の場合には、長野の松代大本営において、三種の神器と「運命を共にする」気持ちだった。昭和天皇は、ある一定の状況下においては本土決戦の可能性があると考えていた。昭和天皇と陸海軍にとって、完全な無条件降伏は絶対に受け入れられないことだった。
 沖縄の陥落によって本土決戦が現実味を帯びたとき、昭和天皇は戦備の実態を聞いて、本土決戦不能論者となった。そして、国体護持を目的として、本土決戦を回避しようとした。
 一般に、日本はソ連参戦を予想できなかったと言われるが、正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、参戦の時期だけだった。
 昭和天皇は、「勝算の見込みなし」の理由を、原爆投下でもソ連参戦でもなく、本土決戦不能論に求めた。うひゃあ、そうだったんですね。まあ、まともに考えればなるほど、そうでしょうね。改めて大変勉強になる本でした。
(2011年2月刊。3800円+税)

2011年5月19日

王朝文学の楽しみ

著者    尾崎 左永子 、 出版   岩波新書

「枕草子」の書き出し、春は曙・・・をフランス語訳で読み、それがすっかり気に入って、丸暗記するまでには至っていませんが、何度となく朝に繰り返しています。とてもよく出来たフランス語訳なのです。プロはさすがです。
古典を読むのには、「じっくり、しっかり、ゆっくり」読む法(A)と、何が書いてあるのか、さらっと「ななめ読み」しながら、興味を持ったところに眼を止めて、そこを詳細に読む法(B)とがある。このA法とB法をうまく組み合わせるのが、一番自分に適した読み方を身につける早道だ。私は、この指摘に文句なしに大賛成です。
同じ日本語でも古語と現代語で意味が異なるのですね。たとえば、
やがて・・・・現代語は「しばらくして」、古語では「そのまま」
やをら・・・・現代語は「急に、突然」、古語では「静かに、音を立てずに」
あたらし・・・・現代語は「新しい」、古語では「もったいないことに」
ゆかし・・・・現代語は「控え目で教養の深い」、古語では「見たい、知りたい」
恥(はずか)しは、古語では、褒めことばだ。あまりに立派で、こちらが恥じてしまうほど、見事な態度という意味。うむむ、こんな違いがあるのですね。
『源氏物語』の原文を読み進めるには、『古今和歌集』を十分に身につけていないと、理解が行き届かない。この『古今和歌集』も、当時の王朝人にとっては「現代詩」だった。なーるほど、もちろん、そういうことだったのしょうね・・・。
平安時代、紙は貴重なものだった。『源氏物語』の著者がなぜ厖大な紙を使えたのか。そこに強力な後援者がいたから。『枕草子』には、これを書くのに定子皇后から多くの紙を賜ったことが記されている。『和泉式部日記』についても、和泉式部は道長のすすめがあって書いた。このように、はじめに紙ありき。紙は道長の権威の象徴でもある。
『源氏物語』について、戦時中は、天皇崇拝の軍部指導下にあったから、宮廷内の不倫を題材とするこの物語は、触れてはならぬもののように扱われていた。
『源氏物語』には流麗な文章が小気味よく続いている。それは必ず、和歌が下敷きになっていた。音声的伸動、すなわち五七五七七の歌の伸調が筆致のなかに自然に生かされている。その意味で『源氏物語』は、根本的に「歌物語」なのである。
平安時代の貴族の恋愛が成就するまでには、多くの恋文がいきかった。それは主として歌であり、そこに多少の文章が添えたれた。
当時は、現代のような「信書の秘密」はない。届いた恋文は、姫君に届く前に、周囲にいる乳母(めのと)やお付きの女房たちの審査を経ることになる。恋文の巧拙、文字の巧拙、紙の色合いや、添える折り枝の取り合わせ、届けるタイミングに至るまで、その審査の対象となる。そこで合格となって初めて姫君に恋文を見せる。姫君がよいと言えば、返事を出す。
左手使いのことを「左ぎっちょ」というのは、毬杖(ぎっちょう)からきたもの毬杖とは、馬に乗って毬(まり)を打つ、今でいうとポロ競技のようなもの。なーるほど、そういうことだったのですか・・・。
日本の古典にも改めて親しみたいものだと思いました。
(2011年2月刊。760円+税)

2011年5月14日

鞠智城を考える

著者  笹山 晴生     、 出版  山川出版社   
 
 鞠智城とは、きくちじょうと読みます。熊本県の北部、菊池市にあります。昭和42年からの発掘調査によって、今では現地に八角形の鼓楼(ころう)が復元されているというのです。その写真を見て、ぜひ行ってみたいと思いました。
 校倉(あぜくら)造りの米倉や兵舎と推定されている大型の掘立柱建物も復元されています。55ヘクタールもある広大な城域です。
 663年、朝鮮の白村江(はくすきのえ)で、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた倭(日本)は、唐と新羅の侵攻を恐れ、対馬や域に防人(さきもり)や烽(とぶひ)を置くとともに、亡命してきた百済(くだら)の人の技術者の指導のもとに、大野城や基肄(きい。佐賀県鳥栖)城などを築いて備えた。鞠智城も同じころ、百済人の指導のもとに築かれた城だと考えられる。
このころの情報伝達として、烽が各所に設置された。敵の襲来や外国使臣の到着などの情報を速報するための通信システム。664年(天智3年)防人とともに対馬・壱岐・筑紫に設置され、40里(18キロ)ごとに設置され、昼は煙、夜は火を上げて合図を送った。防人も同じく、対馬・壱岐・筑紫に置かれたが、3年交替で筑紫に2000人から
3000人がいたと思われる。
 白村江の戦いにおいて、唐軍は統制のとれた律令制にもとづく軍団であった。倭軍のほうは各地の地方豪族がそれぞれ率いる「国造軍」の集合体でしかなかった。
なんでこんな菊池市のような山中に城があるのか不思議に思っていました。だって、大宰府から徒歩だったら2日から3日はかかるでしょう・・・・。
 その答えの一つは、官道が通っていたということです。この鞠智城のすぐ近くを古代の官道が通っていました。もう一つは、唐と新羅の連合軍が有明海から上陸してきたときには、これくらい内陸部の方が守って戦いやすいと考えたというところです。いずれも、なるほどな、とは思いますが、大宰府の次が菊池市の城だという古代人の感覚がもう一つぴんときませんでした。いえ、こ
(2010年11月刊。1500円+税)

2011年4月26日

沖縄決戦

著者  新里 堅進    、 出版  クリエイティブマノ   
 
 丸ごと戦場となった沖縄の凄惨な地上戦のイメージがひしひしと伝わってくる劇画です。本土防衛の捨て石とされた沖縄地上戦の顛末の全体像が迫真の画で明らかにされています。現実は、もっと悲惨だったのでしょうが、ここに描かれた絵だけでも、もう十分ですと悲鳴をあげたくなります。
平和な島、日本軍に絶対の信頼を置いていた沖縄の人々が、ある日突然、アメリカ空軍の大規模な空襲にあい、逃げまどいます。そして、アメリカ軍の上陸作戦の前には、とてつもない数の軍艦による艦砲射撃によって地上の市街地は壊滅させられてしまいます。やがて、上陸したアメリカ軍と地下に潜んでいた日本軍との死闘が始まります。
前に紹介しました『シュガーローフの戦い』(光人社)の凄まじい戦闘状況も描かれています。戦史をなるべく忠実に再現しようとした著者の努力によって、沖縄地上戦のすさまじさを十二分に実感できます。それにしても、軍隊とは何を守るものなのかを改めて考えさせられます。
何の武器も持たない住民が逃げまどうなか、それを楯にして軍隊が移動していきます。そして、逃げこめる洞窟が一つしかないとき、軍隊は情容赦もなく、先に入った住民を追い出してしまうのです。
「おまえらを守るために戦っているのだから、出て行け」というのです。おかしな理屈ですが、銃剣とともに迫られたら住民は従うほかありません。
また、沖縄方言で話していると、アメリカ軍のスパイだと疑われて銃殺されたり、アメリカ軍に投降しようとすると裏切りものとして背後から射殺されたり、日本軍の暴虐非道ぶりは目に余るものがあります。
そして、抵抗なく上陸し、すっかり安心して進軍していたアメリカ兵も、内陸部にさしかかったとき日本軍の頑強な抵抗を受けると、たちまち総崩れし、兵士たちのなかに発狂する者が続出するのでした。
姫百合部隊の活躍の場面も紹介されています。大きな地下の穴蔵生活のなかで、どんなにか苦しく、つらい生活だったことでしょう。もっともっと長生きして、人生を楽しみたかったことでしょう。青春まっただなかだった彼女らのつらい日々も偲ばれます。
日頃はマンガ本から遠ざかっている私ですが、心揺さぶられるマンガ本でした。一読を強くおすすめします。ノーモア沖縄、ノーモア戦争を改めて叫びたくなりました。
(2004年1月刊。2136円+税)

2011年4月23日

逆渡り

著者   長谷川 卓 、 出版   毎日新聞社
 
 ときは戦国の世。ところは、上杉憲政と対峙する甲斐の武田晴信軍のぶつかるあたり。
 主人公は四三(しそう)衆の一員。四三衆とは、5、6年おきに山を渡る渡りの民のこと。四三とは北斗の七ツ星のこと。この星を目印として渡ることから、自らを四三衆と名乗っていた。四三衆の山の者の役割は、戦うことではない。傷兵らの傷の手当と救出、重臣に限定されるが、戦場からの遺体の搬出。山の者は薬草などに詳しく、里者よりも金創の治療に長けているからだ。
多くの場合、武将が山の者を駆り出すのは輸送のため。山の者に支払われる金の粒や砂金は、蓄えとして貴重であるうえ、塩や米にも換えやすい。四三衆は、断る理由がない限り、仕事を受けた。
 戦場で手傷を負った者を見つけたときは、傷口を縫うが、薬草(蓬の葉)を貼り、布でしばる。だが、縫うか薬草で間に合う程度の傷の者は少なく、ほとんどの者は少なく、ほとんどの者は見殺しにするか、せいぜい縛って血止めをするのが関の山だった。
 逆渡(さかわた)り。生きるために渡るのに対し、仲間との再会を期さず、死に向かって一人で渡ることを、山の者は逆渡りと言った。
 四三衆では、60を迎えた者の次の渡りに加えず、隠れ里に留め置く。いわば、捨てられるのだ。
 うひゃあー・・・。60歳になったら山のなかに一人置いてけぼりになるのですか・・・。いやはや、まだ、60歳なんて、死ぬる年齢ではありませんよね。早すぎる棄老です。許せません。
 山の民の壮絶な生きざまが活写されています。作者の想像力のすごさには脱帽します。
(2011年2月刊。1500円+税)

前の10件 1  2  3  4  5  6  7

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー