弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(奈良)

2021年12月16日

藤原仲麻呂


(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 中公新書

藤原仲麻呂は藤原家のなかでも一番の出世頭。55歳で太政大臣となり、正一位となった。臣下としては異例の極位極官に達した。なにしろ、その上の位はないのです。
ところが、2年後には一転して逆賊とされ、敗軍の将として斬首されてしまいました。
それでも同世代の人々からは、非凡な学者的秀才として、その学識文才を高く評価された。ただし、一般的には逆臣・謀叛人という評価が定着している。
仲麻呂が施行した養老律令は江戸時代まで機能した。
藤原仲麻呂が参謀になってまもなく、743年に墾田永年私財法が発布された。これは、開墾した田の私有を認めるというもので、それまでの政策を根本的に変更するもの。723年の三世一身法では墾田は孫のまでの三代の間は私財化が認められていたが、それを徹底され、農民の耕作意欲を高め、国家の税収を確保しようというものだった。
聖武天皇から孝謙天皇にかわるなか、仲麻呂は大納言正三位となり、紫徴中台(しびちゅうだい)の長官(紫徴令)となり、また中衛大将を兼任した。
この当時、重要な政治は仲麻呂ひとりの判断ですすめられていた。そのため、他の豪族や名門の家柄の者は、みな仲麻呂の勢力を妬(ねた)んだ。
東大寺の大仏の開眼供養の儀式が752年4月におこなわれた。
757年、仲麻呂は、藤原氏を天皇と同等に扱い、氏族のなかで、藤原氏を特別扱いさせようとした。
律令制の前は、支配は機構化されておらず、生身の王(天皇)の存在と、そこから口頭で発せられる大命がすべてだった。そして、抽象化された権力を示す器物の確保が重要視されるようになり、仲麻呂の乱では、生身の人間よりも鈴印の争奪のほうが争点となっていた。
橘奈良麻呂の乱は、いわば計画段階で話がもれて一網打尽になってしまった。
768年に淳仁天皇が即位した。仲麻呂は淳仁天皇を擁立し、擬制的な親子関係により皇親に近い一族として積極的に位置づけた。仲麻呂は東北経営にも新羅討伐にも積極的だった。
仲麻呂は20年にわたって、叔母である光明皇太后の権力に頼っていた。その光明皇太后の死は仲麻呂に大きな打撃となった。仲麻呂政権が自分の身内を優遇する人事策をとると、反対派そして、昇進の機会を奪われた中間派から反感をもたれるようになった。
孝謙上皇と淳仁天皇の対立が顕在化するなかで、仲麻呂の正妻が死去したのも大きな痛手となった。仲麻呂は妻の死去により淳仁天皇との太いパイプも失った。そのうえ、仲麻呂の有力な側近たちが相次いで死去してしまった。さらに、764年6月に、仲麻呂の娘婿・藤原御楯が死去したことで、仲麻呂の権力が大きく揺らいだ。
そして、孝謙上皇側が先手をとり、鈴印・内印を奪取し、確保した。そして、淳仁天皇は警固の名目で孝謙天皇側の兵士によって拉致・監禁された。
このようにして鈴印も淳仁天皇も奪われ、仲麻呂の正当性は一挙に喪失してしまった。そして、仲麻呂は太政官印をもって近江に逃走した。仲麻呂は敗走し、ついに捕えられて斬首された。59歳だった。
仲麻呂が打倒されても、藤原氏は貴族のトップとして以降もずっと君臨していきました。それは、藤原氏が国家第一の臣下であるという位置が仲麻呂によって定着したからです。
藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱なるものが、要するに朝廷における人脈の派閥抗争のようなものだということ、ある個人の死亡が大きな意味をもつ社会だったことを知り、大変勉強になりました。
(2021年6月刊。税込946円)

2021年10月 2日

東大寺の考古学


(霧山昴)
著者 鶴見 泰寿 、 出版 吉川弘文館

奈良といえば大仏。東大寺大仏は正式には廬舎那仏(るしゃなぶつ)といい、東大寺金堂(こんどう)の本尊。聖武天皇が建立を発願し、天平勝宝4(752)年、4月9日に開眼供養がおこなわれた。
海外の大仏は石窟仏で、日本の大仏が鋳造なのは、とても珍しい。
大仏の鋳造方法。まず、土を突き固めて御座となる土壇を築き、その上に木材を組み立てて、骨体とする。この骨体を粘土で覆って原型となる塑像をつくる。鋳型づくり→鋳造という作業を下から上へ、8回くり返しながら頭部まで鋳継いで仏体を鋳造していく。大仏の銅の厚みは意外と薄く、わずか4センチか5センチほど。
大仏鋳造作業では、鋳造→盛り土→上段の鋳造という作業が繰り返されるので、8段目の頭部鋳造時には、大仏は完全に土の山に覆われている。
大仏の材料は、銅と錫(すず)、鉛の合金。銅の産地は山口県美祢(みね)市にある中登(なかのぼり)銅山。
この本の著者が紹介していませんので、読んでいないようですが、帚木蓬生の『国銅』(上・下)(新潮社、2003年)において、この銅山からとった銅で大仏をつくる職人の苦労が小説として語られています。
鋳造作業が終了すると、今度は逆に、頭部から下へ順に盛り土を崩し、鋳型をはずしていく。溶銅が流れ込まなかったところなどは鋳掛けという作業で修正していき、欠損部分を補ったら、荒れた表面をヤスリやタガネで切削して整え、表面を砥石で研いて平滑にする。
金メッキはアマルガム法でおこなう。金を水銀に溶かし、金属の表面に塗布したあと、炭火で熱して水銀を蒸発させて、金だけを表面に定着させる。金1万436両、水銀5万8610両つかったとのこと。
このころ、金は、陸奥国で黄金がとれたという朗報が届いて、金不足が解消された。
開眼供養のころ、実は、まだ全体の一部しか出来あがってはいなかった。
早くコロナ禍がおさまって、東大寺の大仏さまを、また拝みたいものです。
(2021年3月刊。税込1870円)

2021年5月 9日

万葉集講義


(霧山昴)
著者 上野 誠 、 出版 中公新書

万葉集についての驚きの記述にあふれた新書です。
まずタイトルです。たくさんの歌を集めた歌集というのが1970年代までの通説だった。「万」はよろずで、「葉」は言の葉なので、言葉。たくさんの歌をいう。
ところが、「万葉」とは「万世」、「万代」の意味だという有力な学説があらわれた。
そして、さらに「万世・万代」の基本義に「多くの言の葉・多くのすぐれた歌」の意味を重ねたかけことばと考えたほうがいいという説が登場してきた。
著者は、この説を基本とし、たくさんのすばらしい作品を集めた。それは、今がすばらしい世であるからできたこと、そのすばらしい作品が永代に伝わることは、良き世が永く永く続くということ。すなわち、万世に伝われという願望や祝福性を否定する必要はないとしています。なるほど、そうなんでしょうね...。
「万葉集は、素朴でおおらかな歌々を集めた歌集」という通説を著者は打ち破っています。
8世紀半中葉に成立した歌集である「万葉集」は、宮廷のなかで発達した歌々を集めたもの。すなわち、「万葉集」は宮廷文学であり、貴族文学である。
防人(さきもり)の歌についても、無名の農民たちによる国家への不服従の心を実現した抵抗詩とみるのは、明らかに誤っている。防人歌とは、むしろ、律令官人の都と地方との交流によって生まれた歌々であり、東国における宮廷文化の浸透を表象する文学である。
大伴家持の歌は、防人たちとその家族たちの痛みを想像しているものである。
「万葉集」は実は朝鮮語で書かれているというミステリー本についても、著者は誤解だとあっさり切り捨てています。私も「ミステリー本」を読んで、そうなのかなと思っていたのですが...。
多くの渡来人を古代の日本社会は受け入れているのは事実だが、すべて日本語でよまれた歌集として「万葉集」に収蔵されている。
「万葉集」についての数々の誤解を解いてくれる、小気味よく切れ味のいい新書です。
(2020年9月刊。税込968円)

2019年9月21日

橘 諸兄


(霧山昴)
著者 中村 順昭 、 出版  吉川弘文館

たちばなのもろえ、と読みます。
橘諸兄は、天平のころ(727年から756年ころまで)、20年近く、右大臣そして、左大臣として太政官(だじょうかん)のトップの座にあった。
奈良時代、8世紀、政権トップにあったのは、藤原不比等(ふひと)、長屋王(ながやおう)、藤原武智麻呂(むちまろ)、橘諸兄、藤原仲麻呂(なかまろ)、道鏡そして藤原永手(ながて)。
橘諸兄は、もと葛城王(かずらきおう)と称する皇親である。母は、県犬養(あがたいぬかい)の橘三千代で、光明皇后と父は異なるが、母は同じ兄妹でもあった。
橘は、諸兄に始まる新興氏族であり、子の奈良麻呂がクーデターを計画したときには、大伴氏や佐伯氏などの伝統的豪族を同士とした。
橘諸兄が政権中枢にあったとき、聖武天皇は、恭仁宮(くにのみや)、難波宮(なにわのみや)、紫香楽宮(しがらきのみや)と転々と都を遷し、そのなかで東大寺大仏の造営という大事業が始められた。また、郷里制の廃止、国分寺の造営、公廨稲(くがいとう)の設置、墾田永年私財法の発布など、律令制の根幹に関わる施策も実行された。
長屋王の変は、聖武天皇がたくらんだ政変のようです。
長屋王は左大臣。父は高市皇子(天武天皇の子)、母は御名部皇女(天智天皇の娘)で、妻の吉備内親王は天明天皇の娘だった。
長屋王が謀反が企てていたという密告があり、長屋王は滅ぼされてしまった。これは聖武天皇や藤原氏による陰謀だった。つまり、皇族内部の対立である。聖武天皇のほうは、長屋王の変という事件の前から百姓を徴発して軍事的にも準備していた。
諸兄(もろえ)というのは変な名前だなと前から気になっていたのですが、この本を読んで、やっと謎が解けました。聖武天皇からして兄に相当する存在であり、2人の新王が相次いで亡くなったあとの天皇の後見役を期待して「諸兄」と名づけられたのでした。
奈良時代にも、トップの人事をめぐって血で血を洗う抗争が起きていたのですね。こればかりは、いつの世も変わらないようです。
(2019年7月刊。2100円+税)

2017年1月 9日

正倉院 宝物

(霧山昴)
著者 杉本 一樹 、 出版  新潮社

 校倉造(あぜくらづくり)の巨大な高床式(たかゆかしき)の倉庫として有名です。
 奈良・平安の当時、日本文化が生みだした宝物をたくさん収蔵していますが、そのなかには遠くペルシアなどから渡来してきたものもふくまれています。国際色豊かな8世紀の文物が当時の姿で残っている、まさに宝庫です。
 バンジョーのような形の楽器があり、古琵琶もあります。いずれも見事な装飾です。
 奈良時代は、囲碁と双六が大流行していた。双六は、賭博に傾きやすいとして、持統天皇は禁止令を出し、何度も取締の対象となった。
 先の国会で自民・公明・維新が多数の横暴でカジノ法を成立させてしまいました。人の不幸で金儲けしようという亡者集団だというほかありません。こんな政権が子どもたちに学校で道徳教育を押しつけているのですから、世の中に間違いが多くなるのも当然です。
 軽業をしている人や、大道芸人を描いた絵もあります。みんな楽しそうですよ。
 その微細きわまりない細工には声が出ないほどです。昔の人は偉かったとしか言いようがありません。ぜひ、一度、実物を手にとって(というのは無理でしょうが・・・)じっくりと拝んでみたいと思いました。

(2016年12月刊。2000円+税)

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