弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

南アメリカ

2016年11月20日

ペルーの異端審問

(霧山昴)
著者 フェルナンド・イワサキ 、 出版  新評論

16世紀の南アメリカはペルーでのキリスト教会での異端審問の実情を掘り起こした本です。ポルノグラフィーでしかありません。性を必要以上にタブーとした教会は、そのなかではおぞましいとしか言いようのない実情だったようです。
教会は教えのなかで、セックスを人々の不安材料へとゆがめ、おとしめることで、社会に対して抑制やタブー、暗黙の懸念を強いる。しかし、それは支配の道具にほかならず、欲求不満と神経症の源と化す。
1629年のある日、リマの修道院で暮らしていた修道女が異端審問所に出頭してきた。背教および悪魔との契約、その邪悪な悪魔と肉体関係をもったことの罪を審問官に自供した。
事件はペルーの首都リマに不安を巻きおこした。悪魔というものが形態のない存在だとすれば、恐るべき堕天使ルシャーは、女たちとの性行為に及ぶため、墓地から掘り起こした遺体に乗り移っていることもある。
わずか150ページの軽い本です。16世紀ころの南アメリカでの出来事ですが、ヨーロッパでも同じようなものだったのではないでしょうか。宗教に名をかりてインチキなことをするのは古今東西を問わないですね。
(2016年7月刊。1800円+税)

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2016年5月20日

教皇フランシスコの挑戦

(霧山昴)
著者  ポール・バレリー 、 出版  春秋社

 アルゼンチン出身の司祭が全世界のカトリック教会を率いる266代教皇になった。アメリカ大陸出身で初めて、南半球出身で初めて、イエズス会士で初めて、そしてフランシスコの名を冠した初めての教皇。
 イタリア人の家系で、スペイン、アイルランド、ドイツで学んだラテンアメリカ人。教区司祭だが、修道会士でもある。神学の教師だが、親しみやすい司祭だ。謙遜と活力が合わさっている。
ベルグリオ(フランシスコ教皇)は神学的には伝統主義者だが、教会のあり方については改革支持者だ。急進主義者だが、自由主義者ではない。ほかの人に権限を与えようと努めるが、権威主義の痕跡も残している。保守的だが、アルゼンチンの反動的な司教会議のなかでは、はるかに左の立場にいた。宗教的な単純さと、政治的な狡猾さをあわせ持っており、進歩的で開放的だが、飾り気がなく、厳しい。
 父親は、イタリアでは公認会計士だったが、アルゼンチンでは資格が通用せず、靴下工場の帳簿係だった。ベルグリオは、13歳のとき、働き始めた。そこで、働くことは人々に尊厳を与えることを学んだ。
 失業している人は、自分が存在していない感じを抱かされる。尊厳は働くことによってこそ、もたらされる。そして、仕事と生活のバランスをとることも大切だ。
 ベルグリオは、10代のころ、共産主義思想に好奇心をもち、共産党の雑誌等を熱心に読んだ。しかし、共産主義者にはならなかった。むしろ、右派のペロン主義者になった。
 アルゼンチンでは、1976年、軍部独裁政権が始まり、何万人もの人々が誘拐され、拷問を受け、殺害されて姿を消していった。その犠牲者のなかには150人ものカトリック司祭、何百人もの修道女や一般信徒の伝道師がふくまれていた。当時のアルゼンチンには、推定6000人の政治犯、2万人の行方不明者がいた。拷問と暗殺が行われている証拠があった。  
『行方不明者』はヘリコプターなどに乗せられ、大西洋に落とされた。
アメリカのCIAは、アルゼンチンのカトリック教会と共同行動をとり、巨額の資金を協力する司教や司祭に提供し、何百人もの急進的な司祭や修道女に関する情報も提供した。彼らは、そのために、軍事独裁政権の犠牲になった。
 元独裁者のビデラは、カトリック教会の上層部と協力関係にあったと証言した。では、ベルグリオはどうしたのか・・・。それが、問題です。
ベルグリオは、軍事独裁債権の暴力から人々を守ろうと多くのことをしたのは疑う余地がない。しかし、拉致・殺害自体を止めるために、どれだけ行動したのかというと・・・。
「教会政治家」ベルグリオは、すべてを通じて、極めて慎重な道を選んだ。
ベルグリオの「成長」の重要な部分は、貧しい人々が必要としているのは、「施し」ではなく「正義」だということ。ベルグリオは、大多数の国民が甚大な打撃を受けている最中も、自分たちの特権的な地位を守ろうとしている富裕階級の強欲さを糾弾した。
ベルグリオは、新自由主義の経済政策を強く批判した。
教皇フランシスコは、政治に関与することは、キリスト教徒のつとめですと話した。それは、隣人愛の至高の表現の一つなのだ。
ベルグリオは、115人の選挙人のうち90票の支持を得て教皇に選出された。
 これまでの教皇の名前の使用頻度は、ヨハネが23回、グレゴリウスとベネディクトがそれぞれ16回、クレメンス14回、レオ13回、ピオ12回、ステファヌス9回、ボニファティウスとアレクサンデル、ウルバヌスがそれぞれ8回。
 日本は、2009年12月に白柳誠一・枢機卿が亡くなってから、空席のままとなっている。韓国とフィリピンでは2人目の枢機卿が選ばれているのに・・・。
最新の教皇の活動状況をふくめて、カトリック教会の課題を少し知ることができました。
(2014年10月刊。2800円+税)
「殿、利息でござる」をみました。実話ですので、圧倒されます。江戸時代の人々が精神的に豊だったこと、そして、町民が10人集まって町のために3億円をつくることが出来たほどの資産をもっていたことなど、江戸時代を根本的に見直させる、とてもいい映画です。映画の原作「無私の日本人」は、このコーナーで先に紹介しましたが、泣けてくる本です。まだ読んでいない人は、ぜひ映画とあわせて、お読みください。
 昨日、ベトナム戦争のときに戦死した若い女医さんの日記を本にした「トゥイーの日記」が映画になったとのことで、DVDを送っていただきました。まだみていませんが、楽しみです。ありがとうございました。

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2016年2月27日

インカの世界を知る

(霧山昴)
著者  木村 秀雄・高野 潤 、 出版  岩波ジュニア新書

  日本人にとってマチュピチュは、フランスのモンサンミッシェルと同じく、一度は行ってみたいところですよね。私はモンサンミッシェルは行きましたが、マチュピチュはあきらめています。
インカには文字がない。インカの人々がどんな言葉を話していたのかも分かっていない
インカの王は、そのすべての領域に直接的な支配を及ぼしたわけではない。インカ王は、全土の多くの部分を間接的に支配したにすぎない。
インカは、敵対せずに服属することを約束した敵については、武力によって征服することはしなかった。しかし、あくまで抵抗した敵については、武力によって残酷に征服した。
 インカ時代の基礎的な原理は、力を中心に集中させ、その力を再び分配するというもの。それは、儀礼にも受け継がれている。
 インカは、乾燥寒冷地と言える高地のクスコに帝国の都を築いた。同意に、高峰に囲まれながらも湿潤で温暖な気候に包まれ、雲霧林が茂る峡谷の入り乱れる1000メートル級のビルカバンバ山中に、マチュピチュ、ビトコス、エスピリトウ、パンパ、チョケキラウという四つの「隠れ城」とも言える都市を築いていた。
 インカ道は、ジグザグに何度も折り曲げることによって勾配度をやわらげ、可能な限り階段を少なくしていた。
200頁もない新書版なのですが、豊富な写真によってインカ文明の素晴らしさ、すごさを味わうことが出来る本です。
(2015年11月刊。960円+税)

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